May 06, 2006
「青い影 緑の光」
北爪満喜の詩集「青い影 緑の光」(ふらんす堂)を読む。北爪満喜の特徴である書かれたものが動いているような不安定な文体。この詩集でもそうだ。
「青い影 緑の光」は「日々持ち歩いているデジタルカメラで撮った写真を起点にして書いた」と『あとがき』で説明されている。自分で撮った写真に触発されて詩を書いたのだという。あるいはそういうふうに詩を書きたかったのだという。
散文詩集といっていいと思う。支えがないまま歩いているような詩が26編。ほとんどの詩が見開きの2ページに収められている。
やわらかい海のような詩がある。重苦しい詩がある。一回性のことばの詩と練られたことばの詩がある。ひざから下はしっかりと地を踏んでいて、ひざから上が揺れ動いているような書き方だと思ったりする。
日々デジタルカメラを持ち歩いて撮る、という行為は北爪満喜の暮らしの中でどういう時間なのだろう。何故北爪満喜はそういうことを始めたのだろう。
「片手に持ったカメラの液晶画面にはさまざまな外が映って、手を動かすと手とともに液晶のなかで映像が揺れ、まるで光の水がカメラの中へ流れ込んでいるようだった。どこへ行くにも小さくて軽いデジタルカメラを持ち歩き、歩きながら、気持ちが揺れると撮っていった。そして家に帰って、夜、その日撮った映像をパソコンへ取り入れて、日付毎のファイルに整理するのだ。パソコンの画面に映像が現れると、私はなんだか光の水をカメラからパソコンへ注いで移し替えているような気持ちがした。」
『あとがき』から引用
「詩」が胎内で揺れている映像を見ているような気になるが、これは北爪満喜と「外」との関係のことなんだろう。
デジタルカメラを持って外を歩くことによって、今までとはちがう散歩ができるようになった。出会ったものをカメラに収めていくことによって、今までよりもっと余裕をもちながら、外にあるものと接することができるようになった、ということだと思う。
「青い影 緑の光」はその前の詩集「ARROWHOTEL」とおなじように北爪満喜という詩人の体質を強く感じさせる詩集である。北爪満喜という詩人の体質とは「思い」と「言葉」の接触面が狭い、少ないということだ。このことがこのひとの詩の速度を生み出す。
「青い影 緑の光」で北爪満喜は外を一周してきたように新しく吐く息を自分の資質のなかに通してみせた一冊、ということになるんだろうと思う。
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