Aug 18, 2008

明日からスクーリング

一週間、某大学でスクーリング。僕は通信教育で社会福祉士養成課程に在籍しています。

もともと知的障害者の介護に従事した関係がありそれから心身を痛めたんです。

いつかは体系的に福祉を学びたいとは思っていました。けれど、心身ともに辛い仕事。また、今の社会、労働というものは苛酷です。

それにくわえて自分は心身も丈夫でなく流れにうまく乗れない頑なさがあります。だから福祉を志していると胸を張っていえませんし。介護に従事していたころもしんどいつらいばかり泣き言もいえず苦しんでいました。まず自分自身が充足した生き方をしなければ他人のお世話、援助などできないのではないかと。

けれども、一昨年くらい元気が出始めてリハビリがてら始めたんです。あたまが変になっていましたから頭の訓練にもなると。

そうしてレポートをひいひいいってやり、昨夏のスクーリングもやり今年の冬実習にも行きました。

なんとかなんやかんやありながら、ここまで来ました。

今日鍼灸の先生に出会ったら、先生に「がんばるってことも大事ですよ」といってくださり、はっとしました。

まあ、せっかくはじめたので最後までやりきって修了し受験資格を得たいと思います。

来年の頭には国家試験です。

明日からがんばります。ちょっと緊張です。
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Jul 18, 2008

33年後の岡真史、おれ34歳

さいきん岡真史の名をネット上で目にすることが何度かあった。彼は12歳で投身自殺したという少年で僕より一回りくらい上である。かれが亡くなったとき、僕は1歳であった。

   知り合い2人の日記で岡真史の名を見たのだ。それで妙に気になって、昨日本屋に岡真史「ぼくは12歳」を買いに行った。ところが、ブックファーストになく、ちかくのAという本屋へ。Aには検索機があるが、いくら書名や名前をいれても「該当するデータはありません」と出る。不可解である。
次にK書店へ。ここは蔵書数が多いからあるかなと思ったらない。店員に調べてもらっても在庫すらない。
けっこう今でも人気があるのか。時々こういうことがある。で、駅を越えて老舗の本屋に行く。さすがここはあった。すばらしい。

 帰って「ぼくは12歳」を読み始める。彼の書いた詩と学校の作文、それから親御さんの手記。読者からの手紙までついている。誰かが上手だけどやはり子どもの詩だといったが、子どもだろうが年寄りだろうが、あるタイミングがくればとんでもない作品を書くのが人間だと思っている。ただ、そのタイミングというか自分の中の高まりとどう向き合うかがとんでもなく難しい。

 夕方ただただ声に出して読む。黙読したりもする。ひとりでほうほういっている。

 夜、家の者が帰ってきて、一緒に岡真史の略歴を見ていたら、岡真史の亡くなった日があった。それがなんと1975年7月17日。33年前の明日。つまりこれを書いている時点で今日である。ちょっとビビッた。時々必死で梯子して本を探すのだが、怪談にしてはいけないけれど、なんかに突き動かされていたのかな。霊とかいうと、いろんな意味で不謹慎だからいわないけれど。

 時々見えてしまった人というのがいるけれど、岡真史の詩を読むと賢さよりも、その見えてしまった後の不思議な風が漂っているようにも感じる。如何に後世から未熟だとか言われても、その時その瞬間ある地点に立ち、そこを過ぎ去ってしまったこと自体は否定できない。

「道でバッタリ」という詩がある。バッタリ何かに出会ってしまったのである。そこで何かがはっきり「わかってしまった」のである。そのように感じる。いかにかわいかったり希望に満ちているような彼の文章を読んでも、見えてしまった後の妙な感じが感じられるのである。僕はアホだから岡真史に何が見えていたかわからないのだ。もしかしたらとてつもなく真っ暗だったのかもしれない。わかったようにいうのは止めたいけれど。

無題という詩がふたつある。

「無題」

にんげん
あらけずりのほうが
そんをする
すべすべしてた方がよい
でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない
この世の中に
自由なんて
あるのだろうか
ひとつも
ありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることになる

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに…

**********

さいきんモディリアーニをみたので あの描線の正確さは彼が彫刻家志望だったことから来ていると 先輩から聴いた。 その線の捉え方はまさに丁寧に削った感触である。 そこから僕はモディリアーニによくない印象を持ってしまった。 しかし僕の心が弱っていて そういうときにマッチしなかったので モディリアーニが悪い絵描きということにはならない。 問題は僕の心の疲れそのものなのである。 うまくいかないにも関わらず あらけずりにけずらないと 心の壊れは止まないのだ。 今の僕にとってすごく示唆的である。 でも彼亡くなっているよなあ…

「無題」

けりがついたら
どっかへ
さんぽしよう
またくずれるかも
しれないけど

**************

それにしても、けりとは何だろう?死とかそういうふうに解釈するのもなんとなくちがうし…

※7月17日岡真史の命日に書きました。
Posted at 10:40 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Apr 18, 2008

浪をくりかえすのは-中野重治の「浪」を考える

浪  中野重治

人も犬もいなくて浪だけがある
浪は白浪でたえまなくくずれている
浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は再び走つてきてだまつてくずれている
人も犬もいない
浪のくずれるところに不断に風がおこる
風は磯の香をふくんでしぶきに濡れている
浪は朝からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
浪はこの磯にくずれている
この磯はむこうの磯につづいている
それからずつと北のほうにつづいている
ずつと南の方にもつづいている
北の方にも国がある
南の方にも国がある
そして海岸がある
浪はそこでもくずれている
ここからつづいていてくずれている
そこでも浪は走つてきてだまつてくずれている
浪は朝からくずれている
浪は頭の方からくずれている
夕がたになつてもまだくずれている
風が吹いている
人も犬もいない



 タイピングすると僕のパソコンは使用した変換とか文章を記憶 するので、ある意味うつのが楽だ。
しかし中野重治は手書きで書いたはずでどんな気分だったんだろうな。
ぼーっとしてるように見えるんだが けっこう冷え冷えとした熱いものが(語義矛盾だが)
高まるんだけどすぐに崩れるような。

海というと小説では安吾を思い出してしまった。
「私は海を抱きしめている」ってあった。
でもなんとなくドラマチックである。
しかし中野重治はドラマを拒絶してもっとどうしようもない
反復の風景に出来事を見ているような気がする。
「くずれている」の意外に起伏に富む繰り返し。

イタロ・カルヴィーノが「パロマー」という小説を書いている。
主人公の元インテリっぽいおっさんが海をぼーっとみつめて
形而上学的な思索をする。カルヴィーノはレジスタンス活動の中に
いた人で、中野重治との関連もいえなくもない。
パロマーの主人公は海の波に幾何学的な何かを見るわけだが…
中野重治の記述は大またで書いている。
じっと観察するよりはもっと「見えてしまっている」
もっと「聞こえてしまっている」
そのことをそのまま書くと恐いなあと感じる。

ただし中野重治はきっと韻律をこの詩でもかなり深く考えている
ように思える。いいぐあいに繰り返しに変な引っかかりがあるのだ。
連想したのは童謡の「海」である。

海は 広いな / 大きいな / 月が のぼるし / 日が しずむ

海は おおなみ / 青いなみ / ゆれて どこまで / つづくやら

海に おふねを / うかばせて / 行ってみたいな / よそのくに

意外とこの歌に通ずる無限の感覚があるような。
この歌はもっとふわふわしているが。
Posted at 16:03 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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