第五十三回目 長田弘の「ブドー酒の日々」


ブドー酒の日々

      長田弘


ブドー酒はねむる。
ねむりにねむる。

一千日がきて去って、
朱夏(しゅか)もまたきて去るけれども、

ブドー酒はねむる。
壜のなかに日のかたち、

年のなかに自分の時代、
もちこたえてねむる。

何のためでもなく、
ローソクとわずかな

われらの日々の食事のためだ。
ハイホー

ブドー酒はねむる。
われらはただ一本の空壜をのこすだけ。

        長田弘詩集「食卓一期一会」より
        『長田弘詩集』〔ハルキ文庫)収録


○ブドー酒をねかせる。とはいうが、ふつうブドー酒がねむる、とは言わない。ブドー酒をねかせるのは、飲むためだ、といえば、当たり前だが、ブドー酒がねむるのは、われらの日々の食事のためだ、というと、そこに微妙なずれを含んだ「意味」がうまれる。この「意味」は、レトリックがうみだしたものだけれど、ブドー酒が熟成されて美味い酒になるまでの長い年月と、それを1時間とか、数十分(^^;で消費してしまう「われらの日々の食事」の間にあって普段忘れているような関係をふっと気づかせてくれるような「意味」だ。この詩では最後の対句のような二行が効果的で、さりげなく考え込まされる場所にぽつんと放り出されるような後味を残す作品になっていると思う。
 十八回目でとりあげた『酒の魂』という詩では、ボードレールは葡萄酒が熟成するまでの長い年月について「わかっているとも、焔と燃える丘の上に、どれほどの/苦労と、汗と、灼けるような太陽がなければ/私のいのちを生み出して/魂を吹きこむことができないか。」と葡萄酒自身に語らせていた。目のつけどころは同じなのに微妙な差がある。ボードレールの葡萄酒は、ものわかりがいいというか、自分を飲む人間と友達みたいに思いこんでいるところがあるが、この詩の葡萄酒は、ただ自分のために眠っていて、あるとき人間にあっさり飲まれてしまう。あっけらかんとした関係だ。この感覚のちがいについてあれこれ思いめぐらすのも面白いと思うが、いずれにせよこういう想像力のふくらみは、何度もグラスを傾けながら葡萄酒の瓶をまじまじ眺めて時間を過ごしたことのあるワイン好きの詩人たちならではの産物といえるだろう。




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