ロレーヌ〜ナント〜パリ
2004年秋
有働薫のロレーヌ、ナント詣で
なぜジャンヌ・ダルクか? なぜドンレミイ村か?
《ロレーヌの野を通って
殿様に出会った…》
フランスみやげのきれいなカラーのレコードアルバムの一節があたまのなかにくりかえしよみがえってきた。旅行と言わずに「詣で」と言うのは、例えば、旅行楽しかった? と聞いてくださるひとに、「ええ、楽しかったわ」と答えるだけでは、私自身のこころにもう少し重いものを感じているためです。仏文を出て、親が仏文で飯食ってて、時計の会社に就職してスイスの特許をうんざりするほど翻訳して、人生の戻りコースに入って自分の色は?と自問したとき、わたしにあるのは、子どものころから読んできた、翻訳物の歌や物語かな、というわけで、学部の卒論はプルーストで、指導教授は恒川義雄先生でしたが、プルースト詣でをしたいといっこうに思わないのは何故でしょうか? たぶん、自分がもう少し田舎っぽい育ちだからでしょう。小学校入学の年が敗戦の年で、大人たちが玉音放送に泣いたとき母に連れられて北九州の母の里に弟といました。その縁故疎開の半年足らずは、「夢はいつもそこに帰っていく」というような、好き嫌いを超えた決定的な色付けだったと思います。9月に東京の小学校に転入したとき、付き添いの母が「肥後弁でして」と受持ちの先生にことわりました。しばらく口をつぐんで通学していて、無口な子というレッテルをもらい、ますます本の世界にのめりこみました。
結婚して町田市に引っ越して35年を過ぎ、またひとりに戻ってしまいましたが、10数年前、町田市役所に住民票をもらいに行った折、ロビーで図書館の廃棄本なのか、1冊100円の無人スタンドが出ていました。そこで、崩れてしまいそうな本を手にとって、箱に100円コインを投げ入れました。その本は子供用に書かれた横塚光雄氏の「ジァンヌ・ダルク」(昭和25年刊、山の木書店)でした。読まずに書棚の奥に置いたままでしたが、いつか必要になる、と思っていました。いくどか本を処分したことがありましたが、その本は残り、埃をかぶっていました。
2,3年前、ある会合で「ジャンヌダルクの涙を持参しました」という婦人がいて、一挙に夢想がふくれあがりました。そのあたりのことは、2003年灰皿町アンソロジーに載せていただいた詩「ジャンヌダルクの涙」に書きました。
さて、2004年秋のロレーヌ、ナント詣でですが。
10月26日(火)晴れ
(ホテルのフランス窓)

(北駅のファサード)
夕方パリに着き、北駅のそばのホテルに泊まりました。航空券と一緒に予約した1泊7600円のロンドレダンベースという名のホテル。可能な限り質素という感じの部屋。ベッドに転がっていると、窓とカーテンの調和の美しさに目が留まりました。カーテンも更紗模様風で趣味がいい。前のマジャンタ大通りを行き交う車のライトが白壁に影絵を作っては消える。眺めているうちにベッドの粗末さは気にならなくなりました。北駅のファサードにはユーロスター10週年記念のデコレーションが施してありました。
10月27日(水)晴れ
一緒に横断旅行をしてくださるNさんと12時にホテルのフロントで待ち合わせ。わたしは車輪付きの黒いトランク(息子に借りた)を引っぱっています。Nさんはベージュのナイロンのバッグ。その軽いこと!2泊3日の田舎の旅ですが、腕を痛めないよう最小限のパッキングにしたとのこと。旅慣れている人の旅装です。グリーンのニッカボッカーにグリーンのウールの上着。この衣装で東京の町を歩いたら、どこでサーカスをした帰りですかとたずねられそう。わたしのほうは平凡に濃紺のスラックスにレーンコート。北駅に隣り合うあう東駅まで歩く。駅構内のレストランで昼食をすましてから1時44分発のTGVでナンシーへ。
パリから地方へ出るときいつも目をみはるのは、河の水位の高さ。両岸の木立や草むらにいまにも溢れていきそう。人間の手が入らず、自然のまま流れているように見えて、幸せな河だなと思う。たぶん、土地が広く平坦だから、流れがゆったりするのでしょう。(水面がプリンみたいだといった人があるけど、水の質感はまさにそんな感じ。)そして植物たちが華奢なので、メルヘンチックな風景に映るのでしょう。車窓を楽しみながら、と、検札が来て。乗車前の切符のパンチは忘れなかったのに、ここで今回の旅行全体に付きまとったトラブル。わたしのほうはパスポートで済んだのですが、彼女のほうはシニア割引のカードを忘れたので、身分証明を出しても、首を横に振るのです。その頑固さといったら!獲物を見つけた猟犬そのもの。イヤーな目で立ちふさがって、根負けして、差額を支払うことに。60才以上50%の運賃割引がパーに。彼女はいやいやながらカードナンバーを入力しました。そして言うこと。早く去れ!(日本語で)
ナンシーでヌフシャトー行きに乗り換え。また、検札。さきほどにましていやなやつ。彼女は切符のサイズが大きすぎる、バッグに入らない、なんでこんな大きい必要があるのと、切符に八つ当たり。ヌフシャトーへは5時37分着。駅前でドンレミイ行きのバスの乗り場を探す。はじめから停まっていた小型ワゴンがそうだとわかって。お客は中学生ぐらいに見える女の子2人と、わたしたちだけ。猛スピードで町を走り抜けました。

(ひろびろとしたロレーヌの野 Nさん撮影)
はるかにひろーいロレーヌの野です。いくつもの丘が見えては退き、丘の手前にときどき集落がかたまって見える。あとはなだらかな緑の草地。白黒まだらの乳牛が遊び、ときには前足を折って座っている子もいて。きれいな夕景色のなかをまっすぐ恐いように丘へ向かって突進する。1つ丘を過ぎると前方はるかにまたひとつ、よく似た丘が現われて、そのくり返しがなんども続いたあげくに、きれいな並木が現われて。ヌフシャトーではまだ明るかったのに、ドンレミイですよと、道肩に降ろされたころは夕方の6時過ぎ。およそ20分でしたが、とてもたくさん走ったような気がしました。停留所の斜め向かいがジャンヌダルクホテルでした。

(ジャンヌ・ダルク・ホテル)
オーナーのおばあさんがチェックインのめんどうを見てくれました。きれいな小ぶりのホテル。2階へ案内され、フランス窓の開け方や、階段のドアを閉めるのを忘れないように、猫が2階に上るといけないから、など色々注意をうけ。夕食は向いのル・レ・ド・ラ・ピュセールで7時から。客はわたしたちだけ。デザートのタルトが水っぽく、冷たくて、給仕のおばさんは愛想だけはよくて、ちょっと寒々とした気分になる。メニューのどれを言っても、それはできない、それもだめ、だったのが、デザートで完全に露呈。4日後の日曜日で今年は閉めるそうで、もうシーズンは終りで、やる気がない。
コート・デュ・ローヌの赤のドゥミ(375ml)をふたりで分けて、ひとり20ユーロ(2680円)。田舎にしては高い。おいしかったのはジャガイモだけでした。早々に部屋に帰って消灯12時。ベッドにはきれいな花模様の正方形の羽根布団がおいてある。これはフランスの寒い地方によく見かける足ふとんだそうでした。腰から下の保温用。よく眠った。
10月28日(木) 曇り、小雨まじり
1時過ぎにはヌフシャトー行きのバスに乗る予定なので、いそがしい。6時起床、シャワー、身繕い。8時部屋で朝食。9時チェックアウト。宿泊費1人21ユーロ(約2800円)。昨夜の夕食の20ユーロを思えばなんという安さ。朝のパンコーヒー付きで。そのうまみは、1部屋(2ベッド)いくらの料金をふたりで分けるから。荷物を預かってもらって、いざ、

(右から、ジャンヌダルクホテル、サンレミ教会、ジャンヌダルクの生家。 Nさん撮影。)
ジャンヌの生家へ。掃除のお兄さんに1時に開館と言われて、じゃ、村の探検をさきにと歩き出す。

(ジャンヌ像 Nさん撮影。)
ジャンヌの家の前の広場に少女ジャンヌのかわいいい石像。羊と糸巻きが添えてある。

(ムーズ河をわたる乳牛たち Nさん撮影。)
橋へさしかかると、あたかも牛の群れがムーズ河を渡河中。ゆっくり、並ぶともなく、1頭ずつ、河底の深さをたしかめるように、大きなおっぱいを半分水に浸して、のんきに渡る。水はくすんだ緑色。小雨がぱらつく曇天の下。気がつかなかったが、こちらの河岸に緑のつなぎ服のオジサンが、牛たちが渡りきってぬかるみの泥に足をとられているほうの岸に、赤いジャンパーのオバサンが牛たちを見守っていた。牛は河向こうの広い牧場へ出かける途中なのだ。渡りきった牛を見て、おじさんは家のほうへ帰って行った。

(赤いベレーのN さん)
村の道を聖ジャンヌダルク会堂へと向かう。正式な村の名前は「ドンレミイ・ラ・ピュセル」。

(村の中心の聖ジャンヌダルク教会。バジリック(会堂)と呼ばれる)
向かって右は村いちばんのホテル、ラ・バジリック。テニスコートなどもある、都会的な雰囲気。宿泊客の姿はなかった。教会の前が広場になっていて、五月の第二日曜日に催されるジャンヌダルク祭の行列はここから出発するらしい。様々な意匠のジャンヌ像がある。母イザベル・ロメと父ジャック・ダルクの石像も。

(サン・レミ教会の入り口)
村には教会が2つあり、生家の隣はサン・レミ教会。聖レミはランスの司教で、フランク王クロヴィスに洗礼をほどこした人(5世紀)。はるかに質素な、小さい教会だが、しずかなおちついた雰囲気。ジャンヌはここで洗礼を受けたという。そのときの水盤といわれる物がある。1日何回もざんげに来るジャンヌに司祭がそんなにしょっちゅう来なくてもいい、と諭したとか。だって隣りだもの、自分の部屋でやすむようなつもりだったのかも?
ジャンヌが熱心に祈ったという、「ベルモンの聖母マリア」と呼ばれる古い小さい聖母子像がある。
2ユーロで茨の冠をかぶった仰向けのジャンヌ像にろうそくをあげた。この像は《dernier soupir》という題名でMaxime Real del Sarte(レアル・デル・サルト)という彫刻家の作。哀しげなこころを打たれる白い大理石の顔である。イタリア、トスカナ地方、カララ産の白大理石で、最高級品。この20世紀前半の彫刻家には第1次大戦、マルヌの戦いに勝利したジョフル元帥の騎馬像や他のジャンヌ像もあるそうだ。

(サンレミ教会内部。「さいごの息 デルニエ・スゥピール」と題する代理石像の前。Nさん撮影。)
(ジャンヌの家)
片屋根の石造り。内部はいくつも小部屋があるが、家具類はなし。頑丈な木の梁。記念の銅版などがいくつか壁にかけてある。当時の家の一部を何度も立て替えたものらしい。1420年代ははるかに遠し。

(ジャンヌの家の前で。中央上に甲冑姿のジャンヌ像がある。Nさん撮影。)

(ジャンヌがお告げを聞いたといわれる大木の下。木のむこうがサンレミ教会。現在の木はマロニエ。Nさん撮影。)

(Litanies de Sainte Jeanne d'Arc)
ジャンヌに捧げる連祷(教会のチラシ)。
連祷(リタニー)とは、カトリックの祷りの形式で、司祭が先唱し、信者が答えるかたちの祈り。最初はキリストへの祈りで、なかほどから、マリヤさまと呼びかけたあと、聖ジャンヌ・ダルクよとの祈りが20行続く。《祖国の解放者》、とか《フランスの守護者》などと呼びかけている。善男善女向けのお祈りの見本である。ひとりひとりのお祈りの言葉のおすすめは、《信仰と祖国を守るため、ドンレミイの乙女、聖女ジャンヌ・ダルクをおつかわしになった神様、わたしどもはあなたに懇願します、彼女の仲介によって教会がその敵たちの襲撃に勝ち、永遠の平和を恵まれますように。われらの主イエス・キリストの御名において御願いたします。アーメン。》
サン・レミ教会の向いのお土産屋さんで、絵葉書と本を買う。レジのお兄さんが、この本はぼくが小さいときからいつも読んでいた。ぼくの読んでいたのはカラーじゃなかったと話してくれた。野口英世のように、この村出身の英雄ですね。
ジャンヌはなぜ聖女なのか?
だれよりも信仰心があつく、私心なく国に尽くし、無実で虐殺された受難の人。たった19才までしか生きなかった純な魂の少女だった。中世の戦争は貴族領主たちの遊びのゲームみたいな意味合いもあった。そんなお暇な男たちだけの世界に、何の後ろ盾もないまじめ一本やりの17才の少女が出かけていったら、なぶり殺しにされるのは目に見えている。父のジャックがそんなところへ行かせるより、そばのムーズ河に投げ込んで溺死させろと言ったのは、世間を知った親心だ。だから内緒で出かけてしまった(無謀にみえる若者が歴史を変えることがある)。そんな少女を生む土地の風景は、予想以上にきれいな、自然の豊かな村だった(人も自然から生れてくる)。きれい過ぎるのは、道路なんかにしても、立派過ぎるほど。国内からの観光客も多いそうです。日蓮上人の誕生寺参詣といった雰囲気? 観光の季節ももう終わりで、あとは、雪が降るのを待つだけなのだろう。牛たちも、牧場でふるえながら草を食べるだろう。ジャガイモ、麦の畠が延々と緑に続く。ここからさらに北東のヴォークルールという町に出て、そこの殿様を説得して軍装をととのえ、ジャンヌは出陣していった。ランボーの故郷、シャルルヴィルはさらに北のドイツ国境にある。モルポワの故郷も、ここから少し南へくだったモンベリアールという町で、父親はロレーヌ人だ。モルポワはエコールノルマルの秀才であるにもかかわらず、パリっ子にたいしてなんとなくコンプレックスがあるように見える。ロレーヌ出身というと、頑固な田舎者というイメージがどうしてもつきまとう。
ナントのポール・ルイ・ロッシ展
10月29日(金) 晴れのち雨
昨夜8時にナント駅に着き、タクシーを待っていると、暗闇に甘酸っぱいいい香り。見まわすとマグノリアの並木だった。白い大きな花とつぼみが見える。肩を叩かれたので振り向くと、中年の婦人が、こっちへ並べと自分の後ろを指差す。「いえ、友達が前に並んでいて、わたしは彼女を待ってるの」というと「アー、ウイ、ダコール」と納得してくれた。
やがてタクシーが来て、4ッ星のホテル・メルキュールへ入った。
ホテルのレストランで晩くに食べた夕食が不消化で、朝の5時から眠れず、バッグの中の赤玉はらぐすりを飲む。熟睡中のNさんをはばかって、トイレにスーツケースを持ち込んで荷物の整理をした。それからベッドに戻って2時間ほど熟睡。目が覚めたら8時だったが、まだ暗い。気分は治って、やれやれ。昨夜の牡蠣と白いんげんがちょっと、きつかったかな。それにしても、飲みなれた赤玉はらぐすりの威力に感謝。

(ホテル・メルキュールのロビーにて)

(Nさんはスカーフの使い方が上手です)
9時半にロビー奥の食堂で朝食。11時チェックアウト。1人113ユーロ(夕・朝食込みで15000円ちょっと)。4ッ星にして、安い。例によって荷物を預ける。今日も夕方6時には帰りの汽車に乗る。それまでフル活動しよう。トラムに乗ってナント図書館メディアテークへ。ロッシ展のポスターを見つけて、安心する。ところが、事はそうスムーズには運ばない。展示ホールは照明が消えていて、無人。図書館の受付で聞く。1時からですとのこと。まあ、本日休館と言われないだけマシか。図書室に入って時間をつぶす。1時15分にふたたびホールへ。受付の女性に挨拶をして、展示室を廻る。

(ナント図書館の廊下の掲示)
ナントの詩人ポール・ルイ・ロッシ
なぜ、地球の果てともいえるほど遠くからナントの詩人ポール・ルイ・ロッシの展示をわざわざ見に来たのか? このあたりは「現代詩手帖」に報告を書いたので省略。原稿は入れたけど現時点でまだ掲載OKはない。高木編集長の連絡待ち。のらなかったら、こちらに転載します。
今年の4月にナント市立図書館から、秋にロッシ展をするので、ロッシ氏にちなんだエクリチュールを出品してほしい、との案内状をもらった。2000年秋にポール・ルイ・ロッシ、マリ・エチエンヌ夫妻が東京に立ち寄られたとき、藤井貞和さんらと交流朗読会を催したことがあって、その折の印象がずっと継続して、明るい知性と静かな情熱の人という感触が消えずにいる。折に触れてご本やお手紙をいただいていた。ロッシ氏の詩的散文『永遠の女旅行者』はナントの町の時空を超えた詳しい案内図といえる。昨年70才を迎えられて、ナント図書館に業績のいっさいを寄付された。それを記念して、この秋は来年1月まで、図書館美術館音楽院を挙げて、ロッシ氏の顕彰キャンペーンが繰り広げられている。映画「シェルブールの雨傘」のジャック・ドゥミーの親友でもあるから、催事は文学にとどまらない。市立図書館のロッシ作品展をベースに、市中のあちこちにロッシさんの顔の付いたポスターがみつかる。数年前、ワールドサッカー大会で日本とクロアチアの試合を見に日本人が大挙押しかけたことがあるらしい。他にアジア・アフリカ映画祭や1月末にある《ラ・フォル・ジュルネ》というクラッシック音楽週間もこの街の行事として世界的に有名だそうだ。この秋は、ロッシ展が目立つ。私はナントははじめてで、堅固な成熟した都市という第1印象だった。信教の自由をはじめて認めたナントの勅令が出された街だ(1598年)。ジャンヌにひっかけて言えば、15世紀の女将軍ジャンヌの片腕だったジル・ド・レー元帥がこともあろうに幼児大量虐殺の罪で火あぶりになった街。ジャンヌがルーアンで虐殺されてから9年後のことだ。「永遠の女旅行者」にも処刑前にジルが閉じ込められていた塔が出てくる。
ロッシ氏のノート、手稿、イラスト、雑誌、詩集、処女小説、友人の手紙、古い写真その他。どれも、味わいのある資料で、単なる私的な書類・記念品のたぐいという感じではない。きわめてプライベイトでありながら、きわめて文学史的・文化資料的な印象が強い。ここでロッシ氏の経歴その他はたどらないが、この詩人の生き方そのものが、公けの文学史的価値性の高いものだという感触がする。今は髪が薄いが、少年・青年時の彼は髪のふさふさした愛くるしい男の子だ。ああ、こういう子がああなるんだなー、と感慨を抱く。わたしの出品した大家利夫氏の手になる雁皮紙のカルトンは白枠の額縁に収まって、マリ・エチエンヌさんの隣にかかっていた。ロッシ氏の代表作「恋人たちのことば」対訳と反歌としてのわが小品「愛すなわち憧憬」対訳が、大家氏の美意識で美しく印刷されている(長い詩で手書きは無理なので、コンピューター印刷をもちいた)。


(私の出品したパネルと、左はマリ・エチエンヌさんのパネル)
2階にあがって、奉賀帳にメッセージを書き込む。他の外国から寄せられた作品を拝見して感心する。とくに、ペルシャ語とフランス語の組み合わせの1枚が魅力的だった。ヴィデオにナント市中とロワール河畔を散策するロッシ氏の最近の映像がナレーションと音楽を伴って写されており、これは楽しく、親しみが持て、またこの街への愛情があふれていて、とても美しかった。この展示のテーマは「内心の風景」。

(ヴィデオがかかっていた)
受付のマリ=クレール・ジレさんに挨拶をし、小さな祝い品をことづけ、よろしく伝えてと頼む。10月8日にオープニングがあり、今度ご本人が見えるのは12月2日だという。ジレさんはわたしも日本に行きたいと思っている、とのことだった。


(各国の詩人が寄せたエクリチュールとロッシさんの写真)
ナント美術館への移動の途中、大雨に遭った。大通りのビヤホールに駆け込んで、上がるの待ちながらお昼を食べた。美術館の前にもロッシさんの顔がこんどは幟になってひらめいていた。ここでの展示はショックだった。テーマは「光と闇の訪問者」。わたしはてっきり、ロッシ展と所蔵絵画の展示は当然別室で切り離されているものと思い込んでいたので、いくら廻れども、ロッシ展にはたどり着かず、あせった。ターナーやラトウールやクールベの名画も上の空に通り越して、うろうろしまくった。名画のかたわらに、なにやら異物が掛かっていて、文字ばかりのパネルも割り込んでいる。イヤだな、と思いつつ足をとめて、詳しく調べると、なんと、そのわずらわしい夾雑物が即ちロッシ展なのだった。係りの人をつかまえてたずねると…「当美術館はこの秋、ロッシ氏に所蔵絵画の一切を提供して、彼が少年時代から親しんだこの美術館の作品を、彼の記憶と感情に沿って自由に並び替え、ロッシ氏の感情・精神の形成の軌跡を、われわれに示して欲しいとお願いした。」「その申し出に沿って、ロッシ氏は、ロッシ氏自身のナント美術館をこの秋創ってくれたのです。」…というわけでした。しだいに卒倒しそうなほどの感動がわたしを襲った。というのは、これほどにロッシ氏は、ナント市民から信頼されているのかと、稲妻のように打たれたからだ。美術館の歴史の重さと、文化価値の権威の一切を捨てて、ひとりの詩人のこころに委ねようという考えかたのすごさ。そもそも美術館というものの機能をよく考えてみれば、個人に資する以外に何があるというのだ。それを見て育つ子どもがいる。その子が市民になる、国民になる。すべては個人のために、ひとりの人間のために。やっぱりフランスは大人だナーと、感服したのでした。そうわかってから、もういちどじっくりロッシ氏のこころの軌跡をたどりたかったが、もう時間がなかった。
また降り出した小雨の中、美術館近くのサンピエール・サンポール大聖堂でしばらく休んだ。10才ぐらいの男の子たちが、お母さんに付き添われてすわっている。でもやがて立ちあがり、あちこち歩き回る。じっとしてはいられない年頃なのだ。工事中の大公城の外壁に沿って下ってトラムを捕まえ、ホテルに戻って、駅に急いだのでした。
夕ぐれのナントを出て2時間のパリへ。パリでのあと2日の行動についてはまた別の機会に。フランス東西横断の汽車賃はしめて160,40ユーロ(約21,500円)(旅行者シニア割引付き)でした。1ユーロ134円のレートです。(了)