May 13, 2008
火曜日
曇り空、小雨がふる。気温は低い。児玉幸多の書いた中公文庫『日本の歴史・元禄時代』読みおわる。この時代を書いたものとしては、ぼくが読んだうちでは一番くわしかった。文章にも勢いがあった。
四代将軍家綱、松平伊豆守、酒井忠清、阿倍忠秋、堀田政俊、熊沢蕃山らの名がでてくるので、白土三平の『カムイ伝・第二部』を思い出した。『カムイ伝』、もう描かないんだろうな。
May 10, 2008
May 06, 2008
小松順子の絵
きのう、ギャラリー山口に小松順子さんの絵を観にいった。小松さんは詩人の福島敦子さんのリンクからみつけた人で、ブログを読んでいるうちに面白い人だなあと思うようになった。
小松さんの絵に関心をもつようになったのは、小松さんのホームページでその絵を見たことと、ブログを読むうちに、表現をする人間なら誰でも苦しむこと、つまり心と体に合わせて作品を作るのではなく、向こうにある作品に合わせた心と体をもとうとする、日常生活を営むうえできしみをもたらすこのことを、苦しみながらも、あきらめずにやってきた人のように思えたからだ。
銀座にあるビルの階段をおりると地下1階に小さな画廊があり、ほぼ正面奥に蓮(ハス)の大きめの絵がかかっている。9作品のうち7つが蓮の絵で、小松さんの画家としての個性が一番よくでているのが、正面奥のこの絵だ。
緑の蓮の葉が絵のほとんどを占めている。蓮の下の水も広がっている。一本だけピンクがかった蓮の花が立つ。この蓮の花は閉じているのだ。
植物のもつ生命力が観る者にせまってくるというのではない。絵にはじかれて入っていけないというのでもない。蓮の生命の静かなたたずまいがそこにある、という印象だ。
画廊を出て、近くのドトールコーヒーで、窓からみえる通りを歩く人たちをながめながら、小松さんの絵のことを考えた。はじかない、せまってもこないあの蓮の絵はなんだろう。それで小松さんがニューヨークで個展を開いたときのパンフレットをなんとなく見ていたら載っていた。
「“生と死”は私たち人間にとって永遠の謎です。/私は、生きることと死ぬことは、同じひとつの命のふたつの側面だと思っています。/このふたつを切り離すことはできません。」
小松さんが書いた文章の中のここのところで、あの蓮の絵が分かったと思った。
May 05, 2008
月曜日
曇り。むし暑い。NHKテレビの「おはよう日本」でやった日本人大リーガーの特集をみる。松井秀、松坂、福留、藪、野茂のことなど。桑田真澄が解説していた。
松坂、松井秀の活躍に興味がある。藪にもがんばって欲しい。野茂はどうなるんだ。
開幕直後、巨人が負け続けたせいか、今年は日本の野球への関心がもどった。10年ぶりくらいにテレビの野球中継を見ている。どこのチームのファンかと問われれば、ぼくは巨人です。
父が浅草の生まれのひとで、巨人ファンだったんだろうな、その影響で小さい頃銭湯に連れていってもらったとき、ぼくは必ず長嶋の背番号だった「3」のげた箱をめざしていた記憶がある。
『妃(きさき)』14号を読む。
田中庸介の詩「武蔵野」を読む。声調がかわっている。詩のなかに書かれている実生活上の変化は本当のようだ。
そして実にひさしぶりに早坂類の詩を読んだ。もう詩をふくめて書くのをやめたのかと思っていたが、ぼくが気づかなかっただけで、プロフィールを読むとあちこちで活躍中のようだ。
May 04, 2008
日曜日
曇り。しかし晴れ間もみえる。朝食はバナナと牛乳とお菓子。
フジテレビでやっていた『ボクらの時代』を観る。岩松了、中村獅童、荒川良々(よしよし)の三人が旅館かどこかで食べながら、飲みながらの座談会。楽しくて、面白くて、いい感じだった。岩松了という人はふところの深い感じがするな。
カーテンの洗濯をする。
よしもとばななの『体は全部知っている』を読む。
『体は全部知っている』は短編集。それもみじかい短編集のようなので、一編を一気に読むことにしている。
「西日」は3編めの小説。女と男の話。スピードがある。読む者に昂揚感をあたえるスピードをもった一編。
May 03, 2008
May 02, 2008
Apr 29, 2008
火曜日
曇り。洗濯をする。敷き毛布と冬物の部屋着も洗濯する。『ドラえもん のび太と緑の巨人伝DS』第8ステージで謎の海底生物と戦う。
ことしの夏はエアコンを買おうと思う。ここ4年ほど、夏は扇風機だけですごす方針できたが、むだに体力を消耗してることがあるんじゃないかと思う。どうしても暑いときはつかってみようと思う。一日中運転しっ放しにしなければいいだろう。
だんだん晴れてきた。
さて久しぶりにツタヤに行ってみるか。
Apr 27, 2008
映画館へ行く
映画館へ『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観に行く。シネマコンプレックスのなかの席のすくない上映館だったけれど、それでも席の半分くらいは埋まった。ゴールデンウィークだからか、主演のダニエル・デイ=ルイスがアカデミー主演男優賞を受賞したためか、などと考える。(満員になる映画というのは数少なくて、休日でもガラガラという映画が結構多い)
選んだのは正面、後方の席。ちょうど前ふたつの席が空いたまま。よく観えるな、いい席だなと喜んだが、映画がはじまるのを待っていたように、となりに座った男がメシを食べ始めた。それも正規の食事という感じで食べる。なかなか食べ終わらないので、「どこで食べているんだ。バカヤロウー」と怒鳴りそうになる。ムカツいたまま映画を観ていたら、どうも集中できない。
石油に生きる男(ダニエル・デイ=ルイス)と教会に生きる男の対立。抑制の効いた映像。と映画を追うが、むかーっとしているので、ダニエル・デイ=ルイスがいい演技をしているということがきちんと認識できたくらい。一時間くらいたってようやく映画に集中できるようになる。
アメリカでもこういう商業度の低い映画を作ることができるんだなと思った。見ごたえはあるが面白いという映画じゃない。
油田をみつけ、採掘し、富と力を得る男と信仰に生きる男が争う。世俗と信仰の争いという形だが、神のために生きる男もけっこう世俗的だ。教会の権力というものを意識しているし、名声も欲しい。やられたらやりかえす闘争心も秘めている。
ぼくはこの映画で、「欲望の新鮮さ」とでもいうものを観たかったのだと思う。それで映画館までやってきた。「欲望」が生じたら、見ないふりをしてはいけない。無かったかのように扱ってはいけないんだ。否定したいと思うことでも、「欲望」が生じたことを認めたうえで否定するべきなんだ。最近こんなことを考えている。
物語が進むにつれてダニエル・デイ=ルイスとその息子の関係にだんだんと映画の重みがかかってくる。そして端正で抑制されかっこよくもあるダニエル・デイ=ルイスの演技に一本調子というか、じぶんの型を守りすぎるため、映画と合ってないところが出てくるように思える。
後半、終わりに近づくにつれて、映画そのものがダニエル・デイ=ルイスの演技に依拠しすぎているところがあって、それがこの映画の完成度を弱めているんじゃないかと思う。しかし100点の映画なんて滅多にあるもんじゃないし、ハズレじゃない。それに今日は妙な野郎が居て、ついてなかった。次の映画はゴールデンウィークが終わってから観にこよう。それから忘れてはいけない。脚本・監督はポール・トーマス・アンダーソン。『マグノリア』を監督した人。音楽は映画とは関係なくとにかく音楽で観客を酔わせてしまおうという最近のというか、このところの傾向からまぬがれているけれども、それもぎりぎりのところ。もっと抑えてもよかった。映像はアカデミー撮影賞をとっていて、これはよし。
Apr 26, 2008
宣伝
ポエトリージャパンに詩集『大きな窓』の販売委託をお願いしています。5月26日までの予定です。ポエトリージャパンのBOOKSの検索に「大きな窓」と書きこんで、クリックすると、『大きな窓』のページが出ます。興味のある方、どうぞ。
Apr 24, 2008
木曜日
雨、しかし寒くない。ガスファンヒーター、そろそろしまうか。洗濯をしたが、ベランダに干せないので、部屋のなかに干す。
よしもとばななの『体は全部知っている』読みはじめる。
ここでも「死」が扱われている。しかしよしもとばななの文章からは死の臭いがしない。それがいいのかもしれない。
Apr 20, 2008
「ラ・マンチャの男」
『ラ・マンチャの男』を観る。セルバンテス/ドン・キホーテに松本幸四郎。アルドンサに松たか子。
前回、2005年6月のときの舞台よりもすっきりしている。松本幸四郎は舞台に立つと劇場を支配できる役者。
『ラ・マンチャの男』の戯曲というのか、脚本というのか、しっかりとした劇の構造をもつものであることを再認識した。
アルドンサの歌う「あの人はどうして~」という歌がいいな。前回から入った場面、ワルな荒くれ男たちの歌うフォークソングは清らかすぎて、やはりこの劇にはあわないと思う。ほかに違和感をもつものはなかった。
観終わってから長いあいだ晴れやかな気分だった。
Apr 19, 2008
土曜日
晴れ。洗濯をする。ジャンパー2着、クリーニングに出す。冬はおわった。
次に観る映画は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』にしようと思う。4月18日の毎日新聞夕刊の映画批評でその気になった。
毎週金曜日の毎日新聞・夕刊の「シネマの週末」で何本かの映画が紹介されるが、そのなかの勝田友巳記者の批評で観にいく映画を決めることがぼくは多い。ハズレもあるが当たりもある。
勝田友巳は観て、ストーリーを覚えることに特別な才能をもった記者だと思う。よくこれだけ映画批評のなかにストーリーを正確に書き込めるものだと何度も思った。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の勝田友巳の映画評の書き出しは、「石油と宗教はアメリカを支える柱の2本であり、」とある。これにそそられた。主演のダニエル・デイ・ルイスの演技が評判で、観たくなったのもある。
うちのりみさんがブログで宇多田ヒカルの『HEART STATION』のことを書いている。それでもう一度『HEART STATION』を聴いてみた。4回目くらいになるのか。1回目は全体像をつかもうと聴いたけれど、今回は何も考えずに聴いた。何も考えない方がよくはいってくる。いい感じではいってくるなと思っているうちに終わった。こういう聴き方がいちばんいいかもしれない。繰り返し聴いていると、聴き方がだんだん変わってくる。繰り返し聴く気にさせるのは宇多田ヒカルの音楽の力なんだと思う。
Apr 15, 2008
Apr 12, 2008
Apr 08, 2008
「ドラえもん のび太と緑の巨人伝」
ニンテンドーDSで「脳を鍛える大人のDSトレーニング」に替わってやっているのが「ドラえもん のび太と緑の巨人伝」。気分転換に最高。苦難の末第3ステージをクリアした。がんばるぞ。
Apr 04, 2008
「オール讀物」
「オール讀物」4月号を買う。藤沢周平の文庫本などには収録されていない初期の小説を読むため。「浮世絵師」。阿部達二の解説「失意と苦悩の中から」によれば昭和39年の1月に発表されたもの。葛飾北斎のことを書いている。「溟い海」に似ていると思ったが、原型といっていいのかどうかは分からない。藤沢周平の作品のもつ香りはまだ立ち上がっていない。
そして目次をみると3月号で終わったと思っていた松本幸四郎と松たか子の「父と娘の往復書簡」が載っていてびっくり。今月号で終わりだ。そういえば松たか子の手紙で始まったはずだから、松たか子の手紙で終わるのはへんだよな。最終回は松本幸四郎が書いていて、タイトルは「エピローグ」。
ほか五木寛之の小説「金沢ものがたり」を読む。
Apr 02, 2008
Mar 30, 2008
Mar 26, 2008
石川和広の「宇多田ヒカル論」
ぼくがいま注目している書き手の石川和広さんがブログに「血迷う思い出」として「宇多田ヒカル論」を書いています。ここでは石川和広さんにあてて書きながら、宇多田ヒカルのことも書いてみようと思います。
ぼくは誰でもが知っている宇多田ヒカルがテレビで「First Love」を歌っているのを見て「ああいい歌だな」と思ったことがあるくらいで、気になりだしたのは彼女が公式ウェブサイトに書きつづけている日記を読みだしてからです。今いちばん弾んでいるパソコン文章を書く人だと思いました。
初めて買った宇多田ヒカルのCDがアルバム『ULTRA BLUE』で、これが「出会い」でよかったと思っています。印象は強く、大人が聴ける歌手なんだなと思いました。
3曲めの「BLUE」はとくに印象が強く、何回もくりかえして聴きました。
はっきりいえば『HEART STATION』は『ULTRA BLUE』比べればもの足りない感じがする。しかし宇多田ヒカルにしてみれば半ば承知のうえだと考えます。宇多田ヒカルというアーティストにとってこの強弱は必要なんだろうと考える。
宇多田ヒカルが作りだす作品の特徴は「作品」と「私」が切れてしまっていないということだと思います。これが彼女の作家性というものを作っているんだと思う。
宇多田ヒカルの作家性というものを考えると『ULTRA BLUE』から『HEART STATION』に渡る強弱は次の展開を産むために必要なものだと思うんだ。また聴く者にとって『ULTRA BLUE』の暗さがつづくのは気持ちのうえできついということもあります。
石川さんに刺激されて、『HEART STATION』を聴いたとき感じたことを書いてみました。
石川さんの面白いところは「聖」と「俗」が別々のものとしてあるのではなく、聖のなかに俗があり、俗のなかに聖があると考えているところです。
ぼくなんかだと「聖」と「俗」は別々のものとしてあります。「聖」と「俗」を行き来するという考えはあるけれども、別れているものなんです。
石川さんの「聖」と「俗」に対する考えは面白いだけではなく、生きていくうえでの「大切な雑さ」を現実の局面で生みだす契機をもっているものだと思います。
詩・文学の状況には、あるいは実態には、失望したり、絶望することが多くあるけれども、真摯な人や作品に出会うと心底救われた気持ちになります。というわけでいつも楽しみに読んでいます。
Mar 25, 2008
Mar 22, 2008
「HEART STATION」
宇多田ヒカルの『HEART STATION』を聴く。前作『ULTRA BLUE』が暗なら、 『HEART STATION』は明。『ULTRA BLUE』は胸を衝かれたが、『HEART STATION』は全体として気楽に聴ける感じ(素の思いもでてくるが)。しかし悲しげなところのある人だな。
Mar 20, 2008
「週刊現代」
雨。柳美里の連載小説「オン エア」を読むために「週刊現代」を買っている。
「週刊現代」は立ち読みすることはあったが、買うのは初めてだ。書評が充実していることと、五木寛之が文章の達人であることがわかった。あと町山智浩の「アメリカで味噌汁」なんかが面白い。
Mar 18, 2008
Mar 16, 2008
Mar 12, 2008
花粉
朝起きた時、くしゃみを連発する。花粉の影響だと思う。くしゃみをするときの鼻からの噴出力というのはすごくて、ふだん排出することのない鼻腔内のゴミを排出していると考えてまちがいないはずだ。しかしくしゃみが続くのはつらい。まあむずかしいところです。
Mar 06, 2008
「東国」
金井裕美子さんからいただいた「東国」137号を読む。やはり詩はいいなあとおもう。静かな行分け詩が好きだ。小説ほど多くのひとに読まれることはないだろうが、それはそれでいいじゃないかとおもう。この表現の方法はきっと長くリレーされていくはずだ。
Mar 04, 2008
Feb 28, 2008
「父と娘の往復書簡」
「オール讀物」3月号で、松本幸四郎と松たか子の「父と娘の往復書簡」が終わった。2006年の5月号から始まったが、買ったのが2冊だけで、そのあいだずっと本屋で立ち読みしつづけてきた。本になったら買おうと思うが、毎月本屋で立ち読みするほどいい読み方はできないと思う。
娘の松たか子が父の松本幸四郎に手紙を書き、次の号で松本幸四郎が娘の松たか子にまた手紙を書くというかたちだった。
3月号の松たか子の手紙が最後になったが、このなかで結婚した相手のことを書いたところで感動した。たいした人だと思う。
長くつづいた往復書簡の文章そのものとしては松本幸四郎のほうが印象がつよくて、どの号かは忘れたが、松本幸四郎は日本でいちばん美しい文章を書くひとだと思ったことがある。
相手にあてた手紙を読んで、次の月にその返事を読むという立ち読みにじつに向いたものだったが、終わってしまった。ちょっとさみしい気持ちがする。
Feb 24, 2008
日曜日
晴れ。洗濯をする。風が強い。川上未映子の『わたくし率 イン 歯―、 または世界』を読んでいる。作家川上未映子の「助走」に位置する作品だと思う。
散文詩から小説へと渡っていくところをまのあたりにすることができる。これだけ読者に負荷をかけるものが売れているのは面白い。(ぼくが買ったのは第3刷)。
Feb 21, 2008
「アルゼンチンババア」(1)プラス(2)プラス(3)プラス(4)プラス(5)プラス(6)プラス(7)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
よしもとばななはタイトルをつけるのがうまい人だ。『アルゼンチンババア』というタイトルはインパクトがあって、印象的で興味をそそる。
「母親が死んだ時、私の平凡だった世界は消えた。」という一行で『アルゼンチンババア』は始まる。それを語る「ひとりっ子の私」が主人公だ。
アルゼンチンババアというのは同じ街のビルに住んでいるアルゼンチンからやってきた派手なおばさんのことだ。日本人なのかハーフなのかよくわからない女だ。母が死んだあと父親はこのアルゼンチンババアの住むビルへと引っ越してしまうのだ。
『哀しい予感』は父と母が死んだあとの物語だったが、『アルゼンチンババア』は母が死んだあとの物語だ。よしもとばななはこういう話を書きつづけているひとなんだろうか。読みすすめていると、どちらの小説からも甘いような胸の痛みが立ちのぼってくる。「終わったあとの話」だからだ。
よしもとばななの魅力は文体にあると思う。詩をかんじさせる文体だ。『アルゼンチンババア』にはあたたかいものが流れている。文体が、『哀しい予感』のときよりも切れと厚みがある。
父が住みこんでしまったアルゼンチンババアの住むアルゼンチンビルは異様な建物で、街から浮きあがってしまう廃屋のようなところなのだ。庭には「古代のソテツみたいなもの」、「柿の木」、「枯れたセイタカアワダチソウ」、「木みたいに幹が太くなったアロエ」などが植えられ、「バラ」も咲いていて、読んでいると色あざやかな童話の絵本をひらいていくような気になる。この境界を越えるとちがう世界にはいっていくのだ。
父は母が死んだあとの時間をこのアルゼンチンビルですごし、よみがえってくる力をもらっているようだ。「みつこ」も別世界のようなこの場所で、アルゼンチンババアと父と三人ですごす時間をもつうちに、母が死んだことの痛みをしっかりと感じとれるようになる。痛みをしっかりと感じることができるのなら、それが一番いいことなのだ。そうすることによって忘れることができ、次にすすむことができる。
アルゼンチンビルでアルゼンチンババアと父は愛しあい、理解しあう。「みつこ」も父という存在をあらためて見つめ直すのだ。アルゼンチンビルからは高い青い空が見えた。緑の世界が見わたせる。なつかしさに息がつまりそうになる日々が思い出せた。好きなだけ。
アルゼンチンババアはあっさりと死んでしまう。唐突のような気もするが、とにかく死んでしまうのだ。父とのあいだの子を産んだあと体調がもどらずに死んでしまうのだ。生命力の象徴のようなアルゼンチンババアがなぜやせた女なのだろうと思っていたが、これでわかった。丈夫な人ではなかったのだ。
そして父はアルゼンチンババア亡きあと「アルゼンチンジジイ」となって幼いわが子をそだてながらアルゼンチンビルに暮らしつづける。古く汚れていて暖かいアルゼンチンババアそのもののような場所で。
小説の終わりの「みつこ」とアルゼンチンババアの場面は読んでいるものをとおくまで引っ張っていく。じっさいに底のない高い空をみているような気になった。
この小説のみじかさには特別の意味はなかった。よしもとばななは短く書きたかったのだろうと思うしかない。
本のうしろにカバーの絵を描いている奈良美智の絵が15ページにわたって付いていた。付いていることにちょっと驚いたけど最初の四枚がこの小説のイメージにぴったりだと思う。
Feb 20, 2008
「アルゼンチンババア」(1)プラス(2)プラス(3)プラス(4)プラス(5)プラス(6)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
よしもとばななはタイトルをつけるのがうまい人だ。『アルゼンチンババア』というタイトルはインパクトがあって、印象的で興味をそそる。
「母親が死んだ時、私の平凡だった世界は消えた。」という一行で『アルゼンチンババア』は始まる。それを語る「ひとりっ子の私」が主人公だ。
アルゼンチンババアというのは同じ街のビルに住んでいるアルゼンチンからやってきた派手なおばさんのことだ。日本人なのかハーフなのかよくわからない女だ。母が死んだあと父親はこのアルゼンチンババアの住むビルへと引っ越してしまうのだ。
『哀しい予感』は父と母が死んだあとの物語だったが、『アルゼンチンババア』は母が死んだあとの物語だ。よしもとばななはこういう話を書きつづけているひとなんだろうか。読みすすめていると、どちらの小説からも甘いような胸の痛みが立ちのぼってくる。「終わったあとの話」だからだ。
よしもとばななの魅力は文体にあると思う。詩をかんじさせる文体だ。『アルゼンチンババア』にはあたたかいものが流れている。文体が、『哀しい予感』のときよりも切れと厚みがある。
父が住みこんでしまったアルゼンチンババアの住むアルゼンチンビルは異様な建物で、街から浮きあがってしまう廃屋のようなところなのだ。庭には「古代のソテツみたいなもの」、「柿の木」、「枯れたセイタカアワダチソウ」、「木みたいに幹が太くなったアロエ」などが植えられ、「バラ」も咲いていて、読んでいると色あざやかな童話の絵本をひらいていくような気になる。この境界を越えるとちがう世界にはいっていくのだ。
父は母が死んだあとの時間をこのアルゼンチンビルですごし、よみがえってくる力をもらっているようだ。「みつこ」も別世界のようなこの場所で、アルゼンチンババアと父と三人ですごす時間をもつうちに、母が死んだことの痛みをしっかりと感じとれるようになる。痛みをしっかりと感じることができるのなら、それが一番いいことなのだ。そうすることによって忘れることができ、次にすすむことができる。
アルゼンチンビルでアルゼンチンババアと父は愛しあい、理解しあう。「みつこ」も父という存在をあらためて見つめ直すのだ。アルゼンチンビルからは高い青い空が見えた。緑の世界が見わたせる。なつかしさに息がつまりそうになる日々が思い出せた。好きなだけ。
アルゼンチンババアはあっさりと死んでしまう。唐突のような気もするが、とにかく死んでしまうのだ。父とのあいだの子を産んだあと体調がもどらずに死んでしまうのだ。生命力の象徴のようなアルゼンチンババアがなぜやせた女なのだろうと思っていたが、これでわかった。丈夫な人ではなかったのだ。
Feb 19, 2008
「アルゼンチンババア」(1)プラス(2)プラス(3)プラス(4)プラス(5)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
よしもとばななはタイトルをつけるのがうまい人だ。『アルゼンチンババア』というタイトルはインパクトがあって、印象的で興味をそそる。
「母親が死んだ時、私の平凡だった世界は消えた。」という一行で『アルゼンチンババア』は始まる。それを語る「ひとりっ子の私」が主人公だ。
アルゼンチンババアというのは同じ街のビルに住んでいるアルゼンチンからやってきた派手なおばさんのことだ。日本人なのかハーフなのかよくわからない女だ。母が死んだあと父親はこのアルゼンチンババアの住むビルへと引っ越してしまうのだ。
『哀しい予感』は父と母が死んだあとの物語だったが、『アルゼンチンババア』は母が死んだあとの物語だ。よしもとばななはこういう話を書きつづけているひとなんだろうか。読みすすめていると、どちらの小説からも甘いような胸の痛みが立ちのぼってくる。「終わったあとの話」だからだ。
よしもとばななの魅力は文体にあると思う。詩をかんじさせる文体だ。『アルゼンチンババア』にはあたたかいものが流れている。文体が、『哀しい予感』のときよりも切れと厚みがある。
父が住みこんでしまったアルゼンチンババアの住むアルゼンチンビルは異様な建物で、街から浮きあがってしまう廃屋のようなところなのだ。庭には「古代のソテツみたいなもの」、「柿の木」、「枯れたセイタカアワダチソウ」、「木みたいに幹が太くなったアロエ」などが植えられ、「バラ」も咲いていて、読んでいると色あざやかな童話の絵本をひらいていくような気になる。この境界を越えるとちがう世界にはいっていくのだ。
父は母が死んだあとの時間をこのアルゼンチンビルですごし、よみがえってくる力をもらっているようだ。「みつこ」も別世界のようなこの場所で、アルゼンチンババアと父と三人ですごす時間をもつうちに、母が死んだことの痛みをしっかりと感じとれるようになる。痛みをしっかりと感じることができるのなら、それが一番いいことなのだ。そうすることによって忘れることができ、次にすすむことができる。
Feb 18, 2008
「アルゼンチンババア」(1)プラス(2)プラス(3)プラス(4)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
よしもとばななはタイトルをつけるのがうまい人だ。『アルゼンチンババア』というタイトルはインパクトがあって、印象的で興味をそそる。
「母親が死んだ時、私の平凡だった世界は消えた。」という一行で『アルゼンチンババア』は始まる。それを語る「ひとりっ子の私」が主人公だ。
アルゼンチンババアというのは同じ街のビルに住んでいるアルゼンチンからやってきた派手なおばさんのことだ。日本人なのかハーフなのかよくわからない女だ。母が死んだあと父親はこのアルゼンチンババアの住むビルへと引っ越してしまうのだ。
『哀しい予感』は父と母が死んだあとの物語だったが、『アルゼンチンババア』は母が死んだあとの物語だ。よしもとばななはこういう話を書きつづけているひとなんだろうか。読みすすめていると、どちらの小説からも甘いような胸の痛みが立ちのぼってくる。「終わったあとの話」だからだ。
よしもとばななの魅力は文体にあると思う。詩をかんじさせる文体だ。『アルゼンチンババア』にはあたたかいものが流れている。文体が、『哀しい予感』のときよりも切れと厚みがある。
父が住みこんでしまったアルゼンチンババアの住むアルゼンチンビルは異様な建物で、街から浮きあがってしまう廃屋のようなところなのだ。庭には「古代のソテツみたいなもの」、「柿の木」、「枯れたセイタカアワダチソウ」、「木みたいに幹が太くなったアロエ」などが植えられ、「バラ」も咲いていて、読んでいると色あざやかな童話の絵本をひらいていくような気になる。この境界を越えるとちがう世界にはいっていくのだ。
Feb 17, 2008
「アルゼンチンババア」(1)プラス(2)プラス(3)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
よしもとばななはタイトルをつけるのがうまい人だ。『アルゼンチンババア』というタイトルはインパクトがあって、印象的で興味をそそる。
「母親が死んだ時、私の平凡だった世界は消えた。」という一行で『アルゼンチンババア』は始まる。それを語る「ひとりっ子の私」が主人公だ。
アルゼンチンババアというのは同じ街のビルに住んでいるアルゼンチンからやってきた派手なおばさんのことだ。日本人なのかハーフなのかよくわからない女だ。母が死んだあと父親はこのアルゼンチンババアの住むビルへと引っ越してしまうのだ。
『哀しい予感』は父と母が死んだあとの物語だったが、『アルゼンチンババア』は母が死んだあとの物語だ。よしもとばななはこういう話を書きつづけているひとなんだろうか。読みすすめていると、どちらの小説からも甘いような胸の痛みが立ちのぼってくる。「終わったあとの話」だからだ。
よしもとばななの魅力は文体にあると思う。詩をかんじさせる文体だ。『アルゼンチンババア』にはあたたかいものが流れている。文体が、『哀しい予感』のときよりも切れと厚みがある。
Feb 16, 2008
「アルゼンチンババア」(1)プラス(2)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
よしもとばななはタイトルをつけるのがうまい人だ。『アルゼンチンババア』というタイトルはインパクトがあって、印象的で興味をそそる。
「母親が死んだ時、私の平凡だった世界は消えた。」という一行で『アルゼンチンババア』は始まる。それを語る「ひとりっ子の私」が主人公だ。
アルゼンチンババアというのは同じ街のビルに住んでいるアルゼンチンからやってきた派手なおばさんのことだ。日本人なのかハーフなのかよくわからない女だ。母が死んだあと父親はこのアルゼンチンババアの住むビルへと引っ越してしまうのだ。
Feb 15, 2008
「アルゼンチンババア」(1)
古本屋でよしもとばななの文庫本を二冊買った。『アルゼンチンババア』と『なんくるない』。『アルゼンチンババア』から読んでみようと思う。この短さに意味があるかもしれないと思うからだ。よしもとばななの公式サイトの著作本一覧の小説(単行本)のところをプリントアウトして調べてみる。単行本『アルゼンチンババア』は2002年に刊行されている。『なんくるない』は2004年に刊行された小説。『哀しい予感』は1988年に刊行されたものだ。まちがってはいけない。
Feb 13, 2008
「チャーリー・チャップリン」
岩崎昶(いわさき・あきら)の『チャーリー・チャップリン』をよむ。チャップリンの『自伝』をたたき台にし、映画を年代順においかけながらチャーリー・チャップリンというひとをよく引き出している。
1903年生まれとある岩崎昶という人をまったく知らなかった。映画評論家とあるので、長く映画評論をしていた人だと思うが気がつかなかった。
この本は古本屋で買った。本のあちこちにボールペンで線を引いているため120円となっていた。
尼崎市で古書店「街の草」をいとなむ加納成治さんが送ってくれた「COTO」(編集・発行安田有、センナヨウコ)15号をよむ。
加納成治の「浮浪」第3回。底辺のおとこたちの世界。浮浪する男と古本屋の店主。二段組みで3ページ。もうすこしまとめて加納成治の小説をよみたかった。元々はもっと多いページ数をとる原稿だったのではないかと推察する。
ほか築山登美夫の詩をひさしぶりに読んだ。「だから、だから、」「聖女よ、」二編書いている。
Feb 09, 2008
Feb 08, 2008
Feb 07, 2008
木曜日
『アルゼンチンババア』を読んでいて、不思議におもったのはアルゼンチンババアがやせた女性ということだ。この小説のなかでアルゼンチンババアのもつ生命力というのは大きな柱になっている。とすれば当然アルゼンチンババアは太めのからだであっていいと思う。しかし主人公の「みつこ」が抱きしめたアルゼンチンババアは「服の中には細い、骨張った体の感触があった。」とよしもとばななは書いている。アルゼンチンババアはやせた女なのだ。なぜだろう。よしもとばなながやせた女性にあこがれていて、それが無意識にでてしまったのだろうか。それともよしもとばななの母親がやせた女性でそれが投影されているのだろうか。まあ、よく読めばわかることかもしれない。Feb 06, 2008
水曜日
曇り。東京の最高予想温度は5℃。洗濯をする。
テレビでクリントン対オバマの民主党候補指名争いのニュースを見る。
ここのところ一番関心のあるニュースがクリントン対オバマで、テレビ、新聞、インターネットとこのニュースを追いかけている。リアルなゲームのようで、興味をそそる。
Feb 03, 2008
雪の日
朝起きると雪がつもっていた。新聞が未配達だったので、販売店に電話をして持ってきてもらう。寒いとからだも心もちぢんでしまうが、雪の日というのはまたからだが違う働きをするそうだ。からだにとって雪の日というのはわるい日というわけではないらしい。
Jan 30, 2008
ぼくの場所
長尾高弘さんが送ってくれた「tab」(倉田良成編集・発行)8号を読んでみた。後藤美和子、石川和広、長尾高弘、野村龍、鈴木夕迦莉、岩田英俊、倉田良成らの詩はほとんどが充実していて、一気によんだ。いまのぼくには石川和広、鈴木夕迦莉の関西系やわらか詩と長尾高弘の関東系やわらか詩がおもしろく読める。
そして評論をざっと読んでみて、ここにはぼくの居場所があると思った。「tab」に書きたいというのではない。ぼくはいま散文トレーニング中で、散文を書くことを試みようとしているのだ。ぼくの詩の書き方だとカラダをクリアな状態にしないと書けない。したがって仕事の終わったあとに詩を書くというのはなかなか難しいことになる。散文なら書けないということはないのだ。軽い感覚になれるということもあるが、カラダのつかれた状態でもパソコンに向かうことができる。
ぼくの居場所があると感じたのは、「tab」の評論をよんでいて、じぶんの嗜好をはっきりと感じたからだ。ぼくはいっさい難しい言葉をつかわずに、哲学的な引用をせずに評論を、批評を書きたいと思う。それはぼくにとってはっきりとした志向であり、「倫理」でもある。
書店や古本屋で、BOOK・OFFで買ったよしもとばななや柳美里の小説を読みながら、なんか感じたことを書いてみたいと思う。金をだして買った以上かならず読むのだから、なんか書くだろう。
いまは散文を書くことにせっかく興味をもったのだから、この衝動をあたためて、どういうものが書けるかみてみようといったところの散文初心者だけれど、今夜、書いてみようと決めた。
Jan 29, 2008
Jan 27, 2008
Jan 26, 2008
土曜日
曇り。チケットを買いに行く。歌舞伎座で松本幸四郎を観ようか、『ラ・マンチャの男』を観ようか迷ったが、『ラ・マンチャの男』にした。
「歌舞伎座で松本幸四郎を観たい」という衝動がじわっと強くなるまで待ったほうがいいと思った。そのほうが「出会い」になるし、「縁」になる。
前公演までの『ラ・マンチャの男』を観て思ったのは、アルドンサ役に限っていえば松たか子はまだ若すぎるということ。この役は30過ぎてからの役だと思っていたので、ちょうどいい。どんなアルドンサを観せてくれるだろう。
週刊現代の「オンエア」をよむ。柳美里の連載小説の第5回。面白そうだ。喫茶店で読める小説なら毎週350円はらっても惜しくない。
Jan 22, 2008
火曜日
今日は仕事。一日中曇りの寒い日だった。風呂にはいりながら、芥川賞を受賞した川上未映子さんが新聞の夕刊に書いているエッセイを読んだ。ちゃんとした書き手なんだなと思った。
早川義夫さんが自身のホームページで何度か川上未映子さんを紹介していて、そのたびに川上未映子さんのホームページに飛んで読んでみたのだが、パソコンの画面に横書きでめいっぱい文字が並んでいることもあって、読みにくかった。何回か読みに行ったが読みにくくて途中でやめてしまった。読みにくい文章を書くひとだな思っていた。
今日はじめて紙でタテに書いているものを読んだけれど、肺活量がおおきいというか、吐く息がながい文章を書く人で、勢いがあってカドがとれていない。若い書き手なのだ。
「芥川賞を受賞して」というタイトルのエッセイで、「気持」がちゃんと書けている。ほとんど「気持」だけを書いてひとつの文章になっている。たいしたもんだなあと思った。
文章の切り方と「・・・ました。」という言い方が魅力的。読みにくいという印象とちょうどテレビの昼の情報番組での受賞の報道を見ていて、話題になりそうだから受賞したのだろうか(そういうことも幾分かあってもいいとおもうけれど)とか思ったりしていたから、ちゃんとした書き手だとわかって風呂のなかでほっとしてうれしい気持ちになったのだ。
Jan 20, 2008
日曜日
曇り。洗濯をする。曇っているがときどき日が射す。
昼めしはナベにうどん、あらびきウィンナー、白菜、わかめ、たまねぎ、しらたき、卵をいれて煮る。
『アルゼンチンババア』をよむ。詩を書く。
喫茶店に行ってブコウスキーの『勝手に生きろ!』をよむ。
そのあと、これから古本屋、本屋と回ろうかというときに自転車のスタンドが外れる。元のように組み合わせてバネをつなごうとするが、バネがつなげないため、自転車屋さんにいく。スタンドは一度とれてしまうと、新しい物に代えるしかないとのことだった。他チェーンの調整などもしてもらう。15分くらいでやってくれた。3360円。
Jan 17, 2008
木曜日
晴れ。洗濯をする。郵便局へ行く。風がつよい。
喫茶店で文庫本の藤沢周平『周平独言』、チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(都甲幸治・訳)、吉本隆明『少年』を少しずつ読む。今日は『少年』がよかった。
ブコウスキーの小説は内容はあらっぽいが、基本的に陽性で喫茶店でよむのにいいと思ったんだが、今日はだめだった。
Jan 14, 2008
月曜日
成人の日。曇り。きょうは不燃ごみの日なので出しにいく。新聞の「新風舎、草思社破綻」の記事をよむ。藤原新也と荒川洋治の発言が載っている。
新風舎の破綻にかんしてはインターネットにいろいろ載っているのを教えてくれる人がいて読んでみた。
ぼくら詩人の出す詩集というのはほとんどが自費出版で、数百部というところだから、詩人どうしで送りあってだいたい終わりになる。普通のひとに、ふだん文学に接することのない人たちにどう読まれるかというのは、作品の生命線だから、書店に置くというのはしたいことだけれど、難しいみたいだね。
去年の10月に詩学社から「定期購読者各位」というはがきが送られてきて、代表者の寺西幹仁さんからの健康上の問題で詩学社を廃業するという通知だった。そして12月の初めに寺西さんが亡くなったというニュースが流れた。インターネットで調べてみたら病死していた。11月の下旬に亡くなったらしい。ぼくは「戦死」だと思った。痛ましくて考えこんでしまった。
というわけで今朝はいろいろ考えた。さて昼めしの準備をはじめるか。
Jan 13, 2008
日曜日
晴れ。風が強くてつめたい。洗濯をする。
よしもとばななの『アルゼンチンババア』を読みはじめる。会話の文は『哀しい予感』では「・・・だった。」としていたが、『アルゼンチンババア』では「・・・だった」と書いている。
吉祥寺のBOOK・OFFに行く。店内をまわっていて、文庫本より単行本のほうが安いことに気づく。文庫本は300円のが多く、単行本は105円だった。
文庫本は逢坂剛(おうさかごう)の『鵟の巣 (のすりのす)』、津本陽の『信長と信玄』、柳美里の『タイル』、よしもとばななの『ハチ公の最後の恋人』。単行本はよしもとばななの『SLY』『体は全部知っている』を買う。さがしている藤沢周平の『周平独言』はここにもなかった。
逢坂剛は、藤沢周平の小説を読みきった後、喫茶店で読む文庫本をさがしていることを弟が知って「これはどう。」と教えてくれた作家で、とにかく読みやすい。分厚い文庫本もあっというまに読み終わってしまう。
そのあとライブハウスでチケットを買う。ラーメン・チェーン店で中華そばと半チャーハンのセットを食べた。620円。
Jan 10, 2008
Jan 07, 2008
Jan 05, 2008
まだ正月
曇り。今日は新聞、雑誌、ダンボールなどのごみ出しの日なので、朝、目が覚めてすぐ出しに行く。朝は納豆ごはん。昼は豆もちを焼いて食べる。
2日に田舎の母の墓参りに行ったとき、村のほとんどの家の玄関に正月の飾り付けがないのにおどろく。古いしきたりから離れようという波がまだつづいているんだろうか。東京ではそういう波はもう終わっていると思う。