『中空前夜』について



 正月、田舎から帰ってきて、まもなく須永紀子から封筒が届く、開けると『中空前夜』という詩集がはいっている。「須永さんにしては妙なタイトルだな」。しかし「あたたかい届け物」のように冷たい部屋のぼくは思う。

 須永紀子はそういう書き手だ。血のながれを感じさせる詩人だ。  

 「あとがき」がいい。


『ドアをあけて外へ出る。歩き、電車に乗り、どこかへ向か
う。身体が運ばれているとき、わたしたちはいろいろなこと
を考える。断片的に、または散文的に。心が先に行くことも
あるし、身体が引っ張っていくこともある。移動する身体と
意識の流れ。それを「中空」から見るとき、詩が生まれてく
るのだと思う。
 心と身体はなかなかうまく動いてはくれない。それでわた
したちは日々後悔したり、新たな決意をしたりする。どの夜
も明日につながるものであり、何かが起こる「前夜」である
かもしれないと思うことで少し元気が出てくるような気がす
る。』


 これで「あとがき」の大部分を引用したことになるが、『中空前夜』とした意味がわかるし、詩が生まれる場所としての「中空」はそのとおりだと思う。

 須永紀子の詩を読みつづけてきて、この『中空前夜』で新しい須永紀子の世界を読むことができたかといえば、そうとはいえない。冒頭から「夢見るちから」「わたしの朝」「ワタル」「新しい日々 I」と力のある、完成度の高い作品がつづくが、繰り返し歌っている詩のような気がするし、行を生み出していく「歩き方」は同じだ。読んでいて、じつは須永紀子はもうこの場所にはいないのではないかと思う。

 『中空前夜』で新鮮な感じを与えてくれるのは、「ホームにて」や「8トラの夏」で、「ホームにて」は、今までと変わらない書き方だが、細かくていねいに展開されていて、こちらにはいってくる。


 十分ごとに上がり電車がやってくる
 ホームの立ち位置から
 古いアパートの裏手が眺められる
 グレーの外階段に
 蔦がていねいにからまり
 階段を上がる音がカンカン響いてきて
 わたしは電車を忘れる
 図書館、デパート、美術館のいずれか
 一人で時間をつぶせるところへ
 行こうと思っていたことを忘れる


 ホームを走り改札を出て
 駅の向こう側、アパートの
 階段を追っ手のように駆け上がり
 中空へ
 もうそこは何をしてもゆるされる場所になっていて
 Yという名刺が留められた部屋に
 あがりこんで正座する
 そこにYというひとがいなくてもよかった
 戻ってきてもかまわなかった
 まちがえたと言えばいい
 シャツのボタンを上までとめているから
 狂った女には見えないだろう


 わたしの知っているYという名の男のことを
 思い出そうとしている
 それがここにいる正当な理由であるというように
   全体が草のようだった
   甘いことばをひとつも言わなかった
 駅のアナウンスとバスのクラクション
 飲食街が近くコンビニエンスストアもある
 小さな冷蔵庫があって食器棚はない
 カレンダーに予定が書きこまれ
 この部屋のYが学生であるとわかる
 わたしの知っているYの冷蔵庫には
 赤ワインとポテトチップスが入っていた
 Yとは海の話をした
 Yだけが行った海の話だ
 わたしは他人の部屋でリラックスしている
 Yの部屋だからかまわない
 Yの身体の一部の感覚が突然やってくる
 温かみのある草の根のような
 あの感じを正座したまま
 いけないとわかっていて止めることができない
 こうやってゆっくり壊れていくのだろう
 知らない人の空っぽの部屋で


 「ホームにて」から1連、2連、3連を引用した。

 ホームに立っている「わたし」が、古いアパートを眺めているうちに、どうしてもアパートのなかの部屋に入っていきたくなり、駅のホームを離れ、アパートの階段を駆け上がって、空いている部屋に入りこんでしまう。

 その部屋はYというひとが住んでいるらしいが、不在であり、「わたし」は自分の知っている「Yという男」を思い出して座りこんでしまう。いや座りこんでいるうちに思い出してしまうのか。

 どうしてこんなに「アパートの部屋」に引きつけられてしまうのだろう。「わたし」の過去の忘れられない出来事が、体験が「アパートの部屋」に結びついているのだろうが、よくは分からない。

 分からないまま、ここは今と過去の混入、すり替え、「Y」と「Y」の混乱が、詩の行だけが持つ力で須永紀子が納めきっており、読んでいて、不自然な場面でありながら納得させる。

 ちょっと近くまで自動販売機の煙草を買いに行くとする、帰ってみると、いくらシャツのボタンを上までかけているとはいえ、見知らぬ女が部屋に座っている、その女がこちらを振り返れば、ギョッとするが、


 窓からはホームが見え
 心そこにないわたしが立っている


 という「ホームにて」の最後の2行が書かれていて、ホームに立っている「わたし」の想像なのだと説明される。

 この詩集でも、まだ停滞していると正直に言おう。しかし、これまでと同じような書き方でも、題材やストーリー、細かい展開、一歩の歩幅のちがいで、「新しい詩」を書くこともできる。「ホームにて」がそうだ。須永紀子がこだわる「前」へ進むということには「生き方」が変わるということが含まれていて、とても困難な課題を自分に課している。

 1956年生まれのこのひとにとって、「前」に進むということはどういうことなんだろう。どうすればいいのだろう。しかし「方法」や「書き方」のみの変化で、新しさで、知識を吸収することだけで、「前」に進んだとしない須永紀子という詩人をぼくは、この時代の数少ない、詩の並行者だと思っているのだ。   




2006年1月29日