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ぺこ日記


2004年12月

2004/12/31(fri)
これがのちの世でいう、東西椿合戦(大奥風

前に買った葉書から。紅白に宇多田ヒカルがでないとか、都はるみが出ないとかぶつぶつ言っていたら、衣装の地味な小林幸子が「寒椿」を歌った。わたしは「あんこ椿」に、喧嘩を売るのか・・・と思ってしまった。
これが後世に伝えられる「東西椿合戦」である。(爆)(しかし、やさしさと甲斐性のなさが、裏と表についている・・・・という歌詞はすごいねぇ)


今日はセナを風呂にいれた。まず自分が入って洗ってから、セナが入る。人間だったらエライことだが、犬だってえらいことで、今日はブルブルをやられてしまった。セナとずっとじゃれ合って半日をつぶした。


だんだん父の不在にいらだち始め、食料品を買っただけ。
正月ではないから、適当に画をアップした。



大嫌いな2004年バイバイ。

2004/12/30(thu)
父のいない暮れなり。

雪が降った。雪の予報は当たらないと、たかをくくっていたら雪が降った。この温度差は度し難い。セナが家の中で、暮らしていてよかったと思う。
明日は昼間セナと風呂に入る。
実はこれが夢だったのだ。♡!
雪のあとを団地まで行く。
小さな雪だるまがあった。
ナンキンハゼのそばには、鳥がよくくるので写真を撮る。


元旦に母が食事を作れないと、泣いて電話がくる。当たり前だ。
みんなでいろいろ持ち寄って、すき焼きを食べることにした。夜、Kさんと電話。Iさんとも。役所の事務処理の話。

2004/12/29(wed)
セナは18歳になったぞ。

18歳になったセナです。昨晩は思い入れのしすぎであった。
今日は天気がよかったら、どこかを散策しようかと言っていたのだが、天気予報が雪だというので急遽中止。
風邪もぐずぐずしていたので、昼食はタイのチャーハンで手抜き、犬と鳥のおやつを買いに行った。
タイ料理のお店と、ペット屋は同じビルにある。
タイ式エステと古武道もそうだ。さりとて怪しい感じはまったくしない。
ペット屋では、まだ主のみつからないシェルティのポスターが貼ってあった。金魚や熱帯魚の前に立つと、必ず寄って来る魚たち。水槽のなかにいろんな魚がいて同居をしているものもいる。ここは魚以外のペットは、カウンターの奥にいる。


ペット屋でいつものおやつと次郎吉の餌を買おうと思って、ふっと見たら「豚の蹄」というのがあった。ビーフジャーキーなどはいらないが、これはうけるかも・・・。と、目を向けると「牛のアキレス腱」というものまである。すごいなー。
店主が、これは喜んで齧りますよと、お勧めで「豚の蹄」を買った。
セナは18歳になった。お祝いは「豚の蹄」だ。セナはそれを、いつもどおりちょっと噛んで放り出した。
余計なことだがわたしは、豚足を食べることはできない。

2004/12/28(tue)
椿を買う。

曙。椿を買う。
家では非難ごうごうなのに、椿を買うことにした。
憑かれたように椿を追いかけていて選んだのは「曙」だ。
わたしはわたしの死ぬ前に、満開の椿を見たいと思ったのだ。
今、近くで咲いている椿の多い家では、おばあさんが植えて50年だと聞いた。「余り古くないんですよ」とお嫁さん。この椿には50年の平和と面倒を見る人が居た。
それは奇跡的なことのように思える。そうして次の世代に手渡した。
それはなんと大変なことだろう。最近になってわたしは苗では間に合わないと思い始めた。結局、成木を業者さんに頼んむことになった。


今、家の前の鉢にそれは植えられてある。来年はたくさんの蕾を持つだろう。
わたしは少し安寧な気持ちでいる。

人は結局、命をつないでいくものなのかなぁ。

椿は日本の園芸の究極じゃないだろうか。

2004/12/26(sun)
とばしてしまった26日

リヒテンシュタインみたいなこれは、カラオケやさんにありました。25日を超えたら、しばらくは行事がないと思っていたので、気のゆるみからこじらせた風邪が一気に逆襲してきた。
お、田中優子みたいな声もいいじゃんと思っていたら、うつ病の先生から電話があって、タイに行く前に一回会おうと言っていたのが、今日になってしまった。
無事に職場復帰の方向で動いているはずで、調子もいいと思っていたら「俺、激痩せしたよ。15キロくらい」「!」
なんとも心配で結局、二人は件のカラオケ屋に行った。
わたしは歌う気力なんかぜんぜんなかったから、殆ど話を聞いていた。本当にすごい痩せ方だ。そして激痩せの原因は分からない。白血球値も恐ろしく上がったようだが、今は落ち着いたという。憶測はキリがない。
再検査が新年になるというので、それまではペンディング。

ジャズみたいの歌えたらいいね、というので「みたいのなら」とコールイング ユーを歌った。全然力が入らない。風邪は絶好調になっていた。他人の心配をするどころじゃなくなってしまうくらいに。

2004/12/27(mon)
スマトラ沖地震津波

去年もみごとだった椿。風邪なのに眠れないでいた。
一週間くらい前からだ。なんだか神経が昂ぶっているようで、睡眠薬が効かなかった。
今朝はやっと寝坊できそうだったが、TVをつけてぎょっとした。
大きな地震があったのだ。プーケットで日本人行方不明、スマトラ沖地震津波でインド洋沿岸が被災とある。
地震と津波で何万人と死傷したのだ。
プーケット。行くはずだった。
当初の予定通り、タイに行っていたらこの災害にあっていたかも知れない。ひやりとした。


TVをつけながら、また眠ってしまった。犬の散歩だ・・・・起きねばと、遠くで考えている。それもわたしだ。
犬が待っている。粗相をさせないように・・・・。
犬の散歩は、犬の気がすむようにしないといけない。ダウンジャケットを着込んで、やっとの思いで起きると、風邪薬とユンケルを飲んだ。散歩の途中で汗が出てきた。帰ってきて着替えもせずパーカーでベッドに入った。


夜になって思いがけず、看護士の友人から電話が来た。「まだ日本にいたの。よかった。お父さんがたすけてくれたのかもしれないよ。」ほんとうにそうだ。父のこともあって訪タイの日を延長したのだった。

この友人は本当に気立てがよい。風邪ですさんだ気持ちになっていたので、見舞いの電話は本当にありがたかった。

2004/12/25(sat)
ぎゃーてーぎゃーてー父の49日。

本尊。葬儀屋の手違いで、違う宗派のお坊さんに葬式をやられてしまったので、もう一回お経を読んで、49日の儀式もやることになった。
うちうちだから、気がほぐれてお経も分からないけど聞ける。
その声は、どのお葬式でも聞いたことがないほど良い声だった。抑揚もきれいで、しかも暗譜(こういっていいのか・・・)だった。本は一切読んでいない。それが一時間強。そしてわたし達は般若心経を唱えた。ぎゃーてー、ぎゃーてーもやった。お坊さんは、これは聖徳太子も唱えていたのですよと言った。


とても真剣な読経だったように、みんなが思った。
真言宗のもとの「維摩経」は以前から探してもずっとなかったのに、桐田さんが古書店でみつけてくれた。
難しそうでびびるが。


母は骨を預ける時泣きじゃくった。位牌じゃない骨がいるのだ、骨より焼かない体がいるのだ。そうしたら父が帰ってこられる・・そう思えてしまうのだ。

お坊さんはいつでもいらっしゃい。○○さんのところは神主さんの家系だったんですね。
今お父さんは「意成身」(いじょうしん)というのになっています。
神道でいう霊魂みたいなものですね。どこへでも行けるそうですと言った。


弟が「毎日、泣いてるんだよ。食欲がないってご飯食べながら泣いてるんだ。」「しょうがないね。一年くらいは」「まあ、そういう時にTVなんか見てて、答えに困るってこと。」と弟が言った。
近所の同級生Y子ちゃんちのお母さんは、3年泣いていたそうだ。たぶん、欝になったのだ。
今は、旅行に行ったりボランティアをやってるらしい。わたしは母のことでは、今のところそれを心配している。配偶者の死というのは、うつ病の引き金になることが多いらしいから。


そのあと、わたしたちはみんなでタイ料理のコースを食べにいった。わたしは母に真言宗も、イラク派兵に反対してるよ、というと「母はよかった」と言った。


タイ料理は母も弟も、辛いのは凌げるようで「おいしい」と言った。わたしは、チャーハン以外は余り食がすすまなかった。だからチャーハンの残りをドギーバスケットに入れてもらった。(わたしが食べるのだが)別れてから、お礼の電話が来た。母らしくない。やっぱ気弱になってるのだ。



クリスマス会に誘われていた。断ったらケーキが届いた、弟は長靴をくれ、ご近所の方からバナナチョコを貰った。見に余ることだ。ありがとう!。

2004/12/24(fri)
クリスマス・イブだってさ。

この人たちも神様の手伝いの人らしい。明日は、クリスマスでわたしの誕生日なのに、父の49日だ。
それは、本当は一月一日になってしまうので、25日になったということなのだ。今まで49日間家の周りを守ってくれた父が旅立つ日なのだと母は言う。
葬儀にまつわる儀式は具体的なものを、どんどん観念の世界に持っていくということだ。
でも、わたし達は具体的な父を、まだ愛している。母がお骨と一緒にご飯を食べ、二人で見ていたTVを見て、からっぽの洋服をたたむ時、どれだけ実体を恋しいと思っているのか、わたしには測りようもない。


今まで、母の存在が、こんなに哀切に思えたことはない。

2004/12/23(thu)
仏壇と位牌や鐘の鉢など。

この天女はお釈迦様の手伝いの人らしい。仏壇と位牌や鐘の鉢などを、買いに行きました。床の間に入る大きさ。
床の間って神様がいるんだし、緑の日ってのはテンノーのお誕生日だし、明日はクリスマス・イブだし。
ちょっといい加減すぎない・・・・。ふむ。

2004/12/22(wed)
山椒話

昭和侘助もこれからです。葬式に来てくださった近所の方から、縮緬山椒をいただいた。「うぁ。嬉しい」とわたしは喜んだ。
母はどうも「好みではない」ようだ。
縮緬山椒は京都のお土産で友人が買ってから、知人の中でちょっと流行った。小田○の地下に、みんなで交代に買いに行った。
その頃、デパ地下にいろんな地方のものが入りだしていたようだ。となりのコーナーにはお茶の一保堂が、入っていた。一保堂のお茶は好みではなかったが、縮緬山椒はおにぎりなどにも活躍した。山海のこの取り合わせは、京都ならではのものだと酒飲みどもは絶賛した。

今年は春に伐られた、山椒の木の芽を集めて佃煮にした。木が一本分路上に倒れていたのだ。慌ててビニールに芽をつまんでいれた。母はそれがわたしの料理の中で、一番美味しい料理だったといった。母は薬で味覚がおかしくなっているから、決して褒められたわけではない。


思えば父が糖尿病になってからというもの、わたしたちは究めて健康的な食事を摂ってきた。それはさながら病院食のようだったが、母親のこういう配慮はありがたいことだった。火葬場で、父の骨がしっかりしていて驚かれたのも母の食の支えがあったからで、ビーフシチューを作っても、カロリーが高いという憎まれ口はもっともなことであった。病に伏して、苦手なうな丼を食べた父も、山椒をたよりにして食べたのだろうか。

2004/12/21(tue)
石榴の実

ヤブツバキが咲き出しました。父の祭壇に、母は石榴を買って供えた。なにか唐突な感じで、石榴というのは似合わないと思った。
数日後、輸入物の大きなそれを母は三つに分けて「美味しくないよ」と言いながらわたしにもくれた。


昨日のTVでエーゲ海周辺を紹介する番組があった。
ぼーっと見ていたらそのなかで本当に石榴を絞って、ジュースにしているのを見た。生の石榴ジュースは美味しそうだった。なんで、こんな話をするかというと、わたしは時代小説は苦手なのだが、池波正太郎のエッセィなどは好きだった。とりわけ食べ物の話はおもしろかった。そのなかで、いまでも気になっているのはグレナデン・シロップを、銀座の明治屋で買って、それを氷にかけるととりわけ美味しいというものだった。
読んだ瞬間が夏だったので、明治屋に走ったが、今ではカクテルなんかに使うのだろう、それが石榴からできているとはとても思えない味だった。石榴のジュースは、たぶんこんな味じゃない。戦後のグルメのこだわりは、「ほたるの墓」のようにサクマ・ドロップスの味がするようだ。

2004/12/20(mon)
太郎冠者のこと。

侘助の基本のひとつみたいなもので、昭和侘助もこれからできました。柳田國男だったと思うが、昔は借金は年末までに返すということではなかったらしい。
それが年末になったのは税制が一年ごとになったからだそうだ。実際、時代劇では身売りするほど高額な借金で、何年たっても返せないなんてことをやっている。税金のために世の中が忙しくなったと思うのは癪だが、当節もっと忙しくさせているのはさしずめサラ金か銀行だろう。こんなに不景気を身に感じた一年はなかった。


風邪とはいえ、犬の散歩はせねばならない。が、散歩と称して椿を見に行ってるのかもしれない。去年頭に入った「椿地図」は、結構記憶に残っている。
日当たりの良い家の庭で、今日は期せずして太郎冠者(有楽)を見つけた。侘助椿の代表格のこの花と年末は、昨年は繋がらなかったが今年は椿前線も異常なようだ。
来年は椿行脚はできないとなると、この季節はひとしお思いが残りそうだ。

2004/12/19(sun)
日付がずれた。

今年はクチナシの実が綺麗です。病院に行った時の話しだが、院外処方の薬を待っている間、そばのペットフードのお店に入った。
前回見本で貰ったオーガニック・フードをセナはよく食べた。だからおやつ用に同じものを求めるつもりだった。
先客は、ハワイアンアクセサリーを物色している女性で、気に入ったものがあったようだ。
名前を入れるとかいろいろ注文をしていた。それが長引いたのでいったん、薬局に戻った。
「ああいうアクセサリーとか生地を、いっぱいもっている友人がいるんだけど」弟が言った。
「ん?」友人がハワイアン・アクセサリーのお店やっててたたんだの。で、デッド・ストックが数千万円分ある・・・・のだそうだ。
「買ってくれないかなー」と弟。「話してみよう」と姉。
実は今までで最高の見積もりで800万だったそうで、このままいくとバッタ屋みたいなことになってしまいそうだという。


こんなデッド・ストックを抱えている、個人営業の店は、当節山とあるだろう。店主との話は期待はしなかったが、やっぱりまとまらなかった。「今は一個のアクセサリーでも送ってくれますから・・・」そうだよなー。e-bey だってそうだ。


先だってタイに行く話から、当然母も遊びに来るという話が出た。母は、昔話で、「あなたたち大きくなったら貿易商になるんだ」って言っていたのよ。ふたりで、僕もって言って・・・・。」最近泣いてばかりいる母が楽しそうに言った。子育てはこういう喜びにあるのだろう。そして貿易商の今時の事情は、こんなことが、多そうだ。こういう思い出を、持っている母に少し嫉妬でした。
まだ、風邪です。

2004/12/18(sat)
喘息セット。

サンキライリース。今朝はやばかった。
完璧に風邪。そして喘鳴。ちょっと調子にのっていた。動きすぎ。犬がきてから、わたしは一回も昼寝もせず彼にかまけていた。
慌てて、喘息セットを使った。(タイの病院に行く前に少し余分を貰おう。)するとなんとか動けるし、外に出ないと便もださないので、無理に出かけた。
ぼうっとして帰ってきて、ドッグフードをあげ、豆腐をあげ、それでも落ち着かないので、毛を梳いてあげた。


なんとか落ち着いたので、買った椿を植え替えて・・・・・。というような無理をしてしまったが本当はいけない。
やっと寝ます。



追伸。以前書いていた「ぢ」のことですが、実はボ○ギノールを神経質に塗ったためにできた薬疹でした。

2004/12/17(fri)
あと何回の通院・・・・。

しらたま椿。フィリピンで仏壇を作って売っていた、という話を病院の待合室で、弟から聞いた。
デパートに並んでいて、それも日本式で、仏壇も紫檀とか黒檀とかで・・・「うんで、安いのよ。本当だよ。10万位のがこっちで買えば50万とか100万。」弟も持病持ちで、ステロイドを使っている。ちょっと具合が悪そうだとすぐ分かる。ムーンフェイスの兆候だ。なのにわたしは病院に、月に一回車で送って貰っている。贅沢な話だ。最近、母が仏壇のことを、しきりに気にかけている。お寺の住職さんは「小さいのを・・・」と言ったのだが、いずれ自分も入るとなると気分がかわるのだろうか?
とにかく昔の仏壇はおおきく、半間すっぽり・・・というのが祖母の家で見た最初の仏壇。


弟に送ってもらうその間に、話す企業と銀行の話、ぜんぜんわからなかったのに最近は少しは付いて行けるようになった。世間知らずのわたしにとっては、ショーバイの話はおもしろい。


弟はいわば何でも屋で職業名のないような、仕事をしている。借金もたっぷりある。ある時は車屋だし、輸入建材をしてみたり○井のリハウスとか・・・いろんなことをして、いろんなところに行っている。
例えば、わたしはエルサルバドルに行ったという人は彼以外に知らない。そして彼の学生時代の友人は、かなり自己破産していて困っている。
それは別の友人の弟が借金自殺をしたために子供たちに、財産の相続放棄をさせたころから増えた。考えてみると9・11以降と言っていいかも知れない。


ところで、墓石は中国が安い。三万円くらいであるという。葬儀屋や寺はこれからの、成長産業だ。「そうだね。」
しばらくして弟が言った。父の最期に立ち会った病院スタッフがなんで、男の看護士だったのか、わかったよ「そして、ああいう人の毎日ってどうなんだろう?」わたしは、以前読んだカーとヴォネガットの中の「いつものように殺したあと、カバンをベルトでくくった」」というおぼろげなセリフを思い出した。

弟がまた言った「戦場のピアニスト」お姉ちゃんがいいって言っていたけど、結局チャンネルを変えてしまったよ。


人生にチャンネルがあるとして、そのスィッチを持っている人は誰だろう?

2004/12/16(thu)
父の祥月命日がおわって。

恰幅のいいセナ
全員風邪気味だ。
セナだけが元気。(今日は4回の便・・・食べすぎ 笑)
ばたばたしててすっかりニュースなどは見ていないが、ま、いいかと思って、大分以前、桐田さんが竹久夢ニのことが好きだと言うので、「ふーん」と思った。あの着物のだらしない着方はなんだ!と思っていたからだ。

で、先日歌舞伎をやっていて、はたと思った。歌舞伎は帯の位置が高い。
昔は高いのが一般的なのかな?
葬式の時、喪服をきたがやはり、あんまり揚げなかった。


こんなことのついでに、昔、新宿に「青蛾」というクーラーのない喫茶店があった。
雰囲気と味もよくて待ち合わせには利用したが、狭いのでいっぱいのときがあって、外で待っていたりした。
京都の同じような店にも「夢二」の絵があった。

祥月命日という間違い。とほほ。

桐田さんが、早速指摘をしてくださいました。
祥月命日は、「毎年めぐってくる命日のことを言うみたいです。」
来年のことを言ってしまった。ごめんなさい。

2004/12/12(sun)
わたしがイヌと散歩をしている時、母は競馬

カンザキアヤメ。丈が短いです。今日は母は、父の好きだった競馬を見て泣いていたそうです。わたしはイヌと「椿巡礼」。どんどん咲いてくると思うと、わくわくします。
今日は一本椿の苗をネットで買いましたが、同じものをと言って断られた椿がどうやら珍種らしいのです。
お茶の先生は「唐椿」と言っていましたが、業者は原種に近いようだという答えでした。しかし「唐椿」と言っても30種は軽くあるのだそうです。そしてたいていは八重。わたしの写真のは一重なのです。
こういう精度の要求される、レファレンスは素人では無理です。本を買って分かったことは、椿の種類は順列、組み合わせの世界で限りがない。でもどこかで鑑定してくれないかしら?
椿は以前買ったことのある、植木屋さんから買いました。「椿」と入れて検索したら黒澤の「椿三十郎」のDVDがでてきた。安かったので、つい買ってしまいました。もう父もいないのに。


さて昨日、今日と初めてマクロレンズを使いました。面白くてとたんに好きになりました。「下手でもカメラだけは、いいものにしたい」そういう気持ちです。わは。

2004/12/11(sat)
泣く母・椿

椿って海の近くにあるような気がします。ここも昔の海岸線。ヤブツバキに始まりヤブツバキに終わるというのもわかる気がします。
毎日、母のところに電話をすると「ご飯食べながら泣いてる」とか「毎日泣いてる」とか言っています。
存分に泣けばいいと思っていたら、セナの吼え声にも声をつまらせる母でした。
「洋服が捨てられない。」「持っていればいいじゃない。」そんな会話です。長い間の夫婦の思い出が、そんなに簡単に捨てられるわけがない。
夫婦っていいナと思ったのは、母の乳がんの時、毎日不器用に切った漬物を病院に持っていく父を見てからです。その大きさといったら、とんでもなくて父は「病室のみんなが遠慮して一個しかとらない」からだと言います。
その時、「近所のおじさん」も家族もお姉さんや、お母さんが既に癌経験者だったので知恵を拝借しました。途方にくれていたわたし達はたくさん救けられましたが、ついでに怪しい癌療法も聞かされました。
仕事からスーパーに行き買い物をして、お見舞いをする看病は辛かった。何代ものわたしの仕事の上司で理解をしてくれたのは、癌の闘病最中の人でした。彼女と付き合うことで、話すこと力えることが出来ました。だから、クリスマスの夜の会話を最後にして彼女がホスピスに入り、亡くなったとき、わたし達は胸が張り裂けそうで、でも貴重な経験をたくさん貰ったことを再確認したのでした。


父の退院後、「中国旅行に行こうか?」とわたしは言いました。「父は行ってみたいがなー。変っているだろうなー」父は大連に行きたがっていたのですが(小学校をでた)そのときはすでに体力が許さなかったのです。


さて今日、買ったのを激怒したわたしの侘助を、植え替えようかと思っていたというのですから母の花好きは並々ならぬものがあります。
祖母の死後いろいろあった姉妹の齟齬も清算して、「仲良く」やっていきたいといいつつ、額を寄せ合うように祖母に似て来た姉妹での電話のやりとりも、救いになっているようです。


わたしは今日は椿の本がアマゾンから届くとほくほくして散歩に出たら、偶然お茶の先生が猫をかまっているのにお会いしました。「じゃお逃げなさい」と猫に言って、「イヌを飼っていらっしゃるの?」「ええ、父の忘れ形見です。今日、椿の本が届くんです」と言いました。去年のことも覚えていてくれて、セナの頭をなでてくれました。嬉しかった。
お庭の素敵な椿、今年も見られそうです。

2004/12/9(thu)
椿の本を買ったこと。セナの通院。

よろけてやる、マーキング。しかし、今日あった小学生は雄犬がこういうことをすると聞いて大騒ぎでした。
ベッドの下の二万円である。「好きな椿の本買いなよね。」と天使か天女が耳元で囁いたのだ。なんだか行き着くところに、行き着いたという気分でもある。
さざえさんの波平さんが、盆栽をいじってるのがよくわかるのだ。


今日は寒かった。しかしセナが要求するので、憂鬱な気持ちでカメラを持ってでかける。それで、ひょいと思い出した。セナの胸にぐにゅぐにゅの脂肪の塊のようなものができていたのだ。


夏にアサガオが綺麗だった、動物病院に飛び込んだらすぐに診てくれた。まず、体重。
セナはすでに、雰囲気がわかっていて怯えている。14キロ!。どうりで最近、コリーですか?と聞かれるわけだ。「犬は、あばらが見えていないといけないんです。」「・・・・」


そして問題の塊。「腫瘍」ですと言われた。根がありますからね。しかし老犬なので、手術などすると麻酔が効きすぎることがあるんですね。このまま大きくなるか様子を見ましょう。良性か悪性かわからないので・・・・。
病院をでてほっとしたセナは、喜んだように歩き出した。
人間と違って検査漬けにしないんだね。
セナは今も安らかに眠っています。

2004/12/8(wed)
犬との暮らし。

椿・曙という品種です。挿し木は枯れてしまいましたが昨日、また枝を切って貰ったので、為丸式で再開。
風邪気味で少し休みたいので、散歩を早めにした。明るい時間の花はきれいに撮れることがある。昨日のところにもう一度行こう。セナは、案外平気で歩く。車が多いのに、車を避けない。これも最大の欠点だが、昨日はペット屋さんのレジの前でマーキングをし、そして道路の真ん中でもした。「わはは」というしかないが、思ったよりボケてるのかなあ。
目的は椿、去年からとり付かれている。アケボノ。
この椿の枝を昨日切っていただいたのでお礼にケーキを持っていった。高齢のおばあさん(椿を植えた本人)は、デイケアに通っていて椿はもう見られない。だから去年、写真をプリントアウトしていったら、枕元においていたんだそうだ。


それからもう一本のアケボノ。昨日、発見したところに急ぐ。セナは案外おとなしく待っている。草地とか枯葉が好きなのだ。そしてセナは今日、生まれて初めて踏み切りで電車を見た。そそくさと帰ってきたのだけれど、ふすまはもう傷が・・・・。何の感激もないらしい。

2004/12/6(mon)
引越しのあと2万円が。d(゜ο゜)b ゲッツ!

さざんか。

昨日の引越しのあと2万円が、ベッドの下からでてきたという連絡が入った。ラッキー。
しかしその時わたしは、セナと大奮闘中だった。
餌の要求ばかりしていて、食べる時に「ワン!」と鳴くようにしてきたようだ。
ずっとワンワン吼えているし、おすわりなどは芸風がかなり乱れている(笑)今日も昨日もトイレまでついてくるし、散歩を3時間くらいして帰ってきても落ち着かない。


すると夕方、母から電話が入った。「寂しい。泣き声が聞こえないとまったく、ひとりだからね。」
わたしは母を誰かが居て、見守れる環境にしないといけないと思っている。同居というのはそういうことだ。
でも母の頭の中は、お返しと父のことでいっぱい。少しずつ洋服も整理しないと、と思っていてやりだすと「切なくてたまらない。捨てられない」という。「戻ってきたらこれを着せよう、と思うのよ。」「もどってくるよ」「そうだよね」
一昨日、母と二人で犬を風呂にいれた。その時も母は父のシャツで犬の体をふいた。父の匂いがわかるはずだからと母は言った。


今日は犬と長い散歩をした。こちらのほうが土がない。いつもの公園はセナが10年以上通ったのに、事情がちがう。顔色を見ながら進んで、土地勘はないだろうがそれなりに、楽しんでいるようだった。驚いたのは不在の一ヵ月半のうちに、線路沿いの大きなビワ一本。キョウチクトウ二本が伐採されていた。
帰るといつの間にか犬は、餌の要求の時は「おすわり」をするようになっていた。

母のために、もう少ししたらやはり、セナを帰さなければいけないようだ。

2004/12/5(sun)
引越しアゲイン!

国鉄はスターの時代がありました。帰りは、荷物がくる時よりも増えています。それに犬のセナを引き取った。犬と、わたしと弟が並び、きゃんきゃん言う車のダッシュボードの上には次郎吉がいて、ちいさな箱舟じゃー。
セナは随分、父の車に乗っていたのだが忘れちゃったみたいだ。帰ってくれば、めだかの餌はなくなっているし。

国労の友人が、毎年父に無農薬新茶を贈ってくれていた。亡くなった時連絡をして、父の鉄道時代は一体どんな仕事をしていたのかを教えてもらった。
わたしの周囲では、大正、昭和初期の生まれの父親を亡くしたというのが、今年はとても多い。
戦争を経験した最後の世代だ。



やっとセナが寝た。大騒ぎをしていた。餌ばかり要求していた。母が、「不適応なら戻してね」と言った。
まあ、外泊ってことで少しは一緒にいよう。(目の前はまっくらです。笑)
午前中大慌てで父の写真を撮ってきた。イタリアのネオ・リアリズム風の写真。父は映画がとても好きでした。黒澤作品には随分、刺激されたという。
つかれたのでオシマイ。

2004/12/4(sat)
別居、母子で姑になる。(笑)

主を亡くした老犬。目も見えなくなり、耳も聞こえなくなっています
近くなのだが、ついに弟夫婦とバトンタッチするために引っ越す。
母は明日から家族が増える。わたしも増える。セナをあずかるのだ。

階下では、母が形見分けの準備をしている。切なくて捨てられないと涙を流している。
わたしは、母を泣かさないように「意地悪」をしてきた。「意地悪」で支えるしかなかった。そして父には線香をたっぷりあげた。
昨日は親戚の子から、思いがけずハワイのお土産を貰った。それをきっかけに、今日はずっと気になっていた髪を、はなちゃんカットにしてきた。
そして、タイ料理屋でお昼を取った。
夏に青いケシの開花でお世話になって以来、近況を伝えあった荒澤○草園 の方からもお悔やみと、タイはいい所だという話を聞いた。
植物の遺伝子を研究しているT大の助教授の先生も、丁寧なお悔やみを下さった。
タイに行ってもこのHPは続けるつもりだが、予定がのびて行くのは来年3月になった。これは母と付き合える時間がまだあるということで、実はほっとした。
タイ料理屋さんの笑顔のきれいな店主は、3月と聞いて「暑いよ」と言った。
今日は、辛くしないでと頼んだ。タイピラフ。それでも少しは辛かったが、スパイシーで美味しかった。「コップンカッ」(「ありがとう」の女性言葉)と言った。
そして父が最後に食べたシフォンケーキを三つ買った。


駅の周辺は、まるっきりクリスマスだった。「季」と「節」がばらばらになったみたいだ。今晩は、母がてんぷらを作ってくれた。父に海老を食べさせてあげたかったのに、二匹しか食べないで逝ってしまった。
母は後悔している。介護や医療の上での選択や、言ったことや、アイスをあげなかったこと。
「愛する人が死んだ」時は、いっぱい後悔しないと前に行けないのだ。
もうカロリーを気にしないで、旅行にもいけるよとか、そんな言葉はまだ耳に入らない。悲しかったら仏壇の鉢を叩くといいんだよ。一晩中叩いていたと知人のおばさんは言ってたよ。
ろくに口もきかず、2階にあがった時に、茶碗をあらう母の姿が目の底に残った。
風呂に入るふりをして階下に行き、母の布団に声をかけた。
「いつでも、来ていいよ。タイにもいいよ」薄情な娘が、言っておきたかった言葉だ。
明日は、わたしも後悔をする。やさしい母に残酷なことを言ってしまったから。

2004/12/3(fri)
ちょっと、切ない話・・略して切花(せつはな)

ボケの花
前回の通院の時、睡眠薬を貰ってきた。
わたしは、そんなに薬依存症ではないが(家族の中でも一番医者を馬鹿にしてたりして)新しい若い女医さんがさばけていて、父の話をすると出してくれた。
ソレが効かない理由は、だいたいは分かっているけど仕方のないことだ。


ところで、昨日の夜電話があった。学校時代の先輩からだ。ゼミが一緒だったので仲がよかった。そして同じ福祉畑で働いたためにお世話になったりもした。
じつは、父の看病の時、わたしが電話をしたのだ。ところが向うに聞こえるのは集会の声だった。自衛隊のイラク派兵の反対集会の最中。企画者は彼だった。「また。かけるね。」「ごめんね。」そんな風に電話を切った。
そして昨日、彼が家へ帰ったら奥さんが置手紙を残していないのだという。「酔った○○さんの顔を見るのはもう、嫌です」
ほんとうはこれで出て行っちゃえば、「底つき」になるのだろう。やめなくてはと思うかもしれない。結局お酒の治療といっても「やめるしかない」のだ。
聞けば、同僚も欝で休職中、その分も背負って組合。入所者の待遇改善からパートのおばちゃんの夏病みまでだ。
今は本人も軽い睡眠薬を貰っている。酒と欝はらもちゃんみたいなもので、非常に大変なのだ。
今頃はうつ病なんて、差別の対象にもならないとは友人の謂いだが、わたしの周囲に6人もいるととんでもないことだと思えてしまう。健康を損なうほど、価値のある職業なんてないのに。

2004/12/2(thu)
半畳寝て一畳よりはマシな空間

最近は写真を撮らせてというと逃げ出す子もいるのですが、とても楽しい子達でした。<brr>
家でリストラされて、運び込んだ荷物も、戻さなければならなくなった。嫌だな。線香もあげられなくなると思っていたら、家の近所で更地を売っていた。
それはなんと言ったらいいか、「もうわたしを待っていたのね。未来に希望を持っていいのね」という状態で、「あ〜〜、木が植えられる」という胸の叫びが一気に出たような衝撃だった。わたしは静かに暮らしたい。
一遍上人のように旅道具だけ、というわけにはいかないし、立って半畳寝て一畳よりはマシな空間があってもいい年なのだ。どこの家でもあるような葬式後のごたごたで、わたしは疲れてしまった。銭金の問題ではない。自分が壊れそうなのDA。助けて!!←ヒステリー状態です。


写真を撮りながら歩くと、父が右手で、犬のリードを持っていたのがよく分かる。わたしはカメラを持って、左にリードを持つことがある。そうすると彼はちょっとだけ混乱するのだ。カメラの時間がながいと、回りこんだりするのも右きき用になる。そういう時、わたしは父の姿を重ねあわせるのだ。


「むらさきばばあ」
昨日、通学路を散歩していたらこどもたちが「むらさきばばあ」の話をしていた。犬をなでて可愛いと言ってくれるもんだから、「むらさきばばあってなあに?」と聞いた。
「あのね、トイレの近くで服が川みたいになっていて・・・」「それ怖いね。」「うん。」写真の真ん中の子が見たというのだ。「そんでね。なんかむらさきのものをあげるの」
子供の頃、耳なし芳一の話を読んで、震え上がった自分を思い出してちょっとほっとした。いつの時代も、たとえ形をかえても「怖いもの」があるっていうのはいい。
「むらさきばばあ」を生んだ想像力やよし。

2004/12/1(wed)
父よ!

階下に行って驚いた。
父がいつも着ていたはずの、父にプレゼントしたすみれ色の半纏を母が着ている。
そうして父の日記を読んでいる。
後半は切れ切れだが、友人の出世を父が喜んでいるので、母は感動している。
今日はイヌのお風呂の日だったが、寒いのでやめた。それで、ちょっとだけ日記をのぞくと、父が「今日はイヌの洗濯の日だ」と書いてあった。
日記なんて、こころが落ち着いてから読むものだとわたしは思う。父はアルバムも日記も整理して逝った。それは病気を知っていたということで、ちちが辛い思いに耐えていたという証左だ。だから、ついに父の口から「癌」という言葉はでなかった。


ところで家の階下はバリアフリーの工事を数年前にしていて、トイレも暖房とウォシュレットがついている。そこに行くのに父の前を通る。父が笑っている。見るといつも笑っている。
わたしは来年、父とも離れ離れになる。お父さん、タイに肛門科あるかなあ。
最近母に父も手術をしたと最近聞いたのだ。それは切実なのだよ。



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