Jun 29, 2008

「体は全部知っている」(1)(2)(3)(4)(5)(6)。

 よしもとばななの『体は全部知っている』読みはじめる。2000年刊行の単行本。『哀しい予感』、『アルゼンチンババア』と読んできて、この本がよしもとばななの小説の三冊めになる。

 基本的に買った順に読もうと思う。それも何かの「縁」だと思うからだ。『体は全部知っている』を買ったのは、ある女性からのメールが動機のひとつになっている。

 ふつうブログに詩集の批評や感想を書いても、詩集の著者からのメールがくるくらいだが、よしもとばななの小説のことを書きだしたとき、ほとんど未知にちかい人からメールがきた。その人と何回かメールを交わしているうちに、その人がよしもとばななの自信作は『体は全部知っている』だと教えてくれたのだ。吉祥寺のブック・オフに本を買いに行ったとき、このことがアタマにあった。

 『体は全部知っている』は短編集。それもみじかいものが集まった短編集のようだから、一編を一気に読むのがよさそうだ。

 「ボート」は第2編めの小説。ぼくがこれまで読んできたよしもとばななの小説からすると、はじめて匂いのちがっている小説を読んだという気がする。あぶない母親がでてくるものの、誰も死なないし、「死」から物語が始まっていない。何よりも文章がすこしちがう。いままでよりも落ち着いている。文壇的な私小説ともいえる臭いがする。

 ノイローゼになった友人が治療のため催眠療法を受けることになる。「私」はつきそうが、はずみで「私」もそこで催眠療法を受けるはめになる。

 「私」は思い出す。生みの母との別れの記憶を。秘めて、長いあいだ闇に閉じ込めていた記憶を。ボートの浮かぶ夜の公園の生みの母と幼い「私」の別れの時間が開かれていく。

 「西日」はとくに短い一編。女と男の話。読む者に昂揚感をもたせるスピードをもつ。圧倒的なスピード感がある。「あとがき」に「いくつかの短編は私の作品の中でもいちばんうまく書けたほうだと思う。」とあり、これがその幾つかのなかの一編だろうと思った。

 よしもとばななの小説の何にひかれるのか、何にひかれてよしもとばななの小説に向かっているのかといえば、よしもとばななの文章のなかにある癒しのちからに惹かれて読んでいるように思う。読みながら癒されているのだ。この文章の力についてよしもとばななに聞けたとしたら、「つくったんです。技術です。」と答えそうな気がするが、天分だろうと思う。そして資質だろうと思う。

 「おやじの味」は後半の長めの小説。会社勤めの「私」は、付き合っていた男がほかの女に子をはらませたことを知る。落ちこんだ「私」は生きがいだった会社をやめる。世間というものへの糸が切れてしまう。そして母親と別居中の父がひとり暮らしている山小屋へと向かう。

 山は一つの世界だ。森がある、大きな闇と大きな木がある。毛虫が動く。草は植物はたくましく伸びて、人間に遠慮なんかしない。

 山小屋で暮らすうち「私」は夜を木を空気をじぶんの体を感じるようになる。感じることができるようになる。「私」は回復する。

 「回復していく私」がつめたい空気のなかで拡がっていくのがみえるようだ。よしもとばななは「窓」というコトバをよく使うけれども、「おやじの味」は、この短編集のなかでいちばん「窓」というコトバが響いてくる小説だ。

 全部で13編。すべて短い小説だった。「ミイラ」のように物語の内容としてはヘビーなものもあったが、その小説でも読後感はわるくない。読後感のよさが、すべての物語がもつ読後感のよさが『体は全部知っている』の特長だといえる。




                                                        【おわり】
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