May 06, 2008
小松順子の絵
きのう、ギャラリー山口に小松順子さんの絵を観にいった。小松さんは詩人の福島敦子さんのリンクからみつけた人で、ブログを読んでいるうちに面白い人だなあと思うようになった。
小松さんの絵に関心をもつようになったのは、小松さんのホームページでその絵を見たことと、ブログを読むうちに、表現をする人間なら誰でも苦しむこと、つまり心と体に合わせて作品を作るのではなく、向こうにある作品に合わせた心と体をもとうとする、日常生活を営むうえできしみをもたらすこのことを、苦しみながらも、あきらめずにやってきた人のように思えたからだ。
銀座にあるビルの階段をおりると地下1階に小さな画廊があり、ほぼ正面奥に蓮(ハス)の大きめの絵がかかっている。9作品のうち7つが蓮の絵で、小松さんの画家としての個性が一番よくでているのが、正面奥のこの絵だ。
緑の蓮の葉が絵のほとんどを占めている。蓮の下の水も広がっている。一本だけピンクがかった蓮の花が立つ。この蓮の花は閉じているのだ。
植物のもつ生命力が観る者にせまってくるというのではない。絵にはじかれて入っていけないというのでもない。蓮の生命の静かなたたずまいがそこにある、という印象だ。
画廊を出て、近くのドトールコーヒーで、窓からみえる通りを歩く人たちをながめながら、小松さんの絵のことを考えた。はじかない、せまってもこないあの蓮の絵はなんだろう。それで小松さんがニューヨークで個展を開いたときのパンフレットをなんとなく見ていたら載っていた。
「“生と死”は私たち人間にとって永遠の謎です。/私は、生きることと死ぬことは、同じひとつの命のふたつの側面だと思っています。/このふたつを切り離すことはできません。」
小松さんが書いた文章の中のここのところで、あの蓮の絵が分かったと思った。
Mar 06, 2008
「東国」
金井裕美子さんからいただいた「東国」137号を読む。やはり詩はいいなあとおもう。静かな行分け詩が好きだ。小説ほど多くのひとに読まれることはないだろうが、それはそれでいいじゃないかとおもう。この表現の方法はきっと長くリレーされていくはずだ。