塵中風雅 (一)
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塵中風雅 (一)



 天和二年(一六八二)陰暦二月上旬、新風顕揚に余念のない芭蕉は深川芭蕉庵から一通の書簡をしたためている。宛先は谷木因、美濃大垣の人で回船問屋を営む。家は、藩主より屋敷を下賜され、「此木因迄は年始節句共に御目見得仕(つかまつり)候由」(家伝『おきなぐさ』)という格式の高さであった。通称九太夫、また杭川(くいぜがわ)の翁と号す。この時期あたりから芭蕉に親炙し、傾倒していった美濃俳壇の有力メンバーであった。
 以下書簡の全文を写す。

当地或人附句あり。此句江戸中聞(きく)人無御座(ござなく)、予に聽評望来 (のぞみきたり)候へ共(ども)、予も此附味難弁(このつけあぢわきまへがたく)候。依之(これによつて)爲御内議申進(ごないぎのためまうししんじ) 候。御聞定(ききさだめ)之旨趣ひそかに御知せ可被下(くださるべく)候。東武へひろめて愚之手柄に仕度(つかまつりたく)候。
   附句
  蒜(ひる)の籬(まがき)に鳶をながめて
 鳶のゐる花の賤屋(しずや)とよみにけり
  二月上弦         はせを
木因様

 世に「鳶の評論」として知られるものであるが、これは木因の返書と併せて読まなければならない性質のものだ。ここで示されている芭蕉の問いかけに、もし木因が答えられなければ「評論」は成立しなくなる。

花牒(くわてふ)拝見、或人之附句、貴丈(きぢやう)御聞定無之(これなく)、依之愚評之儀、予猶考(かんがへ)に落不申(おちまうさず)申(ママ)候故、乍殘念(ざんねんながら)及返進(へんしんにおよび)申候。随而(したがつて)下官(やつがれ)去比(さるころ)在京之節、古筆一牧(枚)相求候。此キレ京中定(さだむ)ル人無之候。何れの御代の撰集にや、貴丈御覚(おぼえ)候はゞ、ひそかに御知せ可被下候。花洛(くわらく)にひろめて愚之手柄に仕度候。
  菜薗集 巻七
    春 俳諧歌
     蒜のまがきに鳶をながめ侍りて
 鳶の居(ゐる)花の賤屋の朝もよひ
  まきたつ山の煙見ゆらん
 二月下弦           木因
芭蕉翁

 まずは明答であるというほかはない。このことは芭蕉自身、「杭瀬河之翁こそ予が思ふ所にたがはず、鳶の評、感會奇に候」(天和二年推定三月筆推定中川濁子宛書簡)、「日来(ひごろ)彼翁此道知りたる人と定置(さだめおき)候へば、聊了簡(いささかれうけん)引見(ひきみ)ン爲、書付遣(かきつけつかは)し申候處(ところ)、愚案一毫の違無御坐(たがひござなく)、誠不淺(まことにあさからず)候」(同)と激賞していることからもあきらかである。同じ書簡の中で彼は「当地」の人々の「附句」に対する評を、「爰元(ここもと)にも珍しきと而已云(のみいふ)人三分、同—物に同物付たる、古今類(たぐひ)なきと云捨たる人二分、又道ヲ無(ナイガシロニ)して云度(たき)事云(いは)るゝなど嘲野輩(あざけるやはい)も適々(たまたま)有之、予が心指(志)ヲ了察の士も一両人は有之候ヲ…」と伝えており、気をつけて読めば芭蕉は江戸で必ずしも孤独であったわけではない。にもかかわらず、遠い美濃まで書簡を書き送ったのは「江戸衆聽人(きくひと)なきと申候は聊僞(いささかいつはり)、彼 (かの)翁が心ヲ諜(はから)ン爲に候」という次第だったのであり、そのあたりの文面に、正負両面でやや複雑な芭蕉その人の性格を見てしまうのは私のひがめであろうか。ちなみに私は芭蕉がそれほどにゆたかな詞藻の天分に恵まれた人だとは思わない。ただ、彼は連衆という「座」における希有な実践者であったので、木因の返書もこれを抜きにしては語ることができないだろう。「鳶」書簡の冒頭、「当地或人附句あり…」とはじまるとき、虚構とまではいえないものの、一種の作為が日常のちょっとした場所にしつらえられるのであり、芭蕉はこのとき木因をともに試みへと誘っているわけである。このへんの機微に、さりげなく「詩」に挑んでいる俳諧師の面目が躍如としているではないか。きわどいといってしまえばきわどい話だが、芭蕉はそのあたりを充分見切ったうえであたかもこの時期の木因という人物を抜擢した。そしてまた芭蕉の「鳶」書簡に対して、いかにもつらりと「古筆一牧(枚)相求候」とか、「何れの御代の撰集にや」などと書き送る木因返書がいい。返書の中の「菜薗集 巻七」「春 俳諧歌」といった設定は、次の芭蕉の言葉とともにやや注目に値する。彼が「古往達人、花に櫻を付ルに同意去ルヲ本意と云(いへ)リ。増テ鳶に鳶を付ルに一物別意ヲ付分(ワケ)…」(前出推定濁子宛書簡)と書くとき、あきらかに眼は伝統的なもののいわば新生にむかっている。そのことが彼の「破格」を通してよく伝わってくるのである。「鳶」書簡の中で彼は「東武(江戸)へひろめて」といういい方をしているが、木因がオウム返しのように「花洛(京)にひろめて」と応えていることも、たんに言葉の帳尻を合わせただけのものではないだろう。「花洛」はいうまでもなく古今集以来の王城の地であり、そのこともまた芭蕉をよろこばせたのではなかったか。


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