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ぺこ日記


2004年11月

2004/11/30(tue)
父の49日、誕生日そしてクリスマス。(爆

ばあちゃんと19歳、正月のぺこです。なんの意味もないけどばあちゃんとのツーショットはこれだけなのです。勘違いをしていた。父の49日は、わたしの誕生日であった。はぁ〜。
わたしはどうして、こんなミスが多いのだろう。
セナの散歩で、誰もいない公園でノーリードにしたら、嬉しそうに走っていた。散歩で一番遠くまでいくのがわたしだ。ひとしきり遊ぶと、わたしをからかうように歩いて繋がれる。その先の散歩も、彼の楽しみなのだ。黒ラブと吼えあったりするのも。目が見えず、耳が遠くても。


というような生活をしていたら「そろそろでていけ!」という話を母がしていたという。「うっ」という感じだ。まだまだ母は寂しいだろう。わたしも父と離れたくない。そんな気持ちでいたのだ。


年寄りというのは、なんとわがままなのだろう。わたしは、父の死を見た。それだけのことだ。そして母は、わたしが、きらい!なのだ。使い捨てみたいで「もう、いいや」って感じ。ひどく気が抜けてしまった。

2004/11/28(sun)
寺と石屋に・・・。

葬式の時いろんなアドバイスがあった。
「知ってる石屋に頼んであげる。」こういう話が三件あった。が、即座に却下した。長い付き合いだから、寺の出入りの業者がいい。
ということがあって、今日は寺に儀式を頼むのと墓地の使用料を払いに行った。100万円以上のお金を、数えもしないで「お預かりしました。」
そういう世界なのでびっくりした。石屋さんも「200万くらいです。」とくりかえす。墓場の中でどれがいいか、ショッピングをして型を決める。中国の石、スエーデン、イタリア。国産の石なんてなかった。石屋さんも忙しく、年内はいっぱいだそうだ。
まあ、それでほっとしたのは49日目が、元旦にあたるので12月25日(わたしの誕生日&クリスマス)になりそうだったことだ。


真言宗豊山派。3000になるお寺があるそうだ。
わたしは、最近葬式がなく吉本先生は浄土宗しか書いていないので、質問に困ったものの気さくな導師で本堂の写真まで撮らせてくれた。
母は、本堂の昔風のきらびやかな世界に涙ぐみ「あんなきれいな世界に行ったら、おとうさん帰ってこないよね」といった。
こうやって、骨になり墓に入る。その頃には諦めがつくだろうという作戦。
母のような、民間仏教徒みたいのも納得するというものだ。
母が好きな石牟礼道子も仏教だし、ほんのちょっと前の世代までは、葬式仏教なんて悪口を言われずいろんなことを学んだのだろう。


色があんまりなので。

色の訂正。

2004/11/26(fri)
セナよセナ。

サザンカの花びら"
今日は、犬の散歩を二時間。
冬の気配がない。母も、わたしも風邪だ。ユンケ○を飲んで出かける。

セナは昨日は気に食わなかったビスケットを、泣くようにねだる。じっと目をのぞく。当然あげる。
暫くして、またねだる。不機嫌なときは、カメラのレンズの前に回る。さらに・・・というときはわき腹でぶつかる。
この間の彼の学習だ。


機嫌よく、いろいろ止まっては進むと終わりそうな侘助の側で学校帰りの小学生にあった。「犬だ!」「かわいい!」彼女たちは口々に言って、「なまえは?」と聞いた。「セナだよ」「えっもう一回言って!」「セナだよ」「えっ」
体の細いほうの子が言った。
「どうもありがとう!お姉ちゃんと同じ名前でびっくりしたけど」


家に帰ると、位牌の前に大きなカリンが乗っていた。未亡人がおおい家の周囲の人たちが、最近はおやつのように供物を下さる。友人が「地域密着型お葬式」と言ったが、そのとおりで昨日は床屋さんも来た。野球仲間。
父は野球を若いときからやっていた。

父の野球は

父の野球は復員後、殆どすぐ始まった。草野球。国鉄スワローズ,ヤクルト,阪神となったが巨人だけはなじまなかった。

2004/11/27(sat)
ビーズの話

人気のないサッカー場
最近、ビーズアクセサリーが流行っている。かく言うわたしもビンテージのミリアム・ハスケルのを去年、ジャンク屋のYちゃんから手に入れた。(えへん)しかしとんでもない値段である。eBayでも、決して安くはないが、日本ではもうむちゃくちゃ。「わたしは、こんなのをコレクションしてますのよ」なんて言われたら、汚い手を駆使して収集したのだろうと疑いたくなるほどのものだ。(爆)
この人のバロック偽パールは、きれいで、最近読んだモノのなかにタチウオの皮を使っていると書いてあった。しかしし、わたしはこんなコレクター「おくさま」にはなりたくないし、なれないし苦手だ。バーゲンに走っていくおばさんも苦手だ。自分のおばさん、イメージが全然わかない。


今日は風呂で「いちご白書をもう一度」を歌っていた。女子高で一緒に見に行った友人は、亡くなった。この映画でおいおい泣いた。恥ずかしいくらいだった。彼女はおばさんにならなかった。


わたしは、葬式の時、「死に方」を知らなくても死ねるの?と従兄弟に聞いた。そうだよ。「生まれ方」も知らなかったじゃない。「ああ、そうだった。


おばさんのなり方もいらないのだ。きっと。

2004/11/25(thu)
風邪をひいてしまった。


葬式にまつわる話しか書けないので、しばらく書かないようにしようかと思っていたところ、また加古川出身の友人からお悔やみを言われてしまった。
ところが、わたしは彼の身の上を心配してるのだ。
彼はただいま失業中。職探しをして一ヶ月、「見てみぃな。
わいなんて、仕事あらへん。」「。。。。」



彼を登場させたのは、大学時代のエピソードを書きたかったから。
某氏は加古川の高校では生徒会長だったそうだ。そして相撲部のキャプテン。
さらにC大に現役入学。期待の星であったのだ。
それが、暫くしたら髪は伸ばすし破れたTシャツを着ているし、まったく何をやっているかわからない。



その年の夏休み、彼は実家に帰った。いつものようにベッドに寝てると、やかましい。
目を開けた彼は驚いた。頭のうえで、お祓いをされていたのだった。
「こわかったよー」・・・・・という、らもちゃん風の話が書きたかったからです。

alt を間違えました。

写真は昨日の、空です。この後にやってきた夕暮れは素晴らしかった。

2004/11/24(wed)
新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥

メジロの次郎吉です"毎日、仏壇や、石屋から電話は続き。母の体調も、戻らない。わたしも喘鳴が時々でる。父の前でまた泣いたが、今日は生けるもの存在が際立った。
やっとだ。ノルマでやっていた。それから目が覚めたように、犬や鳥が見えた。

*家の弟は時々様子を、みに来てくれます。

2004/11/23(tue)
寝込んじゃ会った・・・・母

チャイニーズ・ホーリー
葬儀のあとは、請求書が乱れ飛ぶ。そして連日墓石屋から電話がある。プライバシーなんてない。葉書だってくる。成田さんとか、都内からもだ。そして仏壇。そういうものの対応は大変だ。母はどんどん神経質になっていっていた。


今日は、犬と散歩に行き、ふらふら歩いていたら葬儀場の側にきてしまった。セナは脳梗塞をやった犬だが、父が毎日点滴に連れてゆき、今はだんぜん丈夫な犬になっている。母は時々、この犬と話しているが犬の頭のなかは餌のことしかない。葬儀場の記憶なんかないのだ。


わたしの友人から父に、ぼつぼつ弔意の電話などが入っている。一緒に酒を飲んだ友人とかだ。坊主の友人は、最近「最後のお別れを」と言うと、「もういいです。」なんて言うのが増えているという。原因は「死体」が嫌だとか、家族関係の複雑さとからしい。家なんか、棺の蓋が開くと必ず母か、わたしが額や頬をなでていた。それはかなりマシなことなのであった。葬儀場ではプラスティック風のふたがあって、出来なかったが。


電話で思い出したのは、ソ連が崩壊した時に父と友人とが話した時のことだ。友人が「お父さん、ソ連がなくなってもロシアの人は生きているでしょう?国家とはそういうものです。」と言った。それで父は頭の中がひっくりかえったらしい。共同幻想論の焼き直しみたいな話だが、国のためになにかをしてきた人には受け入れがたい言葉だったようだ。その日は酔って寝る前に三度くらい部屋に来た。なつかしい思い出だ。


夕方になって母が、寝込んだ。「ふろふきだいこん」を作っていた時だ。寒気がするから後はやってといってきた。「うん」ふろふき大根はきれいに面取りがしてあった。味も良かった。母は薬の副作用で、味や匂いが分からなくなっているのに、作ってくれたのだ。ありがたくて泣きたいようなおかずだった。父が居たら喜ぶなぁ。日に日に父の不在が重くなってくる。母が臥せったのは、それとお嫁さんが同居を拒んだということもあるだろう。こんな時に酷だ。

2004/11/22(mon)
「臨死体験」の話

びわの花"
昨日は初めて、父が母の夢に出てきたという。
母は案外迷信深いので、出てきても死者が話をすると成仏していないのだと言っていた。
「49日くらいまでは、この辺にいるね」と言った。まだ、父がその辺にいるというのは、彼女にとっては嬉しいことなのだ。
その頃、わたしは体育会系の運動部でしごかれた夢を見ていた。起きぬけの気分は最悪だった。起きたらもう疲れていた。こんな夢は初めてだ。
今頃、疲れが出ている・・・・と言われるがどうだろう。


母は、祖母の家が豊かで、お寺に寄進をしていた時、兄弟と「わしらにくれー」とよく話していた。お寺さんの付き合いは、母の方も古い。
父がまだ家にいられた頃、母はわたしに「臨死体験」の話をした。保育園で働いていた時、風邪なのに休めないで父が車で母を送った。そのわずかな時間に、意識がなくなった。その時に起きたんだそうだ。
花がいっぱいで、川があってその先は後光がさしている。みんなが呼んでいたけど、父の声でわれに返ったというようなことだ。「あれで行っちゃったら、死んでたのね」と母はいう。


そんな話の続きで、父を棺に入れるとき湯かんをしてくれた女性が、父の腕の骨を折ったと聞いた。「簡単に折れるのよ」と母・・・そんなことをしていたのか!
なんだかわたしは、よくよく無知だという気がしてきた。もし、見ていたら「骨なんか折るなよ!」そう叫んで居たかも知れない。腕を折らないと、手を重ね合わせられないということだそうだが。

2004/11/21(sun)
お金返してもらったゾ。

サネカズラ
粗忽だ。
今日は、真言宗の菩提寺に行った。葬式と勘違いした。「葬式」(家族だけの簡便なもの)の打ち合わせと、墓地の購入。「ぼち、ぼち」というのは墓地墓地から来たんだそうだ。
父が生前から墓を買うのは嫌がっていたために、近所で買う時期に買わなかった。
みんなはバブルの頃で大変だったようだが、今は墓地も底値かも知れない。
父は強運の持ち主かもしれない。父の姉の墓の隣は、ふさがっていたが、日当たりのいい場所が選べた。みんなで納得。その帰りに仏花を買い求め、果物を買ってきた。喘息が二人もいるので、線香臭くならないように線香は半分に折って使っている。


今日一番の問題はセレモの請求額だ。倍額だったのは、オプションのせいだが、要らぬ宗旨の坊さんを使ってしまったということもある。セレモは家の菩提寺に連絡をしないまま自前の坊主に頼んだ。
当日菩提寺のお坊さんは、連絡を貰っていなかった。そして「やられましたね」と言ったそうだ。「・・・・」

弟は怒った。そしてすぐ抗議に行ったのだ。葬式だからと我慢してはいけない。彼は30万近くの返金を取り返した。弟のこういう交渉力には、いつも脱帽する。


でも一番腹がたつのは、こういうことすべてを誰かがやらないといけなくて、家のようにたまたま協力者がいる場合はまだしも、老夫婦のどちらかが欠けて、残った場合だ。役所の手続きは、役所に行かなければならないし、本人もよろよろだったらどうしようもない。もろもろ押し寄せてくる残務に、対応できないはずだ。(断定)だから不景気に強い葬式産業にやられちゃうのだ。


思わずりきんでしまったが、元気のいいおばちゃんが来てくれたからである。

2004/11/20(sat)
満州の父の写真は・・・・・。

満州の父の写真は、ハンサムだという評判。訪問看護婦さんは「遺影」と結びつかないと言っていました。さなり。(爆)

20日のぶんもちょっと書いて・・・。

毎晩のように、お骨を盗もうとしています。全然できない。

父の部屋に入ると、父の匂いがする

父の部屋に入ると、父の匂いがする。懐かしい匂いだ。この数十年の間に男たちは、ヤニくさい手とタバコを失った。父も同じで、タバコは10年以上はやめていた。
だから、父の匂いも変ったワケで、最期まで日記をつけていたところから、それを書き込んだあとのような紙の匂いもする。
母に、それを伝えると、喘息で全然わからない・・・と泣き出した。泣いてばかりいるけれど、今日あたりから普通の生活に戻ろうと話したばかりだった。わたしは父の喪失感はこれからのような気がしているので、カメラを持って逃げ出した。
わたしとて、母が寝静まった時に階下に落りて行き、泣きながら線香などをあげているのである。


さて犬の散歩では外出しているが、撮影目的の外出は葬式後初めてで、遺品となった帽子を被って出かけた。
遅れたサクラの紅葉はきれいだった。秋は冬へと衰えていく、そんな時期に病人が亡くなってもおかしくないような気が気さえする。結局サザンカと侘助を見て、C大の薬草園に行った。そこもわずかな実がなっていただけだった。冬になっている。熱い時期に病院に通ったことが嘘のようだ。


帰ると、母がセレモニーホールの請求書が来ているというので見て、びっくりした。定額にオプションをつけたら倍額になっている。介護保険も実費の部分が出て追徴金があったし、明日は菩提寺で、もう一回葬式をやる。(葬儀屋が菩提寺が空いていないかも知れないと言ったのだ。)そうしないと戒名がつかない。


年金受給者を、こんなメにあわせてとシミジミ。今も簡易保険や解約する通帳がない!と捜している母です。


写真は「アカザ」です。真っ赤になっていてきれいでした。

2004/11/19(fri)
母の回想・わたしの回想


母の回想を聞いていると、繰り返しが多くかなり辛い。「うん、うん」と言って聞いている以外ないのだが「寂しさ」は日をおって辛くなるようだ。


さて父は「満州」で武装解除になり、機関銃を持つソ連の兵隊に囲まれて行進させられた。そして機銃掃射の中を逃げた。下痢と飢餓にさいなまれたようだが、抑留をのがれたのはそのせいだ。


帰国は割合遅かったらしい。身一つで舞鶴について、千葉に着いたとたん、栄養失調で、入院となった。
退院してからの生業は国鉄。満鉄時代から電車が好きだった。誇りを持っていた。わたしは父が休んだのを見たことがない。


写真はディーゼル時代の父。右手。

2004/11/18(thu)
満州、スターリン、八路軍

話がとんでしまうが、ネットと言うものは、すごい。
父の亡くなったあと、入金の用がありメールを開けたら激励のメールがあった。
灰皿町を見たらお悔やみの言葉がいっぱいあった。こんな体験は初めてで、わたしはよくよく幸せ者だと思った。本当にありがたかった。


父を失うことは文字通り、身の切られるような思いだった。お葬式のあとやっと眠りについてからイラクの人たちは、こんな思いをいつもしているのだと思った。
軍国親父の成れの果てみたいな父だが、なんとなく戦争で傷ついてるというところを、わたしは理解するとかいかぶられた節がある。わたしはわたしで未だに靖国なんてTVでやってると、その都度、戦争を思い出すんだろうなと思っていた。何も言わない父が、戦争の歴史を若い者が知らないと、わたしと飲んだ時に嘆いていた。知ってるように錯覚されたのは、たまたまわたしが石原吉郎を読み、大西 巨人を読み大岡昇平をちょっと齧っていたから、それだけのことだ。


わたしは、戦争のことを知らない。小田実さんに言わせると、今はみんな「戦争を知らない大人たち」がバッコしているのだから、若者よ、知らないことでひるむことはないと書いてあった。
しかしわたしたちの親は、みんな戦争を知っていてそれに傷ついていたのだと思う。ソ満国境と言っても、今の若者は分からないが脱北者が越える国境の側と説明すると「ああ」と若い子でもわかるのに、とてつもない断絶はこういう言葉が死語になってゆくことと関係があるだろう。
父はそういう言葉が通じなくなって、振り切るように生きていたに違いない。満州、スターリン、八路軍。早々と死語になっていった言葉は、スナックなどで同僚と酒を飲んでいても使えなかった。言語障害に陥る前、父は「国境の町」「帰り舟」などを好んで歌っていた。ことに「帰り船」は、復員してきたさいの思いとともにあったようだ。

途中ですが、わたしの通院日です。


父の「満州」での父の写真です。

2004/11/17(wed)
ありがとう。生臭いところから、再開します。


今朝、早めに降りて行ったら、まだ紙で出来ている祭壇の前で母が泣き崩れていました。「迎えにきて!」「なんで置いてっちゃったのよ。」
残るものは辛い。みんな置いていかれた。わたしは、モルヒネ投入で亡くなる日の明け方から、父の手を握り、何度も起こそうとし、通夜の夜中、線香の番をしている時思い切り泣いた。棺おけを揺すって「出て来い!」とやった。「家に帰ろう」とやった。モルヒネでというのが、許せずその液体の入っている注射器を割ろうとさえした。
生きてる側からだと、モルヒネは殺人に似ているが、死の方から考えれば、それは合理だった。
それきり涙はだいぶ収まった。身を切られる思いというのは、こういうものだと納得した。
式の間中わたし達は、お礼のお辞儀をいっぱいした。母はわたしにもしたくらい取り乱していた。お辞儀しか、自発的にやったことはないかも知れない。
セレモニーホールは、何もかも整えてくれた。それでいて、病院内の搬送は、病院が契約した葬儀社の手で移動をした。「わたしたちは病院内に入れないのです」不服気にセレモニー・ホールの人は言った。坊主は天台宗だそうだが、セレモの社員ということである。本家の墓の近くに墓は買うつもりで、父もそれを望んでいたから、本当は真言宗でやりたかった。

昨日、父の兄が入っている寺で話しをしたら、葬式は身内だ けで、もう一回真言宗でやり、千葉一族の菩提寺のためつながりがわたしの家は、安くしてくれるということだった。父の姉の墓の隣だ。父は喜ぶさろう。

写真は点滴(電解質)に混入されるようにセットされた、モルヒネの注射器。青いマーク内。当初05ミリだったのが、10ミリになり予定より早く亡くなった

2004/11/16(tue)
ありがとうございました。

昨日お骨を持って、帰宅いたしました。
メールや掲示板など、ネットのみなさまの激励は本当に嬉しかったです。
こころよりお礼を申し上げます。
棺には、愛犬セナの写真をいれました。

日記は、もうちょっとお休みいたします。

2004/11/14(sun)
父がなくなりました。

今朝方、4時に亡くなりました。
肺がん、呼吸困難、モルヒネによる死でした。

声をかけてくださった皆様、本当にありがとうございました。本日通夜に明日は葬式と慌しく、睡眠不足です。日記はちょっとの間お休みします。

2004/11/12(fri)
深夜、入院となりました。

とても苦しそうで、家庭でみるのは限界と判断いたしました。

2004/11/10(wed)
炭酸少年

介護保険の申請に行くことになった。ベッドの貸与が至急必要になったからだ。
区役所に犬を連れて行くと言ったら止められた。わたしは、犬を連れて行くのはどうということもないと思っているが母が強行にとめた。そうすれば散歩が一回分助かるという計算だったのに。
犬には父の顔を見ないから寂しがっているのだろうと思い、いつもより長い散歩をさせていた。今日はそうは行かない。それを察してか犬は公園を一巡りして、すばやく遠回りの道に入ってしまった。わたしはリードをあまり強く引っ張るのが嫌なのだ。しかたなく近所の犬と一通り鳴き交わし、大急ぎの散歩。
コンビニで「炭酸少年」という飲料を買う。なんとこれはラムネの味でした。帰宅そうそう、区役所に行き申請。役所に行かなければ駄目というのは気にいらん。手の少ない病人家族をしてみれば、酷としか言いようがない。
「炭酸少年」が今日の収穫。そういえばセナはこの間ソーダー水を飲まなかった。

追加、

失禁用パンツはおむつよりはるかに、本人のプライドを守りえると思う。

2004/11/9(tue)
腫瘍マーカー


父の腫瘍マーカーの数値が1000。普通は5くらいなのに、間違いなく肺がん。
タバコでしょうね。転移はしていると思います。点滴をお願いした先生が言った。もう、こうなったらベッドを買って入れちゃうのがいいですね。
そろそろ苦しみだすでしょう。いきなり血を吐いたり、急にくることがあるんです。モルヒネ系の薬の用意をします。癌の局部はとても栄養状態がいいのです・・・・。苦しむ病気です。
母は昨夜4回も起こされたと機嫌が悪い。しかも「可愛そうねー」の連発。そしてスーパーから帰ってきたら、二人で泣いているのです。「もう、泣くな」と父が言ったとか。でも、いよいよ今日から、椅子まで引っ張りあげることができなくなりました。先生が来るまでは。夜間に元気になりそうですね。

近いうちに介護用品屋(褥瘡予防)と役所に行かねば。


さて、荷物を買った付けろ、と散々言われていた、物置がこわされました。

片付けです。

月桂樹も伐られました。

2004/11/8(mon)
きょうは往診の日。

昨日のうちに説得して「点滴してもらおう」と言うと、頑固な父が頷いた。
そうするとわたしも、少し安心するのです。
昨日は休暇(!)を貰い、犬の散歩以外は部屋で気に入っている、クープランのCDを繰り返し聴いていました。ベルサイユの音楽。久しぶりに聴いたので、どっと入り込み、聞かせてくれるなら魂をあげよう!安い魂だけど・・・。と思いました。だは。

午後の犬の散歩は、新兵器一眼レフデジカメおじさんがメモリーを持って付き合ってくれました。写真が撮りたい、テーマが欲しいってわけです。
いつもの通りですが、ガレージの下に大きな犬が居て、セナと吼えあうところの先に、珍しいものがあったので教えて待っていて、帰ってくると「ぺこちゃん、マクロレンズ早く買いたい」。
わたしは、彼のカメラの「これは何?」「フード」なんて会話をしているくらいだから、もう全然わからない。
ただ、厚生年金組の人たちがカタクリを撮っているとき、覗かせて貰ったカメラはすごかったなー。
財力で写真を撮るなんて10年早い・・・・ん?10年?



その後、おじさんはわたしに聞いた「ムラサキシキブ」(コムラサキシキブではない)の大きな木を、撮りに行きました。場所も、名前も確認したのに「わかんなかったー」。わたしが行きたいくらいなのに。

その間に庭には、うぐいすが来ていて「きょきょ」と鳴いていました。そういえばヒヨドリが群れになりだしましたねー。

2004/11/6(sat)
大活躍の巻


本日は歯医者。また歯が欠けたようで、たずねるとセメントが取れたらしい。ここのところの通院は、「歯磨きできているか?経過観察通院」なのです。人によって磨き方も変わる様で、歯の形などでどこを重点的にするなんていうのがあるそうです。
しかし、歯医者を納得させられる歯磨きなんて一生できませんね。TVで10分、お風呂で10分、みたいなのは大抵歯ブラシをしゃぶっている状態に、わたしの場合はなってしまいます。


歯医者のあとには、八百屋、スーパー、ケーキ屋さんと行って、冬物の父のパジャマ、おねしょパッド、シフォンケーキ、鱒寿司を買いました。この間にパチンコ屋の開店の、ちんどんやさんの写真も撮らせてもらった。一件つぶれ一件ができた。パチンコ人口もすごいのね・・・なんて思いながら、花屋をちらちら。
帰宅をすると、すぐ犬の散歩で犬は待ってくれない。あの声はトイレの催促〜〜でも、カメラはしっかり持ちます。そして、帰宅。すると午前中寝ていた父が、起きていてトイレのために肩をつかませ往復後、「競馬をやる」との合図。コンピュターで初めて、馬券を買いました。


もう疲れた!のに。ら、来客・・・・・。きゃー。
父は昨日よりちょっとだけ、いいみたいでした。

2004/11/5(fri)
秋の蝶

母は数年前から自分たちの布団を取替え、いろんなものを整理していた。こういうことを母はどうして身に着けたのか分からない。祖母の家ではそんなことはなかった。普通の家ではどうなんだろう?

そしてついに、わたしが溜め込んだものを処分しなければならなくなった。
しっかりした母親を持つと少しは利巧になることもあるが、その油断のなさが今、わたしに向かってきている。それはとてもキビシー要求水準だ。


さらに今日ついに父から「戻れ!」宣言があった。とっさについこの間、救急車に乗ったばかりで「二人でどうする?」。そう思った。わたしと母との行き違い、多分それが大きな原因だ。あさましい自分をを反省した。父は「○子が居ると明るくなるが、お母さんとはもっと長いんだよ」と思いつめた目で言った。


午後は訪問看護の看護婦さんが来た。脱水症状がひどいので点滴を依頼した。そして「お小水の量をはかりましょう」。流動食は缶一本250calそれも一日一本も適わなくなっている。今さら量ることになんの意味があるのだろうと思った。とまれ点滴の針はわたしが抜くことになった。身近で散々見ても、やはりうまくできない。「ごめんね」と細い腕に言った。


そして外にでた。夕暮れだった。秋の陽が光っていた。「セナちゃん。みんな金色だね」カメラは救いだ。セナは、どんどん力をつけていっている。時々は走りさえする。リードで繋がれたふたりは、子供の頃の記憶とまた重なる。初めての犬からずっと。セナは三本足のマーキングもよろけなくなってきた。リードが引っ張られる。カメラを持っているわたしは動けない。セナはひっぱる・・・・・・。それで撮った写真です。

タイ行きのノートパソコンを買わなくちゃ。

2004/11/4(thu)
物置の整理


アメリカ大統領選の結果は最悪で、厄日だと言いながらロールキャベツを作った。友人のおじさんが、新しいカメラを見せに来た。一眼レフのデジカメ。高そ!それを持って久しぶりに写真を撮りに行った。前のを永久貸与して貰いたいと、腹黒く思った。
がっ!一眼レフは手強かった。彼は「マクロレンズも必要だな」と言った。「そうだよー。ばかめ!」とわたしは言った。そして彼は、あんなにかっこいいカメラを持ちながら「メモリーがない」と言った。「八枚だけだ。」・・・まぁ、そういう人なのだ。

厄日だ!アメリカからメールが来た。「とても悲しい」と書いてあった。少なくとも4年はわたし達は人生を選べないという風に。アメリカのいい時代はさっさと終わっていたのだ。
わたしはブッシュの、蓄膿症みたいな鼻声が大嫌いだ。鼻声だけではないが。そんな悪口も言いながら「八枚」を連れて歩いた。
父に見せるために、どんぐりとシイの実とマユミの実を持って帰った。


一眼レフのおじさんはついに、持ってきたカタログを読み始め、「うあー。ますます複雑になった」と嘆いた。買う前にちゃんと調べないのも癖だ。八枚しか撮れないカメラを持って歩くのは情けなく、わたしだったらごめんこうむりたいが、他愛なく嬉しそうなのもなかなかいいような気がしてきた。


帰るとき、おじさんは、散々なやんだあげくヨドバシカメラでマクロレンズの値段を調べてくると言った。

そしてわたしがネットで調べ、安いほうを買いたい。「それで、どうでしょう?」と。言葉はそうだが、かれは当然のように言った。そのあとの、物置の整理は、大学時代の同人誌や、おばの家計簿が出てきた。叔母の字は初めて見たが、実に達筆だった。そしてそれを見ながら母は「こんなの捨てられないわ」人生は夢のようだとまた涙をこぼした。


写真は、ハクチョウゲ。子供の頃の記憶と写真で、結婚直後両親が庭に植え、垣根を作っていた。

2004/11/3(wed)
酸素で眠る。


父とのこの数日間は、夢のようでした。

酸素器具の貸し出し、高カロリー食の開始から、すごい衰退ぶりで、尿瓶、歩行不能など付き合っている母は泣き入るばかりでした。今日は久しぶりの好天気で、衰退の底でも落ち着いているような感じです。
父は昨日、食事もせず布団にはいり、細くなった腕をいたわるようにしてさすりながら、父は「○子さん(わたしのこと)は気が強いから泣かない。よく尽くしてくれるね」と言いました。そして穏やかな表情でした。

すると不覚にも、わたしにも涙がでてしまいました。父がわたしを「さん」づけで呼ぶなんて今まで、一回もなかった。
「オレはもう終わりだ」というので、「そんなことはない」と虚しく言った。「わたしもついていくから」これは本気だった。聞こえたのか、わからない。寝たまま腕を大きくひろげ、「選挙は?」と聞かれた。「明日ね。」「そうか。」そう言って、初めて夜間に酸素なしで眠った。
「衰弱がはやい」ことは食べられないことによるのに、父は空腹をさほど感じないらしいのです。嚥下障害は決定的な原因のようにおもいます。飲み下しができないので、苦しそうに食べます。


*セナとのお散歩です。これしかなかった。


セナとの写真は10月分に。

セナとの写真は、11月29日分です。



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