アーカイブ: 2007年11月

2007/11/30

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白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』評

一冊の詩集は何を語るか
一冊の詩集を何処まで読めるか
白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』評

                   鈴木志郎康

 今年の九月に白鳥信也さんから詩集『ウォーター、ウォーカー』を手渡された。八月にわたしは詩集を作るために、幾つかの詩を書くことに専念した。更にこの数年間に書いた詩に手を入れて書き直すという、これまでにやったことのない作業をやった。否応なしに詩の言葉に対する意識が動き出した。というわたしの事情に重なって、他人の詩も読んだ。その一冊が『ウォーター、ウォーカー』だった。そして、「なにぬねの?」というSNSにその読んだ詩を散文で紹介するということを始めて、『ウォーター、ウォーカー』の全部の詩を散文で辿る、つまり「詩を解題する」という作業を楽しんだ。そして、まあ、ついでに詩集を読むという演習のつもりで、『ウォーター、ウォーカー』を批評してみる気になった。それが、始めて見ると、「一冊の詩集は何を語るか 一冊の詩集を何処まで読めるか」というテーマになった。というのが、この「批評」です。
 詩集『ウォーター、ウォーカー』には、前半に「ウォーター」に当たる詩、つまり水に対する思いを語る詩が八編、後半に「ウォーカー」に当たる詩、つまり「歩く人」、というより現実の街にモチーフを持つ詩が八編、全部で十六編の詩が集められている。通読した印象では、作者である詩人の水に対する思いと現実での生活に対する意識の持ち方が語られていると受け止められる。詩人のその水に対する関心の持ち方には独自な感受性が働いていて、その感受性によって書かれた言葉が開く意味合いに詩人の内面があり、詩集の後半の現実の詩人が生活する場面を語るところに、その内面を持った一人の男の存在が現れてくる、と受け止めることが出来た。
 先ず、前半の詩を読んだところで、白鳥信也の内面は、水から感受した言葉によって表されていると言える。それは水のイメージではない。音を立て、形を変容させ、匂わせ、流れるという水の物質性を感覚で捉えた言葉だ。感覚で捉えた言葉が心に響き、それが比喩となって意味合いを生み、詩人はその言葉に感情ばかりでなく思惟を乗せる。水そのものが、言葉によって幻想化されているわけだ。
 詩集の最初に置かれた「あっ」という詩は、先ず詩人の水に対する親和感を語っている。降り出した雨を「雲からちぎれ落ちた/しずく」として頬で受け止め、その落下するリズムを「水語」として鼓膜で受け止め、水を身体で受け止め、全身ずぶ濡れになると、身体の中の水が呼応して、桃とか西瓜のような水に満ちたものになった気になり、やがて風が吹くと、水が身体から剥がれていく、というように、水と身体の関係が短い行で歯切れのよい言葉で語られている。
 この詩を読んだとき、そんなふうに水を捉えるのかと新鮮な印象を持った。人間の身体の中の水分は65パーセントから70パーセントだということで、人間は水がなくては生きていけない。「あっ」という詩には、その人間が雨の中で濡れて立つと、皮膚の外側の水と内側の水が共鳴して一体になるという自覚が語られているわけである。雨は自然現象だ。その自然現象と体内の水によって一体化する。つまり、雨という水滴に打たれることで、人間は自然と対立する存在ではなく、自然の一部として生きているという自覚が生まれている。そして、『ウォーター、ウォーカー』という詩集は、その自覚を全うしたいと思っても、社会生活を営む以上はそれがなかなか出来ない、つまり人間は自然から疎外されて生きなければならないわけで、その疎外感を意識化して言葉で語るところに詩が生まれてくる、その実践として成り立っているといえよう。
 前半の水に関する八つの詩は、水との一体感から生まれる様々な意識の有り様を語っていると受け止めること出来る。「血はダンスしている」という詩では、駐車場の車止めに置いたタイヤの中に溜まった水の中で泳ぐボウフラを見て、そのボウフラを自分や家族や近所の人や飼い犬や野良猫を刺して血を吸った蚊の子どもと仮定して、そこに人から蚊へ、蚊からボウフラへという「血液の旅」を空想し、「血液の交じり合い」を想像して、水が生命を繋いでいるという想念を引き出してくるのだ。
 「はっぷん」という詩は、水害にあった地区のテレビ中継を見ているうちに、その地上に溢れた大量の水に興奮させられて、雨粒として上空でひきちぎられた水が痛みを持って合流すると大きな力を発揮するのは、水が連帯しているからだと思い、その連帯に老人や赤ん坊など力のない者たちを巻き込んで、安閑として生活を営んでいる自分がいる居間を押し流していく、というイメージを生み出す想念が語られている。
 水は白鳥信也という詩人の想念に流れ込んで、心を掻き回す。しかし、想念に流れ込んだ水、つまり幻想化された水は、物質として身体の外側で身体を浸し、同時にそれに体内で呼応する水とは相容れない。詩人の心は流れ変容する水に引かれ掻き立てられる。その心の動きが言葉を生み詩となって展開する。「さらわれる」は、その幻想化された水と現実の水が相容れないところを語っている。「水町」は、身体を持って縦横に水路が走る町を歩き回り、水のダイナミズムに同化しようとする心が語られいる。そして、「最後の水カマキリ」では、現実の部屋で、自然のままに生きていた幼児の記憶の中に沈潜して、記憶の中の水棲の水カマキリに想念を託して、自然に生きる「うっとりした」状態を求めてみても、ただ溺れる身体的存在の自分のあり方が露わになって、水中で泡を吐くように言葉を吐き出すしかないということに終わる。
 ちなみに、「水カマキリ」をWebで調べたら、「カマキリに似た水棲の昆虫で、水田や池沼の水中に生息し、市街地近くの池沼でも観察されることがある。比較的現代環境に適応した種と言えるが、環境破壊によってその数を減らしているのに違いはない」と書かれていた。なるほど、白鳥信也の頭には環境破壊ということもあるのだと思った。「夕焼けを泳ぐ豆腐」によると、白鳥信也は地方都市の近郊に開発された住宅地で育ったようだから、少年の頃には近くにまだ自然が残っていたが、その後開発が進んで環境が変わってしまったことに対する思いがあり、単純には言えないが、詩人は自然と人工的な都市という二元的な意識を持っていて、都市で生活する者が水に対する親和感と水を幻想化した内面を持って生きてるという、その自覚から『ウォーター、ウォーカー』という詩集は成立したと考えることができよう。
 前半の最後に置かれた「微水」は、予算会議の席で、カレンダーを見て、花びらが散り敷き詰められた水に身体を浸すという空想に耽りながら、テーブルの上のコップの水に小さな泡が出来て、ちょっとした振動ではじけ蒸発して、水が減っていくのを見て、水を足したりしているシーンを語った詩だ。コップの中の水の僅かな蒸発を見詰める。心が水を求めて身体から離れて行く。思いの中で身体は砂のように乾いている。僅かな水の蒸発が気になる。生きものは水がなければ死ぬ。自分の命が刻一刻と死に近づいているように感じている、ということの比喩としての微水というわけであろう。ここには生活に紛らわされた危機感が語られている、と受け止められる。仕事が内面を枯渇させて行くというわけだ。
 さて、詩集の後半は、「ウォーカー」に当たる詩だが、ここではもっぱら生活者の意識のあり方が語られる。このパートに入っての最初の詩は「どんぐり」だ。東京の下高井戸の駅近くのマグドナルドの夕日が差し込むガラス扉の前に落ちていた一個のドングリを拾って、「どんぐりと言えば山猫」と宮沢賢治を思い出し、『ゆきゆきて、神軍』が上映されている映画館の前を通りすぎて「山猫珈琲店」に行って、「キューバ」というコーヒーを注文して飲む、という内容の作品。詩集前半の「ウォーター」の詩のパセティックに想念を語り出す作品とは違って、固有名を出して、どこを歩いているかを分からせて、語りの面白さで読ませようと書かれている。しかし、その語りの歩行には、マクドナルドの裏側にアメリカ資本、「どんぐりと言えば山猫」の裏側には宮沢賢治、映画館で上映されている「天皇を撃とうとした男」とうのは奥崎謙三、そして若い白鳥信也の血を沸かせたのかも知れない「キューバ」のチェ・ゲバラと、勝手に辿ってみると、理想主義に憧れる青春の図柄が見えてくるような気もする。それは詩集の前半に出て来た、引きちぎられた雨滴の痛み、合流が生み出す力、水の連帯といった言葉がここに呼応して来るようにも思える。詩人の心の中には疼くものがあって、それが詩人に街を歩かせたり、詩の行を先に進めたりさせるのであろう。
 詩集の二番目に置かれた「ひびわれることがある」という作品は、詩人の記憶と現在の構造が語られていると読むことができる。自転車で通勤する現在の詩人、その彼の内面には記憶が暗渠の水のように流れている。詩人は、暗渠にはくろぐろと水が流れているらしい、と想像する。今、詩人は、その暗渠の上に出来た並木のある道に通勤で自転車を走らせていて、交叉点で通り過ぎる自動車を前に「あわててブレーキハンドルをおもいきりにぎる」、すると「リズムがこわれて」、「棒立ちになったコトバを抱えた私の残像が押し入ってくる」、そして「時間がひびわれている」の感じ、重い足で自転車を漕いでいくというのが、この詩の内容で、暗渠に流れる水と、その上の道路をリズミカルに走る自分と、自分の中の流れる時間がコトバとなって堆積している、という自分の存在の構造が語られている。「棒立ちになったコトバを抱えた私の残像が押し入ってくる」「時間がひびわれている」、この比喩を敢えて単純に言い換えてしまえば、生きて、生活して、詩を書いているということになる。そのことを自覚しているというところで、「ブレーキハンドルをおもいきりにふぃる」に支点を置いて、もう一つ言い換えると、生きているだけではなく、生活しているだけでもなく、詩を書いているだけでもない、それを超えた自分が立ち現れるというわけだ。つまり、主体意識の有り様が問題になるということだ。
 「ウォーカー」に当たるパート2の詩にはパート1の詩と違って地名や建物の名称などの固有名が使われている。しかし、その固有名は勤め先付近のものと記憶の中のことに限られている。ということは、詩人が生きている現実として語る場面は、勤め先と記憶の中のことであり、詩人に取っては、そこで主体意識が問題になるということだ。実際、この詩集の中で勤め先とその周辺を扱った詩は、四つあり、その一つの「微水」では、直面している職場での会議に身を入れることができないで、水の蒸発に意識を集中するといった紛らわされた危機感が語られ、また「魚が飛んでいる」では、職場で予算計画書類を作っていて、仕事に嫌気がさしてきたところで、窓の外を見ると巨大だビニールの魚が空中を飛んでいくのを見て、自分も空を自由に飛んでみたいと思い、職場から飛び立つのを想像すると、鎖に繋がれている、で、その自分を噛みきり、実体のない風のような存在になって飛んでいくという内容であって、いわば一種の自由への願望が語られている。「ブラインドを開けると」では、暗い会議室のブラインドを開けると、遠い空に大きな鳥が翼を広げて風を掴んで飛んでいるの見える、窓の近くで風に乗ろうとしているカラスがいる、それを見て自分も飛ばなくてはと思いが湧いてくる、ということで、主体意識を生きようとするささやかな決意が語られる。そして「僕はコウモリの鳴き声を聞いたことがない」では、勤めの帰途、当てもなく多摩川の土手に行き、座って缶コーヒーを飲んでいると、頭上にコウモリが飛んできて、そのコウモリに導かれるように、河川敷の雑草の原に迷い込み、日も沈み暗くなってコウモリも見えなくなるが、コウモリが聞き取れない声を交わしているのを察する、ということで、ここに語られている詩人の行動は、都市に残された自然の原野に敢えて迷い込み、その無秩序な広がりの中に身を置いて、波立つ川面を前に、頬を風に叩かれながら、自分が本来的に生きる道筋は見えないが、歩こうと思い、頼りにできる聞こえない声の存在を確認したということになっている。ここには「家からも/職場から/夕焼けからも遠ざかって」、独り河口に近い河川敷に立つ、ヒロイックな男の姿がある。詩の終わりの方にある「歩こう、叩かれても」という一行の「歩こう」は、自分の主体意識を生きる決意と受け止めることができよう。
 主体意識を言葉を書くということに置いて、現実へのアプローチとして、試みに街を歩き、そこに何かを求めながら見つけることのできない不安定な自分の姿を語ったのが「芝浦を歩く」という詩だが、歩きを語るとそこに言葉の時間が生まれてくる。また「パンを買いに行く」という詩では、焼きたてのパンを買いに行って、遭遇した火事から炎のイメージを得て、肌を暖める炎、新聞紙を燃やして暖を取っていた孤老や流しで花火をしていた女性を思い出し、炎で焼かれた暖かいパンを抱えて帰ったことを語る。この詩では事件が言葉を呼び寄せている。事件は、記憶を呼び覚まして物語を生む発端となる。空間の移動と事柄の生起を言葉にすると、そこにある時間が言葉の運びとなって、「語り」となる。「ウォーカー」の白鳥信也の詩は、主体意識の問題を現実の自分の職場と自分の意識内容とかみ合わせて、「ウァーカー」としての自分を「語る」ことで成立しているいえる。
 そして、詩人は「僕はコウモリの鳴き声を聞いたことがない」を書いて、聞こえない声という存在に行き当たった。それは創作を促す声と受け止めることが出来る。実は、パート2の最後の二編「しっそうする蒲田」と「夕焼けを泳ぐ豆腐」は、パート3として別に分けるべきだったと思う。この二編には、言葉で作られた実体としての、つまり創作された「物語」がある。特に「しっそうする蒲田」は、一つの街が失踪するという現実にはあり得ない事件を作者は体験として語っていて、詩としては、詩人の蒲田の街に寄せる愛着を滲ませた言葉の展開で成立させている。つまり、虚構の物語を作りながら、詩人は物語でないものにしている。しかし、言葉だけで事件を起せるという「聞こえない声」を聞いてしまったのだ。詩人は、「しっそうする蒲田」と「夕焼けを泳ぐ豆腐」の二編の詩では、言葉で虚構という実体を創造して、同時にそこで言葉を生きている。虚構というのは、そのことが現実に起こったか起こらなかったかにかかわらず、さも実際に起こったかのように言葉ででっちあげられて、人から人へ手渡されていくことだ。その手渡されていくというところで、虚構は実体化する。そして価値を生んで取引の対象にもなる。ところで、詩は言葉で書かかれるが、でっち上げられるのではなく、書き手がその言葉を生きた実録なのだ。つまり、ここで白鳥信也は、言葉で話をでっち上げながら、その言葉を生きているわけである。この二編で語られていることは、「水という自然と同調する自分」のことではなく、また「内心の矛盾を抱えて生活している自分」のことでもない。確かに「自分の心情」は語られているが、それは「失踪した蒲田」や「豆腐屋の鈴木さんの箱の中の豆腐」をでっちあげることによって間接的に語られているのだ。言い換えれば、作り話を心情を語る比喩として使っているというわけだ。
 では、実際に「しっそうする蒲田」という詩に当たって、そこに使われている言葉に意味合いを見て行くことする。先ず、第一連では、詩人が、蒲田のユザワヤに額を買いに行こうと、隣の大森駅から電車に乗ると、呑川を越えたところで、蒲田の先の多摩川の鉄橋を渡って川崎駅に着いてしまう。川崎駅から逆に大森に向かっても、多摩川を渡りきったところで大森近くになって大森に着いてしまう。大森駅では「蒲田駅が現在 確認できておりません」とうろたえた声でアナウンスされている。実は、この第一連の言葉をよく読むと、「額を買いに電車に乗った」のが誰か書かれていない。詩人がこの詩の内容を全て自分の体験として語っているわけだ。現実の蒲田が失踪したことはないから、詩人は嘘をついていることになる。あからさまな嘘で、嘘をつかなければならない心情を滲ませる。つまり、事件を比喩にしている。次の第二連では、蒲田は何処に行ったのかと思案していると、かすれた声で「驚かせてすまないが、わたしはカマタだ。旅に出ることにした。追いかけないでほしい」という電話が掛かってきて、詩人は信じたい気になる。蒲田がカマタ氏に擬人化される。この擬人化によって、詩人は蒲田という街を自分に取って身近なものに引き寄せてみせる。第三連になると、その蒲田にある飲食店や遊興施設やそこで働き生活する外国人の女性や町工場の老人など、また街に漂う匂いなど、固有な名前を揚げ、細かい描写で連呼して呼びかける。詩人の蒲田に寄せる愛情が滲み出てくる。この辺りに、この詩が書かれた眼目があるように思われる。多分、そこに出てくる鳥万とか升屋とか河童亭とかパチンコ弘城とかつぶれた蒲田茶房とかグランドキャバレー金時とかは詩人が通ったか行ったことのある、または行ってみたいと思っている飲食店や遊興施設であろう。また、「日本語のたどたどしい若い女性たち」とか、「ピンクの鬘にマントを羽織って細いタイツを履いた新聞配達」とか、「グリスのてらてら光る作業服を着た老人たち」とか、更に「焼鳥屋の煙」、「夕暮れに漂う甘い焼き肉のたれの匂い」とか、それはまさに蒲田という街の生きた姿といえよう。その街の姿を言葉で呼びかけて甦らせるために、詩人は街を失踪させたというわけだ。
 しかし、詩人は街を失踪させてしまったのだから、それに決着をつけなければならない。第四連では、詩人は嘘の地盤を固めるように、蒲田の失踪を既成の事実にして、JR東日本が冷たくダイヤ改正をして蒲田を無いものとしたように語り、その上で、その蒲田が大音響の蒲田行進曲と共に「岩手の北上山地の集団離村地区」や「四国のお遍路コースからはずれた村」に現れたという噂が流れ、マスコミが押し寄せると消えてしまうというのだ。蒲田が日本経済の発展から落ちこぼれた地区と並べられる。詩人は蒲田に対して愛着を持ているばかりでなく、支持したい気持も持っているというわけだ。第五連では、更に詩人の嘘は大きくなって、グランドキャバレー金時で働いていたロシア人女性たちの手引きで、ロシアの産油で沸き立つ街の近くに現れたとか、果ては噂でメキシコに現れたとかということになる。そして、第六連では、嘘に嘘を重ねて気持を盛り上げたところで、「逃げる蒲田/さまよえる蒲田/ここではないどこか/失踪する蒲田/・・・・・/かまたカマタ/かまたか/また」
と蒲田を連呼し絶叫して終わる。詩人は、蒲田という街に対する愛着をベースにして、虚構を作ることで次々に言葉を繰り出して、その言葉で気分を盛り上げることが出来た。
 「夕焼けを泳ぐ豆腐」は、豆腐にまつわる記憶を話として語った作品だ。アンチョビを豆腐に乗せて口にれたときの口当たりから、詩人が幼い頃に、鍋を持って買いに走らされた自転車で荷台の木箱に豆腐を入れて売りに来ていた鈴木という豆腐屋の、その木箱の中で踊っている豆腐と夕焼けの記憶を語って、詩人が人生半ばに達した感慨を感傷を交えた詩として成立させている。豆腐屋の鈴木さんがトラックにはねられて死んでしまったということは実際に起こったことであろうが、鈴木さんがラッパを吹いて売り歩く姿や事故当時の豆腐が「ぐじゃらぐじゃら」に潰れる様は、言葉で虚構として作られているわけで、その言葉が感情を盛り上げて、感傷的な感慨を深める比喩の働きをしている。
 以上、『ウォーター、ウォーカー』の全体を読んで、日常的には自然に触れる機会の少ない都市生活者である中年の男性が、詩を書くことによって、自分の自然と同調したい願望を幻想化して、それを内面の中核にして言葉で語ることで、自らをその言葉の主体として確立して、日常生活における主体性の葛藤を語り、その語りから虚構の創造を得て、読者の前に自分を語り手として登場させるに至ったということが理解された。
 虚構を語って読者の前に自分を登場させた白鳥信也は、言葉への欲求を持続させれば、時には自分の思いを直接語ることがあっても、次々に新たな虚構を語り続けるということになるのだろう。しかし、自然体験を持っている白鳥信也は、自分が観察した自然の姿を虚構の素材として、また虚構の構造として「物語」を創造することによって、詩人として独自な存在を獲得することになるのではないと予測される。

2007/11/07

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白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』の詩の解題

 2007年の10月20日と21日に『ウォーター、ウォーカー』を読んで、その詩の中にのめり込んで行くような気持になった。特に、後半の「下高井戸駅前」という地名が出てくる詩を読んで、その詩に書かれている場所を地図で調べてみる、というようにしてのめり込んでしまった。そういうように、詩と現実を照らし合わせているうちに、詩の言葉を別の言葉で辿るようになり、更に一遍一遍の詩を散文で書くようになり、それをSNS「なにぬねの?」のわたしの「日記」の10月24日から11月6日まで掲載した。それをここにまとめてみた。
 ここに書かれているのは、詩を読んだわたしの言葉だから、白鳥さんの詩の言葉を辿っているが、それとは別のものと言えよう。しかし、一つ一つの詩を読んで、散文として筋を通すという作業は、スリリングで面白かった。また、書いて行くうちに白鳥信也という詩人が見えてくるような錯覚に陥っていくような気になってくるのも面白かった。詩にコミュニケイトするという意味合いで、言葉に実現した彼の主観と、言葉にしようとするわたしの主観が交錯するゲームをやっているという面白さだ。しかしこの面白さは、書いているわたしだけのものという気がする。もしこの文章を読んで、『ウォーター、ウォーカー』を読んでみようと思う人が現れれば、いくらか白鳥さんのために役立てるということになる。

{パート1}
「あっ」という詩
 白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』の最初の詩は「あっ」というタイトルの詩だ、

あっ
あめ
ほほが
水滴を感じる
雲からちぎれ落ちた
しずく
衣類からはみでたヒフに
しずくる

と書き出されている。「しずくる」という単語は広辞苑にはなかった。雨の降り始めが書かれている。その後に「水語の空間が広がっている/だから いま このカラダ/このヒフは/水打ち際となる」と続いて、「汀の言の葉しずくる」という行が来る。
 いい感じだ。雨滴が言葉になって、身体の水分がの言葉に応じて、果実のような存在になって、びしょ濡れになって、風が吹いてきて、水が身体から剥がれていく。という詩だ。
 雨に降られて水と同化するというのが新鮮な印象だった。

「ひびわれることがある」という詩
 白鳥信也の『ウォーター、ウォーカー』のパート1に戻って、一つ一つ読み返して行くことにする。(詩を散文で辿るという作業は、「あっ」と「微水」を書いて、パート2に飛んで、再びパート1に戻ったとおいうこと。)「ひびわれることがある」というタイトルのこの詩は、2 番目に置かれている。この詩集には初出一覧がないので、詩が書かれた順に配置されているのか、詩集全体として構成されているの分からないが、パート1に水にモチーフを求めた詩を集め、パート2に街の中を移動するもしくは話が展開する詩を集めているので、構成しているものと推測する。
 「あっ」は雨の詩、次のこの詩は暗渠を流れる水を頭に置いて、職場を目指して地上を自転車で走るが、あるところで元気を失うという詩だ。「あっ」の盛り上がる気分とは対照的な気分。木々の下を秋風を身体に受けて走ると、「身体もときどき風の川に浮かぶ」。交叉点で急ブレーキを掛けると、「棒立ちになったコトバを抱えた私の残像が押し入ってくる」。四月に公園の水のない川を歩いたとき、人差し指でクモの巣を破ったことを思い出す。「私を流れる時間がひびわれている」と意識する。地下の水路のどこかにうずくまっている時間。ペダルを漕ぐ足が重くなる。風の下に潜る。下を向いて咲いているラッパのような大きな花を見てしまう。
 暗渠を流れる水を想像し、自分の時間の流れと重ね、その時間が半年前に壊れたという。詩人の生活に何かコトバが棒立ちになるようなことがあった。水が内面の在処の譬喩に使われている。

「血はダンスしている」という詩
 駐車場に車止めのために置いたタイヤの中に溜まっている。今し方、車をバックさせてぶつけたタイヤの水が揺れている。「水の表面がピクピクする/生きている水だ」。湧いたボウフラがキスするように連なって泳いでいるのを見つける。「ボウフラのダンスか」と、詩人は思い、その思念が動き出す。この夏はよく蚊に刺されたが、吸われた自分の血が蚊を生かし、ボウフラを生み、そのボウフラがダンスする、つまり、自分の血がボウフラの形になりダンスしている。「血液の旅」と言える。私の血を吸った蚊は子どもの血を吸い、妻の血を吸い、池上さんの血を吸い、犬の血を吸い、野良猫の血を吸い、血は混ざり合い、ボウフラを増やし、タイヤの溜まり水では足らなくなり、沢山の湖が必要になる、「無数の水面のダンス/無数の水面のキス/無数の血液の交じり合い」と思っていると、「ほっぺたがざわつく」、パシンと叩いて蚊を殺す。「生きている水はかゆいな」と思わず呟く。
 水と蚊と血液を血で繋がる関係の連鎖として結んで、生命力を感じさせる言葉の展開を実現した奇抜な着想が面白い。

「はっぷん」という詩
白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』の4番目の詩。
 台風によって一晩で1000ミリの雨が降った翌日、詩人は部屋で女性レポーターが水害にあった地区を中継しているテレビの画面を見ている。テレビの音量にあわせて、テーブルの上の昨夜呑んだ水割りの残りの水が、コップごと揺れているのを見て、「こいつら/コップのなかでざわめいている/発憤する水だ」と思う。そして詩人はテレビに向かって「はっぷんするみず」とがらがら声で叫ぶ。部屋の空気が動いた気がする。「それからアルコールの残った頭で/水の連帯について考える」。水は、地上では入れ物の形をしているが、上空ではちぎられた存在になっている。引きちぎられて「痛みなんてあるのか」、「頭がちくちくしてきた/あちこちにひそむ水が共鳴している」、と詩人の感性が動く。詩人は、昨夜の豪雨のことを思い、「ちぎれた痛み」を思い、「走って合流」する水を思い、水の勢いに気持を乗せて、避難している老人たちも、赤ん坊も合流して行け、と気持を高ぶらせて、テーブルのコップの水を一気に飲み干す。体内を流れる水が「水は俺のなかを いや俺を走る」という認識をもたらす、その水の合流に引き込まれそうになるが、発憤した気持が自分が発した音声の「はっぷん」で冷めて、現実の自分にひきちぎられた痛みが残る、というところで詩は終わる。
 詩人は部屋の中にいて、大量の水の流れを見ているわけではないが、雨粒が集まって濁流となる現象を頭の中で辿るうちに興奮してくる。共鳴して、集まって、力が出る。その元になるのが、引きちぎられた痛みだ、というところに、詩人が「連帯」ということを思う気持ちが出ているようだ。このタイトルと最後から二行目の仮名書きの「はっぷん」は意味合いは「発憤」ということなのだろうが、発音としては、「はっ」で上がって、「ぷん」では尻つぼみに下がるのが適切なのではないかと思う。

「さらわれる」という詩
『ウォーター、ウォーカー』の5番目の詩。
 川の水辺で、光をはね返している水に、誘われた気持で水に触れると、「水は私をさらってゆく/私はそのままで/そのままの私をおきざりにして/水は私をさらってゆく」。さらわれた私は陶然とした表情で流れにさらわれて行き、置き去りされた私は自分が二つに分かれたままだということを何度も考える。その時の気持は「哀しい」というものなのか。ここまでの第一連で、水に触れて、自分が分離するということが語られる。
 第二連では、記憶と自分の存在のあり方が語られる。小さく渦巻く水が記憶を解きほぐす匂いを立ち上がらせ、自分の身体の水がその匂いに呼び覚まされて動き出すのを感じる。そして、詩人の思念が動き、肉体が滅んでも、自分の水は水として流れの水と溶け合って、流れの先にいるわけだ、と認識する。そうすると、「私の身体の輪郭が薄くなってゆくのがわかる」。川の水面を人差し指でさわると、水の勢いを感じ、「私から私がはがれてゆく/何度も何度も私がさらわれてゆく/(何度も何度もおきざりにされる私がいる)」。
 さて、川の水から指を抜いて口に入れて舌でねぶると、口の中に唾が湧き出て、それを飲み込む。唾に水分が胃に流れ、その水分に私はさらわれて、「私の中に私がさらわれてゆく」、ということで、私は裏がえされる。
 水にさらわれる私と残される私の分離という仕方で、私という存在が二元論的に語られている。そして、身体の中にも水分はあるわけだから、そこに心がさらわれると、私は裏返るという。さらわれる私が残された私を裏返すとはどういうことなのだろうか。

「水町」という詩
 前の「さらわれる」の後に来る詩だ。どこにある町だかわからないが、堀割が縦横に走り、海に向かう水門が閉じられ、溢れた水が音を立てて落ちている、そういう町の中を、「よじれた細い肩掛けカバンを背負」って、歩き回り、また朝になって底の浅い舟で上流に向かって進んで行った時に、その時目の止まって印象に残った物や事柄を綴ったというように詩の言葉は展開している。しかし、詩集の後半のパート2の詩では地名や固有名が書かれているのに、この詩では書かれていないということを一応頭に置いて読んだ方がいいように思う。
 「開いた本の中から/風がそよぎ出し/ミズスマシが音もなく円形の文字で出迎える」という書き出しは、多分水のある町の案内本を読んで行ってみたということを示唆していると同時に、ここに「本ー詩人側」と「ミズスマシー水町側」の二つの言葉の系列が展開することを暗示している思える。
 詩人は本を読んで水町のことを知り、肩掛けカバンを背負って歩き回り、翌朝、舟に乗って水門まで行った見た。その水の町には堀割が縦横に走り、水門は閉ざされいて水かさが増し、反射する光が顔に反映し、泥の付いた格子縞のナマコ壁は水没間近に思えた。水草が帯状に生えた側溝は、幅が広く道路を片隅に追いやった感じで、町をゆく人は無言に約束を忘れたような顔で歩いている。ハグロトンボが堀を次々に渡ってゆき、入り組んだ堀割の傍に建っている家々は、せりだした瓦屋根のせいで薄い眠りを眠っているような印象だ。翌朝、底の浅い舟の乗って堀割を上流に向かって進むと、身体を打つ空気の束が水に溶けているように感じて、水に手を入れると、手のひらをおしつつむように水が巻いて、詩人は嘗て読んだ詩の「水夫よ」という呼びかけの言葉を耳するような気がする。その言葉を飲み込むと、川幅がさあっとひろがって、川霧が揺れて水鳴りがして、水門がぎしぎしと悲鳴を上げているように聞こえた。水の急な流れをイメージさせるように盛り上げて詩を終わらせている。
 水の在処を求めて歩き回る自分を「私が水にさらされ/水に背負わされている」というように比喩を使った表現をしているところから見ると、詩人は自分の「水町行」を全体的に心情の譬喩として表現して、そこに「真の自己」の在処を求めているように思える。

「最後の水カマキリ」という詩
 幼い頃の水カマキリの記憶を元に思い入れを書いた6連92行の長い詩だ。先ず、水カマキリを知らなかったので、Webで調べた。「ミズカマキリ - Wikipedia」
 カマキリに似た水棲の昆虫で「体長40-50mm。水田や池沼の水中に生息する。昼間でも頻繁に飛ぶ。これは生息範囲を広げるのに有効で、市街地近くの池沼でも観察されることがある。近い仲間のタガメやコオイムシが個体数を激減させているのに対して、比較的現代環境に適応した種と言えるが、環境破壊によってその数を減らしているのに違いはない。形態からも想像できるように肉食性で、他の昆虫や小魚、オタマジャクシなどを餌とする」。この説明の「環境破壊によってその数を減らしているのに違いはない」というところが、「最後の水カマキリ」のモティーフになっていると思われる。
 第一連で、詩人自身が生まれた町が子どもの頃の記憶を元に語られる。木造住宅が建ち並び、道路は舗装されれないから、雨が降ると水たまりが出来て、青空が映り、アメンボが泳ぐ。屈み込んでランドセルの中身をぶちまけた記憶。用水路の取水口が近くにあって、「土をえぐった用水路のゆるい流れの底/たくさんのゲンゴロウブナがすばしこく泳いでいる」。
 第二連は、現在の詩人の位置を示す。食卓の上に子どもが開いたままにした自然探検図鑑を目にして、流れる水べりへ思いが移って行く。
 第三連では、その思いの中で、詩人は「水カマキリと出くわす」。そして子どものころ、学校帰りに「野セリでおおわれた堀割で」、ゲンゴロウブナを取ろうとして、水カマキリが網に掛かって何度も捨てたことや、ゲンゴロウブナが水カマキリに血を吸われて死んでいくのを見たのを思い出す。「ななめの傷が入ったランドセル放り出して」とあり、また「血がしゅるしゅると吸われる/うっとり死んでゆくゲンゴロウブナ」とあるから、詩人は小学生のとき、心に傷を受けるようなことがあったのかと思われる。
 第四連では、詩人は堀割の中にいる水カマキリに変身している。しかし、記憶の堀割ではなく、「どこにでもあってもうどこにもない その日」なのだ。「ゲンゴロウブナも/鬼ヤンマのヤゴも/青々とした野ゼリも/水カマキリも」「いない」、水カマキリに変身した詩人は、水の匂いも色もさわり心地も違った、「違う水がからだにまとわりついている」のを感じる。ただ水の音だけが響いている。
 第五連は、詩人が変身した水カマキリが、自分では知らないが、最後の水カマキリだったことが告げられる。
「だばだばどぼどぼといなくなる
 なくなるなくなるなくなくなる」
 第六連では、詩人は思いから抜け出て、再び食卓の上の図鑑にある水カマキリがゲンゴロウブナを捕まえている写真に視線を戻す。詩人は、その写真の中のゲンゴロウブナの苦しみはこの本が消滅するまで続くのだ、と思う。そう思ったとき、耳に残っていた水の響きから大量の水が落下するイメージが出現して、詩人はその水べりに立って、口に霧が入ってきて苦しくなる。水べりでうっとりしたいのに出来ない。再び水底の水カマキリになっていて、何も見つけられず、吐く息が大きな泡になって、ねっとりした水面で割れて、詩人自身が子どもの時の記憶に細部が分からないのに気がついたとき、食卓上に水が流れ始めて、床に向かって滝となって落下する。部屋に水面が波打ち広がって行き
「その水のなかで何か動くものが見える
 うっとりしたい気持が泡になりはじめている」
ということで、この詩は終わる。「うっとりしたい気持」の「うっとり」は、第三連の最後の行の「うっとり死んでゆくゲンゴロウブナ」の「うっとり」と通底して、この詩のキーワードのなってる。それは、言ってみれば、命が全うして心と身体が一体となっている状態ということだろう。それを言葉を使ってイメージとして描き出しても、瞬く間に消えてしまう、というわけだ。

「微水」という詩
 白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』の、水の関するし詩を集めたパート1の8番目の最後の詩は「微水」というタイトルで、作者は予算会議の席にいて、カレンダーの桜が散る写真から、自分の湖に浸した身体に花びらが貼り付くのを想像して、自分が机の脇に置いたコップの水が減っていくのに気がついて、水をつぎ足す、その自分は、「わたしを私自身がつなぎとめることのできない/そんな時間が砂となって堆積して/息苦しくなると」、電車に乗って水辺に行って歩き、水の臭いに身体を浸して自分を取り戻すようなことをする人間だ、という内容の詩だ。
 会議中にあらぬ心で水に潤う自分を想像して、コップの水が微量に減って行くのを見詰めている男である詩人の存在が語られている。自分を取り戻すということが、水と同化するという意識にあるという、その自意識の持ち方に興味が湧く。「水」が心と対置されると譬喩になるが、身体と対置されて水そのものなっている。

[パート2]
「どんぐり」という詩
 詩集『ウォーター、ウォーカー』のパート2の最初に置かれた詩。パート2は「ウォーカー」に当たる「空間の移動」を主題にしている。
 下高井戸の駅前で、女性が自転車を引き出したところに自分の自転車を不法駐輪させて、夕日が路面に流れる商店街を行くと、マクドナルドの店の前に落ちていた1個のどんぐりを拾って、宮沢賢治の童話が頭にひらめき、「どんぐりと言えば山猫だ」と口に出していい、原一男監督作品の『ゆきゆきて、神軍』と思われる映画が上映されている下高井戸シネマの前を通って、幾らか乗りの気分で山猫珈琲店へ行き、一言「キューバ」と言って、キューバコーヒーを注文する。どんぐりを出されたコーヒーの皿に置く。作者は下高井戸から明大前の方に京王線に沿って歩く。山猫珈琲店は明大前から7分。
 「キューバコーヒー」はWebで調べたら、次のよう書かれていた。
******
 キューバ島の東部をカリブ海に沿って縦走する、キューバ最大のシエラ・マエストラ山脈。ここが「シエラ・マエストラ」コーヒーの故郷です。キューバの最高峰、トゥルキーノ山(海抜1974メートル)はシエラ・マエストラ山脈の西端に位置しています。1748年、キューバで最初のコーヒー栽培がこの地でおこなわれました。シエラ・マエストラ山脈はキューバコーヒーのルーツでもあるのです。
 カリブ海の恵まれた気候のもと、豊かな大地にしっかり根をはって成長したコーヒーの樹々。真っ赤に完熟した実だけを使って丁寧に作られた「シエラ・マエストラ」コーヒー。酸味と苦味と甘味がバランスよく調和した、マイルドでさわやかな味わいをお楽しみください。

「魚が飛んでいる」という詩
 初夏の風の強い日に職場の窓を開けると、書類が飛ばされ、それを拾いながら、窓の外を見ると、空気でふくらんだ一匹のビニールの魚が、線路や電線やマンションを越えて、「青空の中を飛んでいる」。あんな風に飛んでみたいと思って、風に乗ろうとすると細い鎖で尾びれが床に繋がれている。「俺は俺をかみ切ろう/俺を切り裂いて/俺から噴き出すのは俺にくるまれていたもの/俺にくるまれていたものは見えないけれど/勢いよく窓から飛び出して」、上空の向こうの方に行く。くるまれていたものは風だったのだろうか、と思い、我に返り手に汗をかいて仕事に戻る。職場と、自由を求める内面が対比されている。その内面が風という空気の動きとされているところに興味が引かれる。

「芝浦を歩く」という詩
 白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』のパート2の三つ目の詩。
 芝浦の運河の沿って、降ったり止んだりするこぬか雨の中、歩く。3階のベランダで歯を磨く男、水面に映って形を揺らすマンション、二人しか乗っていない第16三幸丸、二羽の黒い鳥、遠くの自動車の音、と歩いて行くうちに出会ったものが記述されるが、水面に自分の姿が映っていないかと見ると、水面に漂う掌の形の葉を見つけて、「風は僕のからだにもうすくはりつく」、一羽の鳥の旋回、
水面はこぬか雨で細かな傷がついていくように見える。そして最後に、
「風をふりほどいて
漂っていこう
言葉がのどもとにこみ上げてくる
言葉が葉っぱのかたちに
発熱してくるのを感じる
後から飛んだ一羽の鳥に向かってでも
漂ったままの一枚の掌状の葉に向かってでもいい
とにかく力強い言葉で水面に浮かばせたい、と思った」
と書かれて終わる。

「パンを買いに行く」という詩
 冬、冷たい空気の中、自転車を走らせてパンを買いに行く。その途中、サイレンを鳴らして走っていく消防自動車に出会い、キャンプで燃やした炎を思い浮かべる。「燃え上がる炎と熱せられた空気/そのあいだに手のひらを差し入れて/炎にさわりたい、そう思った」という。それから、アパートの一室で新聞紙を燃やして暖を取っていた老人が、数日後に訪れたら、「サロンパスをノドにつまらせて/死んでいた」のを思い出し、一緒に暮らしていたひとが流しで線香花火をしていたのを思い出し、買い求めたあたたかい二本のフランスパンを抱いて、「表面の裂け目は少し焦げている」から、「炎につつまれていたのだ」と思う。帰りの道は消防自動車とパトカーでごった返していた。
 普通、フランスパンはオーブンで焼くから「炎につつまれる」ということはないようだが、作者は敢えて「表面の裂け目は少し焦げている」から炎を持ち出したのだろう。

「ブラインドを開けると」という詩
 「魚が飛んでいる」と同様に、空を飛ぶものの詩だが、やはり職場を扱った詩で、こちらは薄暗い会議室のブラインドを開けると、青空に飛行機雲がのびて行き、遠く富士山が見える。窓から見えるカラスやスズメが飛んでいる多摩川清掃工場の近く情景が語られ、翼の大きな鳥が日赤大森病院の裏から現れて、悠然と風に乗って、鋭い爪で風を「むんずとつかまえ」て飛んで、池上本門寺の五重塔の背後に消えたということ。詩人は、風を掴む大きな翼の鳥の姿に息苦しい気分になって、会議の準備をしながら「おれもこれからはばたかなくてはならない」と思う。
 固有名が出てくるので、わたしは読みながら地図でその場所をいろいろと考えてみたが。詩人の現実の居場所を考えるのはスリルがある。

「僕はコウモリの鳴き声を聞いたことがない」という詩
 仕事の帰り、川が見たいと思い、家とは逆方向のバスに乗って多摩川大橋で降りて、暗くなるまで草が生い茂る河川敷を歩いたことが書かれている詩だ。先ず、堤防の草原で缶コーヒーを飲み、空き缶で蟻と戯れ、プルトップを取って空に投げると、夕焼けの空にコウモリが飛んでくる。それから河川敷を歩き始める。「家からも/職場からも/夕焼けからも遠ざかって」行く。ポケットの中の何かをかをなくした感じ、ホームレスの人たちのブルーシートの住まい、草を踏み分けて進む、空は暗くなって、コウモリは見えないが、聞き取れない声を交わしている。
 秩序のある生活と街の空間から河川敷という無秩序の空間に入って行く。その無秩序ということに、デタラメのように飛ぶコウモリの聞こえない声を持ち出したところが面白い。

「しっそうする蒲田」という詩
 JR京浜東北線の蒲田駅が近所の商店街や飲食店やパチンコ店やキャバレーなどと共に無くなって、東北や四国、又はロシアに出没すというミステリーを作って、詩人の蒲田の街に寄せる愛着が語られている詩だ。
 詩人が、蒲田のユザワヤに額を買いに行こうと、隣の大森駅から電車乗ると、呑川を越えたところで、蒲田の先の多摩川の鉄橋を渡って川崎駅に着いてしまう。川崎駅から逆に大森に向かっても、多摩川を渡りきったところで大森近くになって大森に着いてしまう。大森駅では「蒲田駅が現在 確認できておりません」とうろたえた声でアナウンスされている。というのがこの詩の第一連。
 第2連では、詩人の携帯電話に、カマタからかすれた年配の男性の声で「旅に出ることにした、追いかけないでほしい」と掛かってくる。
 「失踪する蒲田/でもどこへ/ユザワヤも」と始まる第3連は、詩人の行きつけらしい飲食店や喫茶店やキャバレーなどが、固有名で呼びかけられる。思いが込められた呼びかけで詩人の生活の一端が感じられる。
 第4連は、蒲田が失踪して一ヶ月後のJR京浜東北線のダイヤも改正された頃、「岩手の北上山地の集団離村地区に」、また「四国のお遍路コースからはずれた村に」、大音響の蒲田行進曲と共に蒲田が現れて消えたという噂が流れ、マスコミが追いかけたと語られる。
 第5連は、蒲田がロシアの産油で湧き立つ新興の街のそばに現れて、旅行会社がツアーを組もうとしたら消えたと語られ、第6連で
 「逃げる蒲田
 さまよえる蒲田
 ここではないどこか
 失踪する蒲田
 疾走する蒲田
 ・・・・・・・・
 ・・・・・・・・
 かまたカマタ
 かまたか
 また」
と思いを込めた呼びかけで終わる。
 土地が旅をするという奇抜な着想で、詩人自身の日常生活の濃密さと、濃密なだけにそこから自分を消してしまいたいという願望を、逆説的に街を消すことで、強く語り出したと言えるようにも読める。

「夕焼けを泳ぐ豆腐」という詩
 作者は、豆腐の上にアンチョビを乗せて食べるのが好きだ。その味わいの中に、幼い頃豆腐を買っていた自転車で来る豆腐売りの鈴木さんの記憶が潜んでいて、アンチョビを乗せた豆腐を食べると、豆腐売りの箱の中で泳いでいた豆腐と夕日のイメージが重なって、事故で亡くなった鈴木さんを思い、崩れた豆腐を思い、自分が生きているという自覚が生まれてくると語られた詩だ。
 第一連は、海で取れたカタクチイワシのアンチョビと畑で獲れた大豆で出来た豆腐を重ねて口に入れると「大地と海がゆるやかにひろがってゆく」と、大きく構えて、アンチョビも豆腐も詩人の脳髄の中で泳ぎ始めるが、その豆腐は夕焼けのなかを泳ぐというのだ。詩人の豆腐好きの背景を語るエピソードのプレリュードになっている。
 第二連は、詩人が子ども頃、住んでいた新興の住宅地に、自転車の荷台に木製の箱を乗せて、ラッパを吹いて豆腐を売りに来ていた無精ひげの鈴木さんという豆腐屋のことが語られる。そのころ、鍋を持って豆腐を買いに走らされたという。その鍋に鈴木さんが大きな手ですくって入れてくれた豆腐から、荷台の箱の中で揺れる豆腐を思い、その揺れと夕日のイメージが詩人の頭の残っているという。
 第三連は、その鈴木さんがトラックに跳ねられて死んでしまい、土に埋められたと語られる。
 第四連では、その事故の時に、豆腐が箱から投げ出されて、夕日の中、ガードレールにぶつかって「ぐじゃらぐじゃら」になり、夕闇に消えてしまったという事故現場の様子が感情を込めて語られる。
 第五連は、「くもりガラスに顔をくっつけると」、豆腐屋の黒いひげと木箱の中の豆腐を思い出し、
 「水を切ってとびきりしょっぱいアンチョビをのせて
 ひといきに食べる
 豆腐とアンチョビと僕は
 夕焼けの空の中を泳ぎはじめる」
と、しょっぱい記憶と揺らぐ生命感を思い起こさせてくれるアンチョビと豆腐のエピソードを締めくくる。

白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』2007年9月1日発行
発行所:七月堂 (東京都世田谷区松原2-26-6)

南波止場1番地

南波止場1番地の鈴木志郎康の家

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