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高田昭子日記


2004年9月

2004/9/26(sun)
女といふものはみな戦争が嫌ひなのです。



与謝野晶子(1878〜1942)は日露戦争の始まった1904年に、あの有名な「君死にたまふことなかれ」を雑誌「明星」に発表した。この詩への反論は勿論あった。上記のタイトルはその折の晶子の言葉の一つである。


オルレアンの少女「ジャンヌ・ダルク(1412〜1431)」は、イギリスとフランスの間に長く続いた「百年戦争(1337〜1453)」の終結期に「神の啓示を受けた者」として突然にシャルル王太子の前に現われる。しかし両国の利害争いに巧みに利用され、最後は「魔女」として火刑に処せられ、たった19年の生涯を閉じた。魔女であるか、神の啓示を受けた聖女であるか、という問いかけのために「処女性」について屈辱的な行為を受けることもあった。シャルルの載冠式は無事に終わり、少女ジャンヌ・ダルクはイギリスの捕虜となり幽閉されて、フランスから見放された。それからのジャンヌ・ダルクは、自らの神からの啓示の誤読に悩み、さまざまな宗教裁判における審問に混乱したまま、神への懺悔の機会もないままに火刑台に上った。それから永い時間を経て、ジャンヌ・ダルクには「聖女」という敬称が与えられる。彼女は「魔女」でも「聖女」でもないと思うけれどね。


どうやら「戦争」と「歴史」というものは、男たちのためにあるんだね。

2004/9/24(fri)
文楽



日記とは、その日にあったことを書くものだと思うけれど、わたしの日記はいつでも「先日は……」になってしまう。ま、いいか。
先日、大阪育ちで現在東京在住の友人から「国立劇場に文楽を観にいきませんか?」というお誘いを戴いた。「文楽」はテレビでしか観たことのないわたしであるが、よい機会を戴いたのだからお断りする理由はない。友人は大阪の高校時代から「映画」を観る感覚で「文楽」や「歌舞伎」に馴染んでいたとのこと。う〜〜んそうか、わたしが、ナタリー・ウッドの『草原の輝き』なんぞにうっとりしていた代わりに、そういうものを観ていたのねぇ〜。


観たものは「通し狂言・双蝶々曲輪日記」、これはお相撲さん「濡髪長五郎」が主人公のお話。そして人形が踊る「関寺小町」「鷺娘」、休憩をはさみながら約五時間の公演であった。物語の見せ場の少ない平坦な場面ではさすがに少しだけ眠くなった(笑)。さらに舞台右脇にいる「大夫」の声と「太棹」の音に気をとられて(観たことないけど、活弁映画に似ているな。)、人形とどっちを観ればいいのか悩んじゃうのだ。「人形を観るものです。あっちはBGMです。」「はいはい。」物語も時々わかりにくくなる。そんなわたしに、友人はきれいな大阪弁で時折解説を入れてくださる。この大阪弁が文楽に妙にマッチするのだ。「つまりこれは舞台と観客との予定調和の世界なんです。水戸黄門の印籠みたいなものです。これを楽しむことです。」うんうん。「大学時代に、友人にカフカの芝居を観せられて翌日寝込んだという体質ですから。」あ〜〜あはは。なるほど。


感動したのは「関寺小町」「鷺娘」!舞台装置、照明、人形の衣装と顔立ち、すべてがとても幻想的な美しさだった。老いた小町の寂しい姿、鷺娘の白い衣装から桜模様の衣装に早代わりする初々しさは、対照的であった。


一体の人形を三人の人間が操るわけだが、その中の一人の太夫だけが顔を見せていて袴姿、後のサポート役の二人は黒子姿で顔も見えない。(イラクの捕虜を思い出してしまって複雑な気持にもなったが…。)当然ながら人形より人間の方が大きくて、人数も多いわけだが、不思議なことに目障りな感じにならないものだ。表情の変わらない人形をいきいきと動かせる「文楽」とは不思議な芸術である。一体いつから「人形」に演じさせるということは始まったのだろう。


   人形の足音聴こゆ秋舞台   昭子

2004/9/22(wed)
ヒヤシンス・ハウス



昨日は、クソ暑いなかを、印刷屋さんまで初校の直しを届けに行きました。写真を入れ忘れたり、原稿の差し替えがあったり、失敗だらけの初校だったので、時間もないし、説明と確認もしたくてこちらから印刷屋さんへ行くことに。(暑さボケ!)これで、2度も印刷屋さんに通ったことになる。あああ、まだ再校もあるぞ。


しかし、この印刷屋さんに行くのは一つの楽しみである。「別所沼公園」を通るからだ。このあたりは詩人であり建築家だった立原道造を中心として多くの芸術家たちが住んでいた土地である。そして立原は彼等が集まるための家を建てる夢を持ち、設計図までできていたのに実現しないまま夭逝しました。


地元の文人たちが多くの方々の協力を得て、その立原道造の夢であった「ヒヤシンス・ハウス」を「別所沼公園」に建てました。土地は「さいたま市」の提供だそうです。とても小さな家です。十数人くらいが集まれる程度です。小規模の句会、詩の合評会、会議などには使えるかしらね。

沼のまわりはメタセコイヤがかこみ、釣りをする人々がいました。

2004/9/19(sun)
春日井健の「病」と「言葉」と「死」



歌人春日井健、1938年12月20日生まれ。2004年年5月22日、中咽頭癌のため死去、65歳であった。8月、思潮社より「現代詩手帖特集版・春日井健の世界」が発刊された。これから、前記の東條耿一について書いた日記との関連性も踏まえながら、少しメモしてみることにする。


太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ
愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき


春日井健22歳の時の第一歌集「未成年」より。繊細と若い野性とが息づいているようだ。1960年という象徴的な時代にデビューしている。


さて、治癒することが困難とされてきた病には「結核」「ハンセン氏病」「癌」あるいは「被爆」また「風土病」や「環境汚染による病気」など、時代によってさまざまにある。これらの病は「不治」「遺伝」「伝染病」などという風説によって絶望的な時代をくぐりぬけた歴史もあり、病原菌の発見、新薬や治療法の開発によってその歴史を塗り替えられたこともある。しかし、病に苦しみ、自己の肉体の「生」と「死」を切り岸でみつめなくてはならないという状況が、人間には必ず訪れるということはいつの時代でも変わることはない。


そのような状況のなかで、「言葉」がどこまでそれを追い詰めることが出来るのか?あるいは現世と異界とを「言葉」がどのように交信できうるのか?「言葉」がどこまで肉体の生死から自立できうるのか?その答えのようなものを、春日井健の後期の歌集「井泉」「朝の水」から受け取ることができたように思う。それを3段階に分けて書いてみよう。


【闘病初期】
エロス――その弟的なる肉感のいつまでも地上にわれをとどめよ
扁桃(アーモンド)ふくらむのどかさしあたり襟巻をして春雪を浴ぶ
朝鳥の啼きてα波天に満つうたの律呂もととのひてこよ


【闘病中期】
井泉に堕ちしは昨夜(よべ)か覚めしのち生肌すこし濡れてゐたりき
太初(はじめ)に言葉ありしといへり伴へる声ありとせば明るかりけむ
濃き闇へ消えたる奔馬ふたたびを日表に出で光蹴立てよ


【闘病後期】
死の場所は聖められしかしろたへの乙女の泉湧きいでにけり
時じくの香菓の実われの咽に生れき黄泉戸喫(よもつへぐい)に齧り捨つべき
のどは暴(あば)ける墓とぞ嚥下できかぬる一句が夜のしじまをふかむ
宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや
舌の根はもはや渇けりわれは神を知らぬ持たぬと呟きしゆゑ


以上11首を書きながら、思い出すのは東條耿一(1912〜1942)と同じく「ハンセン病」を生きた歌人明石海人(1902〜1939)のこの短歌である。このときすでに海人はすでに失明している。


いづくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ  明石海人


人間が「病」「死」を見つめなければならなかったとき、その苦痛や不安や絶望感から「言葉」はどこまで透明となれるのか?そのいのちがけの言葉の作業の結果を死後に見つめるという、なんとも哀しい作業をわたしはしているのである。誰のために?誰のためでもない、いつか訪れるわたしの死のために。

2004/9/16(thu)
巨きな顔・ちいさな顔 


   
    こどもが病む   八木重吉

   
    こどもが せきをする
   このせきを癒そうとおもうだけになる
   じぶんの顔が
   巨きな顔になったような気がして
   こどもの上に掩(おお)いかぶさろうとする


子供が殺される事件が頻発する。それについて「母親として何か書いてみなさい。」と言われたが、どこから手をつけていいのかわからない。「フェミニズム」だとか「教育」だとか「ジャーナリズム」だとか「漫画」や「テレビ」だとか、その原因をさぐっていってもどれもちがうような気がする。それで思い出したのが八木重吉の詩だった。


この詩だけはわたしの「実感」というか「実体験」があって、忘れられないものです。
かつて子供が一歳にもならない頃高熱をだした。一晩中、夫と一緒に子供の両側に寝て見守っていた。幼い子供を見つめていて、ふと見なれたはずの夫の顔を見ると「鬼瓦」みたいに大きく見えてくるのね。それほどに子供の顔はちいさいのよね。すると夫も突然「君の顔、可愛くないね。」。ムッ!!!


それから子供は大人になって、書物などを読むようになった。ある日愛娘が本を閉じてニコニコしながらこう言った。「お母さん、人間や動物の子供が何故あんなに可愛い姿をして生まれてくるのか?それはあまりにも小さくて一人では生きていけないから、大人に可愛がってもらうためなんですって。」というの。本の名前は忘れたけれど。


ちいさな子供はこの世で「ガリバー旅行記」をしているのよね。その旅行は楽しい冒険だった?こわい記憶だった?

   


   母の瞳


   ゆうぐれ
   瞳をひらけば
   ふるさとの母うえもまた
   とおくみひとみをひらきたまいて
   かわゆきものよといいたもうここちするなり


   
   母をおもう


   けしきが
   あかるくなってきた
   母をつれて
   てくてくあるきたくなった
   母はきっと
   重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう



この二編の母の詩は「すでに忘れ去られた母の原風景」をみる思いがする。「男女同権」「フェミニズム」「ジェンダー」さまざまな動きがあるが、これは逆利用されている「弊害」も出てきているような気がしてならない。こういうと反論がありそうだね。しかし幼い子供の命は誰かが守らなければ生きていけない、基本的にはこれだけなんだと思う。

2004/9/12(sun)
テスト


鱗造さんがご心配のようです。
あーあーーこちらテストの書き込みです。OK?




OKのようです。

2004/9/7(tue)
東條耿一(つづき)


詩関係の集まりがありましたので、友人に前記の朗読会で余分にいただいた「東條耿一詩集」を数冊差し上げました。そのなかのお一人から「あなたならこれを作品としてどう評価しますか?」という質問を早速受けました。これは覚悟していた質問でした。2001年に、ある偶然からハンセン病療養所における文学作品に接触して以来、わたしのなかでずっと揺れている問題だったからです。


これらの文学作品をより多くの方々に読んで頂き、彼等の永い苦しみの歴史を伝えることは大変「意義のあること。」です。しかしそれは「文学としての評価」とは別の次元の問題なのです。わたしはこれを混同しながら考えることは避けたいという「揺れ」の姿勢を、あえてとり続けてきたのです。


東條耿一の生涯はわずか30年であった。隔離された世界で誰がどのようにして彼に詩の指導をし、療養所の外に吹く文学の風を送りこんでくださったのか?それについて考えざるをえない。何故それをわたしが考えるのか?それは彼の詩の言葉の未成熟性、あるいは非拡大性を指摘しなくてはならないからだ。
しかしこれらの作品から「ハンセン病」の苦しみを読者に伝えることは可能ではある。何故彼が「神」との苦しい対話を繰りかえしたのかもわかることだろう。筆名を2度(あるいは3度、まだ確証はない。)変えた心の軌跡もたずねることもできるだろう。


もちろん作家の北條民雄(東條耿一の心の友であった。)や歌人の明石海人などには、そのわたしの「揺れ」はほとんどない。しかし東條耿一に対しては、まだ「揺れ」は続いているのだ。何度も何度も、わたしはこの「揺れ」のなかでこれらの作品に接してゆくことになるのだろう。これがわたしの唯一の彼への「誠意」だと思っている。


※ わたしはこのホームページで、自分の父母の敗戦後の哈爾浜の手記を公開している。これは「意義」だけの行為であることを表明しておく。


ああー疲れた。書き慣れないことをあえて書いたのだー。

2004/9/6(mon)
東條耿一という詩人のこと


前書きとして「リルケの祈り」を書いておく。


  まさに世紀の代わろうとする、そのときにわたしは生きる。
  大きなページのあおる風を肌に感じる。
  神様と、きみとわたしが書き入れてきた
  そのページが、見知らぬ手のなかでおごそかにめくられる。
  新しいページの輝きが感じられる。
  そこではあらゆることが起こり得るのだ。
  静かな諸力がそれぞれに活動の幅をためし、
  互いに定かならぬ視線を交わす


聖書にも登場するほどに永い歴史のなかで「天刑病」と言われた病がある。戦後の新薬の普及によって治癒することが証明され、「遺伝」でも「伝染病」でもないことも証明され、さらに国家賠償を勝ち取ったにもかかわらず、彼等はまだ自由になれないのだ。さらに無念のまま亡くなった方は数えきれない。


その一人に「東條耿一」という詩人がいた。1912年生まれ、1942年逝去、わずか30年の生涯だった。ほとんどの作品を焼いたと言われていたが、同人誌などから丹念にそれらの作品を探しだして、作品集にまとめた方々がいらっしゃる。それが「東條耿一」にとって幸せなことかどうかはわたしにはわからない。「東條耿一」の詩作品を出席者と共有し、それを多くの人々の記憶に残そうという趣旨のもとで、9月4日療養所の教会で行われる「朗読と追悼の会」のご案内を頂いた。「参加者への朗読依頼」もあった。


わたしは「何故、作品収集をしたのか?」という質問を持って参加。朗読協力も申し出た。85ページの作品を丁寧に読み、読めない漢字(当て字、旧字がおびただしくあった。)をすべて調べ、完璧な準備をした。朗読する作品は遺稿となった三部作「訪問者」である。少し抜粋。


   吾今より汝が裡に住まむ
   汝もまた吾が裡に住むべし
   父よ、忝けなし
   われ、何をもておん身に謝せむ
   わが偽善なる書も、怯懦の椅子も
   凡て炉に投げ入れむ
   わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ


これは病の苦しみから神すらも拒み、しかしやがて神(父)の子となるまでの心の揺れを書いたものである。この病ゆえに父親から疎まれた少年時代もここに繋がっていることだろう。詩人は断じて詩を捨てて神の子とはならない。


会はおだやかに療養所の方々と、そこに集まった方々とともに進んだ。最後に讃美歌も歌った。療養所内のレストランで語り合い、療養所にお住まいのG氏のお部屋も訪問して、ビデオにとった会の様子を早速PCに取り込んで見せていただいたり、さらに語り続けた。この詩集作りの中心となったT氏曰く「放っておけば忘れられてしまうものを残すため。わたしはクリスチャンだが、この療養所の聖堂が一番好きなのです。」と。(つづく。)

2004/9/2(thu)
床の軋む音 雨の音


先日、娘が谷中にある彫刻家朝倉文夫の住居とアトリエであったという台東区立「朝倉彫塑館」を見てきた。おみやげの根岸芋坂の「羽二重団子」を食べながら「どうだった?」と聞くと「おじいちゃんとおばあちゃんの家を思い出したわ。」と言う。「おいおい、あたしの実家はあんなに立派な家ではなかったぞよ。」と驚くと、娘はおもむろに話しだした。


「つまりね。廊下を歩くと軋む音が聴こえるのよ。この家は高層住宅だから、そういう音はしないでしょ。その代わり上の階の音は聞こえたりするけれど。おじいちゃんたちの家はそういう音のする家だったのよ。」「なるほど。そういうことだったの。ここに住んでいると、雨の音に気付くのも難しいものね。」「うん、なんだか懐かしい音を久しぶりに聴いたのよね。」「うん、うん。」


もうすでに父母は逝き、老朽化した実家は取り壊された。おそらくその不動産の権利を譲り受けた姉は土地も売り払うだろう。なにも残らない、さっぱりとそれでいいと思っていたのだが、我が娘からそんなことを言い出されるとは……。しかしいい思い出を抱いていてくれてよかった。


さて、お話は「羽二重団子」に移る。感傷より団子♪
お団子は餡子のとお醤油のと……どっちもさらりとしておいしい、やわらかい。このお団子はさまざまな文人の著書のなかに登場する。
正岡子規の「道灌山」「仰臥漫録」、夏目漱石の「我輩は猫である」、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、泉鏡花の「松の葉」、田山花袋の「東京近郊」など。


   芋坂も団子も月のゆかりかな    正岡子規

2004/9/1(wed)
「夜学生」


 これは、詩人以倉紘平氏の数編の散文詩とエッセーを収めた著書である。以倉氏は一九六五年から一九九八年までの三十三年間、大阪の釜が崎に隣接する府立今宮工業高校の定時制に国語教師として在職された。この著書は若かった以倉氏が「夜学生」と熱く関わり合い、その時間の経過とともに以倉氏が深い思いをこめて呼称した「夜学生」という言葉の風化と変貌をも見るに至るまでの記録である。それは、隣接する釜が崎の「ドヤ」の構造の変遷と連動しているかに見える。かつての木造の「ドヤ」は、宿泊者が雑魚寝できる広間があり、そこで彼等は呑み、語り合い、社会への怒りを結集させることもできた。しかし、それらの古い建物は次々に建て替えられて、狭い個室と蚕棚のような部屋とに分かれ、共有の広間を失ったかわりに部屋の差別が生まれ、彼等の怒りを組織することを阻んでいったのである。


以倉氏が熱く「夜学生」と呼ぶとき、そこに現れるのは、一九九〇年以前の苦学生の姿であろうか。実名を挙げて以倉氏が紹介している数名の生徒は、貧しく困難な家庭環境に育ち、家族を助けて働き、学び、それを「不幸」と受け止めずに生きた、様々な年齢の方々である。さらにその困難を超えて、社会人として必死に働き、新たに「聖家族」を築いていった人々である。ここで以倉氏は主張する。『口さがない評論家たちは、夜学生の夢の成就が〈小市民的な幸福〉にあったことに、皮肉や嘲笑をあびせるかも知れぬ。下積みの労働の何たるかも知らず、定職に就く忍耐力も持たず、おのれが〈選民〉たる妄想によって(略)左翼づらした言辞を弄してきたエセ文学者のなんと多いこと。』と。


以倉氏の教師生活の後半期である一九九〇年前後を境に「夜学生」の人数が徐々に減少してゆく過程で、定時制高校は全日制高校から逸れてしまった若者(あるいは高齢者の生涯教育の)の場となってゆく。背後にある家庭の貧しさも薄らいだ。さらに定時制から通信制への移行の動きも見えてくる。そこにはもうかつての「夜学生」は存在せず、人間関係を組織することの困難な生徒の「しらけ」が蔓延し「苛め」も起こってくる。「先生」も振り出しに戻されたかのように思える。しかし哀しいことだが、この生徒たちは、あの「聖家族」から育った子供の世代にあたるのではないだろうか?

   
   音もなく星の燃えゐる夜学かな   橋本鶏二


   翅青き虫きてまとふ夜学かな    木下夕爾


   悲しさはいつも酒気ある夜学の師  高浜虚子



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