第四十九回目 石原吉郎の「酒がのみたい夜は」


酒がのみたい夜は

      石原吉郎


酒がのみたい夜は
酒だけでない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
日のあけくれへ
うずくまる腰や
夕ぐれとともにしずむ肩
酒がのみたいやつを
しっかりと砲座に据え
行動をその片側へ
たきぎのように一挙に積みあげる
夜がこないと
いうことの意味だ
酒がのみたい夜はそれだけでも
時刻は巨きな
枡のようだ
血の出るほど打たれた頬が
そこでも ここでも
まだほてっているのに
林立するうなじばかりが
まっさおな夜明けを
まちのぞむのだ
酒がのみたい夜は
青銅の指がたまねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を堀りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ

        詩集<サンチョ・パンサの帰郷>から
        『現代詩文庫26 石原吉郎詩集』〔思潮社)所収


○この詩は、すっとよんで分かる、という感じの詩ではない。この分かりにくさは、意図的に意味がたどれない作られ方をしている作品から感じるような分かりにくさ、ということではない。変な言い方かもしれないが、そういう作品からは、「意味がたどれない作られ方をしている」ということの意味(方法論や、考え方)を受け止めることができる。この作品の分かりにくさは、作者が「意味」を語りたいことがわかるのに、その意味の連なりが作者の強い抑制や直接性によって変形して表現されるために、分かりくくなっているというようなことに近いと思う。作者は戦犯としてシベリアの強制収容所に抑留された体験を表現の核のように手放さず詩を書いたひとだ。この作品でもそのことが語られている。
 「酒がのみたい夜」(の気分)とは、ただ酒が飲みたいというだけでなく、自分(作者)にとっては、シベリア抑留体験の記憶にひたりたい気分、という身に染みついた習性のような意味をもってしまう。それは、心に刻まれたさまざまな情景や懐かしい仲間達の顔、そこで起きた出来事の細部を、玉葱の皮をむくように反芻したり、自分にとってつらい記憶の凍土を掘りかえすようなことでもあるのだが、同時に、人間にとっての極限状況での「倫理」や「希望」ということの意味を、あらためて考えさせられる、ということでもあるのだ。そういうことが、平明で鮮やかな像を喚起するような言葉づかいと、その言葉の像にこめられた「喩」としての象徴的な意味の流れが同時に立ち上がってくるような独特な語り口で語られているのだと思う。語られている内容から言って、「酒がのみたい夜」の思いを語るということは、ほとんど「詩を書きたい夜」の思いを語るといってもいいようなことだと思うが、ひとつの違いがある。それは、「酒をのみたい夜」とは、かっての抑留生活の中で、人々(仲間たち)にとって、けして叶えられない望み、としたあった思いに他ならないということだ。作者は、「酒をのみたいやつ」(酒をのめずに死んでいった仲間)を呼びあつめ、思い出を反芻する。その現前が「夜がこない」(希望がない)ということの意味なのだ、と。




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