夏の花
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夏の花



 杜鵑の幻聴がさかさに降りかかってくるような新緑の午後、きわめて美しい闇を見た。いま根津美術館で開催されている「南宋絵画展―才情雅致の世界―」である。はなしを手っ取り早くするために、図録の、菅原壽雄という相当おもしろそうな紳士の文を引いてみたい。昭和三十年代のはじめ、共産党の中国はダメだけれど、台湾に清王朝の遺宝が来ていると聞いて、日本からなんとか工面して行って、見てきたときのはなしである。

(旧日本軍のものとおぼしき防空壕前の建物で)初老の男性が二人、台車に箱をのせて入って来て脚立に登る。天井近くの釘に巻軸の紐をかけて放り出す。バサバサッとすごい音を立てて床ちかくまで落下する。イヤモウ見ている方が震え上った。それは兎もあれ、熟覧がはじまる。五代巨然、北宋范寛・郭熙と続く。ビックリ仰天を通り越して唖然とした。ノートもとれない。口をあけて唯々呆然と眺めるのみであった。そこに展開していたものは、いままで十何年むねに畳み込まれていた「唐絵」――「シナ画」とは全く異質な、大観的な山水描写を通じての自然看照の物凄さに他ならなかった。これが中国絵画なんだ、今まで俺達が「シナ画」と思い込んでいたのとは全然別の世界があったんだ――唯々これが洗練されてコンパクト化すると、南宋院体梁楷の雪景山水や出山釈迦が出て来るのかナ、それにしても日本の絵は暖かいが、「シナ画」は寒いナ――という想いが胸中をよぎったのを覚えている。(図録7ページ『「シナ画」と中国絵画』より)

 日本の絵が暖かいというのは今ひとつという観があるけれども、「シナ画」は寒いナ、というのはよくわかる気がする。「物凄」さは大観的な自然看照ばかりではなく、洗練されコンパクト化した、例えば「紅白芙蓉図」(李迪)の、手を触れれば切れんばかりの刃物みたいな花弁の曲線のかさなりや、「鶉図」(伝・李安忠)における、鶉の禍々しいまでに高貴な双眸や、あるいは「茉莉花図」(伝・趙昌)での、夏の闇に匂いだすジャスミン花の濃白などにもまざまざと感じられ、展示室のくらがりに浮かぶ仄かにして強靱な色と線は見る当方の皮膚のうちがわで慄然とするものがあった。これは客観的な日本と大陸との違いではなくて、たぶん、こちら側の日本人、という限定をした瞬間から始まる想像のなかの中国というイメージなのだろうと思う。それら画の視覚はどこかしら懐かしい記憶と繋がっているくせに。だが当の中国人はきっと何も思ってはいまい――ということで、なぜだか奇妙に思い出されたのが伊藤仁斎の、おそらく『童子問』にあった一節だ。正確ではないがおおよそ、こう言うことであったかと思う。
 ある門生の質問のなかに、どうして聖賢の道が今におこなわれにくいものになってしまったのでしょうか、というのがあって、先生答えていわく、聖賢の道は理想とするべきものであるが、それが縦横無尽におこなわれたのは今と違った「極治極乱」の時代であったからだ、というのである。
 この「極治極乱」というイメージは、日本と中国が、朝貢の関係にあったり、交易の関係にあったりしたこととは別に、われわれがそこからやって来たというわけではないけれど、われわれがじぶんのなかのはるかなものを思うとき、拠らしめられるべきまぼろしとしての大陸というイメージにかさなるのではないか。すなわち、物事の大宗や根源を思うとき、かならず叩かれる扉のむこうにある「無時間」というわれわれの魂のふるさとのなかの。菅原氏が抱いた「寒いナ」という印象は、こういう、ある種の極限に触れたときの感じにもっとも近いものではないかと私は考えるのだ。
 もっとも、宋が金によって南に追われるまえの(その原因ともなったようだが)徽宗皇帝あたりにはじまり、高踏典雅な南宋の院体やら禅林の跳梁を経て、「山含秋色近、燕渡夕陽遅、」といった書とも画ともつかないちいさな夕ぐれ(理宗賛、馬麟筆「夕陽山水図」南宋末)をくぐり、そして牧谿の茫漠精妙な山水にいたる「極治」の時間が、現実的にはさいごの牧谿が見た元の治世によって息の根を止められた、ほんの百五十年のあいだのことにすぎなかったというのも、思い返せば夏の闇に匂いだす茉莉花みたいに不思議で儚い。これら日本に将来されたものの多くが、応仁の乱の因をつくった将軍足利義政の持ち物である「東山御物」だというのも、なんだか因縁めくものを感じる。
 展示室の闇を出て、美術館の庭園を散歩した。鬱蒼とした緑の猛々しさのうちにあるのはさまざまな茶室であり水の流れであり小橋であったが、五輪塔や地蔵菩薩立像や鳥居、社まであるのには驚いた。無論、供養され浄められてはいるのであろうが、木下闇をいっそう深くさせるこういった小さなモノたちは、やはり緑のなかに遺棄された魂魄という感じがしてならない。この、とても東京のただなかにあるとは思えない新緑の、木々のはざまの青空の奥に凄まじい竅(あな)を覗いたような気がしたのは、私ばかりであったろうか。

ゆぎょう    十七号         2004・5月


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