アーカイブ: 2008年

2008/12/23

Permalink 16:58:37, カテゴリ: memo, views: 1549 Japanese (JP)

坪田義史監督作品『美代子阿佐ヶ谷気分』 「ガロ」の漫画家安部慎一の境涯

 昨日、多摩美の卒業生の映画監督、坪田義史さんの監督作品『美代子阿佐ヶ谷気分』の試写を見た。「ガロ」の漫画家安部慎一の境涯が描かれていた。安部慎一は、昔「ガロ」を読んでいたわたしには名前をうっすらと覚えている程度の存在で、すっかり忘れていた。しかし、映画によれば、彼は苦闘の境涯を生き抜いて、今でも漫画を描いているということだった。その苦闘の物語は、映画では私小説的な漫画家として、漫画雑誌というメディアに存在を維持しようとして、特に、阿佐ヶ谷のアパートで同棲している女性の美代子との性的関係を、自らの作品のモデルにして突き詰めていき、やがて破綻してしまい、郷里帰って、精神を患い、美代子に養われて、宗教に入れ込んだりするが、美代子の力で精神を回復し、再び漫画を描くようになる、という話。70年代の表現者が時代を切り抜けて今も生きているというところに感動があった。
 
 坪田義史は90年代後半の生まれ。メディアで育った世代が、メディアに絡み絡められて生き抜く者の姿を描いたというわけだ。坪田監督は、その破綻を描くところで、安部慎一が自分の作品の素材にするために、自分が同棲している美代子を目の前で友達に犯させ、それを眺めるという破廉恥な行動に走り、その罪悪感が彼を破滅に向かわせるというシーンを演出している。わたしは、そこには坪田義史のメディアに向けられた怒りと正義感が働いていると感じた。安部慎一は破滅に向かうが破滅しない。郷里の田川に帰って、安部慎一は美代子と結婚して病の床につくが、美代子は身体が弱っている慎一にセックスを強要して死に追いやるかに見える。しかしそれは美代子の究極の愛情と感じられる。その美代子の強烈な生活力と生命力に圧倒されて、慎一は逃げるように宗教にのめり込んで行って、再び表現する力を回復して漫画を描き始めているというわけだ。安部慎一が美代子の力で生きかえって表現する力を回復して行く過程は、70年代に彼が描いていた世界とはまるで正反対になっている。極貧のアパート生活でのエロチシズムはぎりぎりに生きていることの証だった。ところが、身体を張って夫の精神を回復させようとするエロチシズムは命がけの愛情と見受けられる。70年代から30年を経た違いだといえよう。人間関係が希薄になりつつある現在の意識の有り様に、濃密な身体関係をぶつけてくる作品だ。

坪田義史監督作品『美代子阿佐ヶ谷気分』
http://www.wides-web.com/miyoko_main.html

2008/10/13

Permalink 17:46:46, カテゴリ: memo, views: 1554 Japanese (JP)

浜江順子詩集『飛行する沈黙』を読む。

 浜江順子さんとはお付き合いはないが、一、二度お会いしたことがあって、痩せぎすの元気のいい人という印象だった。その浜江さんから朔太郎賞受賞のお祝いのはがきを頂いた。礼状を送ったら、『声の生地』を購入して読んだ感想を送ってくれた。そこにもうすぐ浜江さんの詩集が出ると書いてあったが、先日、その詩集『飛行する沈黙』が届いた。わたしの詩集をわざわざ買って読んでくれたのだから、わたしも浜江さんの詩集も読んで感想を送ろうと思って読んでみた。
 一通り読んで、「言葉をぶつけて力を生み出す詩でした。思考が感情を絞り出す、またその逆を行く世界が展開していて、その抒情とユーモアを楽しみました。」という感想をはがきに書いて送った「灰皿町Blog日記」にはもうすこし砕いて、「詩集の詩は、言葉の意味を遮断して、言葉同志をぶつけて力を感じさせる類の詩だった。そのぶつけ方が思考から感情を絞り出す、または感情から思考を展開するというやり方で、野菜や植物や季節感や身体の言葉をぶつけるので、そこから抒情とユーモアが生まれてくるというわけ。」と書いた。こう書いてしまうと、自分が書いた言葉を反芻しているうちに、もうちょっと書かないと、この詩集から離れられない感じになってきた。「意味を遮断して」とか、「言葉同志をぶつける」とか、「思考から感情を絞り出す」とか、どういうことを言っているのか、もう少しはっきりさせたいという思いが湧いてきた。
 『飛行する沈黙』の詩は、積極的に言葉を受け止める姿勢を取らなければ理解できない類の詩が多かった。冒頭の「白昼の爪」からして、一読しただけでは、よく分からない詩だった。分からないなりに言葉を辿っていくと、感情が動いていることは感じられた。そういう風に、分からないなりに読み終えて、浜江さんに感想を書いて送ったというわけ。浜江さんは詩集の後書きに、
 
 「 詩において沈黙は重要な意味を持ってくる。例えば、
M・メルロー=ボンティが『シーニュ』の中で、”要する
に、われわれは、発言される以前の言葉を、言葉をとり
巻くことを止めずそれなしではことばが何ものも語るこ
とのないあの沈黙の背景を考察しなければならぬ。ある
いはまた、言葉に混りあっているあの沈黙の糸をむき出
しにしてみなければならぬ”(『シーニュ 1』「Ⅰ間接的言
語と沈黙の声」粟津則雄訳、みすず書房)というように沈黙
は詩において極めて重要なファクターである。
『飛行する沈黙』 においての沈黙は、その背景に広がる
ものはもちろん、重い沈黙、軽い沈黙、あるいは死の沈
黙、未来への沈黙など、さまざまな沈黙がそれぞれの詩
の中に渦巻いている。沈黙は、ある時は自分のなかで処
理しきれずにうずくまって悩む場所であり、あるいはひ
とり憩う場所でもある。これら二十五篇の詩を通じて、
さまざまな沈黙と言語の飛行を思い思いに感じていただ
ければ幸いである。」

と書いている。なるほど、「沈黙」ということか、と頷けるように思った。言葉になる前の、また言葉で語られないところ、それを言葉で書いたのだから、そう簡単には理解できないのも無理はない、と思った。そこで、このことを頭に置いて、冒頭の「白昼の爪」を読み返してみることにする。

白昼の爪

木陰に隠れて爪を研ぐものの気配に
桜に足をたっぷり浸して
地獄の眠れる扉をたたく

桜は薄紅色の下に
烏賊の墨のような腹黒さをなにやら薄っすらと秘め
ゆらゆらと起立している

夢に厚みはいらない
うすっペらな板のようなものこそふさわしい
穂を生やして、さあ飛んでいけ

獣たちの声をかき集め
街を脱出すると
果物たちはかえって騒ぎ出す

蒼ざめた顔が連続する悲劇を
逆転するある律動のなか
白昼の片隅に見つける

ゆれて、ゆれて
爪は磨かれ
乳房は春に肥大しながら昇っていく

ざらざらする真実を
吹きさらしにし
白骨にしてから飛ばすがいい

ゆっくりじらして楽しむものは
歯茎をタンタンと二回鳴らし
決まって美の世界を礼賛する

沈殿するなにかと
浮き上がるなにかが相克する時
身体の一部と化した赤色の鰓を鮮やかにひるがえす

両生動物のようなぬめっとした心臓を
ひとなでしてから
昼を舌で舐めると、そこは見たこともない沼

 「白昼の爪」は3行10連で30行の行分けの詩だ。まず、タイトルから検討してみよう。「白昼」は比喩的に使われていて、物事があからさまになる状態にあるということで、タイトルは爪の存在があからさまになるという意味合いであろう。詩の本文を読むと、その「爪」は手や足の爪でも、動物の爪でもないように思える。これもまた比喩で、第一行目に「爪を研ぐ」とあるから、戦う姿勢を示す意味合いで使われているようだ。つまり、身を持って戦う姿勢が明らかになったということになる。それは意味合いとしてのことで、イメージとしては日にさらされた白い爪が浮かんでくる。ちなみに、詩集に挟まれた栞に文章を寄せた河津聖恵さんは、「『爪』というのはこの詩人の抗いの象徴だが」と書いている。
 第一連の意味合いは、戦う気持ちを高めて、地獄の扉を開いて、災いを生むかも知れないような大事を起こそうということだが、二行目の「桜に足をたっぷり浸して」がわたしにはよく分からない。「お湯に足をたっぷり浸して」なら、疲れをとってということになるが、「桜に足をたっぷり浸す」とはピンクに染まってくるということだろうか。とにかく、余裕を持って戦いの挑むらしい。第二連では、桜のピンクにも腹黒さが秘められていると告げて、第三連で夢を捨てて居直るということになる。
 第四連で叫びながら街を脱出すると、大人しい連中は騒ぎだし、第五連で顔を青ざめる連中が続出するのが明らかになる。第六連では、その騒ぎの中で詩人はますます戦意を募らせて、気持ちを高揚させる。第七連では、本当のことなどどうでもいいと思い、第八連で、ことの次第を美しいと舌鼓を打って楽しむ。第九連で、浮き沈みする者たちが交錯するのを見て、身をよじって喜ぶが、第十連で、どちらでも生きられるようになった自分の心臓を確かめると、そこにはまた別の世界が開けている。と、まあ、詩から読み取れる言葉を辿って、生きる上での戦いをストーリーに仕立ててみた。
 第四連の
 
 獣たちの声をかき集め
 街を脱出すると
 果物たちはかえって騒ぎ出す
 
も、第六連の

 ゆれて、ゆれて
 爪は磨かれ
 乳房は春に肥大しながら昇っていく
 
も、結構面白い言葉の並びだ。作者は「あとがき」で「重い沈黙、軽い沈黙、あるいは死の沈黙、未来への沈黙など」があるといっている。それらの「沈黙」は実生活での言えない悩みだったり、言えない怒りだったりするのだろう。その悩みや怒りを生んでいる他人や事柄に詩人は勝手に言葉を投げつけて、書き留める。「果物たち」「蒼ざめた顔」など、それが一種の提喩となって、その提喩だけの組み合わせで文が出来上がり、読者に取っては意味が遮断されるが、言葉をくっつけたところに力が生まれる。
 詩集のタイトルになっている「飛行する沈黙」という詩は、散文で書かれているが、西欧の中世を語り、その中世を頭に抱えて、現代のコンビニを利用して生活する自分に思いを馳せると、自分の姿が見えなくなり、「沈黙自体」になってしまうと語っている。詩を書く人間として、思想を辿って考えると、考えと生活的現実の間に裂け目が生じて、その裂け目に落ちて行方不明になというわけ。生活から生まれる感情ばかりでなく、表現にまつわる思考からも感情が滲み出て堆積される。
 自意識からも逃れられない。その自意識に身体の言葉を投げつける。そこにユーモアが生まれてくる。

 尻の穴から
 すうっと入ってきた化け物は
 実は自分自身で
 
と始まる「化け方が、うにゅうにゅだ」という詩では、化け物を「化け方が足らない」と罵りまくる。また、自己否定しきれないところに、詩人の優しさがあると感じる。最後に沈黙を破って生活を語る詩を一つ。

追突する、あぶら蝉よ

あぶら蝉が自転車で走る私の後ろから追突する
蝉の狂気とヒトの狂気がごちゃまぜになって
トマトケチャップ的にいい感じになる
またも、あぶら蝉は背中に突進する
あぶら蝉の真意がわからないままに
夏がうにゅうにゅ爆発する
ヒトはまだ気がつかない
あぶら蝉より自分がヤパイってこと
ニンゲンはただ突っ込むだけなんだよ
あぶら蝉が背中をノックしても
気がつかない
ニンゲンはただ突っ込むだけなんだよ
コロン、コロン、林で死んでいるあぶら蝉を見ても
気がつかない
ニンゲンはただ突っ込むだけなんだよ

浜江順子詩集『飛行する沈黙』2008年9月30日 思潮社刊

2008/09/29

Permalink 00:40:48, カテゴリ: memo, views: 649 Japanese (JP)

岩佐なを詩集『幻帖』を読んだ。

 先ず、この岩佐なを詩集『幻帖』を読む切っ掛けについて書くことが、この独特の雰囲気を持った詩集に入る道筋に通じるように思える。わたしは、9月17日に目白通り沿いの、鬼子母神前商店街の入り口付近にある「ソーケン整骨院」で骨格矯正と交流磁気シャワーを受けた後、都電鬼子母神前停留所の前にある「釣り具喫茶店Reels」に行ってコーヒーを飲みながら、書肆山田の鈴木一民さんと雑談をしようと思い、携帯で一民さんに電話をしたら、岩佐なを詩集『幻帖』が丁度出来たところで、これから岩佐さんとビールで乾杯しようと思うが、来ませんか、と誘われた。場所は東池袋の寿司屋武蔵だという。杖を突いてやっと歩くわたしの脚では、目白通りから東池袋まではとても歩けない。逡巡していると、タクシーで来たらと、その道順を教えてくれた。目白通りから明治通りに出て、大ガードの五叉路を右に、あずま通りを行ってサンシャインに抜ける路を左折して、右側に「武蔵」はある、という。タクシーを拾って、教えられた通りに目白通りから千歳橋を過ぎて右折して明治道路に出た。その右折した辺りの、信号で一時停車した窓から見た夕方の風景の印象が記憶に残った。「武蔵」には既に岩佐さんと一民さんがカウンターに並んで腰掛けてビールを飲んでいた。お久し振りの挨拶を交わして、わたしは岩佐さんの隣りに席を取って、ビールで乾杯をした。それから、持って来てあった一冊の『幻帖』を手にとって開いた。パラパラと捲ると、つぎつぎと印刷されたエッチングの挿絵が目の入った。鮮明な線で描かれた異様だがちょっとユーモアも感じさせる生きものの姿が綺麗な色刷りで刷られている。思わず、感嘆した。というような道筋で詩集『幻帖』と接したわけだ。そこには、詩人の姿と、詩集の挿絵のエッチングと、取り交わした言葉があった。そこでは、詩集の詩の言葉を読むことはなかった。
 
 それから三日後、詩集『幻帖』が送られてきた。夕食後、いつもの通りベッドの横になって、うとうとしながらテレビの時代劇を見た後、仕事場に行って『幻帖』を開いて読み始めて、全体で107ページの詩集の半分ほどを一気に読んだ。ページを開くと、先ず、
 
  わたしの手許に写本[幻帖]〈六冊と一箱(未綴の絵図
  三十六杖、文書七十二枚入)・成立年不詳・複数人によ
  る書写〉があり、幻視、幻聴、幻覚、霊、妖物、不可
  思議なことどもが断片的に書かれ、あるいは、描かれ
  ている。これを口語訳し手を加え、現代風に書きかえ
  たり、そのままをあたかも自分が作ったように見せか
  けたりして、何冊かにまとめようかと思いはじめた。
  挿画については、銅版画や素描で画きあらためてみた
  いのだが。
  
と書かれている。つまり、創作ではなく、元になる古文書の写本があって、それを書き直したものだという。だが、本当にそんな写本があるかどうかはともかく、わたしは詩集の題名に「幻帖──岩佐なを」とあるので、この断り書きを、書かれた言葉の主体をはぐらかすための詩人の演出と受け止めて読み進めた。

 最初の詩は、羽の生えた女性の姿のエッチングの挿絵の後に、「『序』と思ってほしい部分/〈どこまでが『序』なのか不明〉」というようなはぐらかしのタイトルで、鳥女神が持った運命の札が読者の行き先をきめるとある。次に、札には「まぼろしの塔」と「塔のまぼろし」、「幻のいきもの」と「いきものの幻」が描かれてるとある。鳥女神の腋の下の汗を啜ると舌がちりちりするとか、札についての説明や「詩」についての問答が書かれている。
 
  記憶のようでもあるのです。
  想像のようでもあるもです。
  いや、はっきり知覚したような。
  「はっきりなのに、ような、なんですか」
  はっきりとようななんです。
  「ばかですね」
  すみません。
  
ということを元にして書かれたことばが、詩なのかどうかということ。
  
  「詩が初めて生まれたころ、だれがこの一行を
  この文字列を『詩である』と決定できたのですか」
  知りません、プラトン?
  (ホントカヨー)
  「いまは詩人ですか」
  詩人は自分の書いたものを詩だと思い込むのです。
  「なにも思い込まない詩人もいますね」
  いかにも。
  いくにんも。
  
とまあ、詩をおちょくったようなやりかたで距離を取って、先へ先へと、20枚のエッチングの挿絵と呼応して、非現実的な存在や話が語り継がれていくのだった。ある意味では、「詩による詩論の試み」とも受け取れる始まりとも言える。
 わたしは、テレビの時代劇を見た後にこの詩集を読んだので、語られていることが昔のこととして、その時代劇の裏話のように感じられた。そして、時代劇では現代人の役者が昔の侍や町人や農民を演じているわけだが、この詩集では現代語が古文書の言葉を演じているのだと受け止めた。つまり、この詩集の詩は言葉がもう一つの言葉を演じるという仕方で書かれているというわけだ。
 蹲った女と思われる人物の背中から、煙のように幾つもの顔が立ち上っていく挿絵の後に、
 
  人皮ではなく雁皮の
  ような薄いひらひらが
  ひとがたに切り抜かれ
  からかみに貼られている
  だれのかげか、おぼつかなくもいとおしい
  仕草の影絵に見えるか
  焼け死んだおんなのあぶらじみに似てるか
  身内の肌のかおりで
  東洋のうすあおい蘭花が
  一輪挿しにつきささっている
  灰色闇に花弁は無闇とくっきり浮きあがり
  その等に透明な蜜を宿し
  (不潔な中指で犯したい)
  同余のおにんぎょさん
  (鬼ン魚
  
といったような言葉が続く。そしてこの一連の言葉は

  乳首はももいろの
  小塔のように起っている
  まめは湿気らない
  おにんぎょは裸体で横たわったまま
  頭部に植えられた漆黒の髪を
  わらわら傷んだ畳にひろげているわらわら
  からかみではひとがたのかたがみの
  両手首が剥がれはじめている

  いる、いない
  なにが

  なにがなにして、
  なんとやらあ。
  告白めいたもの、いかがですか。
  
というように終わる。一種の美的な趣向を実現したイメージを語り継いで、語りの口調のあり方を浮き上がらせて、詩人の演技者としての立場を示している。
 詩集の中程で、「ゆきくん」という人物についてのエピソードがかなり長く語られている。その書き出しの部分で、「ゆきくん。覚えてますか。/あたしを騙した十五の初夏の亀戸を。」と、亀戸が出てくるので、その亀戸で生まれて育ったわたしとしてはびっくりした。それはともかく、この部分は、亀戸天神でゆきくんからキスされた女が、ゆきくんと別れ、母親を失い、男から男へと転々とした末に、上海に流れ行った女の語りとして書かれている。そして、次に「ゆきくんのもがたり(断片)」という散文の物語がある。着衣を脱いで浴衣に着替えていると、白衣の人が来てちぐはぐな会話をして、唐紙障子を開けると「茶の湯」、襖が開くと「お化け高気圧茶釜」が出現して、白衣の人にせがされるようにその中に入る。
 
  梯子を
  降りてゆくと内部は柑橘系の皮膚の臭いがい
  っぱいで、その中央に小型寝台、その上に女
  性が横たわっている、真紅の夜着が広がって
  赤えいを想わせる、小さな顔は赤ん坊の拳ぐら
  いである。不思議な感じがして容貌をのぞき
  こむと、驚いたことに「自分」である。一般
  に体内には男性と女性(陽と陰)の気がめぐ
  っているように、ひとひとりのたましいには
  男の要素と女の要素が息づいている。その女
  の要素がわたしの内奥から抜け出して骨肉化
  したのだろうか。わたしはこの世で「男」と
  して生きているから、女の部分は少ないと思
  う、だから緋鯉くらいの大きさの「おんなの
  わたし」 にしか肉体化しなかった、にちがい
  ない。科学的だ。
  
最後は、この自分から生じた女が「極端な遠近法を見るように」遠ざかって行き、自分は釜の中に残されて終わるという話なのだ。
 この自分の女らしさが肉体化するというところ、つまり非実体的なものが実体になるというところが、この詩集の成り立ちを語っているように思えた。実体化するところでいろいろと工夫がなされている。脳内に浮かんだイメージが、言葉になり、版画という実体になるという創作の過程を、主体を抜きにして、古文書の現代語訳とするというやり方で倒錯して見せたというわけだ。いわば、この詩集の言葉は「詩という言葉」を演じるためのシナリオとして展開していることになる。
 ややこしい言い方になってしまったが、結論としては、詩集『幻帖』は話として面白くどんどん読めて、そこに入っている挿し絵も楽しめるが、その言葉の主体抜きということで、ゲームを傍らで見ているように退屈を感じてしまうのだった。しかし、その「退屈」が実は詩人自身の「表現」であるようにも思えるし、最初に書いたこの詩集を手にするまでに街中をタクシーで走った道のりと重ねて、時代の「退屈」と受け止めることも出来る。

2008/09/28

Permalink 12:40:25, カテゴリ: memo, views: 847 Japanese (JP)

内面の物語を語る人形たち ──清水真理の創作人形

 清水真理さんから四体の人形とその細部の写真が送られて来たのを見て、わたしは驚いた。それは、これまで清水さんが創っていた様式的な可愛い女の子の人形とはまるで違う、物語を孕んだ独特の世界を持った人形だった。それも内部に世界を持つ人形として実現されている。一つ一つの人形の表情も、自らが開いて見せている内部の細部も、作者の思いが込められていて、全体で感情がみなぎっているのが感じられて、ストレートに心に訴えかけてくる。
 あの清水真理さんが、現在、これらの作品を創ったと思うと、わたしは嬉しかった。学生だった頃の彼女の思いがいまようやく実現されたと思った。清水さんは1991年に多摩美の上野毛キャンパスに映像の表現を志望する学生として入学してきた。そのとき、わたしは映像を担当する教員として清水真理さんに出会った。彼女は自分で人形を作ってアニメ作品を作っていた。スケールのある考えを持って、真っ直ぐに苦しみを表現した作品だったと記憶している。そのスケールと内面が中世のカトリック教会を飾るイメージに育まれて、独特の様式を持って、繊細に人の心に届く作品として、今ここに実現されている。
 人形という存在は、幼い子の友達から宗教的儀式を担うものまで、いろいろな意味を持っている。いずれにしろ、人形は人の心の最も近い所いるように思える。清水真理さんは自分に近い分身として人形を作り続けてきた。その清水真理さんがここに作ったこれらの人形は、心に近いというより、心そのもののストーリーを語ったているといえよう。写真が送られてきた四体の人形は、「庇護する者と庇護される者の関係」「酔っていられる幸福」「機械仕掛けのように動いてしまう自分」「性を越えて生きていくことの贖罪」などなどを語る存在だということだ。それは、清水真理さんが今まで生きてきた境涯で体験した苦しみを反省して、様々な思いをくぐり抜けて、昇華させたストーリーなのだ。人形は他人に手渡せる。自分の苦しみなど内部に秘めていたものを手渡せる人形に実現した。その人形たちの表情のあどけなさに、どこか、さびしさが残っているのは、真摯に生きてきた彼女の孤独が刻まれているからだと思う。ここに、清水真理は様式性の強い人形という媒体によって自己表現を実現したといえよう。

人形作家・清水真理 公式サイト「ストロベリィ・フィールズ」
http://kruz.at.infoseek.co.jp/index.html

2008/09/24

Permalink 12:26:13, カテゴリ: 日記, views: 406 Japanese (JP)

有働薫詩集『雪柳さん』の解題

2008年08月28日
22:00
 解題 その1

 有働薫さんは大学生時代の同級生で親しみを持って接していたが、卒業してから殆ど会う機会もなく、言葉を交わす機会も余りなかった。その有働さんから何年か前に詩集が贈られたが読まなかった。わたしが殆ど詩を読まなくなた時期のことだったと思う。
 今度、有働さんの詩集を読むことになったのは、二月に「白石かずこさんの喜寿と出版を祝う会」で会って、大学を出た後のことを少し話しして、有働さんの詩集を読んでみたい気になって、送って貰うことにした。有働さんからは三日後に三冊の詩集『雪柳さん』『スーリヤ』『ジャンヌの涙』とそれ以前に出した詩集『冬の集積』から3篇、『ウラン体操』から4篇のコピープリントが送られてきた。ところが、有働さんの期待を裏切ることになって申し訳ないと思いながら、即座に読むことが出来なかった。詩集を読む順番として、入沢康夫さんの詩集『かりのそらね』の解題を是非とも書きたいと思っていて、その解題を五月の中頃から書き始めて、八月の初旬まで掛かってしまった。
 そして、ようやく今月の16日に『雪柳さん』を読むことが出来た。その後更にぽつりぽつりと一つ一つの詩についてノートを取って二度三度と読み返した。最初に通読したときには、現実の日常の情景に触れたところで作者の感情と詩心が動いて書いた作品が多いという印象だったが、一つ一つの詩を丁寧に読んでいくと、死に対する思いが奥深いところにあって、そのために自分の生活の現実に距離を感じてしまい、そこに言葉が発動してきているというふうに受け止められるようになってきた。幾分か難解なところがある。
 詩集『雪柳さん』を読んでいて、わたしの心理に起こった妙な錯覚のことも書いておこう。それは、有働さんがこの詩集を刊行したのは60歳か61歳なのに、わたしには詩の作者として学生時代の少女っぽいところを残した姿が現れ来てしまい、時には当時の呼び名で「すみれちゃんが書いたの、これ!」などと、失礼な感想を持ってしまうこともあって、慌てて意識を改めることもあった。
 
 詩集に挟まっていた「すらんす堂通信90」に井坂洋子さんと井川博年さんの新聞評が掲載されていた。
 
 「雪柳さん」は、ふしぎな感触の薄い詩集だ。描かれている情景が、なにを意図しているのか、掴めない。暗喩になるかならぬかの境目にあって、情景がみずみずしく、こちらに訴えかけてくる。「朝起きると/波が逆巻いていた/「荒いね」/紅茶のカップを前にしたむすこにつぶやいた/黙っているむすこの手許にしぶきがかかった/もうここも引き払わなくてはなるまい」──「波」という作品の全引用である。この波を、社会の荒波なぞと引っかけると、途端に色あせる。作者は、この情景をなにものにも引っかけない。その禁欲的な姿勢がうれしい。
   (「東京新聞」一〇月二四埴号井坂洋子評)
  
 不思議な詩集である。現実のようで非現実。夢のようでまことのようで夢。詩語も洗練されているようで、一方では切り方が変といった具合。それでいて妙に切実でなげやり。全体に隠し味のようにエロティシズムが効いていて魅力的である。この詩集は六〇頁。こういう薄い瀟洒な詩集を出す出版社がまだあるのだ。
   (「図書新聞」一〇月二八日号 井川博年評)

 お二人がそろって、文章の冒頭で「ふしぎな詩集」と書いているのが面白い。詩集の中の「雪柳さん」「天沼橋」「スタラクタイツ・スタラグマイツ」「にぎやかな夕ぐれ」と並べると、確かに「ふしぎな詩集」というのも頷ける。そのふしぎなところを一つ一つ読んで行ってみよう。

コメント
2008年08月28日
22:56
sumire
入沢さんの後なんて、恐れ多いことです。きっと、同級生という神様の配剤なんでしょうね。どうぞよろしくお願いいたします。

2008年08月29日
22:43
 解題 その2

 詩集『雪柳さん』はふらんす堂から2000年9月19日に発行。横127ミリ経181ミリで、本文52ページの小さな詩集。全部で15篇、その内行分けが12篇、散文が2篇 行分けと散文が混じった作品が1篇。目次の配列で、作品の頭にアルファベットの小文字がaからoまでふられている。
 
 a. 自猫抄
 18行1連の行分けの詩。
 「彼女は美しい尻尾を持っている」から始まる。前半はその身体と同じくらいの長さの尻尾の動く様子が印象的に語られる。後半は、実はその長い尻尾が「唯一の落ち度」として、長いだけに捕まえられやすいことが語られて、詩人はその美しい尻尾のために、自分自身以上に気遣う、という。白い生きもの、何故か人は白い生きものに心が惹かれる。その白い生きものを大切に思う詩人の心が語られている。
 
 b.波
 6行1連の行分けの詩。
 朝食の食卓の情景が詩人の荒れた気分と状況を主題にして語られている。全文が「解題その1」に引用した井坂さんの批評に引用されているので参照してください。詩人が追いつめられた状況で、息子に感情をぶつけているシーンと受け止められる。「ここを引き払う」のは、金銭的な状況なのか、関係上の状況なのかは分からないが、波という言葉に乗って、緊迫感を印象的に語り出している。
 タイトルを「波」としていることに注目して、うがった見方をすると、詩人は「世の荒波」という言葉を前提にして、現実の困難な生活を客観視するために、その決まり文句に情景を重ねて、冗談として笑い飛ばそうとしているというふうに受け止めることも出来る。
 
 C.内気な中学生
 17行5連の行分けの詩。
 粗野で威張った先生が指導する中学校の演劇部の練習風景がユーモラスに語られている。
 第1連 教壇の上で素っ裸で威張っている先生の紹介
 第2連 中背で、浅黒く、メガネを掛けたギョロ目の先生の風貌。
 第3連 今日の練習は「青い鳥」の最初の場面
 第4連 お尻を机の上にのせた先生が、股を開いて、威張って
 「ぼくとミチル役の女の子に」向かって声を荒げる
 ここでタイトルの「内気な中学生」が登場する
 第5連 「さあ、早く寝ろ」と、怒鳴る
 この演劇の「青い鳥」はメーテルリンクの戯曲だと思うが、その作品の精神性と先生の身体性が対比されて、先生の精神性が感じられない身体的なあり方がユーモアを感じさせる仕掛けになっている。
第4連で「ぼく」という主語で、言葉の主体が中学生に切り替わって、読者は中学生の視点で先生に接することになる。そこで「早く寝ろ」は、劇中の兄妹が寝る場面なのだろうが、中学生に取っては役になり切れないで「男の子と女の子」が寝るということで恥ずかしがっているわけなのだろう。
 ところで、解題者のわたしは「青い鳥」を読んだことみないし、メーテルリンクについては全くの無知だが、詩人はこの詩集の「スタラクタイツ・スタラグマイツ」がメーテルリンクの『ペレアスとメリザンド』のモノローグを土台にしていると触れているので、もしかしたら、詩人はメーテルリンクに詳しく、神秘性に対する嗜好があって、先生の身体的な卑俗さが強調される結果になったのかも知れない、という気がしないでもない。
 
 d.ひとり娘
 14行1連の行分けの詩。
 失恋して精神的に苦しむわたしと母の拾われてきて餌付けを覚えさせられる猫とが対比的に語られて、飢えれば食べるという自分の動物性を自覚するという作品。
 失恋したわたしは鍵を掛けた部屋の閉じこもり、ベッドにもぐり、三日間何も食べない。
 その間、拾われた猫はしつけのためにおあずけをくわされている。
 しかし、母が買い物に出ている間に、猫は餌を食べる。
 わたしも五日もすれば、食欲が戻るだろう。
 「生きていたくない気持ちもどうにか遠のくだろう。
 ──動物の信頼に応えるしあわせ」
 と詩は終わっている。
 タイトルの「ひとり娘」は「失恋したわたし」のことだろうか。別の詩「荒川堤」で詩人の姉が登場してくるから、詩人は「ひとり娘」ではない。とすると、「ひとり娘」を虚構して、「失恋したわたし」として、母親との関係に於いて自己意識を身体的欲求によって獲得していくということを語っていると受け止められる。
 
 e.少女懸垂
 15行6連の行分けの詩。
 この詩は、「日曜の午後/疲れて/散らかった/部屋で」思いに耽ってるときに、心に浮かんでくる言葉や情景を辿っていくと、少女時代の一途で純粋な自分の姿に到達したという、一つの言葉のシーンが書かれている。
 第1連 2行の、絵を描き続けた画家の運命と詩を書いて痛ましい死を遂げた詩人の生涯を思い浮かべたという言葉。
 表現ということを思い、人生を振り返るベクトルが決まる。
 第2連 短い4行の、日曜の午後云々の詩人自身の現在を語る言葉。
 第3連 4行の、「夕陽学舎」という門札を思い出し、四〇年経って行ってみて、誰もいなかったテニスコートの記憶を語る言葉。
 第4連 2行の、稲が実る秋の空に走る稲妻に怒りを込めた思い出、今年もその秋が来ることを思って、その思いの表現する言葉。
 第5連 2行の、思いから醒めて、自分を突き放すように、現実の生活の中の、ゴミ捨ての手順とゴミ捨ての指示の言葉を置く。
 第6連 1行の、現在の自分の戻ったところで、遠い少女時代の自分の姿が輝いてくるのを表現した言葉。
 「少女は自分を研ぎ澄まそうとする」
 

2008年08月30日
22:58
 解題 その3

 「e.少女懸垂」の解題の追加
 この詩の解題を書くとき、「一つの言葉のシーン」という言い方をしたが、ちょっと言葉を補っておいた方がいいように思った。詩を書くということは、言葉を使うということで、書いている間、いろいろと言葉とつき合うことになるが、その言葉との付き合いが生活の中で場面を作るというわけだ。人によっては、机に向かって、またはパソコンに向かって、一気に書いてしまう人もいるし、散歩しながら頭の中で言葉を並べて、家に帰って、または喫茶店で書く人もいるだろうし、勤めの行き帰りに電車の中で作って、家でパソコンに打ち込む人もいうと思う。詩を書くそれぞれの人がそれぞれの「言葉のシーン」を持たなければ詩を書くことは出来ない。
 「e.少女懸垂」の場合、15行6連の言葉の配列が、全体で詩人の頭に浮かんだ言葉がそのまま構成されていると受け止めた。それぞれの連では意味がまとまっているが、連と連との間の意味の関係が希薄なので、その空間を言葉が浮かんでくる時の間合いと考えられる。第1連から第6連まで行くのに現実にどれくらい時間が掛かったか分からないが、「日曜の午後」、片づけものをしながらゆっくりと進んで、少女時代に抱いていた思いに行き着いたのではないだろうか。そして、少女の頃の自分を思って、詩人は自分の気持ちを立ち直らせることが出来たのではないかと想像する。そうだとすると、この「e.少女懸垂」という詩は詩人の心の動きをそのまま伝えていることになる。詩を書くことが心をリフレッシュさせた実践の記録と受け止めることが出来る。
 
 f.灯り
 13行1連の行分けの詩。
 この詩は、その時その時で違った百合の花を活けたガラスの花瓶を、いつもリビングの出窓に置いて、絶やしたことのない家が近所にあって、そこを通るとき楽しんでいた。その家の中ではいつもショパンの練習曲を挽いているのが聞こえる。ちなみに詩人はプレリュードが好き。ある日の夕方の買い物に行ったとき、トラジックなコンチェルトが聞こえたが、CDをかけていたのか、と思ったという内容。
 百合の花とショパンの練習曲から、その家の住んでいる人のイメージが生まれてくる。好みが合って親しみも感じてくる。そこで、いつもとは違うCDの「トラジックなコンチェルト」が聞こえてきたのだから、その人に何か変化が起こったのかと思う。タイトルの「灯り」は、その音楽の変化が、「灯り」を灯したように、その家に住む人の心の在りかが照らし出されたということと受け止められる。というふうに考えると、この詩の場合、活けられた百合や演奏されたショパンの曲が、心の在処を示すものとしての働きを持つことを詩人は見つけたのだといえよう。

コメント
2008年09月09日
22:25
sumire
「少女懸垂」について、「少女の頃の自分を思って、詩人は自分の気持ちを立ち直らせることが出来たのではないか」の分析に感動しました。なぜこの詩を書いたか、自分でもはっきりした自覚は無いのですが、集中の作品の中で、自分にとって「大切な」作品だという気持ちがずっとありました。それは、60代にもなる自分の挫折感と、40年以上前の自分の精神的な営みとの幅を計ろうとした試みだという、測ることによって何か現在の自分への解決策が求められはしないか、というかなりシリアスな思いがあって書いたらしい、と、「立ち直らせることが出来たのではないか」との読みをいただいて、ぱっと開ける思いがしました。ギリシャ悲劇のカタルシスに似た作用があった、といえば少し大げさかもしれませんが。シロウヤスさま、sumire拝

2008年09月10日
00:38
シロウヤス
sumireさん
作者が「ぱっと開ける思いがした」というのは、解題をする者にとっては冥利に尽きるということです。

2008年09月06日
21:38
 解題 その4

 g.夏のスナップ

 一枚目二枚目というように副題がついた4つのパートからなる全部で45行の行分けの詩。
 一枚目は5行の詩。
 百合のカサブランカが香る室内でビールを飲んでいて、隣の席の義姉が「やっぱり生はいいわね」と呟いたのを聞いて、急に義姉が好きになった瞬間のスナップ。詩人の気持ちを引いたのは義姉の気さくな言い方なのか、「生」という言葉なのかちょっと曖昧だが、白い百合が香る雰囲気の中で、元々自分とは関係ない他人に対して感情が動いた瞬間を語っている。
 二枚目は11行の詩。
 駅に行く途中にある栗畑、というから栗の木が沢山あって、それが五月いっせいに花を咲かせて、青臭い人の精液の臭いに似た臭いを発散させている。友人はあからさまに「人の精液のにおいね」というが、詩人はその臭いが我慢がならない。十日足らずのことだが、詩人はそこを通る度に、顔を背け、鼻を押さえて通る。そして舌打ちして「他人の生殖であるゆえに/許さない」と、心の中で言い切って瞬間を語っている。
 「他人の生殖であるゆえに/許さない」という言葉がすんなりと入ってこなかったが、考えてみると、生きているということは、基本的に生存競争なのだという視点に立つことで理解できた。
 三枚目は14行の詩。
 枯れた棘のある雑草が生い茂る野原を、脛に血を少し流しなら踏みしめて歩いて行く。頭の中には、落ちるべき断崖、飛び込むべき淵、身体がじわじわと沈んでいく沼地を思い浮かべている自分の姿。一転して、その自分の姿を突き放して、「たのしや/ぼうけんのたび」と言葉に置き換えた瞬間を語っている。
 この詩では、どうしても自殺を思っている少女の姿を思い浮かべてしまうのだった。
 四枚目は15行の詩。
 夏の避暑地でのことが語られているが、牧場や森や紺色の山の稜線を眺めているうちに「足が浮き上がって」、周りにいる人たちの白い木綿の帽子や半袖のシャツが、「声といっしょに/ガラスの枠だけになる」、つまり一人でぼーっとして、皆から離れて、自分が実体がない存在に思えてくる、そういう瞬間を語っている。
 
 『雪柳さん』という詩集は、詩人の生活を素材にして書かれた詩を集めた詩集と受け止められるところがあるが、この「夏のスナップ」辺りから、その生活して生きているということの地層は死ということで支えられているのだと、または生きているというのは一元的でなく、死という領域もある二元的な宇宙なのだという考え方がじょじょに語り出されて来るように思える。
 次の詩は、詩集のタイトルになっている「h. 雪柳さん」という作品。

コメント
2008年09月09日
19:46
sumire
「夏のスナップ」一枚目の5行の詩はじつは、長男の結婚披露宴のシーンでして、お嫁さんがカサブランカの花束を持っていて、その匂いが親族席まで漂ってきて、隣の兄嫁さんが「生の花だから、いいにおいがする」とささやいたのを、花婿の母親である私は、兄嫁さんの祝福の言葉に聞こえて、義理の間柄とはいえ、祝ってくれたんだと、感謝の気持ちが溢れた、という筋書きなのです。説明してしまうと、ポエジーが消失しますね。キーワードの「きゅうに大好きになる」の読みが正確なので、それで充分だと思います。
二枚目は的中です。他人の、それも他種の(植物の)生殖を嫌うのは、あなた自身に性的不満でもあるのか?と聞かれたらはずかしい。
三枚目はランボー賛です。永井荷風訳「そぞろあるき」を下敷きに。
四枚目は渋沢孝輔追悼のつもり。最後の2年余り「ティルス」という同人誌を指導してくださいました。シロウヤスさま、sumire拝

2008年09月10日
00:33
シロウヤス
sumireさん
一枚目は大外れですね。「生」はやっぱり造花でない花のことだった。わたしこと解題者としては、一枚目を軽くビヤホールにした方が、生命ということに関して、二枚目。三枚目と深まって行くように受け止めたというわけです。

2008年09月10日
10:14
sumire
シロウヤスさま
なるほど、スナップ4枚を連続した構成と見ていただいたわけですね。ばらばらに書かれた詩も、読み手によって統一されるということがあるのですね。人がばらばらに立っていても、遠景で見るとまとまって見えるというような具合でしょうか。sumire拝

2008年09月10日
12:07
シロウヤス
sumireさん
「人がばらばらに立っていても、遠景で見るとまとまって見える」
素敵な言葉ですね。詩集というのはそういうところがります。人の人生も、いろいろな姿の遠景、というのは行きすぎですね。

2008年09月08日
00:09
 解題 その5

 h.雪柳さん
 
 詩集のタイトルになっている作品。行分けで書かれた部分と散文で書かれた部分があって、行分けから散文になったり、散文から行分けなったりする。全体で散文の部分は1行30字で70行、ページにして7ページに及ぶ作品。何かの会議が開かれているホールで詩人が「雪柳さん」と呼ぶ人物に出会うシーンをメインに、風邪を引いて熱に浮かされて青春時代の恋の夢を見ている状態と子供を床屋に連れて行って、そこで観葉樹に見すくめられたように感じたというシーンが、六連に分けられて交錯して語られる。
 
 第一連 行分けと散文
 何かの会議が開かれているガラス張りの明るいホールに行って、列の端の空席に座って、後ろに席の知人に話し掛けて雑談していていると、左隣の席の間近な後ろ姿に視線が止まって、その背中に「雪柳さん」と声を掛ける。
 
 第二連 この連全体が()で括られた散文。
 この冬、三日間風邪を引いて寝込み、「睡眠の波間」に青春時代の恋の続きを生きていた、薬を呑み、吐き気を飲み、雑音に悩む。
    
 第三連 この連も全体が()で括られていて、散文から行分けなったりする。この連は2ページ余りで、連としては一番長い。
 子どもを床屋の鏡の前に座らせて、待合いの席の戻ろうとすると、
 「ふと強い視線を感じた
  背後から抱きすくめられたような
  痛みをともなう手の気配があった
  はっとして視線の方に振り返った」
 席の戻って、店内を見回すが、マスターも理容師も客の散髪をしていて、視線の主は分からない。そこに、見覚えのある鉢植えがあった。先日、軽トラックから店に運び込まれるところを取りかかりに見た。観葉植物に「強い視線を放つ熱源のような眼」があるのか。それとも「生々しい錯覚」か。子どもは散髪が終わって「紙相撲の力士」のように抱き下ろされた。
    
 第四連 行分けから散文になる。第一連からの続き。
 わたしに呼ばれた「雪柳さん」は振り向いた。昔と変わらない清々とした表情で頬笑んだ。わたしはこどものように安心して後ろ人と話していると、わたしの身体の左側が雪柳さんの右側にぴったりとくっついていた。あわてて身を引こうとしたが、身体は吸い取られるように臨席の男の「体温の在りか」の方に流れ始めていた。
    
 第五連 散文から行分けになる。
 会議の午後のプログラムの前に入浴と昼食に時間。周囲の人がいなくなって、一人残った。みんなさっぱりとした様子で戻ってきた。向こうの人混みの中に夫によく似た人が、湯上がりの火照った顔をして歩いて行くのが見えた。わたしもお風呂に入らなくちゃと立ち上がる。後ろ席の人も雪柳さんも、もう何処にもいなかった。
    
 第六連 この連も全体が()で括られた散文。第二連からの続きになっている。
 熱が下がるに連れて意識がはっきりしてきても、もっと夢の続きを見たいと求めていたが、「遠ざかっていく船のように」、薄れていくのを追いかけようもないと感じていた。「時ならぬ夢に甘えた」。
 小学生の通学路に見た「咲きあふれる白い雪柳」を写真のように思い出した。
 今年もどこかで雪柳の雪崩を眺める楽しみに胸が熱くなった。
 
 この詩は、非常に主観的な体験を扱っているので、読者にどの程度通じるか、またどう受け止められるか、書く上で心理的に微妙なことがあったのではないかと思われる。詩人はそこを勇気を持って乗り越えたことで、詩集全体の言葉の範疇を広げることが出来て、主要な作品になった。詩人はこの詩を詩集のタイトルに選んだ。そこに主張が込められている。多分、「雪柳さん」って何者なんだろというところで、「ふしぎな詩集」という批評を受けることになったのだと思う。
 この詩は、三つのシーンが交錯して語られている。メインは会議が開かれている明るいホールでの「雪柳さん」と出会いのシーンだ。それに風邪を引いて熱の浮かされて青春時代の恋の夢を見ていて、熱が引いた後の朝、雪柳が咲くのを想像したシーン、もう一つは子供を床屋に連れて行って、観葉植物の視線に抱きすくめられたように感じたシーンだ。それぞれのシーンで、異性の身体的吸引力、夢が持つ力、幻覚的な視線の力が働いている。それらを言葉で語ることによって、超現実的な力として語ることが出来た。雪柳さんという名前、若い頃の恋人、植物、視線、白い花を咲かせる雪柳、それらがイメージとして重なっていくところがシュールリアスティックで面白い。
 雪柳
 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/yukiyanagi.html

コメント
2008年09月09日
22:44
sumire
雪柳のカラー写真、クリックすると、桜の木の下で、見事に流れる雪柳の満開が見られました。ありがとうございます。目白通りを近所の友達2,3人とランドセルをカタカタいわせながら足早に通学した小学生の見た花より断然見事ですが。雪柳は子供にとっても目に親しい花ですね。郷愁の花です。まとまりのない妙な作品ですが、タイトルにしているくらいですから、自信作なのでしょうか。この自覚のなさ!雪柳という苗字の恋人がいた、というのはフィクションで、理想の男性という設定をしたかったのだと思います。「白馬の王子」と言うと、身も蓋もなくなります。シロウヤスさま、sumire 拝

2008年09月10日
00:27
シロウヤス
sumireさん
子ども頃の記憶も絡んでいたのですね。それが言葉の上で「雪柳さん」になり、不思議な体験を呼び出す空間を作っていったというふうにも考えられます。

2008年09月11日
13:53
sumire
シロウヤスさま
もういちど読み直して気がついたことですが、()をつけた記述が、実際の生活、括弧のない文章が、風邪を引いて寝込んでいたあいだの妄想として分けたかった。つまり()の現実のほうが副で、妄想のイメージのほうが正という逆転状態を書きたかった、それほど現実が衰弱していたのだと気づいた次第です。sumire拝

2008年09月12日
11:24
シロウヤス
sumireさん
「現実が衰弱していたのだ」と。たしかに、「少女懸垂」に表されたことばから、そういう感じが伝わってきますが、でも詩として言葉を書くことで、衰弱した現実の時間を切り抜けたと言えるのではありませんか。わたし自身、詩の言葉を考えるということには、時間を切り抜けるという現実的な意味合いがあります。

2008年09月12日
22:12
sumire
シロウヤスさま
「詩の言葉を考えるということは、時間を切り抜けるという現実的な意味合いがあります。」
そうですね、誰でも現実と戦いながら生きていますが、詩人は言葉によってそれをやろうとするのでしょうね。この詩集を出したのは2000年9月ですから、8年経って、現在はどうかな、と思います。sumire拝

2008年09月09日
00:31
 解題 その6

 I.小さな酸化
 
 20行三連の行分けの詩。
 第一連 一単語か二単語の短い行が8行。
 マッチ棒の先端の材料と形態の記述と発火と燃えた後のイメージが書かれている。硫黄、燐、パラフィン、円錐形、夕陽の燃焼、昆虫の這い跡。
 
 第二連 片仮名と数字が1行に1字で6行進み、最後の1行が片仮名3字。
 全部を書き移すと
 「ル ネ 1 7 5 7 トリノ」
となる。トリノが地名と思われるが、意味は不明。

 第三連 第一連と同じような短い行の5行。
 朝の公園かテラスかのテーブルの上のポプラの葉が翻る情景を語っている。
 
 この詩は、多分、主観を離れた言葉の展開の試みと受け止められる。つまり、言葉だけの空間を作ろうとした。そういう詩を書くということに、敢えて意味を求めると、読者には分からない詩人の現実の人間関係と感情の動きが、詩としての言葉を書かせた動機になっているということだろう。そんなことを考えたのは、マッチの発火を「小さな酸化」とすることで、隠喩的な意味の含みを持たせた、と受け止めたからだ。
 ちなみに、この第二連について詩人に尋ねたら、
 「ネル1757トリノの件ですが、お酒のラベルから取ったのではないかと思います。はっきり覚えていなくて。醸造所の創業年と場所ではないかと。ネルは前置詞in+定冠詞ilでnelです。」
という回答を貰った。なるほど、言葉の自由を求める気持ちが働いていると思う。

 J.荒川堤
 
 三つのパートで構成された散文詩。1行30字で38行、4ページ。
 荒川堤と現在自分が住んでいるところとの距離のこと、また書くことになった理由と、少女の頃、二度、荒川堤に行ったこと、それにそこで一緒だった亡くなった人たちに対する呼びかけが語られている。
 
 最初のパート 副題のような1行の後、7行。
 「荒川の河川敷には二度しか行ったことがない」
 私鉄で湘南の方面へ一時間ちょっとのところに30年住んでいる。両親は地方出で、旧藩士の私邸の敷地に住んでいて周りには肥後弁の人が多かった。最近、中学生の頃に読んだ本について書く機会があって、思春期のことを思い返すことが多い。
 
 二番目のパート。
 「荒川堤には中学を卒業するまでに二度行った」
 一度目は、小学生6年の時、姉が友人の吉永さんの家に連れて行ってくれて、荒川堤でボートに乗った、姉と吉永さんが真ん中で、わたしと吉永さんの弟が両端に乗った。四月になったらあなた達は同じ学校に行くのよ、と吉永さんは言い、「ほんとうの女のひとに会ったような気がした。」風が出て、緑の草地と眠いような川の青。
 二度目は、中学の机を並べていた加藤さんをお見舞いしたとき。クラスの男の子と喧嘩して休んでいた。紅茶とケーキの後、荒川堤に行って、草の上に座ったり走ったりした。少し前まで彼女は『赤毛のアン』に夢中だった。両手を伸ばしてからだを回して、喧嘩した相手の男の子が好きだといった。高校に入ってから、加藤さんは亡くなったと知らされた。
 
 最後のパート。
 「ときどき遠くへ呼びかけたくなる。荒川堤へ行って、川の向こうへ、空へ」、第二連で登場した人たちの名前に呼びかける。子どもの頃に死んだ弟たちの名前へ呼びかける。「そしてもう一度、かーとーさーあーあーあーあーん……」
 
 二番目のパートの荒川堤に行った思い出だけが書かれていたら、単なる散文になってしまうが、現在の詩人が住んでいるところと荒川堤との距離が語られ、既に亡くなったひとたちへの呼びかけがなされると、途端に思い出の中の人たちが立ち上がってような感じになる。場所の空間的な距離が、思い出の時間的な距離に変わって、亡くなった人に呼びかけるという行為が実感される構図になっている。

2008年09月13日
22:29
 解題 その7

 k.天沼橋
 
 39行6連の行分けの詩。
 第一連12行。
 天沼橋がJR中央線をまたぐ青梅街道の陸橋であり、その両側にある印章店とか予備校のビルとか宗教団体のホールとかあるという記述。ツツジの植え込みにタクシーの運転手がタバコを吸う。「ひっきりなしに走る排気ガスに耐えている樅の老木一本」。天沼橋の日常的な情景が語られている。

  第二連4行。
 神田川沿いの小学校に通い、行き帰りに橋の上から流れを覗いていた。記憶へと切り替わる。

  第三連6行。
 流れに関係なく、橋の上から身を乗り出す人は多いだろう。
大人になるまでに死にたいと思わない人がいるだろうか。記憶から経験を踏まえた思考へ。

  第四連3行。
 手摺りに腰掛けてめがけてくる電車に向かい合っていた。あやうい青春の感傷の一つだった。再び記憶へ。

  第五連4行。
 布団を抱いて二階の窓から飛び降りたこと。
 家出しようとして雪が降っているのでやめたこと。
 詩人自身の危機的な記憶。
 
 第六連10行。
 天沼陸橋の近くに、出てから四十年になる古びた両親がの家があり、毎週、片親に会いに戻るようになった。鉄橋の手摺りに《天沼橋》というネームプレートを見つけた。手摺には鉄板が継ぎ足されて線路をのぞけなくなった。でも、ホームから飛び降りて自殺する人が多くなった。日常的な情景に戻る。
 
 第三連の最後の2行は「いちども死にたいと思わずに/大人になるひとがはたしてあるだろうか」で終わっている。詩人はそういう思いを持ったことがあったと語っているわけだ。この詩には、その若かった頃の死への思いと、今も死の装置となりうる鉄道というものが語られている。日常的な陸橋の風景が危険を潜ませている。詩人も日常生活を送る心の奥に死の意識を潜ませているのだろうか。

2008年09月14日
22:37
 解題 その8

 L.どんどん青くなっていく
 
 20行3連の行分けの詩。
 第一連10行。
 五月になって、ピンクの若葉を急に緑に変える香椿(ちゃんちん)の木。どの木よりも高く人を寄せ付けない。
 「嫉妬ぶかい支配者が手をくだそうとすれば
  真っ直ぐな幹をのこぎりで挽くしかないだろう」
  
 第二連4行。
 芽吹いたばかりの春の芽は青空に揺れる。若い頃は屈託無く心が揺れていた。
 
 第三連6行。
 二階の窓を見上げるわたし。反逆者として挫折した兄をどうやって応援すればいいのかと。支配者の命に反した行動を取ったアンチゴネーの気分に自分を重ねる。
 
 「天沼橋」と似た展開で、詩人が出会った現実の情景から、心の中の世界に言葉が進んで行く。現実の情景は五月の若葉の色をどんどん濃く変えて行く、10メートルもあろうかという高い香椿の一本の木だ。それを見て、支配者がその存在を支配しようとすれば、その勢いからして、切り倒すしかないだろうと想像する。そして、詩人は自分が若かった頃に思い至り、反抗して挫折した若い兄をどう応援すればよいか思い悩んだことを思い出す。ここでは、詩人が既に60歳前後になって書いた詩として、植物の成長の勢いを目にして若い頃を懐古したものと受け止めた。
 香椿の写真
 http://blog.livedoor.jp/foto236483/archives/51076748.html
 
 http://yuuji30.hp.infoseek.co.jp/5gatu/tyantin.html
 
 
 m.煙のごとく
 
 12行4連の行分けの詩。
 第一連5行。
 静かな気分の明るい秋の午後。「たばこはやめたの」といいながら、細巻きの葉巻に火をつける。青い煙がテーブル越しに漂ってくる。

 第二連2行。
 自分の軽はずみな行為に、突然、怒りとも悲しみともつかない感情が突き上げてくる。

 第三連1行。
 八木重吉の詩の引用。
 ─琴はしずかに鳴りいだす─
 
 第四連4行。
 自分のことを思い、肩越しの秋の舗道に視線を漂わす。
 
 もの思いの秋の一日の感情の動きを語った作品。「たばこはやめたの」といいながら、細巻きの葉巻に火をつける。葉巻だからやや強いタバコの煙の刺激に対する生理的な反応が先に来て、それに引かれるように自分の軽はずみな行為に対する感情と自意識が流れたというわけ、と語られていると受け止めた。

コメント
2008年09月15日
02:36
sumire
チャンチンの木、写真ありがとうございます。ええ、まさにこの木です。どうしたことか、今年の春から、枯れはじめました。緑の葉の付いた枝をわずかに残して、葉のない枝が増えてきました。立派な成木で、遠くからでも見えていました。狭い庭で、根が張る限界に達したせいか、猫がしょっちゅうつめを研いでいたせいか?近頃は風が強いと枝が折れて、屋根に当ります。自分より寿命が長いと思っていたのに、こちらが看取ることになってしまいそうです。秋には真黄色にもみじしていました。シロウヤスさま、sumire拝

2008年09月15日
11:49
シロウヤス
sumireさん
毎日花の写真を撮っていると、植物の時間ということを、ときどき考えます。すっかり枯れてしまたと思っても水をやっていると目が出たりして、時間に休みがあったりするのかな、などと思います。

http://www.haizara.net/~shimirin/blog/shirouyasu/blosxom.cgi

2008年09月15日
15:04
sumire
ハイビスカスの赤、きれいですね!槿の薄い桃色も。写真にひとこと添えてある言葉が好きです。花を見ているひとの気持ちが伝わってくるように思えて。シロウヤスさま、sumire拝

2008年09月15日
21:39
 解題 その9

 n.スタラクタイツ・スタラグマイツ
 
 1行30字で25行に組まれた散文詩。
 西洋の中世の、亡霊女と亡霊男のそれぞれ二つずつの独立した独白で構成されている。先ず、タイトルの「スタラクタイツ・スタラグマイツ」が、stalactiteが鍾乳石で、stalagmiteが石筍であることを頭に置いて読むことを勧める。
 
 亡霊女の第一の台詞。
 館の地下の墓室にかすかに伝わってくる喚きに誘われて石の寝台から起きあがって奥に入ると、足下が滑り、四つん這いになり、衣服がびしょ濡れになったが、ぼんやりと白く光っている地面を這い続けた。声と思ったのは、水の流れる音だったのか。
 
 亡霊男の第一の台詞。
 兄に襲われて泉の中に落ち、沈んで、肺に水が流れ込み死んだ。数ヶ月、そのまま逆さに水の中に浮いている。水音がかすかに伝わり、目は見開いたまま、金髪は水の流れに吹き流れている。
 
 亡霊女の第二の台詞。
 女にとって這うことは辛いことではない。白い地面に擦れて血を流すこともない。内出血で脚は腫れるだろうが、生前の姿から解放されて、骨格を留めたまま、コウモリかミミズかに食べられるだろう。
 
 亡霊男の第二の台詞。
 無機質の世界で、顔の肉は水に流されていく。希うというほどのことではないが、骨格から析出された結晶の一片が水に流されて行くのに従って行って見たい。
 
 詩人の注記として、
 「*Stalactites and Stalagmites
 メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』を土台にしたモノローグ。詩誌『蘭亭記』8号のテーマ「奇妙」に沿って書いたもの。」
 とある。
 『ペレアスとメリザンド』の筋書きでは、「国王の孫のゴローは、自分が森の中で出会って城に連れ来て妻にしたメリザンドが、異父弟のペレアスと恋に落ちたので、怒って、「盲人の泉」の傍らで会っているペレアスを剣で刺し殺し、メリザンドに瀕死の重傷を負わせる。メリザンドはショックでお腹の子を産み、死んでしまう。」という人物の関係なので、詩の中の亡霊女はメリザンドに当たり、亡霊男はペレアスに当たることになる。
 しかし、この詩は戯曲『ペレアスとメリザンド』の内容とは関係ないように思える。詩人に必要だったのは、水浸しの男女の死体が、実体としてではなく、イメージとして言葉だけで登場させることで、詩人はそれによって、その死体のイメージに綺麗な鍾乳石や石筍のイメージを重ねることで、「奇妙な」美しさを語ることが出来た。とはいっても、この詩集の後半には死に触れた詩が並ぶ配列となっているので、詩人には死ということを語りたい思いがあると思われる。

コメント
2008年09月17日
10:56
sumire
2000年10月12日、長野信濃町局のスタンプのある絵葉書は、矢川澄子さんからいただいた唯一のお便りです。『雪柳さん』を贈らせていただいたことにご返事を下さったものです。「散文詩風なn.がいちばん好きで、盗みたいくらいです。天沼陸橋付近にはこの春までアジトをもっていました。」エルンストのオブジェの絵葉書の裏に書いてくださったお言葉ですが、それからずっといくども読み返し、大切にしています。シロウヤスさま、sumire拝

2008年09月16日
23:42
 解題 その10

 O.にぎやかな夕ぐれ
 
 一連26行の行分けの詩。
 詩集の最後の詩。この詩は、夕暮れの商店街の情景を語りながら、その現実の情景から距離を取って、別の思いを語っている。難解なところがある。
 街では人々は楽しそうだが、家の中は、犬も猫も眼を細めて耳を澄ます静けさ。商店街は赤白の提灯で飾られ、金色のイルミネーションが星の瞬き消す。暮れなずんだ青い時間帯は、仕事から解放されると同時に、自分に対する思いも濃くなる。夕方、バスは定期的に走り、数少ないバスの客となって去る人たちは小さな息をつく。賑わうレストランの窓から灯りがもれている。「言葉は疲れて床についた/青と黒のコンビの/空間のベッドで/たっぷりと眠らせてあげたい」。夜を楽しむ人たちにとって時間はあっという間に過ぎてしまう。

 「言葉は疲れて床についた/青と黒のコンビの/空間のベッドで/たっぷりと眠らせてあげたい」という詩句は、隠喩として書かれていると受け止められるが、その譬喩を解くコードがうまく掴めなかった。この「言葉」を「詩を書く言葉」と考えて、「詩を書こうとしても言葉は眠ったしまったように出てこない。ノートブックに書き留めて、イメージが湧いてくるのを待とう」というふうに理解した。そうすると、勤めの帰り、賑やかな商店街を通り抜けて、バスで家の向かう途中、詩を書くという思いが心の中に生まれてくるという内心を語っていると受け止めることが出来る。
 この詩で、詩集『雪柳さん』の詩を全部読み終わった。
 
 
 詩集の後書きに、1994年の『ウラン体操』の後に書かれ発表された詩を書き直し、また数編の短い詩を書き足して、「第三詩集」としたと書かれている。日付は2000年初夏となっている。詩集『雪柳さん』の詩は六年間に書かれた詩ということで、収録された詩は全部で15篇だが、いろいろなスタイルになったのだろう。スタイルはいろいろだが、生活の中で表現する心を持ち続けている詩人の姿が見えてきた。生活は身体が支える、その身体を透明な美しいイメージに昇華させたのが「スタラクタイツ・スタラグマイツ」だと思った。その昇華は、詩人が持っている強い生命力に因るのではないかと思う。この解題者のわたしが詩人の有働薫さんと出会ったのは、もう五十年も前のことになる。そして四十数年間はお会いすることもなかった。当時、わたしには、有働さんは「芯の強い少女」という印象だったが、その強い芯が詩の言葉に生きていると感じた。また、この詩集をゆっくりと読んで行くことが、年配の女性の書いた詩を若い女性のイメージに重ねて読んでいくという珍しい体験にもなった。

コメント
2008年09月17日
10:36
sumire
シロウヤスさま
お忙しい中で、解題を続けてくださって、本当にありがとうございます。どきどきしながら解題が進んでいくのについていきました。
<年配の女性の書いた詩を若い女性のイメージに重ねて(ゆっくり)読んでいく>とおっしゃっていただきました。この後も詩(と自分で呼ぶもの)を書き続けて現在に至っていますが、「自分」ということにまともにぶつかっているのは、この詩集と次の『スーリヤ』辺りでピークに達したように思います。書くことで自分の真の欲望を引き出そうと必死だったような。<生活は身体が支える>日々ご自分の肉体と闘っていらっしゃるご様子が分かり、感動しています。同級生としては自分のことでもあります。sumire拝

2008年09月17日
22:25
シロウヤス
sumireさん
作者が読んでいて下さるということで、張り合いがありました。人がどんな風に詩を書いていくのか、ということが見えてた気がして楽しかったです。ちょっとお休みして、次の詩集も読んでみたいと思います。

2008年09月18日
11:29
sumire
ありがとうございました。どうぞお体に障りませんように。支えてくださる奥様にも厚く御礼申し上げます。さきほど灰皿町の有働のブログに解題の3回目をコピーしてアップさせていただきました。よろしかったでしょうか?私にとってもとても充実した追走でした。はあ、はあ、はあ!

2008年09月18日
21:50
シロウヤス
sumireさん
Blogへの転載、OKです。紹介して下さってありがとうございます。いろいろは人に読んで貰えて嬉しいです。よろしくお願いします。
sumireさんのBlog
灰皿町吸殻山77 有働薫のblosxom Weblog
http://www.haizara.net/~shimirin/blog/udo/blosxom.cgi

(この文章はSNS「なにぬねの?」に掲載されたものです。日付はその掲載の日付です。)

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