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高田昭子日記


2004年11月

2004/11/25(thu)
テスト

 

  

2004/11/24(wed)
海の仙人


(絲山秋子・2004年8月・新潮社刊)


 わたしはたくさんの書物を読むことのできない人間ですので、よい出会いをした書物には深く関わりたいと常に思います。これはとても「よい出会い」の物語でした。「ハッピー・エンドで終わる物語がいい。」これもわたしの基本。


 一旦読了して、わたしの心にはじめによぎった思いは、ひととひととの間にはお互いへの「愛」に気づく最も適切な時間が用意されているわけではない、大抵は遅れてくるもののようだということでした。さらにまた「死を待つ」こと、あるいは「愛する死者に追いつくこと」が人間の生きる希望に外ならないのではないかと。人間が「愛を生きる。」ということは、永い人生のなかのほんのわずかな時間、しかもそれは終末期なのではないか、とも思いました。


 詩人天野忠には「端役たち」という作品があります。これは地獄の門の前でやっと出会う男女が互いに「お変わりありませなんだか?」「おかげさまで。」と深々と挨拶を交し、鬼の小役人にやさしく「おいで。」と招かれるというものです。この詩は永いあいだわたしの心の奥に棲んでいて、事あるごとに表れるのです。「海の仙人」もまたそれを呼び出しました。


 さて、この小説の主人公とは、海辺の町で仙人(アウトロー)のように暮らしている男性河野です。実は宝くじに当たり、今までの平凡なサラリーマン生活にピリオドをうち、次に生きる場としてそこに棲みついたのです。さらにそこにふわりと棲みつき、あるいは消える「ファンタジー」という神様(のような……。神通力皆無。)との共同生活を軸にして、河野の二人の独身女性とのセックスレスの交流を静かに展開させています。河野の棲んでいる「水晶浜」と「水島」とを繋ぐ唯一の船主村井の存在も静かであたたかい。


 この「海の仙人」とその棲家を「安息の場」として「かりん」と「片桐」という二人の女性(と言っても二人の間には具体的な交流はないのだが。)は訪れる。共にキャリアを積んだワークウ―マンです。「安息の場」が女性ではなく、仙人暮らしの男性であるという物語の設定は不思議に無理がない。「かりん」は乳癌で亡くなる。その看病期間が「かりん」と河野とのわずかな「愛の時間」だった。その後、河野は落雷による失明、ラストシーンは「かりん」が現れるずっと以前から河野を愛し続けていたもう一人の女性「片桐」が河野の元に来る。空には雷雲が……。


 この物語のなかでは誰一人として心は傷つかなかった。「かりん」の死による河野の悲しみ、「片桐」の河野への片恋の淡い哀しみは、決して「傷」ではなかった。読了後の心地よさはここにあったと思うのです。そしてなによりもこの「海の仙人」という物語とわたしの出会いは最も適切な時間に実現したのです。女性という片側の性だけを生きてきたわたしが、ひととの関係性のなかで身篭ってしまった「孤独」「叶わぬ願い」「傷」、それが癒されたわけではないのですが、どうやらこれからの日々を生きるための「やさしい背骨」を頂いたようです。この物語に連れていって下さった方に感謝いたします。

2004/11/18(thu)
美しい秋の一日


17日の秋晴れの一日、国立に行って、銀杏と桜が交互にならんでいる並木道を歩いて、一橋大学のキャンパスを散歩しました。わたしの住んでいるところはすでに銀杏は散り始めているのに、国立の銀杏の黄葉、葉桜の紅葉はまだはじまったばかり。キャンパスには欅の見事は巨木があって、その下をサクサクと欅の落ち葉を踏んで歩くのは、とても気持がいいものでした。ベンチにすわって晴れた空を見上げる。空に差し伸べられている樹々の枝々、わたしも樹々に抱かれて、そこに腰をおろしているようにも思える。陽は次第に西に傾き、西空は金色に変わる。美しい一日、こういう日は一人で過ごさないこと♪

2004/11/14(sun)
父は八月に死んだ。


1997年夏の夜、テレビは「戦争」や「原爆」を8月の恒例行事のように放映していた。記憶にない「戦争」だったとしても、わたしのかつての一家は旧満州からの引揚げ者だったし、父親は関東軍の軍属だった。「戦争」はわたしとは無関係では決してない。肉親の死が戦死ではなく病死だとしてもそれらはすべて、かすかな「戦争の引きずり」なのだとわたしは思っていた。


1997年8月、わたしの父は胃癌のために86歳の生涯を閉じた。近所の顔馴染みの医者に勤勉に通っていたにもかかわらず、発見された時は手の打ちようもない末期癌だったのだ。年齢から手術は危険を伴うということで、父の苦しみの少ないことだけを考慮した治療をすることに決めた。父への「死の宣告」をわたしはしなかった。「時は過ぎる。そして起こるべきものは起こる。寡黙にそれに従うだけだ。」とわたしは思っていた。「父はいずれそれを感じる。そして寡黙に受け止め、従うだろう。」とそういうかたちで父を信じた。その父の心の強さに頼らなければならない理由は痴呆の母の存在があったからだった。


「宣告」の日から8ヶ月父は生きた。入院生活は初期に3週間、最期の10日間だけ、ほとんどは自宅療養、痴呆の母と末期癌の父との日々には、わたしの休暇はなかった。しかし父は最期の入院の前日まで、食事も手洗いもわたしの手を借りずに自立していた。母は父の最期の入院の時から老人施設へ預けた。母は訳がわからず泣いて追ってきたが、わたしは振り向かずに施設を後にした。「人間の苦しみが重すぎる時は、心を鈍らせること。それしかないのだ。」それは、わたしが困難な日々のなかで手に入れた考え方だった。


父が死んだ時には腰が抜けた。と同時に父の強靭な自立心は極限まで続いたのだということに初めて気付いて愕然としていた。そのわたしに代わって、周囲の人間たちはにわかに活気づいた。「葬式などは祭り事。後は賑やかにやればいい。」わたしはすでに人々のざわめきの外にいた。あの時もうわたしのなすべきことは終わったのだった。

2004/11/6(sat)
うふ♪


このページのトップに7歳のわたしが住むことになりました。「声『非戦』を読む」の「はじめに」のページには、若いちちははが住んでいます。HPの家族が増えました。時間を超えて……。


鱗造さん、桐田さん、ありがとうございました。

2004/11/5(fri)
誤読


これはある場所でわたしの意見を「誤読」だと言った方への返事の一部です。


なんだか書く前から気が重いのですが。とにかく書いてみます。
わたしの意見を「誤読」と言われてしまったら、もうそれ以上の会話の進展はないでしょう。こうして実例を挙げ、時代的状況を語り、説得して「正しく読め。」と?わたしが何も知らないとでも?作品は発表された段階ですでに作者の手も編者の手も離れて一人歩きするものです。極論を申し上げれば文学の歴史は「誤読」の歴史です。それが文学を豊かにしてきたのではありませんか?中原中也、宮沢賢治などなどについての多くの研究者がいるのは何故だと思いますか?どこにも完璧な「正論」がないからでしょう。そしてそれが文学の世界をゆるやかに広げた。


一つの例をあげましょうか。会田綱雄の「伝説」という詩があります。その詩を一読して、その背景にある凄惨な戦争事実を読み取ることはできないでしょう。わたしもできなかった。できなくてもこの詩は充分に美しい誤読が成立するのです。詩とはそのようなものではありませんか?その作品は↓に紹介しています。おひまな方はどうぞ。


http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_02/

2004/11/3(wed)
鏡の街


先日、銀座で友人と待ち合わせて画廊へ行く約束をしました。前回の約束では、わたしが予定の電車に乗り遅れて10分近く遅刻をしてしまったので、今回は絶対に遅刻はすまいと早めに出た。約束の場所に早く着いてしまったので、しばらくブラブラしてから、また約束の場所に戻ってきたが、20分待っても友人は現われない。携帯電話への着信履歴もない。この駅に着くまでのわたしはずっと地下鉄の中だったから、受信できなかったのだろう。それとも昨夜のメールで失礼なことを書いてしまったのかしら?という不安もよぎる。しかしそれくらいで黙って約束を破るような人ではないという信頼はあったが、実はわたしは「約束」という言葉にはかなり過敏反応するという「トラウマ」をかかえているのです(^^;…。こまったもんだ。


20分経ってから、方向音痴のわたしはあきらめて行動をおこすことにした。さて友人を頼っていたから画廊への道がわからない。かろうじて持っていた画廊の住所を便りに、ちょうど居合わせた郵便配達人らしき人に道を尋ねて、とにかく途方にくれながら歩きはじめた。ゆっくりと。友人が追いついてくれることを密かに願いながら……。


しかし背後ばかり気にしながら歩いていたら、なんと友人はわたしの前方から走ってくる!「鏡」という言葉がはじめに浮んだ。風景画が反転したような錯覚である。事情を聞けばあっけないことで、自宅からではなく、出先から回ることになってしまったために時間がはかれなかったとのこと。そして地下鉄ではなくJR駅から約束の場所まで走っていたのだった。しかも友人の走ってきた途中に目的の画廊はあったというのに……。携帯電話も使わずに……。


でも「失望」が「失望」のままで終わらなければ、それはドラマのような素敵なシーンになるものです。メロドラマ「鏡の街」♪

2004/11/1(mon)
あてどない。


わたしのHPの作品を読んで下さってかなり的確は批評を下さる方がいらっしゃいます。拙詩を読んで下る方は稀有というか貴重と言うべきか……。あ、ありがとございます。感謝していますです。数日前のお言葉(♪)は、こうでした。


『現実じゃないけど、現実の核があって、そこからイメージがひろがってつくりあげられた世界があり、その世界から流出するように詩のことばができあがっていく。そういうのは、書く方は完結しているのだけれど、もととなった現実との関連でいうと、どこか夢みているように、あてどないところがありますね。』


これにお返しする言葉は今のわたしにはない。「そうかもしれません。」と答えるだけです。詩を書くというのはわたしにとってそのようなものだったかもしれません。「詩を書く」という行為の出発点が「哀しみ」だったり「苦しみ」だったり「歓び」だったり、あるいは「復讐」だったりすることもありました。しかしそれらのものが言葉として「濾過」され「変換」され、「詩」という姿をしてわたしの前に立ちあらわれた時に、その「詩」がわたしに「明日」を連れてきてくれた。そのようにしてわたしは詩を書き、生き継いでいるのかもしれません。この方にわたしの詩集評を書いていただきたかったなぁ〜。もう時期が遅すぎるけれど……。


    おんなとは果てしもなくて桃みのる    昭子



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