May 02, 2008
tab8号初出散文「人身犠牲について」
こないだ藤井貞和氏の立命館大学での講演会に行ってきた。「詩と戦争」というテーマは非常に語るのが困難な課題だ。残念ながら湾岸戦争における詩人たちの論争を私は詳しくしらない。そこから様々な論者がどのような課題をこれまで展開してきたか、そしてそれに対して自分がどのような立場をとれるかは今はわからない。ただ、藤井氏が「人身犠牲」について論じていたことに特別の興味を覚えたので、自分の想念を書いておきたい。私にとっても「人身犠牲」は大きなテーマだった。自分が学生時代受けた暴力(いじめ)には犠牲の構造があるのではないかと思ってきた。しかしそれをあまり大きく学問的に考えるよりも、私は自分とみんな(全体)との関係の一例として考えたいと思った。最初は自分だけがこのような目にあうのはなぜかという理不尽な感覚から考えた。しかし実は中野富士見中での「葬式ごっこ」を始め自分より大きな社会にたくさん存在していることを知った。「葬式ごっこ」とは何か。長い間同級生から殴られたり精神的に苦しめられたある中学生がいた。死んでもいないその子が教室に来る前に同級生のあるグループが机の上に花瓶を供え、クラス大勢の寄せ書きをおいたのである。当時は軽薄な時代で、その子も同級生も悪い冗談として受け答えしていたが、深いショックを受けたその子は自殺してしまったのである。それからというもの、知らない間に死んだものとして扱われる、つまり殺される、それが儀式の形をとるということが頭から離れなくなった。なんといってもその子が私と二才しか変わらないのが大きかった。
単に自殺した子に同情するだけでない、その構造を変える考えはないかと思った。それから大まかにいじめにおける犠牲の構造を考えた。少し整理するとこうである。人が集まっている場所がある。それが自由を奪う(例えば先の話だと学校)いびつなものだとしたら、様々ないびつさが問題や不満を生み出す。ここで、その場所の前提をみなで変えることができれば問題ない。しかし、それをしない・できないから、なかったことにするために象徴的に誰かを血祭りにするという解消法を思いつくのだと考えた。
我々は「日本人が和を大切にする民族だからそのような暴力はしない」という感覚がないだろうか。しかし、全く逆で、和を大切にするからこそそのために誰かを犠牲にしてことを済ますという構造が存在するのではないかという考えが私の頭をかすめるのである。
犠牲の構造は人類が生み出した一つの知恵である。それは我々が今や想像もできないような苦闘によってできたのだろう。藤井氏は実は戦争も「人身犠牲」というやり方では内部の問題が処理できなくなったとき、それを外化する一つの知恵かもしれないという。それは更なる犠牲を生み出した。しかしそれらの方法がなぜとられたかを考えないと戦争という仕組みを変えることはできないと。私が思いだすのは「聖なるもの」と戦争や犠牲がどこかで関わっているのではないかというバタイユの問いだ。
ただし、犠牲の構造によって消された問題はその時点で解決が難しいから犠牲を引き出してしまったのだ。とすれば依然問題は残っているはずだ。消された場所から問題の痕跡を取り出すことで、問題を知り誰かを抹殺しない方向で問題を考えることは可能ではないかと思う。それが誰かが死んでしまった後にできる、せめてものことかもしれない。恐らくそれが暗いけれど希望の内実かもしれない。
※初出からブログに掲載するために一部文章を変えています。ご了承ください。初出=詩誌tab8号2008.1.15 この文章は私がファンである上山和樹さんのブログに刺激され、当ブログに掲載しました。上山さんは「ひきこもり経験者」として、ひきこもりをめぐる様々な状況に果敢に切り込んでいます。上山さんは恐らく生きていく苦しみの中で感じられたであろう「何かがおかしい」という感覚を手放しておられない。それを手に分析や批判的検証を続けておられるように思います。そしてそれは、単なる人任せの批判ではなくご自身の身をかけてのように感じています。私も「何かがおかしい」という感覚がこの社会で封殺されるのを感じたことを拙ないながら覚書としてこの文章に書きました。私が上山さんのように身を賭けて書けているかはわかりません。ただもし上山さんがどこかで読んでおられたらうれしいなと思っています。上山さんがどのような方なのは、実際存じ上げないので、本とブログの印象ですが。
さっき書いた上山さんのブログ。Freezing Point
Apr 02, 2008
デカルト風呂
最近ややこしいエントリーが続いたので。近況。5分以上風呂につかれなかった僕が15分弱浸かっている。血の循環とか筋肉をほぐすとか、清掃の肉体労働のあとはいいな。暖めて寝るといいな。汗をかいたりすることで、活性が起こるような。気のせいか。近代文学でも川端康成とか梶井基次郎とか伊藤あたりの温泉によう浸かっておる。今デカルトパラパラめくってみる。デカルト『情念論』(岩波文庫谷川多佳子訳)
100 悲しみにおいて。
悲しみにおいては、脈が遅く弱い。心臓のまわりを紐でしめられているように感じ、氷片が心臓を冷やし身体の他の部分にも冷たさを及ぼしているように感じる。しかしそれでも、悲しみが憎しみに混ざりさえしなければ、時には盛んな食欲もあり、胃もその任務を怠っていないのが感じられる。
115 喜びは、どのようにして顔色を赤くするか。
たとえば喜びは、顔色をより生き生きとし、より赤くする。なぜなら、喜びは、心臓の水門を開いて血液がすべての静脈にいっそう速く流れるようにし、血液がいっそう熱く微細になって顔のあらゆる部分をある程度膨らませるからだ。これが顔つきをいっそうにこやかに明るくする。
けっこう不思議な書き方だがツボは外してない。実感的。血流や精気の循環システムとして体を見ている。風呂に入るといい気持ちっていうのもわかるね。別にデカルトにいってもらわなくてもいいけどね!デカルトは身体を機械としてみているらしい。だから人間が死ぬってのは、多くが言うように精神(魂)が体から抜けたのではなくて、機械が壊れるのと同じで、いろんな機能が壊れて停止していくと、生体自体が作動しているように見えなくなるという。この言い方は賛否両論あるよね。でも、デカルトの言うのはだから精神っていうのは不思議ねといおうとしているのか、それとももっと怖いことなのか…
ひとつは例えば人体にまとわれている「その人らしさ」みたいなものがどこへいくのかみたいな疑問がある。臓器移植とか難しい問題だ。でもこの当時はある種の観念批判として機能したのかな。
アランの『幸福論』はデカルトやスピノザの身体とか情念の論に影響を受けたという。だから元気になるのも、しんどくなるのも気の持ち様ばっかり考えるなと。つまり疲れたら体操せよとか目が疲れたら遠くを見よとか、首を回すと気分が楽になるよとか。この辺のアランの考えは僕は好きだな。アランは軽いしんどさなら、くすりを飲むとか自分の否定的な考えを除くって言うより、体を楽にするように工夫するといいんだと。
さらにドウルーズあたりになると、その人らしさをさらに遠くへ行かせるためにいったん身体の固有性から身体を解き放つ。すると、○○機械の連なりとして、自然と身体の無差別性みたいなほうへ行って。このあたりはまだ整理できてないので、うまくいえない。だけど、ドウルーズはデカルトとかスピノザとか16~17世紀哲学から「機械」の構想をもらっているのは一応言えるかな。けっきょくややこしい話に…
Mar 02, 2008
昨日は
テレビで周防正行監督作『それでも僕はやってない』をみました。加瀬亮すばらしい。周防さん、よくここまでがんばって作ったもんだ。やっぱり並みの人ではない。けれど見ているとずっとはらはらしたり、思うことが多く、気楽に見るというわけに行かない。素晴らしいけど、肩が凝る。説教くささはないけど、社会のなかなか変わらない苦しさをかなりがっつり描いているのだ。学生時代ともだちに誘われて「法律研究会」なるサークルに入っていた。大阪地裁?の傍聴に行ったことがある。小さい法廷で、麻薬所持の公判だった。
そこは人を裁くという堅いイメージとはちがって、法廷内は不器用だったり、少し頓馬なやりとりや人生模様で満たされていた。しかし、周防さんの映画を見てそのぎこちなさが、裁判当事者の大変複雑な現実と感情からできあがっていることがわかった。限られた情報で判断するほかない中で我々は日常を生きている。しかし、その判断が判決という形では人の人生を大きく左右する。誰かが不正を働いたら権力を発動して誰かを拘束するしか今は手がない。けれど、不正を正すはずのその権力が様々なものの思惑を受けて、毎日誰かを苦しめている。周防の映画はそういう理不尽を他人事にしないでと伝える。
しかし、その理不尽を考えるとき、目が回りそうになるのも正直な感覚だ。それくらい国って得体が知れない。