Mar 26, 2008

石川和広の「宇多田ヒカル論」

   ぼくがいま注目している書き手の石川和広さんがブログに「血迷う思い出」として「宇多田ヒカル論」を書いています。

 ここでは石川和広さんにあてて書きながら、宇多田ヒカルのことも書いてみようと思います。

 ぼくは誰でもが知っている宇多田ヒカルがテレビで「First Love」を歌っているのを見て「ああいい歌だな」と思ったことがあるくらいで、気になりだしたのは彼女が公式ウェブサイトに書きつづけている日記を読みだしてからです。今いちばん弾んでいるパソコン文章を書く人だと思いました。

 初めて買った宇多田ヒカルのCDがアルバム『ULTRA BLUE』で、これが「出会い」でよかったと思っています。印象は強く、大人が聴ける歌手なんだなと思いました。

 3曲めの「BLUE」はとくに印象が強く、何回もくりかえして聴きました。

 はっきりいえば『HEART STATION』は『ULTRA BLUE』比べればもの足りない感じがする。しかし宇多田ヒカルにしてみれば半ば承知のうえだと考えます。宇多田ヒカルというアーティストにとってこの強弱は必要なんだろうと考える。

 宇多田ヒカルが作りだす作品の特徴は「作品」と「私」が切れてしまっていないということだと思います。これが彼女の作家性というものを作っているんだと思う。

 宇多田ヒカルの作家性というものを考えると『ULTRA BLUE』から『HEART STATION』に渡る強弱は次の展開を産むために必要なものだと思うんだ。また聴く者にとって『ULTRA BLUE』の暗さがつづくのは気持ちのうえできついということもあります。

 石川さんに刺激されて、『HEART STATION』を聴いたとき感じたことを書いてみました。

 石川さんの面白いところは「聖」と「俗」が別々のものとしてあるのではなく、聖のなかに俗があり、俗のなかに聖があると考えているところです。

 ぼくなんかだと「聖」と「俗」は別々のものとしてあります。「聖」と「俗」を行き来するという考えはあるけれども、別れているものなんです。

 石川さんの「聖」と「俗」に対する考えは面白いだけではなく、生きていくうえでの「大切な雑さ」を現実の局面で生みだす契機をもっているものだと思います。

 詩・文学の状況には、あるいは実態には、失望したり、絶望することが多くあるけれども、真摯な人や作品に出会うと心底救われた気持ちになります。というわけでいつも楽しみに読んでいます。  
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