Feb 23, 2007

『ひばり』観想記

 シアターコクーンで『ひばり』を観た。

 蜷川幸雄+「ジャンヌ・ダルク」+松たか子の組み合わせを見たとき、自分のなかで動くものがあって、観てみようと思った。去年の10月のことで、公演は4ヶ月先だったからおっくうというか、「そんな先のこと」という気持ちもあったが当たりだった。

 蜷川幸雄+「ジャンヌ・ダルク」+松たか子の組み合わせですぐイメージしたのは、「生き残ることがすべてではない」という劇、完結性の強い、直線的な、「救済」ということが語られている劇だった。そして第二幕はまさにそういう舞台だった。「おれはこういう芝居を観たかったのだ」と思った。

 ジャンヌ・ダルクは「大きな物語」にとり憑かれて、「大きな物語」を生きる少女。「大きな物語」を信じた者がたどる悲劇を彼女もたどることになる。「大きな物語」を生きるということは、「大きな物語」に自らを吸収させることで、自らの具体性を、個別性を、身体性を生きないということなのだ。

 これは時代の刻印が強くある戯曲だと思った。作者のジャン・アヌイのこの戯曲が初演されたのが1953年とあるからまさにそうだ。人たちが政治の渦のなかにいた時代だ。

 異端審問でジャンヌ・ダルクを裁く神学者たち。知の権力者たちと蜷川幸雄によって描かれる者たちに、ジャンヌ・ダルクの素朴で実感的な信仰は揺さぶられる。神の声に従ったのだという、神が「わたしに、そうするようにとおっしゃったことを、した日から、わたしは生き始めました。」というジャンヌの生の根拠が危機にさらされる。神学者たちはジャンヌを恐れているのだが、彼女には有効な反撃ができない。ジャンヌの無防備さが、無垢さがジャンヌの力の源なのだが、神学者たちにとってはジャンヌの弱みだ。

 しかし、この異端審問の場でジャンヌは解体され、部分になり、破片になり、自らの信仰の根拠を奪い去られるまで意味をコナゴナにされてしまうわけではない。戦いのために着ていた男の服を女の服に着替えさせられたり、文字を書けないことを利用されたりするが、それがジャンヌの心にどういうことを起こしたのか細かく描かれていない。徹底的に心を解体させられるところを描いていない。

 だからジャンヌが押しつぶされず、心も失わず、ほとんどジャンヌのままで火刑にされるところにくると、これは一種の英雄であって、英雄の死であって、切羽詰まっていないと思った。ここはピンとこなかった。

 このあと処刑の劇は止まり、時間は戻る。ジャンヌが望み、得たシャルル王太子の戴冠式の場面になり、その戴冠式のさなかジャンヌはひばりとなって空に飛び立つ。この「救済」が行われて劇は終わる。

 2階の舞台よりの席で芝居を観た。この辺りから観るのは初めてで、今までとは違う視界の舞台があった。

 ジャンヌ・ダルクを演じる松たか子が出てくる。ぼくは上から見ている。松たか子の首がたくましく見え、動きがなまなましく見える。松たか子がインタビューで「舞台が好き」とたびたび答えている理由が分かったような気がした。たしかに演劇は一回性のもので、瞬間のものだとそのとき思った。松たか子のジャンヌ・ダルクにたびたび魅了された。ぼくにとっては1999年に新国立劇場で観た『セツアンの善人』のシェン・テ/シュイ・タ役以来の松たか子の輝きだった。
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