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高田昭子日記


2004年6月

2004/6/30(wed)
母の日傘


我が愛する(?)おじさまから古い貴重な本をいただいた。「をんなの四季―中村汀女、昭和31年・朝日新聞社刊」、汀女書き下ろしのエッセー集である。俳句はそのなかに配されている。つまり俳句の成り立ちがわかる仕組になっているのだ。
おじさま曰く「句集よりもこういう本がいいね。読者と書き手との自然な対話が成立する。」読みながらこの言葉を納得しました。主婦としての汀女の日々の出来事が丁寧な描写とおだやかな感性によって、とても美しい文章になっている。汀女は明治33年(1900年)生まれ。熊本第一高女卒。昭和63年(1988年)没。虚子の主宰する句誌「ホトトギス」が女性俳人輩出のために設けた投句欄「台所雑詠」から誕生した俳人の一人である。


この本のなかには、句会に出席してもいつも途中で抜け出して急いで帰宅する汀女がいる。それに不満や無念を抱きながらも、家族の夕餉を整えられたことに安堵する彼女もいる。また幼い子供が重い病にかかり、病院で手厚い治療を受けている最中、罪の意識にかられながらも、それを書かずにはいられない汀女がいる。静かな病室では鉛筆の音さえ響くのだった。


季節柄「日傘」にまつわる一文について書いてみよう。
炎暑のなか、日傘をさした見知らぬ母子の姿に出会う。その必死な姿に、汀女は自らの若い母親だった頃を思い、遠い土地に暮らす娘もこんなであろうかと思い、さらに母上の日傘の思い出へと、その想いの道のりを伸ばしてゆく。
麦刈りに忙しい村に帰省した汀女が、日傘をさした母上と別れてふたたび戻ってゆくときに歩くのは「堤」であった。この「堤」での別れは辛いものだ。お互いの相手の姿が見えなくなるまでに大層時間のかかることになる。しかし視力の衰えた母上の方が汀女よりもその時間が短いであろうことに不思議な安堵を覚える。「ここまで。」という地点も見つけにくい。母上が汀女と別れがたく送ってくれる道のりの長さは、母上の戻って帰る道のりの長さにもなるのだ。


そうして別れて戻ってゆく母上と汀女の間に、麦の穂束を満載した荷車が現れ、彼女は母上の後姿が見えないことにわずかに救われていた。そして村全体が麦刈りに忙しく活気に満ちていることにも救われている。手には母上と女中さんが作ってくれた車中の弁当が少し重い。


炎天を歩けばそゞろ母に似る   中村汀女

2004/6/27(sun)
追悼会


交通事故で突然逝ってしまわれたKさんの追悼会をやった。いつものメンバーで、いつもたむろしている店でいつものように集まった。集合時間にわたし以外誰もあらわれないのも、いつもの通り。これでよし。途中Kさんの奥さまから電話が入る。「いずれ落ち着いたら、ゆっくりお会いしてお話しましょう。」と約束した。なによりも時間の経過が必要な時なのだ。


「献杯」のあとで、通夜式の報告をした。質素で清清しい通夜式だったことを伝えた。これは圧倒的にわたしを感動させた。


神が死の以前に出生を置いたのは賢明であった。そうでなければ、われわれは人生についてなに一つしることができないのである。(アルフォンス・アスレー)



追悼句


あじさいや一人足りないかくれんぼ



2004/6/26(sat)
ハリー・ポッターと賢者の石


テレビで観た。この映画は2001年に作られている。この頃のわたしはどんなふうに生きていたのだろうか?と思ってみた。たしかこの映画の大きな看板(だったかな?)を新宿で見た記憶はある。「観たいな。」と思った記憶もある。本も拾い読みをした記憶はある。しかし、そのまま時は過ぎた。わたしは変わっただろうか?実は少しも変わっていなかったと、この映画が教えてくれた。


わたしにとってこの映画を観ることは「不安」の連続だった。その「不安」をこの魔法学校の少年少女たちは「勇気」とか「友情」とか「正しさ」とか「愛」に、それとは気づかずに導かれながら一つの生き方を掴んだのだった。そして晴れやかに新しい出発の列車に乗ったのだった。


しかしわたしのなかには「不安」だけが、産まれ出ることのない胎児のように残った。それは多分ハリー・ポッターの年齢だった頃から続いていること。いまさら始まったことではないが、それを眠っていた子供を起こしてしまったように、この映画が呼び戻したというだけだ。生きる「不安」は深く、砂の寝台のようなものだ。


2001年は母を亡くした年だった。すでに父は逝き、姉も逝ってしまっていた。なんだかとても辛い仕事をしていたような記憶もある。生きていることが、スカスカに寂しく頼りない時期だったような気憶もある。話題の映画を観ようと思う時期ではなかったようだ。


うむ。映画の感想がないな。魔法学校の少年少女たちの美しかったこと。「不安」を「勇気」や「友情」によって突破したことのまぶしかったこと。そして「愛」「限りあるいのちのいとおしさ」という基本命題のようなもの……かな?無論これを軽んじるつもりは絶対にない。

2004/6/25(fri)
あじさい 無残


夕方、涼しくなってから散歩をした。
あじさいにたくさん出会ったけれど、どれも枯れ始めている。
花びらが散ったり、落下したりしない花だから、ただもう花の重みにうなだれているようだ。毎年のことだが、この風景を見るのは辛い。


百日草毎日の花怠らず   遠藤梧逸


月下美人のように一夜しか咲かない花もある。花の定めもいろいろである。うむ。女性の行き方の分類法に使えそうだ。




花弁(はなびら)の肉やはらかに落椿   飯田蛇笏

2004/6/24(thu)
幸田露伴の死


Kさんに突然の事故死をされてしまって、やりきれない気持に陥ってしまった友人Sが、三晩続けて電話をかけてきた。わたしだって友人だったんだぞ。


「ねぇ、高田さん、死ってなんですか?」
「人間の肉体の現実的な機能がすべて失われることです。」
「そんなぁ〜!あーた詩人でしょ?」
「はい。そのようです。あーたもたしか詩人だったわね。」
「それはそうですが……。でもねぇ。死ってなーに?」
「露伴さんの死に際を知っていますね。」
「うん。」


『仰臥し、左の掌を上にして額に当て、右手は私の裸の右腕にかけ、「いゝかい」と云つた。つめたい手であつた。よく理解できなくて黙つてゐると、重ねて、「おまへはいゝかい」と訊かれた。「はい、よろしうございます」と答へた。あの時から私に父の一部分は移され、整へられてあつたやうに思ふ。うそでなく、よしといふ心はすでにもつてゐた。手の平と一緒にうなづいて、「ぢやあおれはもう死んぢやふよ」と何の表情もない、穏かな目であつた。私にも特別な感動も涙も無かつた。別れだと知つた。「はい」と一ト言。別れすらが終つたのであつた。』このようにして、幸田文の看護のもと、露伴は昭和22年7月30日朝、市川市菅野で息を引き取った。


「あれが死です。わたしの父も『いいか?』とわたしにたずねました。」
「そんなこと言われても、納得できません。」
「Kさんにはそのような時間すらなかったということです。」
「うん。」
「わたしたち以上にそれを悲しんでいる方がいるということです。」
「うん。」
「突然は残酷なのです。」
「うん。」


こんな会話を三晩繰り返した。友人Sに言い聞かせていたつもりだったが、わたし自身に言い聞かせているのだと気づいた。「死」はこの地上における「永遠の不在」だ。もしも「魂」というものがあるというのなら、それだけがわたしたちのどこかに残されているはずだ。

2004/6/22(tue)
貧乏神


梅雨の初日、二人の貧乏詩人が場末の居酒屋で飲む約束をした。しかし午後六時半、店はまだ開店していなかった。店の前で「どうしようか?」と思案していたら雨が降り出した。傘もなく、別の店に入る気にもなれない二人は近くにある神社に非難することにした。雨宿りの軒先を借りるには、神社の賽銭箱の奥しか場所がない。そこに腰を下ろして二人はまだ明るさを残す新宿の空を眺めながら、半時間ばかり物語つくりを楽しんだが、話の結末はいつでも「心中」とか、「失恋」とか、暗いのだ。


その時、一人の美しい女性がお参りにきた。「これはまずいのでは。」と気づいて二人はこっそりと神社を出て、目的の居酒屋に向かった。店はすでに開いていた。店の主人に、神社の雨宿りの一件を話すと、「あそこは商売繁盛の神様だよ。そのお参りの女性は恐らく開店前のお参りなんだろう。」という答えがかえってきた。「それは悪いことをしてしまった。その女性は我々のような貧乏神に願い事をしてしまったのだ。」災いのなきことを祈るのみ。

2004/6/20(sun)
あい  おい  めも


女性は年齢とともに美しくなる。(キルケゴール)
    ↓    ↓

それを発見できる者は愛する者だけである。(ヤスパース)


一人の人間を愛するとは、その人間と一緒に年老いることを受け入れることに外ならない。(カミュ)


愛の中には、何かしら世界の終りのようなものがある。(ポール・ヴァレリー)

2004/6/18(fri)
チマチョゴリとハングル語


過日電車のなかで、チマチョゴリを着た中年女性と中高生とおもわれる男子(こちらはワイシャツ、ズボン姿だが。)2名とが、ハングル語で語り合っているのを聴いていた。もちろん意味はわからないが、わたしはこの3人は母子だろうと思っていた。
しかし、わたし達が池袋で下車した折、その2人の男子だけが後から下車してきた。その途端に彼等は日本語で語り出したのだ。わたしの連れはそれに気付いて「ふふっ」と笑った。「なに?」とたずねると「あのチマチョゴリ姿の女性は母親ではないな。教師だよ。おそらく彼等は学校内では日本語を禁じられているんだろう。」と言う。ああ、そうか。言葉の統制が民族にとってどのようなことなのか?さまざまな思いが込められていることだろう。


アメリカがアメリカ先住民の世界を侵略した時、アメリカが彼等に強制したものは宗教と言葉だったな。こんなこともふと思う…。


わたしはチマチョゴリを着た女性を見ながら、あの服装の構造が知りたくなっていた。「チマ」は日本語で言えば「裳」のことか?今で言えば「スカート」の部分だが「チマ」はどうやら胸から下を覆うもののようだ。「チョゴリ」はとても短い上着で、到底胸の部分が隠せるようなものではない。ちなみに男性の服は「バジ・チョゴリ」と言うそうだ。


その「チマチョゴリ」の構造の謎は、映画「スキャンダル」が見事に解明してくれた。なにせ主人公のプレイボーイの領主が、次々に女性の「チマチョゴリ」を脱がせていくシーンが出てくるんですものね。

2004/6/17(thu)
スキャンダル


いいえ、わたしのことではありません(笑)。映画のタイトルです。NHKで放送されている連続ドラマ「冬のソナタ」の主人公「ヨンさま」が、挑んだ18世紀の朝鮮時代の架空の物語です。退廃的な上流社会を厳しく暴いたフランス映画「危険な関係」を朝鮮に置き換え、試みた映画でした。
「ヨンさま」演じる領主はプレイボーイで、「ゲーム」のように次々に女性を虜にし、その女性の裸体や性愛の様子を絵にするという日々を送っている。そして未亡人の清楚な女性をおとすゲームに挑み、女性の頑なな拒否をなんとかクリアして、彼は目的を果たし、そしてその女性を捨てようとする。しかしそれが真実の愛であったことに気づいた領主は彼女に逢いに行こうとするが、彼に嫉妬する男の怒りを買い殺されてしまう。それを知った彼女は後追い自殺をして終る。
領主が残した絵のなかで、彼女だけは衣装を纏った清楚なままの姿であった。


恋をゲームだと思う人間、恋を命がけけのものだと思う人間、どちらも救いがたく哀しい。ここでも結末は「死」だった。


なんだか「死」と「愛」ばかり書いている。申し訳なし。

2004/6/14(mon)
センセイの鞄  川上弘美


大分以前に読んだこの小説は、定年退職して数年、そして妻に出奔されてから数十年の元教師と、そのかつての教え子である独身三七歳の女性との遅々とした恋物語である。おそらく大方の読者はこの素朴で実直な教師の人間像に好感の目を向けたことだろう。しかし、わたしは男性の「性愛」に対する考え方の大きな間違いを見る思いがした。初老の元教師は自身の性的能力への衰えと不安から、「恋」へなかなか進めないでいる。女性は「そんなこと。」とこだわらない。女性が求めたものは「男性の性的能力」などではなく「心を満たす安らかな抱擁」だけだったのではないか?
イギリスの作家D・H・ロレンスは、性のキリスト教的な考え方への反論として、「性交とは、人間的感情の交歓、男女の対等な文化の交流である。」と主張していました。またアメリカのジョン・ノイズは「性愛は生殖とは分離されうる。」という考え方を示しています。さらにポリネシアの人々のあいだでは「先祖の霊が目覚めて我々の結合を祝福してくださる時間を待つ。」という考え方もあります。性愛の根底に男性が「性的能力」を意識するのは、そこに「生殖能力」と重ね合わせてしまうという非常に原始的な感覚から脱しきれていないからではないではないか、と思ってしまう。
ともあれ紆余曲折ののち二人は突然肉体的に結ばれる時が訪れるが、それも束の間、ドラマの最後はセンセイの「天寿全う」とは言い難い死で終る。なぜ作者はこの主人公を死なせて、女性を一人生き残したのか?わたしはドラマの結末を「死」で終らせる作家がすごく嫌いなのだ。二人が共に老いさらばえてゆく過程をやさしく見守り、書きついでゆく作家の心と眼が欲しい。(こんな時代だからこそ。)センセイは愛用の鞄を彼女に残したが、なかは空っぽだった。一人生き残された彼女のこれからの人生は永い。あっけなくセンセイの死でドラマを締めくくるな。

2004/6/13(sun)
雨季


外気は高い湿度と万緑の交じり合う匂いで満ちています。大きなマテバシイの繁りに繁った葉と、それを覆うように咲いている薄黄色の花が、その匂いのもとのようです。ビヨウヤナギが万緑の樹々の暗い根方をあかるくしています。紫陽花も咲いている。

1人の男が死んでも、自然はむせ返るような生命の匂いをさせているのですね。

2004/6/11(fri)
幾たりか……


幾たりか我を過ぎゆき亦も夏  (矢島渚男)


6月8日未明、名古屋の友人が交通事故で急逝した。42歳だった。
10日にお通夜。棺のなかの死者のお顔は、お鼻と頬に、死化粧では隠しきれない擦過傷があり、事故の痛ましさを思わせました。

奥さまに駅から「今から帰るよ。」と電話をして、そのまま帰らない人となりました。




疲れて、1日中ぼんやりとしていた。今ふっと自分の古い詩を思い出した。


   死によって終わるひとの生涯は
   いつも未完である
   後を生きる者の創造力のなかで
   それは時をかけて完結されてゆくのだ

「一冊の詩集に」 詩集「河辺の家・1998年思潮社刊」より。

2004/6/7(mon)
びろう樹の下の死時計 


これは、谷川雁のエッセー集「工作者宣言」の最後に収録されているものです。ちなみにこの本は先輩からお借りしたものですが、発刊は昭和34年、文庫版で130円です。煙草のヤニと歳月によってかなり「バッチ―」状態。しおりの紐も千切れて短くなっている。よくぞご無事で……。でありますのでカバーをかけてからうやうやしく拝読いたしました。


これは「臥蛇島―がじゃしま」への紀行文です。「臥蛇島」は鹿児島県鹿児島郡十島村、東シナ海にあるトカラ列島の一つで、昭和45年からは無人島となっています。昭和34年(この本の発刊年。)14戸60人の暮らす「臥蛇島」へ谷川雁は訪れているわけです。月に一回不定期な汽船が通うだけのこの島に降りた途端に、死時計のように時間は茫洋とひろがるだけ。そこは極小の極限の寡黙な人間世界であった。約1ヶ月後にこの「臥蛇島」から帰った谷川は逆説のように「漂着」という言葉でそれを表現した。


「臥蛇島」の「食物」と「言葉」について少しだけ書いてみます。
このエッセーのなかで、わたしはふたたび「蘇鉄粥」という言葉に出会った。「どがき」「どうがき粥」あるいは「なりがい」とも読むらしい。土地によってはまた別の読み方もあるやもしれぬ。
数年前、わたしはある療養所にいらっしゃる方々(その半分以上はすでに鬼籍に入られた。)の書かれた過去70年間くらいの詩や俳句や短歌をたくさん読むという仕事をしたことがあります。その時に、沖縄の療養所の方の作品のなかで初めてこの言葉に出会いました。その折に、わたしは沖縄在住の詩人I氏にメールを送り、この「蘇鉄粥」について教えていただきました。

蘇鉄の幹と赤い実は澱粉質を含んでいるが、有毒なフォルムアルデヒドも含んでいるので、よく水にさらして澱粉質だけを採って、粥や団子や味噌として食したそうです。これは飢饉の時や、島の食糧が尽きて他島から食糧が運ばれてくるのを待つまでの非常食としてあったようです。この毒抜きが不充分な場合、それによって命をおとした人もいたようです。これは、沖縄に限らず、瀬戸内、奄美諸島、そしてこの「臥蛇島」にもあったのです。


さて当時の「臥蛇島」は灯台があるということが唯一の現金収入、あとは漁業、自然なままの林業、牛や山羊の牧場主なき牧畜(つまり、島全体が放牧場なのです。)そして収穫の乏しい農業と採取で人々の暮らしは成り立っていました。テレビは学校に1台あるだけ、そこはある意味での「コミューン」だったのかもしれません。しかしこう定義するのは外部の人間であり島民ではない。ここで谷川雁の言葉を引用すれば「そこで私たちは日本現代文明に対する黙々たる判決文を読むことができる。」のである。一つの文明国家の法律など及ばない未開の地域というものは必ず存在する。そこでは収穫された食糧は平等に分配され、老いた者や、男手を失った母子は壮健な働き手によって守られているのだ。そして大自然の掟に従順であることによって、そのコミューンは「文明の進歩」とは異なる独自の世界が成り立っている。おそらく「貧しさ」という言葉すら存在しないのだろう。これは「他者」との比較によって生まれる言葉だと思う。


ところで話は少し飛ぶが、ある詩人から、チベットの奥地の山村には「寂しい」という言葉がない、とうかがったことがある。「寂しい」とは文明社会が生んだ言葉なのだろう。人間が初めて発した言葉とはなんだったのか、というところまで想いは飛んでしまいそうだ。ちなみに「臥蛇島」の言葉はT音が未熟で「美しい」は「うちゅくしい」となり、「水」は「みじゅ」と発音されていたとのこと。


付記:この本の後にある「新刊案内」には「一億総白痴化」という言葉を生んだ加藤英俊の著書「テレビ時代」、そして「デモ・シカ先生」という言葉を生んだ永井道雄の「新教育論」がある。こんな時代に書かれたものなのだ。

2004/6/6(sun)
俳句


   蛍囲う武骨なおのこの掌のたわみ

   睡蓮や夜毎にのべる死のしとね

   紫陽花やまぐわいひそと吃水線

   朝顔やつる伸び出づる夢の垣
   
   泉汲む水輪に落ちるイヤリング

   首飾り吾の復路を冷やしおり

   夏祭素足にきつい鼻緒かな

   わたしくに浮力ありたふ蓮の花

   半夏生さざなみ聞こゆ君の胸

   青嵐いとしきひとへののぼり坂

2004/6/4(fri)
やれやれ。


今日はよいお天気です。風もおだやか。入梅前のひととき。

HP「詩のパオ」の自作詩のページ「2002」「2003」「2004」もどなたでも見られるようになったと思います。(多分…笑)
これで、どうやらお家の環境はととのったのかな?

さて、詩友からの「俳句10句」という挑戦状にそろそろ、おこたえしなくては。「艶のあるものを。」という条件付き。アチャー!△○?☆



【テストです。】



(3行あき)


(2行あき)

(1行あき) ↓(1行あき)

2004/6/3(thu)
ありがとう!


昨日はわたしのHP「詩のパオ」が、全機種に対応できていないことがわかりました。鱗造さん、桐田さん、冨澤さん、関さんのアドバイスを頂き、とっても感謝しています。
しかし、このHPは愛娘が、未熟ながら必死で作ってくれたもの。作品もかなりの量になってしまったので、正直言って途方にくれている。

お客さまの「あじさい」はお帰りになったようです。
窓辺にあじさい色を残して…。これは桐田さんのイラストです。



【ご報告】
HP「詩のパオ」のアンソロジー「愛の詩」と「声ー非戦」のページを、桐田さんが別に作ってくださいました。これでみなさんが読めるようになりました。ホッ!ありがとうございました。

2004/6/2(wed)
わかった!


1日に2回書き込むと、↑のようになってしまうのだ。
昭子、目下学習中なり。


矢印の方向を間違えた。↓


つまり、タイトルを書かなければいいのだわ。うん。


ははは。4回書いたの。


う〜〜ん。フレームの色を変えよう。

2004/6/1(tue)
とんとん、とんとん♪


はい、こちら昭子のお部屋です。
まだガラ〜〜ンとして、なにもありませんがどうぞ。

お客さま。


「あじさいです。」

「ようこそ。6月ですね。」



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エース