Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-08-15

ともる小さな旅─キツネノカミソリ、三溪園

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 金曜日の朝、バイトの帰りに小さな渓谷に寄った。まもなく橋や道の補修工事が始まるので、奥まではゆけなくなる。小さな渓谷と勝手に呼んでいるが、成城三丁目緑地という。湧き水が流れる、国分寺崖線に残った小さな緑。竹林もあり、クヌギやコナラも生えているから、カブトムシやクワガタもくる。もうあの花は時期を過ぎてしまったかしら。たしか七月だったような…。実は、その花を求めて、このところ、思い出したときに、数回、といった程度で、何回か訪れていた。あまり期待はしなかった。それよりも、もうまもなくこの小径をしばらくこれなくなるのだなと、そのことを気にかけて歩いていた。そしたら、林のなかで、二本だけだが、咲いているのを見つけた。ぽうっと火の色で、ともるような小さな花、キツネノカミソリ。ヒガンバナ科なので、花が咲く頃には葉がない。一説には細い葉が狐のつかうカミソリみたいだからこの名がついたらしい。ヒガンバナ科だけれど、ヒガンバナよりも花の色が薄いし、ヒガンバナの豪勢さが少ない。もっとひっそりと咲いているイメージがある。それは林のなかで咲いているからだろうか。ここでは二本だけだったが、昔、やはり林の中で見たときは群生だった。あれは高校生の夏休み。川の近くの小さな林の中で見つけた。川は当時、汚臭を放っていたし、林のすぐ裏は、工場だった。そんな場所で、林の中だけは、美しかったのが不思議だった。そのときから、ヒガンバナのような、華やかさがなかった。華やかだけれど、色のせいか、どこか魔を感じる、あの派手さが。けれども、狐という名前がつくからか、どこかやはり、小さな魔を感じる、優しさがあった。そう、わたしはこの花が好きなのだ。ということを、夏になると思い出す。
 そんな花に、ことしも出会えた。よかった。記憶と違って、8月に咲く花だったのか。ここには、崖の上にだけれど、ヒガンバナの咲く場所もある。あと一ヶ月半ぐらいかしら。



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 次の日の土曜。珍しく、というか勤務時間調整のため早朝バイトを休んだ。あまりなじみがないが、山の日という祝日だ。もともと祝日や日曜が関係の無いバイトなので、休みの感覚がよくわからない。定休として日曜日休んでいるので、日曜だけは実感があるのだけれど。それでも子供の頃や、会社勤めの時に、あった祝日なら、まだ親しみというか、それなりに思い入れがあるのだろうが、山の日はちがう。どこか他人事だ。
 その他人事の休みの日に、朝から三溪園に行った。
 連れ合いが、まだ行ったことがないというので、車で。わたしは何回か行ったことがある。横浜からバスだった。好きな場所だった。
 三溪園は、生糸・製糸で財をなした実業家の原三渓(1868─1939年、本名・富太郎)の作った日本庭園。明治39(1906)年に外苑(後に公開される私苑は三溪の私庭)が公開、平成19(2007)年に国の名勝に指定されている。現在は京都、鎌倉、奈良などから集められた歴史的建造物と池や林など、四季折々変化が味わえる広い面積の庭園となっている。また芸術家の育成や支援も行い、自らも美術・文学・茶の湯などをたしなんでいて、それらの痕跡が園内の三溪記念館で見ることができる。
 わたしが最後に行ったのはいつだったかしら。もう十年以上前だろう。時間の感覚がわからない。十五年ぐらいになるのかしら。最初に出かけたのは、まだ二十代の頃だ。池と古い建物たち、山を登る、小さな滝と、建物たち、そのたたずまいのもたらす壮大な凝縮に惹かれたものだった。十七万五千平米という広大さだが、ゆっくり歩いても二時間強で回れる。けれども日本庭園の魔術なのか、室町時代や江戸時代の建物たちのせいなのか、もっと広く、深い場所を歩いている、時間や距離では測れない空間として、わたしを魅了したものだった。
 たしか最初にいったときは三溪記念館にはあまり興味を示さなかったと思う。記念館の中に入れなかったかもしれない。次にいったときはどうだったかしら。
 記憶がごちゃまぜになっている。二回目以降に確かに入った。原三渓の書画のほかに、彼にゆかりの画家たち、横山大観、下村観山、小茂田青樹の作品があった。そしてわたしの好きな速水御舟の作品。入ったことは入ったのだが、速水御舟の絵をここで見たかどうか定かではない。絵自体は見た記憶があるので、たとえば他の「速水御舟展」の類いで見たのかも知れない。原三渓は速水御舟の援助もしており、結婚の際の仲人も務めたとか。援助の話は知っていたが、仲人までは知らなかった。今、これを書くので調べて初めてしったことだ。やはり、記念館で見たのではなかったかもしれない。けれども、記憶のなかで、遠さのなかで、速水御舟の絵が、三渓記念館のなかで、ひっそりと精彩を放ってそこにあった。正しくない記憶なのかもしれないが、ぼんやりとした遠さのなかで、曖昧になっているのは、彼の筆致にも重なるようで、少し心地よい。それに三渓記念館からは、小さな池も見える。ひさしに池の水がきらきらと輝きながら、波紋を映している。静かな場所だ。こんなところで、見ることができたら、それにふさわしいと思った。
 実は今回は、もちろん入ったのだが、速水御舟の作品を見ることができなかった。原三渓の作品を、第一展示室で見る。やさしい筆致だと思った。実業家としての活躍からすると、すこし意外だった。やさしい、温かな筆遣いだと思った。花の下で白いウサギが座っている《白兎》(1934年)、絵はがきを入口のミュージアムショップで一枚購入した。

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 すこし先走りすぎてしまった。三渓園の入口に戻ろう。ここでは季節ごと、さまざまな行事がおこなわれている。最近までは、朝顔展、そして早朝観蓮会。どちらも終わってしまったが、まだ蓮は咲いていた。原三渓は、蓮の花を愛好していたそうだ。そういえば記念館の中でも、彼が描いた蓮の花の絵があった。泥から咲かせる花…。正門近くで、ガイドの方だろうか、入口すぐ、大池と北側の蓮池の間に道があるのだが、そこからではなく、さらに北、蓮池に沿った小さな小径からゆくと、蓮ごしに旧燈明寺の三重塔(三渓園のシンボルだとも言っていた)が見ることができますよと教えてくれた。
 今年は、例年、出かけている行田の古代蓮を見に行くことができなかったので、これはうれしかった。こちらももう観蓮会は終わっていたので、まだ花が見られるなんて、期待していなかったのだ。
 なるほど、咲いている花は少ないようだったが、見ることができてよかった。ここの蓮は、行田の蓮よりも丈が高い気がした。花たちを見上げる感じ。その見上げたさらに上、奥に、三重塔。そういえば三重塔をみると、なぜか、いいようのない、気持ちになる。景色が、古色を帯びて見える、そのことに感じ入るというか、それらがあたりと一体になって、景となっているさまに見入ってしまうというか。だから、大池からの三重塔も楽しみにしていたのだが、こんな見方ができて、幸せだと思った。泥から出て、空高くで、咲く花たち。

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 そのあとで鶴翔閣(元々原三渓が住まいとして建てた建物)を経て、三渓記念館に行ったのだった。
 内苑の奥に入ってゆく。山登りでもしているようで、流れる水、小さな滝、木々が心地よい。移築された建物たちが、なじんで見える。セミの抜け殻をあちこちで見かけた。暑い一日だ。セミもよく鳴いている。水たちが目にしみるようだ。こんなにも水を欲していたのだろうか。あちこちにトカゲ。きらきらとしている。

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 山のような道を散策しながら、知らずうちに外苑に入ったらしい。三重塔へ。この奥に展望台があったはずだが、今は閉鎖されている。あの展望台から海が見えたはずなのだが。といっても埋め立てされたあとの海だし、高速道路やコンビナート的なものが見えるばかりで、すこしかなしい気がしたのだけれど。
 三渓園創建当時は本牧海岸に面していて、もっと海が近かったのだとか。かつてみた展望台からの風景を思い起こしてみる。そのときに、いつも思ったのだ。ああ、おそらく、このあたりまで、海だったのだろうと。
 わたしは不親切な案内人だ。三渓園には貴重な建物たちがたくさんあるのに、それを紹介しないで勝手に歩いている。
 たしか、この旅(散策なのに)の最後のほうに、古民家があったなあと思い出す。旧矢箆原家住宅。白川郷にあった合掌造りの大きな民家。囲炉裏で火がくべられていた。こうすることで屋根などを乾燥させ、耐久性が高められる。だが、そうした必然だけではなく、囲炉裏の火を見ると、どこか人心地がするのは、なぜだろうか。古い、遠い記憶なのだろうか。大切な火。郷愁というよりも、もっと奥にこもった、連綿とつながる古い記憶から、輝くものたち。
 そして、このように火を使っているのに、部屋の中がそれほど熱くないのが、心地よい驚きだった。囲炉裏の周りは、もちろんそれなりに熱を帯びているが、次の間にゆくと、もう風が通って、暑さ、熱さが和らぐ。ほかの古民家でも感じたことだが、どうしてこんなに暑さが薄れるのだろう? このぬるいような、ひんやりとした感触は気持ちがよい。これなら…文明に毒されている言い方だが、扇風機だけでも、夏を乗り切れるかもしれない。そう感じた。開け放されたあちこちから、風が吹き抜けている。

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 とはいえ、山歩き的なこともしたし、身体がずいぶんと熱くなっていた。茶屋があったので、そこでかき氷を頂く。今年初めてのかき氷。鼻の奥まで、冷たさが抜ける。身体がだいぶ冷えたらしい。それからの道のりが、涼しかった。周りの温度は変わらないのだろうけれど、まるで全体的に涼しくなったみたいだ。
 だが、もうそろそろ散策も、旅も、終わりに近づいている。行きにちょっと目にした大池のあたりを巡る。わたしは実は、この大池が好きだった。三重塔も見える。舟も浮かんでいる。亀がいて、鯉がいて。今の季節だとミズカンナが咲き、ほとりにはサルスベリ。カルガモが泳いだり、ほとりで休んでいたりする。池に陽光があたって、きらきら。これらを眺めるのが、好き…というか、欲してさえいたのだった。シオカラトンボが去って行った。あの小舟はいつもあそこにあるなあ、もはやこぎ出さないのかしら。カルガモが舳先で毛繕いしている。

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 こんなふうに、小さな旅が終わった。またここに来れて、彼らと出会えてよかった。わたしのなかでも、なにかたちがきっと重なったのだろう。旅の奥で、熾火のようにともるものがある。キツネノカミソリ、ノウゼンカズラ。わたしが住んでいるマンションの敷地ではサルスベリが赤々と満開だ。
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2018-08-05

まざりあって、ほぐせないまま、名前をよぶ─サギソウ、ひまわり、朝顔

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 ここ数日のあいだで、やっとセミの声を聞いたような気がする。あるいは見かけるようになった気がする。抜け殻を見つけることもできた。化石のようにキラキラしている。
 夏になると、わたしが住んでいるマンションの通路に、よく虫が落ちているのを見かける。こんなことでしか、あえない虫たち。こんなことで、存在をしる。ということを、横たわったままの彼らを見て、前の夏もそうだったなと、思い出す。
 この夏は特に暑い。

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 バイトの途中、あるお寺の前を通ったら、サギソウが咲いていますとの貼り紙がしてあったので、のぞいてみた。白いテーブルクロスのかかった長細い机の上に、サギソウの鉢植えが並んでいる。ほぼ満開。
 シラサギが飛んでいるような姿の蘭科の植物たち。はじめてみたのは、小学生の時だった。どうしてこんな姿のものが存在するのか、そのことに驚いたような気がする。茎や葉が細いこともあり、はかなさが漂っている。羽をつけて、静かに飛ぶように咲いている。つまり、美しいということを言いたいのだけれど、それではわたしが感じた違和に似た驚きを語ることはできない。
 繊細さとか、そういったものを、子供心に感じていた。
 最初に知ったのは、おそらく、通信販売の冊子の中でだったろう。写真ですら、もはやその存在を浮きだたせて見せていた。こんなにすごい花があるんだろうか。

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 記憶がすこし違っているかもしれない。たしかわたしがねだって父に買ってもらった気がする。それは、わたしではなく、父が育てるということを前提にしての、勝手な願いだったのだが。けれども、もしかすると、父が自ら、望んで購入したものだったのかもしれない。どちらだったか。
 植物が好きだった父は、家でたくさんの植物を育てていた。特に山野草。その冊子からも、取り寄せていたけれど、道や林に生えているものたちも採ってきていた。その散策の時、あるいは植物探しのとき、父と自転車で一緒に出かけた。ついていったのか、それとも二人で遊んでいるつもりだったのか。父もまた、子守をしているつもりだったのか。それらすべてだった気がする。
 サギソウはそのなかにはもちろんいない。けれども、蘭科の植物なら、春蘭、銀蘭、金蘭…ああだめだ、なぜかカタカナのほうが合っている。シュンラン、ギンラン、キンラン…。これらはみんな林の中から連れて帰ってきたものだ。黄色いキンランに出会ったのは珍しい。ギンランばかりが咲いていたっけ。シュンランは春まだ早い頃。キンラン、ギンランはもうすこし経って、けれどもやはり春のうち。今すこし調べたら、この二つの蘭は、今は絶滅危惧粁爐吠類されているものだとか。多分サギソウも以前は湿った、あちこちで見られたものだったのだろう。あれはわたしが子供の頃ですら、栽培されていたものしか見なかったけれど、もっと以前は、湿ったところで、小さなサギたちが、羽を広げていたのだろう。
 またすこし調べたらサギソウのほうは準絶滅危惧種(NT)に分類されていた。データでみると、ギンラン、キンランのほうが個体数の減少がさらに深刻だということになる。
 ところで、わたしは洋蘭のほうはあまり好きではない。華やかすぎるし、花弁が大きすぎるのだ。せいぜいトキソウぐらいの小ささがいい。あれもサギソウみたいに鳥の名前がついているが、わたしのイメージでは、カトレアを山草にした感じ。華やかだけれど、どこか優しい。こちらは羽を広げたというより、花の色が朱鷺の翼の色に似ていることから、その名前がついたらしい。ちなみにこのトキソウも、自然に生えていたものは知らない。サギソウと同じく、通信販売の冊子で知ったものだ。
 ああ、これを書いている部屋の窓から、セミの声が聞こえる。あれはアブラゼミ。
 わたしが植物が好き、というよりも花の名前を多く知っているのは、まぎれもなく父の影響なのだが、父が育てていたからか、野山に父と遊びにいったからか、どちらであったか。たぶん両方だ。家にある植物、野山にある植物の名前を知るのが楽しかった。独りでも植物図鑑で花の名前たちを確認した。名前を知るのがうれしかった。今もおそらく新しく名前を覚えることもあるのだろうけれど、基本的にはあの頃憶えたものばかりが、名前としては、大半を占める。大人になって、ここ何年かで憶えたのは、ノハカタカラクサ、ヤブカラシ、ヤブミョウガぐらいだ。後者二つは、子供の頃から見てはいたが、名前を知らなかったもの、ノハカタカラクサは、野の墓の宝の草だと思っていたから(実は野博多唐草)…、どれも名前によって、言葉によって、背景が立ち上ってくるから。
 子供の頃に、名前を覚えておいて、よかったと思う。季節ごとに、植物たちと出会う。彼らを名前で呼ぶことができる。花たちを見かけると、心のどこかがじんとする。また季節がめぐって、彼らに会えたことに対する喜びがほとんどだと思う。この頃はとくに。そして、そこに父がよみがえってくることもすこし。
 ああ、そうだ、サギソウだ。そのお寺のサギソウは、満開だった。サギソウはたしか、栽培するのが難しい花だったはず。それをあそこまで咲かせることができるなんて。そんな驚きと、やはりあいかわらず、違和をもたらす、信じられなさの満開だなあと思ったこと、通信販売で購入した、水苔でくるまれた苗から、父も花を咲かせていたなあとか。
 わたしは目の前にあるサギソウと向き合いながら、自身の記憶などを、総動員させていた。咲いているサギソウたちには関係がないことだろう。けれども、そのサギソウに見入りながら、こんなふうに対峙している、そんなふうにしか、接することができないのでは、ともぼんやりと思った。
 サギソウを見て数日後。今度は家の近くに、ちょうど見頃だというので、ひまわり畑を見に行った。幸せなことだ。あるいは、うちのベランダで育てている朝顔。水やりのたびに、行灯から野放図に、自由に伸びようとする蔓を、行灯にそわせるのが、いつも楽しい。きかんぼうをあやすようだ。このとき、邪道というかずぼらなのかもしれないが、去年の朝顔の蔓がそのままになっているのに、新しい蔓をくぐらせ、一役買ってもらっているのも感慨深い。先日立ち読みした(失礼)園芸の本によると、朝顔は種を作るのに養分をとられるから、咲いた花は、茎ごと摘んだほうが、次の花が咲くようになるのだとか。けれども、来年もまたこの種を採取して、行灯作りにしたいから、花がらだけ摘んで、そのままにしておく。ひまわりも朝顔も、本来は、小学生の時に授業で育てたもの…というなれそめだったかもしれないが、今はこうして関係を持っている。

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 ひまわりは、満開をほんのすこし過ぎたぐらいだった。台風の影響で、だいぶ茎が倒れてしまっているのが、痛ましかったが、それでも、大きな太陽のような花を広げているのは、心がはずんだ。暑さを一身に引き受けたような、真っ黄色がやさしかった。アブたちが蜜をもとめてやってきている。
 父が亡くなってもうずいぶん経つ。写真がないので夢の中でか、自分の顔(わたしは父によく似ているらしい)にしか、父を見ることができないのだが、わたしの顔はこの頃、どうも父とはすこし離れてきてしまっているような気がする。いいとか悪いとかではなく、わたしの顔は、わたしの生き様をその顔に残してきているから、父の印象がすこしずつ薄れてきてしまっているようなのだ。
 父の写真が残ってないのはわかっているのだけれど、それでももしかして…と思って、先日、禁断の玉手箱(これについては、いつか、機会があったら、また書くかもしれない)を開けてしまったのだが、やはり入っていなかった。夢で出てくる父も、夢の中のわたしだけが、彼の顔を知っているようで、夢から覚めたわたしには、ぼんやりとした顔をしか伝えてくることがなかった。
 ところで、わたしは近眼なのだけれど、それを利用して、ある時、ちょっとだけ離れた場所の鏡の自分を、父に見立ててみようと思いついた。ぼんやりとしか顔がわからない、とくに横向きになった顔、鼻をもっと高くして、おでこを出して…、顔ももうすこし長細く…。ほんのすこしだけ父が感じられたが、それは夢の中で出会った父を覚めたわたしが思い出すのに似ていた。
 それよりも、こんなふうに植物たちと出会っているときのほうが、父を感じられるのではないのか。いや、植物たちとの出会いは、彼らとの出会いだ。父が影のように感じられるが。あるいは、わたしという存在が父の思い出なのかもしれない。ひまわりがローレン・バコールの映画のように咲いている。アサガオが蔓をのばしている。サギソウたちに感じた、うつくしい違和。
 ここにも父がすこしだけいる。鏡にうつる顔のように、覚めたわたしが思いやるように。
 今年の夏は暑い。アサガオは特に水をほしがるから、この時期は朝晩、二回水やりをしている。明日も蔓を伸ばしているかしら。いやいやをするように、行灯から離れて。この子たちは、去年入谷の朝顔市で、購入したもの。こんなふうに思い出が増えてゆく。かれらはきっと、仲良しだ。
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2018-07-30

知らなかったことたちの場所─「石神井川流域の縄文文化」展

 この夏は暑い。セミの声が今年はやはり少ないような気がする。ちょっとにぎやかすぎるアブラゼミ、夏らしく感じるミンミンゼミ、そして大好きなかなしげなヒグラシ…。ヒグラシだけは、もともと声を聞くことが少ないからか、前と同じように鳴き声を聞くような気がするのだけれど、ほかのセミは…。暑さと関係があるのかしら。

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 前に江戸東京博物館「発掘された日本列島2018─新発見考古速報」展に出かけたとき、気になるチラシを何枚か見つけたので、もらって帰った。縄文展もそうだ。こちらは実はもう行ってきたのだけれど、そのことは後日。もう一枚、練馬区立石神井公園ふるさと文化館での企画展「石神井川流域の縄文文化」。会期が平成30年6月23日から8月12日までということで、終了まであまり間がないので、今回はこちらについて、すこし書いてみようと思う。

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 わたしは、数年前…と思っていたけれど、多分もう十年前になってしまう、ともかく練馬区のお隣の板橋区に住んでいた。それも練馬区の境に近いところ。石神井公園も割と近くにあったので、何回か行ったことがあった。ボート池であそんだり。その他に子供の頃から、なんとなく愛着を持っていた場所でもあった。
 そんなところに博物館があったなんて知らなかった。調べてみると、できたのが2010年だそうだから、わたしが引っ越した後だ。けれども、知っていてもその頃だと、興味が持てたかどうか、微妙だ。それに、石神井公園駅から行くと、ちょうどボート遊びなどをする石神井池を挟んで向こう、三宝寺池と石神井池の境目にあるところなので、気づかなかったかもしれない。
 行く前に、こんなふうに少し調べてみると、知らなかったか、忘れていたこと、当時あまり興味をもっていなかったことが多くて、そのことに少し驚く。わたしはたしか石神井公園が、あの池が好きだったのではなかったか。なのになぜ…。
 たとえば、公園内には石神井池と三宝寺池の二つがあるが、後者が元々ある池で、石神井池は、三宝寺池とその景観を守るために1933年に作られた人工の池だったこと。そういえば、三宝寺池のほうは、実は行ったことがない。そのほか三宝寺池端に、室町時代以前、豊島氏の居城の石神井城があったこと、そして、これが一番驚いたのだが、ふるさと文化館は、池淵史跡公園に面しているのだが、ここは旧石器時代・縄文時代・中世の遺跡があることだった。竪穴式住居跡があり、発掘された縄文土器がふるさと文化館にあり…。
 石神井公園の近くを離れた今となって、それでも知れてよかったが。
 さて、石神井へ。台風の日、車で連れて行ってもらった。朝のうちは雨が降っていたが、日中は小康状態、というか曇り空。公園にはどうも駐車場が少ないようなので、こんな日のほうが、かえって停めやすいかもと思った。
 今まで来たルートである、駅からとはちょうど反対側からのアプローチなので、地名だけは覚えがあるのだけれど、なんだか知らない場所に来たようだ。二つの池のどちらも見えない。池と史跡公園やふるさと文化館のある辺りの間がすこし高くなっている。あの丘を越えればきっと池が見えるのだろう。
 おそらく野球場かなにかの利用者向けの駐車場なのだろう、最寄りの駐車場は夏休みの土曜日なのに、ガラガラだった。やはり来てよかった。すこしだけ雨。
 さて、ふるさと文化館へ。ちなみに入館料は無料。ありがたい。チラシから。
 「東京都・埼玉県・神奈川県にまたがる武蔵野台地は、関東ローム層に覆われた洪積台地で、台地上を流れる河川流域は遺跡の密集地となっています。
 練馬区内を流れる石神井川、白子川、中新井川(江古田川)流域も例外ではなく、河川沿いからは縄文時代の遺跡が数多く発見されています。
 本展では、石神井川流域の遺跡から出土した縄文土器や石器を中心に、未公開の資料も展示しながら、流域の縄文文化について紹介します。」
 展示されている縄文土器は、早期から中期のものが殆ど。後期や晩期は、低地への移住などで遺跡も少なくなっていて、それが原因のようだ。
 勝手なことをいうと縄文中期の、装飾的な土器が好きなので、中期のものたちを見れて、それだけで、なんだかほっとした。それに、土器片に触ることのできるコーナーがあったことも。
 いろんな人が触ったからだろうか。展示されているものよりも、テカテカしている気がした。でも、触る、それだけで、まるでたとえば木に触ったように、草に触れたように、なにかを感じて、うれしくなる。
 出土された遺跡の名前は、やはり覚えがなかったが、チラシなどにあった白子川は、以前住んでいた所のすぐ近くに流れていた川だった。
 丸山東遺跡の石棒。男根の形をしていて、豊穣などの祈り、祭りの道具として使われたのではなかったかと、あった。これを見て、思い出したというか、やはり、最近まで知らなかったことと照らし併せてみたりする。
 縄文時代から人々の信仰を集めてきた石の神を、ミシャグジというそうだ。石棒はその信仰の象徴では、と言われている。
 「石神井」の地名の由来は、「石神」(しゃくじ、いしがみ)に由来すると伝えられていて、関連があるとのこと。むかし、村人が井戸を掘ったときに、石棒が出てきた…それを石神として祭ったのが石神井神社の始まりで、村の名前も石神井になったとか。
 実感としては、まだわかないのだが、この頃、ミシャグジという言葉をよく見るようになっていた。とくに諏訪のあたりのことを読んでいると。シャクジイの名前がミシャグジと重なるなんて。
 なぜ、今まで知らなかったのかしら。わたしは何を知っていると思っていたのか。けれどもおそまきながらでも、知ることができて、それらが重なることができて、よかった。
 常設展示ものぞく。こちらにも縄文土器などがあった。そして練馬大根、昭和のなつかしい暮らしなど。
 そのあと池淵史跡公園へ。隣接していて、ふるさと文化館の裏口が入口になっている感じ。裏から突然、公園が始まる。木々の中、まず藁葺き屋根の古民家(旧内場家住宅)へ。昭和戦前期の姿に復元したものだとか。中をざっと見て、それからお目当ての竪穴式住居跡へ。縄文中期(約5000年前)のものらしいが、復元などはされていなく、柱のあった穴の上に丸太を模したものを5本ならべている。すこし味気ない感じがしたが、事前にこうしたものだと情報を得ていたので、がっかりはしなかった。跡地はほんの少しだけ地面が高くなっていて、古墳のようだなと、時代が違うのに、そんなことを思った。そういえば、確認しなかったけれど、ほかに庚申塔などもあったようだ。縄文、中世、明治が混在している。そう言葉でつぶやくと不思議な場所にいるのだなと、あらためて思う。幾千年もの時は、たとえばこんなふうに感じることができるのだ。台風のせいか、人もほどんどいなく、静かだ。

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 このあと、三宝寺池のほうに行きたかったのだが、駐車場などの関係で、時間がなくなってしまったので残念ながら帰ることにした。石棒は三宝寺池の畔から掘り出されたとの説もあるとのことで、見てみたかった。第一、石神井公園にきて、水を見ないで帰るなんて。池淵という名前のところにいたのに、そこからも池は見えなかったし。
 車に乗って帰路に向かってすぐに雨脚が強くなった。ほとんど土砂降り。池の水ではなく、雨水に出会ってしまったなあと少しおかしくなる。車で来られてよかった。遺跡公園にいるときは天気とが保ってくれてよかった。
 うちに帰って、栃木県の縄文土器片、以前に購入したものをまた眺めてみる。雲母がすこしばかりキラキラして。場所も時代も違うけれど、展示室にあったものたちを思い出す、こうしてよすがになるのもうれしい。
 翌日は台風一過の晴れ。セミの声はまだ聞かない。いや、わたしが知らないだけで、どこかで鳴いているのかもしれない。
00:46:27 - umikyon - No comments

2018-07-15

緑の風と横たわる犬と ─「発掘された日本列島2018」

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 久しぶりに都会に行った。電車に乗って。数ヶ月ぶりかもしれない。それも展覧会目的だと、もうどのくらいぶりか。めっきりそのてのものに行かなくなったから。
 体調のせいもあるけれど、興味が美術からすこし違うほうへ向いてきているということもある。考古学というほどではないけれど、縄文的なものに、心が向いてきている。
 ということで、出かけてきたのは、江戸東京博物館の「発掘された日本列島2018  ─新発見考古速報」(2018年6月2日─7月22日、巡回展、以降、石川、岐阜、広島、川崎へ)。これは、近年発掘された遺跡や、研究成果があがったもので、展示可能になったものなどを、文化庁主催で紹介するもの。


 それにしても、暑い一日。今が一番暑いのかしら。
 自宅最寄り駅から、小田急線で新宿へ。そこからのろのろと、各駅停車の総武線で両国に向かう。市ヶ谷あたりで見えるお堀を楽しみに。
 信濃町、四谷、水道橋、市ヶ谷、お茶の水。お堀目当てだったが、神宮外苑など、緑が意外と多いなと、ぼんやりと車窓をみて思う。お堀は真緑。違和感があるのは、わたしがいつも地元でみている水が、もっと澄んでみえるからだろう。
 都心に住んでいるときは、それほど、お堀に、あの不自然なにごった緑色に、違和感を感じなかったのだから。
 そういえば、ここにくる数日前、早朝バイトの帰りに、珍しく湧き水のある池の様子を見に行った。国分寺崖線上の、木々の多い崖下にある。水周りは保護されていて、道路脇の金網ごしにみる感じなので、あまり訪れていなかったのだ。
 目当ての場所は、残念ながら、すこし水量が減っていたような気がした。白いトタン板のようなもので草の侵入を防いでいる。
 地図をみると、この池のとなりにも池がある。やはり金網が張ってあって、入れないように保護してある。前も探してみたのだが、見ることができなかったところで、だめもとで、そちらにいってみたら、池は見えなかったが、湧き水は発見することができた。小さな滝のようになって、すぐに暗渠にもぐってしまう。
 だが見つかってよかった。清冽な水。ちなみにこの湧き水、いや池なのか、名前は上神明池(かみしんめいいけ)という。
 こちらは崖下だが、この崖上のほうを通ったとき、工事していて、「遺跡発掘調査中」とも書いてあった。
 ものすごくおおざっぱにいうと、崖のあるところは、遺跡がでることが多い。なんの遺跡で、なにが出たのだろう? 心が惹かれた。

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 実は体調のせいか、江戸東京博物館の展覧会も、行こうかなあぐらいで、あまり気乗りがしなかったのだった。ああ、もしかすると、この工事のことが頭にあって、行こうという後押しをもらったのかもしれない。
 それと。上神明池を含む、国分寺崖線、緑深いあたりにきたとき、空気が変わった。それまで、うだるほど暑かったのに、冷たい、やさしい風が吹いたのだ。崖下は、片方が緑、もう片方は住宅地、緑に囲まれた、というほどではないのに、空気がひんやりとした。ここちよかった。
 電車に戻ろう。車窓から、にごった緑の堀、堀の際の街路樹などを眺め、そういえば、あのあたり、実際に歩いたり、自転車で通ったりしたことがあったが、空気が変わるほどの、ひんやり感を感じたことはなかったなあと思っていた。なにが違うのだろうか。ことばでは自分でも理解できていないのだが、暑そうな外を眺めていて、なんとなく、どこかで腑に落ちたような気がした。
 さて、展覧会へ、博物館の特別展ではなく、常設展示会場での企画展。何回かここに来ているので、江戸の紹介、展示などの常設は、ざっとみるだけにした。ただ歌舞伎の舞台を模したイベント会場で、なにかイベントをしているらしく、マイクまで使っているので、正直、かなりうるさい。企画展入口が見えたが、あきらかに音がみる妨げになるだろうと、終わるまで時間をつぶすことにした。どこにいったのか、おそらく江戸時代ではなく、明治あたりに逃げ込んだ。鹿鳴館、行灯とガス灯、裸電球の明るさの違い。
 やっと、イベントが終わったので、晴れて目的の企画展へ。
 HPなどから。「全国で毎年8000件近い発掘調査が実施されていますが、その成果に実際に触れる機会は極めて限られています。そこで、近年、とくに注目された出土品を中心とした展示を構成し、全国を巡回させることにより、多くの方が埋蔵文化財に親しみ、その保護の重要性に関する理解を深める機会となる展覧会を開催します。今年度は、特集として文様や彩色が施された装飾古墳の調査・保護についてもご紹介します。」とある。
 わたしの興味は、縄文時代に向いているので、とくに千葉県の加曽利貝塚のコーナーに心惹かれた。去年の秋に実際に訪れたところでもあるので、なおさらだ。南貝塚から剥ぎ取った地層断面の展示もあった。およそ4000年前から3000年前の断面。
 そして土偶、縄文土器を調べる指標となった加曽利E式、B式の、それぞれの土器の展示。
 あとで、このあたりのことも触れるけれど、これらの縄文や旧石器時代を長めにみて、後は簡単にすませて、一周がすんだ。企画展脇で、ビデオ上映がされている。六本ぐらい、計一時間。みたいものは、縄文だけなのだが、まだだいぶ時間がありそうだ。どうしようかなと迷いながら、また、企画展入口に戻ったら、ちょうど文化庁文化財調査官による展示解説が始まるところだったので、参加することにした。最初は申し訳ないが、時間つぶし程度に考えていたが、とんでもない、参加できて、とてもよかった。
 自分が興味なく素通りしてしまったものたちの、解説が、とくによかった。こうして解説されなければ、きっとその存在の大切さが無縁だったものたち。
 たとえば、剣の柄。柄の部分は木製だったりするので、ほとんど現存することが難しく、出土されないそうだ。だが、長年水に浸かっていたおかげで、見つけることができた漆塗りの柄とか、噴火災害によって、埋まった遺跡の発掘の、その生活跡の生々しさとか、秀吉が行った京都復興を物語る出土品とか。奈良時代、孝兼女帝から寵愛をうけたとされる道鏡一族ゆかりの、豪奢さがうかがえる建物跡とか。銅鐸は、どこから出るかわからない、工事現場で、突然出土することが多いとか。
 お話ししてくれた方は、古代が専門で、埴輪が大好きとのことだったが、縄文のこともだいぶ時間をかけて話されていたので(好きな古代よりも、時間をかけてしまっていると本人が語っていた)、ありがたかった。
 そのなかで、加曽利貝塚のこと。ここでは犬が丁寧に埋葬されている。そのことは前から知っていたのだけれど、去年の秋に訪れた加曽利博物館では、展示をみることがなかった。実は今回、はじめて、その埋葬された犬を見たのだ。ほんとうに、やさしく、そっと置かれたような埋葬のされかただった。横むきになった犬。ちなみにこの犬の存在があったから、加曽利貝塚のイメージキャラクターは、カソリーヌとなっている。
 それはともかく、展示解説でも、そのことが触れられていた。犬は狩猟などで供をしていたもので、いわばパートナーだったのでは、だから、こんなかたちで埋葬されたのではと。
 それが実感として感じられる横たわり方だった。
 日本では普通、骨はなかなか残らない。残るのは、貝塚の貝のカルシウムのおかげ、貝塚はゴミ捨て場と習ったと思うのですが、たしかにそうした面もあるけれど、人骨や、こわれた土偶などもあり、もっとちがう、豊かな意味もあった場所だったのではなかったかとも。
 個人的には、わたしは、貝などはあまりゴミと言った感じがしない。貝殻はきれいだもの。あるいは、ゴミという観念がいまとはだいぶちがったのではないかしら。土に還るものたちとか。壊された土偶の多さなども頭にいれて、土、死と再生のこととかも思う。
 展示解説、決められた時間は四〇分ということだったけれど、だいぶ時間オーバーして話してくださっていた。
 おわって、さきほどのビデオ上映コーナーにいったら、あと10分ぐらいで、加曽利貝塚の上映になるらしかったので、こちらもありがたかった。
 特別史跡になるということで、記念、紹介的につくったビデオだった。
 ちなみに、特別史跡。これも、今回、文化庁調査員の方のお話で知ったのだけれど、国宝と同じ、いや、それよりも狭き門で、貴重なものが選ばれるのだとか。加曽利貝塚は、今現在、62番目で、特別史跡も同じ数。つまりいちばん最後に認定されたもの。
 ビデオ上映もみて、また企画展のほうへ、足をはこぶ。さきほどの展示解説を、かみしめたかったのだ。
 そうこうしているうち、時間がだいぶ経ってしまった。三時間ぐらい館内にいたのだろうか。
 足がだいぶ疲れていたが、長いこといるこができて、それがうれしかった。
 
 帰りに、新宿に寄った。現在、上野で縄文展が開催されているので、その関連で、ミニフェアを紀伊國屋書店で行っているらしいと知ったので。
 そちらは、ごめんなさいだが、思っていたよりも? だったけれど、ふだん、もはや新宿ですら、ゆく機会がなくなってしまったので、確かめることができてよかった。ビルの一階に、標本や化石を売っている店があるので、そちらものぞく。このごろ、ほしいと思って探している珪化木、あったが、ちょっとちがう。でも、これも見ることができ、触ることができて、心がすこしうるおった。
 帰り道。通りはまだ明るく、暑かったので、なるべく地下街を通って過ごした。久しぶりだったので、地下街の出入り口を、間違えてしまう。つい、昔、勤めが新宿だったころ、利用していたところをのぼってしまったのだ。
 登ると魚の壁画がある。新宿もだいぶ変わってしまって、駅ビルも変わってしまったが、この魚たちだけは、変わらないなあと、眺めた。そこで、あれ、この魚たち、ずいぶん久しぶりにみるなあと、間違いに気づいたのだった。この魚のいる通路は、今は使わないのだと。
 都会や過去から離れてしまったのだなあと感慨がすこしおこったが、それだけだ。でも、壁画の魚たちに、久しぶりにあえてうれしかった。おそらく5年ぶり以上。
 少し疲れていたので、帰りは各駅停車で、座って帰ることにした。
 うたたねしていたので、最寄り駅についたら、もうほとんど、夜の気配。わずかに西のほうが、明るいぐらいだ。
 国分寺崖線下のスーパーに寄るので、駐輪場に自転車を停めた。すると、ヒグラシの声がした。
 今年はまだ、蝉の声を聞かないなあと思っていたら、いきなり、大好きなヒグラシの声を聞いた。カナカナカナと、さびしいような、かなしいような、そんなすこしの痛みをおぼえてしまう、せつない声だ。
 この声が、蝉のはじまりでいいのだろうか。いいのだろう。暑いことは暑いが、日差しがないぶん、暑さがだいぶ収まってきている。うちにかえったら、それでも二度目のシャワーを浴びるだろうけれど。
 家についても、足がじんじんしている。シャワーをあび、簡単な食事をすませたら、ほとんどすぐに寝てしまった。それでも、出かけることができてよかった。
 翌朝、というか、書いている今日。家のまわりでは、まだセミの声を聞かない。 
21:09:36 - umikyon - No comments

2018-06-30

ラベンダーの重なり─嵐山町千年の苑

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 新聞で、埼玉の嵐山町に、来年(2019年)6月にラベンダー園ができると目にした。その日のうち、今年の6月16日から7月1日の期間、プレオープンとして園内一般開放、さらに6月23日(土)、24日(日)、お披露目をかねてラベンダー祭りを行うというので、土曜日に出かけてきた。
 ラベンダーを見に行くといえば、いつもなら久喜市菖蒲町のラベンダーだ。ほぼ毎年出かけていて、実は今年もそろそろそちらに行こうと思っていたのだが、つい、嵐山のほうに惹かれてしまったのだった。
 目新しさということもあるけれど、それよりも、ラベンダー園がなかなか広いようなので、それが心をくすぐった。嵐山町のHPなどによると、来年の完成時には約8ヘクタールで植え付け面積は日本最大級、現時点でも約6ヘクタール、約4万本の植え付けがされていて、関東最大級になっているとある。
 正式名称は、嵐山町千年の苑(ラベンダー園)。ところで、嵐山町。わたしは小学生にあがる頃から高校生ぐらいまで埼玉に住んでいたのだけれど、埼玉のなかでも下のほう、川越近辺だったからか、埼玉のほぼ真ん中にある嵐山町には、あまりぴんとこない。住んでいたところから離れていても、秩父や越生、行田など、遠足や林間学校、小旅行などで訪れた場所なら、なんとなくなじみがあるように感じられるが、嵐山町はなぜかこれまで、訪れたことがなかったのだ。それもあって、行きたいと思ったのかもしれない。
 嵐山町千年の苑。近くというか、隣接しているのは嵐山渓谷バーベキュー場。こちらは槻川沿いだが、すぐ下流で都幾川と合流する。この槻川と都幾川に挟まれたV字のなかにラベンダー園がある。
 ちなみにわたしは川好き、というか水に独特のシンパシーを感じる。この都幾川は名前だけは知っていたが、多分来るのは初めて。清流ということはなんとなく知っていた。今回、都幾川のほうは、ラベンダー園からあまり見ることができなかったが(しなかったのかもしれない)、槻川のほうは、バーベキュー場に足を伸ばして、見ることができた。梅雨の最中で、濁っているかと思ったが、思いがけず澄んでいて、うれしかった。同じ埼玉の、日高市の巾着田、彼岸花たちが咲く高麗川、あるいは越生市の越生梅林がある越辺川などを思い出す。どれも水が澄んで見える。槻川という初めての名前の川が、澄んだ水によって、わたしのなかの記憶の埼玉の川と結びつく。

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 と、ラベンダーからすこし離れているし、時系列からも飛んでしまった。
 車で出かけた。というか、つれていってもらう。高速道路(関越自動車道)を降りてしばらくすると、向こうにラベンダーの紫色が拡がっているのが見えた。なるほど面積が大きい。それだけで心がさわいだ。ただ、駐車場に車を止めるのにかなり列ができているので、すこし驚く。駐車スペースは300台ということで心配になったが、渋滞は細い道などのせいだったらしい。列の割にスムーズに車はうごき、停めることができた。
 新聞やテレビなどで採り上げられたからか、思ったよりも人が多かった。けれども、どちらかというと、それは喜ばしいことだ。それにいつも思うのだが、花を見に来る人たちは基本的に静かだ。花を愛でている、写真に収める人たちが多いので、混雑はあまり気にならない。人々は広い敷地内、ラベンダーたちのなかで、別の花のように、あちこちにいた。
 ラベンダーたちといえば、なるほどたくさんだ。アブや蝶たちも、花が多いからだろう、たくさん集まっている。ラベンダーといえば美瑛、というあのラベンダーと比べてどうなのかしら。北海道は行ったことがないので、遠い北のラベンダーを想う、重ねてみる。天気は曇り。今日は蒸し暑くはないけれど、こちらのほうが湿気が多いのだろう。久喜市菖蒲町のラベンダーとも比べてしまう。あちらは周りにすぐ田んぼがあったっけ。ただ、こちらのほうが面積が広いので、ラベンダーの匂いが拡がっている。むせそう、というのとは違う。やさしく、あの独特の香りがあたりになじむようにして拡がっている。空気のなかで、とけこみながら、包み込むように、そこはかとない、やさしい匂いだ。

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 プレオープンということで、まだ育ちきっていない、若い、こぢんまりとした株のラベンダーたちの植わった畑もあった。土に置かれたマリモの群れのようで、かわいらしい。その緑の小さな丸みのなかに、花穂をつけているものもあちこち見られた。こんなに小さいのに、花をつけるのだと、やわかなか驚きが、温かい。
 摘み取り体験もできるようだったが、なんとなくラベンダーの芽を摘むということが、怖かったので、遠巻きに見た。来年の花のために、これは採らないようにという説明が聞こえてくる。摘み取り受付がなぜか長蛇の列だった。そこから少し離れた時、「あれは何の列なんだろう? 食べ物かな」、家族連れが不思議そうにしているので、珍しく口を開き、「ラベンダーの摘み取り体験受付だそうですよ」と言ってみた。旦那さんであろう人は、「じゃあ、並ばないでいいや」と言っていたが、小さな娘さんが「ええ、摘みたい」と小さな声で主張した。母親が「ありがとうございます、ラベンダー摘むの、どうしようかしらねえ」とその場にいた、わたしを含めたものたちに言った。ただ、それだけなのだが、なにか心がほんの少しだけ、ぬくもった。
 わたしと連れは、ひととおりラベンダーたちを眺めたあと、特設テントで売られている農産物、食べ物、物産などを見て、軽くそこで食事をした。
 プレオープンだったからか、食べ物も、物産なども、まだあまり充実していなかったような気がするが、仕方ないだろう。
 そうして隣接の嵐山渓谷バーベキュー場などにいって、そろそろ帰ることにした。時間は二時過ぎ。行きとすこし違う道を使っての岐路だった。嵐山町の中をぬける。緑が多い。木々が多いといったらいいか。平地なのに山間に来たようだ。この感覚も、初めてきた、新鮮さがあった。ほかの、訪れたことがある埼玉とは、ちょっと違う。この違いが感じられるのが、どこかうれしい。まだまだ知っているようで知らない土地があるのだ。そして、子供の頃、埼玉に住んでいた頃は、とくにどうと思わなかったが、埼玉は、いい場所だなあと、このごろ、改めて思うことが多くなった。一概には言えないが、緑が多いし、都心にも近い。小さな見所がたくさんある。わたしが住んでいたあたりも、小江戸川越があったっけ。
 ラベンダー園にいたときもすこし雨に降られたが、車に乗って帰る途中、けっこう雨が降ってきた。ラベンダー園にいるときは、なんとか天気が保ってくれてよかった。日高町、越辺川、鎌北湖、入間川、なつかしい名前を車窓に眺める。来年は、久喜市菖蒲町のラベンダー、この千年の苑、どちらにゆくことになるだろうか。雨脚が強くなった。

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01:28:26 - umikyon - No comments

2018-06-20

紫陽花の誘い─郷土の森あじさいまつり

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 どこかで、あじさいがみたいと思っていた。近所で、あちこちで見かけるアジサイを、名所のようなところでなくともいい、すこしだけ、まとまって咲いているのを見たいと思った。
 そんなとき、府中であじさい祭りがあると知った。「郷土の森 あじさいまつり」(二〇一八年五月二六日〜七月八日)。うちから車で割と近くなので、土曜日に出かけてきた。出かけるのもひさしぶりだ。場所は正確には府中郷土の森博物館。森全体が博物館になっているフィールドミュージアム。本館として、企画展や常設展、プラネタリウムのある建物ももちろんあるので、最近まで博物館とは、そこのことだけだと思っていた。けれども、移築復元された建物群、森というか、園の植物たち、すべてを含んで、博物館というのは、心地よい。ここには村野四郎記念館もある。

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 駐車場から、博物館入口にゆくまでの間に、物産館がある。そこをのぞくのも結構楽しい。観光に来た、というのとはすこし違う。旅と日常の境界線で売られているものたち。府中育ちの野菜もあり、府中ならではのものもあり。あじさい祭りにちなんだものもあった。アジサイの和菓子、アジサイを模した金平糖がかわいい。府中の森で採れた梅干しも販売されている。これは、前に梅祭りで来たときに買ったことがあった。
 そして、森へ。博物館へ。正直、あまり期待していなかった。これはわたしの側の問題で、このごろ、心がすこしばかり、下向いていたから。たぶん、それではいけないと思って、出かけることにしたのだろうけれど、アジサイを見て、自分が心をふるわせることができるとは、思っていなかったのだ。それでも、見に行きたいなあと、どこかでぼんやりと思っていた。そんなはざまに、わたしはいた。
 本館を通り過ぎ、復元建物たちが見える。建物の横で、もうアジサイたち。どこかでふわっとなった。心のなかの扉がすこしだけひらいて、そこから、なにかたちが、ふわっと、出ていった。それがアジサイたちに向かって。何をいっているのか。自分でもわからないが、アジサイたちが、わたしに開いてくれたと感じた。アジサイたち、小径沿いのたくさんの、咲きそろった花たちを、見つめる。そのとき、ひさしぶりに、つつみこまれるような、やさしさを感じることができた。すこしむせそうな、花たちとの逢瀬。

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 天気は、曇り、ときどき少しの雨。散策するのにも、アジサイを見るのにも、ちょうどいい、そんな気候。アジサイは晴れた日差しがさんさんと降り注ぐなかで咲いているのを見るよりも、雨に濡れた花を見る方が、なんとなくしっくりする。こちらの勝手な思い入れなのだろうけれど。あるいは曇り空の下で、あざやかな色の花を見る、イメージ。
 郷土の森のなかで、アジサイたちは、思ったよりもあちこちに咲いていた。アジサイに囲まれている気分になったというよりも、森の緑のなか、アジサイを通じて、季節と向き合っている、そんな気がしたのかもしれない。アジサイの向こうに、たとえば梅林があった。今はもう梅の実も収穫され、葉を茂らせた木々となっている。そして蝋梅。以前梅祭りで訪れたときに、蝋のような花びらに惹かれたものだったが、それがなんと実をつけていた。季節が変わっている。彼らの時間が、別に過ごしてきた、別の人生が、一瞬だが感じられた。
 ネムノキも花を咲かせていた。多分、もう盛りは過ぎていたのかもしれない。けれども見ることができて、よかった。なんとなく子供の頃から好きなのだ。夜になると葉をとじて眠る、その姿がいとしいと思った。仲間にオジギソウがある。マメ科ネムノキ亜科。こちらは夜になると葉を閉じるだけでなく、葉に触るだけで葉を閉じてしまう。生き物のようで、好きな植物だった。葉に触って、眠らせることを繰り返したので、父に叱られた記憶がある。かわいそうだからと。そう、これも子供の頃の記憶。わたしの時間は、父と植物とともにあった、過去に、依存しているところがある。止まっているとまではいわないけれど。ネムノキがオジギソウの仲間だと知ったのは、あの頃だ。オジギソウは近頃、あまり見かけなくなったが、ネムノキは、どこかで、たまに、たとえば、こんなふうに。その度に、あの、父とともに、オジギソウを、すこしだけ思い出すのだった。

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 そういえば、アジサイもまた、そんな思い出があるかもしれない。父はガクアジサイを育てていた。ガクアジサイは、額紫陽花と書く。中央の小さな花、つぶつぶとしたものを装飾花が額が囲むようにして咲く。日本古来のもので原種に近い。ちなみに普通にアジサイと呼ばれるものは、ホンアジサイと称されていて、西洋で品種改良した、つぶつぶの中央がない、装飾花だけのもの。本来はあのつぶつぶとした中央がおしべやめしべを有した花なので、それをほとんど持たないアジサイは株分けや挿し木などで増やすのだとか。
 うちには、ガクアジサイがあった。だから、だろうか、あのつぶつぶとした花を持つ、その姿に今も惹かれる。色は青か紫。もちろん、通常のアジサイ、ホンアジサイにも、心を寄せるのだけれど、家にかってあった、というだけで、ガクアジサイにいっそう思い入れを感じてしまうのだった。
 けれども、ここ、府中の森で、アジサイたちを見て、その区分が、ごちゃまぜになって、それがうれしかった。ガクアジサイもホンアジサイも、咲いている、ほぼ満開、かれらの姿が見れてよかった。彼らに包まれるような感じが、また味わえてよかった。ふわっとした、曇り空のしたの、やさしい時間。わたしはまた、彼らのもとに帰ってくることができたのだろうか。

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 睡蓮の池があった。復元した水車小屋、田んぼなども。何かが帰ってきてくれたようで、彼らが優しかった。
 本館にも足を踏み入れる。常設展の、特に縄文時代の土器たちが見たかった。武蔵台遺跡の土器と石器、清水が丘遺跡の縄文中期の土器、本宿町遺跡の土偶。縄文土器、土偶たちに会うのもひさしぶりだと思った。また、わたしに、やさしい時間をくれた。そうだ、家にも土器のかけらがあるんだっけ。また触ってみたくなった。
 本館のミュージアムショップで、珪化木の化石を見た。植物の化石だとか。いつか買ってみよう。『府中市郷土の森博物館 常設展ガイドブック』という冊子を買った。
 また、彼らと出会うことができるのだろうか。すこしずつ。彼らがではない、わたしが心を。アジサイたちが、満開だった。

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2018-05-30

均衡のなかで、声、聞けますように

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 またここを少しあけてしまった。きっかけは何だったのだろう。今回は、ここだけでなく、ほとんど文章を書くこともしなかったので、この間に、だんだん、元気がなくなっていった気がする。いや、そうではない、たしか、最初は風邪か何かにかかっていたからだ。そのうち、すこし日常のほうでの環境の変化に、心がすこし対応しきれなくなり…。
 悪循環だ。まだ最初の頃は、鳥たちの声、咲いた花たちのささやきが聞こえてくるようだった。すくなくとも5月半ばぐらいまでは。
 道ばたで、コバンソウの花がたわわになっているのを見つけた。古墳のところで見て思いにふけった、あのコバンソウが、別の場所に生えていた。週一回のバイトの時に、そこを通る。古墳にいったのが一ヶ月半ぐらい前だったかしら。そのすぐ後に見つけたときは、うれしかった。それが、一週間ごとに、少しずつ、緑だったコバンたちが、黄色く色を変化させてゆく。たわわにみのった稲穂のようだ。ほんとうに小判の色になって。その変化をしばらくは楽しんでいた。けれどもたとえば、昨日、通りかかったとき、そのコバンソウの姿に、ほとんど心が動かされることがなくなっているのに気づいて、さびしく思った。それもぼんやりとだ。それも、こうして何かを書かなくなったからだ。書くことで、わたしはバランスをとってきたのだ。それだけではない、書くことで、彼らと対話してきたのだ。その声が聞こえない…。

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 書くだけではなく、本もあまり読めていなかった。つまり言葉たちと離れた生活をしていったのだ。もう体調はだいぶよくなっていった。だが、言葉たちとふれあわないできたせいなのか、だんだん、心が沈んでいった。日常だけで生きている感じ。非日常がないので、足元がおぼつかない。
 ただ、この期間、締め切りがある原稿、仕事が少しだけあった。けれども、これはいつもの非日常的な文章のほうではなく、調べ物をして、それを文に起こす、インタビューをまとめるなど、日常に近いほうでの仕事だったので、書くには書いたが、何かが違った。そこにはわたしが書く、わたしの言葉というのが、かなり薄い。それでも、締め切りのある文章を書くことができて、文章を書く機会があって、よかったのかもしれないけれど。
 ちなみに、この仕事、ある地域のタウン誌的なものに載せるものなのだけれど、それに携わりたいと思ったきっかけは、書くことで、社会と関わりが持てているという実感が持てるのではないかと思ったから。その土地の出来事、その土地の歴史、そこに携わっている人との関わりによって、そして誌面を作るほかの編集スタッフさんたちとの関わりによって。社会、あるいは、場所。それはわたしには必要だったし、今も必要だと思っている。
 ただ、その性格上、いつも書いているものとは、すこし毛色が違う。わたしがいつも書いているものが、非日常に近いとすれば、タウン誌のための文章は、日常に近い。通常なら、それでバランスをとっていたのだけれど、このときは違った。書くことで、日常にまた均衡がとれなくなり、そのことで、足元がおぼつかなくなった感じ、あいかわらず、おそらく境界上にいたのかもしれないけれど、
 そして、どうしたのだったかしら。
 詩人の集まりがあった。その会場に赴くことに罪悪感を感じた。もはや書いていないのに、という。だから、へまもやったけれど、彼らと接することができて、それでもよかった。それだけが理由ではないけれど、こうして、一歩、非日常に足を踏み入れようと、書くことをする後押しにはなったから。
 まず一歩。

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 もうだいぶ前になってしまう。5月のゴールデンウィーク中に、神代植物公園に出かけた。連休中ということもあって、混んでいたけれど、ああいうところはそれほど、混雑が気にならない。多くの人は静かだし、たぶん緑たちが、彼らをおおってしまうから。わたしたちは、森のなかに入ってゆく、緑に包まれる。
 なので、バラ園のような開放的なところでは、人の多さが目立ったような気がする。ただ目立ったというだけで、どうということではないのだけれど。
 まだバラ園は見頃ではなかったようだが、かなりいろんな種類のバラが咲いていたっけ。

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 ほかの植物たちはどうだったかしら。ちょうど、緑が新緑のやさしい色合いから、深い緑に変化しつつある、そんな頃だった。バラでいうと、つぼみからひらきかけの、いちばん美しくみえる、にぎわいの絶頂。晴れていたこともあり、葉の緑、木々の緑たちが、きらきら輝いて、それが眼にしみた記憶がある。こんなに緑が響いたことがあったかしら。たしか、そう思ったはず。そう、書くことで思い出す。こうして、少しずつ、何かたちがまた、戻ってきてくれるのだろうか。
 そういえば、赤い、小さな実をつける木があった。ウグイズカグラとあった。なんとなく、赤い実といえば、秋のような気がしているので、新鮮だった。またひとつ、名前が覚えられてよかったと思ったっけ。あとで、というか、今、これを書くために、ウグイスカグラを調べてみた。花は、見たことがあった。よく見かけるものだった。名前と花が一致した。これからは、花を見かけたら、ああ、ウグイスが鳴く頃に咲く、ウグイスカグラだなと、思えるかもしれない。それが、彼らを聞く、ということなのだろう。

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 アジサイが咲き始めた。ホタルブクロが多分見頃。コバンソウは、もはや黄金のまま、今年の花を終えている。
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2018-05-05

多摩川(玉川)とニセアカシア

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 つまらない事情で、朝の小一時間ほど、時間を潰さなくてはならなくなったので、ある平日、先日すこし見た、狛江の多摩川にでも行くことにした。バイト先からおそらく自転車で15分ほど。
 お花見の時期、桜並木が見事なところ。六郷さくら通りというらしい。その多摩川沿い、西河原公園のあたりへ。
 じつは車でよく通ってはいたところなのだが、わたしが運転しているわけではない、助手席で車窓ごしにながめていたところなので、道が少し不安だった。たぶん、この道…。もう緑の木になった、桜が見えた、新緑の桜並木が見えた。そうだ、ここだ。前回、見かけたお稲荷さん、古墳もある。
 もう道がわかったので、西河原公園が見えたらすぐに、その緑のなかへ入ることにした。木々と池。わたしはやはり水がすきなのだなと思う。そしてこの木々のすぐ隣が、多摩川だ…。

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 そして、木々が切れたところに多摩川の土手。河川敷まではゆけないけれど、ゆけるぎりぎりのところまで行ってみることにする。
 この日は晴れていたので、空は青い。けれども、前日、雨が降っていたので、水は若干濁っているようだ。
 実はここに来る途中、日が沈むほう、高架下の道のむこうに、富士山が見えていた。わたしは方向音痴なので、何回も通っているのに、普段、向かっているのが西だとあまり意識したことがない。富士山がこの道の向こうにあることも、見えることも知らなかった。春にしてはくっきりと富士山は見えていた。けれども、一瞬だ。道はまっすぐに感じられたが、曲がっていたのかもしれない。すぐに見えなくなった。けれども幸先がいいと思った。
 多摩川を見ながら、土手を少し歩く。やはり西の方角、上流に向かって。こちらは、この間来たときは、西日でまぶしかったところだ。西日のなかで、中州が広がっていた。島のような緑。中州のほうを、もう少し近くから見てみたかったのだ。そのときに、ふと、そういえば、西だよなと思った。さっきみた富士山は見えるかしら…。日が沈むあたりを探す。あるいは対岸を探した。対岸を探したのは、葛飾北斎の《冨嶽三十六景 武州玉川》を思い出したから。けれども、これらはほんの一瞬の心の中の動きだったから、それらがイメージとして、絡まって、わたしにあの方角を見ろとしむけた、というほうが近い。さきほど、くっきりと見えた富士がそこにあった。まるで《冨嶽三十六景 武州玉川》のような。

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 わたしは実際にどこを描いたとか、あまり意識したことがないのだけれど、すこし気になった。北斎の絵は、渡し船があるけれど、なんとなく、対岸の右よりにある富士の位置は、今、見ている富士と方向的に似ているのではないかしらと。以前、この辺りだったかもしれないと聞いたことがあったような気もしてきた。違っているかもしれない。けれども、同じ玉川(多摩川)の向こうに、同じ富士山を見ている。時を隔てて、北斎と。そう思うのは、心地よかった。流れる水は違うけれども。
 後で調べたのだけれど、《冨嶽三十六景 武州玉川》の実際の地は、府中、調布、大田区と諸説あるようだ。わたしがみたのは狛江市だけれど、限りなく調布に近いところ。あながち、大きく違ってはなさそうだ。

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 富士と多摩川、そして中州。それらをぼんやりと見て、ゆっくりと帰り支度をする。桜の木の隣に、白い藤に似た花をつける木があった。葉もマメ科のようだ。満開だ。白い花たちがブドウのように垂れ下がっている。クマバチという、大きな蜂も飛んでいる。満開というのは、なにかしら、心がひかれるものだ。けれども、名前がわからなかった。スマホで検索してみる。マメ科、白い花。ニセアカシアだとわかる。

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 ずいぶん以前、「ニセアカシアの花が満開です」と、やはり川の土手に咲いているのを、手紙に書いてくれた人があったことを思い出した。
 ニセアカシアって、どんな花なのかしら。ほのかな恋心とともに、そう思ったこと、など、遠い気持ちで。ああ、この花のことなのか…。満開の、白い花たちを見れてよかった。名前がわかってよかった。あの手紙とともに、これからは、ニセアカシアという名前が、なにかたちとなって、わたしのなかで、しまわれるだろう。
 ちなみに、クマバチ。後日知ったのだが、藤の花と特に密接な関係をもつ蜂らしい。似ているニセアカシアの近くにいたのをうなずく。こんなふうに、彼らが、関係している。その糸が、連なっているのが、なんだかうれしい。
 それらを、後にして、もうほんとうに家の近く。公園に鯉のぼりが泳いでいた。かつてあった田園風景を再現した公園で、水を張った田んぼに、鯉が映っているのが、なんだか鯉が泳ぐようで。ここにはかつて、実際に用水があったのだが、それが、さっきまでいた西河原公園あたりから、水を引いていたそうだ。六郷用水、または次太夫堀。今は野川から水を引いているので、厳密には、ちがうかもしれないが、ここでも、多摩川(玉川)に思いをはせてみるのだった。
 この近くでもニセアカシアの花が咲いているのを見つけた。多摩川が作った国分寺崖線、崖の上で。連なって。満開で。

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18:25:30 - umikyon - No comments

2018-04-25

狛江を旅する(コバンソウの慎ましさ)

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  うちの近くを旅した。散策かもしれないが、なんとなく旅といいたいのだ。古墳めぐり。お隣の狛江市は、古墳が多いと、以前から、なんとなく知っていた。気候もいいので、土曜日の午後、まわってみることにしたのだった。
 狛江に向かう途中、神社の森の脇の道を通る。もはや初夏の様相、すこし汗ばむぐらいの陽気なのに、ここにきて、空気が変わった。すこしひんやりとする、心地よい雰囲気。中学生ぐらいのころ、近所の林に出かけたことを思い出す。夏の暑いさなかなのに、林のなかは、どうして、あんなに涼しくて、気持ちよかったのだろう。あの包み込むような感じに近かったが、すこし違う。この神社は、冬というか、元旦に、初詣に来ているところなのだが、鳥居をくぐると、参拝客で長蛇の列で、ざわめきもあるのに、まわりの木々たちのほうから、静けさが漂っている。それは季節が変わってもありつづける、どこか厳かなものだ。その、初詣のときに感じた気配のようなものも、鳥居すらくぐっていないのに、森のほうからやってくるような気がした。幸先がよかった。古墳跡からもそんな気配が感じられそうな気がした。
 最初は駅の近くの小さな古墳。こちらだけは以前から知っていた。ちょっと見ただけでは古墳だとは気づかないで通り過ぎてしまう。けれども、古墳だとわかると、なんとなく、そうなのかしらと、立ち止まってしまうような。今回、はじめて可能なかぎり裏のほうまで回ろうとしたが、ゆけなかった。盛り土が石垣で固められている。盛り土に生えた植物たちのあいだに、祠のようなものが見えたが、詳細がわからない。古墳の名前は駄倉塚古墳。

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 空気が変わった、あの神社の森の感じはなかったけれど、それでもたたずまいのようなものが、重さを帯びていた。
 次からは、知らない古墳たち、はじめての古墳たち。
 ちなみに、これらの古墳たちは、狛江古墳群と称されるらしい。
 五世紀前半〜六世紀中ごろ築造された古墳群。帆立貝形古墳の亀塚古墳、土屋塚古墳以外は、ほとんどが径四〇〜三〇メートルの比較的大型の円墳と、径二〇〜一〇メートルの小型の円墳で構成されている。ただし、東京都指定史跡の古墳である兜塚古墳は、帆立貝形古墳の可能性も残されているらしい。残存している古墳は十三基ほど。かつては七〇基以上が群集していた、多摩川流域でも有数の古墳群であった。 そう、狛江は多摩川沿いの市でもあるのだ。水好きというだけでなく、ことさら思い入れのある多摩川…。いや、古墳にもどろう。
 つぎに訪れたのが、経塚古墳だった。マンションの敷地内で、管理人室や、市役所を通せば、古墳内に入れるとのことだったが、外から見るだけにした。ここは車でよく通っていたところだが、気づかなかった。やはり擁壁というか、土を石で覆っただけのような。けれども、緑が深かった。陰が深いというべきか。
 続いて兜塚古墳へ。いつも、桜の時期にお花見がてら、通る多摩川沿いの道。その多摩川と反対側に曲がる小道を少しいったところにある。道を進めると先の方に緑が深いところがあり、それだけで目星がついた。たぶん、あれが古墳だろう。手招きのようである。
 着いたら、柵で覆われて、門もあった、整備された、中に入れるはじめての古墳。都史跡だからか。すこしうれしい。

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 兜塚古墳は、六世紀前半のころと考えられ、土師器や円筒埴輪が出土している。直径約三〇メートル、高さ約四メートルの円墳だが、先にも書いたけれど、周溝跡の様子から、帆立貝形古墳の可能性もあるらしい。古墳には、多摩川の河原石による葺石が敷かれていたようだ。
 これは、説明板に書いてあったものなどから。それらを見て、小さな山を登る感じで、頂上にゆっくり登ってみる。人の墓の上に登っていいのかしら。古墳にくると、いつもすこし、そんなことを思ってしまう。それでも、登らずにいられない。この土の下に、眠っているのかしら。足元から、何かを感じ取ろうとする。そうしながら、あたりの緑をみる。ドングリが落ちている。松ぼっくりも落ちている。新緑がやさしい木々の間から、住宅が。こうした瞬間が、今と過去をつなぐのだろうと思う。静かな気配が、伝わってくる。 ところで、兜塚古墳のふもとに、コバンソウが群生していた。ヨーロッパ原産の帰化植物というか、もともと観賞用だったものが、雑草化した植物。イネ科で小判に似た(草鞋にも似ているけれど)小穂をつける。

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 わたしは、この植物が好きだったのか。すこし違う、懐かしいといったほうがいい。たしか、小学生の頃、あれはどういうシステムだったのか、詳しいことはわからないのだけれど、学校で、種苗販売のカタログを配られ、そこから購入する、ということを春と秋の二回、定期的にしていた。
 父が植物が好きだったので、そこからよく、種などを購入していた。いや、父のためだったのか。わたしがねだって購入したものもあったと思う。ドイツアザミ、ハエトリソウ、オジギソウは、そうだった。父が買っていたのは、サギソウ、トキワラン、セッコク…、蘭科の植物ばかりが思い出されるが、ほかにもあったはずだ。思い出せない…、ああ、ヒメシャジン、イワタバコ、エーデルワイス的なウスユキソウ…あとはなんだったかしら、ともかく、そのカタログに、コバンソウが載っていたのだ。たしか、その姿によるのだろう、お金が貯まる草、的な、キワモノ扱いだったと思う。お金が貯まる云々はどうでもよかったが、なんとなく、カタログで見て、その穂の姿に心惹かれたものだった。不思議な形、面白い形。ただそれだけだと思う。購入したのだろうか。覚えていない。うちにあったような気もするし、カタログで見ただけのような気もする。その狭間で、わたしのなかで、ずっと、心に留めていた植物。たぶん、カタログで、写真でみただけのものだろうと思う。それが長いこと心に留まったことで、あたかも家にあったかのような気がしているのだ。つまり、想像がリアルに近づいた…。この感触は心地よい。コバンソウは、それから、ずっと、実際に見かけることがあった。もはや雑草と化したそれだった。それを道ばたなどで見るたびに、どこか心が騒いだのだった。あ、コバンソウだ…。そう認識するだけで、心地よかった。そうして、コバンソウは、わたしのなかで、わたしの過去のなかで、父と一緒に育てていたように塗り替えられたのかもしれない。
 その、コバンソウの群生。こんなに密集しているのを見るのは初めてだった。うれしかった。しかも古墳のような、聖を含んだ場所で。
 それは、コバンだからではなく、キラキラと輝いてみえた。午後の陽の光をあびて、古墳の縁を守るようにそこにあった。

 次の古墳などに向かう前に、万葉歌碑へ。
 『万葉集』巻十四の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑があるという。
 こちらも、多摩川が好きだったからか、ほかの理由からか、万葉集はそれほど読んでいないのに、どこか心に残る歌として、想っていたものだった。この歌を知ったのは、高校生の頃だ。なにがしみたのか、今もわからない。さらという音のかさなりか、それともやはり多摩川だったからか。ともあれ、その歌碑が、住んでいるところの近くにあると、存在を、最近知って、ぜひ訪れたいと思っていたところだった。
 ここも、多摩川とは道を隔てて、すこし離れたところにあった。見た目には公園のようで、盛った土の上に石碑の歌碑があるから、古墳のようでもある。
 松平定信の揮毫で、文化2年(一八〇五)に多摩川沿いに建てられたが、洪水によって流失したので、大正十三年(一九二四)、雄志によって、現在の場所に、旧碑の拓本を模刻して新碑を建てたのだとか。

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 ちなみに多摩川がすきなのが、どうしてなのか、書いたことがあっただろうか。小学生、中学生の頃、歴史が好きだった。歴史は真実を語っていると思っていたから。それはともかく、その一環で、新選組、特に土方歳三が好きだった。彼の故郷にゆかりの浅川と多摩川。水好きなこともあり、それで特に多摩川という名前に、今でもやはり心が騒ぐのだった。
 そうして、多摩川のほうに戻った。西河原公園として整備されている。かつてはこちら側に歌碑があったのだろう。場所はここではないかもしれないけれど。緑が深いところと、開けた河原。このあたりは、先にも書いたけれど、桜並木になっていて、お花見のときは屋台もでて、けっこう賑わっている。けれども、今はもう、桜もとうに新緑の木になっていて、人たちも少ない。多摩川を見る。西のほう、上流のほうは、もう西日でまぶしいぐらいだ。釣りをする人、川に石を投げる子供、あれは鵜かしら、飛んでゆく鳥。しらない鳥の鳴き声もした。

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 次は亀塚古墳へ。手元の資料(狛江市で出している冊子『狛江市観光マップ KOMAE』)によると、〈昭和二十六年に発掘調査が行われ、銅鏡や馬具など、多くの遺物が出土〉した、五世紀末〜六世紀初頭の、帆立貝形前方後円墳ということで、期待していった。おそらくまた、緑深いところを目指せば…と思ったが、なかなかたどり着かない。緑を目指していったら、駅前の弁財天池まで行ってしまった。しかたなく、スマホのGPSを使う。以前、実は行こうとして、わからなかった場所だ。わからなかったことに納得する。住宅街のなかにあり、立て込んだ家の塀の脇の狭い細道が入り口だった。
 たどり着いても、家に囲まれた小さな塚だ。意外だった。もっと大きなものだと思っていたので。数段の石段を上ると塚の上に「狛江亀塚」の碑が建っている。この塚は破壊された前方後円墳の後円部の残土を盛って復元されたものだと、後で知る。いや、観光マップを最初によく読んでおけば、書いてあった。〈その後、墳丘の大部分は削られてしまい、現在は前方部の一部のみが残っています〉。
 ともかく、痛々しい感じがした。復元されたからだろうか、住宅地に囲まれて、息苦しそうだからか。新緑の緑だけが、柔らかく、優しかった。

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 最後に、だいぶ家のほうに戻ってくる感じで、世田谷通りから一歩入ったところの土屋塚古墳へ。五世紀中頃に築造されたそうだ。こちらもマンション敷地内なのか、よくわからないが、上には登れそうになかった。道沿いに説明板がある。
 この古墳も、帆立貝形の造り出し部があったが、現在、その場所は残っておらず、マンションが建っている。以前、出かけた多摩川の、もっと下流の野毛大塚古墳と時期的には近いもののようだ。周溝からは、円筒埴輪などが出土されている。
 だが、こちらもやはり、見ていて、どこか悲しいものがあった。入れないからだろうか。ほぼ壊れているからか。石垣ではなくコンクリートで墳丘が固められているからかもしれない。こちらは亀塚古墳よりは、閉塞されている感じはないけれど、どこか古墳が息苦しそうなのだ。

 それでも、今回の古墳めぐりは、おおむね心地よかった。最初に書いたけれど、近くなのに、パンフレットの名前『狛江観光マップ』のように、観光したという充実感があった。二時間ばかりのささやかな旅。

 数日して、うちの近くのアパートの脇にコバンソウを見つけた。群生というほどではなかったが、そのうちのいくつかは、もう緑であることをやめて、黄金色になっていた。ほんとうに小判の色だ。かわいて、かさかさと鳴りそうだ。名前とは裏腹に、素朴さがにじみ出ている、不思議な草。だから、心にしみるのだろうか。そろそろ、朝顔の種を蒔こうと思う。
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2018-04-15

変わること、慣れること

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 桜の終わりの頃、ある公園で猫とアオダイショウの子供が対峙しているのを見た。猫が圧倒的に優勢だった。蛇は威嚇していたが劣勢だ。猫は遊び、楽しんでいる。だが猫は飼い猫だったので、気づいた飼い主が猫をおっぱらって、おしまいになった。桜の花びらが落ちる茂みに逃げてゆく蛇。花底蛇という言葉があったっけ。美しいものには恐ろしいものが潜んでいるという、中国のことわざ。けれどもこの蛇はちっとも恐ろしくなかった。緑がエメラルドのように光っていて、新緑の葉とよく合っていた。

 やっと、古いパソコンから、新しいパソコンに移行した。ワードとテキストデータの編集ソフト。この使い勝手が心配だったが、こちらはなんとかなりそう。意外と慣れることができなかったのは、画面の色。写真などが、今までよりも、なんとなくセピアがかっているというか、暖色系が強いというか。気にしなければ、気にならないか、なれればいいのだろうけれど、前に使っていたものとの比較というよりも、現在使っているスマホともあきらかに色が違うので難しい。
 購入したパソコンメーカーに電話して、色の調整をしてみた。というよりも、今は便利で、リモートで向こうがやってくれる。他の移行作業や、初期設定では利用しなかったのだけれど(ちょっと、自分をほめたくなっている。機械音痴なのによくできたなあと(笑))。色の調整も、ほとんどが自分で試したことだったのだけれど、パソコンの進める設定を、あえてしないという裏技で、幾分か前のイメージに近づけることができた。
 原稿や写真などのデータ、住所録などは、外付けハードディスクにずっと保存していたので、これも問題なかった。パソコン本体にのみ保存していたデータもあったが、そのほとんどが、いらないものだったから、なくなっても問題ない。
 ただ、メール。今までウインドウズライブメールだったのが、それは現在、存在しないということで、アウトルックのメールに。そのため、アドレス帳だけは移行できたけれど、前のメールが見えなくなってしまった。ただ、数年前から、Gメールと同期していたので、Gメールの送受信データは、残っている。これも、それを参照すれば問題ない。こんなことは、不便といえば、不便だけれど、たいして気にならない。けっこう気持ち的には、どうになるのだなと、慣れるのだなと、少し拍子抜けする。


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 そして。まえのパソコンはウインドウズ7だったのだが、今度はウインドウズ10。なのに、前のパソコンにできうる限り、画面を近づけてしまうことが、すこしおかしい。そうすることで、ほっとしている自分が。今までの環境をできるだけ保持しようとする。そうして、慣れという日常を、温存しようとするのだ。これを書いているテキストデータの編集ソフトも、なるべく前と同じような見え方にしていて。
 原稿作成をするワードは2007から、2016に変わった。ただ、前のワードはあえて、見え方をそれ以前の2003になるよう、オールドスタイルというソフトを使っていたので、実はこれがいちばん心配だった。2003年のワードを使っていたようなものだから。
 だが、前のパソコンでも、このままでは、前の見え方のままのを、使っていても、進歩がないなと、どこか罪悪感のようなものを感じていたので、すこしずつ、努力はしていた。オールドスタイル以外にも、現在の表示で使うこともできるので、それを少しずつ使っていった。少しずつ、八年かけて。なので、意外なことだったが、2016に移行したあとでも、さほど違いに今のところ、困っていない。よく使うページ設定だけ、すぐに出せるようにしたから、なおさらだ。
 少しずつ、慣れていったのだ。今日のために。過去からの積み重ねと、今の環境の変化たちが、慣れという面で、妥協した。そうして、慣れにむかって、明日になる。
 慣れというのを、以前は、否定的に思っていたこともあったが、今は大事なことだと思う。そうすることで、人はその場に居やすくなる。住みやすくすることで、落ち着くのだ。
 だが、このパソコンになって、はじめて文章を書いているが、入力の反応がいい。変換の速度が速いというか。昔のワープロみたいだ。これはすこしうれしい。


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 こんなことたちにかかずらっているあいだに、桜はとうに散ってしまった。今は桜の花だったのか、と不思議に思うほどの、新緑がやさしい色合いをみせてくれる、桜の樹木たちとなっている。
 この間に、二つ、三つ、出かけることがあったのだけれど、今日は一つだけ。数日前に、世田谷郷土資料館にいってきた。
 区報で、企画展「遺跡調査速報展 低地の縄文集落と横穴墓」をやると、知ったからだ(4月7日〜5月6日)。ここは、ボロ市や、せたがやホタル祭りとサギ草市が開催されている時に出かけるところ。とくに後者のホタルのほうのメイン会場でもある。
 最近も、ボロ市が開催されているときに訪れた場所。

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 企画展は、うちのすぐ近くの遺跡なので、ちょっと楽しみだった。
 けれども、じつは、いまいち…。なぜなのだろうか。発掘されたのが、縄文後期のものだったからだろうか。装飾の少ない、縄文後期。いや、それだけではない、なにか、おざなりな感じがしたからだろうか。とはいっても、場所的なことが、おおよそイメージできたので、それなりの感慨はあったのだけれど。だが、やはり前にも見たけれど、常設展の縄文土器や、土偶の展示のほうが心にしみた。
 とくに、古墳時代(千三百年前)なのだけれど、横穴墓に描かれた線刻画。これが富士山などが見える橋(元々切り通しの上に架けられた橋なので、川はない)のもので、よく通っている場所だった。埋葬された人なのか、こけしのような素朴な線が刻まれているのがわかる。悼む、祈りのような気持ちが伝わってきたからだろうか、どこか心に残った。この線刻画を見てから、橋を通るたび、心がざわつくようになった。今日も通るだろう。明日も。こんなふうにして、彼らと関わることができるのだ。

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 桜もとうに散って、レンゲソウが咲いていた。ただ、このレンゲソウ、公園の田んぼ、休耕中用に、植えられていたもので、この日、帰りに通りかかったら、むざんに、トラクターで轢かれていた。そろそろ、田植えの準備をしなければいけないからだ。咲いて、満開になって、間がないのに。
 仕方ないことだとはわかっているが、悲しかった。次の日、昼間、また通りかかったら、田んぼとして整備され、水が流れつつあったが、まだかすかに、殺戮をのがれたレンゲが咲いてくれていた。この姿も、まもなく見えなくなってしまうのだろうけれど。
 
 朝が来るのが早くなった。ここに書きたくない事情で、少しだけ朝の出勤の時間が遅くなった。十五分から二十分程度だ。それだけで、景色の見え方が違う。それまでは、早朝というよりも、夜中に出勤しているような感じだったが、ほんの少し時間を遅らせただけで、もはや、東雲、東の空が明るい。四時三十五分から、四時五十分へ。空が明るい、それだけでもすこし、うれしかったが、この時間の差、というよりも、空の明るさのせいだろう、鳥たちのさえずりも多く聞かれるようになった。シジュウカラ、ウグイス、スズメ。あとはわからない。ウグイスは、庭の広い、緑が多いお宅があって、その庭から。鳴き声はまだ聞かないが、カラスも猫みたいに、道ばたを歩くのを目にするようになった。変化もまた、よし。
 新緑も柔らかな色合いが、目にしみる。これも、慣れるとともに、当たり前になってしまうのだろうけれど。
 季節が変わってゆく。
15:52:08 - umikyon - No comments

2018-04-01

桜の季節に、彼らと別れる

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 桜、三月の、あれはいつだったかしら。はじめて写真を撮ったのは二十三日の金曜日。まだ四分咲きぐらいかなと思っていたら、次の土曜日は、もう五分、六分咲きぐらい。
 そしてまだ四月にならないうち、散り始めている。
 毎年、桜が咲くと、心がさわぐ。とくに、仙川沿いの、川にかかる桜並木を訪れると。
 あそこで、たくさんの桜たちに囲まれると、桜まみれになる。川に桜が映って。みわたすかぎり、ほとんど、右も左も、頭上も、向こうも、下も。あの川沿いの桜を眺めに行くと、わたしの桜狂騒がはじまる。
 あの桜だから、というのとは、すこし違う。家の近所で、集まって咲く桜たちだから、というのが近いかもしれない。赤塚に住んでいた頃は、それは光が丘公園の桜だった。あの桜を味わえなくなるのを、さびしく思ったことを思い出す。もっと前は、青山墓地の桜…、こちらも墓地だからか、青い山という地名のせいか、不思議な魅力を…。あの桜たちはきっと健在だ。そういえば、引っ越してから、偶然、青山墓地の近くを桜の時期に通ったことがあったと思うが、あまりそのときの記憶がない。もはやあの桜は、ひとごとの桜だったのだろう。

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 桜とはあまり関係ないことだけれど、桜がちょうど花盛りを迎えたころ、パソコンの調子がおかしくなった。ドライブの故障らしい。色々、不具合があるのだけれど、特に、こんなふうに文章を入力する際に、電源が落ちるのが、一番困った。今日は珍しく、立ち上げたときから、調子がいいので、急いでこれを書いている。
 その状態のとき、締切原稿が三本あって、少し難儀した。ゆううつになっていった。勝手ないいぶんだが、原稿は、ペンを使うみたいに、指でキーボードをタッチして、自由に書きたいのだ。その行為が長いこと当たり前になっていたから、原稿を書くとき、寸前まで書いていた言葉たちが、失われてしまう、そうしたことが、少しこたえた。弱虫だなあと思うのだけれど、こまめに保存したり、スマホで画面を撮影したり、そんな作業の不自由さに、心が重くなっていったのだと思う。
 桜を眺めている、その時、どこか、心が沈んでいるのだけれど、まだ、家にいないから、だいぶましだったが、いまいち、影を落としていた。
 ともかく。桜たちを眺めているとき、この日記も、書けないんじゃないかと、スマホで思ったことをメモした。スマホで文章を作ること、今まであまりしてこなかったし、これからも、あまりしないだろうけれど(頭が慣れないのだ、言葉が浮かびづらい、だったらメモ帳に書いたほうがいい)、桜だらけの橋のたもとで、文章をつくるのは、それでもすこし、心地よかった。

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「 桜。人工的、作為的だから、だろうか。他の植物の、花ざかりの時とは、向き合う心が違う。他の植物なら、もっと、穏やかで、愛しいような、ぬくもりを感じる。
 桜は、違う。どこか、狂おしい。

 桜でも、梅でも、何処までも続く感じに、惹かれる理由は、なんとなく、わかった。
 まるで永遠のように、思えるからだ。それが特に短い花期の桜なら、よけいに、永遠と一瞬を、見出してしまうのかもしれない。見わたすかぎり続く桜は、むせそうになる。静かに、おかしくなりそうだ。
 梅は、もっと、包む感じが、やさしい。どちらが、好きということでは、ないのだけれど。」

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 その桜も、これを書いている三月三十一日、もしくは四月一日には、ずいぶんと散って、終わりに近づいている。永遠は続かない。今年の桜狂騒は、すこしばかり尻切れトンボに終息をむかえつつある。

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 原稿は、あたりまえなのだろうけれど、なんとか、書き終えた。パソコンは、部品がなく、もう修理が出来ないということで、買い換えることに。八年使っていたらしい。今のパソコン寿命を考えたら、十分なのかもしれない。だが、実は新しい環境にはいることが苦手で(おおかれすくなかれ、多くの人がそうかもしれない…、それは太古の昔からの遺伝子レベル的なものらしいから)、そのことも、すこし気が重かったが、文章を書いているときに電源が落ちることを気にしている不便さよりは、新しい機種、新しい環境で、慣れようとすることのほうが、よっぽど建設的で、ましだった。
 それに四月は、新しい環境にふさわしい時ではないか。
 カラスノエンドウ、ユキヤナギ。桜が散ったあとの、とある公園では、レンゲの花が早くも咲き始めていた。先日採った土筆たちは、丈が大分伸びていたり、もはやスギナになっている。ジシバリ、紫の小さな手のひらのような花が懐かしくもかわいいカキドオシ(似ているサギゴケが好きなのだけれど、こちらはあまり見ない)、ヒメオドリコソウ、ハナニラ、ムラサキダイコン、タチツボスミレ。木々の色合いも、やわらかな黄緑色がやさしい。冬の上着も、もはやいらない。とはいえ、上着は取っておけるけれど。
 数日前、長年愛用していたペンが、交通事故にあった。ポケットに入れておいたら、知らずに落ちて、車に轢かれてしまったのだ。
 ポケットにないから、落としたのかしらと道路をみたら、無残にばらばらになった姿が。
 どうして、こんなにショックを受けるのか、自分でも不思議なぐらいだった。ずっと、そばにいてくれたのに。値段的なことではない。補充インクを交換して使うタイプのもので、びっくりするほど安いものだ。ばらばらになった姿が、生き物であったものの、最期のようだった。わたしは、だんだん子どもに還っていっているのだろうか。モノたちに愛着を持っていることは自覚しているから、当然といえば、当然なのだが。
 これを書いているパソコンも、これを最後に、おそらく、お別れ。ありがとう、今日はとくに、頑張ってくれて。冬が往く、そして春が。

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07:47:29 - umikyon - No comments

2018-03-25

光の王国

 桜が咲きだした。気付いたら、あちこちに、コオニタビラコ、ハコベ、ペンペン草、春はあっというまにきた。木の芽たちも、つぶらで、うまれたての色で、あいらしい。オオイヌノフグリは、春の星のようだ。ユキヤナギ、レンギョウ、タンポポ。どこか、心がふさぎがちなのだけれど、かれらをみると、ぽっと火がともるように、温かさを感じる。

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 きょうは、すこし、自分のことを、書いてみる。
 一人遊びがすきな子どもだった。わたしはそのことをいまでも良かったと思っている。どうした事情なのかは、しらないけれど、幼稚園にいっていなかったから、小学校にあがるまで、ほとんど独りで遊んでいた。その頃のことは、わりとよく覚えている。絵を描いていたこと、紙をつかって、工作していたこと、空想していたこと、ビー玉や金色のボタンに光があたる。光の果てまで覗くことができ、その先に王国があると思っていたこと。
 ただ、そのかわり、同年代の子と接することをしてこないまま、小学校にあがったので、人との距離がつかめなかった。集団となじむことができなかった。具体的にはいじめにあった。かなしいとかつらいとかはあまり思わなかった。いやではあったが、どこか冷めていた。学校とは、級友とは、距離を置くこと。彼らと接したいとは思ったが、それはいじめという壁にぶちあたることでもあったから、保身だった。あるいはいじめられている自分を、ほんとうの自分ではないと思っていたかもしれない。放課後、ひとりになって、はじめて自分に戻れる。光の王国へ入れるのだ。わたしはそのなかで、絵を描いた。散歩をした。まだ、あちこちに原っぱがある頃だ。草たちにまぎれこみ、季節ごとに花たちと出逢った。飼い猫の黒猫、ロロもいた。大好きな父もいた。わたしはやはり幸福だった。空想の王国は、逃げ場所だったのかもしれないが、そうした意識はなかった。学校よりも、その王国とのつきあいのほうが長かったから。
 今日は、けれども、その光の王国のことを、書こうと思ったのではない。
 わたしは、彼らと、最初から、表面上でしか、付き合おうとしなかったのだとか、彼らに向けて、言葉を発することをしてこなかったのだなとか、彼らに言葉を届けようとしなかったのだとか、そんなことに、今更気づいた、ということを書こうとしたのだ。
 彼らとは、他者ではあるけれど、学校に端緒を発する、集団社会でもある。それは日常の喩でもある。大人に近づくにつれ、あまりいじめられなくなったが、本心をみせることをしなくなったからだと思っていた。それはもはや癖となってしまい、今でも、延々と続いている。あの頃の学校的な場所、勤め先その他、人が集まる場所では、事務的な会話か、上っ面の会話しかしない。あるいは、もはや会話にならない。わたしは無口になっていっている気がする。言葉が口にのぼってこないのだ。たまに反論しないといけないような事態に陥ることがあるが、そのあとで続くであろう会話を予想して、面倒になってしまい、口をつぐむこともある。
 「わたしは生き延びるために書いてきた。口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきたのだ。無言で語ること、黙して語ること、失われた言葉を待ち受けること、読むこと、書くこと、それらはみな同じことだ。なぜなら、自己喪失とは避難所だから」(パスカル・キニャール『舌の先まで出かかった言葉』青土社・高橋啓訳)
 わたしは、この言葉が好きだった。
 わたしにとって、口を閉ざして書ける言葉は、詩であり、絵を描くことだった。二十歳ぐらいのとき、このまま絵を描くか、詩を書くか悩んだことがあった。不器用だからか、どちらか一方に集中しようと思ったのだ。そうして、選んだのが詩を書くことだった。けれども、それは、口に出す言葉ではなかった。書くこと、描くことも、対象との対話であるけれど、日常的な会話ではけっしてなかったから。
 大人になって久しいわたしは、あいかわらず、人が苦手だ。彼らに本心をみせる術がもてなかった。うわべだけの会話を学んだ。ただ、そのときどきの恋人にだけは、もうすこし、ちがうものを求めていたが。それは、社会的な意味がほとんどない、非日常に近しい存在だから。
 いまも、会話というか、声にだす言葉は苦手だ。人と会話しているわたしは、ほとんど、なにかをとりつくろっている感じがしてしまう。電話も苦手だ。親しい人の電話でも、出ることができなかったりする。
 ただ、最近は、もはや、声にだす言葉は、どうでもよくなってしまっている。それよりも、対象にむけて、口をつぐんで、声をかけている、その言葉が気になっている。
 前を猫がよぎる。猫に心の中であいさつをする。モクレンの、あの猫の毛みたいな芽鱗、冬の寒さを守っていたふわふわの子たちは、その役割を終えて、花がさいた今は、毛をぬいで、ガクになろうとしている。その薄くなった毛にさわって、またあいさつをする。あたたかくなってきたからねえ。冬の寒さに耐えてたんだねえ。たわいのない言葉だ。紫陽花の葉、ドクダミの葉、そのほか、樹木のちいさな緑色の芽が、つぶつぶと色を持ち始めている。それらにあいさつを交わすのが、楽しい。それは幼児のころにすこし似ている。わたしはだんだん幼児に還っていっている気がする。
 数日前、ポスティングのバイトの途中で、土筆を見つけた。川に近い、駐車場の隅でだ。うれしかった。さわった。バイトを終えたとき、もう午後五時半近くだったけれど、まだ辺りは明るかった。その周辺にも、土筆が生えていた。駐車場にほどちかい空地だった。なつかしいなと思いつつ、いつか家が建ったら、この土筆たちはなくなるんだろうなと、すこし切なくなった。そういえば、わたしが住んでいるマンションの駐輪場にも、数年まえまで、土筆が生えていたのだけれど、管理会社の方が、こまめに草むしりとか、してくれているため、今年はみえなくなってしまったことを思い出す。
 いま、空地の、眼前の、土筆たち。そのありのままの姿を眼にやきつけておこう、それだけで、いいじゃないかと思った。けれど、気がついたら、土筆採りを始めていた。せっかく生えてきた土筆にたいして、もうしわけないと思ったのに。最初に摘んだら、もう、ためらいはうすれてしまった。かつて、土筆を採った記憶がよみがえる。たしか、ハカマをとらないといけないし、調理すると、少しになるんだよなとか。この街に来てからは、はじめてだけれど、過去に何回か土筆採りをしたことがあるのだった。こうした行為もまた、会話ではなかったか。過去や土筆との。せっせと採るのがおおむね楽しかった。土筆をとるときに、緑の粉が舞う。胞子だろう。指につく。それもこれも会話。
 もういいかげん辺りが暗くなったので、家に戻った。すぐさま土筆の下処理、採ってきた土筆のハカマを取って、土筆の佃煮を作った。これは日常、そして非日常。無言の会話が境目でいとしい。光の王国は、こんなところに、変わらずに門戸をひらいてくれている。

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09:24:49 - umikyon - No comments

2018-03-15

いちめんの梅源郷─越生梅林

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 今年も埼玉県の越生梅林に出かけてきた。三日連続の雨の翌日の土曜。まだ朝早い時間は、雨がわずかに残っていたが、それも止んで曇り。午後には晴れて、そんな、出かけるには、ぎりぎりの一日。
 はじめてここに来たのは、いつだったろう。十九歳ぐらいだったか。なんだか記憶がごっちゃになっている。十九の時に来たことは覚えているのだけれど、その前に、わたしが小学生だった時に、家族で来ているような気もするのだ。けれども、それはおなじ越生でも、梅林からほど近い、黒山三滝にいっていたのかもしれない。
 こう書いているうち、思い出してしまった。と書くのは、記憶があいまいな状態を、わたしがどこかで楽しんでいたから。謎のまま、滝と梅が、桃源郷ならぬ梅源郷を作っていてくれたらいい……。

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 そうなのだ、小学生の時に行ったのは黒山三滝のほうだった。梅林は十九歳が初めて。山にかこまれた、静かな梅林たち。梅農家の方々の栽培する梅たちを含めると二万本以上の梅が栽培されているという。はじめて行ったときは、すこし雨が降っていたかもしれない。いや、おぼえていないが、なにか梅の花たちが、だったのか、霞のように、むこうに拡がり、それが幻的な美となって、わたしに語りかけてくるようだったのを覚えている。声にならない、大切なささやきとして、誘ってくるようだった。あまたの、開花たちが、そこで息づいている。その景観、その姿にしずかに圧倒された記憶がある。おびただしい花たちなのだが、むせそうということではない。ただ、遠い夢が再現されたような、つつましさ、おくゆかしさのある、梅の花たちなのだった。
 そう、それはかそけき声といってもいい。梅は、そんなふうに、わたしのなかに足跡を残していった。その姿に会いに行くため、ながいこと、梅に会いに出かけている、といった面もあるのではないだろうか。
 ほとんど、変わらないように見える、梅林。けれども、おそらく長年の間、なにかがすこしづつ変わっているにちがいない越生の梅たちに、わたしはなにを見ているのだろうか。また春が来て、みずからの生のために、咲いている梅。売っている梅干し、そして今年も来たという自分を、梅の花たちに重ねているのだろう。そこにはかつてのわたしが、顔をだしている。そんなもろもろも含めて、梅はわたしに誘うのだ。それが、梅とわたしの接点をつくっているのかもしれない。

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 越生梅林。梅まつり会場は越辺川(おっぺがわ)沿いの二ヘクタールの場所。越辺川。ふしぎな響きをもつ川は清流だ。小学生の時にこの川に遠足で来たことがある。なんとなく、かわいらしいというか、ひょうきんな響きだなと思った記憶がある。今回、来たとき、雨の影響でいくぶん水が濁っていると思ったのだけれど、しばらくすると、また水の透明度が増してきたように思えた。澄んできた水と、対岸の梅を眺めるのはうれしい。“おっぺ”という響きと、子どもの頃から、清流として親しんできたものとの、数十年経っているのに、見た目にはほとんど変わらぬ再会。変わらないでいる梅林とともに、それは幻想を与えてくれるのだった。永遠では決してないけれど、そして、そうなるまでには、べつの力たちが積み重なった結果であるのかもしれないけれど、とどまっている姿、変わらないように見えるものがあるのだと。
 そういえば、梅たち。わたしは、つい、梅の花たちが、たくさん、むこうまで、咲いているような、つらなっている姿を写真におさめようとしてしまう。それは、十九歳の時に、みた梅源郷的な記憶が大きいのだろう。あんなふうな、みわたす限りの梅、霞がかった、いちめんの梅の記憶を、今ここで、再現したいという気持ちも、どこかで働いているのではなかったか。けれども、それに捉われているわけではない。今の、この梅は梅だ。この梅の瞬間を、写真に撮りたい。ただ癖として、そんなこともあるのだった。
 
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 今年は、三月十日に出かけたのだが、七分咲か八分咲ぐらい。見た目にはほぼ満開に見える。ちょうどいい頃だったと思う。花が盛りをすぎていない、盛りにむかって、謳歌しようとしている、そんな勢いが感じられる。終わりつつある花がほとんど見受けられない、暖かさをましていく春、陽射しが明るくなってくる春に、とてつもなく合っている、そんな春の使者としての梅たちの姿が優しかった。
 梅干しを買って帰る。先日訪れた府中でも買ったけれど。これらの梅干しを自宅で、食卓で食べる度に、土地の名を思い出す。それがなんだかゆかしい。わたしたちはこんなふうに、霞がかったようなあいまいななか、関係をもつことができるのだ。

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00:49:48 - umikyon - No comments

2018-02-25

スダ爺さん (東京都埋蔵文化財センター)

 陽射しがだいぶ明るくなってきた。夜が明けるのが早くなり、日が暮れるのが遅くなってきた。まだ寒いけれど、こうした太陽の変化だけでも、心がそれでもすこし華やぐようだ。モクレンの芽鱗の毛皮もますますふくらみが大きくなってきた。そっとなでてみる。温かい、なにかが伝わる。

 先週の土曜、多摩市にある東京都埋蔵文化財センターにいってきた。最寄駅は多摩センターだけれど、家人と車で。ここも、前回出かけた府中郷土の森のように、家からそれほど離れていない。二十キロぐらいだ。もう何年前になるか、覚えていないけれど一度出かけたことがある…、と書き始めて、調べてみると、二〇一〇年十二月五日のこのブログで書いていた。おそらく十一月末ぐらいに出かけていたのだろう。
 まだ、今ほど縄文時代などに関心を持っていなかった頃、いや、関心を持ち始めた頃というべきか。同じ二〇一〇年の初めに「国宝 土偶展」(東京国立博物館、二〇〇九年十二月十五日〜二〇一〇年二月二十一日)に出かけて、おそらく衝撃を受けたのが、きっかけだったから。
 七年ちょっと前のことだが、時間がよくわからない。遠いような、最近のような。なにか靄か霞がかかっていて、その向こうにかつて行ったという記憶があった。どこかしら、楽しげなイメージだ。
 きっと、また、楽しいだろう、そうぼんやりと。

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 東京都埋蔵文化財センターは、都内の埋蔵文化財の調査、収蔵等を目的に一九八〇年に設立。建物は一九八五年に建設された。おもに多摩ニュータウン地域から発掘調査したものの収蔵と展示があり、常設展と企画展、縄文体験コーナーなどがある。また復原施設として遺跡庭園「縄文の村」を併設。
 常設展示は、旧石器時代の石器(約三万二千年〜二万五千年前)から展示。多摩ニュータウン地域のものは縄文時代早期(約一万年〜六千年前)から縄文時代中期(約五千年〜四千年前)を中心に縄文土器や土偶を展示している。中期以降、徐々に人々はこの辺りから離れはじめ、後期後半になると、生活の痕跡はほとんど見られなくなる。なので、次の時代の弥生の出土品も少なく、古墳時代からまたムラが見られるようになったとかで、以降、奈良、平安、江戸の出土品などの展示もあった。
 だが、なぜなのか、思っていたよりも感動がなかった。常設展示で、さまざまな縄文土器を見る。土器によっては、触れるものもあった。ゆっくりとさわる。ざらざらとした、温もりがつたわってくる。これはやさしさにも似た親しさだ。こんなふうにだけ、かれらと触れあうことができるのだ。
 それは、うれしかったのだけれど、わたしはたんに期待しすぎていたのかもしれない。
 常設と企画を見てのち、縄文体験コーナーへ。こちらも、楽しかった記憶があった。麻やカラムシなどの素材の、当時の衣装を再現したものを試着したり、火起こしをしたり、ばらばらになった土器の破片を組み立てて、復元したり、どんぐりをすりつぶしたり。今回、いったときも、それはほぼ記憶どおりにあった。だが、二回目だからなのだろうか。わくわくとした、気持ちはなかった。不思議なものだ。もうほとんど体験としては覚えていなかったはずなのに、心のどこかで、覚えていたというのだろうか。縄文クッキーのレシピが書いた紙があったので、一枚もらう。
 続く遺跡庭園もそうだ。復元された竪穴式住居が三棟ある小さな森。森も五千年前にあったであろう樹木や野草を再現して植えている。けれども、ほかの遺跡に感じられたような、重みというのか、過去からの息吹が感じられないような気がした。なにか途切れてしまった感じ、今になって、復元しただけのような感じ。実際は、多摩ニュータウン遺跡ナンバー五七遺跡の場所らしいのだが。狭いからかもしれない。すぐ脇に、木の向こうにもはや現代の建物たちが見える。湧水も涸れているのがさびしい。それでも、竪穴式住居跡では、火が焚かれていて、その煙、火が、いとしく思えたけれど。

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 けれども、縄文体験コーナーで、スダジイのドングリを見た。実物だ。そのことが少しうれしかった。
 スダジイ。五月から六月頃に花を咲かせる。これが独特の匂い。生ぐさい、青ぐさい、性の匂い(臭いと書くところだが、わたしにとっては匂いなのだ)がする。わたしはこの匂いが、好きだった。というか、名前を知らない頃から、植物の性の匂いなのだと思って、関心を示していた。調べてみると、精子のような匂いを発するのは、栗か、マテバシイか、スダジイ。どれもブナ科。けれども、ちょうど匂いを発しているあたりに名前を示すプレートがかかっているのを発見。「スダジイ ブナ科」とあった。以来、この匂いはスダジイの匂いなのだと、勝手に決め付けてしまうようになる。中には栗のそれもあったかもしれないが…。精力的なスダジイさん、スダ爺さん。なんとなく、存在を知ってから、名前が判ってから、愛着をもってきた植物で、五月中旬をすぎた頃、あの性の匂いをかぐと、スダ爺さん、頑張っているねえと、勝手に親しみをこめて、つぶやいてきたものだったのだ。
 それが、最近、縄文のことなど気にして、遊びがてら調べていたら、この実が食べられるらしいと知って、うれしくなっていたのだった。スダジイは、秋にいわゆるドングリを熟す。通常、ドングリはアクがあるものが多いそうだが、スダジイは、アクが少ないので、生でも食べられ、縄文時代にもよく食べられていたという…。味は栗に似ているとか。春と秋がわたしのなかでくっついた。花と実が、そして時間が。
 あのスダ爺さんが…。そういえば、加曽利貝塚の縄文祭りで、炒ったドングリを試食したけれど、あれはもしかして、スダジイだったのではなかったか。形も似ている。すこし長細いドングリ。
 また縄文と私が勝手に愛着を持っていたものが結びついてくれた。スダジイ。調べた時は、写真でしかドングリの存在が判らなかったが、ここで、今回実物をみることができた。写真でみるよりも、幾分丸みを帯びていた。
 この埋蔵文化センターにくるほんの数日前、家の近所の緑地で、たまたまスダジイを見つけたことがあった。常緑(照葉樹林)なので、この時期でも葉が青い。冬枯れの木が多い中で、この青さが心にやさしかった。そして、この場所を、この葉を、覚えておこうと思った。五月には、スダ爺さんの、匂いを嗅ぐ。次に秋になったら、スダ爺さんのドングリをさがそう。そうして、炒って食べてみよう。スダ爺さんが、現在と縄文のかつてをつないでくれる…。そう思っていたものの実物をみれたことが、うれしかった。
 さきほど、縄文クッキーのレシピをもらったと書いた。これもスダ爺さんのくれた贈り物。そう思ったり。
 梅もだいぶあちこちで咲き始めた。木瓜も開花しつつある。沈丁花はまだ蕾だけれど、だいぶ膨らんできた。こちらはスダ爺さんと違って、ほんとうにいい匂いのする花を咲かすけれど。春が待ち遠しい、このぐらいの季節がもしかすると、いちばんいい季節なのかもしれない。

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09:05:11 - umikyon - No comments

2018-02-11

梅、猫柳、蝋梅、春告花と土器の温もり─郷土の森 梅まつり(府中市)

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 今年は春がくるのが遅いのかもしれない。立春も過ぎたというのに寒い日が続く。けれども、気のせいだろうか、陽射しがすこしだけ、明るさを増したような気がする。寒さのなかで、オオイヌノフグリ、ホトケノザが咲いているのをみた。もうすぐ、温かな春になるだろう。
 今年はおもに一月になってからだが、芽鱗という、毛皮をかむったような冬芽たちの姿に惹かれた。なんどもさわった。あたたかそうにくるまっている。コブシやネコヤナギの類だと思う。いままであまり気付かなかった。冬はみる植物がないと思っていたからだろう。彼らが寒さに耐えている姿をみて、愛しく思う。気付けてよかった。

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 寒さがまだ厳しいが、それでも家の近くのあちこちで、梅が咲いているのを見かけるようになった。だから、ああ、もう行ってもいいかしらと、府中市の郷土の森・梅まつり(平成三十年二月三日〜三月十一日)に出かけてきた。このイベントは、一月の終わりから知っていた。というか、何年も前から、毎年というほどではなかったが、出かけていた。家と府中は、割と近い。距離にして、十五キロほど。なので、家の近くの梅をバロメーターにして、出かける日をいまかいまかと待っていたのだった。
 府中市郷土の森博物館は、森全体で博物館となっている。移築してきた遺跡、移築復元した建物、博物館としての建物もあり、現在は休館しているがプラネタリウムもある。
 府中は、武蔵国の国府だったという場所なので、遺跡も多いようだ。
 ということを、郷土の森にはいってすぐにある、博物館の建物に入って感じた。由緒ある土地なのだなあと。七世紀中葉に、もう国府になっているのだから。
 少し下調べしていたので、このごろ惹かれている縄文時代の出土品にもお目にかかれるらしいと、それ目当てで入ったのだが。
 常設展に、すこしだけ、縄文期のコーナーがあった。パンフレットなどにあまり記載がないので、府中のどこのかあまり詳しいことは言えないのだけれど、縄文期のものとしては、おそらく府中市内の清水が丘遺跡などのものらしい。おなじみの黒曜石の矢じり、縄文土器、土偶(欠けたものがほどんど)が展示されていた。
 もうこれだけでも、うれしかった。このあたりは多摩川が近いので(郷土の森は多摩川沿いだ)、おそらくその流域だったり、もっと古い時代は、海に面した岬的な場所だったのだろう。 今年に入って、はじめての縄文土器と土偶との対面。
 縄文中期(約五千年前から四千年前)のもの、ハート形土偶や猫のような顔の土偶の頭など。装飾がいちばん豊かに施されている、好きな時代のものだ。
 去年、いつの時代のかわからないけれど、縄文土器片を入手したので、ありがたいことに見ているだけで、なんとなく質感的なものは、感じることができた。ざらざらとした温もり。それによって、眼のまえにある土器、土偶たちが、いっそう親しく感じられたような気がする。かれらの生活の一端の温もりが、呼吸として、発せられていた、その息吹、気配を、感じることができたというか。

 だが、府中といえば、じつは、くらやみ祭りを例大祭とする、大國魂神社が重きを押しているのかもしれない。そう思いつつ、縄文を感じることができ、そのことで、満足しながら、梅祭りが行われている、森のほうへ。

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 森へ行く途中、移築復元された建物たちを通る。博物館本館でも、昔の暮らしとして展示されていたものを見て思ったが、なぜ、かつてのものたちは、美しくって、しみるのだろうか。テレビ、茶箪笥、タイプライター、ステレオ、壁掛けの電話。窓も漆喰の壁も。板の床すら、ていねいな作業がほどこされ、釘と板がほとんど見分けがつかないほどに溶け合っていた。
 今がていねいな仕事がされていないわけではないだろう。今だって、しっかりと作られているはずだ。だが、それが実用性にかたむきすぎ、わたしには、すくなくとも、あまり美しくは感じられない。冷たくて、よそよそしくって、息がつまってしまう。懐古的といえば、それまでだが、ここにあるものたち、それは実用的ではあるが、職人的な技がひかるものたち、手仕事が残るようなモノたちが多かった。だからこそ、美を、いや、ぬくもりを感じたのかもしれない。それは、縄文土器や土偶に感じたものと通じるのかも…とぼんやりと思った。
 
 なかなか梅に辿りつかない。けれども、この遠回りもまた、心地よい。ようやく梅園、梅林へ。だが、まだ開花状況としては、さほどではない。まあそうだろうなと思っていたので、がっかりはしない。早咲きのものがそれでももはや、開花していたから、それで十分だった。梅があちこちで満開になったら、見事だろう…そう思いつつ、園内を回るのも、楽しい。元に福寿草の黄色い花も見受けられた。そんななかで、早くも開花している紅梅、白梅たちに出合うと、それでも、心がはしゃいでしまうのだった。

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 中途にあった園内の売店で、梅干しを買う。ここ郷土の森で採れた梅で作ったものだそうで、去年は不作で販売されていなかったとのこと。梅を見て、そこで採れた梅干しを買う。贅沢なことだ。
 梅林をすぎて、ロウバイの小路へ。蝋梅と書く。ちなみに、同じく梅とつくが、ロウバイはクスノキ目ロウバイ科ロウバイ属、梅はバラ目バラ科に属しているので、系統的には遠い。だからというわけではないが、開花時期も若干違う。ロウバイの方が早い。園内を案内している係らしき人が、「ロウバイは見ごろを過ぎました」と言っているのを耳にしたが、なるほど満開を過ぎた感じ、でも、まだ十分見ごたえがあり、この時期に来れてよかったと思った。いつも梅のほうに照準を合わせてきていたこともあり、ここまでロウバイが咲いているのに出くわしたのははじめてだったから。
 蝋の梅と書くように、花びらはどこか蝋を塗ったような光沢がある。蝋細工のようだ。黄色い花が、明るくなってきた陽射しに合っている。


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 売店で、鯉のエサを売っていたので、池があったことを思い出す。最後に池のほうへ。池にそそぐ小川があって、その岸辺にネコヤナギたち。あの毛をかむった芽鱗の代表格のともいえるものだ。子どもがそっとさわって、やわらかな感触を楽しんでいる。まさか、ここで会えるなんて。もふもふと、やさしい。こちらも水辺によく合っている。

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 今年は春が来るのが遅い…と思っていたが、心がこのごろすこし明るくなってきているのは、こんなふうに春がやっぱりやってきていて、それをどこかで感じていたからだったのだろう。
 ネコヤナギを見て、池の鯉や、カルガモたちを見て、帰ろうと思ったら、すこし小高くなった所に、遺跡のようなものがあった。円形に石を敷き詰めたもの。柄鏡形敷石建築跡とある。縄文時代中期(約四千五百年前)の集落跡である清水が丘遺跡で発掘調査された遺構を移築、柄鏡のような平面形をして、床に石を敷き詰めた形式の建物跡で、おそらく呪術や祭祀などと関係があるのでは、とのことだった。敷石は、この近くの多摩川のものらしい。
 まわりがコンクリートで覆われているので、正直、風情にかけるような気がしたが、それでも縄文ゆかりの跡地を見れたことがうれしかった。

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 郷土の森を出てすぐのところに観光物産館的な場所がある。家からすぐのところで、こんな旅先のような店があるのは楽しい。まるで、ちょっとした観光だ。こちらにも梅干しが売られていた。他にお菓子や府中の資料、そして野菜や、お酒に漬物、ジャムなど物産(なかには姉妹都市でつくられたものもあるようだ)。いびつな人参を買う。なんとなくかわいらしい形。
 すぐ向こうには、まだ若いが、河津桜たちが植わっていた。ああ、そうだったなと思い出す。まだまだ花は咲かないけれど、あとひと月もすれば、ソメイヨシノよりも鮮やかな桃色の花をつけて、辺りを華やかにするだろう。もう、そろそろと、今だって、明るさが、訪れているのだから。
16:26:38 - umikyon - No comments