一冊の詩集は何を語るか
一冊の詩集を何処まで読めるか
白鳥信也詩集『ウォーター、ウォーカー』評
鈴木志郎康
今年の九月に白鳥信也さんから詩集『ウォーター、ウォーカー』を手渡された。八月にわたしは詩集を作るために、幾つかの詩を書くことに専念した。更にこの数年間に書いた詩に手を入れて書き直すという、これまでにやったことのない作業をやった。否応なしに詩の言葉に対する意識が動き出した。というわたしの事情に重なって、他人の詩も読んだ。その一冊が『ウォーター、ウォーカー』だった。そして、「なにぬねの?」というSNSにその読んだ詩を散文で紹介するということを始めて、『ウォーター、ウォーカー』の全部の詩を散文で辿る、つまり「詩を解題する」という作業を楽しんだ。そして、まあ、ついでに詩集を読むという演習のつもりで、『ウォーター、ウォーカー』を批評してみる気になった。それが、始めて見ると、「一冊の詩集は何を語るか 一冊の詩集を何処まで読めるか」というテーマになった。というのが、この「批評」です。
詩集『ウォーター、ウォーカー』には、前半に「ウォーター」に当たる詩、つまり水に対する思いを語る詩が八編、後半に「ウォーカー」に当たる詩、つまり「歩く人」、というより現実の街にモチーフを持つ詩が八編、全部で十六編の詩が集められている。通読した印象では、作者である詩人の水に対する思いと現実での生活に対する意識の持ち方が語られていると受け止められる。詩人のその水に対する関心の持ち方には独自な感受性が働いていて、その感受性によって書かれた言葉が開く意味合いに詩人の内面があり、詩集の後半の現実の詩人が生活する場面を語るところに、その内面を持った一人の男の存在が現れてくる、と受け止めることが出来た。
先ず、前半の詩を読んだところで、白鳥信也の内面は、水から感受した言葉によって表されていると言える。それは水のイメージではない。音を立て、形を変容させ、匂わせ、流れるという水の物質性を感覚で捉えた言葉だ。感覚で捉えた言葉が心に響き、それが比喩となって意味合いを生み、詩人はその言葉に感情ばかりでなく思惟を乗せる。水そのものが、言葉によって幻想化されているわけだ。
詩集の最初に置かれた「あっ」という詩は、先ず詩人の水に対する親和感を語っている。降り出した雨を「雲からちぎれ落ちた/しずく」として頬で受け止め、その落下するリズムを「水語」として鼓膜で受け止め、水を身体で受け止め、全身ずぶ濡れになると、身体の中の水が呼応して、桃とか西瓜のような水に満ちたものになった気になり、やがて風が吹くと、水が身体から剥がれていく、というように、水と身体の関係が短い行で歯切れのよい言葉で語られている。
この詩を読んだとき、そんなふうに水を捉えるのかと新鮮な印象を持った。人間の身体の中の水分は65パーセントから70パーセントだということで、人間は水がなくては生きていけない。「あっ」という詩には、その人間が雨の中で濡れて立つと、皮膚の外側の水と内側の水が共鳴して一体になるという自覚が語られているわけである。雨は自然現象だ。その自然現象と体内の水によって一体化する。つまり、雨という水滴に打たれることで、人間は自然と対立する存在ではなく、自然の一部として生きているという自覚が生まれている。そして、『ウォーター、ウォーカー』という詩集は、その自覚を全うしたいと思っても、社会生活を営む以上はそれがなかなか出来ない、つまり人間は自然から疎外されて生きなければならないわけで、その疎外感を意識化して言葉で語るところに詩が生まれてくる、その実践として成り立っているといえよう。
前半の水に関する八つの詩は、水との一体感から生まれる様々な意識の有り様を語っていると受け止めること出来る。「血はダンスしている」という詩では、駐車場の車止めに置いたタイヤの中に溜まった水の中で泳ぐボウフラを見て、そのボウフラを自分や家族や近所の人や飼い犬や野良猫を刺して血を吸った蚊の子どもと仮定して、そこに人から蚊へ、蚊からボウフラへという「血液の旅」を空想し、「血液の交じり合い」を想像して、水が生命を繋いでいるという想念を引き出してくるのだ。
「はっぷん」という詩は、水害にあった地区のテレビ中継を見ているうちに、その地上に溢れた大量の水に興奮させられて、雨粒として上空でひきちぎられた水が痛みを持って合流すると大きな力を発揮するのは、水が連帯しているからだと思い、その連帯に老人や赤ん坊など力のない者たちを巻き込んで、安閑として生活を営んでいる自分がいる居間を押し流していく、というイメージを生み出す想念が語られている。
水は白鳥信也という詩人の想念に流れ込んで、心を掻き回す。しかし、想念に流れ込んだ水、つまり幻想化された水は、物質として身体の外側で身体を浸し、同時にそれに体内で呼応する水とは相容れない。詩人の心は流れ変容する水に引かれ掻き立てられる。その心の動きが言葉を生み詩となって展開する。「さらわれる」は、その幻想化された水と現実の水が相容れないところを語っている。「水町」は、身体を持って縦横に水路が走る町を歩き回り、水のダイナミズムに同化しようとする心が語られいる。そして、「最後の水カマキリ」では、現実の部屋で、自然のままに生きていた幼児の記憶の中に沈潜して、記憶の中の水棲の水カマキリに想念を託して、自然に生きる「うっとりした」状態を求めてみても、ただ溺れる身体的存在の自分のあり方が露わになって、水中で泡を吐くように言葉を吐き出すしかないということに終わる。
ちなみに、「水カマキリ」をWebで調べたら、「カマキリに似た水棲の昆虫で、水田や池沼の水中に生息し、市街地近くの池沼でも観察されることがある。比較的現代環境に適応した種と言えるが、環境破壊によってその数を減らしているのに違いはない」と書かれていた。なるほど、白鳥信也の頭には環境破壊ということもあるのだと思った。「夕焼けを泳ぐ豆腐」によると、白鳥信也は地方都市の近郊に開発された住宅地で育ったようだから、少年の頃には近くにまだ自然が残っていたが、その後開発が進んで環境が変わってしまったことに対する思いがあり、単純には言えないが、詩人は自然と人工的な都市という二元的な意識を持っていて、都市で生活する者が水に対する親和感と水を幻想化した内面を持って生きてるという、その自覚から『ウォーター、ウォーカー』という詩集は成立したと考えることができよう。
前半の最後に置かれた「微水」は、予算会議の席で、カレンダーを見て、花びらが散り敷き詰められた水に身体を浸すという空想に耽りながら、テーブルの上のコップの水に小さな泡が出来て、ちょっとした振動ではじけ蒸発して、水が減っていくのを見て、水を足したりしているシーンを語った詩だ。コップの中の水の僅かな蒸発を見詰める。心が水を求めて身体から離れて行く。思いの中で身体は砂のように乾いている。僅かな水の蒸発が気になる。生きものは水がなければ死ぬ。自分の命が刻一刻と死に近づいているように感じている、ということの比喩としての微水というわけであろう。ここには生活に紛らわされた危機感が語られている、と受け止められる。仕事が内面を枯渇させて行くというわけだ。
さて、詩集の後半は、「ウォーカー」に当たる詩だが、ここではもっぱら生活者の意識のあり方が語られる。このパートに入っての最初の詩は「どんぐり」だ。東京の下高井戸の駅近くのマグドナルドの夕日が差し込むガラス扉の前に落ちていた一個のドングリを拾って、「どんぐりと言えば山猫」と宮沢賢治を思い出し、『ゆきゆきて、神軍』が上映されている映画館の前を通りすぎて「山猫珈琲店」に行って、「キューバ」というコーヒーを注文して飲む、という内容の作品。詩集前半の「ウォーター」の詩のパセティックに想念を語り出す作品とは違って、固有名を出して、どこを歩いているかを分からせて、語りの面白さで読ませようと書かれている。しかし、その語りの歩行には、マクドナルドの裏側にアメリカ資本、「どんぐりと言えば山猫」の裏側には宮沢賢治、映画館で上映されている「天皇を撃とうとした男」とうのは奥崎謙三、そして若い白鳥信也の血を沸かせたのかも知れない「キューバ」のチェ・ゲバラと、勝手に辿ってみると、理想主義に憧れる青春の図柄が見えてくるような気もする。それは詩集の前半に出て来た、引きちぎられた雨滴の痛み、合流が生み出す力、水の連帯といった言葉がここに呼応して来るようにも思える。詩人の心の中には疼くものがあって、それが詩人に街を歩かせたり、詩の行を先に進めたりさせるのであろう。
詩集の二番目に置かれた「ひびわれることがある」という作品は、詩人の記憶と現在の構造が語られていると読むことができる。自転車で通勤する現在の詩人、その彼の内面には記憶が暗渠の水のように流れている。詩人は、暗渠にはくろぐろと水が流れているらしい、と想像する。今、詩人は、その暗渠の上に出来た並木のある道に通勤で自転車を走らせていて、交叉点で通り過ぎる自動車を前に「あわててブレーキハンドルをおもいきりにぎる」、すると「リズムがこわれて」、「棒立ちになったコトバを抱えた私の残像が押し入ってくる」、そして「時間がひびわれている」の感じ、重い足で自転車を漕いでいくというのが、この詩の内容で、暗渠に流れる水と、その上の道路をリズミカルに走る自分と、自分の中の流れる時間がコトバとなって堆積している、という自分の存在の構造が語られている。「棒立ちになったコトバを抱えた私の残像が押し入ってくる」「時間がひびわれている」、この比喩を敢えて単純に言い換えてしまえば、生きて、生活して、詩を書いているということになる。そのことを自覚しているというところで、「ブレーキハンドルをおもいきりにふぃる」に支点を置いて、もう一つ言い換えると、生きているだけではなく、生活しているだけでもなく、詩を書いているだけでもない、それを超えた自分が立ち現れるというわけだ。つまり、主体意識の有り様が問題になるということだ。
「ウォーカー」に当たるパート2の詩にはパート1の詩と違って地名や建物の名称などの固有名が使われている。しかし、その固有名は勤め先付近のものと記憶の中のことに限られている。ということは、詩人が生きている現実として語る場面は、勤め先と記憶の中のことであり、詩人に取っては、そこで主体意識が問題になるということだ。実際、この詩集の中で勤め先とその周辺を扱った詩は、四つあり、その一つの「微水」では、直面している職場での会議に身を入れることができないで、水の蒸発に意識を集中するといった紛らわされた危機感が語られ、また「魚が飛んでいる」では、職場で予算計画書類を作っていて、仕事に嫌気がさしてきたところで、窓の外を見ると巨大だビニールの魚が空中を飛んでいくのを見て、自分も空を自由に飛んでみたいと思い、職場から飛び立つのを想像すると、鎖に繋がれている、で、その自分を噛みきり、実体のない風のような存在になって飛んでいくという内容であって、いわば一種の自由への願望が語られている。「ブラインドを開けると」では、暗い会議室のブラインドを開けると、遠い空に大きな鳥が翼を広げて風を掴んで飛んでいるの見える、窓の近くで風に乗ろうとしているカラスがいる、それを見て自分も飛ばなくてはと思いが湧いてくる、ということで、主体意識を生きようとするささやかな決意が語られる。そして「僕はコウモリの鳴き声を聞いたことがない」では、勤めの帰途、当てもなく多摩川の土手に行き、座って缶コーヒーを飲んでいると、頭上にコウモリが飛んできて、そのコウモリに導かれるように、河川敷の雑草の原に迷い込み、日も沈み暗くなってコウモリも見えなくなるが、コウモリが聞き取れない声を交わしているのを察する、ということで、ここに語られている詩人の行動は、都市に残された自然の原野に敢えて迷い込み、その無秩序な広がりの中に身を置いて、波立つ川面を前に、頬を風に叩かれながら、自分が本来的に生きる道筋は見えないが、歩こうと思い、頼りにできる聞こえない声の存在を確認したということになっている。ここには「家からも/職場から/夕焼けからも遠ざかって」、独り河口に近い河川敷に立つ、ヒロイックな男の姿がある。詩の終わりの方にある「歩こう、叩かれても」という一行の「歩こう」は、自分の主体意識を生きる決意と受け止めることができよう。
主体意識を言葉を書くということに置いて、現実へのアプローチとして、試みに街を歩き、そこに何かを求めながら見つけることのできない不安定な自分の姿を語ったのが「芝浦を歩く」という詩だが、歩きを語るとそこに言葉の時間が生まれてくる。また「パンを買いに行く」という詩では、焼きたてのパンを買いに行って、遭遇した火事から炎のイメージを得て、肌を暖める炎、新聞紙を燃やして暖を取っていた孤老や流しで花火をしていた女性を思い出し、炎で焼かれた暖かいパンを抱えて帰ったことを語る。この詩では事件が言葉を呼び寄せている。事件は、記憶を呼び覚まして物語を生む発端となる。空間の移動と事柄の生起を言葉にすると、そこにある時間が言葉の運びとなって、「語り」となる。「ウォーカー」の白鳥信也の詩は、主体意識の問題を現実の自分の職場と自分の意識内容とかみ合わせて、「ウァーカー」としての自分を「語る」ことで成立しているいえる。
そして、詩人は「僕はコウモリの鳴き声を聞いたことがない」を書いて、聞こえない声という存在に行き当たった。それは創作を促す声と受け止めることが出来る。実は、パート2の最後の二編「しっそうする蒲田」と「夕焼けを泳ぐ豆腐」は、パート3として別に分けるべきだったと思う。この二編には、言葉で作られた実体としての、つまり創作された「物語」がある。特に「しっそうする蒲田」は、一つの街が失踪するという現実にはあり得ない事件を作者は体験として語っていて、詩としては、詩人の蒲田の街に寄せる愛着を滲ませた言葉の展開で成立させている。つまり、虚構の物語を作りながら、詩人は物語でないものにしている。しかし、言葉だけで事件を起せるという「聞こえない声」を聞いてしまったのだ。詩人は、「しっそうする蒲田」と「夕焼けを泳ぐ豆腐」の二編の詩では、言葉で虚構という実体を創造して、同時にそこで言葉を生きている。虚構というのは、そのことが現実に起こったか起こらなかったかにかかわらず、さも実際に起こったかのように言葉ででっちあげられて、人から人へ手渡されていくことだ。その手渡されていくというところで、虚構は実体化する。そして価値を生んで取引の対象にもなる。ところで、詩は言葉で書かかれるが、でっち上げられるのではなく、書き手がその言葉を生きた実録なのだ。つまり、ここで白鳥信也は、言葉で話をでっち上げながら、その言葉を生きているわけである。この二編で語られていることは、「水という自然と同調する自分」のことではなく、また「内心の矛盾を抱えて生活している自分」のことでもない。確かに「自分の心情」は語られているが、それは「失踪した蒲田」や「豆腐屋の鈴木さんの箱の中の豆腐」をでっちあげることによって間接的に語られているのだ。言い換えれば、作り話を心情を語る比喩として使っているというわけだ。
では、実際に「しっそうする蒲田」という詩に当たって、そこに使われている言葉に意味合いを見て行くことする。先ず、第一連では、詩人が、蒲田のユザワヤに額を買いに行こうと、隣の大森駅から電車に乗ると、呑川を越えたところで、蒲田の先の多摩川の鉄橋を渡って川崎駅に着いてしまう。川崎駅から逆に大森に向かっても、多摩川を渡りきったところで大森近くになって大森に着いてしまう。大森駅では「蒲田駅が現在 確認できておりません」とうろたえた声でアナウンスされている。実は、この第一連の言葉をよく読むと、「額を買いに電車に乗った」のが誰か書かれていない。詩人がこの詩の内容を全て自分の体験として語っているわけだ。現実の蒲田が失踪したことはないから、詩人は嘘をついていることになる。あからさまな嘘で、嘘をつかなければならない心情を滲ませる。つまり、事件を比喩にしている。次の第二連では、蒲田は何処に行ったのかと思案していると、かすれた声で「驚かせてすまないが、わたしはカマタだ。旅に出ることにした。追いかけないでほしい」という電話が掛かってきて、詩人は信じたい気になる。蒲田がカマタ氏に擬人化される。この擬人化によって、詩人は蒲田という街を自分に取って身近なものに引き寄せてみせる。第三連になると、その蒲田にある飲食店や遊興施設やそこで働き生活する外国人の女性や町工場の老人など、また街に漂う匂いなど、固有な名前を揚げ、細かい描写で連呼して呼びかける。詩人の蒲田に寄せる愛情が滲み出てくる。この辺りに、この詩が書かれた眼目があるように思われる。多分、そこに出てくる鳥万とか升屋とか河童亭とかパチンコ弘城とかつぶれた蒲田茶房とかグランドキャバレー金時とかは詩人が通ったか行ったことのある、または行ってみたいと思っている飲食店や遊興施設であろう。また、「日本語のたどたどしい若い女性たち」とか、「ピンクの鬘にマントを羽織って細いタイツを履いた新聞配達」とか、「グリスのてらてら光る作業服を着た老人たち」とか、更に「焼鳥屋の煙」、「夕暮れに漂う甘い焼き肉のたれの匂い」とか、それはまさに蒲田という街の生きた姿といえよう。その街の姿を言葉で呼びかけて甦らせるために、詩人は街を失踪させたというわけだ。
しかし、詩人は街を失踪させてしまったのだから、それに決着をつけなければならない。第四連では、詩人は嘘の地盤を固めるように、蒲田の失踪を既成の事実にして、JR東日本が冷たくダイヤ改正をして蒲田を無いものとしたように語り、その上で、その蒲田が大音響の蒲田行進曲と共に「岩手の北上山地の集団離村地区」や「四国のお遍路コースからはずれた村」に現れたという噂が流れ、マスコミが押し寄せると消えてしまうというのだ。蒲田が日本経済の発展から落ちこぼれた地区と並べられる。詩人は蒲田に対して愛着を持ているばかりでなく、支持したい気持も持っているというわけだ。第五連では、更に詩人の嘘は大きくなって、グランドキャバレー金時で働いていたロシア人女性たちの手引きで、ロシアの産油で沸き立つ街の近くに現れたとか、果ては噂でメキシコに現れたとかということになる。そして、第六連では、嘘に嘘を重ねて気持を盛り上げたところで、「逃げる蒲田/さまよえる蒲田/ここではないどこか/失踪する蒲田/・・・・・/かまたカマタ/かまたか/また」
と蒲田を連呼し絶叫して終わる。詩人は、蒲田という街に対する愛着をベースにして、虚構を作ることで次々に言葉を繰り出して、その言葉で気分を盛り上げることが出来た。
「夕焼けを泳ぐ豆腐」は、豆腐にまつわる記憶を話として語った作品だ。アンチョビを豆腐に乗せて口にれたときの口当たりから、詩人が幼い頃に、鍋を持って買いに走らされた自転車で荷台の木箱に豆腐を入れて売りに来ていた鈴木という豆腐屋の、その木箱の中で踊っている豆腐と夕焼けの記憶を語って、詩人が人生半ばに達した感慨を感傷を交えた詩として成立させている。豆腐屋の鈴木さんがトラックにはねられて死んでしまったということは実際に起こったことであろうが、鈴木さんがラッパを吹いて売り歩く姿や事故当時の豆腐が「ぐじゃらぐじゃら」に潰れる様は、言葉で虚構として作られているわけで、その言葉が感情を盛り上げて、感傷的な感慨を深める比喩の働きをしている。
以上、『ウォーター、ウォーカー』の全体を読んで、日常的には自然に触れる機会の少ない都市生活者である中年の男性が、詩を書くことによって、自分の自然と同調したい願望を幻想化して、それを内面の中核にして言葉で語ることで、自らをその言葉の主体として確立して、日常生活における主体性の葛藤を語り、その語りから虚構の創造を得て、読者の前に自分を語り手として登場させるに至ったということが理解された。
虚構を語って読者の前に自分を登場させた白鳥信也は、言葉への欲求を持続させれば、時には自分の思いを直接語ることがあっても、次々に新たな虚構を語り続けるということになるのだろう。しかし、自然体験を持っている白鳥信也は、自分が観察した自然の姿を虚構の素材として、また虚構の構造として「物語」を創造することによって、詩人として独自な存在を獲得することになるのではないと予測される。
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