この詩集は、先日、『石並べ』と一緒に送られてきた詩集で、『石並べ』から2年後の発行となっている。ホームページ上に掲載されて読んだような記憶があるが、読まなかったようにも思えて、今回、プリント詩集として送られてきて、初めて読んだと言う印象だ。『石並べ』の詩は悩んでいる気分が伝わってくる、ちょっと暗い感じだが、この『右向け右』にはやや自虐的にはあるが、自分のことを語る詩があったりして、広がりが出て明るく感じられる。そして、最近発行された『人類以外』に通じる道が見える。自分の感情を詩に託すのではなく、詩を書くことを楽しもうという道が始まる詩集といえるのかも知れない。
この詩集のプリント版もA4の用紙を縦に使って、36行3段組で7ポイントの小さな字で印刷されている。20篇の詩と後書きで構成されていて、詩について触れている詩が三つあり、特に「怪しげな封筒」と題された散文の作品には「反抒情詩宣言」という行分け詩が引用される形で書かれている。これは、『人類以外』の自分が「抒情詩を書いていることに気付かなかった」と述べている「抒情詩試論」という作品に通じる。それは、テーマ的に捉えれば、生活者としてどういう詩を書けばいいのかという問題を提起しているともいえる。
「怪しげな封筒」の中の「反抒情詩宣言」と題されたマニフェストには、
でも、優れている思いを語ろうとする限り、
自分よりも思いが優れていない人がいることを、
前提としなければなりません。
そういうのすごーくやなんだよねえ。
ですから、私たちは抒情詩とは関わらないことを、
ここに宣言いたします。
というところがある。詩集の最初に置かれた「秋という季節に」は、自分自身について述べている詩だが、
四十過ぎて、
妻子抱えて、
失業寸前だというのに、
詩なんか書いて、
馬鹿もいいところだよ。
と詩を書いている自分を否定して、「ただ何の取り得もないだけだということに気付いて、/何も書けなくなるはずだ」と居直って詩を終わらせている。
「優れた思い」もなく、「何の取り得もない」者はどういう詩を書けばいいのか、ということで、幾つか試みに書いた詩を収録したのがこの詩集といえるようだ。
詩集のタイトルのなっている「右向け右」という作品は、西の国と東の国の隊長が兵隊にそれぞれ「右向け右」と号令を掛けて、互いに撃ち合って、死ぬ者は死に、生き残る者は生き残るというという内容で、言葉を形式的に使って、右傾化する社会に対して傍観者の皮肉を語っている。また、「小学三年算数国語社会理科」という作品は試験問題の形式を取って、自己追求の矛先をはぐらかすものとなっている。生活意識にある疎外感の表明を、言葉を形式的に使うことで、距離を取って、その余裕を楽しむという詩のあり方が実現されているわけである。しかし、この詩集の最後に置かれた「飲酒習慣」は、睡眠薬を呑むより酒を飲んだ方がいいと、家での飲酒が習慣になったということを語る詩だが、病気や個人的な習慣を語るということで、「優れた思い」もなく、「何の取り得もない」者でも、個人としては固有な存在だという実存を語り出している。この詩集の最初の詩の言葉に戻ると。「馬鹿に磨きがかかって」「自分の馬鹿さ加減ににやけて」、ついに長尾高弘風に詩を書く楽しみを見つけたということだ。それが『人類以外』では独特のユーモアとして実現されているといえる。
先日、mixiの日記にPDF版の『人類以外』が出来た旨が書いてあって、ダウンロードして読んで、SNSの「なにぬねの?」の10月8日の日記にその感想を書いた。そうしたら、一昨日、長尾さんから『石並べ』と『右向け右』のプリント詩集が送られてきた。この二冊の詩集も長尾高弘さんのHPにHTML版とPDF版がリンクされている。
プリント版はA4の用紙を縦に使って、36行3段組で7ポイントの小さな字で印刷されている。先ず、『石並べ』を読んだが、老眼が進行しているわたしにはとても読みにくいように感じた。見たところ、製本された詩集になれているわたしには、詩集というよりデータ文書という印象だった。だが、読み始めると、詩の言葉の流れに乗ってどんどん先に行くことができた。そして、プレリュードと後書きと、収録されている19篇の詩を読み終えた。
プレリュードに出てくる「罰」と「浄化」という言葉から始まって、三年前に死んだ母が夢に出て来て息子の自分を認めてくれないことが書かれた詩、鳩の死についての詩、自殺を考えたことをアイロニカルに語る詩と続くので、人生半ばにさしかかった男の不安と苦悩が語られていると受け止めて、その気分をベースに読んでいくことになる。中程で宗教的な、また宇宙的なパラダイムが開かれた後、後半では、詩を書くことで苦悩を乗り越えて、日常意識というものの意味合いが別のものとして再見されて語られて終わる。
長尾さんの詩はエピソードが言葉の運びで組み立てられて語られるという仕方で展開するので、その組み立てられ方を問えば難解だが、言葉の運びには難解なところがないので、すらすらと読めるし、言葉の使い方にある種の権威を振り回すというところもないので、親しみを感じながら、そのエピソードを楽しめる。しかし、そのためにすらっと通り過ぎてしまう。なにか、驚かせて欲しいような、躓かせて欲しいような気もするのだった。
実は、この『空に咲く』は昨年の10月16日に五十嵐さんから手渡しで頂いたものだった。その後ずっと読もうとは思いながら、読まずに机の上の積み上げられた数十冊の本の中に挟まったままになっていた。先日、長田典子さんの『KO.KO.DAYS』2号に寄稿したわたしの詩についての感想が、五十嵐さんのmixiの日記に載っていた。わたしの詩を読んでくれたのに、彼女の詩集を読んでない自分に気が咎めて、お返しのような気持で読む気になって読んだのだった。
15篇の詩が三つのパートに分けて収められていた。詩集全体で若い女性の心の内が語られている、とは片づけられないところがあった。最初のパートでは、日常生活のシーンで出会った物事を切っ掛けに、心の内を語る言葉が出てくるのだが、その言葉が跳ね返ってくる物事の間に距離を置いて、その距離を埋める言葉を展開して、作者の世界が出来ている。地下鉄の出口で見た月、店に置かれた絵画の中のシーン、ショッピングセンターの地下で売っている鯛焼き、公園の見知らぬ男などなど。次のパートでは、地下鉄を乗り継いで会いに行く友達、夜の墓地の中で探す母親の幽霊といったように、愛情の対象との間に時間と空間と、更にそれを越えた超現実的な距離の設定となり、最後のパートでは、坂を転がるネーブルを追いかけるという身体を動かして積極的に行動する空間の設定となっている。そうした空間の設定で、そこに感じたり考えたり呟いたり心の深みを探ったり身体を躍動させたりする若い女性の姿が現れてくるように感じられた。
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