Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-04-05

たとえば水に映った桜が。



 桜。ソメイヨシノ。
 またその季節がはじまった。まずは、家の近所だと川添いの一本。ほかのソメイヨシノに先駆けて満開になる…。ソメイヨシノに似ているけれど、もしかすると種類がちがうのかもしれない。先日、三月の終わりに上野の森にいったが、そのときも、まだソメイヨシノが一分か二分咲きぐらいだったなかで、一本だけ、よく似た桜が、ほぼ満開で咲いていた。うろおぼえだがエドヒガンとあったと思う。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配で生まれたというから、たぶん、ソメイヨシノに先駆けて咲いているのは、それであったと思う。
 ソメイヨシノは単一の樹のクローンから拡がった桜なので、近くにあるのであれば、ほぼ開花時期が同じだそうだ。そのことも、すこし怖いぐらいだ。すべて同じという沢山。





 桜たち。けれども、まだ、先駆けて咲くそれらだけでは信じられない。いや、開花宣言したあとでも、今年の花たちは、ゆっくりだった。寒かったからだろう。これを書いている四月三日の段階でも、まだ家の近くでは、満開とは言えなかった。東京の満開は、四月二日だったそうなのだけれど。
 クローンでも、違うのだろうか。今年はいつになく、そんなことを思う。満開といっていた四月二日、すこしだけ近所の桜をみたが、まだほとんど咲いていない…と思ったが、それでも少し咲いているところもあった。陽射しの量とか、そんな違いなのだろう。けれども、今年はいつにもまして、その差が多いような気がしたのだった。そして三日の月曜、晴れていたので、午後になって、桜を見に行った。いつもの桜だ。コンクリート護岸された、すこしドブの臭いがする川沿い、仙川の桜並木へ。
 そこへゆく前にも、桜をみたが、まだ五分咲きぐらいだったとおもう。だから、わたしとしては前夜祭的な意識があった。満開の前の、狂騒前の、ぎりぎりの狂想。満開前の、待ち望む気持ち、すこし物足りない気持ち、けれども、散ってゆく、終わりに向かう花よりも、まだ、淋しさがなくて、華やぎがあって。
 おなじ桜のはずなのに。この橋からみるそれは、まだ四分咲きぐらいだろうか。見た眼には三分咲き位に見える。けれども、数十メートル咲きの橋近くの桜は八分咲きぐらい、ほぼ満開のあのざわめきを宿している。陽射しのせいだからか。今年の桜はゆっくりと花開く。ゆっくりだからこそ、違いが目立つのかもしれない。けれども、クローンたちに、差が生じているのだと、考えるのは楽しい。勝手な夢想なのだけれど。彼らは個々、ちがう花にゆっくりとなってゆくのだ。



 四日の火曜。また仙川に桜をみにゆく。一日でだいぶ咲いたようだ。けれどもまだ満開ではない。早いところで八分か九分咲きぐらい。まだつぼみのめだつ五分咲きぐらいのところもある。
 だが、四日のほうが、桜に浸かっているかんじがあった。酔ったような、すこしぼうっとしたような、むせるような。花にかこまれて。そうだ、この感じだ。
 今年は、すこしだけ、例年とかわったことをしてみた。いつもは自転車でずっと、仙川をいったりきたりしているのだけれど、自転車を近くの駐輪場において、歩いてまわってみた。ゆっくりとまわる感じ。写真を撮るのにはこのほうがいい。けれども、慣れのせいなのか。じつは自転車をとりに、というか、帰るつもりで自転車置き場にいってから、またもういちど桜をみにきて、やはり、こちらのほうがしっくりするなと思った。いや、両方経験したらいいのだろう。自転車のスピード(桜を眺めている人も歩いているし、そんなに出しているわけではないのだけれど)、この速度が、開花してからすぐに散ってしまう桜にあっているような気がした。早いことは早いが、車ほどではない速さ。だって、昨日と比べても、まだ満開にはなっていないもの。それと高さ。身長よりもほんの少しだけ高いところからみる景色がまた別の桜の側面をみるようだった。だからどちらも経験してよかったと思った。
 四日は、三時間ぐらい桜をみて回っていた。家の近所なのに、旅行をしているのだと思った。非日常だから、そうなのだろう。仙川、そして野川沿いの公園の桜、お寺の桜。
 ところで仙川でも野川でも、桜は水に枝を伸ばしていた。水に向かう桜。自分が水が好きだから、桜もそうなのかと勝手に思っていた。いや、それとは少し違う。自分が水を求めているので、枝を水に向けるその姿を、いとしく思っていたというべきか。



 桜が水に向かう。水辺に植わった桜は、ほぼ一様に。だから河の両岸に植わった桜たちは美しくみえたものだった。桜たちが天に咲き、地という水にも、映った姿で、その花を倍にふやして、橋からみれば、四方、天地左右、前も後ろも、すべてが桜につつまれる。だからこその狂騒だった。もう少し仙川を上流のほうへいっても、いったん桜がとだえるけれど、また桜だらけの公園にゆける。ただ、今年はもう、この狂乱、この桜につつまれただけでも、いいような気がしたので、ゆかなかった。
 水に向かう桜。これは陽射しを求めてなのだそうだ。明るさを求めて。そのことでもまた、わたしは勝手なことを思ってしまう。たとえば水に映る月にひかれる自分と、その姿を重ねてしまうのだ。水に映る月にひかれる者は古来から多い。この場合は水に映る太陽のほうが近いのかもしれないけれど。手に届きそうで届かないものたち、幻影たち。けれども、たとえば桜は、おそらく水に映った光によって、何かを実際に受け取っているのだろう。そして水に映った桜によって、わたしもまた。それが届いた、ということになるのかもしれない。
 四日の夜にこれを書いていたが、零時を回って、今は五日。午後から仕事があるので、五日の午前中に、少しだけ仙川の桜を見ることができるだろう。おそらくそれが最後だ。どんな出逢い、逢瀬になるだろう。



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2017-03-20

善と悪のあわいで、さくことがにぎわって。(越生梅林、オリエント急行殺人事件)



 前回、ここを書いてから、どんな春を感じただろうか。ちいさい春はたくさんあった。メジロの声をきいたこと。タンポポを見たこと、雪柳が滝のように咲いていたこと。そして大きな春というわけではないけれど、毎年のようにいっている越生の梅林に梅をみにいった。六分咲きくらいだろうか。このぐらいがちょうどいい。満開すぎの、かれた花がちらほらみえるのは、どこかさびしい。春休みがまだもうすこしあるかのような。まだ学校にいかなくていい、もう少し休みにくるまっていられる。そんなことに少し似て。
 啓蟄もとっくにすぎて、もう春を感じていいころだ。だが寒さのせいか、まだいまいち実感できていない。このもやもやもまた。そんななかでみた梅たちは、したしげで、けれどもやはりうつくしかった。それをみているわたしが、まえにもみたなあと思うことで、かつてのわたしを二重に映す。それが梅との再会であり、かつてのわたしとの再会でもあった。
 梅の足もとに福寿草が咲いている。そうだ、お正月に縁起物として売られているこの花は、実は今頃が見ごろなのだ、そう、いつも思い出させてくれる、春のやさしい黄色だった。ヒメオドリコソウが咲き、オオイヌノフグリが空色の小さな花をつけて。
 うねうねと無骨な幹と繊細な白い花たち。桜よりも先に春をしずかにつたえてくれる花たち。ひくい枝が空とわたしたちの橋渡しをしてくれるような満開。みあげれば、雲よりも近い白さがある。
 でかけた日は晴れていた。あたたかくちょうどよい日だった。梅干しを買う。これもきたとき恒例になっている。家で梅干しを頂くたびに、思い出す、というほどでもないけれど。こんなことも非日常が日常と接している、ということなのだろう。







 『オリエント急行殺人事件』(アガサ・クリスティ原作、一九七四年)を観た。好きな映画だった。はじめてみたのはテレビでだった。たぶん日曜洋画劇場とかだとおもう。わたしは中学生だった。映画の魅力にとりつかれていた頃だ。出演者のイングリット・バーグマン、『カサブランカ』(一九四二年)や、もっと年代が下っても『追想』(一九五六年)でみたよりも、だいぶ年齢が上になっていたのを、すこし悲しく思った記憶があった。リアルタイムでみているわけではなかった、私にとってのリアルな時間は、『カサブランカ』、『誰が為に鐘は鳴る』(一九四三年)、『ガス燈』(一九四四年)などのバーグマンだった。それが先だったから。同じく出演者のジャクリーン・ビセットは、テレビの『チャーリーズ・エンジェル』が先だった。その他、ショーン・コネリー、ローレン・バコール、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、マイケル・ヨーク……、きいたことのある懐かしい人たちばかり。
 いや、大好きな映画だったが、この映画について語ろうと思ったわけではない。なぜなら語ろうとすれば、ストーリーに触れなければいけないから。それではなにかが損なわれてしまう。ネタバレてきなことをしたくないのだ。だから映画の周辺で。そう、観ていて、もう数十年ぶりに観たのだけれど、泣いたシーンが、中学生のときとまったく同じ個所だったことに、どこか喜びのようなものを感じたのだ。「彼らは事件さえなかったら、義理の親子としてここにいたはずだ…」たとえばそんなようなことを心のなかでつぶやく。それは中学の時も、今もおなじ言葉だった。呪文のように、その言葉が涙をさそったのだった。
 ところで、オリエント急行。箱根のラリック美術館にそのサロンカーが、カフェとして展示されている。ラリックが室内装飾を担当しているからだ。わたしはまだ外からしかみたことがないのだけれど、ガラスパネルだけは、別の場所、ラリック展か何かで展示しているのをみたことがある。浮き彫りになった葡萄と裸体の女神たち。明るい、みずみずしい、生の謳歌。ラリックを好きになったのは、中学生よりももっと後だったから、はじめて映画をみたときは、装飾のことなどは、豪華だなあ、繊細だなあ、ぐらいは思ったかもしれないけれど、割と流していたと思う。
 いま少し調べたら、映画で使われた客車の中は、撮影用に独自に作ったものなのだとか。だが、今回『オリエント急行殺人事件』を観ていたら、おそらく複製なのだろうけれど、ラリックの装飾パネルが映っていて、おもわずみとれてしまった。これが今と中学生の時と、違う点だと思った。これが時間が経っているということなのだろう、と。けれどもこの違い、悪くはなかった。

 ここまで書いて、すこし風邪などでここを離れていた。その間に考えたこと。『オリエント急行殺人事件』が、中学生のわたしに魅力的だったのは、たぶん、善と悪に完全な区切りがないということを教えてくれたからではなかったか。犯人は殺人を犯したということで悪なのかもしれないが、彼らは善でもあった。また殺された被害者はどちらかというと悪であった。だからといって殺されていいのかという観点に立つと善でもあるかもしれない。いわば被害者という善。事件を解決するポアロも、謎解きで突き止めた答えだけが彼にとっての善で、ほかはその次なのが、粋だった(このあたりのニュアンスは映画をみていないとわかりづらいかもしれないが、ネタバレをしたくないので…すみません)。
 中学生のわたしは、もっと世界は勧善懲悪的に成り立っていると思っていた。もっと単純に、善と悪はわかたれているのだと。それを哀しみをつたえてくれることで壊してくれたのが、『オリエント急行殺人事件』だったのだろう。

 すこし離れていたあいだに、だいぶ春らしくなってきた。陽射しがちがう。まだ寒いけれど、陽だまりがどこかやさしい。スミレ、ハナニラ、ムラサキダイコン、ヒヤシンス、ユキヤナギたちも咲いている。あの芽鱗たち、猫の毛みたいなふくらみたちも、その皮を割り、咲きだした。モクレン、コブシたち。それにも思わず手をのばし、ふれて。
 このところ、『日本人の愛したことば』(中西進)を読んでいる。図書館で借りたのだが、手もとに置きたくなって、今、注文中。そこに、こんなことばがあった。
〈幸せは昔、「さきわい」といいました。体の中に花が咲くということです。〉春にどこか心がさわぐのは、こんなことでもあったかと思う。


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2017-02-25

小さい春



 冬が苦手だ。昔からそうだったが、特に意識するようになったのは、以前、もうだいぶ前だが、うつ病にかかっていた頃だっただろう。冬の日光量の少なさが、あの病には多分に影響するらしい。それが特に如実に感じられた頃。日光量に左右されるなんて植物みたいだと、何となく思っていた。冬の陽射しの遠さが、たしかに身体から何かをうばってゆくような心持がしたものだった。はやく春になればいい。
 あいかわらず冬が苦手だが、以前に比べると冬の良さを探そうとしている節があるかもしれない。花も少ない。だが一月になれば水仙が咲く。今の季節は梅や木瓜。あと、ネコヤナギみたいに、葉や花の元になる芽を毛で守っている木たちが目につく。芽鱗というそうだ。毛皮を着た芽たちが、冬の寒さを耐えている姿がけなげだ。種類はわからないけれど、おそらく木蓮の仲間なのだろう。モクレン、コブシ、そしてもちろんネコヤナギ。やわらかそうな毛に、おもわず触りたくなる。実際、なんどか触った。温かいものを感じる。そして一月には、もう沈丁花の蕾を発見した。咲けば、匂いでわかる。まだ固そうだが、これが咲けば、春といっていい。蕾を見るだけで待ち望む気持ちが再確認されると共に、忘れていた匂いが、感じられそうだった。



 わたしはずっと三月の啓蟄の頃が、春の始まりだと思っていた。というより、その頃なら、もはや春といっていいだろうと。それ以前は、まだ春だと信じられないでいた。どんなに暖かくても、どうせまた冬のような寒さに戻るのだろう、そんな不信感を持っていたと思う。三月に入ったら、もう春といっていい、安心して、陽射しを浴びていい。
 だが、この春、ようやく三月という枷をとってもいいんじゃないかと思うようになった。積年来積み重なったものが、そんなふうに何かを氷解させてくれたのかもしれない。三月までまたずとも、二月に、もう春が。
 今年になって、最初にそれに気付き、はっとしたのは、立春をすぎた頃だった。更地なのだろう、空地にホトケノザが咲いていたのを見た。こんな時期から咲くのかと、見たことが信じられなかった。けれども春を感じられてうれしかった。立春を春といっていいのか。いや、まだだ。
 それから少しして、いや、徐々に。晴れるとたまに間違えたように暖かい陽気になることがある。天気予報でも、今日は四月の陽気だといっている。それはいつもの陽気ではないということだ、例外的に暖かいということだ、まだ信じられない…、けれどもそんな陽気のときに、近くの公園を通り、人工の小さな用水路を見る。春の小川のようだと思ってしまう。水はつめたいのだろうけれど、春らしく温もっているのではないかと思ってしまう。それほど、ひざしが水をやさしく輝かせているのだ。ちらめいて、冬のころより、だいぶ明るくて。




 二月のなかば、家のベランダに、一瞬、メジロが舞い降りた。緑色の姿にウグイスかと思ったのだが、メジロだった。ベランダの下、一階の芝生に木瓜が咲いている。そのあたりに止まった。梅にウグイス、のような姿だ。赤い花に緑の体が春らしくて合っている。
 そのすぐあと、こんどはベランダに雀がきていた。ベランダに置いてある鉢植えに、本来植えた覚えのない草が生えている、特にハコベ。それをついばんでいたのだった。
 そして数日後。木瓜が咲いているあたりをベランダから眺める。雀たちが芝生でなにかをついばんでいる、メジロはみえない。けれども四十雀が、どこか高い空で、鳴いているのが聞こえる。ああ、四十雀の微妙に遠い鳴く声を聞くと、いつも早い春を感じたなと思い出すのだった。
 そんなふうに、二月から春が感じられることが少しうれしかった。いや、もしかすると一月から感じていたかもしれない。年賀状の挨拶で、迎春と言うではないか…。
 ホトケノザは、二月半ばの段階で、うちのマンションの一階あたりで咲いていた。いや、咲いているのを見つけた。おなじ敷地内でも、ちょっとした日当たりの関係だろう、まだ葉はあったが、咲いていない群生もあったのだけれど。ああ、ホトケノザはわたしにとって、春告草のひとつなのだなと、ぼんやりと思う。なんという晴れた日なのか。ちかくの公園のあの用水路でも、きっとぬるんだ水をたたえているだろう。
 いつだって、もっと春を、ありのままに感じたらいいのだ。



 このごろ、これが現実でなくて良かった…と思えるような夢をみることが続けてあった。覚えているのでは二つ。
 一つは、都心で飲んでいて、終電を逃してしまった。歩いてなんとか家に帰ろうとするのだけれど、様々な障害があって、なかなかたどりつけない。だいぶ時間が経って家にスマホで電話をするのだが、なぜもっと早く連絡しなかったのかと冷たい態度で問い詰められる。やましいことはないのだが、答えられない。なんだか面倒になってしまったのだ。このニュアンスがつたわるかどうか。その理由を伝える手間が面倒だった、というよりも、おそらくそれを判ってもらえないんじゃないかという気持ち。あるいは、それらのやりとりを瞬時にシミュレーションしている自分がいて、延々とつづくその不毛さに、うんざりしてしまっているという感じ。
 都心には、様々な罠があった。魑魅魍魎が潜んでいた。あやしいネオン街の迷路、誘惑のような小箱(多分、麻薬のようなものが入ったそれへの誘い)、恋愛遊戯。わたしは夜から逃れた場所、朝のなかを歩いていた。真昼の高速道路のようなところだった。わたしの潔白にふさわしい真昼、けれども高速道路を歩くという、間違えた行為。それがおそらくわたしの立ち位置にふさわしいものだったろう。だから、電話をかけた相手に、強気でいられなかったのだ。
 それは朝方に見た夢だった。目を覚ましてだったか、覚ます前だったか、つくづく夢でよかったと安堵した。
 そして、昨日。なぜだったのか、母がわたしの大切にしているものたちをねこそぎ持ち去っていった。母がいうには半分。半分だけ、自分がもっているほうが、今後の事を考えたらいいのだと。半分といったけれど、無残に欠損した場所が浮かび上がる。ごっそりと、蔵書のたぐい、美しいガラクタたちの、わたしなりにこしらえた配置の崩壊、概ねの傷のような穴。それは非日常に限ったことではなく、日常にも関係していた。わたしが着る服、いつも使っている化粧品など。なぜ、アイシャドウすら、もっていったのか、理解に苦しんだ。夢の中で、なくなったものたちで、特に愛着のあるガラクタたちと似たものが、おそろしく安い値段で売られているのを、ネットかなにかで見た。またこれを買えばいいのだろうか…。けれども、それでは何かがちがう。その物のもっていた思い出がない。売っているものは似ているけれど別物だ…。そんなことを想っていた。それもこれも、目を覚ます寸前だった。この時も、ああ、夢で良かったと思った、おそらく声にすら出して。
 葬式の夢を見るように、予行演習しているのだろうか。いや、予行演習というより、今とちがって、こうだったら、どうなのか、そうしたニュアンスのほうが強いような気がする。さっきも、うたたねでなにかの夢をみていた。なにか言葉に関することだった。これが夢で良かった…。それがなんであったのか。
 ちょっと前の新聞の文芸欄で『中島敦全集1』(ちくま文庫)が取り上げられていた。手元にその新聞がないので、もはや詳細は覚えていないのだけれど、その中の『光と風と夢』の記述が美しいといったことだった。ともかくそれがきっかけで、図書館で『中島敦全集1』を借りて、今も読んでいる。ここに入っている『山月記』等はずいぶん前に読んだ記憶があったから。
 たぶん、この全集と夢は関係しているのだと思う。どこがなのか、具体的にはわからない。『山月記』的な内容がだと思うのだが…。詩人になりそこね、虎になってしまった男。この話は、そればかりではないけれど、悔いもそこに流れている。こんな風にしなければ、詩人になれたかもしれない……。耳のいたい話でもある。
 また、『狐憑』も短編だがインパクトがあった。これは今回はじめて読んだ作品だと思う。ホメロスの時代よりももっと以前、憑きものがついたという、ある部族の男は、実は詩人だった。想像力溢れた、お話しを語る男だった。彼は最後に、憑き物がなくなり、物語ることも出来なくなった。その末路は悲惨だ。「斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。」
 また夢をみた。めずらしく亡くなった父に怒られている。もう数十年、夢で会える父はいつも優しかったのに。朝起きて、その日一日中、落ち込んでいたのは、そのせいだったのだろうか。その日は春一番が吹いていた。いつもならもっとうかれる筈なのに。沈丁花が香っている。暖かさにもう開いたのだろうか。まだ二月だというのに。菜の花が咲いているのも見つけた。スミレ、パンジー。クリスマスローズも。クリスマスに咲くのだろうか。咲いているのを見かけるのは、いつも春になってからのような気がするのだが。調べたい気持もあったが、クリスマスという名前をもった花が春に咲いているのをみるのも謎めいているようで、このままでもよいような気もした。こんなに春は陽射しが明るく、暖かだったのだろうか。明日からまた寒くなるらしいのだけれど。
 こんなふうに、暖かくても、心が晴れない日もあるのだろう。逆に寒くても、心が上向きになる日もあるのだろう。もっと春になれば、特に。ここまで書いて、また数日。風が強い。春一番から数えて、もう何番になるのだろう。雨上がりの晴れの午後に、沈丁花がしっとりと香っている。きのせいだろうか、ホトケノザが色を濃くしているようだった。桃色から赤紫へ。猫たちを多くみたような気がしたのは、猫の恋と関係あるのだろうか。日が伸びてきた。きりがない。またぞろ、それでもさわがしい季節がはじまろうとしていてくれるのだ。


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2017-02-10

冷たさのなかに温もるガラスが永遠を─ガラス絵展(府中市美術館)

 府中市美術館の「ガラス絵──幻惑の200年史」展に行ってきた(二〇一六年十二月二三日─二〇一七年二月二六日)。
 府中市美術館は、春の江戸絵画まつりと称する催しがほぼ毎年、三月から五月位にかけて開催されていて、ここ何年かは、たいていそれ目当てに出かけているので、基本一年に一回以上赴いていることになる。ちなみに今年の江戸絵画まつりは、残念ながら、私の苦手な画家の展覧会なので、行く予定がない。それもあって、かわりにこの展覧会に行こうと思ったというのもある。府中市美術館は好きな美術館の部類に属するから。
 ガラス絵は、去年二〇一六年の「春の江戸絵画まつり ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想」展(二〇一六年三月十二日─五月八日)で観た記憶がある。
 そのまえにガラス絵とは何か。ちょうどHPやチラシなどの展覧会の案内に載っていたので引用する。
「 透明なガラス板に絵を描き、反対の面からガラスを通して鑑賞する、ガラス絵。古くは中世ヨーロッパの宗教画に始まり、中国を経て、日本へは江戸時代中期に伝わりました。
 それから、およそ200年。新奇な素材の輝きと色彩が人々の眼を驚かせ、幕末明治期には異国風景や浮世絵風のガラス絵が盛んに描かれました。大正・昭和初期には、小出楢重、長谷川利行という二人の洋画家がガラス絵に魅了されて自身の芸術の重要な一部とし、戦後も藤田嗣治、川上澄生、芹沢げ陝桂ゆきといった多彩な作家たちが取り組んでいます。
 透明なガラス面を通して見える、絵具そのものの艶やかな色の世界。通常の絵画と絵の具を重ねる順番を逆転させる、緻密な計算と技巧。そして、装飾を凝らした「額」と相まって生まれる、きらびやかな存在感。本展では海を渡って日本に伝えられた海外のガラス絵から、近代以降の多様な作品までの約130点によって、見るものを幻惑し続けるガラス絵の魅力と歴史を紹介します。」




 
 「ファンタスティック」展では、おそらく長崎で作られたであろう風景画とも風俗画ともいえないガラス絵に興をおぼえたものだった。冷たいようなガラスの質感は、異国的なものに思えただろう。日本にこれまでなかったような素材だ。だからだろうか、まさしくエキゾティックでファンタスティックなもの、異国情緒と幻想をもたらしてくれるものだった。そしてどこか懐かしいような。
 ちなみに今回の「ガラス絵」展のほうには、「ファンタスティック」展でもあったものとして、中国製のガラス絵《青服を着た中国婦人図》《広東港内の景》(ともに浜松市美術館蔵、十八世紀〜十九世紀)が、展示されていた。



 けれども、すこし先を急ぎ過ぎたようだ。また戻って。
 多分、私が惹かれたガラス絵は、江戸期に作られたものだったろう。なんとなくそれが判っていたので、江戸から明治、現代までに渡る今回の展覧会は、あまり期待していなかった。けれども、出かけたのはどうしてなのか。瑣末な事情が重なって。もちろん、先に書いたように、今年の江戸絵画まつりは行かないと決めていたので、そのかわりでもあったけれど。
 今回は車で。連れていってもらった。それまでは独りで自転車でだったが、まだ二月は、自転車はすこし寒い。家から十数キロあるので…。それはささいな言い訳だ。冬は苦手だ。はやく春になればいい。春の暖かさが、温もりのように感じられる。暦の上ではもう春だけれど。
 展覧会は、さて、思ったとおりに、江戸時代のものにやはり心に残った。それと意外だったが藤田嗣治の《思い出》(一九五二年、個人蔵)。君代夫人との私的な思い出を年代順に描いた小品。絵日記を閉じ込めたような。ガラス絵には思い出がよく似合う。
 全体的にいって、やはり、それほど惹かれる作品というものはなかった。けれども、個々に、どれが、というわけではないのに、ガラス絵というだけで惹かれてしまうのはなぜなのだろう。だから、個々に心残した作品というのがほとんどないのに、なぜかいい展覧会だったという印象を持ってしまう。ほかの展覧会だったら、たぶんがっかりしたりするだろうに。
 ガラスに惹かれるのかもしれない。そう、それが、この展覧会に出かけようとおもった最大の理由だろう。ギヤマン、ビイドロ、ステンドグラス、幻灯機、ルネ・ラリックのガラスの女神たち、ガレのランプ、ビー玉、おはじき。わたしにとってガラスはノスタルジーであり、幻想であり、異国であり、それらすべての代名詞となっているのかもしれない。ガラスの小函を思い浮かべる。ステンドグラスで出来た。それは少しだけ凸凹している。厚みがあって。両手で持つ、というよりも両の手のひらをガラスにぴったりと密着させる。最初はつめたいだろう。けれども、だんだんと温もりが感じられるようになる。ガラスの函のなかには、永遠が入っている。それが幻想であり、異国だった。幻たちとのつかのまの、永遠につながる交流なのだ。
 そんな冷たいような温もりが、展覧会にならんだ作品たちから感じられた。だからこそ、心にやさしかったのだ。
 そうしてガラスが懐かしさを感じさせるのはなぜなのだろう。まだなんとなくしかわからない。けれども、ガラスというと、人肌のようなものを想起する。そして人肌と懐かしさが結びつく。ぬくもりは懐かしいものだから。ガラスの冷たさのむこうに、ガラス絵の温もりが宿っている。ガラス絵は内側から描くから。
 そういえば、展覧会のサブタイトルも“幻惑の200年史”だった。幻想として惑わせるもの、誘うもの。手招きするような、冷たさがやさしい。
 企画展の展示室を出ると、ちょっとした遊び場がいつもある。いつもならスタンプなどで絵ハガキが作れたりする。今回は栞サイズの厚手のセロファンに、輪郭だけの招き猫が描かれていて、それに裏から自由に色をつけて、ガラス絵っぽいものを作るというものだった。猫は《ガラス絵をはめた小町水看板》のなかにいるもの(チラシにも小判のように部分として載っている)。
 作ってみたが、こうした行為も楽しい、ゆかしいものだ。
 ところで、チラシ。てらてらした光沢がある紙でできていて(なんという紙なのか判らないのだけれど)、ガラス絵っぽい感じが出ている。何かステンドグラス風にコラージュされているのも素敵だと思った。
 ミュージアムショップでは、図録は買わなかったが、先に挙げた中国製のガラス絵《青服を着た中国婦人図》の絵ハガキと、この展覧会ではない、二〇一五年の「動物絵画の250年」展(二〇一五年三月六日〜五月六日で、心に残った司馬江漢《猫と蝶図》のA5判のクリアーファイルを購入した。
 三毛猫が空をゆくアオスジアゲハを夢見るような眼差しで見上げている。わたしはこの絵が好きだったのだ。ちなみに今回、司馬江漢の作品も展示があるというので、ガラス絵なのかしらと楽しみにしていたのだが、冊本だった。西洋絵画の手法を独学で学んだ画家だから、ガラス絵も製作したらしいのだが、現存しないとキャプションにあった。
 だが、クリアーファイル。買ったときは気付かなかったが、今こうして手もとにおいて眺めると、なんだかガラス絵につうじるような気がしてしまう。片面は《猫と蝶図》に忠実だが、もう片面。猫のみあげる空が、ぽっかりと丸い穴みたいに透けて、なかにさし入れたものがみえるようになっている。ガラスの窓みたいだ。それはあの場で買って帰ってくるのにふさわしいもののように思えだ。すきな美術館で、すきな作品を。そして、今回の展覧会を彷彿とさせるクリアーファイルというのは。



 帰りに車だと美術館から数キロのところ、おなじ府中市にある武蔵府中熊野神社古墳というところを訪ねる。飛鳥時代、七世紀の中頃に築造された上円下方墳。
 こうした場所におとずれると、なにかしら静かな異質さを感じる気がする。あたりの空気がおごそかになる。とけこんでいながら、異質さをたたえている。そこだけ神聖になるからか。日が傾いてきていた。西日をすこしあびて、はじめて訪れたそこは、よけいに静けさをたたえていた。しだれた枝は、桜だろうか。まだつぼみすら見えない。はやく春になればいい。暖かさが温かさだ。


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2017-01-30

よそよそしさを、ぬけたら、白濁として、やさしい今で

 また少しここをあけてしまった(もはやいいわけはしないことにする)。
 このあいだに、「特別展 火焔型土器のデザインと機能」(國學院大學博物館 二〇一六年十二月十日─二〇一七年二月五日)に出かけてきた。この博物館は、以前、山種美術館にいったときに、あるいていけるところにあると知ったので、帰りに出かけたことがあった。山種美術館は恵比寿駅から行くが、國學院大學博物館だけ行くなら渋谷駅が最寄り。
 山種美術館は好きな美術館だが、今回はとくに行きたいとは思わなかったので、國學院のほうだけ、なので渋谷から行くことにする。
 通勤で使っていないので、電車にめったに乗らない生活を続けている。これを書くのも、実は日が経ってからなので、もはやうろおぼえなのだが、たしかこの時、電車に乗り間違えたような気がする。この頃、電車に乗るたびに、なにかしら、こういうことがある。進行方向を間違えたり、同じホームから出る別の電車に乗ったり、乗り過ごしたり。その度に、もう長いこと通勤で使っていたはずなのになと、ぼんやりと思う。それだけ離れてしまったのだと。
 渋谷駅にでるのもさらに久しぶりだった。一年とか数年とかかもしれない。いまだに、というか、なぜか渋谷には慣れないでいる。小さい頃から、それなりになじみがあった場所のはずなのに。東横のれん街、バスターミナル、そのころよく行き来していた父方の親戚の家へ行くときに寄っていたと思う。それにわたし自身、渋谷からバスで三つ位の所に、一時期住んでいたことがあった。なのに、なぜか馴染みがない。同じような街であるはずの新宿は、もっと馴染みがあるのになと思う。小さい頃住んでいた場所から、電車一本で出れた最初の都会。その記憶もあって、新宿にあるということで、選んだ勤め先(もちろんそれだけではなかったけれど)。今や新宿もめったに行かない、遠い場所にはなっているけれど、こちらは少なくともよそよそしい感じはない。
 そう、渋谷にはよそよそしさを感じてしまうのだ。なぜかは判らない。たとえばほかの駅、街ならどうだろうか。池袋も埼玉や板橋区に住んでいたころはなじみのある駅だ。こちらは懐かしさはあまり感じないが、よそよそしさはない。ちなみに池袋は、どこかわたしの中では日常に属しているようだ。日々のなかで行きすぎた街。感動はないが馴染みのある街。
 上野はどうだろう。もっぱら美術館しかいっていないので、よくわからない。わからないが、それなりに思い出がある。不忍池、上野動物園、にぎやかすぎるお花見、アメ横の雑多な賑わい。周辺の地理的な状況になじみはないけれど、やはりそれなりにゆかしい場所だ。基本的に非日常に属している…。
 新宿は日常と非日常に属していただろう。子どもの頃の思い出がもはや非日常、通勤で使っていたのが日常で。おなじような渋谷だけがなぜかよそよそしく感じられるのか。近くの麻布や六本木、白金は、ゆかしく感じられるのに。
 渋谷駅についた。駅をずっと工事していることもあって、出口が迷路のようだ。よけいわけがわからない。とりあえず渋谷警察署があるほうの出口(たぶん東口)へ向かう。この工事中のバスターミナルが、かつてのわたしが使っていたはずのものなのに。ふと二〇一一年の東日本大震災の時のことを思い出す。当時は新宿で勤めていて、そこで地震にあった。電車もバスも止まっていたので、結局、現在の家のあるところまで歩いて帰った。新宿がなじみだとはいえ、方向音痴なこともあり、新宿から家まで、どうやって歩いていいかわからなかった。渋谷から家までなら、バスを使って行き来したことがあるから、なんとかわかる。遠回りかもしれなかったが、まず新宿から渋谷へ(こちらもうろおぼえだが、基本的に明治通りをまっすぐいけばつくはずだったし、実際着いた)。ここからバスの走っていたであろう道をみつけるのも不安だったが、三軒茶屋方面へ行く大きな道を探せばよかった。それにしても、なんと、文明の利器にたよった生活をしているのか、今更ながら驚いた記憶があった。なじみがある街と街をむすぶ道すらよくわからないなんて。携帯電話もつかえないまま、ほとんど電池が切れそうになっていた。




 わたしは思いつくまま、なにを書いているのか。もう少し。渋谷駅でまず國學院へむかうはずの道をさがすだけで、一苦労だったが、その渋谷駅で、では、二〇一一年のように、家に帰るはずの道はさがすことができるのか、ふと思ったのだ。もはや、それすら、不確かになっていた。あの当時は、渋谷に出ることはあまりなかったにせよ、少なくとも電車は毎日乗っていたので、いろんなことが、もう少し身近だったはずだ。みたところ、今向かっている出口までの道にはなさそうだった。今のわたしが、渋谷駅から家まで歩いて帰れるだろうか。距離的なことではなく(たしか十何キロ、二十キロなかったはず)、道がよそよそしそうなのが不安だった。その道をさがせないのではないか…。

 そんなことを考えながら歩いていたら、いきなり渋谷警察署が向こうに見えた。ああ、あそこだ。あの通りをゆけば、國學院へつくはずだった。ちなみに帰りに、家へ歩いて帰れるルートは見つけられた。探せたことが、なぜか拍子抜けするようで、さびしかった。
 そして渋谷警察署。この近くにかつてよく行ったジャズ・バーがあった。今はもうない。連れて行ってくれた男も亡くなってしまった。たしかこのビルの地下を降りたはずだ。この瞬間だけ、渋谷はよそよそしい態度を変えてくれた。お店の名前も忘れてしまったというのに、なつかしさが風のようにそよいだ。

 さて、本題なのかどうか、國學院大學博物館へ。縄文時代、土器、土偶は好きなので、結構楽しみにしていたのだ。だが、何故なのか。実はあまり感動しなかった。わたしの心持のせいかもしれない。特に火焔型土器が好きだったから、この展示は、もっと感動してよいはずだったのに。企画展や、常設も一部を除いて写真撮影OKだったから、とりあえず写真を撮っておいた。後の為に。なぜなら、写真を見ながら、こうして書けば、もしかするとその場ではわからなかった、感動のようなものがやってくるだろうか、そう思ったから。けれども、不思議と浮かんでこない。不思議に思ったのは、それでもその場で見た土偶に関しては、何かしら感じ入るものがあったのだった。なのに写真にはいっているそれは、感動云々よりも、すこし怖いような感じがした。かけらとなった土偶たちが並んでいるのだけれど、その姿がどこかまがまがしいようだった。その場でみたときは、もっと穏やかさをたたえていたのだけれど。
 この博物館は無料だ。無料でこれだけのものがみれるのは、やはりありがたいことだ。常設の考古学展示も見ごたえがある。そうだ、たしかこのとき、土偶とともに、黒曜石の石器の展示に心ひかれたのだった。あの黒光りする輝きに、道具をとおりこした神秘を感じたのだった。それは美との共存ということかもしれない。ちなみにこの常設には、糸魚川の翡翠も展示されている。勾玉で、後ろからライトで照らしてくれているので、その輝きがよくわかる。透けてみえるそれは澄んだ川の、日なたの色彩のようだ。あるいは草原をわたる風と光のようだ。前に見に来たときも、この翡翠の勾玉に心を残したものだった。またあえた、という思い。
 ところで、図版カタログ。なんとアンケートに答えると、プレゼントしてくれるものの一つになっていた。アンケートをして、手に入れる。帰りの電車などで開いて読んだが、学術的な資料としての意味合いが強いようだ。
 帰りの話になったので、そのまま外に出ようか。お正月に久しぶりにシェリー酒を飲んだ。かつては好きでよく飲んでいたのだ。それでまた、なにかに灯が点った。アブサンなどのアニス系のお酒やグラッパなどが飲みたくなった。緑色の薬草臭の強いシャルトリューズもいい。アルコール度数が強くて甘いリキュール系のお酒。ちびりちびりとだ。こうして机にむかっている、そのお供に。
 渋谷のデパートでそれらを見て帰ろうと思った。東横のれん街で。なつかしい筈の場所だ。小さいころ、よく来ていた…。けれどもあいかわらず、よそよそしい。よそよそしいを通り越して、殆どはじめてくる場所のようだった。それでもお酒売り場へ。残念ながらというか、あのよそよそしさに合って、というべきか。みごとに欲しいものがなかった。 電車へ。京王井の頭線だ。ここから下北沢乗換で、小田急線へ。小田急線の豪徳寺は、わたしの出生の土地。車窓から、そのあたりを眺めた。たしか、ここ…。もはやよそよそしさは感じられない。さっきからずっと。そして自宅最寄駅へ到着。この駅前のスーパーで、実は先のお酒の一部が売られていたのを確認済みだった。そこではなく、このスーパーの系列のお酒専門店(ワインがメインのようだったが)へ足を運ぶ。アブサン、ぺルノー、シャルトリューズなどのお酒、グラッパやマール(どちらも葡萄のしぼりかすを蒸留してつくったお酒)が売られていた。ありがたい、贅沢なことだと思う。最寄駅でこんなものたちに出逢えるなんて。アブサンはアニス系のリキュール。十九世紀フランスの芸術家たちに愛好されたこともある。ヴェルレーヌ、ロートレック、ゴッホ。ミュシャがポスターを描いたこともあった。なかに入っていたニガヨモギに幻覚作用があるとかで、長らく製造が禁止されていたこともあったが、現在は売られている。
 この来歴が好きだったということもあっただろう。以前はよく飲んでいた。ただ甘くて飲みやすい割に、アルコール度数が高いので(四〇度前後)、書きながら飲むのには向かない。すぐに酔っぱらってしまうから。それもあってすっかりご無沙汰していたのだけれど。
 たぶんあの頃に帰りたいというより、あの頃のような気持ちで、書くことをしたくなったのだと思う。そのために、大事なオブジェとして。
 なやんだ末、ウゾ12を買った。こちらはギリシャのお酒。ブランデーにアニスを浸したリキュールだそうだ。もともとワインが好きなので、ブランデーというだけで、親近感を感じてしまう(ブランデーは白ワインを蒸留させて作ったもの)。ニガヨモギは含まれていないが、以前、おいしいと思って飲んだ記憶がある。それにアブサンやペルノに比べて安い。ただアブサンやペルノに比べると、香りのふくよかさが足りない気もしたが…。
 買う時、ひさしぶり感がうれしかった。いつかのようだったからか。贅沢だと思った。よそよそしさは、こんなことでふっきれるのだ。お酒を買うことが日常から非日常になっていた。それが今住んでいる所の近くで。そのことが日常にさしこまれた非日常としてわたしを後押しするようだった。こんな風に日常のなかで、非日常を経験すること。非日常を根として継続させること。それこそが書くという行為ではなかったか。
 たぶん、おおざっぱにいえば、わたしが縄文にひかれるのは、これらのこととも関係しているだろう。日常が今よりももっと非日常と連結していた時代。火焔型土器のあの使いにくい形は、まさにそうではないか。けれども、なんと美しいのか。
 ウゾ12。これを書いている今日、はじめて開けて飲んだ。びっくりした。なるほど記憶のとおり強いお酒だが、それよりもずっと香りがよかった。草たちが口のなかで、ほとばしるようだった。豊かだった。甘さがやさしい手招きで。よそよそしさがまったくない。うけいれてくれる味だった。かつて、こんなにおいしいと思って飲んでいたのだろうか。たぶん、今のほうが。
 実は正月に飲んだシェリー酒は、今飲んだら、いまいちだった。だからなおさら。シェリー酒はもはや私にとってよそよそしいお酒になってしまったようだ。きっと味覚も変わるのだ。けれども変わらないこともあるのだろう。或いは変わっても連綿と続くことがあるのだろう。それをウゾ12は教えてくれた。このおいしさは、今ならではだ。多分。かつてを引きこみながら、今のわたしがそう感じている。この場所で。ここはきっと、よそよそしくならないだろう。離れてもきっと。ショットグラス一杯だけで、けっこう酔いが回ってきた。けれどもしばらく、このお酒をのむのが楽しみだ。
 ちなみにアニス系のリキュールは、水を含むと白濁する。ストレートで飲むから、あまりそれにお目にかかったことはないのだけれど、冷凍庫で冷やしていたら、すこしだけ白濁していた。まるで思い出たちが今日に混ざるような度合いで。こんなふうに日々を過ごせたら、そう思わせる塩梅だった。いまは澄んだお酒だが。口に含むときっと白濁が。それはあまたを含んでの濁りなのだ。よそよそしさがやさしい響きだ。
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2017-01-01

初日の出(謹賀新年)

 

今年も初日の出の写真を家のベランダから撮る。もう元旦の恒例行事になっている。
大晦日まで仕事だったせいか、年末は年が暮れるのがほんとうに駆け足だった。忙しかったのは、おせちなどの関係だったので、年末や新年の感触を味わっていたといえばいえるのだけれど、それはなんというか、仕事の範疇のことで、どこかわたしとは関わりがうすいような事柄だった。わたしが関わっているのだけれど、わたしが年末を味わうということからは離れている。




 大晦日に、仕事から帰ってきてから、大掃除、そして新年のための料理をつくった。これでようやく年末を感じ始めた。半日ぐらいだ。駆け足にもなるだろう。それでも、そんなことで、ようやく年末を感じるのだ。
 もっとも、年越し蕎麦を食べて、疲れていたのか、すぐに居間で寝てしまって、起きたらもう午前一時近く。除夜の鐘のつきはじめを聞かずに新年を迎えてしまい、そのことがすこしショックだった。
 自分の部屋に戻る。わたしの部屋からは除夜の鐘が聞こえる。まだ撞いているのだと、うれしくなった。鐘の音を聞きながら眠った。
 そして、この初日の出。スマホのアラームをセットする。去年も同じ時間にセットしていて、その痕跡が残っているのが、恒例行事なのだなと、おだやかな気持ちになった。
 初日の出の時間は六時五十分ぐらいだけれど、空が明るくなるのは存外早い。目ざましが鳴る前の六時二十分に少し様子を見に行ったら、もう東の空はすこし明るかった、赤かった。晴れているので、そのことにほっとする。



 そして六時三十分過ぎぐらいからベランダへ。毎年、みにきて写真を撮っているのに、いまいち、どこから出るのか、わかっていない。そのことがおかしくて苦笑する。どのあたりから出るのだっけ。位置を記憶をたどりながら予想する、そこに期待感のようなものがまじって、なんだかうれしい。
 西の方角には富士山。こちらもほんのり赤く染まっている。



 東の地平線あたりがますます明るくなってきた。けれどもまだ、どこから出るのか、ピンポイントではわからない。明るさの真ん中ぐらいなのだろうけれど、障害物もあるので、予測ができないのだ。あと数分。日の出の時刻は過ぎた。もう間もなくだ。出てからの数分は短い。あっというまに空にのぼってしまうから。
 でてきた太陽は、初日の出は、わたしが思っていたよりも左寄りだった。予想がはずれたことに、新鮮な喜びを感じる。今年もみれたなという少しの感慨とともに。





 初日の出が地平線すれすれにあるとき、太陽の形がまだ隠れているそのぎりぎりの時間だけ、かろうじて裸眼でみることができる。あとはもう目がまぶしい。スマホごしに太陽を見て、しばらく写真を撮るが、それも実は、もう逆光になってしまいつつあり、写真としてはいまいちになってしまっている。けれどもあと数分。のぼりゆく太陽に後ろ髪をひかれて。
 鳥がとおりすぎる。写真におさめることはできなかったが、鴨たちもみた。雁が音、初雁、。言葉がよぎる。今年も言葉がこんなふうに彼らとともにありますように。だったらいい。


09:11:00 - umikyon - No comments

2016-12-25

負から慌ただしく逃れたら、年の瀬の声が

 ぼうっとしていたら、もう年末。毎年十二月の中旬ぐらいまではほぼ年の瀬の実感がない。ただ日が落ちるのが早くなったなと思うぐらい。わたしが出かける朝は朝といってもほぼ真夜中。朝五時前。星と満月過ぎの月が見えるばかり。
 中旬をすぎてもまだ、あまり実感がないけれど、クリスマスにむけて街が賑わいをいよいよ増すような気がする。ケーキ、オードブル、プレゼント、イルミネーション、ポインセチア、クリスマスリース。これらがすこしずつ装いに加速度を増してゆく、そのなかで、すこしだけ、私の心もようやく年の瀬を感じてゆくのだろう。
 イブを過ぎたら、街はとたんに年末になる。正月の準備であわただしく賑わいをみせてゆく。実感がいきなりやってくる。そんな風に毎年、暮れてゆく。






 そんな微妙に年の瀬を感じつつある、十二月の下旬、いよいよ、両国にあるすみだ北斎美術館に行ってきた。今年平成二十八年十一月二十二日オープン。北斎美術館が出来ると知ったのは、いつだったろう。おそらく北斎を好きになってからすぐだ。オープンするまで、何年も楽しみにしていたものだった。開館当日に行きたいとまで思っていたと思う。
 そうだ、まだ暑い時期の、オープン前に美術館の外観まで見に行ったではなかったか。北斎生誕地近くにある、所縁も深いはずの美術館。それが何故だろう。実は間際になって、あまり行きたい気がしなくなってきた。その頃、さかんに美術館や北斎を紹介したり、特集する雑誌などが出てきていて、そのなかから、二冊ほど買ったことがあった。たぶん、その記事たちで、なにかを感じとったのだと思う。なにか負の部分を。基本的に紹介記事なので、いいことしか書いていなかったのだけれど。
 その負の部分とはなにか。行ってきた後の今もぼんやりとしかわからない。もちろん北斎に対する私のほとんど愛情に似た想いに変わりはない。だからこそ、負の部分を感じつつも重い腰をあげたのだが。ともかく、なにか美とは関わりのない、気配が漂っていたことに、ほとんどしずかな暗さすらおぼえてしまった。正体はわからない、けれども、なにかすこしの哀しみが漂っていた。
 実は、この文章も書くのに二の足を踏んでしまっていた。正体がわからないからではなく、大好きな北斎にまつわる、いや、北斎の絵と関わりがないものたちの放つ負に触れることをしたくなかったのだと思う。北斎には美のなかでのみ輝いていてほしい。あるいはわたしが北斎について書くことは、共鳴であったり驚愕であったり、肌がふれあうような美との接点だけにしたかった。それ以外のどんなことも…。
 いや、それではあまりに、美術館にたいして、扱いがよろしくないのではないだろうか。いいところもおそらくあった。第一、なにが悪いともわからないのだ。あまりに近代的すぎる豪奢な内装、外装に? デジタル化がすすんだ、温もりが感じられない説明に? 常設での、展示をそこねる、足元を走る青い、うるさい照明に? 真贋が危ぶまれている収蔵作品たちに? 区の名所の宣伝のためと化した展示に? 負のものたちをあげればきりがない。それらがもっと、闇を抱えていること、開館に対して、住民を含めた、あちこちからの反対、税金のむだづかい、それらを知ったのは美術館に出かけた後だったが(それも、知ろうとしてではなく、いつものようにここを書くにあたって何気に検索したら、すぐにそれらがヒットしたのだ)、そんなことも含んでいたのだと、ぼんやりと思う。
 そう、さっきから、この負の正体がわからないから、結局北斎のことを書かないでいる。それでも彼の作品にたいしては、いつものように、しみてくるものがあったのだ。ああ、これがみれて、これが感じられて良かったと思える出逢いがあったのだ。
 わたしは今、あるはざまでゆれている。作品に対して、いつものように感想を書き留めてみたいのだが、それを止めておきたいという思いも、ついぞわきあがってしまう。あの美術館に所蔵されているものにたいして、感想を書くということは、あの美術館の存在を認めてしまうことになるのでは…。そこまで、あそこに対して、こちらからも負の感情のようなものを抱えているのかと、文章にして気付き、すこし苦笑してしまう。
 展示を見てまわっているときから、頭によぎっていたのは、信州小布施の北斎館だった。ああ、あそこに以前、出かけていて本当に良かったと。あちらの北斎館はすくなくとも北斎に対する愛がそこかしこに感じられた。晩年の四年を門下の高井鴻山に招かれ、小布施で過ごしたという縁による美術館。晩年のほんの一時期だ。街おこしにしても、北斎、そして高井鴻山に対する愛着と敬意が感じられた。それがやわらかく町を包んでいた。あの気配のすがすがしさのなかで、あまたの肉筆画たちに出逢えたのは、ほんとうに幸せだった。たいして、すみだ北斎美術館のある墨田区は、生涯転居を繰り返した北斎が、そのほとんどを過ごした場所ではあるのだが…。
 あの負に対して、哀しみが漂うと感じられた理由はわかった。それは負のせいで、この先、この美術館で、北斎をみにいこうと思えないだろう、そのことにたいするものだった。大好きな北斎との仲をさくもの、それがわたしにとっての負でもあった。こうした考えは間違いかもしれないが、もうあそこで飾られた北斎は見に行く気になれない。北斎に会いに行く大切な機会が減ったことに対する哀しみだった。北斎がいつでも見れると楽しみにしていたのだが。

 日が暮れるのが早くなった。展覧会についたのが三時近かったか。美術館のある両国に行くには、総武線で新宿から千葉方面に向かうのだが、その度、車窓から皇居のお堀たちを見るのが楽しみだった。市ヶ谷、お茶の水あたり。けれども、車窓から見た水がどこか汚かった。ゴミが浮いている。こんなに汚かったかしら。夏の暑いさなかの真緑の藻でいっぱいの水を思い出す。あれだってきれいとはいえなかったけれど、こんなには。けれども渡ってきた鳥たちなのだろうか、鴨のたぐいが増えている。そのことでよしとした。心がなごんだ。と思ったら隅田川だ。わたった先に両国がある。ゆたかな水量をたたえた、冬の川だ。
 そして美術館からの帰り、というか、美術館を出たらもう暗かった。夜のなか、また総武線、車窓から隅田川、お堀たちを。考えればすぐわかるというのに、あまりにも昼間と景色が変わっているのに、うれしいような驚きがあった。夜の灯のなかで、隅田川は大川と呼ばれたかつてを想わせた。なぜだろう。単純に水量の多さが、大きさを連想させたからだろう。夜の中で、辺り一面に黒い流れを這わせてみえた。それは湾になった海のようだった。実際、隅田川は海に近い。あの黒く発光するような水の向こうに、江戸が流れていったのだろうか。あのあたりに北斎はいるのかもしれない。わたしは、河口の方角を食い入るようにみた。にじんだ岸の灯たちがまなうらにやさしい傷跡のように点滅する。
 つぎに皇居のお堀たちが線路と平行してみえはじめた。昼とうってかわって、水はやさしい、きれいさをにじむ鏡となる。ああ、こんな夜の水を親しく感じていたのだったなと思いだす。これだけでもよかったではなかったか。
 日が暮れるのが早くなった。美術館を出たのが五時近くだったと思う。家の最寄駅についたのが六時ぐらいだったか。最寄駅だというのに、この駅に来るのもひさしぶりだった。近くにいるついでに、駅ビル内にある書店をのぞいたり、クリスマスグッズたちを見て回ったりする。家についたのはもう七時だった。日没の四時台から、まだそんなに経っていないような気がしたけれど、もうこんな時間かと、不思議になる。こんなふうに年も暮れるのだろう。クリスマス…と思っていたら、もう晦日の声でにぎやかで、あわただしくって。
 もうそれでも冬至はすぎたのだ。これから、また一日一日、日が長くなってゆく。
 美術館に行った翌日の夕暮れ。家の窓から夕陽に染まる富士が見えた。これも北斎の赤富士(《富嶽三十六景 凱風快晴》)かしら。そんなことを想ったかどうか。
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2016-12-15

言葉が爪のように蝶のように─デトロイト美術館展、川端康成「片腕」

 またすこしここをあけてしまった。すこしなのに、ずいぶんたっているような気がする。前に書いたのは円山応挙か。それすら遠く感じられる。
 この期間、ほとんど言葉と接しなかった。言葉をつづらないと、ものごとたちが希薄なままでいるようでもある。まるで言葉をおぼえた時から、記憶がはじまるように? そう、わたしには二歳半ぐらいから記憶がある。言葉という道具があってはじめて、記憶にできるのだ。ぬりえでもするみたいに。現実もまた、ことばによって色づくのだろうか。
 図書館で、このごろ、歴史小説ばかり借りていた。子どもの頃、歴史は人がつくる本当の物語だと思っていた、あの偉人伝ばかり読んでいた頃のことを思い出したかったというのも、すこしはあるかもしれない。歴史小説にでてくる日本語が、もしかして、このごろ喋られたり、書かれている小説のものより、美しいかもしれないと思っていたかもしれない。そしてすこしの逃げ。読みやすいのだ。没頭しやすい。けれども、何日か前、図書館で。つぎの本を借りようと思ったときだ。歴史小説的なものをめくってみたが、何故か拒否反応がおきてしまった。いまの作家のものを読んでみようと思ったが、会話の多い文体が気にかかってしまう。そしてまたもや久世光彦だ。わたしに日本語の美しさを再確認させてくれた彼だ。『美の死』という書評を集めたものを、最近知って(二〇〇一年に出たもの)、こちらは図書館で借りたのではなく、購入したのだけれど、それをぱらぱらと読んでいたら、川端康成の「片腕」「眠れる美女」の事が書いてあった。〈「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝に置いた。〉(「片腕」)
 これらは新潮文庫などでは『眠れる美女』として、一緒に所収されている。わたしはこの本を持っている。ずいぶん前に読んだはずだ。けれども見当たらない。いや、ある場所は大方判っているのだけれど、出すのがかなり困難なところにあるのだ。それはともかく、なぜかほとんど読んだ記憶がない。
 そうだ、図書館で、歴史小説をさがすことに虚しさをおぼえていたとき、家でふとめくった『美の死』のこと、川端康成のことを思い出した。わたしはかつて川端康成の小説が好きだったはずだ。図書館で『眠れる美女』を見つける。頁をひらくと緻密なことばたちが誘うようだ。匂いようだ。なぜ、わたしはこんな言葉たちから、離れようとしたのだろうか。
 これと、川端康成の『川のある下町の話』を借りる。こちらは多分、本当に読んでいないと思う。結局、歴史小説的なものから、ここに戻ってきてしまうのだ。なぜ遠回りしたのだろう。言葉と離れたかったのかもしれない。離れて、また言葉を大切に思うことができますように。どこかでそう願っていたのかもしれない。
 それではまるで、はずした「片腕」のようではないか…。はずした腕の娘は、片腕でどうしたのだろう。なくして、はじめて気付くなにかがあったのではないか。この物語は男と片腕の物語なのだけれど。





 そうして、『眠れる美女』を読んでいたとき。まるでこれが呼び水になったように、「デトロイト美術館展」(二〇一六年十月七日─二〇一七年一月二十一日、上野の森美術館)の招待券を思いがけず入手した。「大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち モネ ルノワール ゴッホ セザンヌ マティス ピカソ」と副題がある。
 実はこのごろ、この手の名画たち、もういいかなという気持ちがあった。なんとなく、食傷気味になっていたのだ。だから、もうしわけないけれど、行く気はなかった。いや、開催していることを実は知らなかった。けれども、ちょうどわたしのなかの何かが動こうとしているとき、手にはいった鑑賞券だった。これがきっかけで、また想像の世界へ向かおうとすることができるかもしれない。そんなことを想ったか。届いたのが月曜日だった。翌火曜日は、昼の仕事がないので、一番美術館に行きやすいということもあった。これも行けということかもしれない。ただ、招待券に「月曜、火曜に限り全作品写真撮影可能」とあるのが、すこし気にかかった。デトロイト美術館で、撮影可能ということで、それにならってのことらしい。撮影可能だと、観て感じることに集中できない。撮ったことで区切りをつけてしまう心がうまれてしまう。録画した映画などをなかなか見ないように。けれども写真撮影可能なら、カタログを買ったり、絵葉書を買わないでもすむという利点もある。それに撮影可能という展覧会に、あまり遭遇したことがないので、試してみたいという思いもあった。逡巡したけれど、行くことにする。
 上野もひさしぶり。上野には、美術館がいくつも存在するが、上野の森美術館は、そのなかでもあまりなじみがない。
 景色は冬、というより紅葉や黄葉が盛りをすぎ、まだ葉をかろうじて残している、冬だけれど晩秋を感じさせる季節の招き。その日は、曇りだった。冬の寒さも、ほかの季節よりも遠い太陽も苦手だ。だからなおさら晴れ間を恋しくおもった。せめて晴れてくれたなら。
 さて、美術館。展覧会会場へ。
 「一八八五年の創立以来、自動車業界の有力者らの資金援助を通じて、世界屈指のコレクションを誇る美術館として成長したデトロイト美術館。しかし、二〇一三年にはデトロイト市の財政破綻に伴い、所蔵品の売却という危機に直面します。その時、美術館を守るために立ち上ったのは、国内外の支援者とデトロイト市民たちでした。危機を乗り越え、コレクションの中核を成す選りすぐりの傑作、全五二点が上野に集結。モダンアートの目覚めから、今へとつながる西洋絵画の潮流を一望できる貴重な展覧会をお見逃しなく。
」 (チラシなどから)。




 写真撮影可能ということや、ルノワールやゴッホ、モネなど有名どころというか、彼らの展示があるものは、たいてい混んでいるので、覚悟していったのだが、それほどのことはなく、そのことは良かった。ちょうどいい混み具合。最初のごあいさつ、メッセージなどから写真を撮っている。なるほど、こうした文章もあとで参考にするには必要かもしれない。
 写真撮影のことだけ、先に書いてしまう。やはり観ることに集中できなかったが、行く前に考えていたよりも悪くなかった。一番の理由は会場が静かだということ。わたしはこのごろ平日に展覧会に行くことが多いが、平日は混雑は土日ほどではないが、印象として、観客たちのおしゃべりが土日よりも気にかかることが多い。ともかく年配の人たちが会話しながら観ているのによく出くわすのだ。それが、今回はほとんどなかった。観光地でのように、人々はほとんどがカメラに眼の前のものたちを捉えることに多くの関心をしめている。だからおしゃべりが少ないのだろう。おまけに写真を撮るときに、前を横切るのをためらったり、会釈したり、そうした礼儀のようなものが、暗黙の了解としてあって、そのことも心地よいものだった。ほんとうにまるで観光地…。かれらはほとんどが静かにカメラに収めている。わたしも含めて。そのことに奇妙な連帯感をもったりもするのだ。
 あるいは慣れの問題なのかもしれない。景勝地などで写真を撮るのは、もはやあまり気にならない。景色と対峙するのに集中できない…とは思わない。いや、じつはかつてはそう思っていたのだが、今では両立しているのかどうか、どちらも中途半端かもしれないが、わたしのなかでは折り合いがついている。美術館で展示作品を…ということも、機会を重ねれば。
 順番が逆になってしまっているが、展覧会自体…。写真撮影のことがあってか、実はわたし個人としてはいまいちだった。わりと好きなはずのゴッホ、セザンヌ、モネ、ちょっとした友人のように勝手に思っているルノワール(作品をみるたび、知人に会ったようなほっとしたものをいつも感じるのだ)をみても、いつもならわきおこる温かい共鳴のようなものが浮かび上がってこなかった。とくにモネは、食傷気味だと思ってもいても、それでも出合えば、いつも何かしら、感じるものがあったはずなのに、さわやかな風がふいていたはずなのに。
 けれども。オディロン・ルドン《心に浮かぶ蝶》(一九一〇─一二年、油彩・カンヴァス)。キャプションも写真に撮ったので引用させて頂く。
「赤みを帯びたオレンジの背景の中に蝶が描かれる。題名にもある通り、描かれているのは現実の蝶ではなく心の中の蝶である。蝶はギリシャ語で「精神」を意味し、キリスト教的な価値観では生命、死、復活を象徴し、二十世紀の初めには象徴的に魂を暗示するもの、時として死後肉体を離れる魂を擬人化したものとも見なされた」



 作品をルドンのものと知る前に、なんとなく予想ができた。それはほとんど救いのように、居場所として手招きしていた。ここでなら、何かが共有できるのだと、ここでなら、風が行き交うのだと。思いこみかもしれないが、これらの蝶、そして赤い背景は、血脈をもった幻だった。いや、現実と幻想の境を行き来する、それは言葉の化身のようでもあった。借りてきた若い娘の片腕、そのはかなげな爪。〈脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。〉(川端康成「片腕」)。
 たとえば、そんな爪のような蝶だった。心と現実を行き来する、わたしとあなたを行き来する、言葉のような蝶だった。
 これを見ただけでもよかった。見れただけでも。その後も展示は続いたが、カンディンスキー、マティス、ピカソ。もともとあまり引っ掛かることがなかった画家たちの作品だったこともあり、ほとんど感慨なく、みて回り、出口へ。
 ところで、出品リストは入口でもらったが、本展覧会のチラシをここで入手することが出来なかった。上野の森の、違う美術館にいけば手にはいるかもと思う。いや、手に入らなくとも、ミュージアムショップを覗くだけでも楽しいではないか。森を横切り、東京都美術館、国立西洋美術館へ。特に国立西洋美術館は、世界遺産に登録されてから、はじめて行ったと思う(二〇一六年七月に正式登録されているというから、そうなのだろう)。もともと好きな美術館なので、世界遺産登録は、個人的にすこし複雑だったが、これで客足が増えれば、きっといいことなのだろう。常設展示の松方コレクションが大好きだったのだ。いまでもほとんど安らぎとして、大切に感じている。だが、そのことで世界遺産登録になったわけではない、「ル・コルビュジエの建築作品」として登録されている。それがひっかかっているのだ。
 ちなみに、ここでようやくデトロイト美術館展のチラシを入手することができた。ミュージアムショップを覗き、モネやゴッホの絵葉書を見る。これらの作品は、好きだと思ったものだった。作品をみたときに通った風を思い出す。モネの睡蓮、そしてゴッホの薔薇。
 美術館の庭にロダンの彫刻群。イチョウの黄葉のもとに《考える人》がいる。秋のなかで(実際は冬なのだろうが)、その姿はよく似合った。



 おおむね、おだやかな、風のなかで。日が暮れるのが早くなった。帰りの電車に乗ったときはまだ明るかったが、駅の最寄駅についたら真っ暗だった。うたたねしたり、『眠れる美女』をめくったりしているうちに。
 改札を出ると、外は雨もすこし降ってきたが、気になるほどではない。時刻はまだ午後五時前だ。雨と曇りの間で、昼と夜の間で。また言葉は腕を差し出してくれるだろうか。いや、私がその腕を求めるだろうか。
00:01:00 - umikyon - No comments

2016-11-25

泥のうえにあざやかさが息づく秋だ ─円山応挙



 まだ本調子ではないのだけれど、心に泥のようなものがたまってゆくようで、それを掬いとるために、視覚的にうつくしいものをみにゆきたいと思った。書物は泥がへってからしか、心にひびいてこない。あのうつくしい、なれしたしんだ世界から、ずいぶんはなれてしまっている気がする。泥たちが重い。それはかわいた泥だ。辺りを覆ってもいる。わたしは泥ごしに世界と対峙する。
 だが、そう言い切ってしまうと、泥がかわいそうだ、とも思う。泥によって植物は根を張ることができるのだ。そして泥の下で、死者は眠る。焼き物もまた泥から生まれるのではなかったか。

 何を書いているのだろう。ともかく、このままではあまりよくないなと、重い腰をあげて、美術館にでかけてきた。近場といえば近場。けれども自宅最寄駅へすら、この頃は足を向けることがなかったから、電車に乗ることが、しんどく感じられた。その行為が、おっくうで、電車に乗っている自分を思い浮かべることが、なんというか、遠かった。よく駅にゆき、電車に乗る元気があったなあと、ぼんやりと思ったり。
 出かけてしまえば、なんていうことはないのだけれど。



 この展覧会はどうやって知ったのだろう。覚えていない。ふっと降りてきたような気がする。まさか、だけれど。美術館でチラシか何かでみたのでもない。ネットで検索したおぼえもない。ただ、気付いたら、それ目当てでオークションサイトでチケットを探していた。あいにく値段が殆ど当日券と変わらないようなチケットしかなかったので買わなかったが(ちなみに、それは落札されたらしい。送料も考えると、どうして売れるのか解らない)。
 ただこの頃、体があまり動かないので、前もって券を買っておくのはいいなと思ったのだ。券が手もとにあれば、行かなければ無駄になるからと、行くために背中をおしてくれるものとなる。
 そうこうしているうち、家のちかくでも、葉が色づいてきたのに気付く。黄色や赤、そして落葉のうえをかさかさと歩く感じ。外に咲く花たちはすくなくなってしまった。そんななかで、ふと思い出したのだ。ああ、あそこの美術館は庭園がきれいだったなと。今なら紅葉が楽しめるだろう。げんきんなもので、それが券のような後押しとなった。いや、券以上に、やさしい手となったのだった。





 美術館は根津美術館、展覧会は「円山応挙─「写生」を超えて」(二〇一六年十一月三日─十二月十八日)。
 〈 円山応挙(一七三三〜九五)は、「写生」にもとづく新しい画風によって、日本の絵画史に革命を起こした画家です。そんな応挙の「写生画」は、超絶的かつ多彩なテクニックによって支えられています。しかし近年、写生ないし写生画という言葉だけではとらえきれない応挙の多面性、作品世界のバックグラウンドが指摘されることも多くなっています。
 本展は、応挙の生涯を代表する作品の数々を、根津美術館の展示空間の中であらためて見つめ直そうとするものです。あわせて、さまざまな可能性を秘めた若き日の作品、絵画学習の痕跡を濃厚にとどめた作品、そして鑑賞性にも優れた写生図をご覧いただきます。「写生」を大切にしながらも、それを超えて応挙が目指したものは何だったのかを探ります。」
 円山応挙。彼をしったのは、たとえば府中市美術館などでみた犬の絵や虎の絵でだ。ほかでも見て、それがわたしの中で積み重なって、知らないうちに好きな画家のひとりとなっていった。
 彼の時代背景や、当時の「写生」がどうであったか、円山応挙にとってそれがどういうものだったのか、実はよくわかっていない。知識としては、展覧会会場で説明されていたので、いちおうの理解はできたのだが、実感として伝わってこないのだ。もっと調べなければならないのだろうが、この実感の希薄さもまた、絵自体とそれをみるわたしたちの歳月の隔たりなんだろうと思う。いわく、伝統的な文人画家たちには、「形似」を求める「写生」は、図であり、絵(画)ではないと批判されていたこと、京の人々からは受け入れられていたこと、そして「気韻生動の如きは、写形純熟ののち自然に意会すべし」と円山応挙自身が言っていたこと。時代が実証を重んじ、科学的な視覚の在り方に敏感になっていたという背景…。応挙が写生を前面におしだしてきたことは画期的ではあったが、宮廷画家としての側面があったことから、旧態前の世界にも足をひたしていた、しがらみのなかでの新しさであったこと…。
 めずらしく、絵についての個々の感想をまえに、あれこれ書いてしまっている。そう、絵を前にしても、これらの当時の背景は、今のわたしにはぼんやりとしかわからなかった。ただ、「気韻生動」(*)的なものは、作品から、感じることができたと思う。

(*)「気韻生動」は、中国絵画の理想を表した言葉。《古画品録》序の六法の第1にあげられ,対象の生命,性格が画面にいきいきと表現されること。時代により多少変化し,北宋の郭若虚によって,気韻は題材の如何にかかわらず,作家の人格が画面に反映するものであると規定され,これが文人画の主張の中核となって,明清時代まで受け継がれた。(百科事典マイペディアの解説より)

 作品をみてゆく。まずチラシにもなった《藤花図屏風》(六曲一双 安永五年(一七七六) 根津美術館蔵)。金地に描かれた藤。花房は緻密に描かれているけれど、葉や幹や枝は付立てという、輪郭線のない技法で描かれ、濃淡で影や立体感を現している。たしかキャプションには、いまの金とむかしの金は意味合いが違うとあったように思う。薄暗がりのなかで幽玄にひっそりと輝く金、朝日をあびて輝く金、曇り空でにぶい光を放つ金。金は電灯やネオンのない時代、もっと繊細なものだったと。うろおぼえで、もしかすると勝手なことを書いているかもしれないが。
 ともかくそんな金地が、陽射しのように感じられた。そして写実的な写生ということからすると、藤の花房の描き方は納得できたが、枝や葉については、そうでないような気がした。輪郭線のない、濃淡であらわされた曲がった幹。だが、それが不思議と生き生きとして見えたのだ。そういえば、写実的だという藤もまた、実際の花よりも長細く描かれているが、そのことは気にならない。逆に画面にぎりぎりの均衡の効果を与えているようだった。陽射しのなかの満開の藤。



 《雪中水禽図》(一幅 絹本着色 安永六年(一七七七)個人蔵)。雪の積もる水辺に降り立つ鴨、岸に休む鴛鴦、水に浮かぶ鴨、氷の上で眠る鴨、水中に頭を潜らせる鴨など。墨でえがかれているであろう松や岸、そして水にうっすらと張った氷たちが、なぜかその薄さのせいか、あるいは色合いのせいか、木々と土と水が、連続して感じられた。対比的に色鮮やかな鴨たち。鴨のあいらしさ、愛しさ。けれどもこれは写生ではないだろう。個々の鴨たちは写生かもしれない。だがこんなにひとところに鴨たちはなかなか集まらないだろう。そうも思うが、絵画的な写実として、心にしみた。氷のわれそうなはかなさとともに。



 写生といえば、《写生図巻》《写生図帖》《写生雑録帖》等、実物写生を清書したものの展示があったが、特にそのなかでも《写生図巻》(二巻 紙本着色 写生年/明和七年─安永元年(一七七〇─一七七二) 株式会社千總蔵)が鮮やかだった。紅葉したさまざまの葉、枯れた葉と鮮やかな実のサンザシ、ヤブコウジ、盛りの花のシュウカイドウ、《雪中水禽図》で観たような鴨、この会場にあった《木賊兎図》のような兎たち、これらが生き生きとそこに息づいてみえたのが、驚きだった。こんなに賑やかに生を感じさせる写生があるなんて。



 たとえば、こうしたことが〈気韻生動〉なのかしらと、ぼんやりと思う。あるいは《龍門図》(三幅 絹本着色 寛政五年(一七九三) 京都国立博物館蔵)。
 三枚の鯉の絵、左右二枚は波紋をたてて泳ぐ鯉だが、真ん中の一枚は、滝を現す縦の直線のあいだを楕円の、まるで動きのないような鯉がおり、それが滝登りをあらわしている。そのほとんど静なような描写で、滝が落ち、そして鯉が登るという、動をあらわしている、その均衡にひかれた。そして真ん中のそれはとくに写生ではない。というか、写生や〈気韻生動〉というのは、対象と作者の生が出逢ってはじめてなりたつことなのではないかと言ってみたくなる。その出逢いの場で、対象にどちらかというと、傾倒しているのが左右の鯉の図、そして作者の個性が色濃く現れているのが、真ん中の滝登りではなかったかと。三幅で、ひとつの広大な宇宙をつくっているようでもある。



 ほかにも、何点かひかれた作品があったけれど、省略する。ところで美術館内で展覧会会場を移動するとき、大きな窓ガラスから見えた庭園は、まさに紅葉の見ごろだった。日が暮れるのが早くなってきたから、とりあえずミュージアムショップにゆく前に、庭へ。水辺に鴨、そして鯉。苔むした岩にかざられたように落ちている葉、真っ赤なモミジたち。足にかさと音をたてる葉。写真をとる人たちの静けさ。水がながれる音。円山応挙の描いた世界たちと、つながっているようで、不思議な気がした。わたしはどこにいるのだろうか。これもまた展覧会の一部のような気がしたし、これがわたしの写生なのかもしれないとも思った。こうして景たちを感じること、そして感じたことを、言葉にすることが。そこには応挙を感じることも含まれていただろう。それが彼の絵とわたしの間を隔てる時間を、またぐことになるだろう。
 ミュージアムショップに寄ったが、図録は心惹かれたが、手元不如意だったから、購入しなかった。一通り見渡してから、外に出るともはや夕闇。庭園ではまだ昼の気配が残っていたというのに。そして外はさんざめくような都会の街だった。差異に慣れないような心持で駅に向かう。だんだんこうした賑やかさから心が離れてしまっているようだ。これが最後と色づく葉、ギイギイと無くオナガやヒヨドリ。今はこうした賑やかさのほうがいい。泥のうえにあざやかな落葉のかさかさと。



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2016-11-05

いったりきたり。帰ってはここにいる

 また少し、甲状腺の調子が悪い。まあ、それはおいておこう。
 久世光彦(一九三五─二〇〇六年)は『一九三四年冬─乱歩』で初めて知った。文庫版が出た時に、書評か何かで知ったのが最初だと思う。だから、演出家として有名な方だが、私のなかでは小説家。その後に読んだ『聖なる春』『はやく昔になればいい』は、大好きな本だ。
 彼のエッセイ『ニホンゴキトク』(講談社文庫)を最近読んだ。失われてゆく言葉たち(すがれる、花柳病、時分、にび色)を静かに送る、昔は良かったと振り返るわけではない。幾分それも混じっているだろうけれど。寂しげだが、淡々と、遠巻きに供養をこめて眺めている。
 この本を読んで気付いたことがある。最近、BSなどの再放送で、時代劇をみることを好んでいる。真剣にではない、息抜きに、ひとりで食べる食事時に、BGMのようにみたり。「水戸黄門」「必殺仕事人」「伝七捕物帳」「江戸を斬る」「暴れん坊将軍」など。江戸時代は、もはや私にとって、非現実だからかもしれない。そう思っていた。そう、現代のドラマは、何となく疲れてしまう。見る気になれない。もともとテレビ自体、ほとんど見なかったということもあるだろう。現代のドラマは日常の延長だから、あえて見たくない…そう思っていたが、それだけではなかったのだ。
 今まで、時代劇も興味なかったのだが、なぜか、この頃、見るようになったのは、ひとつには、北斎や若冲、酒井抱一などの江戸期のすぐれた画家というか、絵師だろうか、そうした絵にふれて、江戸をもっと知りたくなったということもあったろう。それにもともと歴史は好きだった。子どものときは、歴史は文字通り、人の歴史で、真実の時を教えてくれるものと信じていた。偉人伝などが好きだった。その逆に、小説などの物語は、おとぎばなし、まやかしなのだとすら思っていた。
 今は、ほぼ逆だろう。物語、非現実にこそ、真実がある…。ほぼそう思っている。
 けれども、そんなかつて、歴史が好きだった頃に、また帰っているのではないか、そんな気もしていた。べつに時代劇は歴史ではないけれど。あえて言うなら、歴史的に一応実在の人物たちが出ていること、あるいは当時の風俗を再現したこと、そこに歴史を見ているのかもしれないし、絵空事的な一話完結の毎回のお話しに、物語を、つまり歴史と物語の折衷、合体の可能性を感じようとしているのかもしれない。日常と非日常の接点の可能性を、時代劇にみようと思っていたのではなかったか。
 いや、そこまでの意識があっただろうか。わからない。けれども、失われていた何かたちの匂いをかごうとして、ということもあったのではなかったか、『ニホンゴキトク』を読んで、そんなことを想った。
「《言葉》には匂いがある。温度がある。その組合せで、また新しくゆかしい匂いが生まれる。喋る言葉もそうだし、書く言葉だってそうだ。日本語の良さは、一つにそこにある」(『ニホンゴキトク』)。
 どこかで、書いたことがある。或いは、自分の中で、自明なことなので、今更なのだけれど、そうなのだ、わたしは、小学生ぐらいのときは、一人遊びが好きな歴史好きの少女だったのだ。あの頃、偉人伝ばかり読んでいた。物語は読まなかった。歴史は人々の生きた証、偉人伝は現実の話、対して小説は架空の想像の話、現実の本当の話ではないと思っていたから。わたしは歴史の中に、人々を、実は非現実を探していたのかもしれない。
 中学生の時、図書室で、いつもの偉人伝的なものとして、書名だけで寺山修司の『さかさま世界史偉人伝』『さかさま世界史怪物伝』(角川文庫)を借りた。コロンブスは他人の故郷を喪失させた人物、イソップは人生を軽蔑する嘘つき、サド、ネロ、ヴィヨン……。その文章、言葉たちは衝撃だった。わたしの中の歴史が壊れた。では本当とは何なのか。そこまで思ったかどうか。だが少なくとも、この二冊の本の言葉は確かだった。或いは今まで信じていたものが違うのなら、物語世界(空想世界)に何かがあるかもと感じたのかもしれない。特に衝撃をうけた言葉がある。わけもわからず、まるで詩のように。それはこんな言葉だ。
 「だが、わしは燃えさかる炎の上で、こうも叫ばなかっただろうか? 『罪によりわが身を貶めよ、肉を試み、堕落により汝の誇りを克服せよ』と」
 これは、ラスプーチンが焚き火を囲んで、娘たちと酒池肉林的な宴を催しているとの非難を受けての言葉だ。衝撃のなかで、わからないながら、ここまで深く降りてゆかなければならないのだと強く感じた。それは魔的な転換の言葉だった。現実から想像へ。
 今はまた、そんな少女と今の間を、行ったり来たりしているような気もする。気持ち的に。或いは現実と想像の間を、行ったり来たり。



 そうこうするうち、きょうは、わたしの誕生日。ヴィヴィアン・リーと同じ日に生まれた、ということが少しの自慢。映画も好きだった。『哀愁』(監督マーヴィン・ルロイ、出演ヴィヴィアン・リー、ロバート・テーラー、一九四〇年アメリカ)。かなしいメロドラマ。なのに、あんなに美しいのはなぜなのだろう。そして、あんなふうには絶対ならないと思った。境遇がではない。ヴィヴィアン・リー演じる主人公の踊り子は、第一次大戦中、病気の友人のために、夜の女になった(これも古いいいまわしだけれど)。戦後、再会した恋人に、その過去を恥じて……。いや、わたしは嘘をついてでも生きつづけるだろうと、中学生のときに泣きながら思った。あれもわたしの決意だった。なんの決意だったのか。そして、その決意は、いまはどうなっているのだろう?
 病気のせいなのかもしれない。ひとりでいる時間が多くなった。出かけるのがかなりおっくうで。だるさのなかで、どこか、昔のようだなと思う。一人で、結構満ち足りていた。といっても、孤独ではない。これも子どもの時にすきだった童話『はなのすきなうし』のひとりだ。ひとりで、花といることを好む牛。けれども、そこには、それを見守る愛情深い、なにかたちがある…。花だったり、母だったり。わたしのひとりは、あの牛のひとりだ。それがすべてでないとしりながら、いったりきたり。
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2016-10-25

はざまに海はあるのだろう─北斎漫画展(茅ヶ崎市美術館)

 何かないだろうか。カタログをめくるように。ウインドーショッピングをするみたいに。オークションサイトで展覧会のチケットを探していた。展覧会情報が掲載されたサイトもあるのだが、たとえばデパートでの展覧会などは、載っていないことがあるので、
それを補てんする意味もある。先月に行った「ガレとドーム」展は、実はそこで知り、券を入手した。ちなみに大きな展覧会などは、概して前売りと値段がほとんど変わらないことが多いので、券を購入することはほとんどない。
 何かないだろうか…。探すのは楽しいといえば楽しい。いいのがあると思って、券の詳細情報を開くと、関西だったり九州だったり。そんなことも含めて楽しい。けれどもやはり、思いがけず、ゆけそうな展覧会に出逢ったときのおどろき、嬉しさはひとしおだ。
 そんななかで、「北斎漫画展 画は伝神の具也」(茅ヶ崎市美術館、二〇一六年九月十一日─十一月六日)を知った。数カ月前に、太田記念美術館で似たような展覧会に行ったではないか…。そうも思ったけれど、気付いたら入札し、落札していた。茅ヶ崎市ということで、海が近くにあるのでは、そう思ってのことだった。たとえば横須賀美術館を思い浮かべる。海に面して…。
 電車でも行けるところにあるようだったが、車で連れてってもらった。土曜日。朝は仕事だが、次の日曜は休み。半ドン、休日前の一日に。
 茅ヶ崎ということで、昼ごはんに魚料理でも食べようと思ったが、いろいろあってあてがはずれた。候補をピックアップしたのだけれど、食べ放題だったり、見つからなかったり。そして、美術館にゆく前の道は、地図上では、海の近く、海に面した道はこれしかないのだが、防風林なのだろうか、木々にはばまれ、海がほとんど見えない。防風林がとぎれる、人が通るための小道のむこうに、ようやく海が見えるだけ。
 仕方なく、昼(海も)はあきらめ、美術館にまず向かうことにした。時間は午後二時ぐらいだったか。美術館のなかにカフェスペースがあった。かわいらしいランチがあったので、そこでまず腹ごしらえをすることにした。和食なのだけれど、きれいな擦りガラスの箱に入っている。テーブルにはガーベラと一緒にワレモコウの花。早朝バイトは基本、肉体労働なので、ランチのご飯はすこし少なかったけれど、悪くなかった。二階だったが、そこから見えるのは、海ではなかったが、茅ヶ崎市美術館の庭園。木々がみえる。紅葉の頃は、もっと鮮やかだろう。悪くなかった。
 お腹がひと段落したところで、展覧会へ。入口でチラシとリストを貰う。チラシやHPから。





 「「画狂人」と自称した江戸の浮世絵師・葛飾北斎(一七六〇─一八四九)の生涯はまさに創作の連続でした。狩野派や唐絵など伝統的な絵画様式を学ぶ一方、西洋絵画からも刺激を受けて自らの芸術の糧として吸収し、市販品である錦絵では役者絵、美人画を手がけ、花鳥画や「冨嶽三十六景」に代表される名所絵など新たなジャンルを開拓しました。また、一点物の肉筆画や、一部の好事家向けの摺物などにも優れた作品を残し、曲亭馬琴らの読み本の挿絵、数多くの門人のために描いた絵手本も充実しています。
 森羅万象を描いたと言われる北斎の画業の中でも「北斎漫画」の存在は特に際立っています。「北斎漫画」は一八一四(文化十一)年名古屋の版元永楽屋東四郎(東壁堂)から出版され、高い人気に支えられながら一八七八(明治十一)年までの長きにわたり全十五編が刊行されました。活き活きとした人物表現、ユーモアに満ちた内容、独自の視点に基づいた構図など「北斎漫画」の魅力は当時のヨーロッパにも伝わり、彼の地のジャポニスム・ブームの起因のひとつとなりました。
 本展では、世界一の質と量を誇ると評価される「北斎漫画」コレクター・浦上満氏のコレクションを収蔵する公益財団法人山形美術館から作品をお借りし、現代の絵画にも通じる「北斎漫画」の魅力を紹介いたします。あわせてジャポニスムの影響を受けたヨーロッパのガラス工芸品(ポーラ美術館所蔵)も展示し、北斎の画業を多角的に検証する機会といたします。」
 太田記念美術館「北斎漫画〜森羅万象のスケッチ」(二〇一六年七月一日─七月二十八日)のことを書いたときに、「北斎漫画」については簡単に触れているし、この紹介文でも書かれているので、多くは語らない。だが、今回、あらためて教えられたのだけれど、全十五編のうち、十三篇(嘉永二(一八四九)年)までが北斎存命中に刊行され、十四篇(刊行年不詳)は北斎の遺稿をかき集めての刊行、十五篇(明治十一(一八七八)年)では遺稿のほか、他書からの転載、さらに他の絵師が北斎風に描いたものなどが載っているのだとか。
 先を急ぎ過ぎたようだ。展覧会入口へ戻ろう。
 はいってすぐに、なんとなく心がさわぐのが感じられた。実は「北斎漫画」、好きなのだが、肉筆画や浮世絵に感じるような、衝撃的な出逢いはないだろうと思っている。それがわかっているから、今回も一瞬、来るのをためらったのが、それでも北斎作品に出逢えるのがやはりうれしい。
 それは画集や複製に感動的な出逢いを感じないことに少し似ているだろう。それを感じるのは、生の作品にだけ…。だから画集や複製などは、生の作品に出逢ったときの感動のよすがにするために手もとに置いている。頁をひらく。作品との邂逅の時間を想う。
 『北斎漫画』も、わたしのなかでは、どちらかというと、そんな画集的なニュアンスがあった。実際、絵手本、画集、スケッチ集、当時もそんな要素があったのだろう。
 だが、入ってすぐ、まず、古くなった紙の色合いに、時を隔ててあることに対する畏敬の念のようなものを感じた。それがここにあることを喜ぶ自分がいた。そうしてかつての絵本たちをこうして見れることを。『北斎漫画』は刊行順に展示されていた。初篇(文化十一(一八一四)年)から。よく判らないけれど、刷りの状態が、以前みたものたちよりも、総じていいような気がする。古びた紙のなかで、線がくっきりと目立つような気がした。
 ここに至るまでの年月を想いながら、当時をも感じること。北斎の描いたものたちが、静かに、おだやかに、そして真摯に、問いかけてくる、それがやさしかった。鳥、動物、植物、市井の人々、風景。
 なるほど、衝撃的な、ということではないけれど、満ちてゆくような、やさしいものを感じている自分がいた。会場が静かだったこともうれしかった。そういえば、このコレクションは、うちにある青幻舎から出ている『北斎漫画』(一〜三巻)の文庫本の底本も提供しているそうだ。うちには二巻と三巻しかないけれど。それでも、なぜか図録を買ってしまった。文庫よりもすこし大きなサイズで、余韻を楽しみたかったから。
 何点か、個々に気にいった作品があった。四篇(文化十三(一八一六)年)の「満月」、木の幹のあいだから大きな月がしずかに輝く。明るさがつたわってくるようだ。おだやかに夜を、けれども、くっきりと照らして。
 十三篇の「虎の水浴び」は、滝に身体を浸し、気持ちよさげにしている虎。ほとんど猫のような表情で、愛らしくさえある。ちなみに十四篇に「猫」として、鼠を加えている三毛猫の絵もあったが、こちらのほうが不気味で怖い。そして十三篇に戻って「走る虎」。この絵はわたしの好きな肉筆画の《雪中虎図》(一八四九年)に似ている。「走る虎」とあるけれど、風のなか、モミジたちが舞う秋の空を、飛ぶみたいだ。書かれた時期も《雪中虎図》と、おそらくそれほど隔たっていないだろう。けれども《雪中虎図》のほうが、もっと虎の肢体が全体的に上向きで、毛が柔らかい感じ、そして雪のなかを、夢見るように飛んでいるように見える。そして雪は降っているのだけれど、風はあまり感じられない。「走る虎」のほうは、走っているから風が感じられるのかもしれないが、まだ現実に近い気がする。現実に風をうけて走っている、あるいは浮かんでいる。現世に近いというべきか。《雪中虎図》のほうは、亡くなる三カ月前の作品だということがわかっているからか、どこか、もっとあの世的なものに近いような静けさがあるように感じてしまうのかもしれない。だが、どちらも飛ぶ虎だ。わたしのすきな北斎の虎だ。ここで「走る虎」に会えてよかったと思う。
 ほかにも鷹や波に会えたことがうれしかった。波が感じられたことが。二篇(文化十二(一八一五)年)の「夢を食う獏」のイノシシのような姿。この獏は、実際の獏ではなく、中国由来の空想上の動物。ただ、「悪い夢を食べてくれる」というのは、日本に伝わってからのことらしい。夢を食べてくれるからこそ、すこし勇ましい感じ。それは空想であると同時に現実味を帯びた姿としてそこにあった。
 空想や想像、そういえば虎も北斎はおそらくその姿を見たことがなかった筈。そんな連想は、あの場で感じたか、あとで思ったのか…、象の姿にも、結びついた。八篇(文化十四(一八一七)年)の「群盲象を撫でる」と、十三篇の「象の手入れ」。少し調べたが、実物を見たことはないようだ。けれども他の動物たちの描写、図などを参考に描いたであろう象は、皺がよったところといい、長く伸びた鼻といい、本物の象らしいところがあるが、大きすぎる体や蹄のある足などから、どちらかというと空想上の動物なのではと思わせるところと、混在している。けれども、その筆力のせいなのか、それでもやはりリアルなのだ。おそろしげであると同時に、どこか淋しいような表情とともに。とくに十三篇のほうの「象の手入れ」の象が、静かで哀しい。哀しいといってもそれは、殆ど気配にすぎないのだけれど。その気配が、やさしいのだった。
 空想や想像上といえば、十四篇「飛び上がらんとする獅子」も心に残った。狛犬のような獅子がやはり北斎の「走る虎」のように横向きで、今にも飛ぼうとしている。それはちょっと猫が獲物をねらう風でもある。飛ぶことと飛びあがろうとすること、空想と現実、それらの狭間にある獅子。
 こんな狭間に詩はあるのでは…。最近、参加した詩誌へのアンケート欄に、詩の原点について聞かれる項があった。この獅子や虎、獏を想起したりする。こんなふうに、なにかたちは狭間でつながっているのかもしれない。
 ふるびた茶色いシミもみられるいとしい和紙のぬくもりを感じながら、美術館を後にした。
 帰りは、また海を求めて。車で、しばらく家とは反対方向になる道を走ってもらったが、防風林ばかりで海は見えない。この緑の向こうに海はあるのだが。あきらめてUターンし、ほんとうに帰路へ。海は、さきほど、展覧会で、『北斎漫画』のなかで、見ることができたから、いいか。そう思う心が穏やかだった。
01:01:00 - umikyon - No comments

2016-10-10

川の水が滲みてゆきますように

 もうひとつ、展覧会に出かけていた。でも半月以上時間がたっていること、最近いったエッシャーやガレとドーム展よりも前に訪れたのだが、それらよりも印象がうすかったこともあり、なんだか、もう書く気がなくなってしまった。それでも行ってすぐだったら何か書けたような気がする。ほとんどがわたしの怠慢のせいだ。
 
 このごろ、うちの裏の道をとおって、早朝バイトから帰ってくる。そして特にうちの近くになると、その道と平行に走っている、もう一本、家からは離れた道を通るようにしている。どちらも細い道なのだが、その間に、小さな小川が流れていて、それをみるためだ。家の近くの道からは、段差があったり、小川と道の手前に家があったりで、見えないから。
 見えないのだが、うちのベランダ下の細い道の向こう、あの家の奥に小川がある、そう思うとなんだかうれしい。





 ベランダの真下には、道をはさんで、小さな公園が見える。この公園は数年前に出来た。コンクリートなどが敷き詰められており、すこし味気ないような気もするが、公園があるのはそれでもなんとなく楽しい。初夏には、見事な藤が咲く。もうそろそろ終わってしまうが、この季節だと公園が出来たときに植えられたであろう金木犀。あと何年かしたら、もうすこし大きくなるのだろう。そうしたら、もっと香りが楽しめるだろうか。
 公園には、人工の湧水池がある。もともと、本当に湧いていたらしい。今も地下水位があがると水がたまると説明がある。どうも先の小川とも関連があるらしい。小川もまた、よく涸れているのだけど、最近は雨がおおかったせいか、また川として流れている。この小川に水が流れていると、公園の泉も水がたまっていることが多い。どちらも地下水位と関係しているということなのか。
 その小川、春から夏のあいだは、みごとに涸れていた。いや、冬もそうだった。小川というより草のはえた道だった。わたしはすっかり、川だということを忘れていた。立て札などもあるのだが、もはや字が読めない。川の遺構だと思ってすらいた。かつて川だったもの…。
 公園の泉のほうは、ほぼ毎日のように様子を見ていた。今日もカラ、今日もカラ。けれども、この夏の終わりからの雨の多さのせいか、泉に水が湧きはじめた。水たまりと違って、単純に雨が池に降ったから、溜まったというのではなさそうなのだが、詳しくはわからない。けれどもともかく泉というか、池らしくなっている。
 小川との関連はそれでも経験的に知っていたので、泉の水があるのを見て、様子を見ることにした。うちの前の小道から一本だけ向こうの小さな道。小川は公園の中で暗渠になる。公園の下を流れている。だから公園から出ると、一瞬だけ復活する。コンクリートの溝のなかにそれでもきれいな水が見え、また地下に潜る。ただそのすぐ先に、一級河川(野川)がながれているので、おそらくそこに合流しているのだろう。
 早朝バイトからの帰り、毎日、小川の様子を見ていると書いた。わたしはほんとうに水が好きなんだなとしみじみ思う。小さい頃から、川や海が好きだった。
 この小川、清水川という名前がある。立て札からは名前がわからなかった。泉の由来の方に名前があった。ともかく名前を知って、うれしく思う。水は意外なほどきれいだ。湧水由来だからだろうか。



 隣町からながれているらしい。先日、この小川の名前のついた公園を隣町でみつけた。まるっきりの暗渠、緑道のような公園だった。けれど、この下に、家の近くの川とおなじ流れがあるんだろうなと感慨にふけった。そういえばわたしが生まれそだった家の近くにも川が流れていたが、今は暗渠になっている。そのことを思い出しもした。
 緑道は中州のようだった。いっそ、この暗渠をたどって、家に帰ろうかと思ったが、公園が尽きたあたりから、すぐに道が判らなくなり、断念した。二股に分かれた、どちらの道の下にも、川が流れているようで。
 かわりに、家の近くで、暗渠だったところから、小川が現れる場所だけは確かめた。噴水のように、四つ辻から、温泉か何かのように、突然、水がごぼごぼと噴き出して登場する。家の前の公園までの距離は二百メートルほどでしかない。今、地図で調べたけれど、川としての表示もない。ただうちの前の道と一本向こうの道のあいだには、家が立ち並んでいるだけ。



 こんなに澄んだ水が流れているというのに。白粉花がそろそろ花の時期を終えつつある、彼岸花ももう終わり。それらとともに流れる水、僥倖のように、まぼろしのように、けれどもたしかに流れる水があるというのに。
 わたしは、ほとんど夢みるように、誘われるように、毎朝、というより毎午前中、川を見ている。長い雨がすこしだけひと段落したからか、水量が幾分減っている。泉もまた、水位が低くなっている。また幻の川になってしまうのだろうか。おそらく、冬までには。だが、さっき眺めた地図によると、隣町の公園とうちの近く迄の間に、明らかに清水川だと思われる水の流れ、水色の小さな蛇のようなしるしがあった。さらに道を数本、遠い、思いがけない場所だった。というより、訪れたことのない…。どうしてこんなにわくわくするのだろう。近々行ってみようと思う。そう思うだけで、心がさわぐ。わたしのなかの水が、波紋を起こす、ゆらぎとなる。どうして、こんなに水が好きなのだろう。



 次の日、バイトの帰りに地図にあった川らしき場所を探した。その前に神社や古墳の跡を通った。神社の緑はどうしてこんなに静かなのだろう。通り過ぎただけだが、空気が違う。凛としている。古墳はこのあたりをおさめた豪族のものらしい。六世紀ぐらいだろうか。こちらも小高い小さな林といった趣きだが、別の神社と隣接しているからか、やはり空気が違う。最近は雨が多かった。雨がなくとも曇りばかりの天気だったが、この日は晴れている。けれども陽射しの勢いが真夏ほどではない。暑いが焼けつくようではない。そのことにほっとしつつも、淋しかった。こんなふうに秋はくるのだ。古墳のへりに生えていた彼岸花もその花を終えていた。
 さて、目当ての地図に載っていた川だが、こちらはコンクリートで三方を覆われた小さなものだった。そして意外だったが涸れていた。地図に載っている方が涸れているのが皮肉だと思う。もしかすると清水川ではないのかもしれない。涸れているから、そう思っただけではない。近くではあるのだが、道を数本隔てているので、暗渠でつながっているとはどうも思えなかったのだ。このあたりはいろいろな小さな流れ、用水路などがあったらしいから、別の流れなのかもしれない。たとえば、この近くの次大夫堀公園の堀などもそうだ。こちらは流れを復元して、公園内を流れている。
 涸れた川を確かめてのち、またいつもの清水川へ。今日もまだ水があった。立て札に何て書いてあるのか、知りたいと思ったが、消えてしまっていて、やはりわからない。また少し水位が下がっている気がする。泉もそうだった。
 それを残念に思いながら、それでも流れる水、そこにある水を見つめている自分が、どこか旅先にいるような心持になっているのが妙だった。妙であると同時にしっくりした。愛しむような気持ちは、水に対してだったが、その愛しさが湧きあがってくるその心持が、旅先でのようだということか。こうした心持が、日常的な行動のなかにあるのが妙だと思ったのかもしれない。バイトの帰りに。その妙さを、さして驚きもしなかった。それも妙だったが。おおむね静かで。明日もたぶん、神社の森を見て、清水川の流れを確かめるのだろう。日常と非日常のあいだを流れる…といったら、あたりまえすぎるだろうか。

 これを書くために、泉の脇に置かれた説明文を読んだ。〈この場所は府中崖線の崖下にあたり、湧水がしみ出る場所でした。近年の都市化に伴い、水量は少なくなってきましたが、今でも地下水位が高くなると湧水を見ることができます。この公園の湧水地は地域に利用されていた記憶を再現し、地域の特徴を伝えるため湧水地として整備しました〉。
 ごめんなさい、あまり詳しく書きたくないので、引用はこのあたりにする。ただこの川の水源地のことが載っていたので、そのことを書きたかったのだ。やはり隣町、この川の名前のついた公園があるといったが、その隣町のお寺にある池だそうだ。このお寺の池、最近川と関係なく見にいっていた。あの池が…と少し驚く。水が水を呼ぶのだろうか。やはり旅先のような気持ちと、お寺に隣接した場所だからか、囲む木々に森閑としたものを感じながら。そのときの想いが、あの川や古墳を前にした思いたちと重なる。こうして場所たちもわたしのなかで重なってゆくのだろう。水がしみてゆくように。


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2016-09-25

変化と相対とが連なって。書(描)いたことがうつつです。(「エッシャー展 視覚の魔術師」そごう美術館)



 そうして、ほかの展覧会のほうへ。「ガレとドーム展」(横浜高島屋、九月十四日─二十六日)を観にいったとき、横浜駅でポスターを見つけた。「エッシャー展 視覚の魔術師」(そごう美術館、九月十一日─十月十日)。ポスターを前にしたときの驚きには、いろんな思いが付随していた。わたしはエッシャーがかなり好きなのだが、まさかここで、今、やっているとは、それにちょうど横浜そごうで何の展覧会をやっているのか気にかけていたところだった、そしたら、こんな……僥倖という言葉すら、頭をよぎる。けれどもガレみたいに、今のわたしが見ると、もはや違った眼でみることになりはしないだろうか、かつては好きで接していたが、今は、のような。どうしようか。けれどもおなじ駅、横浜にいる。これは梯子するべきだろう、時間だって十分ある、ここで会ったが百年目、先ほど、やはり、エッシャーを見つけたことに、喜びの念を抱いたではなかったか。けれどもこれから行く「ガレとドーム展」を、おざなりにしないように、しなくては、などなど。そうなのだ、色々思ったが、今から思えば、結局なんだかんだいって、わくわくしていた。
 そして、「ガレとドーム展」のあと、高島屋のある西口から東口のそごうのある方へ。海のみえる屋上がある、あのデパートに、最初から行こうと思っていたのだ、それどころじゃない、こんな贈り物のような後押しがあるなんて。東口へ向かう足取りは軽かった。



 〈 一枚の絵の中に閉じ込められた小宇宙。そこには現実が超現実へと変わる不思議な世界が描かれています。
 オランダの版画家マウリッツ・コルネリス・エッシャー(一八九八─一九七二)は、建築家になることを夢見て、ハールレムの建築装飾美術学校で学んでいましたが、そこでグラフィックアートの才能を見出され、木版・石版などの版画の技法を習得しました。その後、イタリアやスペインの旅先で出会った風景に触発されて、独特の幾何学模様、建築物を用いただまし絵など、空間・時間・距離を凝縮した平面における三次元の世界を版画に表現するようになります。その高度な画面構成に注目。次いで若者たちやミュージシャンなどと中心に人気が高まり。“視覚の魔術師”とよばれるようになりました。
 生涯孤独を愛し、黙々と己の宇宙を版画に刻んだエッシャー。まだ、コンピュータもない時代、頭の中の精緻な設計図を写しだす版画技法は今でも驚くばかりです。
 本展では、ハウステンボス美術館所蔵のエッシャーコレクションから選りすぐった約百点の作品をご紹介します。風景をモチーフにした初期の作品からエッシャーが独自の世界に突き進んだ晩年の作品までを展示し、彼自身と作品の変貌を追いかけます。
 さらに、不可思議な立体やだまし絵、音と映像による不思議体験ができるコーナーなど、皆様をミステリアスな世界へ誘います。〉(チラシなどから)



 わたしが初めてエッシャーに触れたのは、それほど古くはない。二〇〇九年のことだ。七年前。たぶん北斎もそんなものだ。もっとずいぶんと前から好きだったような気がする。
 展覧会会場に入る。作品はほぼ年代順に並んでいるようだ。初期の、イタリアやスペインの風景。建物を緻密に描いた版画、浮世絵的な奥行きをこらした風景は、立体的にみせる試行錯誤が感じられ、後年のエッシャーを彷彿とさせる。何か、立体的なのだ。三次元を二次元に。いや、紙という平面に立体を。それは自分がみた現実を紙の上に克明にこぼそうとしている、意志の決意にも思えた。紙のうえで、現実とそれを描く人の何かが重なる、出逢う。三次元と立体が出逢うということはそういうことでしかないのだろう。現実と幻想が出逢うということ、体験と想像が出逢うということ。
 まだ、のちの彼の手法でよく駆使されるようになる平面の正則分割(ひとつの図形を反転、回転させ、隙間なく並べる手法)は使われていない。だまし絵的な要素もない。けれども萌芽を感じて、うれしくなる。のちの作品を想起しながら、期待と、そして久しぶりにであった懐かしさで、心がざわめく。
 風景たち、挿絵などのなかで、《静物と街路》(一九三七年、板目木版)が特にもはやエッシャー的な作品だった。もっと後期のものかと思っていたほどだ。窓からみた街の風景なのだが、窓際の机と街路が隔たりなく連なっている。書物やトランプ、パイプがある机が、道を歩く人々と切れ目なく続いている。ここに居ながらにして、机に座ったままで、現実と繋がるのだろうか。そうだといい。書くことで、おそらく、机に居ても、現実と接することができるのだ、エッシャーを観るわたしは、そんなことを、彼から受け取っているのだろう。だから、彼を好きだったのだ……、いや、今も。忘れていたけれど、彼のそんなところが私を後押ししてくれるようで、好ましく思っていたのだ。
 そして、次の展示は、いよいよ「繰り返し模様と正則分割」。同じ形のそれが下のほうでは魚、そして上にゆくにつれ、徐々に鳥になってゆく。色も黒から白へ。下半分では周りの海は黒いが、そこを泳ぐ魚は白だ、それが上半分では、空が白、鳥が黒、《空と水 I》(一九三八年、板目木版)。
 久しぶりに見て、なつかしくなった。そしてお目当ての《昼と夜》(一九三八年、板目木版)。下の田んぼが上にゆくにつれ、少しずつ形を変えて、空をとぶ鳥になってゆく。また画面左は昼で、空とぶ鳥は黒いが、それもだんだん変化し、画面右では、空は夜で、鳥は白。
 わたしはこの絵が大好きだった。昼と夜、天と地が、つながっている。鳥が大地と親しい。ひとつになれない彼らがここでは可能性をひめて、期待をこめて接し合っている。またこの絵に会えてうれしかった。それはほかの絵もそうだが、かつての私との再会でもあった。この絵を見れて、まだ今も好きだと思える自分がうれしかった。
 好きだった、今も好きと言える作品たちの展示が続く。《爬虫類》(一九四三年、リトグラフ)。スケッチブックに描かれた正則分割のトカゲが、右から紙の世界を抜け出し、本の上に乗り、三角定規の上、多面体の上などを歩いてゆく。そして左でまた紙に戻る。永久に繰り返される、その行為を一枚におさめたもの。平面から立体へ。紙に書(描)いたことが現実に。これは書(描)く行為にたずさわるものの夢の世界だと思う。
 そして「独自の世界 無限への挑戦」。滝をたどってゆくと、下にあった水が上になってゆく《滝》や、内側にたてかけられた梯子を登ったら外側にいたという《ベルベデーレ(物見の塔)》や、球面と四面体を組み合わせ、地球を現した《四面体の小惑星》、正多面体のまわりに自然の石ころを散りばめた《秩序と混沌II》など、多様な作品たちが並ぶ。《水たまり》(一九五二年、板目木版)も特に好きな作品だ。わだちのある水たまり。まるでそこに月が出ているように見える。殆ど同じ理由で《三つの世界》(一九五五年、リトグラフ)も。池だろうか、水面が描かれている。水の下には魚、水には落葉、そして木々が映っている。空と地と水たちが出逢っている。ここでもまた、別の方法で、エッシャーは連なりへの夢を語っている、そのことがしみるのだった。
 そのほか、オランダのハーグ中央郵便局の壁画になっているという《メタモルフォーゼII》(一九四〇年、板目木版)。多分、この絵は、今回観るのが初めて。長細く(一九二×三八九五ミリ)、左端がメタモルフォーゼ(METAMORPHOSE)という文字から始まり、黒白の四角の格子模様になり、爬虫類、ミツバチ、鳥、建物、チェスの盤になり、格子模様になり、最後にまた文字になる…。壮大な集大成だと思う。この絵の近くで、この絵のビデオ上映があった。バッハの曲がBGMで流れている。左端から右端へ視線を移してゆく、その行為を映像におさめているのだが、なんだかまるで時間とともに変化してゆくようで面白い。バッハの音楽とエッシャーの絵は共通項が多いと、会場内のキャプションで説明があった。あとで家に帰って調べたら、『ゲーデル、エッシャー、バッハ─あるいは不思議の環』(ダグラス・ホフスタッター著)という本があるそうだ。「不思議の環」とは、ある段階から移動することによって出発点に帰ってゆくこと。バッハには『無限に上昇するカノン』という曲がある。わたしはそのあたりはうといのだけれど、バッハは好きでよく聞いているので、わからないながら、うれしかった。そしてたしかに蜂が鳥にかわってゆく、建物にかわってゆく映像に、バッハの曲はよく似合っていた。
 そして、多分前回も観たのだけれど、そのときはそれほど印象に残らなかったもので、今回新しく響いたものとして、《もう一つの世界》(一九四七年、木口木版・板目木版)がある。窓のある壁でできた立方体の六面を覗くように見る感じ。窓には上面、壁面、床面にそれぞれ一羽の鳥が窓のむこうを見ている。上の鳥は、窓の外の下面を見下ろしている。月のクレーターのようなもの。真ん中の鳥は窓を背にしてこちらを見ている。窓の外はクレーターと空。下面の鳥も、窓を背にして、今度は上面を向いている。窓の外は星雲のある空ばかり。書いただけだと、わかりにくいかもしれないが、床が宇宙であり、天井が地面であり、鳥が眺めているのが中であったり、いや、鳥にとって、見ている私こそが、風景であったり…、つまり相対的ということが描かれて在ることに、感じることがあったのだ。それもまた、つながっているという、エッシャー的な探求として、環を、連環を感じて、その奥行きを想った。
 最後は「エッシャーの世界を体感しよう」ということで、不可能立体模型の展示があった。片目を閉じたり、スマホのカメラでみたり、撮影したりすると、無限に続く階段や、ボールを坂から転がしたのに、坂を登ってゆくように見えるものなど、楽しい展示が続いた。写真撮影OKということで、にぎわっている。



 そういえば、この展覧会、人ごみはどうだったろう。結構混んでいた気がするが、ほとんど気にならなかったと思う。おぼえていないのだからそうだったのだろう。直前にいった「ガレとドーム展」のほうは気になったが。人たちのせいというより、わたしのせいなのだ。気にする、気になるよりも、エッシャーとの再会を喜ぶことのほうが大きかった。先にも書いたが、それはかつての私との再会の喜びでもあったのだけれど。
 名残惜しかったが会場を出てミュージアムショップへ。図録を買おうと思ったが、元々ハウステンボス美術館で一九九四年に出したもので、多分持っているものだった。表紙の絵だけが違っているようだ。そういえば昔、ガチャガチャで、エッシャーの鳥や魚のオブジェを集めたことがあったなと思い出す。今も机からすぐ見えるところにぶらさがっている。だから、ここでは買いたいものがなかった。というより、買いたいと思うものは、すでに家にもうあるのだ。
 そうして、そごうだ、当初からの目的であった、海を見るために屋上に向かう。雨が強くなっていた。おまけにもう夜だ。日が暮れるのが早くなった。海と夜景が見えるだろう…。だが、残念。海がみえる場所は、期間限定でビアガーデンか何かになっていて、そこに客として行かないと見えないようになっていた。正確な日付は忘れたが、あと半月ほど。そしてその後、晩春か夏にかけて、また海が見えるようになるのだろう。残念だったが、まだエッシャーと出逢えた喜びにひたっていたから、それほどではなかった。エッシャーの水(《三つの世界》《水たまり》)を見たから、いいではないか…。帰りの電車で、また、鶴見川と多摩川を通る。街の灯の反映が、雨のなかで、うっすらとわかった。車窓から見えるそれは、夜のなかで海のようだ、雨粒が窓を横なぐりに流れてゆく。車窓の向こうからこちらを見ると、どんな世界がひろがっているのだろう。
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2016-09-20

植物や、風景が、飛んでくる、虫の言葉よ──ガレとドーム展、横浜高島屋

 九月の三連休、バイトはしていたけれど、あいまをぬって、三つほど、美術館に出かけてきた。
 順番どおりではなく、会期終了間近のものから、先に触れておく。
 月曜日の敬老の日。早朝バイトが終わった後、天気だったらまた別のバイトに行かないといけなかったのだが、運がいいのか、悪いのか、雨だったので、横浜にゆくことにした。以前、ネットで偶然見つけてチケットを入手した展覧会をみに。「ガレとドーム展」(九月十四日─二十六日、横浜高島屋ギャラリー)。
 横浜のデパートでの展覧会といえば、そごうは何回か行っているが、高島屋は珍しい。というか、高島屋なら、いつもは日本橋に行くからなのだけれど。ちなみにこの展覧会は高島屋での巡回展で、最初は日本橋店でだった(八月三十一日─九月十二日)。展覧会のことを知ったのが九月に入ってからだったので、日本橋はやめて、次の巡回地、横浜に照準を合わせた。ちなみにその後の巡回地は京都(二〇一七年一月六日─十六日)。
 うちから横浜は意外なほど近い。意外に思うのは、すこし違うのかもしれないが、子どもの頃から、横浜は港町として、わたしにどこか憧れを抱かせる町だった。そしてそれはどこか遠い。実際、割と遠かった。たぶんその記憶が残っていて、それで今の近さに違和を感じるのかもしれない。それはやさしい違和なのだが。横浜は、もう、こんなに近くなったのだよという、手招き。
 ところで、エミール・ガレ。このあいだ、サントリー美術館で「オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ展」(二〇一六年六月二九日─八月二八日)を見たときに、もうガレはいいと思ったのではなかったか…。たしかにそうだ。なのに、なぜチケットを手にいれたのだろう。そして展覧会に行く気になったのだろう。自分でもよくわからない。けれども小さな理由たちが重なっているのはわかる。次の開催地が横浜だということ。チケットが驚くほど安価で手に入ったこと。ガレには食傷気味だと思ったかもしれないが、ドーム兄弟には、まだそこまで感じていないということ。そしてともかく展覧会にいって、うつくしいものに触れたかったということ。
 これらの小さなささやきが、後押しして、でかけるようにしむけたのだ。外は台風の影響によるのか、長雨のせいなのか、雨。家からバスで二子玉川にゆけば、乗換はあるのだが、同じ東急線なので、感覚的にはほぼ一本で行ける。多摩川を渡り、鶴見川を渡って。海のほうへ。横浜はわたしにとって、いつも港町だ。海もまた、なのか、海があるからなのか、ともかく海にひかれるのも、子どもの頃からだ。横浜そごうの屋上からは海がみえるのになあと思う。高島屋はそごうとは駅をはさんで反対側にあるから、見えないだろう。あとで横浜そごうにでもいってみるか…。
 ちなみに二子玉川駅から電車に乗るのは、ほぼこうしたこと、非日常でしかない。だからだろうか、なんだか雨の日なのに、すこしだけやさしい気にひたされる。これもまた展覧会にゆきたくなった理由のひとつかもしれない。非日常をかんじること。
 さて、駅についた。高島屋に向かう途中、そういえば横浜そごうでは、いま何の展覧会をやっているのだろう? と何となく思って、あとで、わかるかしらん、わからなかったら調べようかと思っていた矢先、横浜そごうで現在開催されているという展覧会のポスターを見つけた。びっくりした。時刻は午後二時半だったか。もう、申し訳ないけれど、「ガレとドーム展」は、二の次になってしまった。ぱっとみて、次にこの展覧会に行こうと、早速決める。ふだん、あまり美術館のはしごはしないのだけれど(ひとつの展覧会だけをかみしめたいので)、同じ駅にいるのだし、これはなにかの符牒なのかもしれないとも、勝手に思った。二時半。一時間ぐらい最初の展覧会で過ごして、三時半。十分行ける。
 実はそちらを先に書きたいのだが、先にもふれたように、会期終了が近いということがあるので、やはり「ガレとドーム展」を。
 月曜だったが、祝日ということで、おそらくそれなりに混んでいたのだろう。だが、それほど混雑は気にならない。美術館の特設会場というのは、どこか祭り的なところがある。特設、特別に設置された場所だからだろうか。そのお祭り的な雰囲気のおかげで、観る人々のおしゃべりなども、いつもよりも気にならなかったのかもしれない。それは彼らが静かだったからではない。実際、かかってきた携帯電話で、大声で話し始めた迷惑な御婦人などがいたが、こうして殆ど無理に思い出さないと出てこないほど、印象に残っていないから。




 さて、展覧会の概要をインターネットやチラシなどから。
 「十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に花開いた装飾スタイル、アール・ヌーヴォー。その巨匠の一人として讃えられる人物こそ、ヨーロッパ近代工芸史に革命をもたらしたガラス工芸家エミール・ガレその人でした。一八四六年にフランス東部の自然豊かな古都ナンシーに生まれたガレは、幼い頃より植物や文学に親しみ、彼の芸術の豊かな素養を育みました。若くして体験したパリ万博では異文化に触れ、とりわけ、「ジャポニスム」に強く影響を受け、日本に憧れを抱き続けたと伝えられています。のちに、フランスを代表する工芸家として世界的な名声を博し、一九〇四年に五十八歳でその生涯を閉じた後もその作品は世界中で愛され続けたのでした。
そして、数々の優れたガラス工芸家たちの中でも、ガレ様式を受け継いだ存在がドーム兄弟でした。彼らの作品はガレの模倣にとどまらず、独自の世界観と造形表現を追求した稀有なものでした。本展では、日本に集うガレとドームの数ある作品から、エミール・ガレ生誕一七〇周年を彩るに相応しい貴重な名品の数々を、未公開作品を交え、総点数約一〇〇点で展観いたします。」

 ところで、展覧会のチラシ。入口で一枚しかもらえなかった。次回開催の展覧会のチラシは、高島屋の店内でみかけたのだが。別に一枚あれば十分なのだが、たとえば誰かにあとであげたりとか、数枚は欲しい。もっともチラシは基本、次回開催のお知らせなのだから、しかたないといえばしかたないが、少しさびしい。ちなみに、他の階の画廊で、「アール・ヌーボー、アール・デコ ガラス作品展」というのをやっていて、そこで何点かガレとドームの作品が販売されており、あとでのぞきにゆき、葉書をもらった。そして次にいった横浜そごうで、最終日ということで、まもなく閉まる、あわただしいなかで「ガレ、ドーム&ヨーロッパコレクション」、こちらではきれいなリーフレットを頂いた。どちらの画廊でも、展示作品に値段がついている。数十万から何百万。手が出ないが、こうして紙媒体で何かを連れて帰るのは、おみやげ、記念のようで、ゆかしいものだ。そして最終日、ぎりぎり間に合ってよかったと思う。もっともこうした画廊の作品展は、販売目的なので、あまり純粋に鑑賞できないのが、難点なのだけれど。鑑賞しようと作品を眺めていると、係の人が寄ってきそうで。
 さっきから、とうの展覧会へ、なかなか話題をもってゆかないでいる。前回、サントリー美術館で観たときよりも、印象は悪くなかったのだが、やはり、もう彼らを見る眼がどうも、今のわたしは、何かが離れている。おそらく、かつてのわたしは、彼らの自然を見る眼に共感していたのだと思う。彼らのガラスの器のなかで花が咲く。虫が飛び、木々がふるえる。その彼らの刹那と永遠の出逢いの行為に、魅了されていたのだと思う。
 今は、自分なりに自然というか、植物や、景色たちに会うことにどちらかというと、比重が傾いているので、もはや作品たちと距離をとってしまっているのかもしれない。そう、彼らのせいでは決してないのだ。こちらの心の持ちようなのだ。
 ということを、ドームの方の展示で気付いた。「オランダ雪景色」で花器や蓋物、ランプなどのシリーズがあった(一八九五年─一八九九年頃)。この小さなガラスに閉じ込められた景色たちに、かつては惹かれたものだったなと、過去を想った。なら、どうして今はあまり…とも。わたしは、おそらく彼らとべつの風景をどこかに見ているのだ。けれども、特にランプの中、ガラスに描かれた風景たちには、少し心が残った。作品のなかに世界が閉じ込められている…。それはランプという性質上、とくにぬくもり、あかるい光が感じられる。当時は電球が普及しだしたということもあり、新しさと古さの出逢いでもあったろう。自然と文明の対立と、自然へむけはじめた眼…。それは自然が破壊されつつあり、あやうくなってゆく時期とも重なるけれど。
 そのほか、ガレの《鯉文花器》(一八九五年頃)、《海の神々文花器》(一八九四年頃)。どちらも透明感あるガラスが、青くなっていて、水を想わせる。ガラスに閉じ込めた水が、花器となって、さらに水を入れ、水と親しくなる、呼び合って。





 横浜そごうのミュージアムショップで一冊の本を買った。「入江泰吉 万葉花さんぽ」(入江泰吉/写真、中西進/文、小学館文庫)。わたしが日ごろ出逢っている花たちがそこにいるかもしれない。或いは知らない花たちを教えてくれるかも。彼らと花を通して、出逢えるかも、そう思ってのことだった。早速、帰りの電車の中で開いたら、「はじめに」のところで、「万葉びとは自然のありさまと人間の心とを、区別しなかったのである。/ 現代人は自然と人間を別々のものと見るから『万葉集』がわかりにくいが…」とあった。ちょうど、このごろ、なんとなく考えていた自然とのありかたのことを、切りこまれたようで、すこし驚いた。こんなふうに、いろんなことたちが、時宜を得て語りかけてくれる、そう思うことが、すこしうれしい。
 この時期だと、彼岸花が花芽をだし、早いところではもう咲いている。そして十月ぐらいのイメージがあるホトトギスの開花(ぬくぬくの毛皮のような花びら)、そして色づきはじめたムラサキシキブ。たぶん、エミール・ガレもかつて、わたしに植物のことを教えてくれた人だったのだなと、頁をめくりながら、どこかで思った。六時半過ぎ、あたりはとうに真っ暗。日が暮れるのがずいぶん早くなった。もう車窓から花たちは見えない。夏だと思っていたのに、けっこう冷たい雨が降っている、さきほどより雨脚が強くなった。バスが家の近くの停留所に着いたのはわたしにしては、遅い時間の八時近かった。バイトのあとで美術館をかけもちしたから、結構疲れていたが、悪くない疲れだった。百日紅が、夏から秋をまたにかけて咲いている。もはや蝉の声はあまり聞こえなくなってきた、そのかわり、秋の虫たちがすだく音。今日は雨で、聞こえないけれど。けれども、ここで、なぜかガレのバッタを思い出したり(《飛蝗文双耳花器》(一八七〇─一八八〇年代))。どこか日本の磁器を想起させるガラスの器に、大きな茶色のバッタ。別に秋の虫では、秋に鳴く虫のなかには含まれないのかもしれないが。雨脚が強くなった。
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2016-09-05

夏が終わった。思い出が本物と交わるだろうか。

 夏が終わったのだろう。わたしの夏は立秋ではなく、八月三十一日に終わる。遠い日の思い出、夏休みの終わりの時だ。
 早朝バイト、実は支店内で移動があった。今勤務しているのは駅の近く。広場があり、そこではおそらく六時半ぐらいからラジオ体操をしている。おそらくというのは、その時間は構内で作業しているので、わからないのだ。荷物の積み下ろしでドアを開ける七時近くに、ラジオ体操の音が聞こえる。私自身は、ラジオ体操、あまり熱心な子どもではなかった。学校以外で集まってなにかをするのがいやだった。学校が休みでほっとしているところに、どうしてそんなことをしに行かなければならないのか。たぶん、今から思うとそんなことを考えていた。言葉にはせず、あるいはできずに、もやもやとしたかたまりとして。それだけではなかったかもしれない。今のわたしはほぼ皆勤賞もので、早起きして仕事にいっているが、当時は遅刻が多い、朝が苦手な寝坊の子どもだった。低血圧や体が弱いせいかと思ってもいた。理由たちが今思っても錯綜している。からみあって、わからない。さらにそれだけではなかった、学校に行きたくなかったのだ。今だって仕事に行きたいわけではないけれど、それなりに責任感なんかも出てきたから、仕方なく行っている。学校に行くときは、責任感はあまりない。困るのは結局自分だから。
 いや、何を書いているのだろう。ともかく今年の夏の終わりは、なぜか、こんなふうに過去の事をちょっとずつ思い出してしまう。人とあまり会わなくなったからかもしれない。

 思い出について、少し考えてみる。思い出というと、なんとなく昔のことのような気がする。そう、昔のことをよく思い出すと書いたが、すこし違う。昔のことが、遠くなっている。その遠さごしにかつての自分を、どこか他人ごとのようにながめている自分に、しずかな驚きを感じている…。ほんとうに、あれがわたしだったのか。つながりがないようで、でも、まぎれもなく、わたしなのだけれど。あの学校嫌いの子どもを、他人のように分析する。けれども、彼女のいきいきとした想いは、もはや伝わらない。
 けれども、また、思い出のなかで、生きているような気もする。ずっと、それは悪いことのような気がしていた。だが、それなりにながく生きてくれば過去もふえる。過去たちがたくさん、積み重なって、今の自分があるのだから、思い出だって増えて当然だ。それらに生かされているという部分もある。たとえば、学校嫌いでいえば、他人が苦手だった、集団が苦手だった、だからこそ、こうして一人で物を書くようになった、という面があるのだから。
 ふりかえって、昔はよかった、という意味で美化しているわけではなければ、思い出を肯定して、もっと、いいのだと思うようになってきている。
 そういえば、具体的に、夏の思い出をあげてみよ、ともし、きかれたとしたら、たくさんありすぎて、どれをあげたらいいか。というか、小さな思い出たちがたくさんで、あるいは、ラジオ体操のように今現在行われていることでの触発がないと、なかなか出てこないという面もある。思い出と今は、そんなふうにも繋がっている。夕方になると、あるいは朝方、バイトに向かう途中、緑が多いところをぬけると、まだヒグラシが鳴いている。あれはどうして哀しいのだろう。死んだ男の魂を哀しんでいるから。と、思ってしまう。昔の男、亡くなってしまった男が、ヒグラシの声が好きだった。そのことを思い出して、哀しげな声だと、感じてしまうのかもしれない。けれどもその思い出と、哀しいと思う自分が混ざりすぎて、もはやだれが哀しいのか、なにが哀しいのかわからない。カナカナカナカナ…。風のうわさで彼が亡くなったと聞いたのは、いつだったか。



 けれども、夏の思い出といって、必ずと言っていいほど、真っ先に浮かんでくるものもある。たぶん二十歳ぐらい。それなりに木々が植わっている、道に面した長細い公園。夜中だった、すこし酔っていたわたしは、何気に公園のベンチに寝っ転がってみた。木々に包まれるようで、心地よい。木洩れ日はなかったけれど、星たちが木々の間から降ってくるような、やさしい夜だった。昼の暑さが引いて、すこしだけひんやりとすらして、気持ちの良い夜だった。ベンチの上が、あまりに心地よかったから、調子にのって、道のほうへ向かい、今度は道路に大の字に寝てみた。さきほどから車もほとんど通っていないことは、一応確認していた。すこしの冒険、という意識があり、わくわくしていたのも覚えている。寝っ転がった背中に、アスファルトがじんわりと熱をおびているのが感じられた。昼の暑さを温存している。それはひと肌のようだった。そのことにいたく感動した。道路にやさしさをもらったような気がした。けれども、その感動だけが、もう遠い記憶となってしまい、何に感動したのか、もう覚えていない。
 実際、アスファルトを感じたのは数分だと思う。車にひかれちゃうよなと、なかば笑うような気持ちで、すぐさま、起き上った記憶はある。
 今はもうアスファルトに寝転ぶことは色々、差しさわりを考えてしない。それはもちろん正しいことというか、当たり前なのだけれど、どこか、それをしない自分が淋しくもある。
 何への感動だったかは覚えていないが、あの温かい、アスファルトの記憶があるからこそ、いまも、ものたちへ、どこか、ひと肌を感じることがあるのかもしれないとも思う。
 たとえば、わたしの愛用の腕時計。二十四歳位のとき、ボーナスで買った。その頃につきあっていた、尊敬する、師匠とでもいうべき人が「本物と接しなさい」といったことがあった。わたしはその言葉の意味がよくわからなかった。わからないまま、みようみまねで実践した。時計はその一部だ。今ならなんとなくわかる。たとえば、本物の放つオーラというものがある。それを感じるようになるには、本物に接することが必要だとか、そういったことだ。べつに高い本物を買えという意味ではない。本物に触れ、そうして、なにかを研ぎ澄ますこと。これもその言葉となるべく接してこようと勤めてきた、思い出とともにあった、からといえるのかもしれない。
 ともかく、わけもわからないまま、本物だろうと買った腕時計。それまで安いものを買っては買い替えるということを繰り返していたので、そろそろ、そのサイクルを断ち切りたかったというのもあった。だが、本物とかそういうことから、もはや飛びだして、わたしの一番のお気に入りになった。今もしている。修理を何回かして。だいぶ疲れてきたのだけれど。
 先日、ひさしぶりに都会にでかけた。時計売り場があるところ、たまたま通ったので覗いてみた。日常、仕事の時などにする腕時計が欲しいと思ったから。だが駄目だった。今している腕時計が好きすぎて、どれも、いいとは思えない。その時計を休ませるためのものが欲しいと思ってのことなのに選ぶことができなかった。やっぱり、この子がいい、この子以外の子は考えられない。どんだけ好きなんだと苦笑してしまう。それならベルトがそろそろ疲れてきたからそれだけ、買い買えるほうがいいか。
 そう、腕時計を殆ど擬人化して、大事に思っている。あれは、あのアスファルトにひと肌を感じた記憶と重なっているのではないかと、ふと思う。それはぬくもりだった。腕にからみつく、やさしい安心感。おそらく、もっとふるくは、ぬいぐるみや人形にそれを感じたことが最初かもしれないけれど。
 過去たちが集まって、それでも、私の一部になっている。ラジオ体操はもはや聞こえない。秋の夜の虫たちのすだく音が、さびしいぐらいににぎやかになってきた。

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