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 甘美な映画の洋楽が流れる小さな店の小さなガラス戸のむこうにうっとりと濃い青空を眺めて、旅人は中国人コックのつくるオムライスへ銀の匙をさかんに突き立てる。夕ぐれに隣り合うみずからの跫音の近づくなかを、遠ざかるなかを。まばゆい光とともに近づいて来、長い影をともなって遠くなるみずからの、その透明なたべものの咀嚼の音の。梵天みたいに躍り夕映える商店街の提灯が深く匂わす、夏の、なまぐさくてなつかしい、闇と髪、その痛く鏤められた星々のしたで、幼子とむすめたちのすあしが巨きくてすずしい竿燈の陰に入る八月。旅人は石を積む、板を流す。子供らも石を積む、板を流す。草の字を書き、けだものの名を記し、自分らにとっては居なかった(彼らにとって自分らは居なかった)、兄の名、叔母の名、父母の名を書いて、夜の河の明るみへ流す。いたずらな鬼が来て、朝ごとしきりに禍物(まがもの)が来て、石を崩し、板を焼く。見えない落書きのように、手に負えないまじないのように。字を書き、名を記すことはしかし、永遠の生起と消滅の繰り返しという燃火のごときものであり、草の字は、父母の名は、現象という幻の出来事のなかで炎えつづける苦にほかならない。陸続と流れ行く石と木の、そのさんぜんたる苦を纏う旅人は、子供らは、彼らを生害した親眷属たちの雨のふる過去のなかで、凄まじいまでの金剛の、不犯(ふぼん)の悲でありつづけ、生害の親眷属は例えばぐるぐる巻きにされた小さなオドラデクみたいな幼い影と手によって、つかのまの永劫、深く烈しく憐れまれているのだ。宵宮が過ぎると暗い空から星がふる。おびただしい竿燈から、ああ、苦痛なまでに冷たい火がふりそそぐ。「目打ちを合わせたあと/胸襟をひらかなかった/見返しの糊付けをはがし/堅牢なカバーをはずす/私の非に出会う」そのとき。*

*関富士子詩集『ピクニック』所収「本を造る人2」より。


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