第六十一回目 島崎藤村の「初恋」


○日本の近代詩の出発点となったといわれる島崎藤村の「若菜集」のなかに、有名な「初恋」という詩がある。


初恋

      島崎藤村


まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃(さかづき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

        島崎藤村「若菜集」より
        『藤村詩抄』〔岩波文庫)所収


○読むと冒頭から情景がすっとうかんできて、その映像的な動きが二連以降にスムースに(遠景、近景、至近へと)繋がっていき、同時に自然に物語(ドラマ)の流れに誘われてゆくという、構成的にもしっかり作られている作品だと思うが、この詩の三連目の後半に、酒が恋心の比喩のように使われている。
 林檎畑で美しい少女が林檎を自分に手渡してくれた。そういうささいでさりげないだけだったかもしれない行為に対する過剰な思い入れ(^^;が、「初恋」のきっかけになるとは、経験者ならわがことのようにわかると思う。作者は、少女から林檎を受け取ったそのとき、自分が少女に恋をした(のを確信した)、ということを、少女が白い手をさしのべて自分にくれた林檎が、「恋の酒」のつがれた盃であり、それを自分が飲み干したのだ、という言い方で語っている。当時こういう象徴詩的な意味合いをふくんだ言い方を和文脈の調べで語ることはとても新しかったに違いない。
 この詩のように、酒(にまつわること)が情感の比喩のように使われていて、もうすこし「お酒の詩」というのにふさわしいかもしれない「秋思」という詩が「初恋」のひとつまえに置かれている。


秋思

      島崎藤村


秋は来(き)ぬ
  秋は来ぬ
一葉(ひとは)は花は露ありて
風の来て弾(ひ)く琴の音に
青き葡萄(ぶどう)は紫の
自然の酒とかはりけり

秋は来ぬ
  秋は来ぬ
おくれさきだつ秋草も
みな夕霜(ゆうじも)のおきどころ
笑ひの酒を悲しみの
盃(さかずき)にこそつぐべけれ

秋は来ぬ
  秋は来ぬ
くさきも紅葉(もみじ)するものを
たれかは秋に酔はざらむ
智恵あり顔のさみしさに
君笛を吹けわれはうたはむ

        島崎藤村「若菜集」より
        『藤村詩抄』〔岩波文庫)所収







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