投稿の詳細: 森ミキエ詩集『沿線植物』の感想

2009/08/27

Permalink 17:25:19, カテゴリ: memo, views: 178 Japanese (JP)

森ミキエ詩集『沿線植物』の感想

 森ミキエ詩集『沿線植物』は、勤めと家庭を持つ四十代の女性が、日常生活の中で失われがちな自意識を詩を書くことによって保とうとして書かれたものと思われる26編の詩を収めた109頁の詩集で、その内の11編が行分けで書かれ、10編が散文で書かれている。読み終えて、もう一度各作品を振り返ってみると、行分け詩と散文詩に書き分けられたのは、内容に共通する違いがあることに気がついた。行分けの詩は、現実の場面に作者が立ち会っていて、そこで幻覚か幻覚に近い感じを持ったことが、行を分けてリズムをつけて語られているのに対して、散文で書かれた詩は、作者の頭の中で終始する妄想や妄想になっていく現実
 が語られることが多いように思えた。いずれにしろ、四十代の女性が日常生活の中で生命感を得て生きる力にするために、自分の中に浮かんだ幻覚や幻想を言葉で書き表すことによって詩というものを成立させているわけである。現在、詩という表現が機能している一つのあり方をここに見ることができよう。
 最初の詩は、「午後の図書室」という行分けの詩で、「ひらいた本のページをよぎる鳥影の速さ/中空に消える血の速さ」と書き始められて、何気なく手にした知らない横文字の古い本の中に、「黒抜きになって すわっている二羽のうさぎのうしろ姿」を見つけるが、もう一度見ようとするともう見つからなくなる。また空白のページに出会い、空白を一つの表現と思ったりする。心がざわめき、ざわめきは駅前広場の情景に続き、そこで若い自分が「どうぞ わが家へ ようこそ わが家へ」と書かれたビラを配っている。わが家って何処だろう、と思う。捨てられたビラは風に飛ばされる。幻覚だった。本を閉じ、また開くが、もう空白のページは見つからない。何故自分がここに来たのかも忘れいる。そして詩の最後は「ガラス越しの晴天/さがしものが はじまる」で終わる。
 この詩は、森ミキエさんの詩のあり方を諷喩として語っていると受け止めることができる。図書室は言葉のある場所、そこで解らない文字で書かれた古い本を手にする、つまり難解な詩の本を手にする、その本の中に「すわっている二羽のうさぎのうしろ姿」の絵を見つける、何の喩えか不明だが、小動物の姿として心が癒されるイメージ、次に空白のページに自分の家に人を誘うビラ配りする若い自分の幻覚をみる、自分への関心を求める、そしてさがしものを始める、つまり言葉を探して詩を書く、ということ、というふうに解釈できる。書き手としては、こんな意味合いを追って書いたのではなく、内心で感じている不安と緊張を、言葉が産み出すイメージにして追って書き進んだと思われる。
 読む方は意味を求めたくなるが、書く方は、意味よりも言葉が呼び出すイメージを追って、ある意味ではイメージを辿る旅をするように、またある意味ではイメージのぶつかり合いが生む緊張感を内心で楽しみながら、自分自身の姿に衣装を合わせて鏡に映してみるようにセルフイメージを作って行くようだ。
 詩集の三番目の詩「薔薇の地形」は、自分の頭の中に湧き起こった妄想を言葉にして語るのを楽しみながら、イメージがもたらす緊張感を乗り越えるようにして書かれた散文詩の力作だと云えよう。
 この詩は、「夜、口中にバラの花が宿る」という一行で始まる。この口の中のバラの花が開いていくという妄想と、海岸線を娘と辿る間に娘がどんどん成長して手の届かない存在になっていくという妄想が、交互にカットバックする構成で書かれている。口の中のバラの蕾を舌でなぞっていくと花びらが開く、そしてそれが男の舌先だと気づき、男はくの字に体を曲げて眠っていて、その足元に妊娠した娘が蹲っていて、私は二十歳の娘と同じくらいに若く、娘に隠れて男にキスをする、男は私たちを置き去りにする。そして口中のバラは花が開き、朽ちても、口から抜けないので、深呼吸しながら、服を脱ぎ、耳を剥ぎ眼球を取り、骨盤を弛め、体が軽くなり、浮かぶかと思うほど楽になる。
 一方、娘と私の方の妄想は、「私の踵は硬く罅割れて皮が剥けて痛いから、五歳になった娘を杖のようにして寄りかかって、歩いていく」と娘を分身のように感じているが、娘は私を置き去りにしたり駆け戻ったりしているうちに、迷路に入って、行く道を娘が嘘ついているのかと疑うようになり、娘の成長を感じる。そこで、男とのシーンに重なって、身重の娘は私を背負って急勾配を登り駆け下りて、必死に出産のための場所を求める。崩れる崖の縁で、娘は私を放置して行ってしまうが、這うように進んで、娘の足首を掴むと、ふくらはぎは鬱血して、赤い花びらがはらはらと霧の底に落ちていく。私はもう放置されたままでいることにすると、「口中でバラがの花がひらく」とバラに重なる。
 心の中に働く「女性性」と「母性」の葛藤が、言葉で具体的なイメージを探りながら語られていると言えることなのかも知れない。自分の身体の一部のように思っていた娘が、自分を離れて、自分に嘘をつき、男と関係を持ち身籠もってしまい、生むために自分を危ないところに放置して立ち去ってしまう。そこでバラが開き、身が軽くなるという、つまり、女性の自分が性的な縛りから解放されたという自覚を持つに到ったということなのかも知れない。
 「薔薇の地形」の次の現実の母娘関係を妄想のように語った散文詩「布の話」には、母親である自分には手に負えなくなった娘が女性としての存在と受け止めるに到ることが語られている。「私」は、「環状に結ばれたレールを一日に何周もする」、つまりJR山手線に乗ってぐるぐる何度も廻っている。一方では「私の十三歳の娘はリリアンばかりしている」、つまり「誰とも話さず家にこもって編み機を回し続け」家中のセーターなどを解いて、それでリリアン編みの紐を作り続けているのだ。引きこもり娘と母親、この母娘関係にある「私」は電車の中で外国人の赤いターバンに出会い、綿の花を摘む手や、また糸繰り車を回す手を想像し、自分の家にあるあらゆる布製の着るものを想像し、そこに電車の車輪の回転、山手線の周回、娘の編み機の回転、想像の糸繰り車の回転と、布を織るための回転と心理の回転がが重なる。異常な母娘関係が単に語られているだけでなく、「私」の想念が女性が手がける布の記憶へと伸びていくのだ。そしてその想念が女性という者の存在のあり方に至ったとき、娘の女性としての成長を感じるというわけである。
 詩集『沿線植物』の詩は、現実の身を置いている作者が、そこで感じたり、心に浮かんでくる幻覚や妄想を、それを楽しみながら、一面では道具として、自身の女性という存在のあり方を掘り下げて行く場になっていると言えよう。「シャワー」という詩では、「あなたの歌う声が聞こえなくなったから/そうだ、私は未亡人になろう」と喪服を着て外に出て、過去を忘れ、解放された気分を味わうというものだが、女の人ってそういうものかと、男性とは違った束縛感を持って生きているのを感じさせられた。詩集『沿線植物』は自分を見つめて生活している人の姿が感じられて読み応えがあった。

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