Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-04-15

変わること、慣れること

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 桜の終わりの頃、ある公園で猫とアオダイショウの子供が対峙しているのを見た。猫が圧倒的に優勢だった。蛇は威嚇していたが劣勢だ。猫は遊び、楽しんでいる。だが猫は飼い猫だったので、気づいた飼い主が猫をおっぱらって、おしまいになった。桜の花びらが落ちる茂みに逃げてゆく蛇。花底蛇という言葉があったっけ。美しいものには恐ろしいものが潜んでいるという、中国のことわざ。けれどもこの蛇はちっとも恐ろしくなかった。緑がエメラルドのように光っていて、新緑の葉とよく合っていた。

 やっと、古いパソコンから、新しいパソコンに移行した。ワードとテキストデータの編集ソフト。この使い勝手が心配だったが、こちらはなんとかなりそう。意外と慣れることができなかったのは、画面の色。写真などが、今までよりも、なんとなくセピアがかっているというか、暖色系が強いというか。気にしなければ、気にならないか、なれればいいのだろうけれど、前に使っていたものとの比較というよりも、現在使っているスマホともあきらかに色が違うので難しい。
 購入したパソコンメーカーに電話して、色の調整をしてみた。というよりも、今は便利で、リモートで向こうがやってくれる。他の移行作業や、初期設定では利用しなかったのだけれど(ちょっと、自分をほめたくなっている。機械音痴なのによくできたなあと(笑))。色の調整も、ほとんどが自分で試したことだったのだけれど、パソコンの進める設定を、あえてしないという裏技で、幾分か前のイメージに近づけることができた。
 原稿や写真などのデータ、住所録などは、外付けハードディスクにずっと保存していたので、これも問題なかった。パソコン本体にのみ保存していたデータもあったが、そのほとんどが、いらないものだったから、なくなっても問題ない。
 ただ、メール。今までウインドウズライブメールだったのが、それは現在、存在しないということで、アウトルックのメールに。そのため、アドレス帳だけは移行できたけれど、前のメールが見えなくなってしまった。ただ、数年前から、Gメールと同期していたので、Gメールの送受信データは、残っている。これも、それを参照すれば問題ない。こんなことは、不便といえば、不便だけれど、たいして気にならない。けっこう気持ち的には、どうになるのだなと、慣れるのだなと、少し拍子抜けする。


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 そして。まえのパソコンはウインドウズ7だったのだが、今度はウインドウズ10。なのに、前のパソコンにできうる限り、画面を近づけてしまうことが、すこしおかしい。そうすることで、ほっとしている自分が。今までの環境をできるだけ保持しようとする。そうして、慣れという日常を、温存しようとするのだ。これを書いているテキストデータの編集ソフトも、なるべく前と同じような見え方にしていて。
 原稿作成をするワードは2007から、2016に変わった。ただ、前のワードはあえて、見え方をそれ以前の2003になるよう、オールドスタイルというソフトを使っていたので、実はこれがいちばん心配だった。2003年のワードを使っていたようなものだから。
 だが、前のパソコンでも、このままでは、前の見え方のままのを、使っていても、進歩がないなと、どこか罪悪感のようなものを感じていたので、すこしずつ、努力はしていた。オールドスタイル以外にも、現在の表示で使うこともできるので、それを少しずつ使っていった。少しずつ、八年かけて。なので、意外なことだったが、2016に移行したあとでも、さほど違いに今のところ、困っていない。よく使うページ設定だけ、すぐに出せるようにしたから、なおさらだ。
 少しずつ、慣れていったのだ。今日のために。過去からの積み重ねと、今の環境の変化たちが、慣れという面で、妥協した。そうして、慣れにむかって、明日になる。
 慣れというのを、以前は、否定的に思っていたこともあったが、今は大事なことだと思う。そうすることで、人はその場に居やすくなる。住みやすくすることで、落ち着くのだ。
 だが、このパソコンになって、はじめて文章を書いているが、入力の反応がいい。変換の速度が速いというか。昔のワープロみたいだ。これはすこしうれしい。


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 こんなことたちにかかずらっているあいだに、桜はとうに散ってしまった。今は桜の花だったのか、と不思議に思うほどの、新緑がやさしい色合いをみせてくれる、桜の樹木たちとなっている。
 この間に、二つ、三つ、出かけることがあったのだけれど、今日は一つだけ。数日前に、世田谷郷土資料館にいってきた。
 区報で、企画展「遺跡調査速報展 低地の縄文集落と横穴墓」をやると、知ったからだ(4月7日〜5月6日)。ここは、ボロ市や、せたがやホタル祭りとサギ草市が開催されている時に出かけるところ。とくに後者のホタルのほうのメイン会場でもある。
 最近も、ボロ市が開催されているときに訪れた場所。

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 企画展は、うちのすぐ近くの遺跡なので、ちょっと楽しみだった。
 けれども、じつは、いまいち…。なぜなのだろうか。発掘されたのが、縄文後期のものだったからだろうか。装飾の少ない、縄文後期。いや、それだけではない、なにか、おざなりな感じがしたからだろうか。とはいっても、場所的なことが、おおよそイメージできたので、それなりの感慨はあったのだけれど。だが、やはり前にも見たけれど、常設展の縄文土器や、土偶の展示のほうが心にしみた。
 とくに、古墳時代(千三百年前)なのだけれど、横穴墓に描かれた線刻画。これが富士山などが見える橋(元々切り通しの上に架けられた橋なので、川はない)のもので、よく通っている場所だった。埋葬された人なのか、こけしのような素朴な線が刻まれているのがわかる。悼む、祈りのような気持ちが伝わってきたからだろうか、どこか心に残った。この線刻画を見てから、橋を通るたび、心がざわつくようになった。今日も通るだろう。明日も。こんなふうにして、彼らと関わることができるのだ。

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 桜もとうに散って、レンゲソウが咲いていた。ただ、このレンゲソウ、公園の田んぼ、休耕中用に、植えられていたもので、この日、帰りに通りかかったら、むざんに、トラクターで轢かれていた。そろそろ、田植えの準備をしなければいけないからだ。咲いて、満開になって、間がないのに。
 仕方ないことだとはわかっているが、悲しかった。次の日、昼間、また通りかかったら、田んぼとして整備され、水が流れつつあったが、まだかすかに、殺戮をのがれたレンゲが咲いてくれていた。この姿も、まもなく見えなくなってしまうのだろうけれど。
 
 朝が来るのが早くなった。ここに書きたくない事情で、少しだけ朝の出勤の時間が遅くなった。十五分から二十分程度だ。それだけで、景色の見え方が違う。それまでは、早朝というよりも、夜中に出勤しているような感じだったが、ほんの少し時間を遅らせただけで、もはや、東雲、東の空が明るい。四時三十五分から、四時五十分へ。空が明るい、それだけでもすこし、うれしかったが、この時間の差、というよりも、空の明るさのせいだろう、鳥たちのさえずりも多く聞かれるようになった。シジュウカラ、ウグイス、スズメ。あとはわからない。ウグイスは、庭の広い、緑が多いお宅があって、その庭から。鳴き声はまだ聞かないが、カラスも猫みたいに、道ばたを歩くのを目にするようになった。変化もまた、よし。
 新緑も柔らかな色合いが、目にしみる。これも、慣れるとともに、当たり前になってしまうのだろうけれど。
 季節が変わってゆく。
15:52:08 - umikyon - No comments

2018-04-01

桜の季節に、彼らと別れる

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 桜、三月の、あれはいつだったかしら。はじめて写真を撮ったのは二十三日の金曜日。まだ四分咲きぐらいかなと思っていたら、次の土曜日は、もう五分、六分咲きぐらい。
 そしてまだ四月にならないうち、散り始めている。
 毎年、桜が咲くと、心がさわぐ。とくに、仙川沿いの、川にかかる桜並木を訪れると。
 あそこで、たくさんの桜たちに囲まれると、桜まみれになる。川に桜が映って。みわたすかぎり、ほとんど、右も左も、頭上も、向こうも、下も。あの川沿いの桜を眺めに行くと、わたしの桜狂騒がはじまる。
 あの桜だから、というのとは、すこし違う。家の近所で、集まって咲く桜たちだから、というのが近いかもしれない。赤塚に住んでいた頃は、それは光が丘公園の桜だった。あの桜を味わえなくなるのを、さびしく思ったことを思い出す。もっと前は、青山墓地の桜…、こちらも墓地だからか、青い山という地名のせいか、不思議な魅力を…。あの桜たちはきっと健在だ。そういえば、引っ越してから、偶然、青山墓地の近くを桜の時期に通ったことがあったと思うが、あまりそのときの記憶がない。もはやあの桜は、ひとごとの桜だったのだろう。

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 桜とはあまり関係ないことだけれど、桜がちょうど花盛りを迎えたころ、パソコンの調子がおかしくなった。ドライブの故障らしい。色々、不具合があるのだけれど、特に、こんなふうに文章を入力する際に、電源が落ちるのが、一番困った。今日は珍しく、立ち上げたときから、調子がいいので、急いでこれを書いている。
 その状態のとき、締切原稿が三本あって、少し難儀した。ゆううつになっていった。勝手ないいぶんだが、原稿は、ペンを使うみたいに、指でキーボードをタッチして、自由に書きたいのだ。その行為が長いこと当たり前になっていたから、原稿を書くとき、寸前まで書いていた言葉たちが、失われてしまう、そうしたことが、少しこたえた。弱虫だなあと思うのだけれど、こまめに保存したり、スマホで画面を撮影したり、そんな作業の不自由さに、心が重くなっていったのだと思う。
 桜を眺めている、その時、どこか、心が沈んでいるのだけれど、まだ、家にいないから、だいぶましだったが、いまいち、影を落としていた。
 ともかく。桜たちを眺めているとき、この日記も、書けないんじゃないかと、スマホで思ったことをメモした。スマホで文章を作ること、今まであまりしてこなかったし、これからも、あまりしないだろうけれど(頭が慣れないのだ、言葉が浮かびづらい、だったらメモ帳に書いたほうがいい)、桜だらけの橋のたもとで、文章をつくるのは、それでもすこし、心地よかった。

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「 桜。人工的、作為的だから、だろうか。他の植物の、花ざかりの時とは、向き合う心が違う。他の植物なら、もっと、穏やかで、愛しいような、ぬくもりを感じる。
 桜は、違う。どこか、狂おしい。

 桜でも、梅でも、何処までも続く感じに、惹かれる理由は、なんとなく、わかった。
 まるで永遠のように、思えるからだ。それが特に短い花期の桜なら、よけいに、永遠と一瞬を、見出してしまうのかもしれない。見わたすかぎり続く桜は、むせそうになる。静かに、おかしくなりそうだ。
 梅は、もっと、包む感じが、やさしい。どちらが、好きということでは、ないのだけれど。」

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 その桜も、これを書いている三月三十一日、もしくは四月一日には、ずいぶんと散って、終わりに近づいている。永遠は続かない。今年の桜狂騒は、すこしばかり尻切れトンボに終息をむかえつつある。

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 原稿は、あたりまえなのだろうけれど、なんとか、書き終えた。パソコンは、部品がなく、もう修理が出来ないということで、買い換えることに。八年使っていたらしい。今のパソコン寿命を考えたら、十分なのかもしれない。だが、実は新しい環境にはいることが苦手で(おおかれすくなかれ、多くの人がそうかもしれない…、それは太古の昔からの遺伝子レベル的なものらしいから)、そのことも、すこし気が重かったが、文章を書いているときに電源が落ちることを気にしている不便さよりは、新しい機種、新しい環境で、慣れようとすることのほうが、よっぽど建設的で、ましだった。
 それに四月は、新しい環境にふさわしい時ではないか。
 カラスノエンドウ、ユキヤナギ。桜が散ったあとの、とある公園では、レンゲの花が早くも咲き始めていた。先日採った土筆たちは、丈が大分伸びていたり、もはやスギナになっている。ジシバリ、紫の小さな手のひらのような花が懐かしくもかわいいカキドオシ(似ているサギゴケが好きなのだけれど、こちらはあまり見ない)、ヒメオドリコソウ、ハナニラ、ムラサキダイコン、タチツボスミレ。木々の色合いも、やわらかな黄緑色がやさしい。冬の上着も、もはやいらない。とはいえ、上着は取っておけるけれど。
 数日前、長年愛用していたペンが、交通事故にあった。ポケットに入れておいたら、知らずに落ちて、車に轢かれてしまったのだ。
 ポケットにないから、落としたのかしらと道路をみたら、無残にばらばらになった姿が。
 どうして、こんなにショックを受けるのか、自分でも不思議なぐらいだった。ずっと、そばにいてくれたのに。値段的なことではない。補充インクを交換して使うタイプのもので、びっくりするほど安いものだ。ばらばらになった姿が、生き物であったものの、最期のようだった。わたしは、だんだん子どもに還っていっているのだろうか。モノたちに愛着を持っていることは自覚しているから、当然といえば、当然なのだが。
 これを書いているパソコンも、これを最後に、おそらく、お別れ。ありがとう、今日はとくに、頑張ってくれて。冬が往く、そして春が。

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07:47:29 - umikyon - No comments

2018-03-25

光の王国

 桜が咲きだした。気付いたら、あちこちに、コオニタビラコ、ハコベ、ペンペン草、春はあっというまにきた。木の芽たちも、つぶらで、うまれたての色で、あいらしい。オオイヌノフグリは、春の星のようだ。ユキヤナギ、レンギョウ、タンポポ。どこか、心がふさぎがちなのだけれど、かれらをみると、ぽっと火がともるように、温かさを感じる。

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 きょうは、すこし、自分のことを、書いてみる。
 一人遊びがすきな子どもだった。わたしはそのことをいまでも良かったと思っている。どうした事情なのかは、しらないけれど、幼稚園にいっていなかったから、小学校にあがるまで、ほとんど独りで遊んでいた。その頃のことは、わりとよく覚えている。絵を描いていたこと、紙をつかって、工作していたこと、空想していたこと、ビー玉や金色のボタンに光があたる。光の果てまで覗くことができ、その先に王国があると思っていたこと。
 ただ、そのかわり、同年代の子と接することをしてこないまま、小学校にあがったので、人との距離がつかめなかった。集団となじむことができなかった。具体的にはいじめにあった。かなしいとかつらいとかはあまり思わなかった。いやではあったが、どこか冷めていた。学校とは、級友とは、距離を置くこと。彼らと接したいとは思ったが、それはいじめという壁にぶちあたることでもあったから、保身だった。あるいはいじめられている自分を、ほんとうの自分ではないと思っていたかもしれない。放課後、ひとりになって、はじめて自分に戻れる。光の王国へ入れるのだ。わたしはそのなかで、絵を描いた。散歩をした。まだ、あちこちに原っぱがある頃だ。草たちにまぎれこみ、季節ごとに花たちと出逢った。飼い猫の黒猫、ロロもいた。大好きな父もいた。わたしはやはり幸福だった。空想の王国は、逃げ場所だったのかもしれないが、そうした意識はなかった。学校よりも、その王国とのつきあいのほうが長かったから。
 今日は、けれども、その光の王国のことを、書こうと思ったのではない。
 わたしは、彼らと、最初から、表面上でしか、付き合おうとしなかったのだとか、彼らに向けて、言葉を発することをしてこなかったのだなとか、彼らに言葉を届けようとしなかったのだとか、そんなことに、今更気づいた、ということを書こうとしたのだ。
 彼らとは、他者ではあるけれど、学校に端緒を発する、集団社会でもある。それは日常の喩でもある。大人に近づくにつれ、あまりいじめられなくなったが、本心をみせることをしなくなったからだと思っていた。それはもはや癖となってしまい、今でも、延々と続いている。あの頃の学校的な場所、勤め先その他、人が集まる場所では、事務的な会話か、上っ面の会話しかしない。あるいは、もはや会話にならない。わたしは無口になっていっている気がする。言葉が口にのぼってこないのだ。たまに反論しないといけないような事態に陥ることがあるが、そのあとで続くであろう会話を予想して、面倒になってしまい、口をつぐむこともある。
 「わたしは生き延びるために書いてきた。口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきたのだ。無言で語ること、黙して語ること、失われた言葉を待ち受けること、読むこと、書くこと、それらはみな同じことだ。なぜなら、自己喪失とは避難所だから」(パスカル・キニャール『舌の先まで出かかった言葉』青土社・高橋啓訳)
 わたしは、この言葉が好きだった。
 わたしにとって、口を閉ざして書ける言葉は、詩であり、絵を描くことだった。二十歳ぐらいのとき、このまま絵を描くか、詩を書くか悩んだことがあった。不器用だからか、どちらか一方に集中しようと思ったのだ。そうして、選んだのが詩を書くことだった。けれども、それは、口に出す言葉ではなかった。書くこと、描くことも、対象との対話であるけれど、日常的な会話ではけっしてなかったから。
 大人になって久しいわたしは、あいかわらず、人が苦手だ。彼らに本心をみせる術がもてなかった。うわべだけの会話を学んだ。ただ、そのときどきの恋人にだけは、もうすこし、ちがうものを求めていたが。それは、社会的な意味がほとんどない、非日常に近しい存在だから。
 いまも、会話というか、声にだす言葉は苦手だ。人と会話しているわたしは、ほとんど、なにかをとりつくろっている感じがしてしまう。電話も苦手だ。親しい人の電話でも、出ることができなかったりする。
 ただ、最近は、もはや、声にだす言葉は、どうでもよくなってしまっている。それよりも、対象にむけて、口をつぐんで、声をかけている、その言葉が気になっている。
 前を猫がよぎる。猫に心の中であいさつをする。モクレンの、あの猫の毛みたいな芽鱗、冬の寒さを守っていたふわふわの子たちは、その役割を終えて、花がさいた今は、毛をぬいで、ガクになろうとしている。その薄くなった毛にさわって、またあいさつをする。あたたかくなってきたからねえ。冬の寒さに耐えてたんだねえ。たわいのない言葉だ。紫陽花の葉、ドクダミの葉、そのほか、樹木のちいさな緑色の芽が、つぶつぶと色を持ち始めている。それらにあいさつを交わすのが、楽しい。それは幼児のころにすこし似ている。わたしはだんだん幼児に還っていっている気がする。
 数日前、ポスティングのバイトの途中で、土筆を見つけた。川に近い、駐車場の隅でだ。うれしかった。さわった。バイトを終えたとき、もう午後五時半近くだったけれど、まだ辺りは明るかった。その周辺にも、土筆が生えていた。駐車場にほどちかい空地だった。なつかしいなと思いつつ、いつか家が建ったら、この土筆たちはなくなるんだろうなと、すこし切なくなった。そういえば、わたしが住んでいるマンションの駐輪場にも、数年まえまで、土筆が生えていたのだけれど、管理会社の方が、こまめに草むしりとか、してくれているため、今年はみえなくなってしまったことを思い出す。
 いま、空地の、眼前の、土筆たち。そのありのままの姿を眼にやきつけておこう、それだけで、いいじゃないかと思った。けれど、気がついたら、土筆採りを始めていた。せっかく生えてきた土筆にたいして、もうしわけないと思ったのに。最初に摘んだら、もう、ためらいはうすれてしまった。かつて、土筆を採った記憶がよみがえる。たしか、ハカマをとらないといけないし、調理すると、少しになるんだよなとか。この街に来てからは、はじめてだけれど、過去に何回か土筆採りをしたことがあるのだった。こうした行為もまた、会話ではなかったか。過去や土筆との。せっせと採るのがおおむね楽しかった。土筆をとるときに、緑の粉が舞う。胞子だろう。指につく。それもこれも会話。
 もういいかげん辺りが暗くなったので、家に戻った。すぐさま土筆の下処理、採ってきた土筆のハカマを取って、土筆の佃煮を作った。これは日常、そして非日常。無言の会話が境目でいとしい。光の王国は、こんなところに、変わらずに門戸をひらいてくれている。

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09:24:49 - umikyon - No comments

2018-03-15

いちめんの梅源郷─越生梅林

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 今年も埼玉県の越生梅林に出かけてきた。三日連続の雨の翌日の土曜。まだ朝早い時間は、雨がわずかに残っていたが、それも止んで曇り。午後には晴れて、そんな、出かけるには、ぎりぎりの一日。
 はじめてここに来たのは、いつだったろう。十九歳ぐらいだったか。なんだか記憶がごっちゃになっている。十九の時に来たことは覚えているのだけれど、その前に、わたしが小学生だった時に、家族で来ているような気もするのだ。けれども、それはおなじ越生でも、梅林からほど近い、黒山三滝にいっていたのかもしれない。
 こう書いているうち、思い出してしまった。と書くのは、記憶があいまいな状態を、わたしがどこかで楽しんでいたから。謎のまま、滝と梅が、桃源郷ならぬ梅源郷を作っていてくれたらいい……。

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 そうなのだ、小学生の時に行ったのは黒山三滝のほうだった。梅林は十九歳が初めて。山にかこまれた、静かな梅林たち。梅農家の方々の栽培する梅たちを含めると二万本以上の梅が栽培されているという。はじめて行ったときは、すこし雨が降っていたかもしれない。いや、おぼえていないが、なにか梅の花たちが、だったのか、霞のように、むこうに拡がり、それが幻的な美となって、わたしに語りかけてくるようだったのを覚えている。声にならない、大切なささやきとして、誘ってくるようだった。あまたの、開花たちが、そこで息づいている。その景観、その姿にしずかに圧倒された記憶がある。おびただしい花たちなのだが、むせそうということではない。ただ、遠い夢が再現されたような、つつましさ、おくゆかしさのある、梅の花たちなのだった。
 そう、それはかそけき声といってもいい。梅は、そんなふうに、わたしのなかに足跡を残していった。その姿に会いに行くため、ながいこと、梅に会いに出かけている、といった面もあるのではないだろうか。
 ほとんど、変わらないように見える、梅林。けれども、おそらく長年の間、なにかがすこしづつ変わっているにちがいない越生の梅たちに、わたしはなにを見ているのだろうか。また春が来て、みずからの生のために、咲いている梅。売っている梅干し、そして今年も来たという自分を、梅の花たちに重ねているのだろう。そこにはかつてのわたしが、顔をだしている。そんなもろもろも含めて、梅はわたしに誘うのだ。それが、梅とわたしの接点をつくっているのかもしれない。

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 越生梅林。梅まつり会場は越辺川(おっぺがわ)沿いの二ヘクタールの場所。越辺川。ふしぎな響きをもつ川は清流だ。小学生の時にこの川に遠足で来たことがある。なんとなく、かわいらしいというか、ひょうきんな響きだなと思った記憶がある。今回、来たとき、雨の影響でいくぶん水が濁っていると思ったのだけれど、しばらくすると、また水の透明度が増してきたように思えた。澄んできた水と、対岸の梅を眺めるのはうれしい。“おっぺ”という響きと、子どもの頃から、清流として親しんできたものとの、数十年経っているのに、見た目にはほとんど変わらぬ再会。変わらないでいる梅林とともに、それは幻想を与えてくれるのだった。永遠では決してないけれど、そして、そうなるまでには、べつの力たちが積み重なった結果であるのかもしれないけれど、とどまっている姿、変わらないように見えるものがあるのだと。
 そういえば、梅たち。わたしは、つい、梅の花たちが、たくさん、むこうまで、咲いているような、つらなっている姿を写真におさめようとしてしまう。それは、十九歳の時に、みた梅源郷的な記憶が大きいのだろう。あんなふうな、みわたす限りの梅、霞がかった、いちめんの梅の記憶を、今ここで、再現したいという気持ちも、どこかで働いているのではなかったか。けれども、それに捉われているわけではない。今の、この梅は梅だ。この梅の瞬間を、写真に撮りたい。ただ癖として、そんなこともあるのだった。
 
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 今年は、三月十日に出かけたのだが、七分咲か八分咲ぐらい。見た目にはほぼ満開に見える。ちょうどいい頃だったと思う。花が盛りをすぎていない、盛りにむかって、謳歌しようとしている、そんな勢いが感じられる。終わりつつある花がほとんど見受けられない、暖かさをましていく春、陽射しが明るくなってくる春に、とてつもなく合っている、そんな春の使者としての梅たちの姿が優しかった。
 梅干しを買って帰る。先日訪れた府中でも買ったけれど。これらの梅干しを自宅で、食卓で食べる度に、土地の名を思い出す。それがなんだかゆかしい。わたしたちはこんなふうに、霞がかったようなあいまいななか、関係をもつことができるのだ。

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00:49:48 - umikyon - No comments

2018-02-25

スダ爺さん (東京都埋蔵文化財センター)

 陽射しがだいぶ明るくなってきた。夜が明けるのが早くなり、日が暮れるのが遅くなってきた。まだ寒いけれど、こうした太陽の変化だけでも、心がそれでもすこし華やぐようだ。モクレンの芽鱗の毛皮もますますふくらみが大きくなってきた。そっとなでてみる。温かい、なにかが伝わる。

 先週の土曜、多摩市にある東京都埋蔵文化財センターにいってきた。最寄駅は多摩センターだけれど、家人と車で。ここも、前回出かけた府中郷土の森のように、家からそれほど離れていない。二十キロぐらいだ。もう何年前になるか、覚えていないけれど一度出かけたことがある…、と書き始めて、調べてみると、二〇一〇年十二月五日のこのブログで書いていた。おそらく十一月末ぐらいに出かけていたのだろう。
 まだ、今ほど縄文時代などに関心を持っていなかった頃、いや、関心を持ち始めた頃というべきか。同じ二〇一〇年の初めに「国宝 土偶展」(東京国立博物館、二〇〇九年十二月十五日〜二〇一〇年二月二十一日)に出かけて、おそらく衝撃を受けたのが、きっかけだったから。
 七年ちょっと前のことだが、時間がよくわからない。遠いような、最近のような。なにか靄か霞がかかっていて、その向こうにかつて行ったという記憶があった。どこかしら、楽しげなイメージだ。
 きっと、また、楽しいだろう、そうぼんやりと。

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 東京都埋蔵文化財センターは、都内の埋蔵文化財の調査、収蔵等を目的に一九八〇年に設立。建物は一九八五年に建設された。おもに多摩ニュータウン地域から発掘調査したものの収蔵と展示があり、常設展と企画展、縄文体験コーナーなどがある。また復原施設として遺跡庭園「縄文の村」を併設。
 常設展示は、旧石器時代の石器(約三万二千年〜二万五千年前)から展示。多摩ニュータウン地域のものは縄文時代早期(約一万年〜六千年前)から縄文時代中期(約五千年〜四千年前)を中心に縄文土器や土偶を展示している。中期以降、徐々に人々はこの辺りから離れはじめ、後期後半になると、生活の痕跡はほとんど見られなくなる。なので、次の時代の弥生の出土品も少なく、古墳時代からまたムラが見られるようになったとかで、以降、奈良、平安、江戸の出土品などの展示もあった。
 だが、なぜなのか、思っていたよりも感動がなかった。常設展示で、さまざまな縄文土器を見る。土器によっては、触れるものもあった。ゆっくりとさわる。ざらざらとした、温もりがつたわってくる。これはやさしさにも似た親しさだ。こんなふうにだけ、かれらと触れあうことができるのだ。
 それは、うれしかったのだけれど、わたしはたんに期待しすぎていたのかもしれない。
 常設と企画を見てのち、縄文体験コーナーへ。こちらも、楽しかった記憶があった。麻やカラムシなどの素材の、当時の衣装を再現したものを試着したり、火起こしをしたり、ばらばらになった土器の破片を組み立てて、復元したり、どんぐりをすりつぶしたり。今回、いったときも、それはほぼ記憶どおりにあった。だが、二回目だからなのだろうか。わくわくとした、気持ちはなかった。不思議なものだ。もうほとんど体験としては覚えていなかったはずなのに、心のどこかで、覚えていたというのだろうか。縄文クッキーのレシピが書いた紙があったので、一枚もらう。
 続く遺跡庭園もそうだ。復元された竪穴式住居が三棟ある小さな森。森も五千年前にあったであろう樹木や野草を再現して植えている。けれども、ほかの遺跡に感じられたような、重みというのか、過去からの息吹が感じられないような気がした。なにか途切れてしまった感じ、今になって、復元しただけのような感じ。実際は、多摩ニュータウン遺跡ナンバー五七遺跡の場所らしいのだが。狭いからかもしれない。すぐ脇に、木の向こうにもはや現代の建物たちが見える。湧水も涸れているのがさびしい。それでも、竪穴式住居跡では、火が焚かれていて、その煙、火が、いとしく思えたけれど。

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 けれども、縄文体験コーナーで、スダジイのドングリを見た。実物だ。そのことが少しうれしかった。
 スダジイ。五月から六月頃に花を咲かせる。これが独特の匂い。生ぐさい、青ぐさい、性の匂い(臭いと書くところだが、わたしにとっては匂いなのだ)がする。わたしはこの匂いが、好きだった。というか、名前を知らない頃から、植物の性の匂いなのだと思って、関心を示していた。調べてみると、精子のような匂いを発するのは、栗か、マテバシイか、スダジイ。どれもブナ科。けれども、ちょうど匂いを発しているあたりに名前を示すプレートがかかっているのを発見。「スダジイ ブナ科」とあった。以来、この匂いはスダジイの匂いなのだと、勝手に決め付けてしまうようになる。中には栗のそれもあったかもしれないが…。精力的なスダジイさん、スダ爺さん。なんとなく、存在を知ってから、名前が判ってから、愛着をもってきた植物で、五月中旬をすぎた頃、あの性の匂いをかぐと、スダ爺さん、頑張っているねえと、勝手に親しみをこめて、つぶやいてきたものだったのだ。
 それが、最近、縄文のことなど気にして、遊びがてら調べていたら、この実が食べられるらしいと知って、うれしくなっていたのだった。スダジイは、秋にいわゆるドングリを熟す。通常、ドングリはアクがあるものが多いそうだが、スダジイは、アクが少ないので、生でも食べられ、縄文時代にもよく食べられていたという…。味は栗に似ているとか。春と秋がわたしのなかでくっついた。花と実が、そして時間が。
 あのスダ爺さんが…。そういえば、加曽利貝塚の縄文祭りで、炒ったドングリを試食したけれど、あれはもしかして、スダジイだったのではなかったか。形も似ている。すこし長細いドングリ。
 また縄文と私が勝手に愛着を持っていたものが結びついてくれた。スダジイ。調べた時は、写真でしかドングリの存在が判らなかったが、ここで、今回実物をみることができた。写真でみるよりも、幾分丸みを帯びていた。
 この埋蔵文化センターにくるほんの数日前、家の近所の緑地で、たまたまスダジイを見つけたことがあった。常緑(照葉樹林)なので、この時期でも葉が青い。冬枯れの木が多い中で、この青さが心にやさしかった。そして、この場所を、この葉を、覚えておこうと思った。五月には、スダ爺さんの、匂いを嗅ぐ。次に秋になったら、スダ爺さんのドングリをさがそう。そうして、炒って食べてみよう。スダ爺さんが、現在と縄文のかつてをつないでくれる…。そう思っていたものの実物をみれたことが、うれしかった。
 さきほど、縄文クッキーのレシピをもらったと書いた。これもスダ爺さんのくれた贈り物。そう思ったり。
 梅もだいぶあちこちで咲き始めた。木瓜も開花しつつある。沈丁花はまだ蕾だけれど、だいぶ膨らんできた。こちらはスダ爺さんと違って、ほんとうにいい匂いのする花を咲かすけれど。春が待ち遠しい、このぐらいの季節がもしかすると、いちばんいい季節なのかもしれない。

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09:05:11 - umikyon - No comments

2018-02-11

梅、猫柳、蝋梅、春告花と土器の温もり─郷土の森 梅まつり(府中市)

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 今年は春がくるのが遅いのかもしれない。立春も過ぎたというのに寒い日が続く。けれども、気のせいだろうか、陽射しがすこしだけ、明るさを増したような気がする。寒さのなかで、オオイヌノフグリ、ホトケノザが咲いているのをみた。もうすぐ、温かな春になるだろう。
 今年はおもに一月になってからだが、芽鱗という、毛皮をかむったような冬芽たちの姿に惹かれた。なんどもさわった。あたたかそうにくるまっている。コブシやネコヤナギの類だと思う。いままであまり気付かなかった。冬はみる植物がないと思っていたからだろう。彼らが寒さに耐えている姿をみて、愛しく思う。気付けてよかった。

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 寒さがまだ厳しいが、それでも家の近くのあちこちで、梅が咲いているのを見かけるようになった。だから、ああ、もう行ってもいいかしらと、府中市の郷土の森・梅まつり(平成三十年二月三日〜三月十一日)に出かけてきた。このイベントは、一月の終わりから知っていた。というか、何年も前から、毎年というほどではなかったが、出かけていた。家と府中は、割と近い。距離にして、十五キロほど。なので、家の近くの梅をバロメーターにして、出かける日をいまかいまかと待っていたのだった。
 府中市郷土の森博物館は、森全体で博物館となっている。移築してきた遺跡、移築復元した建物、博物館としての建物もあり、現在は休館しているがプラネタリウムもある。
 府中は、武蔵国の国府だったという場所なので、遺跡も多いようだ。
 ということを、郷土の森にはいってすぐにある、博物館の建物に入って感じた。由緒ある土地なのだなあと。七世紀中葉に、もう国府になっているのだから。
 少し下調べしていたので、このごろ惹かれている縄文時代の出土品にもお目にかかれるらしいと、それ目当てで入ったのだが。
 常設展に、すこしだけ、縄文期のコーナーがあった。パンフレットなどにあまり記載がないので、府中のどこのかあまり詳しいことは言えないのだけれど、縄文期のものとしては、おそらく府中市内の清水が丘遺跡などのものらしい。おなじみの黒曜石の矢じり、縄文土器、土偶(欠けたものがほどんど)が展示されていた。
 もうこれだけでも、うれしかった。このあたりは多摩川が近いので(郷土の森は多摩川沿いだ)、おそらくその流域だったり、もっと古い時代は、海に面した岬的な場所だったのだろう。 今年に入って、はじめての縄文土器と土偶との対面。
 縄文中期(約五千年前から四千年前)のもの、ハート形土偶や猫のような顔の土偶の頭など。装飾がいちばん豊かに施されている、好きな時代のものだ。
 去年、いつの時代のかわからないけれど、縄文土器片を入手したので、ありがたいことに見ているだけで、なんとなく質感的なものは、感じることができた。ざらざらとした温もり。それによって、眼のまえにある土器、土偶たちが、いっそう親しく感じられたような気がする。かれらの生活の一端の温もりが、呼吸として、発せられていた、その息吹、気配を、感じることができたというか。

 だが、府中といえば、じつは、くらやみ祭りを例大祭とする、大國魂神社が重きを押しているのかもしれない。そう思いつつ、縄文を感じることができ、そのことで、満足しながら、梅祭りが行われている、森のほうへ。

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 森へ行く途中、移築復元された建物たちを通る。博物館本館でも、昔の暮らしとして展示されていたものを見て思ったが、なぜ、かつてのものたちは、美しくって、しみるのだろうか。テレビ、茶箪笥、タイプライター、ステレオ、壁掛けの電話。窓も漆喰の壁も。板の床すら、ていねいな作業がほどこされ、釘と板がほとんど見分けがつかないほどに溶け合っていた。
 今がていねいな仕事がされていないわけではないだろう。今だって、しっかりと作られているはずだ。だが、それが実用性にかたむきすぎ、わたしには、すくなくとも、あまり美しくは感じられない。冷たくて、よそよそしくって、息がつまってしまう。懐古的といえば、それまでだが、ここにあるものたち、それは実用的ではあるが、職人的な技がひかるものたち、手仕事が残るようなモノたちが多かった。だからこそ、美を、いや、ぬくもりを感じたのかもしれない。それは、縄文土器や土偶に感じたものと通じるのかも…とぼんやりと思った。
 
 なかなか梅に辿りつかない。けれども、この遠回りもまた、心地よい。ようやく梅園、梅林へ。だが、まだ開花状況としては、さほどではない。まあそうだろうなと思っていたので、がっかりはしない。早咲きのものがそれでももはや、開花していたから、それで十分だった。梅があちこちで満開になったら、見事だろう…そう思いつつ、園内を回るのも、楽しい。元に福寿草の黄色い花も見受けられた。そんななかで、早くも開花している紅梅、白梅たちに出合うと、それでも、心がはしゃいでしまうのだった。

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 中途にあった園内の売店で、梅干しを買う。ここ郷土の森で採れた梅で作ったものだそうで、去年は不作で販売されていなかったとのこと。梅を見て、そこで採れた梅干しを買う。贅沢なことだ。
 梅林をすぎて、ロウバイの小路へ。蝋梅と書く。ちなみに、同じく梅とつくが、ロウバイはクスノキ目ロウバイ科ロウバイ属、梅はバラ目バラ科に属しているので、系統的には遠い。だからというわけではないが、開花時期も若干違う。ロウバイの方が早い。園内を案内している係らしき人が、「ロウバイは見ごろを過ぎました」と言っているのを耳にしたが、なるほど満開を過ぎた感じ、でも、まだ十分見ごたえがあり、この時期に来れてよかったと思った。いつも梅のほうに照準を合わせてきていたこともあり、ここまでロウバイが咲いているのに出くわしたのははじめてだったから。
 蝋の梅と書くように、花びらはどこか蝋を塗ったような光沢がある。蝋細工のようだ。黄色い花が、明るくなってきた陽射しに合っている。


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 売店で、鯉のエサを売っていたので、池があったことを思い出す。最後に池のほうへ。池にそそぐ小川があって、その岸辺にネコヤナギたち。あの毛をかむった芽鱗の代表格のともいえるものだ。子どもがそっとさわって、やわらかな感触を楽しんでいる。まさか、ここで会えるなんて。もふもふと、やさしい。こちらも水辺によく合っている。

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 今年は春が来るのが遅い…と思っていたが、心がこのごろすこし明るくなってきているのは、こんなふうに春がやっぱりやってきていて、それをどこかで感じていたからだったのだろう。
 ネコヤナギを見て、池の鯉や、カルガモたちを見て、帰ろうと思ったら、すこし小高くなった所に、遺跡のようなものがあった。円形に石を敷き詰めたもの。柄鏡形敷石建築跡とある。縄文時代中期(約四千五百年前)の集落跡である清水が丘遺跡で発掘調査された遺構を移築、柄鏡のような平面形をして、床に石を敷き詰めた形式の建物跡で、おそらく呪術や祭祀などと関係があるのでは、とのことだった。敷石は、この近くの多摩川のものらしい。
 まわりがコンクリートで覆われているので、正直、風情にかけるような気がしたが、それでも縄文ゆかりの跡地を見れたことがうれしかった。

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 郷土の森を出てすぐのところに観光物産館的な場所がある。家からすぐのところで、こんな旅先のような店があるのは楽しい。まるで、ちょっとした観光だ。こちらにも梅干しが売られていた。他にお菓子や府中の資料、そして野菜や、お酒に漬物、ジャムなど物産(なかには姉妹都市でつくられたものもあるようだ)。いびつな人参を買う。なんとなくかわいらしい形。
 すぐ向こうには、まだ若いが、河津桜たちが植わっていた。ああ、そうだったなと思い出す。まだまだ花は咲かないけれど、あとひと月もすれば、ソメイヨシノよりも鮮やかな桃色の花をつけて、辺りを華やかにするだろう。もう、そろそろと、今だって、明るさが、訪れているのだから。
16:26:38 - umikyon - No comments

2018-01-30

雪と凝縮と梅 El Sur Belly Dance Flamenco LIVE

 先週、雪が降った。雪の降った翌日、ほんとうは少し遠くの美術館にゆくためにバイトを休みにしていたのだが、あまりに積もった雪のため、そちらに行くことはかなわず、雪で休んだようなかたちになってしまった。
 寒さが部屋までしのびこんでくる。静かに降り積もってゆく雪。もうおぼえていない。雪はあまり好きではない。寒さが苦手だから。明るかった。まぶしいほどに。
 一週間たった今も、道はまだ凍っている。
 雪が苦手だと感じるようになったのは、いつからだろう。子どもの頃は、はしゃいでいたはずだ。先週の木曜だか、雪がまだあちこち残る中、外をまわるバイトをしていたとき、雪の滑り台で興じる子どもたちをみた。雪だるまに、雪で出来たバベルの塔のような建物も。わたし自身も雪山をふみこえたり。それらをほほえましいとも思ったけれど、どこか人ごとだった。はやく春になればいい。

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 先週末、二十七日に、「El Sur Belly Dance Flamenco LIVE」というイベントにいってきた。
 世田谷の羽根木にある、詩とダンスのミュージアムでのイベント。フラメンコのバイラオーラの野村眞里子さんと、ベリーダンスのラーナさんによるライブだ。
 最初が二人のコラボだった。フラメンコとベリーダンス、踊りは違うのだけれど、どこか、通じ合うものがあった。踊ったすぐ後で、野村さんから説明があったが、元のルーツ的なものが、近しいとのことだ。ジプシー、アラブ、スペイン。それらの土地と時間、時と空間を経て、ここにあることが、その場で、体現されているようで、観ているわたしたちも、その壮大な感触を味わっているようだった。
 次は、今田央さんのフラメンコギター、永潟三貴生さんの歌(カンテ)、マイクなしの、文字通りの生で聴けたこと、響き渡る音が心地よかった。この後、基本的に野村さんの踊りのときは、一緒に演じている。
 ところで、ベリーダンス、勉強不足を露呈するようだが、今回、予備知識もなく、殆どはじめて観たのだが、知らずに、アラブの香りがするなあと、奥行きを感じた。後で調べたところによると、中近東を中心に踊られているもので、起源は不詳だが、世界で一番古いダンスではないかという説もあるそうだ。そう、知らずに、なんとなく、アラビアンナイトの世界を感じていたのは、あながち間違いではなかったのだ。それと腰を振るその動きに、性の陽的な部分を感じた。
 フラメンコ、こちらも門外漢の勝手な感想なのだけれど、最初のソロの扇子を使った踊り、喜怒哀楽でいうと、喜と楽が表立っているようだったが、どこか哀しいような、内に秘めた、裏の顔も、身体ににじみでていたようでもあった。衣裳も赤がメインで、燃えるようで、それが太陽であり、血であるような。
 次のソロのソレア、こちらは打って変わって黒がメインの衣裳、ソレアも「孤独」という意味だという。こちらからは、哀しみと、慟哭のようなものを、踊りと表情、雰囲気全体から感じた。けれど、どこか、背面的なところから救いのような明るさが滲みでているようでもあった。
 あるいは、オペラのようなものを想起した。ひとつの中に、起承転結に限らない、すべてのものを包含していて、その表現なのだと、あるいは、身体表現が、詩となっている、ということなのかもしれないが、凝縮を感じた。
 それと、フラメンコで足の出す音たち。サパティアートという。感情であると同時に、太鼓のような、おそらく人が最初期に鳴らした音、打楽器的な、ものとして、祈りとか、本来のものとか、そうしたものを感じるとともに、ギターや歌とともに演奏もしているのだと、そこにも重層性を感じた。なんという一体感なのだと。
 ともあれ、おびただしい臨場感だった。ステップが、床を通しても身体に伝わってくる。会場は、せまかったのだけれど、だからこそ、音と、振動と、踊り、三位一体的な、贅沢な体験が出来たのだと思う。ベリーダンスとのコラボのもたらす、奥行き、空間といにしえ、身体と言葉の可能性、凝縮。
 詩とダンスのミュージアムから帰る折、最寄駅のひとつである世田谷代田駅で、付近の羽根木公園で開催される「せたがや梅祭り」のパンフレットを見つけたので、手にとった。実はわたしが生まれたのが、この梅祭り会場の近くの病院なので、詩とダンスのミュージアムのある辺りも含めて、この近辺にはなつかしいような愛着があるのだ。雪が残るなか、身体と音の凝縮をあじわって、心に心地よい風が吹いているなか、パンフレットをみるのは、符牒のようで楽しかった。この梅祭りにも、毎年のように行っている。春はもうすぐだ。
00:45:17 - umikyon - No comments

2018-01-15

旧成人式に、冬と折り合う

 一月十五日は、成人式だったなあと思うのは、わたしが古い人間だからなのだろうか。いつだったっけ。成人式が一月の第二月曜日になったのは。調べてみたら二〇〇〇年だった。もう十八年もたつのだ。
 正月から、というより、昨年末から、ずっと、もう毎年恒例になってしまうのだけれど、大掃除と、年賀状やら、頂いた詩集、詩誌のお礼状を書いていた。そうして、毎年、今年こそは溜めないで、お礼をするのだ、と思う。掃除というか、整理整頓もしようと。
 今年はいつもと少し違う。整頓することに、気持ちが傾いている。いつものようにモノもだいぶ捨てたのだが、それだけでなく、整頓するために、いれるための箱やら本棚などを買ったりしている。これは珍しい。入れ物がないから片付かないのだ、と、当たり前のことが、思い出された。
 収納のためのものを通販サイトをみたり、百円ショップで購入したり。これが結構楽しい。というか、懐かしい感じだった。うまくいえないが、中学生の頃、わたしは生活を楽しんでいた。絵を描いたり、小さなモノを作ったり、映画をみたり、なにか言葉を書いたり。散歩をしたり、父の育てていた植物の名前を覚えたり。概ね、内向的な楽しみ、独りものの娯楽。
 あの、中学生の時の感覚が、なぜか似たものとして、わたしにやってきていたのだ。

 いま、部屋は概ね、かたづいている。そうなると、いつも不思議なのだが、お香をたきたくなる。間接照明だらけにして、机に向かいたくなる。その儀式めいた行動が楽しい。
 わたしは長らく冬が苦手だった。今もたぶん。でも、前は嫌いとまで思っていたが、だんだんそうでなくなってきた。たとえば、冬の空は空気がきれいだからか、遠くまで、景色がみえる。具体的には、春や夏にはあまり見えない富士山が、冬にはほぼ毎日のようにみえるようになる。

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 そして、ここ数年で気付いたのだが、冬の芽のうち、毛皮を着たものがいる。芽鱗(がりん)という。ネコヤナギが有名だが、モクレン科のものにみられるらしい。毛皮を着込んで、冬の寒さに耐えている姿が、いとしかった。にぶい太陽の陽射しのなかで、きらきらしているのが、ぬくもりだった。
 まだ一月。沈丁花はまだ咲かないが、蕾を見つけた。水仙たちはもうぽつぽつ、咲いている。


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 かれらに会うのが、うれしい。冬が苦手だと、今までは眼をつむっていたのだろう。だんだんそれが開いてきた。それでも、今もなお、薄目でしかないのだろうけれど、うっすらと開けた視界にひろがるのは、それでもやさしい、おだやかな日々だった。日々をいきる彼らだった。わたってきたであろう鴨のたぐいが、川のなかで、やさしい。たまに鴨たちが、とんでいるのをみると、胸がさわぐ。雁がねとか、初雁とか、そうした言葉がよぎったり。
 こんなふうに冬と、すこしは親しくなってきたのだろうか。毎年、冬になると、すこし鬱的な気分に捉われていたのだけれど、特に今年はそれがだいぶ薄れてきている気がする。片づけをして、ふるい地層が出てきたと、楽しんでいるぐらいなのだから。
 そうして、わたしは、過去のわたしと会うのだろうか。会って、なにを話すのだろう。なんだか、言葉もなく、彼らは了解しあっているようでもある。

22:58:25 - umikyon - No comments

2018-01-01

謹賀新年

今年もよろしくお願いいたします。

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 毎年のように、ベランダや渡り廊下から、初日の出、そして西の方角にみえる富士山を見ている。撮影している、というのか。
 前日、初日の出の時間をチェックする。これも恒例。今年は6時48分ごろだったので、6時30分に目ざましをかけた。ちょっと遅いかもしれないと思いつつ。なぜなら、もうその時間なら、空はだいぶ明るいはずだから。けれど、もしかして、それまでに起きるのではないかとも考えた。いつもなら、仕事している時間だったので。
 けれども、起きなかった。夢をぎりぎりまで見ていた。父と旅行し、その帰りの電車に乗っている。時間がぎりぎりだったというので、行きと違う電車だった。海がみえる。こちらのほうが、いいなと思っていたら、なぜか、中野駅についた。祖母が住んでいたところだ。おそらく、父も住んでいたことがある土地だ。そのせいだろう。ただ、電車のかんじは、羽田とか成田から出ている電車のイメージだ。どこか遠くから、帰って来た。
 正月早々、父に会えてうれしいといえば、うれしかったが、この父には、いまの家人がだいぶ重なっている。どちらも家族、ということなのか。

 6時30分の目ざましが鳴っているころ、夢のなかで、おみやげにかってきたケーキをわけていた。疎遠になった親戚にも買っている。だから配分が難しかった。だれに、どれをあげようか。
 目ざましが、夢のなかへ、大分侵入してきた。もう父ともはなれないといけない。日の出をみるのだ。

 起きて、あわてて、外にでたら、やはり、だいぶ空は明るくなっていた。毎年みているのに、いまいち、どこから昇るのか、ピンポイントではわからない。明るいほうを、何枚か撮る。鳥がとべばいいなあと思う。ただ、飛行機は何機か飛んで行った。そうだ、あまり意識したことがなかったが、うちは羽田とそんなに遠くはないのだ。

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 やっと、日の出。48分よりも、数分あと。家は三階なので、そこから見える日の出は、地平線すれすれではないので。


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 ああ、ここから出るのだなあといつも、毎年、気付かされる。それが、ばかげているようだが、うれしくもある。こうして教えてもらうことで、なにかが刷新されるようでもあり、それが新年にふさわしいような気がして。
 家人にも、声をかけた。
 「富士山もみえる?」「見えるよ、さっきまで朝焼けで、赤富士っぽかった」
 ちらっとみて、また寝床にはいった。
 日の出はほんの数分。数分で、地上に登り切ってしまう。そうするともうまぶしくて、逆光になってしまって、いけない。
 うちのベランダからも富士山は見えるのだけれど、年々、ちかくの欅だろうか、大きくなってきて、それが微妙に富士山をかくしてしまう感じなので、渡り廊下のほうにでた。富士山も初富士。

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 渡り廊下から、建物の窓に反射している、太陽がまぶしい。これも初日の出だ。

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 今年はどんな年になるのだろうか。
09:27:15 - umikyon - No comments

2017-12-30

土器のかけら、土の息吹に託された過去の記憶

 十一月三日に出かけた、千葉県加曽利貝塚の、縄文秋まつり。このなかの加曽利貝塚博物館で、縄文土器のかけらに触れて以来、感触がこびりついて離れなくなった。当初、触った時はそうでもなかった筈だ。だがそれは皮膚からゆっくりと、時間をすこしだけかけて(縄文というながい時の変遷のまえで瞬く間だから)、わたしのどこかにゆっくりと染み込んでいったようだった。それが脳に告げるのだ、あの感触をどうか、もっとと。植物が根から養分を静かに吸収するように。そう思うと、楽しい。
 ともかく、土器にさわりたくなった。手もとにおいて、さわりたいときに思う存分。いや、さわろうと思ったら、すぐそばにいてくれる、そんな環境がほしくなった。まるで猫でもいるみたいに。


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 つまり、土器のかけらを手もとに置きたくなったのだった。そうして、ネットオークションで探すことにする。わたしは価値があると思っているけれど(こんなにさわりたがっているのだもの)、骨董的には、意外なことに、破片だったら、ほとんど値段はつかないぐらいなものらしい。くわしいことはわからないが…。そういえば、わたしが小学生の頃住んでいた、埼玉県のある場所には、貝塚があった。同級生の男の子たちが、よく、縄文土器を発見したとかいっていた。それは化石をさがしてきたというのや、沼で釣りをしていたとかと、同じ響きだった。素敵なこと、たのしいことではある、けれども、当時のわたしには、自分のこととしては、関心がなかった。今のわたしは、しまったと思う。その頃に、わたしも土器を探しにいったらよかったと、すこし悔やむ。ほんのすこしだ。当時のわたしは、ほかのことに熱中していて、それが楽しかったのだろうし、それが今につながっているのだろうから。
 毎日、ネット・オークションを覗く。何か掘り出し物はないかしら。現実世界で、骨董を探すように、仮想現実にめずらしくはまってしまった。一度、青森県出土のものが、手に入れやすい価格で出品されていたので、入札したことがあった。画像でみるかぎり、装飾的な感じが破片に残っていて、いい感じだった。終了は三日後の夜。美術館のチケットなども、よくこうしたところで買うのだけれど、たいてい、そのまま、わたしが落札することができたので、安心しきって、終了時に寝てしまっていた。だが、翌日、落札できなかったことがわかる。終了直前に高値が十円更新されており、他の人に落札されてしまっていたのだった。
 そのあと、なかなか、みた感じでいい土器は、現れない。数片セットで、いい形のものも見受けられたのだけれど、少し高いような気がして、手が出せなかった。さきほど、わたし自身は縄文土器のかけらに価値を置いているといったが、勝手なもので、あまり値段が高いのは、違うような気がしてしまうのだった。
 ますます、仮想現実の骨董市や蚤の市めいて、十日ほどだったか、パソコンを開くと、こればかり探してしまう自分がいた。普段、スマホはあまり活用していないのだけれど、スマホのほうが、すぐに情報が入ってくるので、こちらでも探せるようにした。手にいれるまでの、魔的な時間。禁断症状のような、麻薬的な狂騒的な時間だった。
 先日、とうとう、値や形などが、わたしのなかで均衡をとったものが出品されていたので入札した。前回の失敗があったから、少し不安だった。オークション終了の数時間前からそわそわしていた。実際、高値更新が何度かあったので、こちらもスマホで値をあげて入札する。目にみえるのは文字ばかりで、通常の、現実の世界のオークションとは違うのだろうけれど、やっていることはリアルだった。オークション終了まであと数分。時間が秒刻みで画面に表示される。
 オークションが終了した。わたしが落札したらしい。信じられなかった。だがこれで、リアルさに近づいたのだ。ネットでみていたもの、画像でみていたものが、このことにより、現実に、具体的にはわたしの手もとに届くことになる。
 数日たって、無事に届いた。縄文土器のかけらは、写真で見たよりも、ずっと形状が心地よいものだった。心に染まった。色もよかった。中には、煮炊きで使ったのかもしれない、黒ずんだ破片もあった。なんとなく、この手のものは、写真でみるほうが、いいことのほうが多いと思ったが、そうではなかった。さわり心地だろうか、そのもののもつ雰囲気、来歴なのだろうか、破片たちが、しずかに言葉にならない言葉をもっていた。無言で、けれども、そこには豊饒なものが、秘められていた。それがわたしにはわからないだけで、破片たちは雄弁だった。その気配だけがわかった、というべきか。それは写真では伝わりにくい言葉だった。
 土器片が手もとにきてからは、もうネットオークションへの憑き物は落ちた。たまにそれでも、覗くし、いいなと思うものもあるのだけれど、もう家にあるからなと思ってしまう。
 手にとって、たまに触る。さわらないまでも、目でみて、気配を感じる。わたしは焼き物とか、骨董のことは判らないけれど、こうした気持ちと似ているのだろうかと類推してみる。土の感触が、いとしい。深呼吸をしたような気になる。あるいはそれは、生き物のようでもあった。家に、縄文土器のかけらが居る。在るというよりも、居るという言葉がしっくりするほど、生き物に似ているのだ。なんとなく猫が丸まって寝ている感じ。自立した、飼われているのではない、たまたま、わたしのところで、休んでいるだけの存在。わたしはその言葉はわからない。わからないけれど、なんとなく、通じるものがある。そんな感覚が、猫を思わせるのかもしれない。
 たぶん、わたしは勝手なことを書いているのだろう。縄文土器のかけらは、こんな言葉では語りつくせないほどの、なにかを秘めているはずだから。
 もう、発売されてから、けっこう日が経つけれど、十二月になると、毎年のように『日経おとなのOFF』一月号を購入している。来年度の美術展のスケジュールがわかるからだ。今号のそれによると、来年二〇一八年七月三日〜九月二日、上野の東京国立博物館で[縄文展]が開催されるという。記事のなかで、東京国立博物館の主任研究員の品川欣也さんという方が、「機能性など二の次で、装飾に過剰に注力している土器が多い。文字のない時代だけに、装飾に自らが暮らす集落や地域の価値観を込め、表現したのかもしれません」と、書いていたのが、目にとまった。文字のない時代の表現手段。だから、しみるのだと思ったが、なぜなのかはやはり言えない。表現という文字に、詩的なものを、あてはめてみる。表現の可能性が、深みへ誘う。それは土の息吹に託された、過去の記憶だ。

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 年があけようとしている。
01:35:38 - umikyon - No comments

2017-12-20

ボロは儚く、華やかで ─世田谷・ボロ市

 世田谷のボロ市に行ってきた。実は、ここ数年、毎年のように出かけている。
 ボロ市は、毎年、十二月十五日、十六日、一月十五日、十六日に開催。元は一五七八年(天正六年)の楽市に端を発したもの。現在は東京都の無形民俗文化財にも指定されている。古着やボロ布が沢山売られていたことから「ボロ市」の名が付いたといわれているが、今は日用品・書籍・骨董・玩具・食品・装身具・植木市など様々な店が並ぶ。露店数は約七〇〇店。場所は世田谷一丁目、ボロ市通り付近。中心に代官屋敷がある。
 開催日が十五日・十六日と固定されているのが、昔の市が開かれたことを物語るようで、どこか過去に想いを馳せる。この想いは、満月の夜にたまに重なる。十五夜お月さまの明るい晩だ。こんなに明るかったから、夜も市を開いていたのかしら。
 少し、調べてみたら、最初は毎月一と六のつく月六日、開かれた市が、時代とともに毎月十六日だけとなり、さらに年の瀬、十二月十六日だけになったという。明治にはいり、太陽暦採用により、もとの十二月十六日は、おおよそ一月十五日ぐらいになるので、今のように年二回になったとか。十五日、十六日と二日ずつ開催するのは、雨などで残った品物を翌日に売ったことからで、明治三十年代には、今の開催が定着したとあった。
 いつからだったか。子供の頃だったかもしれない。世田谷に住んでいたから、なんとなく名前は知っていた。なつかしい名前のひとつだったのかもしれない。違うかもしれない。子供の時に世田谷に住んでいたから、大人になって、世田谷から離れて後に知ったボロ市という名前に、なにか郷愁を、愛着を、感じたのかもしれない。市とか、ボロとか。ボロ市という名前は、それでなくとも、なにか、境界をおもわせ、ひかれる名前だ。そこにわたしは自身の幼年をかぶせ、愛着を重ねていったのかもしれない。

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 また、世田谷の地に舞い戻って、十年くらいだろうか。この間に、何回、ボロ市にいっただろう。日付が十五・十六日と固定されている関係で、こちらが休みの土曜日か日曜日にその日付が重なるときに出かけている。週は七日なので、意外と四日間のうち、一日は行ける日が出来てくれて、結構毎年のように出かけられている。今年は十二月十六日に出かけてきた。
 客としては、あまりいい客ではないだろう。ただ、賑わいを感じるだけ、売っているものを見るだけで、ほとんど買わないで気がすんでしまう。いつもは人ごみが嫌いだというのに、この日だけは別だ。もっともあまり人が多いと、店に近づけないことがあるので、ほどほどがいいが、それはわがままだろうか。賑わいのなかで、骨董や、古い書籍、特売の食品、お菓子、化粧品、古着、包丁、貴金属、石、時計、縁日的、駄菓子屋的な玩具、屋台、植木に盆栽、ごたまぜの商品たちを見てまわる。陶器、着物、あやしげな健康器具、刀の鍔、きいちのぬり絵、浮世絵、神棚、唐辛子、バッグにベルト、戦前の教科書、万年筆、古いガラス壜に勾玉。
 いつも午後に出かける。日がまだ高いが、帰るのは夕方、日が暮れる頃だ。夜になると、もっと祭りっぽくなるのだろうか。そう、いつも後ろ髪を引かれるが、このあたりで帰るのも、またどこかに余韻が残されるようで、いいのだと思う。
 今年は、古着でもなんでもない、豹柄の帽子を買った。買ってすぐ、かぶって街を練り歩いた。代官屋敷前に、くす玉が架かっていた。これは、やはり毎年夏に開催される「せたがやホタル祭りとサギ草市」で、同じ場所で架かっていたものに似てるなあと微笑む。代官屋敷の庭では、ホタルが舞う特設ドームがあった場所に、今回はせたがや土産などの出店が連なっている。
 祭りに華やぐ心というのは、どうしていつも、どこか淋しいのだろうか。それは夕暮れの美しさに魅入られる心に似ている。あるいはアセチレンランプ、セロファン、こうした言葉に惹かれることにも似ている。それらは儚い郷愁を感じさせる。こんなに賑やかで、華やかなのに。
 祭りも夕暮れの華やかさも、すぐに終わってしまう。だからこそ、美しいのか。アセチレンランプ、セロファン、実はわたしももうよくは知らない言葉なのだ、けれども、夜店のイメージをまとったものとして、懐かしく、やさしく灯っている。この灯は、こんなものたちにも光をあてる。夜店のひよこ、ミドリガメ、色々と問題があったのかもしれないが、それでも、子供のわたしには、かわいらしい、生き物との出会いの場でもあったのだ。
 りんご飴、チョコバナナ、スーパーボールすくい。これらの出店を見て、ふと、それらがよぎったかもしれない。
 古着屋さんで、おそらくマネキンの頭にウルトラマンとウルトラセブンのマスクをかぶせていたのに出くわした。二人のヒーローはどちらも下に傾きすぎ、俯いてみえて、とても悲しげだった。マスクの汚れが目だっていたこともあって、余計に哀愁をそそるのだった。ヒーローとして、地球を守ることに疲れたのだろうか。あるいは、これが祭りにふと見えてしまった本音なのだろうか。
 いつかのボロ市で、わたしのすきなルネ・ラリックのアンティークのガラス製品を発見したことがあった。乱雑に、ほかのコップやらグラスと一緒に並んでいたのに、値段はやはり数万円と高かったっけ。手が出せなかったけれど、眼福だった。今年もそんな出会いはないかしらと、つい、ガラス製品たちを探してしまうが、特にはなかった。ただ、古い陶片をペンダントトップに加工したものが売られていたのを、興味深く思った。縄文土器はないのかしらと、つい、縄文時代に惹かれる身としては思ってしまうが、それもなく。いや、だからどうというのではない。そうしたものたちが、ないかしらと思って探すのも、楽しいと言いたかったのだ。あれば幸い、なければないで、もちろん。だって、ここには、ほかに、たくさんのおもいがけない出会いがあるのだから。
 行きも帰りもバスだった。バス一本で、市という、不思議な場へ行ける。この敷居の低さも魅惑的だ。日常と非日常が繋がっている。あるいは儚さが、近しいことが。夕暮れだって、また明日になれば、会えるかもしれないのだ。
 いや、この一日、一日こそが、儚いのかもしれないが…。十六日現在、月は満月からだいぶ欠けて、有明月、ほとんど新月に近い細さだった。また、あと半分、と数えていいのだろうか。あと半月と少しで満月だ。夜店もどこかできっと立つ。

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00:01:00 - umikyon - No comments

2017-12-10

上野の森の秋の終わり

 やっと。重い腰をあげて、展覧会にいってきた。期限付きの券で、期日が迫っていたから。「北斎とジャポニズム」(二〇一七年十月二一日〜二〇一八年一月二八日)へ。場所は好きな上野の国立西洋美術館。
 美術館の外には、世界遺産に登録されたからか、あきらかに展覧会目的ではなく、建物をみにきている観光客風の人たちが多かった。外国人、そしてバスツアーらしき日本人の団体。ロダンの《考える人》の像のあたりでは、色づいた木々が目についた。特に黄葉した銀杏が、まぶしいぐらいだ。

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 重い腰。先日も書いたけれど、美術に関する興味が薄れてきている、そのせいばかりではなかったのかもしれない。
 大好きな北斎なのに、展覧会は、面白くなかった。平日の午後なのに、会場はかなり混んでいた。いや、そのせいでもなかったろう。混んでいても、かつてなら、そこから、展示された作品たちから、何かを受け取っていたはずだ。
 わたしのせいなのだろう。だが、北斎のことはそれでも好きなのだと思う。彼に対するがっかりはなかった。いいがかりなのかもしれないけれど、展示された北斎の浮世絵、『北斎漫画』などの絵本は、どれも版の状態が悪いような気がした。ただ、西洋の画家や彫刻家、工芸家たちが参考にした、影響された、その証拠のように付随されて展示されているように感じられた。なにかメインは北斎ではなく、影響された側であるかのように感じてしまった。なかには、どれが北斎っぽいのか、わからない、こじつけに思えるものもあった。
 海外のこんな人たちにインスピレーションを与えた、だから、北斎はすごいんだ、みたいな本末転倒を垣間見てしまって、それも展覧会に影を落としてしまったのかもしれない。会場内で、〈これは、すみだ北斎美術館以来の、感動のなさだなあ〉と心の中でつぶやいていた。そのせいか、今まですきだと思っていたルドン、ガレ、モネの作品をみても、素通りしてしまった。北斎に対するそれと同じように、彼らの作品にたいするわたしのシンパシーがなくなったからではなかっただろう。会場内では、一瞬それを疑ったが。展覧会自体がわたしにそぐわなかったので、それで拒否反応を起こしてしまったのだ。

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 そう気付いたのは、常設展にいったときだ。こちらも、入る前は、もはやわたしには絵画への興味がうすれてしまったのではないか、そう懸念がもたげてきていて、入らないで帰ろうとすら思った。けれど、この常設、特に松方コレクションは、若い頃から、好きというか、影響をうけてきたので、そのことに敬意を表して、入ることにした。結果、入ってよかった。
 常設はどこの美術館でも、たいていそうだが、企画展がどれほど混んでいようが、空いていることが多い。こちらも、さきほどの喧騒がうそのようで、静かで、人もまばらだった。それもあって、心の中で、一息ついたのかもしれない。ほっとして、絵たちを見た。最初は十四世紀〜十六世紀の後期ゴシック絵画、ルネサンス美術のあたりの、宗教的な一連の絵。感動したというほどではないが、絵のなかの祈りの真摯さが、響いてきた。それは過去から届けられた温もりのようだった。バロック、ロココ、そして十九世紀〜二十世紀。さきほどの企画展にも展示されていた画家たち、ゴッホ、モネなどの作品もあった。とくにモネ。あれはなんだったのだろう。うっかり、名前を忘れてしまった、というか、覚えてこなかったのだけれど、絵の中の植物たち、たとえばごつごつとした枝などが、生き生きとしていて、それが目にやさしかった。彼は光を捉える画家だと思っていたけれど、植物の瞬間を捉える画家でもあったのだと今更思う。あれほどジヴェルニーの自分の庭で植物を育てていたのだもの。
 美術館から外に出ると、行きにも見たが、まっさかりの紅葉が目にしみた。上野に来たついでに、東京国立博物館へ、ちょっと足をのばす。ミュージアムショップだけ覗きたかったのだ。博物館内のそれは、入場券が必要だが、正門外にも小さな店がある。そこ目当てで。
 国立西洋美術館から、東京国立博物館へ向かう途中、噴水がある。ちょうど吹き出していて、だいぶ傾いた午後の陽をあびて、生き物のように動いているのに、感じるものがあった。水しぶきと、陽射しで、波紋がきらきらしている。冬の噴水も、いいものだと思う。夏よりもしみて感じるのはなぜなのだろう。夏は涼しげだし、季節に合っている。冬はちがう。季節には合っていない。あるいはその違和が、心になにかを訴えてくるのかもしれない。
 美術館に行くのがおっくうだった理由もわかった。美術に興味が薄れているだけではなく、この展覧会に対しては、別の理由があったのだろう。
 でも、やはり、来てよかった。吹き出す水の輝きを眺め、真黄色な銀杏の瞬間を横切りながら、心がすこし、優しくなっていた。

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09:18:30 - umikyon - No comments

2017-11-26

日々のかたわらでー考古資料展(玉川大学教育博物館)

 このごろ、美術などの展覧会への興味が薄れている気がする。それがいいことなのか、わるいことなのか。実は前売りを買ってある展覧会があるのだけれど、まだ出かけていない。電車に乗るのが、駅まで行くのですら、おっくうだと思ってしまう。ほかに、身体がつかれているから、○○をやらないといけないとか、行かないでいる理由を自分で探しているのは、もはや興味がないからだろう。こんなとき、なぜ言い訳の理由を考えてしまうのか、ふと自問してしまう。わたしはだれに弁解しようとしているのだろう。たぶん自分だ。そのことも知っているので、言い訳を考えているのがすこし変だといつも思う。
 展覧会へあまり行かなくなったことは、画家たちへの愛が薄れているからということではない。たんにわたしのなかで、美しいものへの希求の対象が、移ってきたのかもしれない。
 わたしの好む言葉でいうと、非日常への欲求が、身近なところに向けられてきた、ということ。展覧会は、まさに非日常だった。なにせ美術館、美の館なのだから。それは、境界的にいえば、くっきりと線引きされた、その意味ではわかりやすい世間と切り離された場所だ。わたしは長らく、そこまでゆかないと、非日常をさがせなかったのかもしれないし、あるいは明確な線引きが必要だったのかもしれない。ここから一歩入れば、あなたの大好きで、あなたがいるべき場所である、あなたとほんとうは、ともにある非日常的世界がくりひろげられているのだと、太鼓判がほしかったのかもしれない。
 だが、ほんとうは、非日常は、わたしとともに、常にあるのだ。美術館に収められた、あるいは企画展で展示されている作品を造った作家たちにも、日常と非日常があるように。彼らが日常に接しながら作品を造りあげていったように。
 数カ月前の長雨の影響から水量を増していた川や湧水が、また元の水嵩に戻ってきている、いや、冬場の少ない水量に近くなってきている、そんな川を眺めるのが、心にしみる。
 すんでゆく冷たい空気のなか、十一月になり、うちのあたりからも、また遠い富士の山が見えるようになった。春から夏にかけては、ほとんど見えないのだが。それを西の方角、早くなった日没の頃、夕焼けの空のもとで、見るのが、どこかせつない。
 ヤツデのしろい、つぶつぶとした花に触る。それがなぜかうれしい。子供の頃、家にあったものなので、なつかしさを感じているのかもしれない。晩秋の今、花のすくない季節に、咲くことに、感謝しているのかもしれない、それらが重なって、重なって、うれしさ、幸福感に拍車をかけているのだろうか。
 桜は、春に花を、秋に葉を紅葉させ、春と秋、二度咲いているようだと、この間書いた。その秋の満開の葉たちは、春の花よりも、期間が長い。二週間ほど前に満開の葉だと思ったのが、まだ持ちこたえている。まだ紅葉。ぎりぎりだけれど。このあと、まもなく葉は散ってしまうのだろう。けれども、あまりに咲く時期の短い花だからこそ、葉たちはながくその姿を保っているのかしらと、つい思ってしまう。一度目は、春の咲くそれは短い、だからこそ二度目、秋の満開は、と。
 今のわたしは、こうしたことたちに、どこか、美しさをいただいている気がしている。それも、展覧会にゆくことに興をうしないつつある理由でもあるだろう。けれども、そこにはわたしの怠惰な気持ちも混じっているのだが。面倒だとか、そうした気持ちを奮い立たせなければ、美しいものへ、出逢うことが出来ない、という面も確かにあるのだから。





 では、なにか、今見れる展覧会で、行きたいようなものはないかしら。ネットで検索する。これは少し便利だと思う。デパートで行う展覧会などは載っていなかったりすることが多いが、かなりの美術館のスケジュールが判るようになっているサイトがある。前売りを買っているもののほかに、二つあった。ひとつは、ルネ・ラリックだ。「ルネ・ラリックの香水瓶」というものが、渋谷の松濤美術館で開催されるとあった(二〇一七年十二月十二日〜二〇一八年一月二十八日)。ラリックは、随分前から好きな作家だ。わたしのなかでは創成期に近い。だからだろうか。おおざっぱにいえば、彼もまた日常のなかに非日常を現出させた、というより、それらが共存していることを、華麗に表現してくれた、最初の作家だったから、ということかもしれない。皿、花瓶、香水瓶、カーマスコット、シャンデリア、アクセサリー。これらは美しいけれど、美術品ではないから。それはまさに日用品と美術品の蜜月の場に置かれた大切な作品たちだ。だからこそ、今のわたしにも、彼の展覧会なら、行きたい、と思わせてくれるのだろう。
 もうひとつは、「二〇一七年度企画展 考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」(二〇一七年十月十六日〜十二月十七日)、玉川大学教育博物館のものだ。
 こちらは、実は知ってすぐの土曜日に、出かけてきた。このフットワークの軽さはなんなのだろう。もっともつれあいに車で連れていってもらったのだけれど。
 玉川大学教育博物館は、これで三回目。前の二回は電車で行ったが、どちらもイコン画に関するものだった。「玉川学園創立八十五周年記念特別展 東と西のキリスト教美術 ─イコン・西洋絵画コレクションから」(二〇一四年)、「イコン−聖像画の世界展」(二〇〇九年)。イコン画への愛着も、ラリックを好きになった頃と、ほぼ同じぐらいだろう、なぜかイコン画の、平面的な、素朴な筆遣いに、特に聖母マリアの慈愛に満ちた表情、しぐさなどに昔から心惹かれるのだった。これもまた、勝手に共通点をみだそうとすれば、日常と非日常のつながり、祈りと日々的なものに、触れられた、その狭間にイコン画があると、感じたからだろうか。
 そして、今回の「考古資料展」だ。展覧会のチラシには、深鉢の縄文土器の写真が掲載されている。
 HPやチラシには、「玉川学園が所在する町田市域は、一九六〇年代からベッドタウン化が始まり、それに伴い都心の大学が主体となって遺跡調査も行われるようになりました。(中略)玉川学園考古学研究会では、縄文時代中期の集落・後期の墓域・晩期の環状積石(ストーンサークル)である田端(たばた)遺跡(東京都指定史跡)(一九六八─六九年調査)や、土器捨て場からユニークな形状をしたものを含め多数の土器が発見された御嶽堂(みたけどう)遺跡(一九六九─七〇年調査)など、重要な遺跡の発掘調査を立て続けに手掛けていきました。
この度、当時の関係者の協力を得て、田端・御嶽堂両遺跡の調査資料について、改めて整理を行い発掘調査報告書を刊行することができました。これを記念して、両遺跡の出土品の公開を中心に、調査を担当した考古学研究会の活動の軌跡をたどり、さらに玉川学園における考古学研究の歩みや、研究会を生み出した自由研究での取り組みを紹介いたします。」
 とある。
 二〇一四年の展覧会の時に、常設展示で、これらの一部をみて、驚いたことがあった。こんな身近にあることへの、嬉しい驚き。あるいはイコン画を見に来ていたのに、思いがけず出逢えたことへの喜び。
 わたしは学術的なことはほとんど知らない、ただ、無責任に縄文土器や土偶に惹かれているだけにすぎない。土器ならば、たぶん縄文時代中期、五五〇〇年〜四五〇〇年前のものあたり。
 チラシにあった縄文土器も、中期のものだ。中期だとわかったからではないが、その紋様、形状に、心がざわついた。それで今回も行くことにしたのだった。
 正確には、御嶽堂遺跡出土深鉢(縄文時代中期・新道式)とある。
 新道式とは、知らなくて、後で調べたのだけれど、「あらみちしき」と読む。器壁が後期のものに比べると厚手で、三角押文と三角区画を特徴とする。先日出かけた加曽利貝塚の加曽利式が中期後半で、新道式は中期のなかでも前半なので、その前のもの。
 火焔形土器も中期のものだが、あちらはもっと、美しさがあふれ、どこか完成した作品のように感じられる。対して、ここで見たものは、もうすこし、親しみやすい。文様などは、ひとつの土器のなかに、いろいろと形がちがっていて、それが散漫になることなく、まとまった美しさをかもしていたけれど、どこか素朴な、土の気配と人の温もりのようなものが感じられた。これはこちらの勝手な感想である。わたしの心のもちようのせいだろう。だが、こうした土器が、いまのわたしには必要だった。こんなものたちと出逢えることが心にさわるように、やさしかった。
 イコン画とラリックと縄文土器。これらに共通点があるような気がした。どれも日常に密接につながった美という点で。だからというわけではないだろうが、玉川大学教育博物館で、イコン画と考古資料展を開催しているのも、どこか象徴的だと思ってしまったり。縄文土器は、調理用に使われたと思われるが、祭祀にも使われていたようだ。日常がもっと、非日常と接していたのだと、つい思ってしまう。祈りと呪術的な行為と生活が、密接につながっていたのではなかったかと。わたしがこれらに惹かれるのは、だからなのだろう。美と生活。ことばが日常と美のなかで発せられること。
 縄文土器を見ることができ、それを思い出す術として、チラシをもらったので、それだけで満足して、企画展の図録は購入しなかった。帰り道、正門付近で、噴水のある池を見た。行きにも通ったのだが、この時も不思議に思った。前回、二回きているとき、見なかったものだ。水が好きなわたしが、見落とすはずがない。方向音痴だったり、道をおぼえるのが苦手なので、たしかなことは言えないが、どうも前回と来方が違うようだ。おそらく前は正門からはいってこなかったのだ。だから気付かなかったのだ。ともあれ、またここで、あらたなことがわかってよかった。池は玉川池というらしい。噴水があがっていたが、元々ここにあった池で、鶴見川の水源地のひとつとなっている。池と噴水、これもまた生活と美の融合ではなかったかと、逆光のなかで、かがやく水をみながら、ぼんやり思う。

21:36:35 - umikyon - No comments

2017-11-15

冷たい水が、温かい。ショベルカーとダンス



 昨日、家の近くの川岸を歩いていた。仕事中だった。わたしの片側、左側で、空気がゆれたような気がした。少しの得体のしれなさが、不安というよりも、謎めいて、めまいすれすれのなにかをもたらした。ほんの数秒。そして、左側で、ゴゴゴというちいさな音。砂利道をゆくショベルカー、だいぶ傾いた午後の陽射しのなか、そのショベルカーの影が、わたしにかぶさってきたというか、よぎったのだった。これらがわかった、というよりもいちどきにわたしにはいってきて、それから、理解したのも、やはり刹那だった。ショベルカーの影が動いたのか、わたしが動いたのか。また理解したからか、しないときだったか、なにかにくるまれたような気がした。日向であるとか、影であるとか、そうしたものたち。そのすぐ後、こんどはショベルカーの影だと完全にわかったときだ、こんどはまるでショベルカーの影とダンスでもしているみたいだと思った。影がわたしの左側にいてくれて、わたしをリードしてくれて。この想像もやはり一瞬だ。空気がゆらいでから、合計しても何秒にもならないだろう。けれども時間が長かった。そしてとても、久しぶりに幸せだと思った。めずらしく、メモをとった。
「刹那のゆらぎ。ショベルカーの影、かぶさって、日なたでダンスしているみたいだと思った。そのとき久しぶりに満ちていた」。

 八月から十月の間、雨が多かったと思う。職場的な環境が変化したこともあり、また長雨のために、すこし心が塞いでいた。天気が悪いと心のなかに雲がうまれたようになる。自然によって生かされているのだなとぼんやりと思う。
 その長雨が止んで、家の近くの崖の湧水たち。気付いてみると、水量が増していた。雨が止んでまもない頃は、湧水が道に流れ出すほどだった。この場所は、どんなときでも水が涸れることがなく、大好きな場所なのだが、さらに水量が豊かになっていて、それがうれしかった。



 このことに気付いたのは、十月の終わりだったろう。今は、だいぶ落ち着いている。もう道に水が流れだしてはいない。秋のおわり、ヒヨドリがギイギイ鳴くなか、葉やドングリが落ちている。冬でも青い葉をつけるジャノヒゲたちのなかを、湧水が流れる。住宅地のなかで、崖だから、緑が残った。ありがたいことだ。木々と水。一歩離れると、道があり、マンションがあり、スーパーがある。この異空間がどんなにか、好きだったか。水量が多くなった水に、誘われるように思い起こされるのだった。
 さらに、家の近所。以前にも書いたけれど、こちらは、ほんとうに、もう家のすぐ目と鼻の先。こんな長雨の後にだけ、現れる小川と、それに由来した湧水池がある。家の窓から、池のほうは、水は見えないけれど、池を覆っている草などは見えるぐらい。そちらもこの頃は水が流れ、そして池(正確には泉かもしれない)に水が湛えられてあるのがうれしい。



 わたしはなぜこんなに水が好きなのか。ごく幼年の頃、おぼえているかぎりでは、三歳ぐらいから、水に惹かれていた。家の近くには、今では暗渠となってしまった、コンクリートで護岸された小さな川があるだけで、海も遠かった。なのになぜなのだろう。羊水の記憶? まさか。ありえない話ではないけれど。
 生まれて六歳ぐらいまでいたのは世田谷だった。今住んでいるのもそうだが、こちらはうれしい偶然で、生まれたところに戻ってきた感じ。
 生地のほうは、わたし個人の感覚としては水に恵まれているとはいえなかったが(ドブ川しかなかったから)、当時は井戸水があった。蛇口から、井戸水と水道水、両方が蛇口から流れていたし、表には、手押し式のポンプがあった。今もあのあたりの神社などでは、井戸水が使われていたと記憶する。そして、今住んでいる場所付近は、先に書いたがまだ湧水が何か所かある。井戸も、あちこちにあの、なつかしい手押しポンプがある。使われていないものも多そうだが、そのなかで、ある時、新しいものを見つけてみとれていたら、「このあいだ、掘ったんですよ、検査してもらってないんで、飲めないんですけどね」と、水を出してくれたことがあった。
 なぜ、水に惹かれるのだろう。今住んでいるところは、あの幻の川以外に、野川という川が近くに流れている。自然と共存するよう、ぎりぎりの護岸対策が施されているので、風情がある。あまりに日々、慣れ親しんでいるので、幻惑される、ということはないけれど、たまに、ふっと、なんて恵まれているのだろうと思うことがある。川の近くにいることが。
 ショベルカーとダンスしたのも、その野川の岸辺だった。今、東名ジャンクション、東京外かく環状道路の工事中で、ショベルカーもその作業で使われていたものだ。徐々に川の岸辺の空がせまくなって、なにかロボットみたいな巨大な建物が姿をみせはじめた。川岸も景色が変わってゆく。あのあたりは、緑が深い、こんもりした森になっていたのだが。

 桜が、紅葉して色づいてきた。桜は二度花を咲かせるのだと、この時期になるといつも思う。満開に近い紅葉した桜。春の満開した桜の姿が重なる。



 なぜか、久世光彦の本にまた戻ってきてしまう。たしか違う作者の本を読んでいた筈なのだが。そうだ、書くもののために、資料的に夏目漱石や澁澤龍彦を再読していたのだ。澁澤のほうは、家のどこかにあるはずなのだが、見当たらなかったので、ネットで中古で買った。そのときについでに久世光彦のエッセイも買ったのだ。それがきっかけだった。さらに単行本を、図書館で借りた。『泰西からの手紙』(文藝春秋)。泰西絵画とそれにまつわる作者のエッセイ。ここでは、詩や小説についての言及も多い。なぜ久世光彦の文章に惹かれるのだろう。おそらく郷愁のようなものが関係している。彼の文章は懐かしい。
「五歳の私の記憶は、誰にも侵されない私だけの幻であり、人がすべてを奪われた後にも、たった一つ見ることができるのは、その人の《幻》である」
「色使いは《嘘のように》鮮明な原色だった。それが私たちに遠い遥かな《泰西》を想わせたに違いない。遠すぎるということが《幻》ならば、美し過ぎることもまた《幻》だったのである」
 「こうした絵をぼんやり眺めていると、《美しい》ということが、何かとても簡単なことのように思えてくる。水は冷たいとか、ほんとうの空は青いとか、人はいつかいなくなるとか──そんな五歳の子供でも知っているような、わかり易くて大らかなものに違いないのだ」
 ならば、わたしのまわりの、これらも、まぼろしであり、美しいものなのだ。水がながれ、紅葉した葉がおちて。

(結局『泰西からの手紙』は、家の住人になってもらうことにした。数日前、ネットで注文した。)

01:00:16 - umikyon - No comments

2017-11-05

イボキサゴ。名前が過去たちを繋ぐ。(加曽利貝塚 縄文秋まつり)

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 ひと月ここをあけてしまった。ちょうどこの期間、締切のある原稿を書くことがたて続けにあった。たぶん、ほとんどそれが主な原因なのだが、なにか、書かなかったことに罪悪感のようなものが生じ始めてきた。これからは、なるべく、空けることがないようにしよう。
 ふとしたきっかけで、千葉で縄文祭りが開催されると知った。調べてみると、加曽利貝塚公園内で十一月三日〜五日にかけて行われるらしい。三日の文化の日に出かけてきた。 正確には縄文秋まつり。
 加曽利貝塚は、千葉市にある世界でも最大規模の貝塚で、標式遺跡としても知られる。公園内は、直径一三〇メートルの環になった北貝塚(一九七一年国史跡認定)と、長径約一七〇メートルの馬蹄形をした南貝塚(一九七七年国史跡認定)からなり、史跡公園として整備・保存されている。また今年二〇一七年に、国の特別史跡に指定されたそうだ。縄文式土器などを見ていると、加曽利E式、加曽利B式というものよくみるが、その指標となっている土器が出土されている。
 ちなみに加曽利E式は、北貝塚のE地点出土のもので、縄文中期後半(約五〇〇〇年前)、口が大きく内弯する、深鉢形が主体。加曽利B式は南貝塚B地点出土のもので、縄文後期後半(約三五〇〇年前)、側面が丸みをおびたり、浅鉢になったり、用途によって器形に違いが見られるようになっている。
 と、もっともらしく書いているけれど、はずかしながら、加曽利E式、B式という言葉は聞いたことがあったが、この貝塚のことは、知らなかった。いって、はじめてわかったこと。
 すこし先走りすぎた。
 十一月三日文化の日。連日お祭りは朝十時からだという。だが、車で行く関係で、その時間について、駐車できるか、不安だった。公園内の加曽利貝塚博物館の開館が九時からだというので、それにあわせるように、早めに家を出た。めずらしく早朝バイトは休んで。
 レインボーブリッジなどを通ってきたので、海が見えた。海を見るのは久しぶり。おおむねの晴れもうれしかった。このごろ、天気がわるかったから。

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 祝日の朝だったからか、道は若干混んでいたが、九時二十分ぐらいには、目的地についたと思う。車も停めることができた。
 思っていたよりも広くて、すこし驚く。一面の森というか、木々が目立つ里山風景。駐車場近くの正門から、博物館にかけて、お祭りの屋台テントが連なっていたが、まだ準備中。むかって南の南貝塚の方に復元集落や、古民家がある。お祭りはおもにこれらの場所で行われる。
 最初に博物館へ。急いでみてまわったので、あまり感想が書けない。だが出土した土器のかけらたちにさわれることに驚いた。土器にさわるのははじめてだ。おもっていたよりも感動はなかった。だが懐かしかった。この懐かしさから、おそらく徐々になにかがわたしに生じるのだろう。ざらざらとする土というか、堅い感触。わたしはしばらくそれでも指でもてあそぶようにして、その場にいた学芸員さんの話をききながら、そこにいた。そう、学芸員さんがなぜか急に現れ、色々解説してくれだしたのだ。この辺ではとれなかったヒスイや黒曜石の出土が、各地方との交易を示唆しているなど。東京湾の海流は、三浦半島から時計周りに千葉へ海岸沿いに流れているので、砂がはこばれ、富津あたりが遠浅になったとか。そのなかで、イボキサゴという貝の話が出てきた。直径一センチから二センチほどの小さな巻貝。加曽利貝塚でも大量に出土されているので、博物館内にも展示されている。加曽利貝塚は今もそうだが当時も海から五キロは離れているそうだ。そんなところで、なぜイボキサゴが大量に出土されたのか? 縄文人はイボキサゴをどうしていたのか? 諸説あるそうだが、塩分や甘味などを添加するのが難しかった当時、うまみダシ的に使っていたのではないか、と語っていた。そういえば、宍道湖にいったとき、蜆たちが、ダシとして、売られていたっけ。詳細はわからないが、素人ながら、そのうまみダシ説がしっくりするような気がした。
 イボキサゴは、今では東京湾では水質汚染などで、かなり減ってしまっているそうだが、干潟よりももうすこし深いところ、木更津の盤洲干潟などでは、採れるらしい。江戸時代は、この貝でおはじきをしていた…。
 ところで、なぜ、わたしがこれほどイボキサゴにくらいついているのかといえば、ここで見るのがはじめてではないから、それどころか、知らずに食べていたこともあるからだ。
 じつは、この千葉の遠浅、富津あたりで、何回か、潮干狩りをしたことがある。そのときにアサリにまじって、ごくまれにイボキサゴを採ったことがあったのだった。きれいな小さな巻貝だなと思ったが、当時、名前を知らなかった。知らないながら、美しさに惹かれて、採ってきたものだった。そうして帰宅後、アサリと一緒に調理して頂いた。つまようじなどでほじくりださないといけないが、小さいけれど、濃厚な海の味がした。そして、貝殻は干して取っておいた。今も飾ってある。だが、名前をしらなかった。それが、わかった。イボキサゴ。名前がわかるということは、わたしにとって、特別な作用をする。もう、これからは名前で呼べる。それはわたしとちいさな巻貝をつなぐ糸のようになる。糸がもっと具体性を帯びる。これからはイボキサゴといえば、縄文人が食した食べ物であると同時に、潮干狩りで大切に思っていた貝として、思い出すだろう。名前はこんなにも、わたしのまわりを、きらきらとして見せてくれる。
 また話が飛んでしまうが、復元集落のあたりで、イボキサゴを使ったアクセサリー作り体験のコーナーがあったり、販売をしていた。体験はおもに子どもむけのようだったから、恥ずかしくて参加しなかったが、記念にアクセサリーを買った。
 それと、この日は、祭りの会場、古民家のうらあたりで、縄文式土器で調理したイボキサゴスープの無料配布があった。十二時からだったので、ちょっと時間調整して、並んで頂いた。正直、味はいまいちだったが(これは作り手の問題だと思う…ごめんなさい)、食べれてよかった。さらに、イボキサゴを炒ったものを食べることができたが、こちらはおいしかった。
 イボキサゴが出てきたので、ちょっと興奮して、時系列をみだしてしまった。博物館で学芸員さんのお話しを聞いたあと、お祭り会場へ。十時から、復元集落のほうで縄文式土器で作ったゆで卵のふるまいがあったので、そちらへ。
 復元された竪穴式住居が点在している。火起こし体験、弓矢体験、縄文服の試着、例のイボキサゴのアクセサリー作りなども行われ、賑わっている。子どもが多いのが何よりだ。
 復元住居が点在している原っぱのまわりは森になっている。ドングリのできるクヌギやコナラ、マテバシイ、スダジイなど、縄文時代に生えていた木を選んで植えているようだ。後で博物館で頂いた資料をみると野草の類も豊富らしい。アマドコロ、ヒトリシズカ、オトギリソウ、クララ、リンドウ、ニオイタチツボスミレ…。森には、季節柄、ドングリの類が沢山落ちている。また、復元住居のなかで、炒ったドングリを食べさせて頂いた。おいしい木の実、ナッツの類だった。
 ところで、こうした遺跡公園というのは、独特のたたずまいがある。どこか神聖な雰囲気なのだ。植わっている木たちのせいか、それともきっと他の理由なのだが、古代からの風のようなものが感じられる。この地で、かつて彼らが生きていた。たとえばどこかの古墳にいったときの、静けさ、あるいは奈良の明日香、それとも違う。けれども、なにか共通した、時を温存した空気のようなものが、あたりから拡がっている。とくに加曽利貝塚公園で、似ている雰囲気として思い浮かべたのは、長野県の尖石遺跡だった。今から約五千年前から三千年前に栄えた遺跡で、国宝になった土偶「縄文のビーナス」「仮面の女神」が出土されたところ。おごそかで、森が神秘にみちていた。とはいえ、近寄りがたい雰囲気というのは、すこしちがう。神秘をたたえつつ、どこか人をよせつける、人懐こさがあるというか、やさしさが感じられる。そんな時の累積で、独特の雰囲気をかもしている、それらの気配、匂いのようなものが、この加曽利貝塚と通じるような気がしたのだった。そういえばここでは、原っぱになっているところで、レジャーシートを敷いて、ピクニック的なことをしている家族があった。おだやかで、連綿と。

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 十時からのゆで卵のふるまい。こちらも何とか頂けた。縄文時代は鶏はいなかったので、雰囲気だけ…。だが、不思議と懐かしい味がした。
 さらに北貝塚のほうで、断面を見れる施設、住居跡が見れる施設があったので観覧した。断面には、またイボキサゴたち。
 こんなふうに、復元住居、博物館、古民家のあたりで遊んでから、屋台ブースにいったので、けっこう品物が売り切れてしまっていた。気付いたら午後一時近い。四時間近くいたことになる。名残惜しかったが、お腹もすいてきたので、帰ることにした。おみやげは貝塚博物館のパンフレット群、そしてイボキサゴのアクセサリー、何の木だろうか。ドングリのなる木のコースター、おちていたドングリ、取ってきた数枚の写真。いや、イボキサゴと言う名前、加曽利式、加曽利貝塚という名前たち、盛りだくさんだ。

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