Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-11-15

冷たい水が、温かい。ショベルカーとダンス



 昨日、家の近くの川岸を歩いていた。仕事中だった。わたしの片側、左側で、空気がゆれたような気がした。少しの得体のしれなさが、不安というよりも、謎めいて、めまいすれすれのなにかをもたらした。ほんの数秒。そして、左側で、ゴゴゴというちいさな音。砂利道をゆくショベルカー、だいぶ傾いた午後の陽射しのなか、そのショベルカーの影が、わたしにかぶさってきたというか、よぎったのだった。これらがわかった、というよりもいちどきにわたしにはいってきて、それから、理解したのも、やはり刹那だった。ショベルカーの影が動いたのか、わたしが動いたのか。また理解したからか、しないときだったか、なにかにくるまれたような気がした。日向であるとか、影であるとか、そうしたものたち。そのすぐ後、こんどはショベルカーの影だと完全にわかったときだ、こんどはまるでショベルカーの影とダンスでもしているみたいだと思った。影がわたしの左側にいてくれて、わたしをリードしてくれて。この想像もやはり一瞬だ。空気がゆらいでから、合計しても何秒にもならないだろう。けれども時間が長かった。そしてとても、久しぶりに幸せだと思った。めずらしく、メモをとった。
「刹那のゆらぎ。ショベルカーの影、かぶさって、日なたでダンスしているみたいだと思った。そのとき久しぶりに満ちていた」。

 八月から十月の間、雨が多かったと思う。職場的な環境が変化したこともあり、また長雨のために、すこし心が塞いでいた。天気が悪いと心のなかに雲がうまれたようになる。自然によって生かされているのだなとぼんやりと思う。
 その長雨が止んで、家の近くの崖の湧水たち。気付いてみると、水量が増していた。雨が止んでまもない頃は、湧水が道に流れ出すほどだった。この場所は、どんなときでも水が涸れることがなく、大好きな場所なのだが、さらに水量が豊かになっていて、それがうれしかった。



 このことに気付いたのは、十月の終わりだったろう。今は、だいぶ落ち着いている。もう道に水が流れだしてはいない。秋のおわり、ヒヨドリがギイギイ鳴くなか、葉やドングリが落ちている。冬でも青い葉をつけるジャノヒゲたちのなかを、湧水が流れる。住宅地のなかで、崖だから、緑が残った。ありがたいことだ。木々と水。一歩離れると、道があり、マンションがあり、スーパーがある。この異空間がどんなにか、好きだったか。水量が多くなった水に、誘われるように思い起こされるのだった。
 さらに、家の近所。以前にも書いたけれど、こちらは、ほんとうに、もう家のすぐ目と鼻の先。こんな長雨の後にだけ、現れる小川と、それに由来した湧水池がある。家の窓から、池のほうは、水は見えないけれど、池を覆っている草などは見えるぐらい。そちらもこの頃は水が流れ、そして池(正確には泉かもしれない)に水が湛えられてあるのがうれしい。



 わたしはなぜこんなに水が好きなのか。ごく幼年の頃、おぼえているかぎりでは、三歳ぐらいから、水に惹かれていた。家の近くには、今では暗渠となってしまった、コンクリートで護岸された小さな川があるだけで、海も遠かった。なのになぜなのだろう。羊水の記憶? まさか。ありえない話ではないけれど。
 生まれて六歳ぐらいまでいたのは世田谷だった。今住んでいるのもそうだが、こちらはうれしい偶然で、生まれたところに戻ってきた感じ。
 生地のほうは、わたし個人の感覚としては水に恵まれているとはいえなかったが(ドブ川しかなかったから)、当時は井戸水があった。蛇口から、井戸水と水道水、両方が蛇口から流れていたし、表には、手押し式のポンプがあった。今もあのあたりの神社などでは、井戸水が使われていたと記憶する。そして、今住んでいる場所付近は、先に書いたがまだ湧水が何か所かある。井戸も、あちこちにあの、なつかしい手押しポンプがある。使われていないものも多そうだが、そのなかで、ある時、新しいものを見つけてみとれていたら、「このあいだ、掘ったんですよ、検査してもらってないんで、飲めないんですけどね」と、水を出してくれたことがあった。
 なぜ、水に惹かれるのだろう。今住んでいるところは、あの幻の川以外に、野川という川が近くに流れている。自然と共存するよう、ぎりぎりの護岸対策が施されているので、風情がある。あまりに日々、慣れ親しんでいるので、幻惑される、ということはないけれど、たまに、ふっと、なんて恵まれているのだろうと思うことがある。川の近くにいることが。
 ショベルカーとダンスしたのも、その野川の岸辺だった。今、東名ジャンクション、東京外かく環状道路の工事中で、ショベルカーもその作業で使われていたものだ。徐々に川の岸辺の空がせまくなって、なにかロボットみたいな巨大な建物が姿をみせはじめた。川岸も景色が変わってゆく。あのあたりは、緑が深い、こんもりした森になっていたのだが。

 桜が、紅葉して色づいてきた。桜は二度花を咲かせるのだと、この時期になるといつも思う。満開に近い紅葉した桜。春の満開した桜の姿が重なる。



 なぜか、久世光彦の本にまた戻ってきてしまう。たしか違う作者の本を読んでいた筈なのだが。そうだ、書くもののために、資料的に夏目漱石や澁澤龍彦を再読していたのだ。澁澤のほうは、家のどこかにあるはずなのだが、見当たらなかったので、ネットで中古で買った。そのときについでに久世光彦のエッセイも買ったのだ。それがきっかけだった。さらに単行本を、図書館で借りた。『泰西からの手紙』(文藝春秋)。泰西絵画とそれにまつわる作者のエッセイ。ここでは、詩や小説についての言及も多い。なぜ久世光彦の文章に惹かれるのだろう。おそらく郷愁のようなものが関係している。彼の文章は懐かしい。
「五歳の私の記憶は、誰にも侵されない私だけの幻であり、人がすべてを奪われた後にも、たった一つ見ることができるのは、その人の《幻》である」
「色使いは《嘘のように》鮮明な原色だった。それが私たちに遠い遥かな《泰西》を想わせたに違いない。遠すぎるということが《幻》ならば、美し過ぎることもまた《幻》だったのである」
 「こうした絵をぼんやり眺めていると、《美しい》ということが、何かとても簡単なことのように思えてくる。水は冷たいとか、ほんとうの空は青いとか、人はいつかいなくなるとか──そんな五歳の子供でも知っているような、わかり易くて大らかなものに違いないのだ」
 ならば、わたしのまわりの、これらも、まぼろしであり、美しいものなのだ。水がながれ、紅葉した葉がおちて。

(結局『泰西からの手紙』は、家の住人になってもらうことにした。数日前、ネットで注文した。)

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2017-11-05

イボキサゴ。名前が過去たちを繋ぐ。(加曽利貝塚 縄文秋まつり)

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 ひと月ここをあけてしまった。ちょうどこの期間、締切のある原稿を書くことがたて続けにあった。たぶん、ほとんどそれが主な原因なのだが、なにか、書かなかったことに罪悪感のようなものが生じ始めてきた。これからは、なるべく、空けることがないようにしよう。
 ふとしたきっかけで、千葉で縄文祭りが開催されると知った。調べてみると、加曽利貝塚公園内で十一月三日〜五日にかけて行われるらしい。三日の文化の日に出かけてきた。 正確には縄文秋まつり。
 加曽利貝塚は、千葉市にある世界でも最大規模の貝塚で、標式遺跡としても知られる。公園内は、直径一三〇メートルの環になった北貝塚(一九七一年国史跡認定)と、長径約一七〇メートルの馬蹄形をした南貝塚(一九七七年国史跡認定)からなり、史跡公園として整備・保存されている。また今年二〇一七年に、国の特別史跡に指定されたそうだ。縄文式土器などを見ていると、加曽利E式、加曽利B式というものよくみるが、その指標となっている土器が出土されている。
 ちなみに加曽利E式は、北貝塚のE地点出土のもので、縄文中期後半(約五〇〇〇年前)、口が大きく内弯する、深鉢形が主体。加曽利B式は南貝塚B地点出土のもので、縄文後期後半(約三五〇〇年前)、側面が丸みをおびたり、浅鉢になったり、用途によって器形に違いが見られるようになっている。
 と、もっともらしく書いているけれど、はずかしながら、加曽利E式、B式という言葉は聞いたことがあったが、この貝塚のことは、知らなかった。いって、はじめてわかったこと。
 すこし先走りすぎた。
 十一月三日文化の日。連日お祭りは朝十時からだという。だが、車で行く関係で、その時間について、駐車できるか、不安だった。公園内の加曽利貝塚博物館の開館が九時からだというので、それにあわせるように、早めに家を出た。めずらしく早朝バイトは休んで。
 レインボーブリッジなどを通ってきたので、海が見えた。海を見るのは久しぶり。おおむねの晴れもうれしかった。このごろ、天気がわるかったから。

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 祝日の朝だったからか、道は若干混んでいたが、九時二十分ぐらいには、目的地についたと思う。車も停めることができた。
 思っていたよりも広くて、すこし驚く。一面の森というか、木々が目立つ里山風景。駐車場近くの正門から、博物館にかけて、お祭りの屋台テントが連なっていたが、まだ準備中。むかって南の南貝塚の方に復元集落や、古民家がある。お祭りはおもにこれらの場所で行われる。
 最初に博物館へ。急いでみてまわったので、あまり感想が書けない。だが出土した土器のかけらたちにさわれることに驚いた。土器にさわるのははじめてだ。おもっていたよりも感動はなかった。だが懐かしかった。この懐かしさから、おそらく徐々になにかがわたしに生じるのだろう。ざらざらとする土というか、堅い感触。わたしはしばらくそれでも指でもてあそぶようにして、その場にいた学芸員さんの話をききながら、そこにいた。そう、学芸員さんがなぜか急に現れ、色々解説してくれだしたのだ。この辺ではとれなかったヒスイや黒曜石の出土が、各地方との交易を示唆しているなど。東京湾の海流は、三浦半島から時計周りに千葉へ海岸沿いに流れているので、砂がはこばれ、富津あたりが遠浅になったとか。そのなかで、イボキサゴという貝の話が出てきた。直径一センチから二センチほどの小さな巻貝。加曽利貝塚でも大量に出土されているので、博物館内にも展示されている。加曽利貝塚は今もそうだが当時も海から五キロは離れているそうだ。そんなところで、なぜイボキサゴが大量に出土されたのか? 縄文人はイボキサゴをどうしていたのか? 諸説あるそうだが、塩分や甘味などを添加するのが難しかった当時、うまみダシ的に使っていたのではないか、と語っていた。そういえば、宍道湖にいったとき、蜆たちが、ダシとして、売られていたっけ。詳細はわからないが、素人ながら、そのうまみダシ説がしっくりするような気がした。
 イボキサゴは、今では東京湾では水質汚染などで、かなり減ってしまっているそうだが、干潟よりももうすこし深いところ、木更津の盤洲干潟などでは、採れるらしい。江戸時代は、この貝でおはじきをしていた…。
 ところで、なぜ、わたしがこれほどイボキサゴにくらいついているのかといえば、ここで見るのがはじめてではないから、それどころか、知らずに食べていたこともあるからだ。
 じつは、この千葉の遠浅、富津あたりで、何回か、潮干狩りをしたことがある。そのときにアサリにまじって、ごくまれにイボキサゴを採ったことがあったのだった。きれいな小さな巻貝だなと思ったが、当時、名前を知らなかった。知らないながら、美しさに惹かれて、採ってきたものだった。そうして帰宅後、アサリと一緒に調理して頂いた。つまようじなどでほじくりださないといけないが、小さいけれど、濃厚な海の味がした。そして、貝殻は干して取っておいた。今も飾ってある。だが、名前をしらなかった。それが、わかった。イボキサゴ。名前がわかるということは、わたしにとって、特別な作用をする。もう、これからは名前で呼べる。それはわたしとちいさな巻貝をつなぐ糸のようになる。糸がもっと具体性を帯びる。これからはイボキサゴといえば、縄文人が食した食べ物であると同時に、潮干狩りで大切に思っていた貝として、思い出すだろう。名前はこんなにも、わたしのまわりを、きらきらとして見せてくれる。
 また話が飛んでしまうが、復元集落のあたりで、イボキサゴを使ったアクセサリー作り体験のコーナーがあったり、販売をしていた。体験はおもに子どもむけのようだったから、恥ずかしくて参加しなかったが、記念にアクセサリーを買った。
 それと、この日は、祭りの会場、古民家のうらあたりで、縄文式土器で調理したイボキサゴスープの無料配布があった。十二時からだったので、ちょっと時間調整して、並んで頂いた。正直、味はいまいちだったが(これは作り手の問題だと思う…ごめんなさい)、食べれてよかった。さらに、イボキサゴを炒ったものを食べることができたが、こちらはおいしかった。
 イボキサゴが出てきたので、ちょっと興奮して、時系列をみだしてしまった。博物館で学芸員さんのお話しを聞いたあと、お祭り会場へ。十時から、復元集落のほうで縄文式土器で作ったゆで卵のふるまいがあったので、そちらへ。
 復元された竪穴式住居が点在している。火起こし体験、弓矢体験、縄文服の試着、例のイボキサゴのアクセサリー作りなども行われ、賑わっている。子どもが多いのが何よりだ。
 復元住居が点在している原っぱのまわりは森になっている。ドングリのできるクヌギやコナラ、マテバシイ、スダジイなど、縄文時代に生えていた木を選んで植えているようだ。後で博物館で頂いた資料をみると野草の類も豊富らしい。アマドコロ、ヒトリシズカ、オトギリソウ、クララ、リンドウ、ニオイタチツボスミレ…。森には、季節柄、ドングリの類が沢山落ちている。また、復元住居のなかで、炒ったドングリを食べさせて頂いた。おいしい木の実、ナッツの類だった。
 ところで、こうした遺跡公園というのは、独特のたたずまいがある。どこか神聖な雰囲気なのだ。植わっている木たちのせいか、それともきっと他の理由なのだが、古代からの風のようなものが感じられる。この地で、かつて彼らが生きていた。たとえばどこかの古墳にいったときの、静けさ、あるいは奈良の明日香、それとも違う。けれども、なにか共通した、時を温存した空気のようなものが、あたりから拡がっている。とくに加曽利貝塚公園で、似ている雰囲気として思い浮かべたのは、長野県の尖石遺跡だった。今から約五千年前から三千年前に栄えた遺跡で、国宝になった土偶「縄文のビーナス」「仮面の女神」が出土されたところ。おごそかで、森が神秘にみちていた。とはいえ、近寄りがたい雰囲気というのは、すこしちがう。神秘をたたえつつ、どこか人をよせつける、人懐こさがあるというか、やさしさが感じられる。そんな時の累積で、独特の雰囲気をかもしている、それらの気配、匂いのようなものが、この加曽利貝塚と通じるような気がしたのだった。そういえばここでは、原っぱになっているところで、レジャーシートを敷いて、ピクニック的なことをしている家族があった。おだやかで、連綿と。

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 十時からのゆで卵のふるまい。こちらも何とか頂けた。縄文時代は鶏はいなかったので、雰囲気だけ…。だが、不思議と懐かしい味がした。
 さらに北貝塚のほうで、断面を見れる施設、住居跡が見れる施設があったので観覧した。断面には、またイボキサゴたち。
 こんなふうに、復元住居、博物館、古民家のあたりで遊んでから、屋台ブースにいったので、けっこう品物が売り切れてしまっていた。気付いたら午後一時近い。四時間近くいたことになる。名残惜しかったが、お腹もすいてきたので、帰ることにした。おみやげは貝塚博物館のパンフレット群、そしてイボキサゴのアクセサリー、何の木だろうか。ドングリのなる木のコースター、おちていたドングリ、取ってきた数枚の写真。いや、イボキサゴと言う名前、加曽利式、加曽利貝塚という名前たち、盛りだくさんだ。

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08:55:13 - umikyon - No comments

2017-10-05

そうして対比だと、秋が言う─映画『ゴッド・ファーザー』

 だいぶ秋らしくなってきた。ムラサキシキブ(コムラサキ)の実が、緑だったのが、もう紫に変化している。まだ早いように思えるけれど、ホトトギスがもう咲いていた。それに、去年は気付かなかったのだけれど、丘陵になったところにはえるツルボの花を見た。こちらは九月ぐらいの花と記憶していた。ブラシみたいな紫のかわいらしい花たちが、地面に突き刺さったように咲いている。



 先日『ゴッドファーザー』(監督・フランシス・フォード・コッポラ)のパートI(一九七二年)とパートII(一九七四年)、二週続けてテレビで放送していたので、録画して観た。多分ノーカットだと思うのだけれど、残念ながら吹き替えだった。ちなみにわたしは普段は吹き替えとかにそれほどはこだわらない。けれども『ゴッドファーザー』はおそらく、字幕で、役者本人の声でしか、観たことがなかった。マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ…。だから、吹き替えに違和感を覚えてしまったのだろう。
 『ゴッドファーザー』…。初めてみたのは中学生の時。リアルタイムではなかった。映画を一番観ていた頃、魅力に取りつかれた頃だ。名画座でパートIとパートIIの二本立てを観た。それぞれ三時間越えの大作なので合計六時間以上。お尻と首が痛くなったことを思い出す。それにあまりに長い時間だったから、とくにパートIIでは、途中、寝てしまっていたような気がする。それでも、ニーノ・ロータの哀愁きわまる映画音楽ともに二作とも、心に残る映画となった。やはり中学生の時、古本屋で、マリオ・プーゾの原作も買って読んだ。そして多分高校生ぐらいだ、今度は映画館ではない、ビデオを借りて、ちゃんと最後まで観たと思う。二十代の頃も観た記憶がある。それに、ずいぶん経ってから、パートIII(一九九〇年)も(そのときに、IとII)。IIIについては、観る前から、躊躇していた。ぜったい劣るから、見ないほうがいいのではと。まったくそのとおりだった。ひどいと思った。パートIIIには、がっかりした記憶しかないので、今回は触れない。けれども、『ゴッドファーザー』IとIIは、覚えているだけでも、四回は観ている作品だ。で、今回また。だが、もう十数年、観ていなかっただろう。



(▲後述のサウンド・トラック、コピーしたCD。こんなふうにCDに細工するの、けっこう趣味で…)


 で、じっくり、観ることにした。吹き替えの声が気になったけれど…。
 パートIのほうは、殆どストーリーを覚えていたのでびっくりした。このシーンのあと、こうなって、など。けれどもパートIIのほうは、観た覚えはあるのだけれど、パートIに比べると、そうした羅列、順序が希薄だった。出来がどうこう、というのではないのかもしれないが、パートIIのほうが、わたしには、やはり、ひきこまれる要素が少なかったのだろう。パートIは、マフィアのドン・ヴィト・コルレオーネ(マーロン・ブランド)を軸に、家族が描かれ、その後に三男のマイケル(アル・パシーノ)に主役は移行してゆくが、流れがすっきりしている。パートIIは、マイケルを軸に、家族が描かれ、対比して亡くなった父ヴィト・コルレオーネの若い頃(ロバート・デ・ニーロ)のエピソードが挿入されるのだが、その対比を、なのか、あるいはマイケルのおかれた状況をなのか、すこしおっくうだと思ってしまったようなのだ。
 けれども、あらためて、二部作としてみると、これはなんという対比のドラマなのかと、感慨深かった。三部までやるのは蛇足だ、もうこの二部だけで、対比は絶妙のバランスを保って、行われている。
 概ね、家族の対比。ヴィト・コルレオーネのゴッドファーザー、あるいは家族、そしてマイケル・コルレオーネのゴッドファーザー、家族。
 「ゴッドファーザー」は、マフィアのボスまたはファミリーのトップへの敬称だけれど、本来はカトリック教での洗礼の時の名付け親のことでもある。名付け親は、第二の親として、名付け子を養ってゆく。このことも、対比として、終始つかわれている。
 はじまりからして。パートIの冒頭では、ヴィト・コルレオーネのゴッドファーザーが、頼みを聞いている。パートIIの冒頭では、マイケル・コルレオーネのゴッドファーザーが、頼みを聞いているシーンではじまる。パートIのそれでは、耳を傾け、威厳がある。パートIIのそれでは、去勢をはって、威厳というよりも、威厳を作ろうとするため、どこか尊大に。
 パートIでも、ファミリー内で人は裏切りにより、亡くなってゆく。けれども、どうしてなのか、そのことによって、家族間の絆のようなものは、こわれることがほとんどないように感じられる。けれどもパートIIでは、違う。どんどん家族、ファミリーの絆がうしなわれてゆく。パートIでも兄のソニー(ジェームズ・カーン)の壮絶な死、それに加担した妹婿カルロの死、ドン・コルレオーネの若い頃からの仲間、テッシオの裏切りによる死など、こわれてゆくファミリーの姿はあった。けれども家族の絆的なものは壊れることがなかった。それはヴィトのよりどころであったから。息子であるマイケルは偉大なる父ヴィトをまねる。越えようとする。だがパートIIのほうでは妻ケイ(ダイアン・キートン)も去り、兄フレド(ジョン・カザル)も…。差し込まれる父ヴィトの若い頃のエピソードの、なんと家族愛に満ちていたか。生まれたばかりのマイケルに、愛しているという父、父の父母を殺されたことの復讐のために地元のドンを殺す、そのことすら、家族のための物語なのだった。
 パートIIのラスト近く、父のエピソード。というか、父は出ない。マイケルの若い頃だ。父のエピソードがマイケルの現在のそれに近づいた極限。パートIで殺された兄ソニーと、兄ソニーを売ったことで殺された妹の夫カルロ、パートIIで死ぬフレド、パートIでもパートIIでも忠実な義理の兄トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、そしてマイケルが、父の誕生日のための祝いの席にいる。父はちょっと買い物にいっている。第二次世界大戦の頃、真珠湾攻撃の頃だ。父や兄にとっては不本意であろう、海軍志願…。そのことでソニーと言い争いになり、帰って来た父を迎えにゆかずに、一人食卓に残るマイケル。そして現在のマイケルもやはり一人だ。一人で湖を見ている。海軍に志願したというマイケルに、すごいことだとただ一人賛同したフレド、そのフレドが、いままさに裏切りによって、殺される、その時に。マイケルの一人の対比はこのラストで圧倒的だと思う。
 かつての大学生だったマイケルのそれは、暗示はしていたかもしれないが、家族の結びつき、ファミリー(コルレオーネ・ファミリーというときの裏社会のことも含めて)の結びつきは絶対だった。
 けれども、現在のマイケルのひとりは違う。ファミリーのために、家族がはなれてゆく、家族でも殺してしまう。だからこそ、ファミリー自体、その仕事内容が、ビジネス的なしがらみ、損得勘定云々ということに、変わっていったのだ、そのことがおそらく、わたしが長いこと、話しがパートIIのほうが、わかりにくいなと思ったゆえんなのだろう。家族ではなく、仕事のかけひき的な要素が随所にみられるようになってきたから。
 いいかげんなことを、思いつくままに書いているけれど、いいのだろうか。
 今回、パートIとパートIIを続けて観て、吹き替えの声が、申し訳ないが、やはりどうしても気になったので、中古で二本、結局DVDを買ってしまった。それで字幕だけで、また観てみた。懐かしい声だった。マーロン・ブランド、アル・パシーノ、ロバート・デ・ニーロ、ダイアン・キートン、ロバート・デュバル…。特にヴィトの声だ。マーロン・ブランドもロバート・デ・ニーロも、すこしくぐもっていて、声をだすことを極力しない人の、だから発したときに、力を感じさせる、重みのある声に聞こえる。
 俳優としては、アル・パシーノが当時も今も好きなのだが。あの光と影をもった強烈な眼差し。
 映画としては個人的にはパートIのほうが好きだけれど、パートIIのほうがもしかすると作品的には優れているのかもしれない。つくられてゆくファミリーと、こわれてゆくファミリー。光と影。
 ニーノ・ロータの映画音楽が好きだと先に書いた。たしかサウンド・トラックをLPレコードで買ったのではなかったか。まだどこかにあるのかしら。それともないのかしら。とりあえず、図書館で借りて、コピーした。ニーノ・ロータ。「太陽がいっぱい」も大好きだった。「ロミオとジュリエット」も。ニーノ・ロータ・ベストも予約した。こちらはわたしの前に五人ほど先約がいたので、もう少し。先約がいることがすこし嬉しくもあった。わたしのように好きな人がいるのだろうと。
 彼岸花はとっくに終わり、キンモクセイの香りが漂い始めた。あれも彼岸花のようにほぼ、毎年、同じ時期に匂いを放つように感じられる。おおむね十月一日。夏が行った。秋が言った。これを書いている十月四日は、仲秋の名月だとか。さっき、雲間からのぞく満月を見れた。わたしが毎朝出かける午前四時台の空はもうすっかり夜の暗さになってしまった。明後日ぐらいから、十六夜の月から、また、その朝の空をしばらく、明るく照らしてくれるだろう。これが秋の言葉だ。
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2017-09-25

夏が行き、秋がきて。どちらも…。──曼珠沙華(彼岸花)、巾着田







 また雨の一日。台風がせまっているなか、毎年のように訪れている、彼岸花の名所……と書くと怒られるだろうか。曼珠沙華の里とうたっているから……埼玉県日高市の巾着田にいってきた。巾着のように蛇行した川(高麗川)のちょうど袋の下部分に、五百万本の曼珠沙華が咲いている。
 雨でなければ、河原でシートをひろげてお弁当を食べたりするのだけれど、その日は彼岸花(また彼岸花と書いてしまったが、やはりこちらのほうが親しんできた呼び名なので、以後はこの名前で基本的に統一する)を見て回るだけ。
 第一、川は増水しており、いつも座っているあたりも水で見えなくなっていた。それでもまだ浅瀬らしく、カルガモが泳ぐ、歩くをそのあたりで繰り返しているのが、なんだかかわいらしいと思ってしまう。泳いだと思ったらまた歩く。そして結局泳いでどこかへ向かって行った。増水しても水がきれいだったのが不思議だった。もともと清流なのだけれど。





 お目当ての彼岸花。今年はたぶん、いちばんいいときにこれたのではなかったか。場所によって、若干花の咲き具合に違いはある。けれども、大半が満開。盛りがすぎつつある花もあったが、蕾がめだつ区域もあって。開花状況としては、このぐらいが好きだ。おおむねの満開。けれどもまだ蕾、咲いていない彼岸花たちがあるのも、なにか、未来があるような気がしてしまう。咲ききらない薔薇の花、満開寸前の桜などのように。そこにはまだ淋しさが感じられない、まだ活気のようなものを…、というのは、こちらがわの勝手な感想なのだろうが。とはいっても、盛りをすぎた花たちもまたいいと思うのだろう。おわりゆくものへむけての哀しさ、淋しさが、今度は風情に変わるから。
 雨の中、傘をさして、彼岸花たちをみて回る。あいにくの空模様のため、今年は人が少ない…のだろう。実際、駐車場も一部閉鎖されていた。それは予想されていたことだった。だからだろうか。思っていたよりも人がきていた。予想していたことと実際はいつもちがう。だから、楽しいのだ。もちろん逆もあるだろうけれど。雨の中、彼岸花を見に来ている人達は存外多かった。それが何故かうれしかった。みんな静かに花をみてまわる。そこにはこんな会話も聞こえてきた。「案外、人が多いのね。これで天気だったら、どんなにすごいのでしょう」。それはわたしの感想でもあった。
 もっとも、晴れたときも、観光客は多くなるけれど、かれらは存外静かだ。しずかに真っ赤な花のなかを、みてまわり、時に感嘆の声をあげるが、わたしのようにカメラ(スマホや携帯も含めて)にその花の姿をおさめてまわる。だから混雑もあまり気にならないのだった。
 雨のほうが、花がきれいに見える。気のせいかもしれない。あるいは晴れたときとはまた別の趣きがあって、それを好ましく思うだけなのかもしれない。木々の下で、晴れたなか、陽がさすなかで、彼岸花を見て回るのも格別だが、雨のなか、木々の下で、川の近くで、花を眺めるのも、色が落ち着いてみえるようで、心地よかった。写真をとってまわる、そのファインダー越しの色も、いつもより明るさが抑えられていて、それが逆にしっとりと、ちょうどいい暗さをたたえていて、写真映りがいいような気もした。





 ただ、晴れたほうが、先もいったように、河原で休んだりして、くつろぐ時間がある。もしかすると、そうしたことができないから、ことさらにそれに代わるような、素敵なことを探し出しているのかもしれない。
 晴れの時は、公園の敷地に隣接した私営の牧場で、引き馬体験や馬へのえさやりなどが出来るのだけれど、今回は雨だったので、そちらも休業といった感じで、馬たちは厩舎で休んでいた。彼岸花たちの公園にむかう途中、車でちらっとその姿を見ただけだ。これは残念といえば残念だった。えさやりをしたりはしたことないのだけれど、馬やポニーが、草地にいるのをみたり、触ったりするのが、彼岸花をみるのとは別の楽しみだったから。
 そして。今年はなぜか、白い彼岸花がすこし気になった。シロバナヒガンバナ、シロバナマンジュシャゲ、名前はこんなふうによぶ。彼岸花とショウキズイセンとの種間交雑種らしい。いつもはあるな、ぐらいだったが、今年はなぜか写真におさめたくなった。基本的に真っ赤な彼岸花が好きだし、今ももちろんそうなのだけれど、白い彼岸花も、コントラストとしては、わるくないなと、ようやく思えるようになったのだ。両方を楽しむこと。わるくないといえば、増水した川をみるのも新鮮だったし。





 雨もわるくない、そして晴れもまた。そんな両者の楽しみ方を想う今回だった。
 この文章を載せた9月25日には、もう彼岸花もさかりを過ぎてしまったかもしれない。まだ、蕾だった花たちが咲いているかもしれないが。風にだいぶ秋が感じられるようになった。陽射しも幾分か、暑いのに弱くなった感じがする。家の近所の彼岸花はほぼ終わり。夏が往く、そして秋が来ていた。



01:12:24 - umikyon - No comments

2017-09-20

ゆく夏に雨が送る。─ダ・ヴィンチ展

 雨の一日、「没後500年記念 レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(二〇一七年八月二日─十月十五日)に出かけてきた。前期展と後期展があったが、前期展はおもに夏休みの子どものためのものだったので、九月十二日から始まった後期展のほうへ。場所は横浜のそごう美術館。

 HPやチラシから。
「二年後に迫った二〇一九年の没後五〇〇年を記念し、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を開催します。
 《最後の晩餐》や《モナ・リザ》の画家として知られているレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二〜一五一九)は名画の他に、膨大な量の手書きのメモ(手稿)を遺しました。数十年にわたって書き綴ったその手稿には、機械工学、航空力学、天文学、幾何学、建築、解剖学、自然科学など広範囲にわたる研究がデッサンとともに鏡文字で記されています。本展ではその中から特に、水力学、飛行、ロボット、楽器、機械などの手稿にもとづいて立体化された大型模型六〇余点を中心に天才レオナルドの「手」から生まれた世界──未来へ抱いた夢を紹介します。」

 ダ・ヴィンチは、好きではあるけれど、実は感動した…という覚えがない不思議な人だ。小さい頃、《モナ・リザ》が日本に来日したのが話題になっていたのを覚えている。わたしがほとんど初めて名前を知った芸術家(なのだろうか、彼はそれだけではない枠を越えた活躍をしているので、使うのに語弊がある)になるかもしれない。いや、あと一人、候補がいる。家に複製画が飾ってあったロートレック。ともかく最初期に名前を知った人物のひとりだ。
 そんな記憶があるから、どこか好意を抱いているのだろう。とてつもない敬意とともに。わたしは科学に対しては、門外漢でよくわからない。だから、彼がどれほどの偉業をなしとげたのか、わかるようでわからない。すごいなとは思うのだけれど、実感がないのだ。けれども、ひかれる…。そんな不思議な人物なのだった。
 展覧会では、第一章にあたる、おもに立体模型がかざってあるところは、写真撮影が可だった。二章以降の手稿の展示が写真撮影不可ということらしい。手稿はちなみに「ファクシミリ版」という。「ファクシミリ版の「ファクシミリ」とは、FAXの機械が普及する以前からヨーロッパで使われていた言葉で、ラテン語の「facsimile=同一のものを作れ」からきています。いわゆる量産の印刷物とは異なり、オリジナルの手稿を保護し、研究する目的で精細に複製されています」とあった。
 精巧な複製だとは思ったし、紙の質感も、良さげだったが、当たり前だが、やはりどこか生の質感、手ごたえのようなものが、いや、時代を経たモノのもつオーラが欠けていた。それでも、ダ・ヴィンチの肉声に近いものは、もちろん感じられたので、十分ではあったのだけれど。



 第一章、入口近くにある、冒頭のあいさつのなかでの言葉を写真におさめた。そこには、こんな言葉があった。
 「人間の才能は多種多様な発明をして、その発明した人工物を用いて自然と張り合おうとして来た。しかし、自然が創造したもののように、驚くほどやすやすと、人工物も介さずに、しかも実に美しい発明をすることはできないだろう。実際、自然の発明したものには、なにひとつ欠けたものも、余分なものもない。」(ウィンザー紙葉19115r、ウィンザー城王室図書館)
 だからこそ、「自然こそ最もすばらしい芸術家だと考えて、自然から学んだ」のだと。
 解剖と徹底した観察。当時はおそらく、カトリック教会の禁止、というより時代を包んだ空気として、それを否定していただろう。そんななかでの、こうした考えに、心うたれる。そして、それとはおそらく違うだろうけれど、やはり共感めいたことを感じてしまうのだ。「自然の発明したものには、なにひとつ欠けたものも、余分なものもない」。だからこそ、自然に惹かれるのだと。
 ここ数年、ここ十年、いや、徐々になので、正確にはわからないけれど、自然というか、景色というか、そこここにある花や、雲のかたち、虫の訪れ、そうしたものが、心にしみるようになってきた。
 なんで、こんなに惹かれるのだろう。どうして、こんなにあざやかに、この花は咲くのか。それは一体化しつつ、ほとんど完結した美として、わたしに日々、語りかけてくれているからなのだった。
 ということを、ぼんやりと、思った。
 ほか、『竜の頭の形をしたリラ』(パリ手稿B Cr フランス学士院図書館)に惹かれた。模型とあるが、楽器。竜の頭の裏に弦があり、演奏するときは竜の角が腕にぴったりとおさまるらしい。
 科学と芸術の接点を想う。同時に、大切な遊び心を。音が聴いてみたいとも。竜が歌うような音だろうか。



 三章では、複製だけれど、主要作品のうち、殆ど(というのは現存が確認されている数が極端に少ないから)、ダ・ヴィンチの絵画作品の展示があった。複製とはいえ、一堂に会しているので、見れてよかった。《モナ・リザ》が先頭で。
 ダ・ヴィンチ展のあと、新横浜まで足をのばし、ラーメン博物館までいった。昭和三十年代の街を模した、この場所が好きだった。こちらももう数十年前から。だから楽しみにしていたのだが、連れが全く興味がなかったらしく、足早に、ラーメンだけ食べて後にした。そのことに少しショックをうけたが、後日、と言うか、今になって、すこしそのことがわかった。あの昭和の街並み、あれには、わたしが子どもの頃、ごく幼年時の香りがしていたのだ。正確にはそれは昭和四十年代だけれど、東京の夜の街、なつかしい映画の看板、どこかいかがわしい雰囲気、電柱、銭湯、それはわたしの個人的な体験が反映して、あの場所を好きだとしていたのだ。連れは住んでいた所が全く違うので、おそらくそうした体験がなかったのだ。あの街を懐かしく思うのと、ダ・ヴィンチを懐かしく思うのには、共通点があったのだなと思う。《モナ・リザ》来日に、長蛇の列だというニュース。それを見聞きした子どものわたし。
 雨は台風によるものだった。台風一過の後、季節外れの高温、真夏の暑さ。林のある公園の脇を通ったとき、晴天のなか、蝉の鳴き声を聞いた。繁茂する植物たちのなかで、最後の夏のなかで。完結している、美しさだと感じた、そして、その緑のなかに、やはり子供のわたしを見つけた。小学生、中学生の頃、よく遊びに行った林のイメージ。夏が往く。
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2017-09-05

夜明けのはざま、言葉で、追うよ

 覚えておこう。八月の終わりで、もう朝の五時近くはかすかな、明るさ。そして九月に入ったら、東の空もほとんど夜。五時前が明るい、朝といえる季節は、意外と短い。はじまりはいつだったかしら。覚えていないので、ずるをした。つまり、調べた。たぶん四月半ばすぎ。一年のうち、四か月半ぐらいか。そしてこの時期がわたしが一年で好きな季節とほぼ重なるということに気付く。もっともはじまりは三月だけれど。すこし暖かくなった春、三月から夏休みの終わりの八月三十一日まで。
 前回、ここを書いてから、原稿を何本か書いていた。めずらしくテーマだけはすこし前から決まっていた。いつもは直前までおりてこないのに。テーマにそって、書かないで、頭のなかで組み立てる。頭のなかで書く。こんなことを夢のなかですら、やっていた。夢のなかでは、書いていた。朝起きたら、書いたものが失われていた、いや、夢のなかにおきざりにしてしまったのだ。
 八月末が締切だったので、その数日前から、ようやく本当に紙に書いた。散文はそうでもなかったけれど、詩のほうは、おもったよりも、予習というか、シミュレーションしていたよりも難しかった。夢のなかで書いたもののほうが、豊かだったのではなかったか。そんなことすら思ったが、考えてみたら、そう思うのは当たり前なのだろう。夢の中のそれが優れているという意味ではない。もはや夢のなかのそれを見ることができないから、届かないものへの憧れというか、おなじ土壌にたっているわけではないものへの引け目というか、ともかく、想像してしまうのだ。あちらのほうが、いいのだろうと。夢の中やシュミレーションのほうが、よく思えるのは当然なのだ、それらのほうが想像することのほう、幻想に近しいのだから。対して、書いているわたしはそれでも現実に近いのだ。
 とくに詩のほうが難しかったと書いた。それは詩のほうが想像に近いからだと思う。日常の文体よりは、という意味で、夢の言語に近しいから。
 そして今回のものは、わたしのなかでは最初から、テーマが散文に近かったものだった。思い出や体験がからんだことだったから。実際に書いてみて、散文に流されてしまうような、距離感がとれない、日記のような、そんな印象をもった。数カ月前も、ちがうテーマで似たような体験や思い出のこと、書いた、その時は距離感がもてたのにな、どうしてかしらと思ったが、はたと気付いた。そのときも、かなり苦労して、距離感をもったのだと、いわば、なんとか距離感をたもとうと、にげるように、空想の領域へ、むかったのだ。現実と空想、そのはざまへ。
 だから今回も、なんとか逃げた。なんかいか逃げた。日記になりませんように、散文にかたむきすぎませんように。フィクションたちがさしこまれ、想像たちがすこしだけ歩み寄って。なんとかなっただろうか。わからない。思っていたよりは。最初思ったよりも散文だった、それから逃れて、収集がつかないのでは? 次にそう思ったよりは、なんとかさまになったのではないだろうか(自分でいうのもなんだが)。こんなふうに、思ったよりは、思ったよりはを繰り返して、そうして両方から押し出すようにして、はざまにいられたらいいなと思う。夢と現実、現実と想像のはざまに、宙ぶらりんに。
 これらの原稿にかかずらっているとき、図書館で『失われた時を求めて 全一冊』(マルセル・プルースト著、角田光代・芳川泰久編訳、新潮社)というものがあったので、つい借りてしまった。わたしは井上究一郎訳、鈴木道彦訳で、長いほうを昔読んだことがある。鈴木道彦訳のほうは、集英社で出した全二冊(あらすじと本文が混ざっている)でおさめたものを最初に読み、十年ぐらいたって、鈴木道彦訳の全訳を読んで。全二冊…読んだとき、まだ個人全訳が井上究一郎のものしかなかったのだ。だから順番としては全二冊の鈴木道彦訳、井上究一郎訳、鈴木道彦訳、となるのだった。
 数年前、光文社の文庫が出たとき、また買ってみたが、こちらはなぜか二巻目まで読まないうちに、挫折してしまった。これはたぶんわたしのせいなので、訳者の名前は出さない。
 先に出した鈴木道彦、井上究一郎は、読みたいと思った時期に合致した訳者だったのだと思うから。
 今回借りた『失われた時を求めて 全一冊』。あのとてつもなく長い本を、よくまあ一冊にしたものだ。四百字原稿用紙で一万枚ほどを、千枚へというから十分の一。〈一切の説明を加えず、すっきり通読できる物語に切り出したのが本書である〉。とあった。だから、主なストーリーは、話者とアルベルチーヌの恋愛にだけしぼってあり、時系列もすっきりとしていて、読みやすい。けれども、一長一短だ、やはり十分の一にするには無理がある。さまざまな人物たちのエピソードが話者によって語られるのを、ときに追体験したり、劇場にでもいっているように、感じるのが醍醐味だったのだが、それがないのが、少々淋しい。更に、説明もなく進んでゆくので、話者にとって大切な人物たちがどの時代に登場し、いつ退場したのか、わからなかったり、関係性がわからなかったり。個人的には大好きだったエピソードがかなり、抜けているのがショックだった。
 それでも、読了できたのは、うれしかった。たりないなと思いつつも、追ってしまう。それは、夢を追うのには似てないか。
 原稿を書いているとき、これは元々そうだったのだけれど、『失われた時を求めて』のエピソードを引用したい個所が出てきて、全一冊のほうではなく、結局、全二冊のほうで、目星をつけて、それから全訳に当たるということをした。おもに鈴木道彦訳を引用したのは、手にとりやすいところにあったから、というのが一番の理由なのだが、こちらは巻末に、エピソードの見出しついていて、探すのに便利、ということもあった。
 話者の祖母が亡くなったときの、祖母の美しさのこと、話者の祖母と亡くなったあと、話者の母、つまり祖母の娘が、親そっくりになったことなど。これらのエピソードを今回引用したりした。それらが、どこで語られたのかなどは覚えていなかったが、今聞いても美しい言葉、そして、それらの言葉に感動した当時の自分と再会をはたせたことなどがうれしかった。
 言葉をとおして、そんなふうに、こんなふうに。夜明けがますます遠ざかってゆく。だからこそ、朝がいとしく思えるのだろう。
23:41:16 - umikyon - No comments

2017-08-25

空想と現実、芸術と科学のはざまの頁で (紙の上のいきものたち!!展)

 夏なのに、気分がすこしすぐれない。それは八月にはいってずっと天気が悪いからだと気付く。二十日間も連続して雨。夏の記憶がとおざかってゆく。夏はじりじりするほど暑くなくては。陽射しが肌にやきつく感じ。ひまわりやカンナがかわいた明るさによく似合って。
 八月の最初の頃はそうでもなかったのだけれど、中盤ぐらいになって、雨やくもりの影響がでてきたみたいだった。身体がおもく、心がどこか暗くなっている。天気が心をうつす鏡であるかのように。いや、心が天気をうつす鏡であるのか。
 そんな雨の一日、車で町田市立国際版画美術館に家人に連れて行ってもらった。電車で何回か出かけたことがあるが、車ははじめて。こちらも森の中にある感じの美術館。そういえば森の中の美術館というのは、多い。森というか、公園というか。何故なのだろう。埼玉県立美術館、府中市美術館、せたがや美術館、宇都宮美術館、箱根の緑に囲まれた中の美術館たち、東京都庭園美術館は、森のなかではないけれど、隣が森(国立科学博物館所属自然教育園)だ。上野だって森といえば森ではないか。なぜ木々と美術館は親しいのだろうか。理由はわからないけれど、緑のなかで、美術館に出会うのは、ここちよい。ほっとする。
 雨が強かった。そして車だと、いつも駅から歩いてくるルートとまったく違って、森を感じる前に、裏口から美術館にはいる感じ。駅からだと、木々をぬけて、公園内をしばらく歩くと、ゴールのように美術館があるのだけれど、駐車場からかなり近く、端っこからいきなり美術館にきてしまう。その向こうに雨にぬれた公園があった。ちょっと新鮮だった。ほんとうは公園も散策したかったのだが、雨がかなり激しく降っていたので、この日はあきらめたのだったが。
 町田市立国際版画美術館、この日の展覧会は「紙の上のいきものたち!!」(二〇一七年七月二十九日─九月二十四日)。





 展覧会HPなどから。
 「古くから人間は動物や植物、虫などのいきものを版画であらわしてきました。紙の上で新たな命を与えられたこれらの生きとし生けるものは、人間を映し出す鏡といえるかもしれません。たとえば写実的に描かれた植物からは、科学的な考えやまなざしが芽生えたことがうかがえます。また動物の姿を借りた寓話は、人間の愚かさや滑稽さを教えてくれるものです。一方で、現代の版画家たちが魅力あふれる生命を表現しつづけていることも忘れてはならないでしょう。
 本展では身近なものから遠い異国のものまで、多種多様ないきものが息づく約一二〇点の版画を展示。植物から作られた町田産の色材を用いた若手作家の版画も紹介します。いきものの様々なすがた・かたちを通じて、自然がもたらす楽しみと恵みをご堪能ください。」
 博物誌的なもの、物語の挿絵などがメインだったので、たぶん、あまり感動することはないだろうとは思っていた。それでもなぜか、この頃、動物たちと聞くと、つい反応してしまうのだった。生あるものたちが、年と共にいとしくなってきている。みな死すべきものだからかもしれない。というか、そのことにようやく、ながいことかかって気付いたからかもしれない。
 展覧会は、一章と二章のほんの数点だけ、写真撮影が可能だった。ゆっくり見れるという点では、写真撮影可能は、かえって気が散ってしまうけれど、図録などを買わないですむので、一長一短だ。
 この第一章「いきものを版画にするということ」(十五世紀の西洋の草本誌や博物誌の紹介)に、サイがいた。サイについては、ここでも何回か触れている。最近だと二〇一七年五月十五日。
 〈日本経済新聞の二〇一四年五月十八日の連載コラム記事で、生物学者の福岡伸一氏が、アルブレヒト・デューラーのサイのデッサン、サイの木版画を挙げて綴っていた言葉が、心に響いた(「芸術と科学のあいだ」その十四「脱ぎ捨てられたサイの甲冑」)。
 一五一五年にインドからリスボンへ連れられてきたサイ。その噂をドイツでデューラーが聞き、伝聞を元に描いたもの。それは全身甲冑で覆われた、金属でできたような、恐竜のような力強いサイだった。この絵は以後、ヨーロッパでは広く流布され、なんと「二十世紀初頭まで教科書にもサイの図として掲載されていたという」。
 そうして。
 「のちに、動物園で実際にサイを観ることになったとき、人々はこう思うことだろう。実際のサイはなんてみすぼらしいのだろう。あの立派な甲冑はどこにいったのかと。甲冑はあなたの頭の中に脱ぎ捨てられているのである」〉(二〇一四年五月二十五日)。
 そのアルブレヒト・デューラーのサイの絵を、この展覧会で、はじめて見ることができたのだ。それは「ヤン・ヨンストン(一六〇三─一六七八年)著『動物図譜』一六五七─六五年刊)、ラテン語版第二版、エングレーヴィング」のなかの一頁だった。「博物学だけでなく神学・哲学も修めた多彩な学者のヨンストンが著した、水陸の動物、鳥や虫、爬虫類を網羅した図鑑です。必ずしも実物を見たわけでなく、他の版画や挿絵を引用したものや、空想のモンスターも数多く収められています。」と、キャプションにある。そうだったのか、空想のいきものたちと現実のいきものたちが、たがいに行き来していたのだ。想像と現実が未文化だったのだ。そのことをうらやましがるわけではない、これも一長一短なのだ(いやもっと短所のほうが多いかもしれない)。そう、間違えた情報ということでもあるのだから。けれども、そんなふうに語ってみたくなるのだった。
 この『動物図譜』のなかから何点か出品があった。これらが美しかったので、芸術と科学の蜜月的なものを感じた、そうしたことも、空想と現実の蜜月を感じることを手伝っていたのだろう。
 展覧会会場の照明は基本的にうすぐらい。その暗さのなかでこうしてサイをみれたのは良かった。おごそかな感じがした。スポットライト的に上から光があたっているので、光がじゃまになり、うまく撮れなかったが、



 美と科学、空想と現実のはざまにある書物の中に、甲冑のサイがいた。この絵の部分だけ、切り離したものは、もちろん見たことはあったが、書物のなかで見たのは初めてだった。こうした書物の中で、空想や想像が親しい、けれども厳かななかで、見たサイだけが、ほぼ本物だったとき、二十世紀になって、はじめて実物のサイを見たなら、なるほど違いに驚くだろうと、重ねることができたかもしれない。わたしの今までの見かたは、実際のサイを知っていた者の偏った反応だった。いや、実際のサイが先で、デューラーのサイが後の者の態度でしかなかった。教科書や『動物図譜』のサイが初めてだった者の驚きを、追体験することは難しいのだ。彼らのことを慮るということは。だが、ということが、わかって、それでもよかったと思う。この『動物図譜』の中のサイ、デューラーのサイのほうが素敵、とかではなく、ともかく、このサイは、ほとんど神々しいまでに、厳かな威厳をたたえていた。甲冑をまとった姿はりりしくもあったが、どこか哀しげで。
 ほかにも何点か、心ひかれたものはあったのだが、感想がうかんでくるほどではなかった。怠惰からくるのかもしれないけれど、サイをみたあとでは、もはやサイでいっぱいになってしまっていた。雨も手伝って、サイ以外のことが、流れてしまって。
 こんなふうにあのデューラーのサイは、それでも想像と現実のあわいで、わたしに何度も語りかけてくるのだった。
 八月下旬になり、ようやくまた夏らしい陽射しが戻ってきた。わたしが平日出かける午前四時四〇分頃の朝は、徐々にまた夜に戻ろうとしている、まるで日没のように、明るい朝から、暗い夜へむかっているのが日々、判るのだ。これを書いている二十五日の朝午前四時四十五分は、日の出前(日の出は五時七分位らしい)だったが、東の空がぎりぎり明るかった。けれども朝焼けがぞっとするほどきれいで。また西から天気が悪くなるらしい。西はといえば、まだ夜の気配、そして木々が多くみえて、これも森のようで。
21:18:49 - umikyon - No comments

2017-08-10

昨日も別の日。だから過去に涙するのかもしれない─ベルギー奇想の系譜展、クノップフ

 土曜日の夕方、都会に出る用事ができたので、午後にどこか美術館でも…と探して、見つけたのが『ベルギー奇想の系譜(ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで)』展だった。場所は渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム、期間は二〇一七年七月十五日〜九月二十四日。
 実はこのごろ美術館、すこし食傷気味だった。なんというか、行く前に予測してしまうというか。予算の関係で大きな展覧会に余りいかなくなったこともある。それよりも小規模な展覧会だと、常設なども含め、なんとなくどこかでみたものたちに再会することが多くなってしまうのだ。もっと遠くの美術館に足をはこべば、またちがった出逢いもあるのだろうけれど。せっかくの大好きな北斎を展示する墨田区のあの美術館には、残念ながら二度と足を運びたくないし。
 わたしは気持ちにそぐわないことは書かないようにしている。なんというか感情的になってしまうことで、なにかがそこなわれてしまうから。にげかもしれないが、それはそのうち書けるようになることだとも思う。まだ書けないのだ。消化するまでは。たぶん最近美術館に前よりも行かなくなったことに、おそらくあの大嫌いな美術館は、一役買っている。そのことはわかっているが、まだ触れられない。けれども、外堀から埋めていこう。たとえば、こんなふうにほかの展覧会にそれでもゆくことで、いつか触れられるようになるだろう。
 渋谷まで。電車で行こうと思ったけれど、なんとなくバスで行くことにした。値段が安いのと、途中、かなり渋谷寄りの三軒茶屋ぐらいまでは自転車で行ったことがあるので、距離がすこし身近になっていたから。
 ただ道はわかっても、混んでいると結構時間がかかる。それもあって、早めに家を出た。一時間半ぐらいかかるかしら。あつい陽射し。バス停でバスを待つ。仙川が近くを流れている。すぐ近くにこっそりと湧水。ほんとうにこっそりと、といいたくなるほど、団地の端に、湧水を集めたきれいな池がある。自転車でよくきている大事な場所だ。暑さのなかで、あの湧水のことを考えるのは、心地よかった。すこし緑がこんもりした、あのあたりに、見えないけれど、湧水池はあるのだ。
 バスに乗って、すぐに池のほうをみやったが、バスからは見えなかった。ここも国分寺崖線。坂を登る。桜の時期は、両脇がちょっとした桜並木になる。
 そして自転車で通る場所たちが、車窓風景になるのだった。けれども早朝バイトの後だったから、すこし疲れていたこともあり、けっこう眠ってしまった。わたしはバスの中では読書ができない。本を読もうとすると車酔いしてしまう。それでもおばあちゃんの住んでいたマンションの前までは起きていた。わたしが小学校五年の時に亡くなった祖母の住んでいたマンション。もう数十年前なのに、まだマンションがそのまま、そこにあるのが意外だった、嬉しい驚きだった…と通るたびにいつも思い出す。
 渋谷についた。道が空いていたので、おもったよりもだいぶ早くついた。五十分乗っていたかどうか。これなら電車で行くよりもだいぶ早い。良かった。
 さて、渋谷。方向音痴だけれど、さすがに昔、近くにすんでいたことがあるので(バス停でいうと四停留所ほど向こう)、ブンカムラまでの道は迷わない。
 展覧会は、数カ月ぶり程度なのだが、気分的に久しぶりだった。そして展覧会会場のある渋谷は、ほんとうにもっと久し振りだった。とくにブンカムラへゆくまでの道、にぎやかなほうには、数年来たことがなかっただろう。
 ここのあたりを歩くたび、身近な街だったはずなのに、どこかよそよそしく感じられるのだった。四停留所離れた場所に住んでたのは、二十代後半から三十代半ば迄で、若かった筈なのに、渋谷の街中にいると、当時ですら、いつも自分が年とっているように感じたものだった。それよりさらに年をとった自分が今思うのは、おかしいような気もしたが、それ自体がなんだか遠い。
 遠さのなか、浮遊するように、街を歩いた。暑さのせいもあり、なにかリアルさがかけていた。





 大通りからいくと、東急内の、美術館がある方は、一番奥になるが、ともかく手前、涼しいところにはやく入りたくて、デパートの入口をめざした。これもブンカムラにくるといつもだ。寒い冬なら、寒さを逃れて、雨なら雨を逃れて。春や秋ならどうだったろう? やはりデパートにすぐに入ってしまった気がする。ほとんどデパートと無縁なので、たまにはなかの空気をすってみたくなって、というか。
 さて、展覧会。
 「現在のベルギーとその周辺地域では、中世末期に発達した写実的描写のもと、独自の幻想的な絵画が生まれました。ブリューゲルの奇妙な生物、アンソールの仮面や髑髏、マグリットの不思議な風景など、そこにはどこか共通する奇想・幻想の世界が広がっています。
本展は十五、六世紀を代表するボスやブリューゲルの流れをくむ作品から、象徴主義、シュルレアリスムの作家を経て、現代のヤン・ファーブルにいたるまで、約一三〇点の作品を通して、五百年にわたる「奇想」の系譜の存在を探ります」(展覧会HPから)。
 チラシもボスの工房の絵だった。ボスもブリューゲルも、すごいなとは思うし、どちらかというと好きなのだが、あまり感動したおぼえがない。ブリューゲルのほうはあった気がするが、それもここにあるような怪物や異想的生き物より、もっと静かな作品だった。だから、申し訳ないのだけれど、入ってすぐ、というか、ほぼ目玉である作品たちには、あまり興がわかなかった。土曜で夏休み。子どもたちもいて、かなり混んでいた、ということも理由になるだろうか。ただこれは想定内だったので、あまり気にならない。下調べした段階では、ルネ・マグリットの作品があるということだった。それとも食傷気味のわたしは、もしかして、好きなマグリットにも興を起こさないのだろうか、その方が不安だった。展覧会会場を行く。一章の[十五・十六世紀のフランドル美術]から、三章のマグリットが展示されている[二十世紀のシュルレアリスムから現代まで]まで、年代順になっている。そのまえに、二章[十九世紀末から二十世紀初頭のベルギー象徴派・表現主義]だ。 [この章では工業化・都市化が進む中で、科学の世紀に背を向け、想像や夢の世界など人間の内面を表現する美術家たちが現れる過程を見ていきます。][一八八〇年代の後半には、科学の世紀に背を向けて想像力と夢の世界へ沈潜しようとする芸術家たちが現れます。ボードレールに敬愛された画家ロップスは、中世からルネサンスにかけて北方美術が好んで採り上げてきた骸骨たちの舞台を近代的によみがえらせました。一方、クノップフの暗示に満ちた静謐な作品を観る者はこの画家の解けない謎にからめとられていきます。画家が抱えていた孤独や怯えが不穏な唸りとなって、観る者に圧をかけ、ついに叫びだす自我を描いたのがアンソールでした。アンソールがよく描いた骸骨と仮面は、隠されるもの・隠すもの・暴かれるものという性質を内包していますが、この関心は、次の世紀のマグリットから現代まで続く「言葉とイメージ」の問題へと展開していくことになります。](展覧会HPより)

 そう、象徴派のところにあったフェルナン・クノップフ(一八五八─一九二一年)。たぶんあるだろうなとは思っていた。ブンカムラとクノップフは相性がいい。というか、わたしがみた多くのクノップフ作品はここでの展示だったと思う。だから、おそらく一点ぐらいは…とは思っていた。だが何点あったろう? 会場で数えた。八点だ。副題(「ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで」)はむろん、チラシにもほとんど名前も載っていない、ただ小さな絵が一点掲載されているぐらいの扱いだったのに。ちなみにその絵は、《青い翼》。後述するけれど、チラシは会場で見たのがはじめてだったので、この絵がきているとは知らなかった。知っていたら、この絵をみるだけのためにきただろう。それぐらい好きな絵だった…。いや、先走りすぎた。元に戻る。
 ベルギー象徴派のコーナー、ジャン・デルヴィル、フェリシアン・ロップスがあるなあと思っていたら、いきなりのクノップフ。予想はしていたけれど、思いがけなかった。
 わたしはどうして彼の絵が好きなのだろう。この会場で、一番最初が《捧げもの》(一八九一年)。紙とチョーク、なかば横向き加減の女性のアップ。眼がこちらをむいている。ただ、これは別に大理石の胸像に花をそえようと手をのばした、上半身が映った作品もあり、その一部的な作品だということを、あとで知った、というか気付いた。けれども、この顔、そして次次に現れる女性たちの、独特な表情に、なつかしさがおしよせてきた。《内気》(一八九三年)《巫女シビュラ》《アラム百合》は、彫像や油絵作品を写真にして、それに彩色をほどこしたもの。
 今、もし、はじめて見る画家の絵だったら、こんなに心がざわめくだろうか。ふとそんな想いがよぎった。もしかすると、通り過ぎはしないかもしれないが、ここまで心ふるえることはなかっただろう。クノップフの名前を聞いたのは十九歳ぐらいだった。二十代でクリムトなどと一緒に、心惹かれる画家となった。世紀末、デカダンス。その頃のわたしの嗜好の体現者、あるいは勝手な想いなのだけれど、共有してくれる絵としての役割もになっているのではなかったか。彼の絵のタッチをみるたび、かつての自分がそこに…。



 クノップフの絵は、孤独者をゆさぶる絵だと思う。孤独をつきつめた、孤独をそれでも沿わせている。愛するというのと少しちがう。ただ影として、まとっている。寄りそわせている。彼の孤独が心地よかった。彼の風景画には、人がまったくいない。この展覧会にも一枚あった。《ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院》(一九〇四年)。ただ運河と建物だけ。水は鏡のように、何かを写すのかもしれない。たとえば過去、のようなもの。と、この展覧会にはなかったけれど、鏡に映った自分の顔にくちづけする女性と、建物と運河がうっすらと重なってみえる《わが心は過去に涙す》(一八八九年)を、今、これを書きながら思い浮かべてみる。机のまわりに、クノップフの画集や絵ハガキたちが並んでいる。
 わたしの過去が彼の過去と呼応するのだろうか。そんなふうに感じられるのだろうか。わたしのなかでの世紀末の凝縮のような空間だった。
 ああ、そうだ《青い翼》(一八九四年)のことを書きたかったのだ。こちらも油彩作品を写真(撮影アレクサンドル)にし、それに彩色をほどこしたものだが、彩色のせいか古さのせいか、もともとの作品のもつ力なのか、写真であるかどうかはまったく気にならない。ヴェールをかぶった女性の腰近く、長細い画面の中央に、実際にクノップフの館にあったという擬人像ヒュノプスの頭像が置かれている。ヒュノプスは眠りの神。耳元にある翼は片方しかないが、この翼が青いのが題名の由来。片翼しかないのも、眠りの神であるのも象徴的だが、女性の孤高で崇高な、夢みるような表情とあいまって、夢幻かつ絶対の神殿への渇望を静かに凝縮させている…、いや、そんな言葉が書きたかったのだろうか。ただ、この静謐さにひかれたのだ。懐かしくも、あらたに心にゆさぶりをおこしてくれる、大切な。



 この後、ここに来る前にお目当てだったルネ・マグリットの絵たちを見る。それなりに惹かれたけれど、もうしわけないが、心がほぼクノップフ一色、クノップフ祭りになっていたので、あまり入ってこなかった。ただクノップフを観た、会えたということを余韻として残したいと思っていたから。

 展覧会会場とミュージアムショップはほぼつながっている。出口付近にショップはあるけれど、もしそこで展覧会会場に戻ろうと思えば、難なくゆける。そのかわり、展覧会は行かずにショップだけに行きたいと思っても、なかなか難しい。再入場ができないから。だいぶ以前、係の人に頼んで、ショップにだけ用があったので、入れてもらったことがあったが、今はどうなのだろう。ともかく、いちおう、最後まで見た後、ショップに行った。クノップフの作品が何か売ってないかどうか知りたかった。《捧げもの》の絵葉書が一枚あった。図録には、この東京会場以外の場所(宇都宮美術館、兵庫県立美術館)では展示されていた作品たちが載っていて、触手が動いたけれど、クノップフ以外の作品には、ほとんど興味がなかったので、買うまではしなかった。ただ、一枚、絵ハガキだけ、あとで買うことにして、またクノップフに会うため、会場に戻った、そのあとマグリットへ、またクノップフへ、マグリット、クノップフのあたりを、うろちょろして、そうしてようやく美術館をあとにした。手には一枚、絵ハガキ。あとは展覧会のチラシを。ここには《青い翼》が小さかったけれど、載っている。
 《青い翼》。うちに絵ハガキがあったはず。そして古い『美術手帖』の特集頁にも比較的大きく載っていたはず。家に帰って探すと、絵葉書のほうは同じ構図だけれど、パステル、水彩、グアッシュの《白、黒、金》(一九〇一年頃)とあった。翼が青くない。モノトーンではないけれど、セピア色というか、色を抑えたものになっている。『美術手帖』は一九八九年三月号。古い。リアルタイムに買ったものではなく、「特集・クノップフ─青い世紀末」ということで、たぶん、古書店で購入したものだと思う。大切な一冊だ。リアルタイムでないといっても、おそらく九十年代には買っているのだけれど。話がずれてしまった。こちらに載っていたのは《青い翼》だが、元の油彩作品のほうだった。一八九四年作。うれしいことに《捧げもの》《巫女シビュラ》《アラム百合》も別のバージョンのものが掲載されていた。展覧会でみたものたちの余韻にひたるには十分だった。
 ほかの展覧会にこの先、行こうという気持ちがわきあがったかどうかは知らない、なんともいえない。ただクノップフ祭り状態の、心のありかたが心地よい。いまはこれだけでいい。あとのことは、あとで。“After all, tomorrow is another day.”この台詞、『風と共に去りぬ』のラストの言葉が、ふと思い出される。字幕ではどうだったかしら。「明日は明日の風が吹く」が、かつての一般的な訳だったらしい。けれど、わたしが印象に残っているのは「明日、考えるわ」だった。だから、今、思い出されたのだ。そう、明日、また考えよう。ほかのことは。
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2017-07-30

朝顔、白粉花、向日葵…、夏休みの花、なのだろうか。


(▲これは前回の怪獣の雲)





 あちこちでひまわりの花を見る。わたしのなかでは八月の花だ。だからだろう、毎年みにいっている近くのひまわり畑、まだ咲いていないだろうと勝手に思っていた。夏休みの花。夏休みは七月下旬からだというのに、なぜか夏休みといえば八月と連想してしまう。 そういえば、朝顔、ひまわり、夏休みの自由研究で育てたりしたからか、子どもの頃と直結した、独特の花たちだ。ただ朝顔は入谷の朝顔市が七月始め、七夕の頃に開催されるからか、七月八月の花であり、さらに夏休みの花という、微妙な位置づけではあるのだけれど。
 今年入谷の朝顔市で求めた朝顔は、よく咲いてくれて、よく育ってくれている。午後遅くまで咲いているのもうれしい。日当たりのせいだと思っていたが、花びら縁と中央から放射線状に白い筋の入った陽白というこの朝顔は、午後まで咲く品種であるらしい。バイトから帰ってきて朝顔と対面するのがだいたい午前十時台なので、これはうれしかった。今まで育ててきた品種の朝顔は、その時間だとけっこうもうしぼみはじめていたから。
 それにつけても、わたしはこの陽白という種類の朝顔が好きだったのだなあとしみじみ思った。今までなぜか、あまり育ててこなかったのだけれど、家でこうして咲いているのをみて、また、道端などで、だれかの家の庭先で見たりした時、その都度、ああ好きな花、好きな色だなあと思うから。
 今、すこし、これを書くのを中断して、ベランダに朝顔をみにいった。日曜日の朝。今日もよく咲いてくれていた。青、紫、濃い桃色。



 もうひとつ、子どもの頃と直結した花にオシロイバナがある。あれもなぜか夏休み、八月の花だという感じがある。今でもオシロイバナをみかけるたび、あの黒い実を、つぶして、中から白い粉を取りだして、手にしてみたくなる。夏休みの半ばすぎ、そうしてあそんだように。あの時、白い粉をどうしただろう? 手のひらのうえでもてあそんで、すこししめったような白粉の感触をたのしんで、ただそれだけでよかったと思う。
 けれども、今日は、ひまわりのことを書きにきたのだ。それなのに、花のまわりで、寄り道してしまった。夏休みの花たちのほうへ。そろそろ、黄色い大輪の、ひまわりに戻ってこよう。
 数日前、ひまわり畑の近くに用事が出来た。ついでに生育状況を調べておくかと、覗いてみたのだった。曇りの日、天気予報では、まもなく雨。たぶんまだつぼみだろう、だって八月の花、夏休みの花だもの。いつぐらいに満開になるか、様子を…と思っただけだったが、行くと満開だった。びっくりした。思いがけなさにはいつも心がざわついてしまう。平日だったせいか、人もほとんどいない。ひっそりと満開を、けれども豪華にむかえていた。大輪の太陽たち、向日葵たち。たくさんあるから心がさわぐのではないだろう。好きな花がたくさんだから、酔いしれるように、心がみだれるのだ。しずかな夏のざわめき。曇り空で、ひざしはなかったが、蒸し暑かった。暑苦しい筈の色なのに、ひまわりはどこか爽やかに、凜として咲いていた。今年は例年行われたいた切り花体験等のイベントがないらしい。ひまわり畑の看板にそう書いてあった。だからよけいひっそりと感じたのかもしれない。しずかに燦々と。





 珍しく蝶がとまっていた。家に帰ってしらべる。たぶんヒメアカタテハ。ちがったら御免なさい、だけれど。オレンジ色に豹紋のある蝶。ひまわりの黄色い花とよく似合ってみえた。



 これを書いている七月三十日の朝、ひまわり畑のHPを覗いたら、もうひまわり畑の第一弾は、花たちがみなお辞儀をしつつあり、終わりに近づいているとあった。第一段なので、まだ第二弾がある。そういえば生育途中の畑があった。けれどもちょうど満開の時に、あそこにゆけてよかった。
 きのう久しぶりに都会にでかけた(なぜ都会に出かけたかは別の話になるので、また次回)。子どもたちが多かった。いや昨日は土曜日だから、夏休みだからというのではなかったのかもしれないが、夏休みだからだろうなと思ってしまった。朝顔はいつ持って帰ったのだっけ。行燈仕立ての朝顔を持って帰った記憶をたぐるが思い出せない。
 あとで、またひまわり畑にゆこうと思う。今日は日曜日。わたしの休みの一日だ。


10:19:41 - umikyon - No comments

2017-07-25

気配たちが、凜として優しい。(行田市古代蓮、古墳、忍城跡)



 七月の三連休の二日目、日曜日、わたしにとっては週一回の休み。埼玉の行田市に、古代蓮を見に行った。
 蓮は朝開花し、昼には閉じてしまう。行田の古代蓮の里にも、七時から九時がちょうどいいと書いてある。けれども、うちからここまで、ちょっと距離がある。何十キロだったかわすれてしまったが、早くても車で一時間半ぐらいかかるのではないだろうか。朝のその時間に着くのは、少々きつく、いつもせいぜい九時〜九時半ぐらいになっていたと思う。ぎりぎり、見ごろの時間帯。それがわかっていたから、この日は、いつもよりすこし早く出かけた。ただ、連休で道が混んでいたこともあり、高速を使っても二時間弱かかった。それでも、ついたのは八時半ぐらい。時間がいつもより早いせいか駐車場などもすいていたと思った。比較的近いところに停められたので、ラッキーだと思った。
 けれども、園内に入ったら。花の少なさにすこし驚く。奥の池が見ごろだと書いてあったが、そちらもそんなには咲いていなかった。もう最盛期はすんでしまったのだ。いつかきたときは、満開、満開、よいしれるほどの満開の蓮たちだったが。
 だから駐車場も、そして園内も比較的空いていたのだと合点がゆく。
 それでも、その状況はほとんど残念ではなかった。こうしたこともあるのだ。それに池では、それでもあちこちで、ぽつぽつと蓮の花が咲いているのがみえた。泥から茎をのばし、水をとおって、水面、空に顔をむけて咲く花、というのも清濁あわせたようで、すきなのだ。蕾と花と花がおわったあとの蜂の巣のような(蓮の名前の由来でもあるらしい)種のはいった堅い花托になったもの、それらがいっぺんに観られることも、人の一生の集約のようだといつも思う。





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 いや元々は水辺がすきだったからだろう。水辺に咲く花にひかれるようになったのは。睡蓮、コウホネ、水芭蕉。水辺でみかけるその花たちには、格別な思い入れがある。今回は水カンナと睡蓮が咲いていた。カンナは橙色や黄色をイメージするけれど、水カンナは水色というか青のつよい紫。水辺に咲く花だからだろうかと、咲いているのをみるたび、思ってしまう。それにくらべてカンナはかわいた真昼の花だ。太陽の色がふさわしい。
 蓮の花はあまり多く咲いていなかったが、その分、いつもより庭園内をゆっくり、端から端まで見てまわったと思う。池のなかに中州のような島があるところ、ホタルの生育を行っているところなど、今回はじめて気付いた。
 おまけにそんなふうに咲いている蓮を探してぐるぐるしているうち、なんだか満開の蓮たちに囲まれているような、みょうな陶酔すら、感じられて来た。こうしてぐるぐると、蓮の花を求めていることが、心地よかった。その行為が蓮だらけのようだった。





 ここの蓮が好きなのは、そうだ、もうひとつ理由があった。それは古さだ。四十六年前(一九七一年)、この近くの工事現場を掘り起こしたら、偶然種が発芽し、開花したのだが、それが一四〇〇年から三千年位前のものだったという。
 なんという長い眠りだったのか。そしてその子孫たちが、この古代蓮の里で咲いている。かつての人々が見た花。もちろん個は変わっているが、その美しさは変わらない。同じものを見ている、そう感じられることも、好きなのだろう。



 あちこち、炎天下のなか、見て回ったあと、売店へ。ちょっとした野菜や、惣菜、おみやげなどを買う。そのあと、やはり行田市内にある埼玉(さきたま)古墳群へ。これも毎年のこと。五世紀末から七世紀にかけて成立したものという。こうした場所にくると、いつも気のようなものが違うと感じられる。たたずまい、気配、なんといえばいいのか、独特の静けさがある。わたしはこの気配を感じるためにここに来ているのだといつも思う。



 そのあと、今回はじめて訪れる場所、行田市郷土博物館へ。企画展として「古代の扉を開く〜行田発掘物語〜」を開催していると、もらったチラシで知ったから。
 博物館にきてはじめて知ったが、ここは忍城の本丸跡地なのだとか。城自体はもうないけれど、櫓などが再建されていて、お堀にも水がはられている。土塁も一部残り、屋敷門もあるので、こちらも佇まいというか、気配にどこか城をおもわせる独特の気がみちていた。秀吉の時代、石田光成の水攻めにも落ちなかった城(城主成田氏長)。開城したのは北条氏の小田原城が先に開城したことによる。江戸時代になってからは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となっていた。
 展覧会では、昨日も郷土博物館(世田谷)にきたなあ、博物館づいているなあと、なんだかわれならがほほえましくなっていた。あちらは代官屋敷、こちらは城の跡だけれど。
 ここでも縄文時代の土器などが見れた。また土だ。土の気配。そして埴輪。旗を立てた馬のめずらしい埴輪。これはさきたま古墳群からではなく、それよりも利根川近くの酒巻古墳群から出土したとあった。こちらからも土器とはちがった、土の気配。
 博物館のなかの庭園をすこしだけ見た。往時から残る数少ないものとして時鐘の遺構がある。鐘自体は複製品(実物は博物館内)とのことだが、十分に往時をしのべるものだった。





 近くに小さな川が造られていて、水が噴き出るところがあった。池の中に四角い石の枠があり、そこから水が湧いているようなイメージ。循環式なのだろうけれど、夏のこの暑さのなかで、それらをみるのは心地よかった。それだけで空気がかわって感じられた。古代蓮から忍城。二千年前から安土桃山、江戸時代、そして今。今回はずいぶんと時間を旅した気がした。
 これを書いているのが、実はすこし時間がたってからなので、実際のところは忘れてしまったのだけれど、こんなに長く遊んでいた筈なのに、家に戻ったのは比較的早かった。三時ぐらいだったかもしれない。こうして日常がまた帰ってきた。いや、日常に帰ってきた。けれどもこれらを書いているからか、サギソウやホタル、蓮たちが、微妙に日常に影を、いや気配を漂わせてくれている。ようやくことばたちがもどってきてくれた。日常はこんなにも気配でみちているのだ。



 今日、怪獣みたいな雲をみた。夕方だった。大切な友人に宛てて書いた手紙をポストに投函した後だった。
 気配たちが祝福してくれている、そんな風に思ったかどうか、心が温かになった。道道で、ひまわりの大きな花たち。
18:20:59 - umikyon - No comments

2017-07-20

ホタルがともれば、鷺草がとぶだろう

 七月十五日の土曜から十七日の三連休。といってもわたしは通常どおり、土曜日と月曜日は早朝バイト、日曜だけ休みなのだけれど、連れが三連休なのと、時期を考えて、土曜と日曜に出かけてきた。日曜のほうは次回に。今回は土曜の「せたがやホタル祭りとサギ草市」だけ。
 数年前にこの祭りを知ったが、行ったのは二回目。ボロ市などがひらかれるボロ市通り、世田谷代官屋敷周辺のお祭り。神社(上町天祖神社)のほうでサギ草市、縁日、物産展など、そして代官屋敷のほうで、ホタル観賞、敷地内にある郷土資料館で、サギソウにちなんだ季節展が開かれる。あとで知ったのだけれど、夜になると神社境内で盆踊りも行われるらしい。そういえば盆踊りのやぐらがしつらえてあったが…。
 ホタル観賞は夕方五時からなのだけれど、特設ドームが造られて、そこに潜っての鑑賞なので、辺りの明るさは気にならない。代官屋敷の庭の数か所に、板枠を網でふさいだなかにもホタルが放されていたので、暗くなったらきっと輝くのだろう。





 先を急いでしまった。ついたのは三時半ぐらいだったか。バスで行った。自転車でも行ける距離なのだが、自転車を停める場所があるかどうか記憶が微妙だったので。着いてみると、駐輪スペース、あるにはあったが、もう満車だった。去年も、この光景をみて、ああ自転車でこようと思えば来れるんだな、でも難しいかなと思ったことを思い出す。だから微妙…とぼんやりと思っていたのだなと、腑に落ちる。去年と今年が、つながったような。
 ホタル観賞が五時からと知っていて、すこし早くきたのは、サギ草市をみたり、縁日の屋台でちょっと飲食をしたり、古本市などが見たかったから。ただ三時半の段階では、なんとなく縁日がまだもりあがっていなかった。準備中というわけではなかったが、飲み食いしている人がほとんどいない。それで、ざっと見渡して、代官屋敷敷地内の郷土資料館へいった。郷土資料館は、祭りの両日は、午後九時まで開館しているそうだが、ホタル観賞が始まると、ドームに入るまでの列ができたりする関係で、ちょっと入りづらいイメージがあったので、今のうちに見学しておこうと思ったのだ。たしか野毛大塚古墳の出土品(とくに国の重要文化財指定)なども所蔵しているので、見れるのではと。
 これらは、おそらく企画展(螢とさぎ草伝説)の関係で、見れなかったが、見学してよかった。
 常設展の石器時代から古墳時代までの展示・解説にひかれるものがあった。わたしが住んでいる場所、行き来したところ、なじみのところが、遺跡であったこと、出土品が展示されていること。いつも何気なく自転車を走らせていた橋付近に、横穴墓があったことにも驚いた。玄室内の線刻画の、その素朴な人の形に、どこかクレーの絵を思った。
 そして縄文土器、土偶たち。土の感触のようなものが、形からみなぎっていた。ああ、わたしはこれを感じたかったのだと、それらをみながら思う。
 ところで、サギ草。今年はどうしたことか、あまり咲いていなかった。去年はもっと咲いているものが売られていたと思うのだが。
 世田谷とサギ草の関係もしった。縁があったのだ。「世田谷城主・吉良頼康の側室「常盤姫」が亡くなる時、日頃可愛がっていた白鷺の足に遺書を結び、実父の居城・奥沢城に放ちましたが、白鷺は途中で力尽き、落ちて死んでしまいました。この白鷺の想いが「サギ」のかたちの花となって辺り一面に咲いたと言う事です。」と、代官屋敷内のサギ草展示スペースに書いてあった。そのことがあって、世田谷区の花になったのだと。
 サギ草。亡父が好きで育てていた。ミズゴケにくるまれた苗を小学校経由で購入していたと思う。しくみはよくわからないのだけれど、いろんな植物の種や苗が載っているカタログのダイジェスト版みたいなものが学校から配布され、それをみて、植物を注文していたのだった。わたしの要望でハエトリソウやオジギソウなんかも。そのほか、コバンソウ、ノハラアザミによく似たドイツアザミが記憶に残っている。
 サギ草は蘭科。蘭の系統は、基本的に育てるのも花を咲かせるのが難しかったと思う。けれども父はサギ草を咲かせていた。ほんとうにサギが羽をひろげたような、この世のものとも思えない花だった。繊細すぎて、はかなすぎて。わたしはサギ草がすきだった。花をみるたび、花の名前をきくたび、父が咲かせた花を思い出す。平たい、青い化粧鉢に植わっていたっけ。
 世田谷区の花と知ったのは、だいぶ前だけれど、今住んでいるのも、生まれたのも世田谷なので、縁がある花なのだなとも思ったはずだ。
 「ホタル祭りとサギ草市」。開催されていると知って、ホタルにもむろん心ひかれたけれど、サギ草に、おもいがけずノスタルジーを覚えたのは、これらのことが積み重なってのことだったのだろう。
 そして、ホタル。
 ホタルは実は大人になってからみたものだ。子どものときにみた覚えがない。正確には大人ではないが、はじめて実際にみたのは十八歳ぐらい。観光地に母親たちと泊ったとき、偶然に。この旅行にはいやな想い出がある。いまだに消化できてないのかと我ながら驚いてしまうけれど、まだ感情的になってしまいそうなので、今はそのことにふれられない。ただ、それとは別に、ホタルが河原に飛んでいるのをみたのだ。ホタルは観光の目玉ということでもなく、宣伝されず、ひっそりと舞っていた。いや、ホタルがいることがほとんど当たり前だったので、宣伝することなど考えられなかったのかもしれない。蝶や蝉がいるように。ホタルをみたのは、いやな出来事の起きる前だった。だからこそ、ホタルの光だけは、無傷のまま残っているのかもしれない。よかった。あの出来事の後のことは、もはやまったく、どこを回ったのか、帰ったのかすらも覚えていないから。
 この箇所を書く前から、ホタルを見たのは十八歳ぐらいだったが、小学生の時ぐらいから、もっと身近に感じている気がしていた、それはなぜだろうと漠然と感じていたのだが、理由がわかった。本の題名は覚えていないのだけれど、児童図書のたぐいでホタルの一生についての本を読んだことがあったからだ。小学生の高学年だっただろう。ゲンジボタルは清流に、ヘイケボタルは田んぼや池など、比較的にごった場所にいる。幼虫は獰猛で、カワニナなどを捕食する。成虫になってからは、一週間から二週間位しか生きられない。そのあいだは水しか飲まない…、など今でも覚えている。
 文字で親しんだのが先だったのか、だからなんとなく、身近に思っていたのかと、言葉に特別の想いがある身としては、すこしうれしくなる。心の中で、ホタルはずっと点っていたのだ。
 さて会場。五時になると門の前でくす玉が割れる。そして特設ドームに順番で入ってゆく。中は仕切りがあって右側と左側、二列になっている。とりたてて考えるでもなく、真っ暗ななか左に入る。ほんの数メートルの暗がりの道だ。ホタルがかたまって、天井のほうにいた。ときおり、一匹二匹と、飛んで、かたまりを乱す。天井にいるからか、星のようだ。そして飛んでいるホタルは、流れ星のようで。
 暗がりを、あちこち飛んでいる…それが本来の見え方なのだろうけれど、十分だった。あのまたたきに、また会えたことは。人の列があるので、ほとんど立ち止まることなく、進んでゆく、そうしてすぐに出口になる。なので、もういちど並んで、今度は右側をみてみた。ホタルはさきほどとは別のところでかたまっていた。流れ星のように、一匹、二匹飛んで。この子たちはヘイケボタル。また心のなかで、頁がめくられていた。文字と実際が出逢っていたのだろう。光たちが呼応して。やわらかく、つつまれたような。
 こうして、ホタルもサギソウも、わたしと関係してくれるのだろう。またひとつ想い出が重なってゆく。
11:17:45 - umikyon - No comments

2017-07-10

今年も朝顔がまた…

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 今年も朝顔の季節になった。
 ところで、これを書こうとして、ファイルを開く時、履歴に“あまのかわ 文月七日に”とあって、なぜか驚いてしまった。あまりに時機を得ているというか、なにかたちが響き合って、時に参加しているというか。履歴にあった題名は、もちろん自分の書いた詩作品なのだけれど、なんだか思いがけなかったのだった。
 七月八日、七夕の翌日、入谷の朝顔市に行った。この日は土曜日、早朝バイトがあったので、午後になってしまったが。
 そう、朝顔をみるなら、朝の方がほんとうはいい。けれども朝から開催されているようだけれど、メインストリートの言問通りの歩行者天国は、八日だとお昼十二時から。ならまあ、いいかと思ったりもする。


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 朝顔。毎年、ベランダで育てている。一年草なので、種から。というよりも、前の年に咲いた朝顔、勝手におちた種が、翌年また発芽して…の繰り返しだった。だからわたしのなかでは一年草というよりも、ほとんど多年草の感じだった。
 それが、今年は発芽しなかった。なぜだろう。たぶん、こまめにしぼんだ花などを取り除いていたからだろう。ほどほどに、いつもみたいに、放っておけばよかったのだ。
 朝顔鉢。雑草しかはえていないが、隣のつる性の植物(名前を忘れてしまった)が、支柱につるを伸ばしているので、鉢をどこかにやることもできず、朝顔が生えていない状態のままの鉢を毎日、水やりの度に眺めていた、というか、目につくのがどこか淋しかった。
 そんな時、つれあいから「明治の朝顔」が子規庵などで販売されるらしいと教えられた。子規庵がある鶯谷と入谷は近い。ほぼ同じエリア。江戸・明治に盛んだった変化朝顔を復活させたものだとか。正岡子規も見たことがあるかもしれない朝顔…。欲しいと思った。そして朝顔市のときに行けば、それらもろもろ、子規庵と朝顔市、縁日、屋台、楽しめると思ったのだった。
 入谷駅で、降りて、鬼子母神(鬼の字の上に、ほんとうはテンがつかない)へ。朝顔のついたちいさなお守りを求めた。クリップもついていて、服などにもつけられる。けれど、後日譚になってしまうが、こうしてこれを書いているパソコンからすぐみえる場所に、クリップではさんで、小さな朝顔を、よすがにしている。
 ついたのが午後二時ぐらいだったし、最終日だったから、かなりの朝顔が売れていたし、お店によっては、完売のところがあった。わたしは何が好きなのか。青や赤に近い紫色で、花の中央から縁にかけて白が入る、陽白朝顔というものが好きらしい。種類の名前は最近知った。朝顔は色々育てたけれど、やっぱりあの白い筋の入った朝顔がいいなあと、ただ、徐々に思っていったのだった。
 言問通りからスカイツリーが見えた。前回来た時はおそらくまだスカイツリーがなかったはずだ。そんなに前に来たのだ。

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 朝顔に見当をつけつつ、屋台でお酒と食べ物を。お祭りだなあと思う。
 明治の朝顔をみに、鶯谷駅のほうへ。売っていたけれど、花が咲いていない、というか、しぼんでしまったのではなく、若干開花時期が遅いらしく、葉ばかりだったから、どんな花が咲くのかわからなかった。写真でもあれば、参考になったが、それもなかったから、残念ながら、買わないことにした。子規庵にも入りたかったのだけれど、閉館近い時間だったし、そうなると、朝顔市の方に、早く戻りくなった。あの陽白朝顔を、手に入れたい…。完売御礼の言葉たちがよぎった。明治の朝顔も、陽白朝顔も、両方手にすることができなかったら、なんのために朝顔市にきたか、わからなくなってしまうではないか。
 ちなみに完売御礼は、鬼子母神近く、入谷駅からすぐのところで目立った。鶯谷駅は、その端のほうだから、まだ結構残っている。よかった。見当をつけていたお店、子規庵のほうからくるとほぼ一番手前(つまり最端)に、陽白が残っていた。それでも残り二鉢ぐらいだったろう。急いで買った。やっと目的を果たすことが。
 いや、お祭り的な雰囲気も楽しめたから、それでも良かったのだけれど。それらふくめて、目的なのだろう。
 次の日の朝、おそるおそる、すこしどきどきしながら、もとめてきた朝顔を見てみた。二輪新しく咲いていた。うれしかった。こんなに好きだったのかと思う。しばらく、その花の咲き具合、蔓の伸び具合に、やきもきするだろう。思うように行かない、それが愛しくて。

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2017-06-28

ラベンダー色に継がれて




 今年も。ほぼ毎年のように出かけているのだけれど、埼玉県久喜市にラベンダーを見に行ってきた。久喜市菖蒲総合支所、役所付近にある。このあたりは市町村合併前は菖蒲町といったので、その名残が役所に、いや、久喜市菖蒲地区などの地名に残っている。
 そう、久喜市にはもうしわけないのだけれど、菖蒲町にラベンダーを見に行く、そういったほうが、なんとなく花たちにかこまれるようで、ここちよかったのだけれど。
 ラベンダーを…といっているが、この時期、いちおう祭りが開かれているのだ。「アヤメ・ラベンダーのブルーフェスティバル」(第二十三回)。二〇一七年の今年は六月四日〜六月二十五日まで。出店もあり、毎年にぎわっているが、今年は晴れていたからだろうか。例年よりも人が多かったと思う。そうだ、いつも梅雨の時期だから、あまり天気がよくなかったような気もする。今年は暑かった。



 二〇一四年に、ラベンダーたちの大部分が咲いている箇所が、調整池の拡張工事の関係で、なくなってしまった。代替地に、あらたに植わったラベンダーたち。まだ、株の大きさはかつでほどではなく、たよりなげではあるが、きれいに花を咲かせている。去年はどうだったのだろう。おぼえていない。いや、なんとなくそのことを思い出すと心がざわつく…。なんだかんだいってショックだったのだろう。まだ育成中で、おそらく咲いてもいなかったのではなかったか。それが、今年は少なくとも咲いている。こうしてあと何年かしたら、また新たに名所を彩るようにしてくれるのだろう。つがれてゆくこと。
 そのことにすこし心がなごんだ。そして前からあるラベンダー花壇へ。みわたすかぎりのラベンダー…というほどではないが、後ろの景色が田んぼなので、なんとなく借景のように、花が拡がってみえる。香りがひっそりと拡がっているのも、そのことを助けている。もっとも出店されたお店で売られているラベンダーのポプリとか、そうしたものの匂いもまじっているのかもしれないが、それはそれで。それもあわせての祭りだから。



 なくなったのはラベンダーばかりではない。調整池とラベンダーの間が湿地だったのだが、かつてはそこに菖蒲が植わっていた。板で道を作ってあるけるようになっていて、小さな池にはアメンボもいた。それらがまったくなくなってしまっていた。今は空地のようになっていて、名前をしらないオレンジ色の花が咲いている。去年もおそらくそうだったはずだが、なぜ気付かなかったのだろう。覆いかなにかしてあったのかもしれない。
 わたしは、基本的に花は好きで、名前も多く知っているほうだが、このオレンジの花は…、なんというか、あまり調べたくない。その花たちに罪はないのだけれど。そうはいっても、たぶん、ルドベキア。栽培種なのに野生化している、わりとよくみる花。

 早朝バイトから帰ってきて、食事を摂らずにきたので、出店でお弁当を買って食べた。ベンチにすわって。その時に、眼前に広がる景色をみて、気付いたのだった。あのあたりは菖蒲の花が…。手前には小さい株だけれど、咲いてくれているラベンダーたちの堤。もらったチラシには新ラベンダー堤とある。こうした変化もまた、体験してゆくこと、それが毎年ここに来ているということなのだろう。



 食事がすんでから、ラベンダーアイスを買って(少しラベンダー色、すこしラベンダーの香り)、ラベンダーをみてまわった。
 今年はラベンダーの蜜を吸うハナアブが多い。わたしは最初、ミツバチかと思ったが、実は虻。せわしなくラベンダーの花穂のまわりで動いているのが、どこか愛らしい。そのかわり、蝶があまりいないような気がした。ハナアブたちを見るのも、なんだかラベンダーとセットになって、風物詩的なものになっている。



 駐車場のむこうにもラベンダー花壇。ここも比較的あたらしいはずだ。苗たちの大きさがそういっている。あと何年かしたら、いや、年々、見ごたえのあるものになってゆくのだろう。ラベンダーは丈夫といえば丈夫だが、高温多湿には弱いため、関東で育てるには苦労があるにちがいない。それでも咲いてくれていることに、人の手がかかっていることに、温もりを覚えた。変わってゆくことがある。それは哀しいこともあるけれど、新たな出逢いでもあるだろう。そして変わらないこともあるのだった。



 駐車場の向こうのラベンダー花壇で、はじめてみるトンボをみた。最初、黒アゲハかと思った。黒い羽のトンボ。家に帰って調べてみると、どうもチョウトンボというらしい。あまりにぴったりすぎて、逆に拍子抜けするが、名前がわかって良かった。蝶のような大きな羽。羽の先が透明なところも、オニキスかなにかの宝石をおもわせ、目を引いた。今度から、あったら名前で呼べる。



 ここから数キロ離れたところに、菖蒲公園があると今更知った。昭和沼という、工業用水をたたえた沼を囲って整備された公園。ボート遊びや釣り、バーベキューなども楽しめるとか。工場にかこまれた、不思議な空間だった。すこしの森。この日は暑かったが、木々の中にはいると、それでも涼しい。木々をぬけると、比較的大きな沼だ。三十分間隔で沼の中央で噴水が吹きあがる。ちょうどあと五分で定時だったので、見学する。水の花火のようだと思う。





 家に帰って数日後。家のまわりの空地で、ルドベキアの花を見る。おそらくここ数年ずっとこの花も咲いていた筈だ。ほとんど雑草と化して。気付かなかった。そしてこの花になかばやつあたりをしてしまう。あの菖蒲の植わった湿地に、この花があることが、なんとなくショックだったので。あの菖蒲のかわりに、オレンジの生命力の強い花が跋扈している…。その様子に、今はもうない菖蒲たちを想ってしまうから。いや、ルドベキアにわるいではないか。けれども、もともとこの花の系統は好きではないのだ。コスモスとかのたぐいも。
 紫陽花が見事な色で咲いている。ホタルブクロはもう終わりだろう。こうしてつがれ、移ってゆく。まもなく梅雨もあけるだろう。


00:27:18 - umikyon - No comments

2017-06-05

あまのりょういきにて

 今日は早朝バイトの帰りに、その近くを通る用事があったので、自転車で湧水のある場所へ行ってみた。久しぶりだ。国分寺崖線。多摩川が長い時間をかけて削り取ってきた段丘で、斜面からは湧水が多くでており、緑も多く残されている。
 前に比べると水が少なくなったような気がするが、どうなのだろう。ホタル観賞のためのマナー等が書いてある看板が掲げられていた。ホタルが見れるのだろうか。この湧水の池のまわりには、入ることはできない。金網越しに見るだけだ。家に帰ってすこし調べたら、六月にゲンジホタルが見れるのだとか。
 道をはさんで、お不動さんがある。ここも湧水だという水が流れている。日本の名水とかに、いちおう名前が連なっているのだが、水を採ったりはできそうにない。けれども、このあたりは、ホタルが出るあの湧水の池と、かつてはこんもりとした、緑の繋がりが、水の連なりがあったのだろう。
 真夏に向けて、ますますうっそうと深まってゆく緑。けれどもなんとなく静けさを感じる。あの古墳や神域などで感じる厳粛さをたたえたような。ウグイスが鳴いた。そして多分カワセミの声も。ここは野川が近いのだけれど、たぶんその野川で巣をつくっているのだろう。それもふくめた静かな時間。

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 家に帰ってきて、午後に、また別の仕事へ。マンションの駐輪場の一角は、ちょっと前からドクダミ畑になっている。咲き始めの頃に写真を撮ろうと思っていたのだけれど、なんとなく撮らないままきて、今日、思い出して撮ったら、はやくも、もう枯れている花が。ドクダミはもっと、開花期が長いと思っていたからすこしショックだった。花の見ごろというのはあるのだ。
 その花を摘もうとは思わない。摘むとかなり臭いにおいがする。子どもの頃、草むしりをしていたのか、それとも、あいらしい白い花の様子にひかれて、摘みたくなったのか、おぼえていないけれど、ともかく、臭いに辟易した記憶がある。洗ってもなかなかとれなかった。けれども、やはり花は今でも、清楚なような優しさがあると思う。だから子どものわたしもきっと、摘みたくなったのだと、思っておこう。

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 中西進著『日本人の愛したことば』が面白かったので、引き続き同じ作者のもので『ひらがなで読めばわかる日本語』をゆっくり読んでいる。「死ぬ」と「しなゆ」(萎れる)がほとんど同じ言葉で、それよりも進んだ状態が「かれる」。これの古語は「かる」で、「枯る」「離る」。水分が亡くなり、魂がはなれた状態が、死だということ。
 「ひ」から出たことばとして、日、火。そして「ひじり」。漢字では「聖」だけれど、本来は「日知り」であったとか。太陽のでる「ひがし」もひに向かうからできた言葉だとか、霊魂も「ひ」といったとか、そこから「ひつぎ」という言葉が…。
 いちいち、たちどまってしまう。そして「かがやく」。「本来、「かがやく」は、「かげ」や「かげる」と同じ語に根ざしたことば」だという。かがやくは、明滅する。あかるくなったりくらくなったり。「このように、光と影が一対のものであることを古代人はよく認識し、そこから「かがやく」「かげ」ということばを生み出していったのです」。
 光と影のちかしさ。
 そして、今日は、「あめ」について読んだ。「天」「雨」「海」、もとはみんなおなじだったとか。「あめ」もしくは「あま」。海女というのもその名残。「古代の人は天も雨も、そして海までも全部、一つのものだと考えていましたが、「あめ」が示す原初のものは「天」だったのではないかと思います」。この「宇宙水」的な概念は、世界各国に見られたらしく、それにもひかれた。水のように青い高いところから、ときたま水がこぼれてくる。そうだ、天は水でできているのだ…。とふっと、思ってみたくなる。
 「空」は、天とはちがい、虚という意味だとあった。「頭上に広がる茫漠たる空間。(中略)自然に湧き上がる畏れ。そのような古代人の思いが「そら」ということばを生みました」。空耳、空言なども同類だという。
 「天の磐船」という言葉、というか乗り物がある。神様が乗る船だ。以前からなんとなく気にかかっていた言葉だった。この「あめ」を読んで、なにかがつながった。水の世界を行き来するから、船だったのだ。この本にも書いてあった。「(高天原という)「あめ」にいる神々は、どうやって地上に降りてくるかというと、「あめ(天)のいはふね(磐船)」に乗ってやって来ます。「いは」とは、石や岩という意味ではなく、立派な、頑丈なという意味。このように、乗り物が堅牢で立派な「あめのふね」であるのも、天が水域だからこそです」。
 勝手な連想をしてしまう。クフ王の太陽の船。エジプトのギザで発掘されたそれの、レプリカをどこかで見たことがある。その意味は議論がされているらしいが、王の魂を運ぶためという説もあるそうだ。どこに運ぶのか、やはり天に運ぶのではないだろうか。だから船なのでは…とちらっと思う。

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 バイトの途中で、ヒルガオが咲いているのを見かけた。もうそんな時期になったのか。ところでわたしはアサガオは、青が好きなのだが、それは桃色系は、このヒルガオの色だと思っているからではなかったか…と思ったりも。ヒルガオは子どもの頃から、なぜか親しみを覚えている花のひとつ。おおむねの夏、いつも、わたしの傍に、咲いていたような気がする。かわいた場所で。
 午後のバイトの終わりも、また別の湧水の近くだった。国分寺崖線沿いではあるのだけれど。後ろ髪ひかれながらも、今日は訪れなかった。野川にかかる橋を渡る。鴨が飛行していた。水をゆく鳥というイメージがあるので、飛んでいる鴨をみると、いつもすこし驚いてしまう。まるで天の鳥…。水をゆく鳥。とすこし無理やりつなげて、今日はこの辺で。

23:52:05 - umikyon - No comments

2017-05-25

気配が、風に乗って、やってきてくれるだろうか─五島美術館、野毛大塚古墳

 久しぶりに美術館へ行った。体調のせいとばかりは言えない。たしかにあまり体調がおもわしくないとき、出歩けないものだけれど、以前は、どちらかというと行きたいのに行けない、といった感じだったが、このごろは、もはや興味がない、というのに近いようだった。それでも、美術館に出かけたのは、回復してきたから、というのももちろんあるけれど、このまま美術館にゆかなくなってしまいそうな自分がいたので、それを払拭しようと思って、精神的にどこかで追いこんで…といった感じだった。
 なので、体の調子というより、精神的に遠くへ行くのは難しかった。それで決めたのは五島美術館。家から自転車で行ける近さだ。開催されている展覧会も「近代の日本画展」(二〇一七年五月十三日─六月十八日)、館蔵のものの展示とのことだが、普段のわたし、以前のわたしなら、行きたいなあと思えるものだった。それに五島美術館は、庭園も美しい。崖の上にあるのだが、斜面を利用して、緑深い静かな庭園を作っている。この時期は何が咲いているのだろうか。以前行ったとき、ヤブミョウガの白い花に惹かれたっけ…。それと出かけた理由がもうひとつ。ある雑誌で、野毛大塚古墳について、書くことになっているのだけれど、そこは五島美術館から、自転車で数キロのところにある。何回かこの古墳に行ったことはあるのだが、書くまえにもう一度、足を運んでおこうと思った…。
 わたしはどんなに美術館に行きたくなかったのだろう? ともかくこうやって美術展以外の要素で、外堀を埋めることで、出かける気持ちを奮い立たせたのだった。
 実は出かけてすぐに、また少し体調をくずしたので、これはちょっと経ってから書いている。暑かったのか、寒かったのか…。曇り空だったことは覚えているのだけれど、気温を覚えていない。今よりも暑くなかったのだろう。
 何回か自転車で出かけているのに、道を間違えたことも覚えている。いちおう地図をもってゆこうとしたのに、忘れてしまったので、あまりスマホを使いたくなかったが(あれを使うと自分で考えることをしなくなるから)、地図アプリを使ってなんとか辿りついたことも。
 かなりきつい坂をのぼったところに美術館はある。マンションなどを過ぎるといきなり、緑豊かな場所になる。静けさ。ここに来るといつもなぜか根津美術館を思い出す。あちらも庭園が見事だ。崖の上ではないのだが、どこか印象が似ている。五島美術館は、東京急行電鉄株式会社の元会長・五島慶太氏設立、根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた初代根津嘉一郎氏のコレクションを元に設立された美術館。そんな経緯もどこかしら、わたしのなかで響きあっているのだろうか。水琴窟があるのが根津美術館なのだが、つい、五島美術館でも、水琴窟の音が聴けるかしらと思ってしまう。



 さて展覧会。HPやチラシなどから。
「館蔵の近代日本画コレクションから、「花鳥画」を中心に、橋本雅邦、川端玉章、横山大観、川合玉堂、安田靫彦、前田青邨、川端龍子、金島桂華など、明治から昭和にかけての近代日本を代表する画家の作品約四〇点を選び展観します。館蔵の近代書跡と宇野雪村コレクションの文房具も同時公開。」
 日が経っていること、図録や絵ハガキなどよすがにするものがなかったこともあり、個々の作品について、今回はたちいって書くことをしないけれど、重い腰をあげて行ってよかった。元々好きな画家の奥村土牛、山口華楊の作品に出逢った。親しさのようなものが絵に感じられる。いや、この画家の絵をまえにした、わたしのいつもの感覚が、立ち現われたことに対する親密さ、というか。この画家の絵がすきなわたしとの再会が感じられたのだった。それはもちろん、画家の絵にひかれて、というのが第一なのだけれど。
 また、村上華岳(一八八八─一九三九年)の絵が、印象に残った。以前おそらくどこかで見たことがある画家だが、そのときは素通りしてしまったと思う。今回は《野鳥》のこわれそうなもろさ、《牡丹図》の血のような赤い花が、幽玄さと共存している不思議な均衡に心が残ったのだった。こんな状態のわたしなのに、こうして絵は語りかけてくれるのだ。気がつくと、すっかり、展覧会会場にいるわたしは、以前のわたしらしさを取り戻していた。



 そして庭園へ。イカリソウが咲いていた。なつかしい花だ。昔父が育てていた。ここにあったのは黄色、父の育てていたのは桃色のものだったが。庭園のすぐ脇を電車が通る。庭園の山と川を想起させる緑深い環境とはすこしそぐわない気もするが、不思議と気にならないのは、通っている電車がこの美術館所縁の東急のものだからだろうか。黄菖蒲が池のまわりで咲いている。うちの近くの公園でもやはり菖蒲の色が黄色い。菖蒲といえば、紫の印象が強いので、黄菖蒲をみるたび、ああ紫の一面に咲く菖蒲がみたいなあといつも思ってしまう。黄菖蒲にはもうしわけないのだが。




 たしか美術館を出たのが三時近かったと思う。野毛大塚古墳へ向かう。地図を前述のように忘れたので、今度は最初からスマホに頼ったのだけれど、思っていたよりも近いことに驚いた。歩いてもたかがしれている。ただ、地図アプリ、自転車という選択肢がないので、徒歩を選んで経路を調べるのだが、これだと自転車だとかなりきつい階段や、歩道橋と言うルートを教えることがある。今回も歩道橋を使ったルートを平然と教えてきたので、苦労した。回り道をしたり、裏道を使えば回避できたのだろうけれど、方向音痴なこともあって、もはやその道が探せない。もう古墳のある公園は見えている。しかたなく歩道橋を自転車で登る。ハンドルを握る手が、ほとんど万歳の状態になるまで、急な斜面にちょっとびっくりしたが、これもいい経験だろう。
 前回この古墳に来たのは、古墳まつりを開催しているときだったから、かなりギャップがあった。今回、今来ているのは、静かな公園だった。小学生の男の子たちが、古墳の上と下で鉄砲のようなものを使って遊んでいる。
 古墳については、今回は、触れないが、やはり原稿を書く前に来てよかったと思う。古墳の上に登って、埋葬施設の様子が図示いるのを確認する。そしてあたりを見渡す。あの低くなったあたりに多摩川が流れているはず。
 何か古い史跡などを訪れるたび、たいてい感じるのだが、どこか古墳のまわりは空気が違うような気がする。時の凝縮というか、神聖さというか。異質で厳かな気配が漂っているように感じられるのだ。そんなふうになにかが継がれてゆくのかもしれない。そのことに対する、つきせもしない敬意。それは、わたしのではなく、だれかたちの想いであるだろう。だれかたちの累々と継がれたなにかたちが、場所を聖なるものとして、累積してゆく。わたしはそのことに対して、厳かさを感じるのだ。
 午後四時過ぎ。帰りは歩道橋を通らず、地図アプリも使わず、なんとか帰れた。元々迷うのがおかしいぐらいに近いのだけれど、なんとなくうれしかった。絵たち、緑たち、古墳…、これらの声が、どこかでまた静かに発せられている、その感触を、またすこしでも確かめられたこととあわせて。彼らはいつも無言のまま、声を発している。わたしが心を開けばいいのだ。耳をすます努力をすること。風が変わった。

01:04:12 - umikyon - No comments