第三十五回目 粕谷栄市の「撲殺物語」


撲殺物語

      粕谷栄市


 泥酔して、路上で寝たことのある者なら、誰もが、信
じられるだろう。深夜しか存在しない、俺の魂の撲殺都
市で、俺は禿頭の撲殺係だ。
 ぶくぶくに肥満して、体重二百キロ、青い撲殺係の制
服を着ている。ぶくぶくに肥満して、禿頭の中年男であ
ることが、この街で、撲殺係になれる条件なのだ。
 全員が、豚みたいに肥満した俺たちは、一日中、撲殺
室で、月並な撲殺の歌を合唱している。
 と言うのも、それが、撲殺係の仕事だからだ。もっと
もトマトジュースを飲むくらいの休憩の時間はある。そ
の間に、大急ぎで家に戻って、女房を抱いたり、釣りに
行ったりする奴もいる。
 また、大急ぎで、撲殺室に戻って来るのだ。俺たちの
他には、豚しかいないこの街では、何処で、何をしてい
ても、仕事をしていることになるのだ。
 例えば、淋しい屋上で、逆立ちすることも、路地裏で、
自分の口から、骨牌を吐き出すことも、全て、仲間と合
唱する歌のなかで、働いていることなのだ。
 どこかで、この理屈は、少し変だが、毎日、血の撲殺
室で、棍棒を振るっていると、それが変でなくなる。
 この街で、泥酔することができるのは、禿頭になるま
で生存できるのは、そのことのおかげなのだ。
 今日、優しい人間なら、誰もが、一度は、撲殺係にな
る。何を、なぜ撲殺しているか判らず、幼稚な夢の棍棒
を、一所懸命、振り回していることがあるのだ。
 そうだ、その最後の日、唐突に、仲間に袋叩きにされ、
豚のように、あっけなくあの世に行くまで。
 そうだ。深夜の撲殺都市で、めでたく、ただ一度だけ
のぶくぶくに肥満した生涯を終わらせるまで。

       粕谷栄市詩集『化体』〔思潮社)より


○泥酔して路上で眠り込んだことがあるような人間なら、一度や二度は夢の中で禿頭の撲殺係になって、豚(なにものか)を撲殺したいと思ったことがあるだろう。この詩から、最初にそういうメッセージを受け取ると、ああ、あのことを言っているのだなとわかる人が多いと思う。この夢の街の撲殺係たちの日常の説明はなんだかとてもユーモラスで、実際彼等が、「撲殺の歌」を合唱しているだけなのか、「血の撲殺室」で「豚」に棍棒をふるっているのか、よくわからないし、また何をしても(撲殺という)「仕事」をしていることになるのだとしたら、そもそもそういう区別が意味をなさなくなってしまう。その区別が意味をなさなくなったところで、うっすらと、この夢の街が「俺」が現実に生きている街のイメージに重なってくる。生きることは、自分でそうふるまっていないつもりでも、常に他者(なにものか)を撲殺していることであり、また、いつか自分も唐突に他者(なにものか)に撲殺されてしまうことから逃れられないことなのだと。またそこまで言ってしまうと、生きることについてのペシミスティックな認識を披瀝しているだけのようになってしまうが、この詩で作者は、たぶんそういうこと(行為がもってしまう二面性や、無常というようなこと)が「判る」ということ、に表現の価値をみいだしているように思える。ユーモラスでほろ苦くて優しい大人の童話みたいな味わいのある詩だ。




[back][next]