アーカイブ: 2009年

2009/08/27

Permalink 17:25:19, カテゴリ: memo, views: 278 Japanese (JP)

森ミキエ詩集『沿線植物』の感想

 森ミキエ詩集『沿線植物』は、勤めと家庭を持つ四十代の女性が、日常生活の中で失われがちな自意識を詩を書くことによって保とうとして書かれたものと思われる26編の詩を収めた109頁の詩集で、その内の11編が行分けで書かれ、10編が散文で書かれている。読み終えて、もう一度各作品を振り返ってみると、行分け詩と散文詩に書き分けられたのは、内容に共通する違いがあることに気がついた。行分けの詩は、現実の場面に作者が立ち会っていて、そこで幻覚か幻覚に近い感じを持ったことが、行を分けてリズムをつけて語られているのに対して、散文で書かれた詩は、作者の頭の中で終始する妄想や妄想になっていく現実
 が語られることが多いように思えた。いずれにしろ、四十代の女性が日常生活の中で生命感を得て生きる力にするために、自分の中に浮かんだ幻覚や幻想を言葉で書き表すことによって詩というものを成立させているわけである。現在、詩という表現が機能している一つのあり方をここに見ることができよう。
 最初の詩は、「午後の図書室」という行分けの詩で、「ひらいた本のページをよぎる鳥影の速さ/中空に消える血の速さ」と書き始められて、何気なく手にした知らない横文字の古い本の中に、「黒抜きになって すわっている二羽のうさぎのうしろ姿」を見つけるが、もう一度見ようとするともう見つからなくなる。また空白のページに出会い、空白を一つの表現と思ったりする。心がざわめき、ざわめきは駅前広場の情景に続き、そこで若い自分が「どうぞ わが家へ ようこそ わが家へ」と書かれたビラを配っている。わが家って何処だろう、と思う。捨てられたビラは風に飛ばされる。幻覚だった。本を閉じ、また開くが、もう空白のページは見つからない。何故自分がここに来たのかも忘れいる。そして詩の最後は「ガラス越しの晴天/さがしものが はじまる」で終わる。
 この詩は、森ミキエさんの詩のあり方を諷喩として語っていると受け止めることができる。図書室は言葉のある場所、そこで解らない文字で書かれた古い本を手にする、つまり難解な詩の本を手にする、その本の中に「すわっている二羽のうさぎのうしろ姿」の絵を見つける、何の喩えか不明だが、小動物の姿として心が癒されるイメージ、次に空白のページに自分の家に人を誘うビラ配りする若い自分の幻覚をみる、自分への関心を求める、そしてさがしものを始める、つまり言葉を探して詩を書く、ということ、というふうに解釈できる。書き手としては、こんな意味合いを追って書いたのではなく、内心で感じている不安と緊張を、言葉が産み出すイメージにして追って書き進んだと思われる。
 読む方は意味を求めたくなるが、書く方は、意味よりも言葉が呼び出すイメージを追って、ある意味ではイメージを辿る旅をするように、またある意味ではイメージのぶつかり合いが生む緊張感を内心で楽しみながら、自分自身の姿に衣装を合わせて鏡に映してみるようにセルフイメージを作って行くようだ。
 詩集の三番目の詩「薔薇の地形」は、自分の頭の中に湧き起こった妄想を言葉にして語るのを楽しみながら、イメージがもたらす緊張感を乗り越えるようにして書かれた散文詩の力作だと云えよう。
 この詩は、「夜、口中にバラの花が宿る」という一行で始まる。この口の中のバラの花が開いていくという妄想と、海岸線を娘と辿る間に娘がどんどん成長して手の届かない存在になっていくという妄想が、交互にカットバックする構成で書かれている。口の中のバラの蕾を舌でなぞっていくと花びらが開く、そしてそれが男の舌先だと気づき、男はくの字に体を曲げて眠っていて、その足元に妊娠した娘が蹲っていて、私は二十歳の娘と同じくらいに若く、娘に隠れて男にキスをする、男は私たちを置き去りにする。そして口中のバラは花が開き、朽ちても、口から抜けないので、深呼吸しながら、服を脱ぎ、耳を剥ぎ眼球を取り、骨盤を弛め、体が軽くなり、浮かぶかと思うほど楽になる。
 一方、娘と私の方の妄想は、「私の踵は硬く罅割れて皮が剥けて痛いから、五歳になった娘を杖のようにして寄りかかって、歩いていく」と娘を分身のように感じているが、娘は私を置き去りにしたり駆け戻ったりしているうちに、迷路に入って、行く道を娘が嘘ついているのかと疑うようになり、娘の成長を感じる。そこで、男とのシーンに重なって、身重の娘は私を背負って急勾配を登り駆け下りて、必死に出産のための場所を求める。崩れる崖の縁で、娘は私を放置して行ってしまうが、這うように進んで、娘の足首を掴むと、ふくらはぎは鬱血して、赤い花びらがはらはらと霧の底に落ちていく。私はもう放置されたままでいることにすると、「口中でバラがの花がひらく」とバラに重なる。
 心の中に働く「女性性」と「母性」の葛藤が、言葉で具体的なイメージを探りながら語られていると言えることなのかも知れない。自分の身体の一部のように思っていた娘が、自分を離れて、自分に嘘をつき、男と関係を持ち身籠もってしまい、生むために自分を危ないところに放置して立ち去ってしまう。そこでバラが開き、身が軽くなるという、つまり、女性の自分が性的な縛りから解放されたという自覚を持つに到ったということなのかも知れない。
 「薔薇の地形」の次の現実の母娘関係を妄想のように語った散文詩「布の話」には、母親である自分には手に負えなくなった娘が女性としての存在と受け止めるに到ることが語られている。「私」は、「環状に結ばれたレールを一日に何周もする」、つまりJR山手線に乗ってぐるぐる何度も廻っている。一方では「私の十三歳の娘はリリアンばかりしている」、つまり「誰とも話さず家にこもって編み機を回し続け」家中のセーターなどを解いて、それでリリアン編みの紐を作り続けているのだ。引きこもり娘と母親、この母娘関係にある「私」は電車の中で外国人の赤いターバンに出会い、綿の花を摘む手や、また糸繰り車を回す手を想像し、自分の家にあるあらゆる布製の着るものを想像し、そこに電車の車輪の回転、山手線の周回、娘の編み機の回転、想像の糸繰り車の回転と、布を織るための回転と心理の回転がが重なる。異常な母娘関係が単に語られているだけでなく、「私」の想念が女性が手がける布の記憶へと伸びていくのだ。そしてその想念が女性という者の存在のあり方に至ったとき、娘の女性としての成長を感じるというわけである。
 詩集『沿線植物』の詩は、現実の身を置いている作者が、そこで感じたり、心に浮かんでくる幻覚や妄想を、それを楽しみながら、一面では道具として、自身の女性という存在のあり方を掘り下げて行く場になっていると言えよう。「シャワー」という詩では、「あなたの歌う声が聞こえなくなったから/そうだ、私は未亡人になろう」と喪服を着て外に出て、過去を忘れ、解放された気分を味わうというものだが、女の人ってそういうものかと、男性とは違った束縛感を持って生きているのを感じさせられた。詩集『沿線植物』は自分を見つめて生活している人の姿が感じられて読み応えがあった。

2009/08/10

Permalink 21:54:23, カテゴリ: memo, views: 358 Japanese (JP)

五十嵐倫子詩集『色トリドリの夜』の感想

 若い独身女性の生活と真情が、自分の生きる方向性を予感するところまで、工夫した言葉遣いで語られている十九編の詩を収めた103頁の詩集。生活と真情を語るといっても単に思いを述べるというのでなく、生活していて出会った場面や情景の中に自分を置いて、人々の姿や物事や事柄に比喩的な意味合いを重ねて、自分の真情をうきぼりにして、読者に手渡す。
 最初の詩「いつも一緒」では、朝、パパと手を繋いで坂道をスキップして歩いていく幼稚園児、犬と一緒に散歩する老人、そして「私」は一人でヘッドフォンから流れる音楽と一緒だと語って、それぞれの姿と比べて、自分が現在置かれている自立しているがちょと寂しい人生の位置と気持を感じさせるように語りを展開している。
 二番目の詩「タイムカード」では打刻に向かって走り追いかけるが、それがそのまま競争社会の生活態度や思いの持ち方の比喩になる。三番目の「ファンデーション」では化粧室で開いたファンデーションが砕けてしまったという小さな事件で、ファンデーションで自分を新しくするかどうかの問題が浮上してくる。「ココロとカラダ」では、夕飯を食べに行った定食屋でいろいろ人たちの間を通り抜けて「窓側のカウンターへ/お一人様の/特等席」に座って、窓ガラスの外の通過する人や車を見ているうちに、食べた料理の肉も野菜も通り過ぎてしまい、ココロが遊離して、カラダはその器になって空の器のままで電車の終点まで行って、ココロを呼び戻したと語られている。読者として敢えて言えば、大衆社会に生きて自分の人生をどう生きればよいかを、語られる言葉の裏側で探していると言える。
 十三番目の詩「ゆらゆらの日」には、空に引かれた飛行機雲を見て、突然不安に襲われた時、孤独な時間を過ごすことで、自分の手で言葉を掴んだということが語られている。勤めを休んで、部屋に引きこもって詩集を読んでいると、その言葉が水のように部屋を充たして、自分がゆらゆらと浮き上がり、管理されたプールで泳いでいる想像に身を任せて、監視員の制止を破って飛び込み泳ぎ切ると、足が立たないが、このまま外にも自由に泳いでいけるという気になれる。水から上がると、その手のひらに言葉が残っていた。と語られている。言葉を生きることを見つけたというわけだ。
 詩集の題名になっている「色トリドリの夜」という言葉が出てくる詩「振替乗車」は、勤めの帰りに乗っていた電車が急に不通になって別の路線の電車に振替乗車することになり、どの路線を取ればいいか、損得を勘案していろいろと考える、その路線を電車の色で語る詩なのだが、最後に「振替」ということを自分の人生のことに振り替えて語り終わる。「振り返られた私は/好きな色で塗り替えていく/黒く光る道を/緑でぬろう (稲穂がいざなう/青でぬろう (出航だ!/一歩踏み出せば/つま先から色が広がっていく//色トリドリの夜//いいえ、私は振り替えられていない/誰にも頼らずにこうして歩いている/塗り替えられたその先へ/私が歩いていく」
 「あとがき」に一節に、次のように書かれている。
 「詩は私の中から浮かんできた言葉に耳を傾けながら書いてきましたが、どこかで過去のワタシから変わりたいという思いが芽生えてきていたのでしょう。どんなに暗い夜でも、一歩踏み出せば色トリドリの道がひらけるのだと、詩の中で気づけたから、またここから新しい旅に出てゆけそうです。」
 この「新しい旅」というのは、準備中の「Poem & Reading Cafe 中庭ノ空」のことだと思う。五十嵐倫子さんからは、以前から、詩集が置いてあって、朗読会などを開ける「ポエカフェ」を開きたいという話を聞いていた。彼女のmixiの日記には、コーヒーや料理や経営の講習を受けに行ったりしたことや、店を開く場所を探していろいろな街を歩いたりしていることが書かれている。ということは、五十嵐さんの「ここから新しい旅」というのは、詩を書くだけでなく、詩を書く人が集まってきて詩集を読んだり朗読したりする場所を実現するということなのだろう。それは、詩が多様化した時代に、「色トリドリの」詩を一つのところに集まって受容できる現実の場所を持つということだ。詩を書く者が集まるところは同人誌だが、五十嵐さんは詩を読む人たちが集まる「ポエカフェ」を作ろうというわけだ。確かに、色トリドリの道がひらける「新しい旅」の始まりだ。詩を書くことから、詩の現実的な空間を拓く旅だ。「Poem & Reading Cafe 中庭ノ空」の開設と新たな詩の展開を期待する。

2009/07/28

Permalink 00:00:15, カテゴリ: memo, views: 283 Japanese (JP)

「第6回萩原朔太郎賞受賞者展覧会 鈴木志郎康」に行った短い感想

 7月25日に多摩美の卒業生たちと、その中の一人が運転する車で前橋文学館の展覧会場を訪れた。午後3時頃から2時間ほど会場を巡って、来館者の人の質問に応えたり、担当の小林さんと話をしたりした。
 
 会場は1階と3階に分かれていて、1階の会場の入り口に、わたしの写真と「受賞者展」に寄せた文章のパネルがあった。入り口付近にわたしが作った詩のプログラムを実行するパソコンが置かれて、キーを押すだけで操作できるようになっていた。黒い壁には魚眼写真が掛けられて展示され、モニターが壁に設置されて映像作品が流され、中央のガラスケースに3台の16ミリカメラとフィルムなどが飾られていた。ここには詩に関するものはなかったから、映像作家の個展に見える。
 
 わたしが行ったとき、丁度学芸員の小林さんの説明会があった日で、この会場に入ったとき、その来館者たちと小林さんが降りてきて、わたしは質問に応えることになった。一人の女性が、愛読書としてゲーテやランボーの本と一緒に、庄野潤三の「夕べの雲」があったがどういうことですか、と問われた。1970年代入って日常的な詩を書くようになることと関係があると応えた。
 
 それからエレベータで3階の展示室に行った。壁に年代順に「年譜」と「インタビュー」と「詩」が大きなパネルに印刷されて貼られていて、ガラスのケースに同人誌や原稿や詩集や大きく伸ばした写真が所狭しと飾られていた。パネルの文字情報が圧倒的な印象を与えるので、言葉の濃密な空間が実現されていると感じた。一カ所に「徒歩新聞」を手にとって見ることが出来るコーナーが設けてあった。
 
 パネルの文字情報は「図録」に掲載されているものだったので、既に「図録」を読んでいたわたしはちらっと見ただけで、ガラスのケースの陳列物の同人誌や詩集を見た。ケースの中に飾られているということで、自分との間に距離が生まれているのを感じた。7月26日付けの「日経新聞」にも書いたが、それらの物の実在感が、現実のわたしの不在をまざまざと感じさせられた。わたし自身の不在に迫られるということだった。
 
 つまり、既に抽象的な存在になった「鈴木志郎康という詩人」のデータがそこにあるということだった。現実に生きている生活者としてのわたしはそこにいない。ざっと見れば、高校生の頃から詩を書いて、沢山の詩集を出した詩人というイメージを、また丁寧にパネルを読めば、大学を出て、NHKに勤めて、大学の教員になって、その間にいろいろな詩を書いて、受賞して功をなした詩人というイメージを得るだろう。若干わたしの詩を読んでいる人だと、友人とやっていた多分余り知られていないちり紙で作った「中央公論!」というパロディや、「ビックリハウス・スーパー」に掲載した新聞のパロディを見て、面白がることも出来るだろう。
 
 一巡した後、担当の小林さんと話して、入館者が少ないということを聞いた。わたしのことを知ろうと思っている人などいるとは思えないから、それも無理のないことだと思う。しかし、「詩」とか「詩人」というもの、または「表現を続けて来た者」ということに興味があるならば、20世紀後半の日本で詩を書いてきた人間の有り様を考える切っ掛けにはなると思う。そういう視点を背景に持って見に来れば、何か参考なるだろうと期待するところです。

2009/07/23

Permalink 15:59:47, カテゴリ: memo, views: 541 Japanese (JP)

「萩原朔太郎賞受賞者展覧会 鈴木志郎康」図録の解題と感想

 「展覧会図録」というのは、展覧会で展示されたものを一冊に纏めた本なのだが、わたしのこれまでの創作活動を網羅しているので、「鈴木志郎康読本」とか「鈴木志郎康アンソロジー」として通用するようにも思えて、「こんな立派なものを作って貰えた」と思い、とても嬉しく感じたので、ここに解題を書いて紹介します。
 
 「第16回萩原朔太郎賞受賞者展覧会 鈴木志郎康」は前橋文学館で2009年7月11日から8月30日まで開かれて、この図録は会場で販売されている。大きさは、物差しで測ったら、縦258ミリ横183ミリ厚さ10ミリで、144ページ、表紙は、自宅の居間で立っているわたしを平山利男氏が撮影した写真が使われている。裏表紙には小さく飼い猫の「ママニ」の写真。表紙と背表紙には「前橋文学館特別企画展・第16回萩原朔太郎賞受賞者展覧会 鈴木志郎康 ──『新生都市』から『声の生地』へ極私を開く」と印刷れて、この外に背表紙には「2009 前橋文学館」とある。
 表紙を開くと、1ページ目にタイトルとその下にわたしが仕事場で立っている平山さん撮影の魚眼写真。それを捲ると、「水と緑と詩のまち前橋文学館」の「ごあいさつ」が印刷されていて、鈴木志郎康の『声の生地』が「第16回萩原朔太郎賞受賞」を受賞したこと、その詩人の紹介と協力してくれた人たちに対する感謝が書かれている。
 そして次にページが目次で、
 
目次
第十六回萩原朔太郎賞受賞者展覧会に寄せて  鈴木志郎康 4
寄稿 鈴木志郎康との一九六〇年代後半    八木 忠栄 6
   「ラジオ工作者」鈴木志郎康      粉川 哲夫 9
   表現の体力              萩原 朔美 12
   鈴木志郎康「先生」が教えてくれたこと 川口 晴美 15

Ⅰ 幼年期〜高校時代                  18
Ⅱ 浪人・大学時代                   24
Ⅲ NHK時代1 (広島)                30
Ⅳ NHK時代2 (東京)                37
Ⅴ 自立時代                      54
Ⅵ 多摩美時代                     81
Ⅶ 現在(『声の生地』)                95

作品コメント                鈴木志郎康 108
作品一覧(著作・映像作品・写真展)           116

自宅にて                        125
魚眼写真                        129
年譜                          132

となっている。

 寄稿して下さった人たちは、それぞれわたしと接触した側面を書いている。
 八木忠栄さんは、わたしが「現代詩手帖」に登場した頃のことを編集長の立場で書いている。
 粉川哲夫さんは、わたしが1984年の檜枝岐でのパフォーマンス・フェスティバルに参加したことを中心に書いている。
 萩原朔美さんは、わたしの教師としての姿を同僚の立場から書いている。
 川口晴美さんは、早稲田大学で詩の指導を受けた立場から見たわたしの姿を書いている。
 
 「Ⅰ 幼年期〜高校時代」というのは、1935年の5月から1954年の3月までのことが、インタビューでわたしが語ったことが書き起こされている。そこに、わたしの子どもの頃の写真や両親の写真や、高校時代の友人と先生の写真や同人誌の写真が入っている。
 
 「Ⅱ 浪人・大学時代」には1954年4月から1961年3月までのことが何枚かの写真入りで語られている。その後に、同人詩誌「青鰐」に掲載された「口辺筋肉感覚説による抒情的作品抄」の「作品2」と「作品5」が二段組で置かれている。
 
 「Ⅲ NHK時代1 (広島)」には1961年4月から1967年7月まで、NHKに映画カメラマンとして就職して、広島に転勤して過ごした時期のことが語られている。カメラマンとして取材している写真などが入っている。この時期に、同人誌「凶区」に参加して「プアプア詩」を書いた。
 『新生都市』(1963年28歳)からは「サレテムーシ地方紀行」
 『罐製同棲又は陥穽への逃走』(1967年32歳)からは「私小説プアプア」が選ばれている。
 
 「Ⅳ NHK時代2 (東京)」では、1967年8月から1977年12月まで、東京に転勤になってから、NHKを退職するまでが語られている。「H氏賞」の賞状や、友人の戸田さんと出していた「徒歩新聞」「眼光戦線」の写真が入っている。
 『家庭教訓劇怨恨猥雑篇』(1971年36歳)からは「ギロギロギッちゃんの生活真情」
 『完全無欠新聞とうふ屋版』(1975年40歳)からは「爆裂するタイガー処女キイ子ちゃん」
 『やわらかい闇の夢』(1974年39歳)からは「ソファに私が座っていると」
 『見えない隣人』(1976年41歳)からは「待っている存在」
 『家族の日溜まり』(1977年42歳)からは「真新しい楔の感情」
 『日々涙滴』(1977年42歳)からは「夜中に牛乳を飲ませる」
というように一冊の詩集から一編の詩が選ばれている。

 「Ⅴ 自立時代」は1971年8月から1990年3月までの原稿料で生計を立てていた時期のことが語られている。阿部岩夫さんや藤井貞和さんたちとよく見に行った黒川能の写真や、「四」「壱拾壱」などの同人詩誌の写真が入っている。
 『家の中の殺意』(1979年44歳)からは「緋沼撚り」
 『わたくしの幽霊』(1980年45歳)からは「深夜、ばちゃばちゃと」
 『水分の移動』(1981年46歳)からは「瑣事論」
 『生誕の波動』(1981年46歳)からは「純白の七月」
 『融点ノ探求』(1983年48歳)からは「声のいま」
 『二つの旅』(1983年48歳)からは「西の旅」の始めの部分
 『身立ち魂立ち』(1984年49歳)からは「異数の朝」
 『姉暴き』(1985年50歳)からは「姉妹の至福」
 『手と手をこするとあつくなる』(1986年51歳)からは「ひみつ」
 『虹飲み老』(1987年52歳)からは「声の流れ」
 『少女達の野』(1989年54歳)からは「光、凝る」
などが選ばれている。

 「Ⅵ 多摩美時代」は1990年4月から2006年3月まで多摩美術大学映像演劇学科に勤めていた時期。コンピュータに関わり出した頃のことが語られている。「高見順賞」の賞状の写真が入っている。
 『タセン(躱閃)』(1990年55歳)からは「隠居トリック」
 『遠い人の声に振り向く』(1992年57歳)からは「憎悪論」
 『石の風』(1996年61歳)からは「独善饅頭を食べた人たち」
 『胡桃ポインタ』(2001年66歳)からは「秋空メソッド」
などがそれぞれ選ばれている。

 「Ⅶ 現在(『声の生地』)」では、この詩集について、映像作品や魚眼写真について、音楽についてなどが語られている。
 『声の生地』(2008年73歳)からは、「極私的ラジカリズム」「記憶の書き出し 疎開転々」「詩について」
の三編が選ばれいる。

 「作品コメント」には、詩集、映像作品、魚眼写真について、それぞれの作品を制作した時の考え方や制作意識を書いてみた。
 詩集については、六つの時期に分けて解説した。
 映像作品については、四つの作品のタイプに分類して解説した。
 魚眼写真については、撮影するときの面白さについて書いた。
 その他Webについての考え方を書いた。
 
 「作品一覧(著作・映像作品・写真展)」には、全部の著書の表紙のカラー写真、映像作品のスチル写真のあるものはその写真が掲載されている。写真展は2枚の案内状と開催の日付が印刷されている。
 
 「自宅にて」では、わたしと家内の麻理の写真が三ページに六枚、16ミリ映画カメラの写真が一枚、フィルム罐の写真が一枚、昔の原稿の写真が一枚掲載されている。
 
 「魚眼写真」では、展示された魚眼写真の中の五点が掲載されている。
 
 「年譜」は三段組で十一ページ及ぶかなり詳しいものが掲載された。これはわたし自身が自分の日録から拾って作成した。詩集、著書の発行、映像作品の制作の年月は勿論のこと、同人誌の同人の名前や、対談の相手の人の名前や、行った葬儀や、旅行なども書いた。
 
 
○感想
 7月23日の現在、まだ前橋文学館の展覧会場に行って展示物を見ていない。この25日に行くことになっている。展覧会を見たらまた感想は変わると思うが、この一冊の「図録」を通読した感想を書いてみることにする。
 この一冊にわたしの創作活動全体の概略が纏められたというわけだ。概略といっても、わたしの過去の全体に渡って知っている人は何人もいないと思う。いや、わたし以外にはいないのかも知れない。鈴木志郎康という詩人については、初期の「プアプア詩」や平易な日常詩については云々されることがあっても、後期の『タセン(躱閃)』の「隠居トリック」なんていう詩を知っている人はほとんどいないと思う。そういうことでは、わたしの全体を見渡して貰うには、この「図録」は貴重で、ありがたいものだ。嬉しくなる。
 一方で、こういう風に纏められてしまうと、残り少ない年齢になっているせいもあって、「もうわたしは終わってしまったのか」という気持の方に押しやられる感じがする。ちょっとしたプレッシャーを感じる。やや寂しいプレッシャーだ。それを居直る土台が出来たと受け止めることにしよう。
 5月以来ずっとインタビューに応えて自分の過去のことを語ったり、それが活字に起こされて校正したりして、また丁度同じ頃、初期の詩と詩集を集成した『攻勢の姿勢1958-1971』のゲラを読んだりして、勤めがないので、概ね家にいて自分の過去のことにのめり込んでいた。自分が作った年譜を見ていくと、1983年の「五月六日、寺山修司の通夜に行く」という記述から、先輩や同輩の詩人、アーティストの通夜や葬儀に行く回数が増え、数えてみたら、十本の指を超えてしまった。年譜は今年の六月まで書いたが、その最後が「阿部岩夫さんが亡くなったという知らせ受ける」だった。一緒に同人誌をやった伊藤聚さんが亡くなって十年を経て阿部さんが亡くなった。過ぎて行く、という思いが湧いてくる。「朔太郎賞受賞者」という立場で、展覧会が開かれて、過去の自分の創作活動の全てが展示されて、一冊の「図録」に纏められたということは偶然のことだが、わたしは、現在、わたし自身の次のページが捲られるところにいるのかもしれないという気がする。

南波止場1番地

南波止場1番地の鈴木志郎康の家

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