お初にお目にかかります。倉田でございます。号は解酲子(かいていし)、「酲ヲ解ク」すなわち二日酔いのむかつきを迎え酒を用いることによって解消する男の意です(「晋書」本伝、劉伶の逸話。青木正児先生による)。まあ、酒飲みには違いありませんが。
発句はいろいろ考えて美江さんのをいただきました。こういう何げない挨拶が当季である夏にふさわしく感じたためです。弘子さんの句もさすがですが、四句目以降の、いわゆる平句の世界で力を発揮されるのではないかと思いました。脇は一座の亭主の位ですから不肖愚生がつとめさせていただき、第三はなにぶん力業が要るのでここは経験者の天女さんにお任せしました。
「心得」に発句脇第三は揚句をつとめない、とありますが、膝送表で天女さんが揚句をつとめているのは、みなさんに月花の定座を配分したためで、それほど大それた掟破りというわけではございません。四吟の場合、進行はABCD/BADCと進みますが、これも厳密にそうなっていないのは、やはり月花の配分のためで、古例にはいくらでもあることですのでご安心を。
さて、最初の付け合いですが、美江さんの挨拶に対し、団扇とめ、というところを見咎めて、扇いだり止まったりする動きを戸外の景物にとりなして、動くものは五月雨だ、と見定めたツケです。降ったり已んだりする五月雨は、さながら集まっては一座を組み、文台ひきおろせば即ち反故となる、仮の世めいた歌仙の世界のようではないか、と。
ところでみなさんにお願いですが、この発句のように、付け句は三句ほどをお寄せいただきたいのです。エントリーという側面ももちろんありますが、それ以上に、さまざまな違った角度からツケを試みるということが、連句では大切なことであるということをご理解いただきたいと存じます。それと、一言二言でいいからなぜその句をツケたか、ツケ筋を添えていただきたいと思います。こじつけでも何でもいいのです。理由もなく・なんとなく・感覚で、進めてゆくとドツボにはまるということは、これは経験から断言できます。そういう意味で連句とはすぐれて論理的なフレームを持った遊びなのかもしれません。以上、よろしくお願いします(通信は横組みで行うことをお許しください)。
〇第三は天女さん。三句限りの夏の句で引っ張ってもよろしいのですが、雑の句でも面白いのでは。けれど季のない第三はむつかしいかもしれません。五句目の月を睨んだ秋季への季移りはまだ尚早かと。
01/7/2解酲子
御連衆さま
天女さんから第三をお寄せいただきました。三つほどお寄せいただいて、次の句を採らせてもらいました。すなわち、三句渡りだと、
団扇とめ歌仙心得よむ夜かな 美江
また降つてやむ軒のさみだれ 解酲子
客人を乗せたる船のはや着きて 天女
あとの二つは「逗留と聞き連衆の集ひきて」「宿主に壁の色紙をせがまれて」というものですが、芭蕉句「五月雨をあつめてはやし最上川」を掠めたこれが、発句脇のどこか夜の雰囲気をひきずった世界からの清新な転回として、第三にふさわしいと考えました。季のない雑の句です。付筋はいわずもがな、と天女さんはおっしゃっていますが、むろん、客人とは美江弘子ご両人のことであることは「いわずもがな」です。愚生としては、はや着きて、というところに弘子さんへの挨拶があるのではないかと考えます。いまかいまか、と待っていても、あるいはのんびり構えていても、付け順は意外に早く回ってくること、これは少し連句をやったことのある人なら誰しも抱く感想でしょう(ちなみに、第三は末尾「て」「にて」留めや「らん」留めが一般的で、「かな」や体言留めは用いません)。
〇ここで弘子さんに申し上げたいのは、第四句ではもう歌仙始めの挨拶の世界からは離れてほしいということです。季は秋でお願いしたく、月の定座の前を睨んでの、しかも夜の雰囲気に戻ることのない句での世界を広げていただきたいのです。人事は難しい面がございますので、とりあえず天象や景物を詠むことから始められてはいかがでしょうか。
PS/もうお気づきでしょうが、脇の愚句、「降って」の「っ」を、並字すなわち大きい「つ」に変えていただきたく、お願い申し上げます。赤い恥ですが。仮名遣いは歴史的仮名遣いで、漢字は新字体でゆきたいと思いますので御了承ください。では。
01/7/5解酲子
御連衆さま
弘子さんから付句が届きました。秋風の句をいただきました。後の二句は「好み好みの秋袷せかな」「松茸と柚子香る小座敷」ですが、いずれもお申し出により「客人」ということを念頭に置いたツケということで、先申した挨拶の世界に属し、第三の「はや着きて」に打てば響くように返された「反る」「渡り」「板」の軽快、もっと言えば無常迅速の勢いに感嘆させられた句を採らざるをえませんでした。
対して愚句は、その気分をさらに付け延ばして、影薄く身も軽く浮世を渡ってきた蕩児の老いの果ての感懐、という仕立てにしてみましたが、はたしてどうでしょう。
なお、弘子さんのお尋ねの「渡り板橋」という言葉は実在するかということですが(板橋は地名ばかりではなく一般名詞としてもアリ)、成語としてはなくても、「渡り板」という言葉はあって、同義語として「あゆみいた」が存在して、それは「船から陸へ、あるいは船から船へ渡るときに掛け渡す板」と大辞林に出ています(花道の意もあるそうです)。こういう、ナマかと思われる言葉が付筋のなかで練れてゆき、やがてぴったりハマってしまう結果になるというのも、連句の面白いところです。
次に、お手紙にあった弘子さんのご質問に答えたいと思います。
〇膝送表は、「ひざおくりひょう」と読みます。膝送りとは、連句の付け順のことで、三吟以上六吟まで付け順は定められています。三吟だったら、ABC/ABC、四吟だったらABCD/BADC……というようにです。六吟以上は乱吟といって、かなり恣意的な順番となります。それをみなさんに示すときに「表」というわけで。
〇定座は、「じょうざ」と読みます。月の句・花の句のそれぞれ定まった場所のことで、連句でこれをつとめることは面目を施すこととされているわけでして、いわゆる「花を持たせる」の語源です。「挙げ句の果て」なども連句による語源です。詳しくは「心得」にありますが、ファクシミリが不鮮明ならばもとのものをお送りしましょうか?
〇ドツボについては申し訳ありません。これは名古屋言葉で肥溜めのことで、少しあちら方面で生活していたことがあったもので、思わず口走ってしまいました。仰せのとおり、にっちもさっちもいかなくなることです。
〇雑は「ぞう」と読みます。勅撰和歌集の部立てに拠るもので、連句では四季の句を除いたものをこういいます。笑いや噂話、やっかみや褒め上げなど、人事全般についていいます。
〇第四句に「かな」をつけていいものか、ということですが、基本的にはもちろん構いません。ただ、この「団扇とめ」の巻では、発句が「かな」を使っているので、打越ではないにせよ、かなり近接した場所に「かな」を使うことになるので、できれば避けたほうがよろしいかと存じます。
〇歌仙については仰るとおり、伝説的な歌の名人から採られています。歌仙の本来の形は中世の連歌に始まるもので、その正式の句数は百句。歌仙はそれの略式として近世初頭に考案されたもので、三十六句を限りとします。つまり、いわゆる三十六歌仙(歌人)の語呂合わせなのです。長句短句の付け合いによるものはすべて連句で総称されます。この歌仙意外にも、三つ物(みつもの、三句)、世吉(よよし、四十四句)、五十韻(ごじゅういん、五十句)、百韻(ひゃくいん、百句)ほか、などがあります。
〇第三は、歌仙冒頭の三句目のみをいうので、第六句目に当たる人はこれを何の制約もなく自由に詠んで差し支えありません。四句目以降を平句といって、表六句の制約にあたらないことは、「心得」に書いておきましたので、ご参照を。
〇初折表の最後は美江さんです。季は秋でお願いします。避けてほしいのは「客」や「宴」方面に流れる言葉です。したがって「夜」もまだ。前句で酒を飲んでおきながらこういうのも引け目ですが。
01/7/10解酲子
御連衆さま
美江さんから初折表六句目がとどきました。お寄せいただいた三句はすなわち「借景の渓うす紅葉する」「賤家の垣に熟れし柿落つ」「片肘つきて食ふ零余子めしor片肘つきてぬかご飯食ふ」。いちばん最後の句形をいただいたそのわけは、第三以来の虚の勢いともいうべきものをころさずに(片肘つきて、がいかにもよく利いています)、しかも落としどころの実のほうへぴったりと納めているからです。この場合、前句を受けての形は用言留めのほうが流れとして気持ちいいので、この句形を採らせていただきました。酒が虚であるとしたら飯は実という見定めも、女性らしい、達者なツケだと愚考します。
〇初折表も終え、これからは自由に、神祇釈教恋無常、つまり、神様や仏様関係、恋はいわずもがなですが、人の死などを詠み込むことが許されます。裏の一句目は弘子さん。前句の季語が零余子でこれは晩秋ですから、晩秋か、初秋・仲秋・晩秋に共通の秋の句(これを三秋の句といいます、同じように三夏・三冬・三春もあります)を付けてくださるようお願いします。大きな歳時記であればこの区別は載っていると存じますが、もし分からないようであれば、倉田までお問い合わせください。倉田が不在の場合、天女さん、よろしくお願いしてよろしいでしょうか?
01/7/16解酲子
御連衆さま
弘子さんから初折(しょおり)裏第一句をいただきました。これを折立(おりたて・おったて)と申します。ちなみに折の最後の句を折端(おりはし)といいます。発句と揚句を除き、初折表六句目・初折裏十二句目・名残折表十二句目を折端、初折裏一句目・名残折表一句目・名残折裏一句目が折立ということになります(諸説ありますが)。もともと折とは懐紙を折ったもので、折り目を下にして表裏に句を書き付けたことからの名称です。歌仙の場合、この折った懐紙を2枚、都合4面で成り立っていますが、本来の連歌・百韻では、懐紙4枚、都合8面で、歌仙とは異なり、初折表と名残折裏各8句、平句の折(二の折、三の折と数えます)各14句で成り立ちます。まあ、余談ですが。
さて肝腎の弘子さんのツケですが、馬ならで、の句がまったくおもしろい。ほかの句の「垣根際とび散らふかな蔓黄葉」の軽躁も、「白萩や重なりしなう(ふ)坪の内」のどこやら芭蕉の「白露もこぼさぬ萩のうねり哉」を思わせる格調も、色あせてしまう出来と考えます(もっとも萩は愚生の歳時記では初秋なのですが……)。なにやら猩々のこの世ならぬ嘆きめき、しかも打越に戻らず、飲食関係から転じてゆく先行きも見えて、愚生迷わずこの句をいただきました。滑稽という要素が、同時に詩である連句にとっていかに重要であるかは、おいおいご理解していただけるものと存じます。
〇二句目は天女さん。この滑稽を雑の句で転じていただきたい。おおいに期待するところであります。
★近況 相変わらず貧乏暇なしという点では変わりはなく、旅行などという優雅な行為とは無縁な毎日ではありますが、この夏は暑気払いに横浜港のディナークルーズに出かけてやろうかと考えています。ディキシーランド・ジャズのバンドが入った2時間ほどのコースですが、去年も行った呑み食べ放題のこのクルーズ、たわいもなく楽しい。荊妻が音楽関係の業に携わっているので、音楽の「生」の魅力に取り憑かれています。
01/7/20解酲子
御連衆さま
天女さんからはや二句目をお寄せいただきました。5句ほどをいただきましたが、「立てばシャクヤク座ればボタン、歩く姿は……」という付筋を述べられているこれを採らせていただきました。句の付け味から見れば、まったく反対のようなことを言っていながら、いやいや、なかなかまんざらのものでもない、という亭主の鼻を伸ばした物言いのようでもあり、あるいは「憂かりけれ」と嘆いておられる御方のかたわらを、目も覚めるような麗人が通り過ぎる光景ともとれて(前者のほうが句の世界がひろがると存じますが)、いずれにせよ恋の句に運びが傾いてゆくような予感があります。
こういう、まったく反対の事柄を前の句に付けるやり方を対付(たいづけ・ついづけ)といいます。まずい作例ですが試みに作ってみると、「雲かと見ゆる吉野千本/竜田川からくれなゐに波くくり」のごときをいいます。春を秋であしらい、山に海をぶつける、そういう付け方が対付ですが、昔の本にはむやみに用いるべからずとの注意もされている句のようです。ただし天女さんのは成功しています。
次に恋の句のことをいいますと、昔からやかましい作法がありますが、芭蕉さんがこれをさっぱりと改革して、あまりうるさいことを言っておりません。われわれもこれに倣い、まず何も気を回さないでいてください。何かあればその都度愚生が申し上げます。
〇三句目は美江さん。もう少し無季(雑)でいきましょう。もう夜のシバリは解いてよかろうかと存じます。恋でも無常でも、ご自由にお作りください。
01/7/20解酲子
御連衆さま
ご連絡が遅くなって申し訳ありません。身過ぎ世過ぎの塵中の風がいささか慌ただしかったので。さて、早くも美江さんから三句目をいただきました。謡曲の卒塔婆小町ないし通い小町の世界です。前句の天女さんの、さっさと通り過ぎていってしまう美人への咄嗟の反応として「とり縋る」が出たのでしょうけれども、こういう臨機応変な「軽み」が連句では大事です。この咄嗟の機微の結果、深草の少将の、ややもすれば重くなりがちな「通い」「袖」「ぬれて」といった恋句特有の措辞を救ったと思います。対して愚生は、やや軽めに、九十九夜まで通った果ての帰るさの、深草の里の明け方はいかばかりのものか、と遣句(やりく)風に付けました(遣句とは、前句を真っ正面から受けない、悪くいえばその場しのぎ、よくいえば運びを滞らせない気配りの句)。
天女さんから始まる三句渡り(打越・前句・いま付けた句の三句)を見てみますと、天女さんのを恋の呼び出しといい、美江さんのが恋の句、愚生のが前句に付ければ恋の句、独立して見ればいわば「非恋」の句で、これを恋離れといいます。芭蕉さん以前には、恋の句は2句以上5句までとか、あるいは5句以上何句付けても苦しからず、とかいっていましたが、俳聖の改革ではたとえ1句でも、それかぎりで捨ててもよろしいということになったわけで、連歌以来特に重んじられてきた制約の多い恋の句に自由な空気が吹き込んできたといってよろしいかと存じます。というのも、芭蕉さんの連句観が何より重くれ、粘りを嫌うというところからきているので(恋句は特にそこに陥りがちで)、これはわれわれの歌仙においても継承してゆきたい連句観でもあります。
〇次句はまたまた天女さん。恋にこだわらず、雑か、季を入れるとしたら(このクソ暑いなかですが)冬でお願いしたいと思います。そろそろ初折裏八句目の月の定座が待っていることも睨んでおいてください。
01/7/25解酲子
御連衆さま
天女さんより五句目をお寄せいただきました。ここいらへんで1句くらい有季の句を詠み込んでおかないと、八句目に来る月(秋季)と差し合いになります。というのも、雑を挟んで前後同季とすることが許されていないので、前の月のあとから続いた雑の末にまた月を詠むのはいかにもまずい。しかも、その月のすぐあとに花の定座(春季)が待っているので、季節の輻輳するこのあたり、捌き手にとっては厄介な場面です。
さて、天女さんの句は、前2句を芝居に見立て、夢を見終わったあとの京の賑わいを詠んでいて、実に巧みなものです。また深草という地名の印象に河原町という語感をぶつけたのも手柄といえましょう(地唄・箏曲のひとつに「七小町」というのがありますが、辞書によると「京風手事物」というのだそうで、謡曲を、もっとくだけた「芝居」に転じた、ともいえます)。この場合、伝統詩における風花の本情からいって、時分は冬晴れの昼(午後)と見ていいでしょう。またそう見立てたほうが打越とも差し合わない。
さきほどから繰り返しているこの、見立て、というのは連句ではかなり有力な技のひとつです。前々句を何かに見立てて前句が成るとすると、当の句を詠む人はさらにそれを見立て変えることによって打越嫌いを避ける結果にもつながり、そのひとつの帰結が句を転じ、世界を転じると、こういうことになります。一例をお示しすれば、芭蕉連句にこんな運びがあります。「桐の木高く月さゆる也/門しめてだまつてねたる面白さ/ひらふた金で表がへする」。芭蕉と野坡(やば)の有名な付け合いですが、一句目は「さゆる」を除けばすべて視覚の句です。対する二句目はそれを聴覚(沈黙)に転じていて、この場合の見立ては桐の高木に象徴される裕福そうな家だと考えられます。転じは沈黙ばかりではなく、門を閉めて寝てしまうという「無為」のほうにも利いていて、こうして見るとその「門」がにわかに質素な、ともいえるしつらえに感じられてくるから不思議です。三句目はそこをはっきりと「貧」と見立てて、無為無策の貧しい人間が却って棚からぼた餅、ではないけれど、汲々としていては得られない果報を手に入れる、というふうに転じていて、これはゼニカネとすれすれのところで石火をはなつ脱俗観を示しています。また、門を閉める、に対する、表替え、というのも利いているでしょう。このように追ってゆくと見立ては句の表にはかならずしもあらわでない、ひとつのお話・物語をなぞるといってもいいのではないかと存じます。
〇さて、六句目は弘子さん。次は無季の句でお願いします。もう芝居の中身やその他にはこだわらず、また地名も避けてください。芝居の「はねし」という語勢を大切に、さらりとお付けくだされば幸いです。難しいことを言って申し訳ありませんが。
01/7/28解酲子
御連衆さま
弘子さんから付句をいただきました。選ばせてもらったのは表のとおり。前句「はねる」に着目して、それを兎と見立て、芝居帰りの一家の孫の姿を描いています。この場合、誰にとっての孫か、ということが問題ですが、弘子さんはそれを老女、というふうにおっしゃっています。となると、打越やその前の句の世界である卒塔婆小町に戻ってゆきそうで少し危うい。そこで愚生は、孫は孫でも戦に敗れて北方へ落ち延びてゆく一門の、最年少者であるという具合に見立て替えをいたしました。何も知らずにはしゃいでいる姿があわれでもあり、また家の再興の希望を託すべき存在でもあり、といったふうです。この場合誰にとっての孫か、というのは、老女から移って限りなく男性(首長)の影が濃くなると思います。季は雁でここから秋(晩秋)。「行く」と「来る」の兼ね合いも考えて作句しました。
〇次句は美江さん。月の定座です。乱世をどう案じ替えるのか、楽しみなところではあります。乱世がもう少し続いても面白いのではないでしょうか。では、よろしくお願いします。
01/8/11解酲子
御連衆さま
残暑お見舞い申し上げます。通信が遅くなり、申し訳ありません。美江さんには4句ほどをお寄せいただきましたが、最初のが姿がよく、また月の本旨にも適うようで、これを採らせてもらいました。美江さんにはすぐお気づきかと存じますが、いささかの手直しを不遜にもさせていただきました。もとの句形は「月漏るる屋根葺きぞわづらふ」です。美江さんの付筋は「一門が落ちのびた先は、雨も月も漏るる賤の軒端でした。雨にぬれてもいいから月の光を浴びようという、風流人がいたりして……」というものです。となると、これは賤の屋を外から詠んだものでなく、内にいることを前提にして詠まれたものと考えられます。それなら「屋根」という小屋の外観におよぶ見方はちょっとふさわしくないのではないか、それよりも落人たちの小屋の内側からの視線(天井なり梁なり鴨居なり)が必要なのではないか、ということで直しを入れてみました(一方で、屋根がそのまま天井であるようなあばら屋とも考えられますが)。また「葺きぞわづらふ」も、落人が仮の宿りを求めるのに新たに普請などすることは考えにくく、やはり常識的なところで、不安のためか、あまりに見事な月光のせいか、寝覚めがちな一夜ということで「寝ねぞわづらふ」に変えさせていただきました。いかがでしょうか? ちなみに、広辞苑によると(あまり好きな辞書ではありませんが)、ゾ―ワズラウはこの項目の第4例の、動詞の連用形につき、さしさわりがあってすらすらと進まない、―しかねる、にあてはまると思いますが、用例として「山ざくらこずゑの風の寒ければ花の盛りになりぞわづらふ」(金葉和歌集)などを挙げています。まあ、釈迦に説法です。
さて、みなさんに謝らなければならないことがあります。というのも先の弘子さんの卯吉云々の句を愚生雑として考えていましたが、厳密にいえば兎は三冬の季語で、この句の季は冬でなければならない。けれど偶然にも前句の風花が晩冬の季語で、夏冬は三句まで詠んでいいという約束がありましたので、なんとかみなさんに言い訳はつきます。冬のあとの秋の季移りは、別に咎められるものでもありませんが、捌きとしてはここに雑を挟みたかった、という憾みは残りました。
〇初折裏九句目は弘子さん。秋の句で、晩秋か三秋でお願いします。そろそろ乱世から抜け出してもよい頃おいですが、一家のその後に思いを致してもなにやら三題噺めいて面白いかとも。打越にお気をつけつつ、それではよろしく御作句ください。
01/8/18解酲子
御連衆さま
またまた通信が遅れ、申し訳ありません。はなはだ雅ならざる俗事が立て込んだもので。さて、弘子さんのもとの句形は「渋谷行く茶髪の男の子さねかづら」です。あまたお寄せいただいた御作のなかからこれを採ったのは、ともすれば陰気になりがちな乱世の展開を一気に陽のほうにもってゆく力がこの句の世界にあると推量したからです。なにやら颯々とした香りが漂ってくるようではありませんか。ただし問題は、前の句とのつながりが弱いということです。それと、渋谷と茶髪の若者というのは連想ゲームのように世間の回路で結び付いていて、ありそうでないことや、なさそうであることを詠む連句の本旨からはいささか外れているのではないかと考えたので、少し直しを入れさせていただきました。まず、地名をジュクに変えたのは、地名そのものを特定させないためでした。ジュクといえば普通新宿ですが、原宿とも三宿とも取れるように按配いたします。三者ともうようよと若い連中が蝟集する土地柄です。それと若干の不良っぽさも加味いたします。次に通いということでやや恋の気分を出し、前句の寝ねがてな人物は実は女だった、という筋立てをつくって、前句の付筋といたしました。これが可能だったのは、やはり弘子さんがさねかずらを出した手柄によるものです。さねかずらは一名美男かずらともいい、その蔓から男子の整髪料を採ったのに由来するということが、なにやら茶髪の青年が現代の光源氏であるというふうに思わせて秀逸です。となると、前句の月光の漏るあばら屋は、夕顔を連れ込んだ河原院ということになりますね(笑)。あの章で、たしか源氏が鏡を見て髪を整えるシーンもあったように記憶しております(笑)。
冗談はさておき、弘子さんからご質問があったことをご報告しておきます。何かと申しますと、まえの通信で愚生が、一家のその後について思いをいたしても、と書いたことにつき、それは必然的に打越になるのではないか、ということです。当方の言葉が足りなかったせいもあってお詫びしておきますが、その真意は「乱世」をもう少し続けてもいいのではないか、ということにあります。筋書きは連句の場合、けっしてリニア(直線的)には進まないものです。例えば月光で眠れない落人の次の句では、一転して勝者の宴の景をぶつけてもいいし、また子孫のことをいうなら、敗れた側ではない、勝者やその勝者を滅ぼした第三の勢力、あるいはもとの領民の裔の変転ぶりをツケるという手もあるのです。いうなれば一種の非情さが要るわけで、乱世は男には面白くてもみなさまがたには肌の違ったものであるのかもしれません。かさねてお詫びしておきます。
〇さて、次句は天女さん。恋の句は愚生ので捨てて、雑でお願いします。月の定座の近くとて、このところ目線が上のほうばっかりに行っているので、ひとつ、御工夫をよろしくお願いします。では。
01/9/3解酲子
御連衆さま
お待たせしました。付け合いは別紙のとおりになりました。天女さんのは、前句の若者に対する痛烈な皮肉が利いているとおもいます。また、愚句から始まった物語の重くれから逃れたい気持ちも窺えます。対して拙作は、ひよひよに目を留め、いかにもはかなげなものとして作句してみました。花の座は花見の座のことですが、花の定座のことでもあり、みなさんへの謙遜の気持ちを込めてもいます。
ときに弘子さんがお尋ねとのことで、重くれの意味ですが、簡単に言えば句の運びが堂々巡りにハマってしまうことです。まあ、重くれについて突き詰めて考えだすとそれこそ重くれになってしまうので、精神衛生上、連句をやっている間は楽しく、後先のことをあまり思わないほうがよろしいでしょう。本格的な重くれに(愚生も含め)陥りそうになったときに、より詳しい説明をします。
次句は美江さん。春季でお願いします。愚句が問いの体をなしているので、ひとつそれにどんな答えを出したらいいか考える、そんな感じでツケてみるのも面白いのではないでしょうか。ちなみに(お分かりかと存じますが)、ぬた豆腐はヌタ・トウフと並列に読むので、ヌタドウフという食べ物を新たに考案したのではありません。念のため。では。
01・重陽 解酲子
御連衆さま
美江さんの句を得て歌仙もようやく半ばにさしかかりました。付筋は美江さんによりますと、はかないものがお好みだとは、すでに盛りを過ぎた旦那衆ではないかということで、それが東踊に出る新橋の芸妓たちの噂を(花見の座などで)口さがなく語り合っている、旦那衆とは従って粋な銀座のそれだ、という見立てがあります。前句と合わせると、遠い一時代のいまでは帰らぬ夢のような情景でもあり、また当意即妙の軽みもあって、「ちくと飲りたき春の辛口」ほか佳句も多々ございましたが、そこからの拡がりを感じさせるところが別格という点で、当句を採らせていただきました。季は晩春。
名残折表の折立は天女さん。この軽みを引き続きキープしてください。場はすでに俳諧地(連衆の息が合って、場が飄逸に盛り上がってくること。芭蕉の造語)を感じさせるところとなってきました。付筋は糸のように細く(これも芭蕉さんの言葉)、飛躍そのほかなんでもあり、です。ただし芸妓が出てきたからといって恋は御法度、かつおわかりでしょうけれども、芝居・舞台関係も避けてください。季は三春か晩春でお願いいたします。ではよろしく御作句ください。
01/9/16解酲子
御連衆さま
天女さんの句をいただきました。採らせてもらったお作は別紙のとおりですが、天女さんお気づきのように計りごとを謀りごとに変えさせていただきました。愚生校正をナリワイとしているもので、この場合、巷間を賑わしているアメリカの同時多発テロを句に取り入れているので、時間を計る、のハカルではなく、なにごとかをタバカルの、謀にしたほうがよいのではないかと愚考した次第です。辞書的にいえば、ハカリゴトは本来「謀」一字なのですが、それではあまりにも原句の匂いを損ねかねないと考えて、送り仮名を入れたわけです。句はご覧のとおり、はかなきものが粋な噂のさんざめきに、それが転じて不穏な音に移ってゆくという経過をたどるものですが、いずれも目には見えない、かつ絶え間ない「動き」がその背景にあることを感じていただきたいのです。この動きは単語やそのほかの言葉ではない、心の機微だとご判断ください。
〇次句は弘子さん。雑でお願いします。巷間騒がれているテロのことに触れられてもかまわないのですが、そこは掠める程度にとどめておいてください。またまったく違うことを詠んでも(むしろそのほうが)よいでしょう。いずれにせよ、連句は同時に詩でもあるということを念頭に置いて御作句ください。というのは、社会的現実を詩に表現することは、どんなに力量のある詩人でもドツボにはまりがちで、詩はそういうナマなものではなく、ありそうでないことやなさそうであるものを表現することによって、逆に真実に近づくものだからです。連句にとっての真実とは、生きてゆくこと、あるいは死にゆくことの妙味とでも申しましょうか。ではよろしくお願いいたします。
01・秋彼岸 解酲子
御連衆さま
付句は別紙のとおりです。いただいた弘子さんのもとの句形は「物の気配にゆるゝ大枝」で、その付筋は「世の中は意味ありげでこれから何が起こるか全くわからない」とのことです。この場合、そういった付筋ならテロのことに全然関係のないことを読んだほうがよかったのかもしれないと思います。というのは、前句がテロであるという前提がハナからあって、そこから逃れられない、というか、主題があらかじめ決まっていて、付句はそれを転じることなく、ほとんど反復するにとどまっているからです。連句ではよくあることで、この世界ではこのことを前句のウワサと呼んでいます。愚案はそこを、不安があるなら明確な落としどころを定めよう、ということで成り飛車の句を考えてみました。これは、アメリカの報復措置をいうのではまったくなく、前の運びから続いていた、はかなさ・口さがなさ・そこからくる不安感、というものに(あくまでも句のうえで)決着をつけるものです。連句における(前にも申し上げました)お話というのは、こういう、たんなる気分に囚われない理屈というものを指すので、連句がすぐれて論理的な構造を持つゲームだというのもこんなところに理由を持っているのです。まあ、同時多発テロがわれわれに与えた衝撃というのも、計り知れないものがあるのはわかりますが。
〇次句は美江さん。夏季もしくは雑でお願いします。女性にとって将棋というのはあまり縁がなさそうですが(じつは愚生もよく知りません)、ここはかろやかに転じということをまず念頭に置いて、それから、テロ関係はもうすべて打越嫌いと見なしますので、よろしくお願いします。
01/10/2解酲子
御連衆さま
毎度お待たせして申し訳ありません。美江さんの句、だいぶ以前に(10月8日)いただいておりましたが、濁世ままならず、今日に至ってしまいました。美江さんのは付筋として、前句の成り飛車がひっくり返って金の機能を併せ持ったものであることに着目し、風に「返る」夏のれん、とひるがえしました。それを平仮名にしたのは愚生の目論見で、かへる、は、将棋に勝ったにせよ負けたにせよ、一差ししたあと飄々と「帰」ってゆく棋士の後ろ姿をそこに重ね合わせて見たからです。彼が去ったあと、夏のれんが人柄を物語るようにひらひらと舞っている、と。まあ、そこまでの深読みは愚生の趣味に類することで、みなさんはする必要がないと存じますが。愚句は、では客人が手土産を置いて帰ったあと、家の者がまず何をするか、ということを考えてツケた句です。客人が虚ならば家の者は実、去るものがあれば到来するものもある、というわけです。季は申すまでもなく雑で、付け味としてはやや下世話、というところでしょうか。
さて、美江さんから二つほどご質問をいただきました。いずれもここでは採られなかったお作についてです。「ぼうふらの浮沈見てゐる身のおちめ」。まず、上五中七を、そっくり先人の句から拝借してよいものかどうか。基本的にはもちろん結構です。特に古連俳の場合、句の貸し借りをすることなど日常茶飯で、芭蕉さんたちも盛んにやっていたようです。ただし、何らかの理由といいましょうか、これを借りるにはこうした根拠があるんだよ、ということを常に念頭に置いて、単なる模倣とはとられない、機知や諧謔精神が必要でしょう。もう一つは「夏袴ひだしおしおと立帰る」。句形に関することで、前句が終止形で終わっているなら次句は同じ形を使わないで、たとえば連用形にしたほうがいいか。前句が「打つ」で終わっているので、このときは「立帰り」のほうがいいのでは、ということですが、結論から先にいえば、それはまったく気にすることはありません。少なくともわれわれが拠るべき先人たちは全然気にしていません。気にすべきは形の重なりではなく、あくまでも意味の重なりだということをご把握願います。まあ、極端な場合、三十六句すべてが体言留めだというときにはちょっと考えてしまいますが、それだってそういう目論見の歌仙だということでは、許容の範囲内なのです。
さて次は天女さん。季としては冬と春が可能です。雑でつないでもよさそうですね。そういえば雑ばかりの運びはここのところ御無沙汰のようです。ではよろしくお願いいたします。
01/10/14解酲子
御連衆さま
天女さんから句をいただいて、名残表も半ばにさしかかろうとしています。早いものですね。さて、天女さんのは前句の「開けてみる」を付筋にして、宝物の御開帳を呼び出しました。ここで次句の弘子さんにお願いしたいのですが、次句を付ける側として、この天女さんの句にある滑稽さを見て取っていただきたいのです。簡素(そう)なワラヅトを開いてみたら、なんと、大仰にも紺地金泥般若経があったとは、シュールな笑いを誘います。ここで滑稽を付けるのはなかなかむつかしいとは存じますが、やってみる価値はあるのではないでしょうか。失敗してもいいですから、ここはひとつ果敢にトライしてみてください。季は、雑・冬・春が依然として可能です。では。
01/10/21解酲子
御連衆さま
さて、名残折表ちょうど半ばの句は、別紙のとおり付きました。弘子さんからいただいた付筋は、般若経から悟りに思い至り、いわゆるナマ悟りの人を付けたそうです。本当に悟った人は落ち着いているけれど、落ち着き「払って」はいないとのこと。しずしずと現れた経巻と、悟り澄ました「かのような」人物の対比にはじわりとしたおかしみを感じます。弘子さん、滑稽は成功したのではないでしょうか。対して愚句は、そんな人物が借金のカタに一切合切持ってゆかれて、からっぽの部屋の前に立っていたとしたらどうだろうか、ということを考えて作りました。意味が分からずぽかんとしているようでもあり、案外恬淡としているようでもあり、それが悟る「てふ」人というふうに他人には見える、芭蕉さんに「稲妻にさとらぬ人の尊さよ」という句があるけれど、もしかしたらこういうのを真の覚悟人といえるのかもしれない、というところまで引っ張って考えてみることができるのではないでしょうか。いうまでもないけれど雑の句です。
自句の説明が長すぎました。次は美江さん。ここも悪ふざけでない程度の滑稽は欲しいところ。そうするとまた無季の句となりやすいですが、付けやすさとしては冬季の何かを援用してもよいのでは。むろん、景を詠むとさらに付けやすいのですが、そこは美江さんのご判断にお任せします。ではよろしく御作句ください。
01/10/29解酲子
御連衆さま
美江さんの句を得ていよいよ巻も大詰めが近づいてまいりました。美江さんのはこの採られた句のほか、「紙子の泪かわくひまなし」「紙子の破れふたぐ毎日」などありましたが、債鬼に一切を持って行かれたあと、また貧を付けるのは前句の世界を反復するいわゆるウワサといえますので、これは避けたほうがいいでしょう。それよりも、どうということのない冬空の句は、付筋も好感が持てますし、このところの運びの速度を邪魔しないひびきがあります。いまどうということのない句と申しましたが、こういう、前後を邪魔しない句のことを遣り句といいます。連句では大切な存在で、これを一節はさむことで滞りがちであった運びが息を吹き返すことが多々あります。みなさんも覚えておかれることをお勧めします(濫用は禁物ですが)。
次は弘子さん。そろそろ秋季の月が近いので、ここらあたりで秋句をお願いしたい。むろんまだ雑でもかまいません。真正面から前句を受けようとしないで、やや斜に構えたところから詠んでみると、案外付けやすいかもしれませんよ。むろん遣り句をもう一句カマシてみてもいいでしょう。それでは、よろしく御作句ください。
01/11/4解酲子
御連衆さま
弘子さん、遊びましたね。もちろん、こういうのはいけないことではありません。手詰まりのとき、変化をなんとなく持たせたいとき、こういう手法は有効です。美江さんの面白いことばということで「あっけ」に注目されたのですね。句頭の同音の反復が、かえって空の青さと紅葉の色の鮮やかな対比を呼んでいて、なかなか気持ちのいい句です。それと、あっけなく散る紅葉が、無常迅速というよりも速度のある無窮動のようなものを思い起こさせて、羅漢たちの(仏教でいう)法に重なるような気がいたしました。ただし、羅漢寺はあってもなくてもよいと思います。これに似た例として「投げ込みの月」というのがあります。たとえば月の定座のとき、句の意味とかかわりなく無理に月を詠む類で、ためしに作ってみると、「秋たけなはの比良の山中/里人が舟を漕ぎ出す湖(うみ)の月」というようなものですが、これは意表を衝いた表現を好む初期の連句(これを談林俳諧といいます)にしばしば見られた手法です。弘子さんのはさしずめ「投げ込みの寺」といったところでしょうか。これも面白かった。
さて、次はまたしても美江さん。月花の按配でこうなったのですが、よろしくお願いします。月の定座のひとつ前で、当然のことながら秋句、それも三秋か晩秋でお作りください。おおむね、月は夜のイメージで詠まれることが多いのですが、この前句ではとくにそれにこだわることはありません。また一方、夜であってもかまいません。さて、みなさんとお会いするころには、名残裏を残すばかりとなっているでしょうか。では。
01/11/10解酲子
御連衆さま
先達ては愉しい時間を過ごさせていただき、ありがとうございます。荊妻まで同席させてもらって、なんだか恐縮いたします。それにしてもみなさん、愚生が想像していたとおりの方々で、そのイメージの符合に吃驚しました。
天女さんから月の句をいただきました。前句が雨を降らせているので、どういうことになるのやらと思っていたところ、なるほど、書割の月を持ってきましたね。こういう句振りはなかなか、コシがないようでいて実際にはしたたかに持っているので、愚生これをはなはだ興味深く拝見しました。無理、窮屈のなかに、ほそみ・しおりがあると言ったらよいのか……。対する愚句は、またしても詠まれることになった芝居の内容には立ち入らず、縁起物の薦被りを積んで賑々しく芸人の生活を付けのばしました。ちなみに、河原乞食の異名を取る役者に、これまた酒の四斗樽のほかにお貰いさんの別名である薦被りをぶつけてもあります。薦被りは、歌舞伎座などで木戸に積んであるのは見たことがありますが、舞台の袖に積む例があるのかどうかは、まあ、知りませんけれど。雑の句です。
いよいよ名残もあと6句を残すばかりとなります。次はまた天女さん。雑でお願いします。名残裏6句ぜんぶ春でもいいのですが、ここはやはり初手のみなさんもいらっしゃることですし、メリハリということからも雑が望ましいと思います。それではよろしくお願いいたします。
01/12/2解酲子
御連衆さま
天女さんからじつに目出度い襲(かさね)の色目の句をいただきました。前句の「袖」にひっかけてあるそうです。全体の流れをつかみきったうえでなら、付筋などこの程度でよろしいのです。よくいわれることですが、連句を訪問に譬えて、表六句を玄関での挨拶、初折裏と名残表の二十四句を座敷での歓談、名残裏六句を辞し去るときの挨拶、というふうに考えたらよいとか。天女さんの句はもうこの最後の挨拶に入っているとみてよいでしょう。季は雑。残り五句は、ですからめでためでたでゆきましょう。
次の弘子さんは春句でお願いしますが、あとのみなさんも全員春句だとお考えください。捌きのほうも、実を言うとやっと肩の荷が下りる展望がひらけてくるところです。もうひと踏ん張りです。みなさん、大いに浮かれてください。
01/12/8解酲子
御連衆さま
弘子さんに春山の句をいただいて、愚生それに唱和いたしました。いうまでもなく志貴皇子の「岩激る垂水の上の早蕨の萌えいづる春になりにけるかも」を掠めてあります。山の句が2句つづきましたので、次の美江さんは町中の春の長閑さを詠んでいただきたいと存じます。町中といっても、お住まいの住宅街のあたりのことでよろしいのです。それでは、よろしくお願いいたします。
01/12/16解酲子
御連衆さま
美江さんに町中の長閑さを詠んでいただきました。次の花の句はその雰囲気そのものを付筋として、祝言してくださればよいのです。あとは何も申し上げることはございません。それではよろしく御作句ください。
01/12/23解酲子
御連衆さま
弘子さんにはマガキの内の花を覗いていただきました。さて、春もたけなわ、天女さんにはどういう祝言を期待いたしましょうか。年内に出来るやら、どうか。ここいらへん、捌きといたしましては、一切の助言・解説の類の要らないところです。まずは、みなさん、よいお年を、というばかりです。愉しい半年間ではありまして、御連衆のみなさまには感謝するばかりであります。
01/12/28解酲子
御連衆さま
明けましておめでとうございます。マガキのなかの苑はじつはこの世ならぬ春であったという、華やかなしめくくりを天女さんが付けてくれて、さて、一巻満尾とはなりました。のどかな年明けにふさわしい揚句といえましょう。ただ、もとの形は「音も朧なる」で、これは打越の「声のどか」と差し合うので、名詞助詞そのほか、少し手を入れました。つまり前句の苑の内を、カリョウビンガの歌い舞っているまぼろしの「空間」として捉え返してみたのです。
みなさん初手なのに、半年そこそこで巻き上がるとは正直驚いています。どうもお疲れさまでした。また愚生の手直しそのほか、若輩者の数々の非礼おゆるしください。これに懲りず、また機会があったらこの奇妙な遊びにご参集くださいますことをお願いして、長々と綴ってきた通信文の筆を擱かせていただきます。ありがとうございました。それでは。
平成十四壬午正月六日解酲子
御連衆さま