
25日に開始したWalkingは、26日はお休み。27、28、29日は連続実行。
早めに夕飯を食べて、ちょっとお腹が落ち着くのを待って、8時~8時半頃から歩き始める。暑いし、日焼けがこわいので夜歩きです。3キロを35分くらいしか歩かない。もっと歩けそうな気がしますが、お風呂に入ると、どっと疲れが出るのがわかったので、涼しくなるまでは、このペースで。
昨夜は、お風呂に入って、お風呂の床やすのこを洗いましたが、途中で疲れていやになったほどなので、しばらくはこれ以上歩けないことを実感しました。情けない体力になったなぁ。
しかし、ボディーガードは講釈ばかり言うのでうるさい。腕を振る時ときどきぶつかる。でかい図体で。考えたあげく3歩下がって後ろを歩くことにしたら、「見えないのは危険だ。」と言うし。夜目にはまだ女性に見えるのかしらん?えへへへ♪明日は休みます。

昨日は朝の家事をかたずけてから、病院に。午前中の診療時間にどうやらすべりこみセーフ!胃カメラ検査と貧血検査の結果をつき合わせて、ドクターと今後の治療方針をきめるため。
「たいしたことではなくてよかったね。」とドクターのご意見。そうかこれはたいしたことではないのだなぁ。軽い貧血はあるけれど、増血剤を飲むほどではないとのこと。やれやれ。あとは薬を飲むこと。食生活に気をつけること。何度も言いますが、わたくしは暴飲暴食はしていない。
仕事は男社会で1人女性としてスタッフになったことはストレス。家においても夫の自宅滞在時間が長くなったこともストレス。家事は時間通りに規則正しく行われる。この繰り返しもストレス。
夫は俄然「Waiking」に張り切っている。陽が落ちたころから出発。遠回りして「中華料理」のお店で外食。(今日は夕食の支度を怠けることにしました。)それから、さらに歩いて石丸電気で、キーボードカバーを買う。イトーヨーカドーで明日の食材の調達。やっぱり最後は主婦業。

今夜はうつくしい満月。おおかみは吼えないけれど、夫ははりきっていました。「Walking」の本を改めて読み返していたらしい。頭は天に引っ張られているような状態にする(自然に背筋が伸びる。これってバレリーナの基本でもあるなぁ。)、両腕は後方に向かって振る。足は踵から地面につける。引きずらないように。いつもより少し早めに歩く。
そんなことで約30分。無理はこわい。
「気分はどうか?」と聞かれて「もうしわけないけど、心拍数が上がる。生あくびがでる。」すまぬ。。。
早めの夕食後(わたくしは食事を少なめにして。)1時間待ってから始めたのですが、結果はあまりよろしくない。徐々に慣れることを祈るのみ。
思いかえせば、両親の看護のために、自宅と実家との往復生活の時期には、毎晩1時間Walkingしていました。夕食の片付けの済んだあとで、Walkingをして、それから両親2人の入浴の世話。3人分入浴するようなもので、わたくしの両手は見るも無残にカサカサに荒れました。
自宅にいる時も夕食の後片付けの後にはWalkingしていたんだったなぁ。あの火事場のクソ力はどこに行ってしまったのでせう???

今回はあまり愉快な話題ではないです。すみませぬ。しかしこれもわたくしの1部分ゆえお許しを。わたくしは胃カメラ検査は基本的には大嫌いです。
20年前(?)初めて胃カメラ検査を受けた時には、うがい型の喉の麻酔薬にむせてしまったので、看護婦さんの支持した時間より早く麻酔薬を吐き出してしまったのですが、検査には支障なし。結果も異常なし。しかし深夜に高熱を出しました。夫に病院に電話をかけてもらって指示を受ける。「今夜中に熱が下がらなかったら明朝病院へ。熱がおさまれば、それは喉の一時的な炎症ですので心配ありません。」熱は朝には下がりました。
10年前(?)2回目の胃カメラ検査は、喉の麻酔はスプレー式になっていましたが、これは薬の量が少なく、嘔吐感がひどく食道がカメラを受けつけない。一旦中止。検査技師は不機嫌。ほどなくして検査技師が再登場。「麻酔スプレーをもう1回して。」と看護婦さんに指示。スプレーのあとで「薬を飲み込んで。」という指示。この「飲み込んで。」という指示が1回目はなかった。それで検査はスムースに。結果異常なし。
19日、3回目の胃カメラ検査。これは今までの市民検診の流れで行ったものではなく、あきらかに自覚症状があってのこと。検査は拒否できないと覚悟しました。ドクターと看護婦さんに前回の麻酔の件を話して、「麻酔は多めに。」と手をあわせて(本気!)懇願。懇願叶って、看護婦さんは麻酔(今回はポンプ式なので霧状ではなく液状です。)2回。「飲み込んで。」という指示もきちんと出ました。検査技師がいらして、「念のため」とさらに麻酔薬を。「飲み込んで。」と1言。わたくしの「懇願」がかなって、検査は苦しまずできました。喉は麻酔のためひりひりしていましたが、熱はでませんでした。
しかし、結果は悪く出た。単なる夏バテではなかったようです。「胃全体の炎症がかなりひどい。潰瘍はなし。悪性ではない。」ほっとするけれど、これからの薬物治療でいつ治ることやら・・・。夜型の生活時間を改め、今まで1日2回の食事を少なめの3回に改め、消化のよいものをよく噛んで食べる。食事3回でないと、1日3回の食後の薬の服用ができないのです。
大食漢でもなく、大酒飲みでもないわたくしが何故こういうことになったのか?理由がわかりません。5月末、瀬戸内海旅行をしましたが、帰宅後に2日間発熱、雨ばかりにみまわれて寒かったせいだろうと思いました。とりあえず回復して、6月末に最後の仕事は終わった。もう今後仕事は絶対にしないだろうと思いますが、主婦業は死ぬまで終わらない。まぁこれだけの生活ですが「ストレス」たまりますが、これは誰にも理解できないことで。。。。その合間をぬって本を読み、詩を書いて、時々詩の集まりに出掛け、美術館、映画館に出掛け・・・・・・出掛けると疲れて・・・・・・。
この薬物治療が終わっても「ストレス」と「鬱」が抜けないとしたら、次は心療内科ですか?生きていることとはなんと多忙で話題が多いことでせう。退屈している暇がないようです。ああそうそう。3月~7月までは歯医者通いもありました。いろいろなドクターとは仲良し(^^)。。。
そしてついに夫が言い出しました。「週3回夕食後に散歩しよう。それは君の体が弱いからだ。散歩して体力をつけよう。」だって。夫は週3日くらいは仕事に出掛ける。わざわざ最寄り駅の隣の駅まで朝夕歩いているのです。元気ですね。ついでに会話も元気ですから、もともと弱い者には配慮がない。散歩中になにを言いだすやら・・・・・・。散歩は夫が仕事に行かない日の夜になりました。まずは明日の夜から。
1説によれば、もともとスポーツに縁のない人間には、鍛錬そのものが「ストレス」になるとか・・・そうならないように祈る。

終戦日妻子入れむと風呂洗ふ 秋元不死男
戦争末期、若い教師の父は「学徒兵」を送り出さねばならぬ立場だった。大方の教師は「お国のために命を捧げよ。」と教えたのかもしれない。しかし父は密かに「この戦争は負ける。無駄死にはするな。生きて帰ってこい。日本の復興には、君の若さが必要だ。」とそれぞれに伝言したという。若者や少年、そして教師まで招集されるということは、すでに末期症状だったということ。
貧しい戦後の暮らしのなかで、父は一言も嘆かず、家族を守ってくれた。しかし悪夢にうなされている父を母は何度も見たという。
次第に戦争の記憶が薄れていく頃から、母はわがままな母となっていったが、その母のわがままを受け入れている父が子供心に不思議でならなかった。「どうしてお父さんはお母さんのわがままを許しているの?」とたずねると「満州まで嫁いできてくれたのに、苦労かけたからなぁ。」と答える。「苦労したのはお母さんだけじゃないでしょ。お父さんだってもっと苦労したでしょう。」と反発しましたが、父はそれ以上は答えませんでした。
最期の数日、末期癌の父は「モルヒネ」のために、父がとりとめもなく語ったことは、戦争中の逃亡体験であったり、戦後帰国してから故郷へ帰る列車のなかの思い出だったように思う。父は戦争で生き残ったかもしれないが、結局最後は「戦争に殺されたのだ。」と思いました。
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