塵中風雅 (一一)
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塵中風雅 (一一)



 元禄三年陰暦六月初め、京に上った芭蕉は夏の暑い盛りを十八日まで滞在し、去来、凡兆、如行らと「昼夜申(まうし)談(だんじ)」(元禄三年六月三十日付曲水宛書簡より)、「おもひの外(ほか)長滯留(たいりう)」(同)となって、十九日、幻住庵に戻っている。帰庵早々、大坂の商人何処によってもたらされた加賀の小春(しようしゆん)の書簡に短い返事を認める。以下全文を引く。

何處(かしょ)持参之芳翰落手(はうかんらくしゆ)、御無事之旨珍重令存(ちんちようにぞんぜしめ)候。類火之難御のがれ候よし、是又(これまた)御仕合難申盡(しあわせまうしつくしがたく)候。殘生(ざんせい)いまだ漂泊(へうはく)やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候。猶(なほ)どち風に身をまかすべき哉(や)と、秋立比(たつころ)を待(まち)かけ候。且(かつ)両御句珍重、中にも、せりうりの十錢、小界(生涯)かろき程、我が世間に似たれば、感慨不少(すくなからず)候。口質(こうしつ)他に越(こえ)候間、いよいよ風情可被懸御心(ふぜいおこころにかけらるべく)候。愚句
   京にても京なつかしやほとゝぎす
暑氣痛(いたみ)候而及早筆(てさうひつにおよび)候。
     季夏二十日
   小春(せうしゆん)雅丈       はせを

 小春の閲歴については以下のとおり。小春。亀田氏。通称伊右衛門。名は勝豊。白鴎斎と号す。加賀金沢の人。旅宿業宮竹屋喜右衛門道喜の三男。長兄伊右衛門勝則の養子となり、その兄が創業した薬種商宮竹屋の二代目となる。北陸行脚の途次、芭蕉が本家の宮竹屋に泊まったことが機縁となって入門。そのときの唱和が「寝る迄の名残也けり秋の蚊屋 小春」「あたら月夜の庇さし切る 芭蕉」である。俳諧歴は元禄二年刊の「阿羅野」にはじまるが、その活動範囲は加賀俳壇をおおきく超えるものではなかった。寛文七年(一六六七)に生まれ、元文五年(一七四〇)歿。享年七十四。
「せりうりの十錢」とは「卯辰集」に収める「十銭を得て芹売の帰りけり」のことを指す。また書簡中「類火の難御のがれ候よし」というのは、元禄三年三月十六日の夜から翌十七日に及んだ金沢の大火のことを指す。加賀俳壇の仲間である北枝はこれによって家を焼かれ、このときに「焼(やけ)にけりされども花はちりすまし」という句を得て芭蕉に激賞されたことはよく知られたエピソードである。小春の家は類焼をまぬかれたらしい。「殘生いまだ漂泊やまず」とあるが、元禄二年春にはじまる北国行脚以来、芭蕉は江戸には帰っていない。江戸に戻るのはこの書簡の翌年、元禄四年の十月まで待たなければならない。もっとも芭蕉にしてみれば、江戸に「戻る」という意識は希薄なものであったかもしれない。だいいち帰るべき庵は人に譲り渡してしまっているのである。元禄二年の旅立ちのときと同じく、元禄四年の入府にさいしても杉風の採荼庵(さいたあん)などにやっかいになっていたようである。それに四国・九州までも、とこころざしを洩らした芭蕉のことである(「四國の山ぶみ・つくしの舩路(ふなぢ)、いまだこゝろさだめず候」元禄三年正月二日付荷兮宛書簡)。「猶どち風に身をまかすべき哉と、秋立比を待かけ候」という言葉のうちに江戸のことが頭にあったとはとうてい考えられないのである。
 このとき、「せりうりの十錢」の句は、芭蕉のこころによくひびいたのではないか。「小界かろき程、我が世間に似たれば」というのは芭蕉の実感であったにちがいない。ただ、これが元禄三、四年ごろからさかんに芭蕉が提唱しはじめた「新意」「かるみ」とどう関わるかというとこれは一筋縄ではいかない問題をはらんでいるだろう。現に「かろき小界」を観じた芭蕉自身の句を探ってみれば、これ以前にも「ものひとつ瓢(ひさご)はかろき我が世哉」(貞享三年)、「一つぬひ(い)で後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ」(貞享五年)などが散見されるからだ。ちなみに前者は江戸深川芭蕉庵での、後者は「笈の小文」の旅中での吟であるが、草庵住まいでなければ旅にあるといった二者しか選択肢を持たない芭蕉の「小界」をまことに象徴的に表している二句であるといってよいだろう(ここに引いたのはたまたま偶然ではあるが)。ただし、これらは「かろき」へ向かう志向ではあるが、その全き成就ではないということは言える気がする。言い換えればここでの「かろさ」は観念や思想ではあっても、芭蕉という存在の機微をおびやかしかつ祝福する「詩」ではありえていない。芭蕉はこのころまだなにものかに渇えている。
 元禄三年前後、芭蕉がしばしば「かろさ」について言及していることは、すでに前の項でも書いた。たとえば元禄二年十二月の去来宛書簡では「尚々(なほなほ)愚句元旦之詠、なるほどかろく可被(いたすべく)候。よくよく存(ぞんじ)候に、ことごと敷工(しきたく)み之(の) 所に而御座無(てござなく)候」とか、元禄三年四月十日付の此筋(しきん)・千川(せんせん)宛書簡の「猶(なほ)はいかい・發句、おもくれず持(もつ) てまはらざる樣(やう)に御工案可被成(こうあんなさるべく)候」、また元禄三年の春に詠まれた「木のもとに汁も膾も櫻かな」にふれて、「花見のかゝりを少し得て、かるみをしたり」と言ったとある(三冊子より)。
 結論から先に言ってしまえば、筆者としてはこれら一連の言及の流れのうちに「十銭を得て芹売の帰りけり」への称賛をとらえておきたい。すなわちこの句はまぎれもなく芭蕉が目する「かるみ」の句でありながら、句中に「かるい」という言葉などまったく使われていないことに思い当たられたい。ここにおける「かるみ」とはなにか。青々とした香草を差し出し、わずかな銭を握ってあとを振り返りもせずに帰ってゆく芹売りの後ろ姿に早春の光まで透けて見えるようだ。そんなことはどこにも書いていないが。句眼は「芹売」の一語だろう。「十銭を得」るから「小界」がかるいのではない。芹という、鮮烈な春の香りを放つが存在自体ははかないものを売る者であるからこそ、そこに「詩」があり、生業(なりわい)はかるくてそして尊いのだといえる。芭蕉が目している「かるみ」とは存外奥が深いもののように思われるのである。この句など、なにか蕪村の「鮎くれてよらで過行(すぎゆく)夜半の門」を思い起こさせると言ったら過褒であろうか。「口質他に越候」と芭蕉の慧眼はさすがにそこのところをはずしていない。のちにはかばかしいはたらきも示さなかった、この親子ほどにも年の隔たりのある薬種屋の跡取りの、匿された資質をどうも芭蕉は感じ取って愛したらしい形跡があるのである。
 ところで、書簡中の「京にても京なつかしやほとゝぎす」の句は、たんに近作を無機的に報じただけのものであろうか。この句を仔細に眺めてみると、京住まいの生活者の視点ではけっしてないことがわかる。「京」というしたたかな存在のただなかで、一種既視感にも似た感覚に見舞われている深更の自画像は、まさしく旅中にある者の像にほかならない。「京」という王城の地で、過去数知れず歌に詠まれてきた幻鳥としてのほととぎすを聴く。そこにかぎりない慕わしさ、懐かしさがあるというのは「京」にとっては異邦人である「小界」のかるい旅人の視線だといえよう(ちなみにこの句の別のヴァリアントの詞書には「旅寓」とある)。その意味でこれは「せりうりの十錢」の句への濃(こま)やかな唱和であったと私は考えるのである。この旅人の視線は、西行の「としたけてまたこゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」にも比肩しうる次の句に昇華されていったと私は思う。元禄七年、芭蕉五十一歳の、最後の旅の途次で詠まれた吟であった。

 世を旅にしろかく小田の行戻(ゆきもど)り


(この項終わり)


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