先ず、この岩佐なを詩集『幻帖』を読む切っ掛けについて書くことが、この独特の雰囲気を持った詩集に入る道筋に通じるように思える。わたしは、9月17日に目白通り沿いの、鬼子母神前商店街の入り口付近にある「ソーケン整骨院」で骨格矯正と交流磁気シャワーを受けた後、都電鬼子母神前停留所の前にある「釣り具喫茶店Reels」に行ってコーヒーを飲みながら、書肆山田の鈴木一民さんと雑談をしようと思い、携帯で一民さんに電話をしたら、岩佐なを詩集『幻帖』が丁度出来たところで、これから岩佐さんとビールで乾杯しようと思うが、来ませんか、と誘われた。場所は東池袋の寿司屋武蔵だという。杖を突いてやっと歩くわたしの脚では、目白通りから東池袋まではとても歩けない。逡巡していると、タクシーで来たらと、その道順を教えてくれた。目白通りから明治通りに出て、大ガードの五叉路を右に、あずま通りを行ってサンシャインに抜ける路を左折して、右側に「武蔵」はある、という。タクシーを拾って、教えられた通りに目白通りから千歳橋を過ぎて右折して明治道路に出た。その右折した辺りの、信号で一時停車した窓から見た夕方の風景の印象が記憶に残った。「武蔵」には既に岩佐さんと一民さんがカウンターに並んで腰掛けてビールを飲んでいた。お久し振りの挨拶を交わして、わたしは岩佐さんの隣りに席を取って、ビールで乾杯をした。それから、持って来てあった一冊の『幻帖』を手にとって開いた。パラパラと捲ると、つぎつぎと印刷されたエッチングの挿絵が目の入った。鮮明な線で描かれた異様だがちょっとユーモアも感じさせる生きものの姿が綺麗な色刷りで刷られている。思わず、感嘆した。というような道筋で詩集『幻帖』と接したわけだ。そこには、詩人の姿と、詩集の挿絵のエッチングと、取り交わした言葉があった。そこでは、詩集の詩の言葉を読むことはなかった。
それから三日後、詩集『幻帖』が送られてきた。夕食後、いつもの通りベッドの横になって、うとうとしながらテレビの時代劇を見た後、仕事場に行って『幻帖』を開いて読み始めて、全体で107ページの詩集の半分ほどを一気に読んだ。ページを開くと、先ず、
わたしの手許に写本[幻帖]〈六冊と一箱(未綴の絵図
三十六杖、文書七十二枚入)・成立年不詳・複数人によ
る書写〉があり、幻視、幻聴、幻覚、霊、妖物、不可
思議なことどもが断片的に書かれ、あるいは、描かれ
ている。これを口語訳し手を加え、現代風に書きかえ
たり、そのままをあたかも自分が作ったように見せか
けたりして、何冊かにまとめようかと思いはじめた。
挿画については、銅版画や素描で画きあらためてみた
いのだが。
と書かれている。つまり、創作ではなく、元になる古文書の写本があって、それを書き直したものだという。だが、本当にそんな写本があるかどうかはともかく、わたしは詩集の題名に「幻帖──岩佐なを」とあるので、この断り書きを、書かれた言葉の主体をはぐらかすための詩人の演出と受け止めて読み進めた。
最初の詩は、羽の生えた女性の姿のエッチングの挿絵の後に、「『序』と思ってほしい部分/〈どこまでが『序』なのか不明〉」というようなはぐらかしのタイトルで、鳥女神が持った運命の札が読者の行き先をきめるとある。次に、札には「まぼろしの塔」と「塔のまぼろし」、「幻のいきもの」と「いきものの幻」が描かれてるとある。鳥女神の腋の下の汗を啜ると舌がちりちりするとか、札についての説明や「詩」についての問答が書かれている。
記憶のようでもあるのです。
想像のようでもあるもです。
いや、はっきり知覚したような。
「はっきりなのに、ような、なんですか」
はっきりとようななんです。
「ばかですね」
すみません。
ということを元にして書かれたことばが、詩なのかどうかということ。
「詩が初めて生まれたころ、だれがこの一行を
この文字列を『詩である』と決定できたのですか」
知りません、プラトン?
(ホントカヨー)
「いまは詩人ですか」
詩人は自分の書いたものを詩だと思い込むのです。
「なにも思い込まない詩人もいますね」
いかにも。
いくにんも。
とまあ、詩をおちょくったようなやりかたで距離を取って、先へ先へと、20枚のエッチングの挿絵と呼応して、非現実的な存在や話が語り継がれていくのだった。ある意味では、「詩による詩論の試み」とも受け取れる始まりとも言える。
わたしは、テレビの時代劇を見た後にこの詩集を読んだので、語られていることが昔のこととして、その時代劇の裏話のように感じられた。そして、時代劇では現代人の役者が昔の侍や町人や農民を演じているわけだが、この詩集では現代語が古文書の言葉を演じているのだと受け止めた。つまり、この詩集の詩は言葉がもう一つの言葉を演じるという仕方で書かれているというわけだ。
蹲った女と思われる人物の背中から、煙のように幾つもの顔が立ち上っていく挿絵の後に、
人皮ではなく雁皮の
ような薄いひらひらが
ひとがたに切り抜かれ
からかみに貼られている
だれのかげか、おぼつかなくもいとおしい
仕草の影絵に見えるか
焼け死んだおんなのあぶらじみに似てるか
身内の肌のかおりで
東洋のうすあおい蘭花が
一輪挿しにつきささっている
灰色闇に花弁は無闇とくっきり浮きあがり
その等に透明な蜜を宿し
(不潔な中指で犯したい)
同余のおにんぎょさん
(鬼ン魚
といったような言葉が続く。そしてこの一連の言葉は
乳首はももいろの
小塔のように起っている
まめは湿気らない
おにんぎょは裸体で横たわったまま
頭部に植えられた漆黒の髪を
わらわら傷んだ畳にひろげているわらわら
からかみではひとがたのかたがみの
両手首が剥がれはじめている
いる、いない
なにが
なにがなにして、
なんとやらあ。
告白めいたもの、いかがですか。
というように終わる。一種の美的な趣向を実現したイメージを語り継いで、語りの口調のあり方を浮き上がらせて、詩人の演技者としての立場を示している。
詩集の中程で、「ゆきくん」という人物についてのエピソードがかなり長く語られている。その書き出しの部分で、「ゆきくん。覚えてますか。/あたしを騙した十五の初夏の亀戸を。」と、亀戸が出てくるので、その亀戸で生まれて育ったわたしとしてはびっくりした。それはともかく、この部分は、亀戸天神でゆきくんからキスされた女が、ゆきくんと別れ、母親を失い、男から男へと転々とした末に、上海に流れ行った女の語りとして書かれている。そして、次に「ゆきくんのもがたり(断片)」という散文の物語がある。着衣を脱いで浴衣に着替えていると、白衣の人が来てちぐはぐな会話をして、唐紙障子を開けると「茶の湯」、襖が開くと「お化け高気圧茶釜」が出現して、白衣の人にせがされるようにその中に入る。
梯子を
降りてゆくと内部は柑橘系の皮膚の臭いがい
っぱいで、その中央に小型寝台、その上に女
性が横たわっている、真紅の夜着が広がって
赤えいを想わせる、小さな顔は赤ん坊の拳ぐら
いである。不思議な感じがして容貌をのぞき
こむと、驚いたことに「自分」である。一般
に体内には男性と女性(陽と陰)の気がめぐ
っているように、ひとひとりのたましいには
男の要素と女の要素が息づいている。その女
の要素がわたしの内奥から抜け出して骨肉化
したのだろうか。わたしはこの世で「男」と
して生きているから、女の部分は少ないと思
う、だから緋鯉くらいの大きさの「おんなの
わたし」 にしか肉体化しなかった、にちがい
ない。科学的だ。
最後は、この自分から生じた女が「極端な遠近法を見るように」遠ざかって行き、自分は釜の中に残されて終わるという話なのだ。
この自分の女らしさが肉体化するというところ、つまり非実体的なものが実体になるというところが、この詩集の成り立ちを語っているように思えた。実体化するところでいろいろと工夫がなされている。脳内に浮かんだイメージが、言葉になり、版画という実体になるという創作の過程を、主体を抜きにして、古文書の現代語訳とするというやり方で倒錯して見せたというわけだ。いわば、この詩集の言葉は「詩という言葉」を演じるためのシナリオとして展開していることになる。
ややこしい言い方になってしまったが、結論としては、詩集『幻帖』は話として面白くどんどん読めて、そこに入っている挿し絵も楽しめるが、その言葉の主体抜きということで、ゲームを傍らで見ているように退屈を感じてしまうのだった。しかし、その「退屈」が実は詩人自身の「表現」であるようにも思えるし、最初に書いたこの詩集を手にするまでに街中をタクシーで走った道のりと重ねて、時代の「退屈」と受け止めることも出来る。
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