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高田昭子日記


2005年3月

2005/3/31(thu)
相聞(あいぎこえ)


   


 「相聞(あいぎこえ)」という新しいページを作っていただきました。桐田真輔さん、ありがとうございました。わたしはこれらの作品を何も考えずに書きはじめてしまいました。走り出してしまったと言ってもいいかもしれません。そのわたしの盲滅法な詩作業を追うようなかたちで、桐田さんが論理付けをして下さったように思います。桐田さんが書いて下さった「相聞によせて」を拝読しますと、それがよくわかりました。エマーソンの「日記」のなかにある「男は苦労のあげくに結論に達するが、女は共鳴だけでそこに達する。」という言葉が、今、わたしの脳裏を横切っていきました。ビューーン(^^)。

2005/3/29(tue)
大きな樹の下で。


  


 大きな樹が好きだ。その下にいて、揺れる葉叢を通して空とひかりを見ることが好きだ。樹は多分わたしよりもこの地上での滞在時間をたくさん赦されている。そのことがただ嬉しいので、樹の下にいる。三好達治の詩をふと思う。


   いいえ昨日はありません
   今日を打つのは今日の時計
   昨日の時計はありません
   今日を打つのは今日の時計

2005/3/22(tue)
オペラ座の怪人



 先日は、映画「オペラ座の怪人」を観ました。新宿紀伊国屋書店で待ち合わせた同行者に「何故この映画を?」と聞かれたけれど、特に理由があったわけではない。あまりにも有名なのに原作も読まず、舞台でも映画でも観たことがなかったからです。ですからこの映画が原作に忠実であるかどうかもわかりません。怪人ファントム説もさまざまですし。


 原作は、フランスの作家ガストン・ルルーが一九一〇年に発表した小説。この小説誕生には、どうやら二つのヒントがあるらしい。一つはオペラ座で実際に起こった巨大シャンデリアの火災、落下事故。二つ目がこのオペラ座建築の際に、そこが湿地帯であったことから排水作業に困難を極め、結果それは地下の防火用貯水池となったこと。このオペラ座の不思議な事件が生み出した小説によって、オペラ座はさらに絢爛たる歴史を繋ぐことになったのでしょう。


 その小説はさまざまな舞台や映画となっています。今回のミュージカル映画の監督と脚本はジョエル・シュマッチャーです。一九八五年のアンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカル舞台脚本を少し変えてあるようです。
 舞台は十九世紀のパリ。でも台詞はすべて英語でした(笑)。オペラ座に乗りつける観客の馬車(これはわたしの個人的な熱い好み♪)、オペラ座の室内外の贅沢な建築、舞台の衣装の見事さ。馬や羊などは本物が出演していた!群舞の少女たちのうつくしさ♪そこからやがてプリマに選ばれてゆくヒロインのクリスティーヌのうつくしかったこと♪


 映画を観終わって、夜の新宿の街に出たとたんに、「ららら〜ら〜らら〜♪」と映画のなかで何度も繰り返されたメロディーを、歌い出したのは同行者である。わたしももちろん歌い出したけれど(^^)。この映画はファンタジーなのです。ヒロインを愛した二人の男の命がけの闘いの物語なのであります。溜息であれ、楽しかったであれ、まずは歌ってしまうことでありました。


 でも一つだけ不満がある。それはファントム役のジェラルド・バトラーの歌声です。クリスティーヌは、亡父からファントムは「謎の師」「音楽の天使」と伝えられていたという存在なのですから、もっと澄んだ美しい歌声の方がよかったなぁ。ファントムがクリスティーヌをオペラ座のプリマにまで育てあげる役割をしているはずなのですから。


 翌日になって、ファントムとラウルの二人の愛の間で揺れ動くクリスティーヌを思った時、寺山修司の詩をふと思い出した。うるおぼえなのだが……。


   女のからだは お城です
   なかに一人の少女がかくれている
   もういいかい?
   もういいかい?
   逃げてかくれたじぶんを さがそうにも
   かくれんぼするには お城はひろすぎる
          

 「音楽の天使」怪人ファントムは、長い間、その醜い顔ゆえにオペラ座の地下洞窟で秘密に生活をしていた。その境界には湖があり、そこには不思議で美しく残酷な幻想世界が広がっていた。そこでファントムはひそかにずっとクリスティーヌを愛し続けていたのだが、ラウルの出現によってクリスティーヌを失うことになると思った時からファントムの行動も醜いものとなる。しかし最後にファントムはクリスティーヌを手放す。


 人間がうつくしいということ。醜いということ。それは人間の生きるうえの大きなテーマではないだろう。おそらくは「どのように愛したか。」ということが一番大きなテーマであるはずだ。人間が生きるということはそれだけ。クリスティーヌの死後、ラウルは、ファントムが終生語り合ったと思われる「シンバルを叩くモンキー」のからくり人形を彼女の墓前に飾る。そしてそこにはひっそりと紅薔薇も。これはファントムがどこかで生きているという証だった。

2005/3/17(thu)
冬帽子


   


下記の「横浜へ。」を読んで下さった方から、「どんな帽子ですか?」とたずねられました。おバカを承知で、ここに元町で買い求めた帽子をご披露いたします。


ううううう。ホントにおバカですね(^^;)。

2005/3/16(wed)
青き踏む


   


   青き踏む生まなくなつた女たち   早乙女わらび


 この句は、3月16日付けの清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」に取り上げられたものです。季語は「青き踏む(踏青)」で春。哲男さんの「ヤマカン(^^)。」によると、ひょっとするとこの句の「青き踏む」は、平塚らいてうの興した「青鞜社」に掛けてあるのかもしれないと書いていらっしゃいました。らいてうの有名な宣言には「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。」とあります。これが今日のジェンダーやフェミニズムの流れの出発点であったのかもしれません。それが今日の女性の生き方に、繋がっているものなのかどうかはわたしにはわかりません。けれども、2月17日の日記に書いた「オニババ化する女たち・三砂ちづる著」をもう一度思い出す句でした。


 お時間のある方は、合わせて『愛の詩を読む』のなかに書いた「薄明のフライパン・清水哲男」も読んでいただきたい。わたしのなかでは、この三点に「かすかな、ぼんやりとした繋がり」を感じています。今はうまくまとまらないけれど、メモとして書いておきます。

2005/3/14(mon)
横浜へ。


  


 もう長い間行っていない。わたしの住んでいるところから行くと、ちょっとした小旅行のようなところ。そこへ行くことになって、八年前の中国旅行の折に買い損ねた「チャイナドレス」の夢が再来する。同行者とは「関内駅」で、午後三時に待ち合わせる約束をした。
 寒い曇天の日ではあったけれど、雨や雪が降らないことは幸いでした。同行者は、寒いと機嫌の悪くなる御仁でありますが、駅の案内板を見ながら待っていてくれた彼の表情はとりあえず笑顔のようで、やれやれ。なにしろ横浜は、わたしにとっては「知〜らな〜い街」を歩くようなもの。


 まずは「元町」へ。ここはブティックの多い町に変わっていました。ぶらぶら歩いて、気になるお店に入るという散歩。可愛い小物ばかり売っているお店で見事な卓上ピアノをみつけました。わたしたちの子供時代にあったものとは大違いで、自動演奏装置が付いていたり、同じ鍵盤を叩くだけで一曲が弾けるという優れもの。お値段も安い。「もう一度ここに来ることがあったら、きっと買うであろう。」というのが二人の共通意見(^^)。
 歩いているうちにからだもだんだんとあたたかくなってくる。「帽子屋さんがあるよ。」と同行者が言う。冬帽子を即決で買う。被っていたベレー帽を包んでいただいて、新しい帽子を被って、ふたたび歩き出す。こういう時の気分は楽しい。おのこにはわかるのかしらん?


 次は「中華街」へ。念願の「チャイナドレス」を求めて三軒ばかりのお店をのぞいたけれど、結局気に入ったものはなかった。素材、色、柄ともにわたしがどうしても欲しいと思えるものには出会えなかった。ま、いいか。白い湯気を立てているおおきなまるい蒸籠の置いてあるお店、「立ち食いの肉まんあります。」とある。大きな肉まんをほおばりながら歩く。なんだか楽しいけれど、これは大きすぎた(^^;)。


 この日の収穫は「冬帽子」一つだったけれど、暦の上ではもう春、この帽子を被る機会はあと何回だろうと思った。「寒さ」に騙されたかしらん?新しい詩集を出す頃までには、やっぱり「チャイナドレス」を捜してみよう。詩集を出す予定は未定。詩集と「チャイナドレス」となんの関係があるのかしらん?コーヒータイム二回。(以後略)


    冬帽子言えぬひとこと持ちかえる

2005/3/12(sat)
春の夢



    春眠に置きわすれたる夢ひとつ





小石川植物園の藪椿の画像を送って頂きました。ありがとうございます。

2005/3/10(thu)
春の使者


  


 二日続いたあたたかな日に椿もようやく応えて下さったのでしょうか。自然の営みはいつでも正直でうつくしい。この椿は「朴半」という名前だそうです。今朝、この写真を送って下さった方に「ありがとう。」を。


 昨日の九日夕暮れ時から、奇妙なとり合わせで友人たちがめぐりあった。その繋ぎ役は多分わたしなのですが、わたしの関知するところではない展開になりましたので、その責任は放棄いたします。しかし、それぞれの個性がつぶされることもなく、詩人「鮎川信夫」という存在を、それぞれの若き詩作時代のどこに置いたのか?という世代の相違を傷つけあうこともなく、はたまた無責任でもあったけれど……。「生きてるといろんなことがありますね(^^)。」とは、この今朝の椿の送り主の感慨でありました。

2005/3/2(wed)
ブログを始めました。


  


 この「高田昭子日記」のほかに、もうひとつ「ふくろう日記」と名付けたブログを始めることになりました。後者を書いているのはわたしではなくて、多分「白いふくろう」です。きっと黄昏や夜更けに書くのだろうとおもいます。ですからわたしの関知するところではありません(^^)。

 
 先日、上野の東京国立博物館にて、桐田真輔さんと一緒に「踊るサテュロス」を観てから、新宿の「ユニテ」にて、鱗造さん、足立さんと合流しましたが、「サテュロス」を観たあとの興奮冷めやらぬまま、お酒を呑んだ勢いで「ブログをやります!」と鱗造さんに言ってしまったのが、そもそもの始まり……うかつであった(^^;)。……というわけで、黄昏になると飛び出すふくろうさん、あっちのブログ「ふくろう日記」を頼みます。


 贅沢すぎるほどの「書ける」環境を整えて下さった、鱗造さん、桐田さん、ありがとうございました。楽しみながら書いてゆきます。



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