Aug 27, 2008

ふぬけ

スクーリングが終わってから、昨日今日と少し腑抜け。夜はぐーぐぐーぐーぐー。今日はどこかへ行こうかな?
Posted at 08:48 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Mar 27, 2008

考察メモ①の補足と反省

 昨晩の考察①について。朝ちょっと考えていた。まず、なんで考察①を書いたかというと、多分次の問題が気になっていた。よく現代詩を定義する時に大まかに言われることとして、「手垢にまみれた言葉を避ける。吟味する。」というのがある。それに対する疑問。
 まず「手垢にまみれた」とはどういうことか。それは「古い」とか「ダサい」ということなのかな。しかし何をもってダサいとか古いとかありきたりと云いうるのか。多分そう主張する人の中にも、いろんな価値観があって、古いとかダサいとかありきたりという風に「ある種の言葉の使い方・展開・描写・イメージ・作品内世界観」を感じて批判している。
 わからないのは、どういう対象=言葉の使い方に対して、なされているかということ。これも大問題なのであるが置く。もうひとつは、ある価値観がある作品を「ダサい・古い・ありきたり」というのだとしする。では一体価値観とは何なのかということ。



*ドウルーズと表現について考えるその前段階ーいかなる価値観が物を見る際の色眼鏡となっているのか。

 ドウルーズに対する昨日の反駁は非常に稚拙だったので反省している。けれど、ドウルーズもあれもダサい・これも古いということで色んなものを切り捨てているのではないか。現代詩のある種の傾向と似ている。もちろんドウルーズは17世紀の哲学者(ライプニッツ・スピノザ)に多くをおうている。ドウルーズは新しい光源の中に彼らを置いているのは知っている。
 ドウルーズの発想の源にはニーチェがいて、「生成の無垢」という。これは「あるがまま」みたいなととどうちがうのかな。色んなものやことが変化するその様子を「ありのまま」に肯定する。まず、それは可能なのか。可能だとしても、その「ありのまま」の追求の動機は何か。それは手放しでいい傾向だといえるのか。
 また、彼らの流儀で「ありのまま」を肯定することは、果たして「ありのまま」の必要・充分な肯定足りえているのか。とりあえずドウルーズの発想の一例が見られる「スピノザー実践の哲学」が手元にあるので、この本の第4章「エチカ主要概念集」の"いいーわるい"あたりを見てみよう。平凡社ライブラリー鈴木雅大訳の80ページ辺り。また後日できたら書いてみたいなあ。できないかも。メモ的な感じにしようかな。おそらく「ありのまま」を肯定し記述するために戦術的にそれを邪魔するものを外すという感じ。しかし、誰しも価値観からは逃れられない。だとすると「ありのまま」に接するどういう態度や語り方が僕はすきなのか。
ありのままは「生まれたて」とか「純粋」とか「実在」とか「物自体」とかおそろしく色んなニュアンスがある。私の挙げた言葉も恣意的な選択によるが「物自体」はカントの言葉で、私たちは自然や物質などをいったん感覚器官(目皮膚耳その他諸々」を通して表象(音・言葉・光線など)の形でしか知ることができないという。だったら「ありのまま」なんてないのかもしれない。しかし、ドウルーズだったらどういう感覚や受容の仕方が「ありのまま」の素晴らしさをより多く素晴らしく感じられるかという風に答えるかもしれない。それが「よい」の意味だろう。だとしたら、そんなに悪くない。けれど、そこで「よい」とされている捉え方や反応の対にある「わるい」は一体何なのだろうか。詳しくは先の『スピノザー実践の哲学』の該当部分にヒントがあるのだけど。しかし、善ー悪に対してそれに汚染されない「よいーわるい」の立て方は『道徳の系譜』のニーチェと同じである。でもニーチェの方がやばいものも取り込んでいるかもしれない。本家だから。ニーチェの「わるい」に相当するものは原罪とか怨恨である。人間はもともと罪があるとか、しかし罪を感じられるから幸いだとか。ニーチェはこれを卑屈というのだが、ニーチェは個人的に「うじうじ」しているのが嫌いで、それはニーチェ自身が「うじうじしていたから」かもしれない。現代詩に対してもより戯画化された形で感じるのだけれど、ニーチェのように「ダサいという自分も実はちがう意味でダサいのだ・ダサいにこだわっているのだ」という内省がどこまであるのか。これだと悪口みたいだが、僕自身人のことはどれだけでも言えてしまうので、これは自分に言っているのだ。そして、さっきはそれが悪いことのように書いた。けれど、繰り返すが何がどんな価値観が「ダサい」と感じさせるのが重要で、哲学の議論を参照するのは無益ではない。

※ちょっとすっきりした。ついでに言うと昨晩の「考察メモ①」はレヴィナスの記述もかなり反省している。何しろ言葉遣いがグダグダ。これでは失礼である。このブログには2年前に「レヴィナス入門」について書いたものがあって、その後「全体と無限」を読んだのだが、2年まえの「レヴィナス入門」はわからないながら、ポイントを粗くではあるが書いている。http://www.haizara.net/~shimirin/blog/ishikawa/blosxom.cgi/nikki/20061017160732.htm
Posted at 10:36 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

考察メモ①-最近のまとめ・自己表現の課題

 ここんとこ、あれやこれやと考え今年の3月よりブログを再びちょくちょく更新している。それは具体的なテーマとかはなかったのだが、ドウルーズのことを書いていて「欲望」「生命」というテーマが出てきた。
 別にドウルーズにこだわるのではない。私は自分の「存在」(と仮に云う)の在り様を描く言葉を持たなかった。何となくの感触があり、それをとりあえず自分かなあと考えてきた。別に昨日も今日も明日もかなりの確率で自分は自分でしかありえないし、自分が石川であり、34歳であり、男であり…ということは間違いない。いきなり明日から僕は今までの石川とはちがう別の存在だ(例・宇宙人)と言い立てるつもりはない。家族にとって僕は家族だろうし、デイケアに行けばメンバーのひとりであろう。
 しかし、そういう属性では語れない自分というものがあって、それは「本当の自分」とかではない。けれど、その人の属性で語れる(女性である・職業はフリーター云々)自分とはちがう自分をほとんどの人が感じているのではないか。しかし僕は僕の例しか知らないのでそれで話す。
 どういう場面で僕は自分が予想外の人間というか存在だと感ずるか。つまんない話だが、僕が暴れまわっていた時には、それを自分として感じていた。おかしいのは、自分は優しいと感じていたときには、そんな自分は想定していない。けれど、暴れだしたらそれが自分なのだ。親は、大人しい子だと思ってそれが本来だと思い、回復した今を喜ぶ。僕もそうだなあと思う。ああいう時期も人にはあるよと親と話すこともある。まるっきり親の言うことも大体正しいと思う。けれども、自分の彼女からはエネルギーのある人だと云われるのである。友達にも云われる。そういうわけで、人間はなるほど多面的だと思うが、この話からすると、非常につまんないエピソードだが、「本来の自分」などという語りがあまり役に立たない。
 「俺はこういう人間です」とか言うのはつまらない。けれど、僕は自分が何ものか気になってしょうがない。誰かにそれを証明せよといわれたわけでもないのだけれど。
 自分が何者かについては、ある直感がある。けれどそれが言葉にしにくい。秘密なんじゃなくて、どうしてもきちんと話そうとするほど、自分の手持ちの言葉がうそ臭い。だから、自分の言葉の限界に出会い更新するため作品を書いたり考えごとしたりしている。
 でも、変な言い方なんだが、自分が何者か考えることは、ある種人としての責任なのではないかと思う。正直、考えることをサボると元気が減る。親父には考えすぎるなと言われたが、考えすぎは問題ではない。というか、自分のつかんでいる何かから外れだすと「考えすぎ」ではなく単におかしな方向に話が行っているのだと思う。こういうことは、非常によくある。気づかないまま、どんどん考えがつまらなくなってて、キチガイじみた方向に怒っているのだ。

 さて哲学の本を読んでみると、何かを語る際大事なことは2つあると思うのだ。①問題を固定しない②仮説を何度も立て直す③しかし、適切な問いを立てる。ここで適切と言うのは、言葉をなるべく論理的かつ感覚的に吟味することだ。扱う対象にあった言葉というものがあるいは表現がある。哲学が難しいと感じるのは、その人独自の新しい問題に表現を与えるため独特の言葉遣いや概念を作るしかないからだ。もちろん、比較的わかりやすい表現を使う人もいる。しかし、平たく述べるためにその人がどれだけ言葉を吟味して使っているか考えるといい。これらは、読者を煙に巻く不誠実でも過度に神経質なのでもない。その逆で、その人はその人が大切にしている問題をそのまま提示したいと考えているからだ。
 以上のように考えると僕の語法は不安定で揺れている。これはひとえに不勉強だ。しかしもうひとつ理由がある。ぼんやりと柔らかい形、あるいはあえて舌足らずでしか表現できない事柄があった。だから、僕は今は文学を選択しているのだと思う。専門の哲学徒になっていたら、通用しない微かな直感(ドウルーズなら微分的とか分子的というだろう)は、どこかへしまうしかなかっただろう。僕はあまり厳密ではなかったし、固定されると我慢ならない程度には、怒りっぽく度し難い面がある。
 ドウルーズも語の定義が曖昧であるとか、いい加減だと言われるのだが、僕はSFとか詩が混じった変な小説みたいに読んでいる。ドウルーズはパンクというか、サイバーともいうかそういう文章だましいなのだと思う。(もちろんそうでないのもある)僕はたまたま詩を書いているため、そんな読み方をする。ひとつ予感としていっておきたいのだが、そして今日のメモはこんだけにしたいのだが、最後に。

 疑問:ドウルーズはなんか疲れる。焦っているから。なんでこないに焦っているのか。それは無理に答えを出そうとしている。彼はあらゆる実体化に逆らうために、つまり「本当の自分」とか「あるべき人間」みたいな語り方にうんざりしている。だから、人間も動物もあらゆる存在=森羅万象を「機械」と呼ぶのである。人間も豚もお母さんのおっぱいもそれを吸う赤ちゃんの口も機械である。国家も、親族の構造も。ほら詩的でしょう。つまり特権的なエライ「存在」を認めない。みんな機械。難しく言うと超越者=神がいない。また、物体とか自然とか存在とはいわない。みんな固定されたイメージがあり、それにひきずられるからだ。物体のように硬く止まっていない。全部流れて広がって色んなものとくっついては、離れてを繰り返す。古代ギリシャの哲学者は万物流転とかいうだろう。ドウルーズは生命や欲望の性質って、とらえどころがなくて、たぶんこれまでの普通の意味で云うと節操がない。そう思う。共感。だって、それが人の欲のいいところ。
 けれど、それはいいとしても、それで何が云いたかったかイマイチわからない。もうちっと勉強しよう。ありていに言ってしまえば「何にもとらわれない」というのかな。本来の自分なんて狭いものに負けない。それは偽者だと言うような。でも、その場その場で、アレンジされていくだけが欲望や生命なのかな。だとしたら、人や自然を、あるいはこの景色を好きになる理由がわからない。少し先を急ぐと、「とらわれないことにとらわれ」(という先日の日記とつながる)すぎているのだ。いいかえれば、おこっている現象を丸ごと取り出そうとして、とりだすことさえためらったままのような。それは彼なりの良心なのかもしれない。けれど、見方を変えれば言葉で「物そのもの」(カント)をきづつけないように表現しようとして、言葉が破けている状態なのだ。
 順序は逆で、「とらわれない」と宣言するからつらい。尾崎豊のように「支配から卒業」しようとして、より自分を苦しめている。ここで根本的に対立するのがレヴィナスだと思う。面白いブログを見つけた。世界に曝され、それにとらわれて悩んでいるところから、始めて、その状態を忘れないのが大事だ。苦しいから、逃げたい。逃げられない。きづつく。のんびりしたい。レヴィナスはのんびりしていいという。けれど、ぬくぬくしていたら必ず何かしたくなってくるよという。したくなる=欲望が果てしなく行きまくるだけなら、なんとなくちがうのではないかと言うのは僕の実感だ。目ざすものではないけれど、この人だから好きってなるまでに、あるいは詩がすきってなるまでに、いくつもプロセスがある。つまりいきなり芸術は爆発だではない。もちろんそうでない場合もあるんだけれど。このブログは例えば精神病で、あらゆることが気になってにっちもさっちもいかなくなって、きづつきまくるのも、人間の姿だと。なぜそういう状態があるかと言う。おそらく意味がある/ないというこの世のきつさは、ある事実を隠蔽するので、意味にとらわれない言葉で語るには、どうしてもその状態を通る。だって、いろんなものの姿は意味のあるなしだけでは評価できないし、理解も表現もできない。それだけでは苦しくないし楽しくない。自分にとっての意味がどこからやってくるかが大切なのだ。それを吟味する道がなんとなく見えてくるような気がしている。これは精神病だけじゃなくてあらゆる現代の芸術の課題と同じではないかな。

※ツカレタ!!
Posted at 00:20 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Feb 27, 2008

竹熊健太郎『箆棒な人々』河出文庫2007

 巨匠竹熊健太郎が戦後の大変人巨匠たちと対決する本を読んだよ。この本は気楽に読めるぜ。けったいな爺さんが出てきて、えんえんとスケールのでかいのかしょぼいのかわからない爺さん自身の歴史を語る。
 康芳夫、石原豪人、川内康範(森進一に『おふくろさん』歌うなって怒っている人で月光仮面の原作者)、ダダカン。ほとんど知らん人ばっかり。
 竹熊によるとタイトルの「箆棒(べラボー)」って、元々の意味は悪口なんだって。確かに「べらぼう、バロ畜生め!」ってチビ太(おでんを持って走っている人)が怒っていたような。だけれど、竹熊は「瞠目すべき」「とんでもない」「グレート」なんかでは追いつかないくらいすげえという意味で、「箆棒」と使うって断っている。こういうふうに前書きで書くとこも真面目。取材姿勢も爺さん達にきちっと筋というか礼儀を通すのだな。爺さん達も受けて立つ。その立会いが古風なので襟を正す。そして変な話のオンパレードにずっこける。爽快な本です。
 この本の初出は雑誌「クイック・ジャパン」の連載であった。連載当時「クイック・ジャパン」は出たばかりで、その頃のこの雑誌はとても好きだった。けれども、竹熊氏の連載はえんえんしらぬ爺さんが出てくるばかりで敬遠していた。今読んでみて不明を恥じるのである。



※追記=実は先だって芥川賞を受けた作家が紹介されていたとか。竹熊さんの本は前から好きで、この本も気になっていたのです。芥川賞には負けないぞっと決意も新たに読みました。でも読んだ時点で芥川賞作家の思う壺ですな。面白いからいいんですが。
Posted at 00:11 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
June 2026
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
 
       
Search

Categories
Archives
Syndicate this site (XML)

Powered by
blosxom 2.0
and
modified by
blosxom starter kit
新規投稿