
「あきらめ」ということほど言い易くして行い難いことはない。それは自棄ではない、盲従ではない、事物の情理を尽くして後に初めて許される「魂のおちつき」である。(種田山頭火)
「自棄」でも「盲従」でもないという言葉に救われました。
自分に最も似つかわしくない1つの結論を出したばかりでしたので・・・・・・。

今回は引用文というわけではないのです。テレビのインタビュー番組で詩人の谷川俊太郎がおっしゃっていたことのメモです。
1:詩作は注文に応じて書いてきた。おおむねその場合は行数制限、あるいはテーマ設定などの条件が付いてきます。それをクリアーして作品をぴったりと書き上げることで「やった!」という気分を味わうとのこと。みずからの思いを書いたということは少ないそうです。
2:今書かれている詩作品が100年後に残るという希望は抱いていない。しかしいつの時代においても人間には「詩心」が失われることはない。
* * *
1:御意というしかありませぬ。注文のないわたくしめであっても、制約のなかで作品を生み出す快感はよくわかります。「ルバイヤート」「ソネット」「連詩」などなど・・・・・・。
2:大事なことは人間が本来持っている「詩心」だけでいいのだと思います。余計な雑念なしで詩作したいものですね。
美術鑑賞には言葉は邪魔になります。言葉が美術を理解させていますが、一方で感性を剥奪させてもいます。美術は理解するものではなく洋服の前を開くようにして感受するものです。
「ポスト印象派」展を仕事で見ました。作家のMさんと絵を見ながらしゃべりました。普通絵は黙って見るものです。それがツイッターみたいにしゃべりながら見たのです。黙って見る時の方が声を出す以上に多くのことを語っているのに気づきました。
(横尾忠則)
絵画を観ながら、いつも思うこと。
絵画には、言葉によってタイトルが付けられています。
それによって、その絵画を観る方向性の指図が出ます。
イメージの方向性もそれに支配されます。
それが理解の補助になる場合もあるのでしょうが。
それとも単なる「名前」でせうか?
美術館で一番いやなこと。
美術品の前で、他者に聴こえるような声で、連れの人に解説をする人の声。
芸術家は、みずからの作品の批評家になってはいけません。その判断は100年先に委ねることです。
お名前を忘れましたが、多分オーストリアのグラーツの建築家のお言葉です。そして彼がもっとも美しいと讃えた建築は「ハプスブルゲ家の二重螺旋階段」だとおっしゃっていました。
http://www.austria-connection.at/anto/graz/g_Habsburg.html
奇妙な偶然ですが、ある方が「今生きている詩人・・・年代は問わないが、100年後まで歴史の記憶のなかに生き残れる詩人は、おそらく谷川俊太郎だけではないか?」とおっしゃるので、驚きましたが、奇妙に肩の力が抜けました(^^)。
政治は、「蛇のように怜悧であれ」と言う。道徳は、(それを制限する条件として)「そして鳩のように正直に」と付け加える。
(カント・永久平和のために)
なんとまぁ。日本国は総理大臣がころころと替わる国ですねぇ。開いた口が塞がる余裕もないほどに。今はなにも言うまい。
政治家というものは、敵が退陣すると俄然強気になる人間のことのようだ。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=18287
(民主党ビデオ配信。多分マスコミが省略した部分を補えるかもしれません。)
高田昭子のb2evolution blogです。
吸殻山383番地の家に戻る。
中央1番地に戻る。
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| << < | > >> | |||||
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | |||