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2017-09-20

ゆく夏に雨が送る。─ダ・ヴィンチ展

 雨の一日、「没後500年記念 レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(二〇一七年八月二日─十月十五日)に出かけてきた。前期展と後期展があったが、前期展はおもに夏休みの子どものためのものだったので、九月十二日から始まった後期展のほうへ。場所は横浜のそごう美術館。

 HPやチラシから。
「二年後に迫った二〇一九年の没後五〇〇年を記念し、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を開催します。
 《最後の晩餐》や《モナ・リザ》の画家として知られているレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二〜一五一九)は名画の他に、膨大な量の手書きのメモ(手稿)を遺しました。数十年にわたって書き綴ったその手稿には、機械工学、航空力学、天文学、幾何学、建築、解剖学、自然科学など広範囲にわたる研究がデッサンとともに鏡文字で記されています。本展ではその中から特に、水力学、飛行、ロボット、楽器、機械などの手稿にもとづいて立体化された大型模型六〇余点を中心に天才レオナルドの「手」から生まれた世界──未来へ抱いた夢を紹介します。」

 ダ・ヴィンチは、好きではあるけれど、実は感動した…という覚えがない不思議な人だ。小さい頃、《モナ・リザ》が日本に来日したのが話題になっていたのを覚えている。わたしがほとんど初めて名前を知った芸術家(なのだろうか、彼はそれだけではない枠を越えた活躍をしているので、使うのに語弊がある)になるかもしれない。いや、あと一人、候補がいる。家に複製画が飾ってあったロートレック。ともかく最初期に名前を知った人物のひとりだ。
 そんな記憶があるから、どこか好意を抱いているのだろう。とてつもない敬意とともに。わたしは科学に対しては、門外漢でよくわからない。だから、彼がどれほどの偉業をなしとげたのか、わかるようでわからない。すごいなとは思うのだけれど、実感がないのだ。けれども、ひかれる…。そんな不思議な人物なのだった。
 展覧会では、第一章にあたる、おもに立体模型がかざってあるところは、写真撮影が可だった。二章以降の手稿の展示が写真撮影不可ということらしい。手稿はちなみに「ファクシミリ版」という。「ファクシミリ版の「ファクシミリ」とは、FAXの機械が普及する以前からヨーロッパで使われていた言葉で、ラテン語の「facsimile=同一のものを作れ」からきています。いわゆる量産の印刷物とは異なり、オリジナルの手稿を保護し、研究する目的で精細に複製されています」とあった。
 精巧な複製だとは思ったし、紙の質感も、良さげだったが、当たり前だが、やはりどこか生の質感、手ごたえのようなものが、いや、時代を経たモノのもつオーラが欠けていた。それでも、ダ・ヴィンチの肉声に近いものは、もちろん感じられたので、十分ではあったのだけれど。



 第一章、入口近くにある、冒頭のあいさつのなかでの言葉を写真におさめた。そこには、こんな言葉があった。
 「人間の才能は多種多様な発明をして、その発明した人工物を用いて自然と張り合おうとして来た。しかし、自然が創造したもののように、驚くほどやすやすと、人工物も介さずに、しかも実に美しい発明をすることはできないだろう。実際、自然の発明したものには、なにひとつ欠けたものも、余分なものもない。」(ウィンザー紙葉19115r、ウィンザー城王室図書館)
 だからこそ、「自然こそ最もすばらしい芸術家だと考えて、自然から学んだ」のだと。
 解剖と徹底した観察。当時はおそらく、カトリック教会の禁止、というより時代を包んだ空気として、それを否定していただろう。そんななかでの、こうした考えに、心うたれる。そして、それとはおそらく違うだろうけれど、やはり共感めいたことを感じてしまうのだ。「自然の発明したものには、なにひとつ欠けたものも、余分なものもない」。だからこそ、自然に惹かれるのだと。
 ここ数年、ここ十年、いや、徐々になので、正確にはわからないけれど、自然というか、景色というか、そこここにある花や、雲のかたち、虫の訪れ、そうしたものが、心にしみるようになってきた。
 なんで、こんなに惹かれるのだろう。どうして、こんなにあざやかに、この花は咲くのか。それは一体化しつつ、ほとんど完結した美として、わたしに日々、語りかけてくれているからなのだった。
 ということを、ぼんやりと、思った。
 ほか、『竜の頭の形をしたリラ』(パリ手稿B Cr フランス学士院図書館)に惹かれた。模型とあるが、楽器。竜の頭の裏に弦があり、演奏するときは竜の角が腕にぴったりとおさまるらしい。
 科学と芸術の接点を想う。同時に、大切な遊び心を。音が聴いてみたいとも。竜が歌うような音だろうか。



 三章では、複製だけれど、主要作品のうち、殆ど(というのは現存が確認されている数が極端に少ないから)、ダ・ヴィンチの絵画作品の展示があった。複製とはいえ、一堂に会しているので、見れてよかった。《モナ・リザ》が先頭で。
 ダ・ヴィンチ展のあと、新横浜まで足をのばし、ラーメン博物館までいった。昭和三十年代の街を模した、この場所が好きだった。こちらももう数十年前から。だから楽しみにしていたのだが、連れが全く興味がなかったらしく、足早に、ラーメンだけ食べて後にした。そのことに少しショックをうけたが、後日、と言うか、今になって、すこしそのことがわかった。あの昭和の街並み、あれには、わたしが子どもの頃、ごく幼年時の香りがしていたのだ。正確にはそれは昭和四十年代だけれど、東京の夜の街、なつかしい映画の看板、どこかいかがわしい雰囲気、電柱、銭湯、それはわたしの個人的な体験が反映して、あの場所を好きだとしていたのだ。連れは住んでいた所が全く違うので、おそらくそうした体験がなかったのだ。あの街を懐かしく思うのと、ダ・ヴィンチを懐かしく思うのには、共通点があったのだなと思う。《モナ・リザ》来日に、長蛇の列だというニュース。それを見聞きした子どものわたし。
 雨は台風によるものだった。台風一過の後、季節外れの高温、真夏の暑さ。林のある公園の脇を通ったとき、晴天のなか、蝉の鳴き声を聞いた。繁茂する植物たちのなかで、最後の夏のなかで。完結している、美しさだと感じた、そして、その緑のなかに、やはり子供のわたしを見つけた。小学生、中学生の頃、よく遊びに行った林のイメージ。夏が往く。
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2017-09-05

夜明けのはざま、言葉で、追うよ

 覚えておこう。八月の終わりで、もう朝の五時近くはかすかな、明るさ。そして九月に入ったら、東の空もほとんど夜。五時前が明るい、朝といえる季節は、意外と短い。はじまりはいつだったかしら。覚えていないので、ずるをした。つまり、調べた。たぶん四月半ばすぎ。一年のうち、四か月半ぐらいか。そしてこの時期がわたしが一年で好きな季節とほぼ重なるということに気付く。もっともはじまりは三月だけれど。すこし暖かくなった春、三月から夏休みの終わりの八月三十一日まで。
 前回、ここを書いてから、原稿を何本か書いていた。めずらしくテーマだけはすこし前から決まっていた。いつもは直前までおりてこないのに。テーマにそって、書かないで、頭のなかで組み立てる。頭のなかで書く。こんなことを夢のなかですら、やっていた。夢のなかでは、書いていた。朝起きたら、書いたものが失われていた、いや、夢のなかにおきざりにしてしまったのだ。
 八月末が締切だったので、その数日前から、ようやく本当に紙に書いた。散文はそうでもなかったけれど、詩のほうは、おもったよりも、予習というか、シミュレーションしていたよりも難しかった。夢のなかで書いたもののほうが、豊かだったのではなかったか。そんなことすら思ったが、考えてみたら、そう思うのは当たり前なのだろう。夢の中のそれが優れているという意味ではない。もはや夢のなかのそれを見ることができないから、届かないものへの憧れというか、おなじ土壌にたっているわけではないものへの引け目というか、ともかく、想像してしまうのだ。あちらのほうが、いいのだろうと。夢の中やシュミレーションのほうが、よく思えるのは当然なのだ、それらのほうが想像することのほう、幻想に近しいのだから。対して、書いているわたしはそれでも現実に近いのだ。
 とくに詩のほうが難しかったと書いた。それは詩のほうが想像に近いからだと思う。日常の文体よりは、という意味で、夢の言語に近しいから。
 そして今回のものは、わたしのなかでは最初から、テーマが散文に近かったものだった。思い出や体験がからんだことだったから。実際に書いてみて、散文に流されてしまうような、距離感がとれない、日記のような、そんな印象をもった。数カ月前も、ちがうテーマで似たような体験や思い出のこと、書いた、その時は距離感がもてたのにな、どうしてかしらと思ったが、はたと気付いた。そのときも、かなり苦労して、距離感をもったのだと、いわば、なんとか距離感をたもとうと、にげるように、空想の領域へ、むかったのだ。現実と空想、そのはざまへ。
 だから今回も、なんとか逃げた。なんかいか逃げた。日記になりませんように、散文にかたむきすぎませんように。フィクションたちがさしこまれ、想像たちがすこしだけ歩み寄って。なんとかなっただろうか。わからない。思っていたよりは。最初思ったよりも散文だった、それから逃れて、収集がつかないのでは? 次にそう思ったよりは、なんとかさまになったのではないだろうか(自分でいうのもなんだが)。こんなふうに、思ったよりは、思ったよりはを繰り返して、そうして両方から押し出すようにして、はざまにいられたらいいなと思う。夢と現実、現実と想像のはざまに、宙ぶらりんに。
 これらの原稿にかかずらっているとき、図書館で『失われた時を求めて 全一冊』(マルセル・プルースト著、角田光代・芳川泰久編訳、新潮社)というものがあったので、つい借りてしまった。わたしは井上究一郎訳、鈴木道彦訳で、長いほうを昔読んだことがある。鈴木道彦訳のほうは、集英社で出した全二冊(あらすじと本文が混ざっている)でおさめたものを最初に読み、十年ぐらいたって、鈴木道彦訳の全訳を読んで。全二冊…読んだとき、まだ個人全訳が井上究一郎のものしかなかったのだ。だから順番としては全二冊の鈴木道彦訳、井上究一郎訳、鈴木道彦訳、となるのだった。
 数年前、光文社の文庫が出たとき、また買ってみたが、こちらはなぜか二巻目まで読まないうちに、挫折してしまった。これはたぶんわたしのせいなので、訳者の名前は出さない。
 先に出した鈴木道彦、井上究一郎は、読みたいと思った時期に合致した訳者だったのだと思うから。
 今回借りた『失われた時を求めて 全一冊』。あのとてつもなく長い本を、よくまあ一冊にしたものだ。四百字原稿用紙で一万枚ほどを、千枚へというから十分の一。〈一切の説明を加えず、すっきり通読できる物語に切り出したのが本書である〉。とあった。だから、主なストーリーは、話者とアルベルチーヌの恋愛にだけしぼってあり、時系列もすっきりとしていて、読みやすい。けれども、一長一短だ、やはり十分の一にするには無理がある。さまざまな人物たちのエピソードが話者によって語られるのを、ときに追体験したり、劇場にでもいっているように、感じるのが醍醐味だったのだが、それがないのが、少々淋しい。更に、説明もなく進んでゆくので、話者にとって大切な人物たちがどの時代に登場し、いつ退場したのか、わからなかったり、関係性がわからなかったり。個人的には大好きだったエピソードがかなり、抜けているのがショックだった。
 それでも、読了できたのは、うれしかった。たりないなと思いつつも、追ってしまう。それは、夢を追うのには似てないか。
 原稿を書いているとき、これは元々そうだったのだけれど、『失われた時を求めて』のエピソードを引用したい個所が出てきて、全一冊のほうではなく、結局、全二冊のほうで、目星をつけて、それから全訳に当たるということをした。おもに鈴木道彦訳を引用したのは、手にとりやすいところにあったから、というのが一番の理由なのだが、こちらは巻末に、エピソードの見出しついていて、探すのに便利、ということもあった。
 話者の祖母が亡くなったときの、祖母の美しさのこと、話者の祖母と亡くなったあと、話者の母、つまり祖母の娘が、親そっくりになったことなど。これらのエピソードを今回引用したりした。それらが、どこで語られたのかなどは覚えていなかったが、今聞いても美しい言葉、そして、それらの言葉に感動した当時の自分と再会をはたせたことなどがうれしかった。
 言葉をとおして、そんなふうに、こんなふうに。夜明けがますます遠ざかってゆく。だからこそ、朝がいとしく思えるのだろう。
23:41:16 - umikyon - No comments

2017-08-25

空想と現実、芸術と科学のはざまの頁で (紙の上のいきものたち!!展)

 夏なのに、気分がすこしすぐれない。それは八月にはいってずっと天気が悪いからだと気付く。二十日間も連続して雨。夏の記憶がとおざかってゆく。夏はじりじりするほど暑くなくては。陽射しが肌にやきつく感じ。ひまわりやカンナがかわいた明るさによく似合って。
 八月の最初の頃はそうでもなかったのだけれど、中盤ぐらいになって、雨やくもりの影響がでてきたみたいだった。身体がおもく、心がどこか暗くなっている。天気が心をうつす鏡であるかのように。いや、心が天気をうつす鏡であるのか。
 そんな雨の一日、車で町田市立国際版画美術館に家人に連れて行ってもらった。電車で何回か出かけたことがあるが、車ははじめて。こちらも森の中にある感じの美術館。そういえば森の中の美術館というのは、多い。森というか、公園というか。何故なのだろう。埼玉県立美術館、府中市美術館、せたがや美術館、宇都宮美術館、箱根の緑に囲まれた中の美術館たち、東京都庭園美術館は、森のなかではないけれど、隣が森(国立科学博物館所属自然教育園)だ。上野だって森といえば森ではないか。なぜ木々と美術館は親しいのだろうか。理由はわからないけれど、緑のなかで、美術館に出会うのは、ここちよい。ほっとする。
 雨が強かった。そして車だと、いつも駅から歩いてくるルートとまったく違って、森を感じる前に、裏口から美術館にはいる感じ。駅からだと、木々をぬけて、公園内をしばらく歩くと、ゴールのように美術館があるのだけれど、駐車場からかなり近く、端っこからいきなり美術館にきてしまう。その向こうに雨にぬれた公園があった。ちょっと新鮮だった。ほんとうは公園も散策したかったのだが、雨がかなり激しく降っていたので、この日はあきらめたのだったが。
 町田市立国際版画美術館、この日の展覧会は「紙の上のいきものたち!!」(二〇一七年七月二十九日─九月二十四日)。





 展覧会HPなどから。
 「古くから人間は動物や植物、虫などのいきものを版画であらわしてきました。紙の上で新たな命を与えられたこれらの生きとし生けるものは、人間を映し出す鏡といえるかもしれません。たとえば写実的に描かれた植物からは、科学的な考えやまなざしが芽生えたことがうかがえます。また動物の姿を借りた寓話は、人間の愚かさや滑稽さを教えてくれるものです。一方で、現代の版画家たちが魅力あふれる生命を表現しつづけていることも忘れてはならないでしょう。
 本展では身近なものから遠い異国のものまで、多種多様ないきものが息づく約一二〇点の版画を展示。植物から作られた町田産の色材を用いた若手作家の版画も紹介します。いきものの様々なすがた・かたちを通じて、自然がもたらす楽しみと恵みをご堪能ください。」
 博物誌的なもの、物語の挿絵などがメインだったので、たぶん、あまり感動することはないだろうとは思っていた。それでもなぜか、この頃、動物たちと聞くと、つい反応してしまうのだった。生あるものたちが、年と共にいとしくなってきている。みな死すべきものだからかもしれない。というか、そのことにようやく、ながいことかかって気付いたからかもしれない。
 展覧会は、一章と二章のほんの数点だけ、写真撮影が可能だった。ゆっくり見れるという点では、写真撮影可能は、かえって気が散ってしまうけれど、図録などを買わないですむので、一長一短だ。
 この第一章「いきものを版画にするということ」(十五世紀の西洋の草本誌や博物誌の紹介)に、サイがいた。サイについては、ここでも何回か触れている。最近だと二〇一七年五月十五日。
 〈日本経済新聞の二〇一四年五月十八日の連載コラム記事で、生物学者の福岡伸一氏が、アルブレヒト・デューラーのサイのデッサン、サイの木版画を挙げて綴っていた言葉が、心に響いた(「芸術と科学のあいだ」その十四「脱ぎ捨てられたサイの甲冑」)。
 一五一五年にインドからリスボンへ連れられてきたサイ。その噂をドイツでデューラーが聞き、伝聞を元に描いたもの。それは全身甲冑で覆われた、金属でできたような、恐竜のような力強いサイだった。この絵は以後、ヨーロッパでは広く流布され、なんと「二十世紀初頭まで教科書にもサイの図として掲載されていたという」。
 そうして。
 「のちに、動物園で実際にサイを観ることになったとき、人々はこう思うことだろう。実際のサイはなんてみすぼらしいのだろう。あの立派な甲冑はどこにいったのかと。甲冑はあなたの頭の中に脱ぎ捨てられているのである」〉(二〇一四年五月二十五日)。
 そのアルブレヒト・デューラーのサイの絵を、この展覧会で、はじめて見ることができたのだ。それは「ヤン・ヨンストン(一六〇三─一六七八年)著『動物図譜』一六五七─六五年刊)、ラテン語版第二版、エングレーヴィング」のなかの一頁だった。「博物学だけでなく神学・哲学も修めた多彩な学者のヨンストンが著した、水陸の動物、鳥や虫、爬虫類を網羅した図鑑です。必ずしも実物を見たわけでなく、他の版画や挿絵を引用したものや、空想のモンスターも数多く収められています。」と、キャプションにある。そうだったのか、空想のいきものたちと現実のいきものたちが、たがいに行き来していたのだ。想像と現実が未文化だったのだ。そのことをうらやましがるわけではない、これも一長一短なのだ(いやもっと短所のほうが多いかもしれない)。そう、間違えた情報ということでもあるのだから。けれども、そんなふうに語ってみたくなるのだった。
 この『動物図譜』のなかから何点か出品があった。これらが美しかったので、芸術と科学の蜜月的なものを感じた、そうしたことも、空想と現実の蜜月を感じることを手伝っていたのだろう。
 展覧会会場の照明は基本的にうすぐらい。その暗さのなかでこうしてサイをみれたのは良かった。おごそかな感じがした。スポットライト的に上から光があたっているので、光がじゃまになり、うまく撮れなかったが、



 美と科学、空想と現実のはざまにある書物の中に、甲冑のサイがいた。この絵の部分だけ、切り離したものは、もちろん見たことはあったが、書物のなかで見たのは初めてだった。こうした書物の中で、空想や想像が親しい、けれども厳かななかで、見たサイだけが、ほぼ本物だったとき、二十世紀になって、はじめて実物のサイを見たなら、なるほど違いに驚くだろうと、重ねることができたかもしれない。わたしの今までの見かたは、実際のサイを知っていた者の偏った反応だった。いや、実際のサイが先で、デューラーのサイが後の者の態度でしかなかった。教科書や『動物図譜』のサイが初めてだった者の驚きを、追体験することは難しいのだ。彼らのことを慮るということは。だが、ということが、わかって、それでもよかったと思う。この『動物図譜』の中のサイ、デューラーのサイのほうが素敵、とかではなく、ともかく、このサイは、ほとんど神々しいまでに、厳かな威厳をたたえていた。甲冑をまとった姿はりりしくもあったが、どこか哀しげで。
 ほかにも何点か、心ひかれたものはあったのだが、感想がうかんでくるほどではなかった。怠惰からくるのかもしれないけれど、サイをみたあとでは、もはやサイでいっぱいになってしまっていた。雨も手伝って、サイ以外のことが、流れてしまって。
 こんなふうにあのデューラーのサイは、それでも想像と現実のあわいで、わたしに何度も語りかけてくるのだった。
 八月下旬になり、ようやくまた夏らしい陽射しが戻ってきた。わたしが平日出かける午前四時四〇分頃の朝は、徐々にまた夜に戻ろうとしている、まるで日没のように、明るい朝から、暗い夜へむかっているのが日々、判るのだ。これを書いている二十五日の朝午前四時四十五分は、日の出前(日の出は五時七分位らしい)だったが、東の空がぎりぎり明るかった。けれども朝焼けがぞっとするほどきれいで。また西から天気が悪くなるらしい。西はといえば、まだ夜の気配、そして木々が多くみえて、これも森のようで。
21:18:49 - umikyon - No comments

2017-08-10

昨日も別の日。だから過去に涙するのかもしれない─ベルギー奇想の系譜展、クノップフ

 土曜日の夕方、都会に出る用事ができたので、午後にどこか美術館でも…と探して、見つけたのが『ベルギー奇想の系譜(ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで)』展だった。場所は渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム、期間は二〇一七年七月十五日〜九月二十四日。
 実はこのごろ美術館、すこし食傷気味だった。なんというか、行く前に予測してしまうというか。予算の関係で大きな展覧会に余りいかなくなったこともある。それよりも小規模な展覧会だと、常設なども含め、なんとなくどこかでみたものたちに再会することが多くなってしまうのだ。もっと遠くの美術館に足をはこべば、またちがった出逢いもあるのだろうけれど。せっかくの大好きな北斎を展示する墨田区のあの美術館には、残念ながら二度と足を運びたくないし。
 わたしは気持ちにそぐわないことは書かないようにしている。なんというか感情的になってしまうことで、なにかがそこなわれてしまうから。にげかもしれないが、それはそのうち書けるようになることだとも思う。まだ書けないのだ。消化するまでは。たぶん最近美術館に前よりも行かなくなったことに、おそらくあの大嫌いな美術館は、一役買っている。そのことはわかっているが、まだ触れられない。けれども、外堀から埋めていこう。たとえば、こんなふうにほかの展覧会にそれでもゆくことで、いつか触れられるようになるだろう。
 渋谷まで。電車で行こうと思ったけれど、なんとなくバスで行くことにした。値段が安いのと、途中、かなり渋谷寄りの三軒茶屋ぐらいまでは自転車で行ったことがあるので、距離がすこし身近になっていたから。
 ただ道はわかっても、混んでいると結構時間がかかる。それもあって、早めに家を出た。一時間半ぐらいかかるかしら。あつい陽射し。バス停でバスを待つ。仙川が近くを流れている。すぐ近くにこっそりと湧水。ほんとうにこっそりと、といいたくなるほど、団地の端に、湧水を集めたきれいな池がある。自転車でよくきている大事な場所だ。暑さのなかで、あの湧水のことを考えるのは、心地よかった。すこし緑がこんもりした、あのあたりに、見えないけれど、湧水池はあるのだ。
 バスに乗って、すぐに池のほうをみやったが、バスからは見えなかった。ここも国分寺崖線。坂を登る。桜の時期は、両脇がちょっとした桜並木になる。
 そして自転車で通る場所たちが、車窓風景になるのだった。けれども早朝バイトの後だったから、すこし疲れていたこともあり、けっこう眠ってしまった。わたしはバスの中では読書ができない。本を読もうとすると車酔いしてしまう。それでもおばあちゃんの住んでいたマンションの前までは起きていた。わたしが小学校五年の時に亡くなった祖母の住んでいたマンション。もう数十年前なのに、まだマンションがそのまま、そこにあるのが意外だった、嬉しい驚きだった…と通るたびにいつも思い出す。
 渋谷についた。道が空いていたので、おもったよりもだいぶ早くついた。五十分乗っていたかどうか。これなら電車で行くよりもだいぶ早い。良かった。
 さて、渋谷。方向音痴だけれど、さすがに昔、近くにすんでいたことがあるので(バス停でいうと四停留所ほど向こう)、ブンカムラまでの道は迷わない。
 展覧会は、数カ月ぶり程度なのだが、気分的に久しぶりだった。そして展覧会会場のある渋谷は、ほんとうにもっと久し振りだった。とくにブンカムラへゆくまでの道、にぎやかなほうには、数年来たことがなかっただろう。
 ここのあたりを歩くたび、身近な街だったはずなのに、どこかよそよそしく感じられるのだった。四停留所離れた場所に住んでたのは、二十代後半から三十代半ば迄で、若かった筈なのに、渋谷の街中にいると、当時ですら、いつも自分が年とっているように感じたものだった。それよりさらに年をとった自分が今思うのは、おかしいような気もしたが、それ自体がなんだか遠い。
 遠さのなか、浮遊するように、街を歩いた。暑さのせいもあり、なにかリアルさがかけていた。





 大通りからいくと、東急内の、美術館がある方は、一番奥になるが、ともかく手前、涼しいところにはやく入りたくて、デパートの入口をめざした。これもブンカムラにくるといつもだ。寒い冬なら、寒さを逃れて、雨なら雨を逃れて。春や秋ならどうだったろう? やはりデパートにすぐに入ってしまった気がする。ほとんどデパートと無縁なので、たまにはなかの空気をすってみたくなって、というか。
 さて、展覧会。
 「現在のベルギーとその周辺地域では、中世末期に発達した写実的描写のもと、独自の幻想的な絵画が生まれました。ブリューゲルの奇妙な生物、アンソールの仮面や髑髏、マグリットの不思議な風景など、そこにはどこか共通する奇想・幻想の世界が広がっています。
本展は十五、六世紀を代表するボスやブリューゲルの流れをくむ作品から、象徴主義、シュルレアリスムの作家を経て、現代のヤン・ファーブルにいたるまで、約一三〇点の作品を通して、五百年にわたる「奇想」の系譜の存在を探ります」(展覧会HPから)。
 チラシもボスの工房の絵だった。ボスもブリューゲルも、すごいなとは思うし、どちらかというと好きなのだが、あまり感動したおぼえがない。ブリューゲルのほうはあった気がするが、それもここにあるような怪物や異想的生き物より、もっと静かな作品だった。だから、申し訳ないのだけれど、入ってすぐ、というか、ほぼ目玉である作品たちには、あまり興がわかなかった。土曜で夏休み。子どもたちもいて、かなり混んでいた、ということも理由になるだろうか。ただこれは想定内だったので、あまり気にならない。下調べした段階では、ルネ・マグリットの作品があるということだった。それとも食傷気味のわたしは、もしかして、好きなマグリットにも興を起こさないのだろうか、その方が不安だった。展覧会会場を行く。一章の[十五・十六世紀のフランドル美術]から、三章のマグリットが展示されている[二十世紀のシュルレアリスムから現代まで]まで、年代順になっている。そのまえに、二章[十九世紀末から二十世紀初頭のベルギー象徴派・表現主義]だ。 [この章では工業化・都市化が進む中で、科学の世紀に背を向け、想像や夢の世界など人間の内面を表現する美術家たちが現れる過程を見ていきます。][一八八〇年代の後半には、科学の世紀に背を向けて想像力と夢の世界へ沈潜しようとする芸術家たちが現れます。ボードレールに敬愛された画家ロップスは、中世からルネサンスにかけて北方美術が好んで採り上げてきた骸骨たちの舞台を近代的によみがえらせました。一方、クノップフの暗示に満ちた静謐な作品を観る者はこの画家の解けない謎にからめとられていきます。画家が抱えていた孤独や怯えが不穏な唸りとなって、観る者に圧をかけ、ついに叫びだす自我を描いたのがアンソールでした。アンソールがよく描いた骸骨と仮面は、隠されるもの・隠すもの・暴かれるものという性質を内包していますが、この関心は、次の世紀のマグリットから現代まで続く「言葉とイメージ」の問題へと展開していくことになります。](展覧会HPより)

 そう、象徴派のところにあったフェルナン・クノップフ(一八五八─一九二一年)。たぶんあるだろうなとは思っていた。ブンカムラとクノップフは相性がいい。というか、わたしがみた多くのクノップフ作品はここでの展示だったと思う。だから、おそらく一点ぐらいは…とは思っていた。だが何点あったろう? 会場で数えた。八点だ。副題(「ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで」)はむろん、チラシにもほとんど名前も載っていない、ただ小さな絵が一点掲載されているぐらいの扱いだったのに。ちなみにその絵は、《青い翼》。後述するけれど、チラシは会場で見たのがはじめてだったので、この絵がきているとは知らなかった。知っていたら、この絵をみるだけのためにきただろう。それぐらい好きな絵だった…。いや、先走りすぎた。元に戻る。
 ベルギー象徴派のコーナー、ジャン・デルヴィル、フェリシアン・ロップスがあるなあと思っていたら、いきなりのクノップフ。予想はしていたけれど、思いがけなかった。
 わたしはどうして彼の絵が好きなのだろう。この会場で、一番最初が《捧げもの》(一八九一年)。紙とチョーク、なかば横向き加減の女性のアップ。眼がこちらをむいている。ただ、これは別に大理石の胸像に花をそえようと手をのばした、上半身が映った作品もあり、その一部的な作品だということを、あとで知った、というか気付いた。けれども、この顔、そして次次に現れる女性たちの、独特な表情に、なつかしさがおしよせてきた。《内気》(一八九三年)《巫女シビュラ》《アラム百合》は、彫像や油絵作品を写真にして、それに彩色をほどこしたもの。
 今、もし、はじめて見る画家の絵だったら、こんなに心がざわめくだろうか。ふとそんな想いがよぎった。もしかすると、通り過ぎはしないかもしれないが、ここまで心ふるえることはなかっただろう。クノップフの名前を聞いたのは十九歳ぐらいだった。二十代でクリムトなどと一緒に、心惹かれる画家となった。世紀末、デカダンス。その頃のわたしの嗜好の体現者、あるいは勝手な想いなのだけれど、共有してくれる絵としての役割もになっているのではなかったか。彼の絵のタッチをみるたび、かつての自分がそこに…。



 クノップフの絵は、孤独者をゆさぶる絵だと思う。孤独をつきつめた、孤独をそれでも沿わせている。愛するというのと少しちがう。ただ影として、まとっている。寄りそわせている。彼の孤独が心地よかった。彼の風景画には、人がまったくいない。この展覧会にも一枚あった。《ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院》(一九〇四年)。ただ運河と建物だけ。水は鏡のように、何かを写すのかもしれない。たとえば過去、のようなもの。と、この展覧会にはなかったけれど、鏡に映った自分の顔にくちづけする女性と、建物と運河がうっすらと重なってみえる《わが心は過去に涙す》(一八八九年)を、今、これを書きながら思い浮かべてみる。机のまわりに、クノップフの画集や絵ハガキたちが並んでいる。
 わたしの過去が彼の過去と呼応するのだろうか。そんなふうに感じられるのだろうか。わたしのなかでの世紀末の凝縮のような空間だった。
 ああ、そうだ《青い翼》(一八九四年)のことを書きたかったのだ。こちらも油彩作品を写真(撮影アレクサンドル)にし、それに彩色をほどこしたものだが、彩色のせいか古さのせいか、もともとの作品のもつ力なのか、写真であるかどうかはまったく気にならない。ヴェールをかぶった女性の腰近く、長細い画面の中央に、実際にクノップフの館にあったという擬人像ヒュノプスの頭像が置かれている。ヒュノプスは眠りの神。耳元にある翼は片方しかないが、この翼が青いのが題名の由来。片翼しかないのも、眠りの神であるのも象徴的だが、女性の孤高で崇高な、夢みるような表情とあいまって、夢幻かつ絶対の神殿への渇望を静かに凝縮させている…、いや、そんな言葉が書きたかったのだろうか。ただ、この静謐さにひかれたのだ。懐かしくも、あらたに心にゆさぶりをおこしてくれる、大切な。



 この後、ここに来る前にお目当てだったルネ・マグリットの絵たちを見る。それなりに惹かれたけれど、もうしわけないが、心がほぼクノップフ一色、クノップフ祭りになっていたので、あまり入ってこなかった。ただクノップフを観た、会えたということを余韻として残したいと思っていたから。

 展覧会会場とミュージアムショップはほぼつながっている。出口付近にショップはあるけれど、もしそこで展覧会会場に戻ろうと思えば、難なくゆける。そのかわり、展覧会は行かずにショップだけに行きたいと思っても、なかなか難しい。再入場ができないから。だいぶ以前、係の人に頼んで、ショップにだけ用があったので、入れてもらったことがあったが、今はどうなのだろう。ともかく、いちおう、最後まで見た後、ショップに行った。クノップフの作品が何か売ってないかどうか知りたかった。《捧げもの》の絵葉書が一枚あった。図録には、この東京会場以外の場所(宇都宮美術館、兵庫県立美術館)では展示されていた作品たちが載っていて、触手が動いたけれど、クノップフ以外の作品には、ほとんど興味がなかったので、買うまではしなかった。ただ、一枚、絵ハガキだけ、あとで買うことにして、またクノップフに会うため、会場に戻った、そのあとマグリットへ、またクノップフへ、マグリット、クノップフのあたりを、うろちょろして、そうしてようやく美術館をあとにした。手には一枚、絵ハガキ。あとは展覧会のチラシを。ここには《青い翼》が小さかったけれど、載っている。
 《青い翼》。うちに絵ハガキがあったはず。そして古い『美術手帖』の特集頁にも比較的大きく載っていたはず。家に帰って探すと、絵葉書のほうは同じ構図だけれど、パステル、水彩、グアッシュの《白、黒、金》(一九〇一年頃)とあった。翼が青くない。モノトーンではないけれど、セピア色というか、色を抑えたものになっている。『美術手帖』は一九八九年三月号。古い。リアルタイムに買ったものではなく、「特集・クノップフ─青い世紀末」ということで、たぶん、古書店で購入したものだと思う。大切な一冊だ。リアルタイムでないといっても、おそらく九十年代には買っているのだけれど。話がずれてしまった。こちらに載っていたのは《青い翼》だが、元の油彩作品のほうだった。一八九四年作。うれしいことに《捧げもの》《巫女シビュラ》《アラム百合》も別のバージョンのものが掲載されていた。展覧会でみたものたちの余韻にひたるには十分だった。
 ほかの展覧会にこの先、行こうという気持ちがわきあがったかどうかは知らない、なんともいえない。ただクノップフ祭り状態の、心のありかたが心地よい。いまはこれだけでいい。あとのことは、あとで。“After all, tomorrow is another day.”この台詞、『風と共に去りぬ』のラストの言葉が、ふと思い出される。字幕ではどうだったかしら。「明日は明日の風が吹く」が、かつての一般的な訳だったらしい。けれど、わたしが印象に残っているのは「明日、考えるわ」だった。だから、今、思い出されたのだ。そう、明日、また考えよう。ほかのことは。
23:15:21 - umikyon - No comments

2017-07-30

朝顔、白粉花、向日葵…、夏休みの花、なのだろうか。


(▲これは前回の怪獣の雲)





 あちこちでひまわりの花を見る。わたしのなかでは八月の花だ。だからだろう、毎年みにいっている近くのひまわり畑、まだ咲いていないだろうと勝手に思っていた。夏休みの花。夏休みは七月下旬からだというのに、なぜか夏休みといえば八月と連想してしまう。 そういえば、朝顔、ひまわり、夏休みの自由研究で育てたりしたからか、子どもの頃と直結した、独特の花たちだ。ただ朝顔は入谷の朝顔市が七月始め、七夕の頃に開催されるからか、七月八月の花であり、さらに夏休みの花という、微妙な位置づけではあるのだけれど。
 今年入谷の朝顔市で求めた朝顔は、よく咲いてくれて、よく育ってくれている。午後遅くまで咲いているのもうれしい。日当たりのせいだと思っていたが、花びら縁と中央から放射線状に白い筋の入った陽白というこの朝顔は、午後まで咲く品種であるらしい。バイトから帰ってきて朝顔と対面するのがだいたい午前十時台なので、これはうれしかった。今まで育ててきた品種の朝顔は、その時間だとけっこうもうしぼみはじめていたから。
 それにつけても、わたしはこの陽白という種類の朝顔が好きだったのだなあとしみじみ思った。今までなぜか、あまり育ててこなかったのだけれど、家でこうして咲いているのをみて、また、道端などで、だれかの家の庭先で見たりした時、その都度、ああ好きな花、好きな色だなあと思うから。
 今、すこし、これを書くのを中断して、ベランダに朝顔をみにいった。日曜日の朝。今日もよく咲いてくれていた。青、紫、濃い桃色。



 もうひとつ、子どもの頃と直結した花にオシロイバナがある。あれもなぜか夏休み、八月の花だという感じがある。今でもオシロイバナをみかけるたび、あの黒い実を、つぶして、中から白い粉を取りだして、手にしてみたくなる。夏休みの半ばすぎ、そうしてあそんだように。あの時、白い粉をどうしただろう? 手のひらのうえでもてあそんで、すこししめったような白粉の感触をたのしんで、ただそれだけでよかったと思う。
 けれども、今日は、ひまわりのことを書きにきたのだ。それなのに、花のまわりで、寄り道してしまった。夏休みの花たちのほうへ。そろそろ、黄色い大輪の、ひまわりに戻ってこよう。
 数日前、ひまわり畑の近くに用事が出来た。ついでに生育状況を調べておくかと、覗いてみたのだった。曇りの日、天気予報では、まもなく雨。たぶんまだつぼみだろう、だって八月の花、夏休みの花だもの。いつぐらいに満開になるか、様子を…と思っただけだったが、行くと満開だった。びっくりした。思いがけなさにはいつも心がざわついてしまう。平日だったせいか、人もほとんどいない。ひっそりと満開を、けれども豪華にむかえていた。大輪の太陽たち、向日葵たち。たくさんあるから心がさわぐのではないだろう。好きな花がたくさんだから、酔いしれるように、心がみだれるのだ。しずかな夏のざわめき。曇り空で、ひざしはなかったが、蒸し暑かった。暑苦しい筈の色なのに、ひまわりはどこか爽やかに、凜として咲いていた。今年は例年行われたいた切り花体験等のイベントがないらしい。ひまわり畑の看板にそう書いてあった。だからよけいひっそりと感じたのかもしれない。しずかに燦々と。





 珍しく蝶がとまっていた。家に帰ってしらべる。たぶんヒメアカタテハ。ちがったら御免なさい、だけれど。オレンジ色に豹紋のある蝶。ひまわりの黄色い花とよく似合ってみえた。



 これを書いている七月三十日の朝、ひまわり畑のHPを覗いたら、もうひまわり畑の第一弾は、花たちがみなお辞儀をしつつあり、終わりに近づいているとあった。第一段なので、まだ第二弾がある。そういえば生育途中の畑があった。けれどもちょうど満開の時に、あそこにゆけてよかった。
 きのう久しぶりに都会にでかけた(なぜ都会に出かけたかは別の話になるので、また次回)。子どもたちが多かった。いや昨日は土曜日だから、夏休みだからというのではなかったのかもしれないが、夏休みだからだろうなと思ってしまった。朝顔はいつ持って帰ったのだっけ。行燈仕立ての朝顔を持って帰った記憶をたぐるが思い出せない。
 あとで、またひまわり畑にゆこうと思う。今日は日曜日。わたしの休みの一日だ。


10:19:41 - umikyon - No comments

2017-07-25

気配たちが、凜として優しい。(行田市古代蓮、古墳、忍城跡)



 七月の三連休の二日目、日曜日、わたしにとっては週一回の休み。埼玉の行田市に、古代蓮を見に行った。
 蓮は朝開花し、昼には閉じてしまう。行田の古代蓮の里にも、七時から九時がちょうどいいと書いてある。けれども、うちからここまで、ちょっと距離がある。何十キロだったかわすれてしまったが、早くても車で一時間半ぐらいかかるのではないだろうか。朝のその時間に着くのは、少々きつく、いつもせいぜい九時〜九時半ぐらいになっていたと思う。ぎりぎり、見ごろの時間帯。それがわかっていたから、この日は、いつもよりすこし早く出かけた。ただ、連休で道が混んでいたこともあり、高速を使っても二時間弱かかった。それでも、ついたのは八時半ぐらい。時間がいつもより早いせいか駐車場などもすいていたと思った。比較的近いところに停められたので、ラッキーだと思った。
 けれども、園内に入ったら。花の少なさにすこし驚く。奥の池が見ごろだと書いてあったが、そちらもそんなには咲いていなかった。もう最盛期はすんでしまったのだ。いつかきたときは、満開、満開、よいしれるほどの満開の蓮たちだったが。
 だから駐車場も、そして園内も比較的空いていたのだと合点がゆく。
 それでも、その状況はほとんど残念ではなかった。こうしたこともあるのだ。それに池では、それでもあちこちで、ぽつぽつと蓮の花が咲いているのがみえた。泥から茎をのばし、水をとおって、水面、空に顔をむけて咲く花、というのも清濁あわせたようで、すきなのだ。蕾と花と花がおわったあとの蜂の巣のような(蓮の名前の由来でもあるらしい)種のはいった堅い花托になったもの、それらがいっぺんに観られることも、人の一生の集約のようだといつも思う。





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 いや元々は水辺がすきだったからだろう。水辺に咲く花にひかれるようになったのは。睡蓮、コウホネ、水芭蕉。水辺でみかけるその花たちには、格別な思い入れがある。今回は水カンナと睡蓮が咲いていた。カンナは橙色や黄色をイメージするけれど、水カンナは水色というか青のつよい紫。水辺に咲く花だからだろうかと、咲いているのをみるたび、思ってしまう。それにくらべてカンナはかわいた真昼の花だ。太陽の色がふさわしい。
 蓮の花はあまり多く咲いていなかったが、その分、いつもより庭園内をゆっくり、端から端まで見てまわったと思う。池のなかに中州のような島があるところ、ホタルの生育を行っているところなど、今回はじめて気付いた。
 おまけにそんなふうに咲いている蓮を探してぐるぐるしているうち、なんだか満開の蓮たちに囲まれているような、みょうな陶酔すら、感じられて来た。こうしてぐるぐると、蓮の花を求めていることが、心地よかった。その行為が蓮だらけのようだった。





 ここの蓮が好きなのは、そうだ、もうひとつ理由があった。それは古さだ。四十六年前(一九七一年)、この近くの工事現場を掘り起こしたら、偶然種が発芽し、開花したのだが、それが一四〇〇年から三千年位前のものだったという。
 なんという長い眠りだったのか。そしてその子孫たちが、この古代蓮の里で咲いている。かつての人々が見た花。もちろん個は変わっているが、その美しさは変わらない。同じものを見ている、そう感じられることも、好きなのだろう。



 あちこち、炎天下のなか、見て回ったあと、売店へ。ちょっとした野菜や、惣菜、おみやげなどを買う。そのあと、やはり行田市内にある埼玉(さきたま)古墳群へ。これも毎年のこと。五世紀末から七世紀にかけて成立したものという。こうした場所にくると、いつも気のようなものが違うと感じられる。たたずまい、気配、なんといえばいいのか、独特の静けさがある。わたしはこの気配を感じるためにここに来ているのだといつも思う。



 そのあと、今回はじめて訪れる場所、行田市郷土博物館へ。企画展として「古代の扉を開く〜行田発掘物語〜」を開催していると、もらったチラシで知ったから。
 博物館にきてはじめて知ったが、ここは忍城の本丸跡地なのだとか。城自体はもうないけれど、櫓などが再建されていて、お堀にも水がはられている。土塁も一部残り、屋敷門もあるので、こちらも佇まいというか、気配にどこか城をおもわせる独特の気がみちていた。秀吉の時代、石田光成の水攻めにも落ちなかった城(城主成田氏長)。開城したのは北条氏の小田原城が先に開城したことによる。江戸時代になってからは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となっていた。
 展覧会では、昨日も郷土博物館(世田谷)にきたなあ、博物館づいているなあと、なんだかわれならがほほえましくなっていた。あちらは代官屋敷、こちらは城の跡だけれど。
 ここでも縄文時代の土器などが見れた。また土だ。土の気配。そして埴輪。旗を立てた馬のめずらしい埴輪。これはさきたま古墳群からではなく、それよりも利根川近くの酒巻古墳群から出土したとあった。こちらからも土器とはちがった、土の気配。
 博物館のなかの庭園をすこしだけ見た。往時から残る数少ないものとして時鐘の遺構がある。鐘自体は複製品(実物は博物館内)とのことだが、十分に往時をしのべるものだった。





 近くに小さな川が造られていて、水が噴き出るところがあった。池の中に四角い石の枠があり、そこから水が湧いているようなイメージ。循環式なのだろうけれど、夏のこの暑さのなかで、それらをみるのは心地よかった。それだけで空気がかわって感じられた。古代蓮から忍城。二千年前から安土桃山、江戸時代、そして今。今回はずいぶんと時間を旅した気がした。
 これを書いているのが、実はすこし時間がたってからなので、実際のところは忘れてしまったのだけれど、こんなに長く遊んでいた筈なのに、家に戻ったのは比較的早かった。三時ぐらいだったかもしれない。こうして日常がまた帰ってきた。いや、日常に帰ってきた。けれどもこれらを書いているからか、サギソウやホタル、蓮たちが、微妙に日常に影を、いや気配を漂わせてくれている。ようやくことばたちがもどってきてくれた。日常はこんなにも気配でみちているのだ。



 今日、怪獣みたいな雲をみた。夕方だった。大切な友人に宛てて書いた手紙をポストに投函した後だった。
 気配たちが祝福してくれている、そんな風に思ったかどうか、心が温かになった。道道で、ひまわりの大きな花たち。
18:20:59 - umikyon - No comments

2017-07-20

ホタルがともれば、鷺草がとぶだろう

 七月十五日の土曜から十七日の三連休。といってもわたしは通常どおり、土曜日と月曜日は早朝バイト、日曜だけ休みなのだけれど、連れが三連休なのと、時期を考えて、土曜と日曜に出かけてきた。日曜のほうは次回に。今回は土曜の「せたがやホタル祭りとサギ草市」だけ。
 数年前にこの祭りを知ったが、行ったのは二回目。ボロ市などがひらかれるボロ市通り、世田谷代官屋敷周辺のお祭り。神社(上町天祖神社)のほうでサギ草市、縁日、物産展など、そして代官屋敷のほうで、ホタル観賞、敷地内にある郷土資料館で、サギソウにちなんだ季節展が開かれる。あとで知ったのだけれど、夜になると神社境内で盆踊りも行われるらしい。そういえば盆踊りのやぐらがしつらえてあったが…。
 ホタル観賞は夕方五時からなのだけれど、特設ドームが造られて、そこに潜っての鑑賞なので、辺りの明るさは気にならない。代官屋敷の庭の数か所に、板枠を網でふさいだなかにもホタルが放されていたので、暗くなったらきっと輝くのだろう。





 先を急いでしまった。ついたのは三時半ぐらいだったか。バスで行った。自転車でも行ける距離なのだが、自転車を停める場所があるかどうか記憶が微妙だったので。着いてみると、駐輪スペース、あるにはあったが、もう満車だった。去年も、この光景をみて、ああ自転車でこようと思えば来れるんだな、でも難しいかなと思ったことを思い出す。だから微妙…とぼんやりと思っていたのだなと、腑に落ちる。去年と今年が、つながったような。
 ホタル観賞が五時からと知っていて、すこし早くきたのは、サギ草市をみたり、縁日の屋台でちょっと飲食をしたり、古本市などが見たかったから。ただ三時半の段階では、なんとなく縁日がまだもりあがっていなかった。準備中というわけではなかったが、飲み食いしている人がほとんどいない。それで、ざっと見渡して、代官屋敷敷地内の郷土資料館へいった。郷土資料館は、祭りの両日は、午後九時まで開館しているそうだが、ホタル観賞が始まると、ドームに入るまでの列ができたりする関係で、ちょっと入りづらいイメージがあったので、今のうちに見学しておこうと思ったのだ。たしか野毛大塚古墳の出土品(とくに国の重要文化財指定)なども所蔵しているので、見れるのではと。
 これらは、おそらく企画展(螢とさぎ草伝説)の関係で、見れなかったが、見学してよかった。
 常設展の石器時代から古墳時代までの展示・解説にひかれるものがあった。わたしが住んでいる場所、行き来したところ、なじみのところが、遺跡であったこと、出土品が展示されていること。いつも何気なく自転車を走らせていた橋付近に、横穴墓があったことにも驚いた。玄室内の線刻画の、その素朴な人の形に、どこかクレーの絵を思った。
 そして縄文土器、土偶たち。土の感触のようなものが、形からみなぎっていた。ああ、わたしはこれを感じたかったのだと、それらをみながら思う。
 ところで、サギ草。今年はどうしたことか、あまり咲いていなかった。去年はもっと咲いているものが売られていたと思うのだが。
 世田谷とサギ草の関係もしった。縁があったのだ。「世田谷城主・吉良頼康の側室「常盤姫」が亡くなる時、日頃可愛がっていた白鷺の足に遺書を結び、実父の居城・奥沢城に放ちましたが、白鷺は途中で力尽き、落ちて死んでしまいました。この白鷺の想いが「サギ」のかたちの花となって辺り一面に咲いたと言う事です。」と、代官屋敷内のサギ草展示スペースに書いてあった。そのことがあって、世田谷区の花になったのだと。
 サギ草。亡父が好きで育てていた。ミズゴケにくるまれた苗を小学校経由で購入していたと思う。しくみはよくわからないのだけれど、いろんな植物の種や苗が載っているカタログのダイジェスト版みたいなものが学校から配布され、それをみて、植物を注文していたのだった。わたしの要望でハエトリソウやオジギソウなんかも。そのほか、コバンソウ、ノハラアザミによく似たドイツアザミが記憶に残っている。
 サギ草は蘭科。蘭の系統は、基本的に育てるのも花を咲かせるのが難しかったと思う。けれども父はサギ草を咲かせていた。ほんとうにサギが羽をひろげたような、この世のものとも思えない花だった。繊細すぎて、はかなすぎて。わたしはサギ草がすきだった。花をみるたび、花の名前をきくたび、父が咲かせた花を思い出す。平たい、青い化粧鉢に植わっていたっけ。
 世田谷区の花と知ったのは、だいぶ前だけれど、今住んでいるのも、生まれたのも世田谷なので、縁がある花なのだなとも思ったはずだ。
 「ホタル祭りとサギ草市」。開催されていると知って、ホタルにもむろん心ひかれたけれど、サギ草に、おもいがけずノスタルジーを覚えたのは、これらのことが積み重なってのことだったのだろう。
 そして、ホタル。
 ホタルは実は大人になってからみたものだ。子どものときにみた覚えがない。正確には大人ではないが、はじめて実際にみたのは十八歳ぐらい。観光地に母親たちと泊ったとき、偶然に。この旅行にはいやな想い出がある。いまだに消化できてないのかと我ながら驚いてしまうけれど、まだ感情的になってしまいそうなので、今はそのことにふれられない。ただ、それとは別に、ホタルが河原に飛んでいるのをみたのだ。ホタルは観光の目玉ということでもなく、宣伝されず、ひっそりと舞っていた。いや、ホタルがいることがほとんど当たり前だったので、宣伝することなど考えられなかったのかもしれない。蝶や蝉がいるように。ホタルをみたのは、いやな出来事の起きる前だった。だからこそ、ホタルの光だけは、無傷のまま残っているのかもしれない。よかった。あの出来事の後のことは、もはやまったく、どこを回ったのか、帰ったのかすらも覚えていないから。
 この箇所を書く前から、ホタルを見たのは十八歳ぐらいだったが、小学生の時ぐらいから、もっと身近に感じている気がしていた、それはなぜだろうと漠然と感じていたのだが、理由がわかった。本の題名は覚えていないのだけれど、児童図書のたぐいでホタルの一生についての本を読んだことがあったからだ。小学生の高学年だっただろう。ゲンジボタルは清流に、ヘイケボタルは田んぼや池など、比較的にごった場所にいる。幼虫は獰猛で、カワニナなどを捕食する。成虫になってからは、一週間から二週間位しか生きられない。そのあいだは水しか飲まない…、など今でも覚えている。
 文字で親しんだのが先だったのか、だからなんとなく、身近に思っていたのかと、言葉に特別の想いがある身としては、すこしうれしくなる。心の中で、ホタルはずっと点っていたのだ。
 さて会場。五時になると門の前でくす玉が割れる。そして特設ドームに順番で入ってゆく。中は仕切りがあって右側と左側、二列になっている。とりたてて考えるでもなく、真っ暗ななか左に入る。ほんの数メートルの暗がりの道だ。ホタルがかたまって、天井のほうにいた。ときおり、一匹二匹と、飛んで、かたまりを乱す。天井にいるからか、星のようだ。そして飛んでいるホタルは、流れ星のようで。
 暗がりを、あちこち飛んでいる…それが本来の見え方なのだろうけれど、十分だった。あのまたたきに、また会えたことは。人の列があるので、ほとんど立ち止まることなく、進んでゆく、そうしてすぐに出口になる。なので、もういちど並んで、今度は右側をみてみた。ホタルはさきほどとは別のところでかたまっていた。流れ星のように、一匹、二匹飛んで。この子たちはヘイケボタル。また心のなかで、頁がめくられていた。文字と実際が出逢っていたのだろう。光たちが呼応して。やわらかく、つつまれたような。
 こうして、ホタルもサギソウも、わたしと関係してくれるのだろう。またひとつ想い出が重なってゆく。
11:17:45 - umikyon - No comments

2017-07-10

今年も朝顔がまた…

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 今年も朝顔の季節になった。
 ところで、これを書こうとして、ファイルを開く時、履歴に“あまのかわ 文月七日に”とあって、なぜか驚いてしまった。あまりに時機を得ているというか、なにかたちが響き合って、時に参加しているというか。履歴にあった題名は、もちろん自分の書いた詩作品なのだけれど、なんだか思いがけなかったのだった。
 七月八日、七夕の翌日、入谷の朝顔市に行った。この日は土曜日、早朝バイトがあったので、午後になってしまったが。
 そう、朝顔をみるなら、朝の方がほんとうはいい。けれども朝から開催されているようだけれど、メインストリートの言問通りの歩行者天国は、八日だとお昼十二時から。ならまあ、いいかと思ったりもする。


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 朝顔。毎年、ベランダで育てている。一年草なので、種から。というよりも、前の年に咲いた朝顔、勝手におちた種が、翌年また発芽して…の繰り返しだった。だからわたしのなかでは一年草というよりも、ほとんど多年草の感じだった。
 それが、今年は発芽しなかった。なぜだろう。たぶん、こまめにしぼんだ花などを取り除いていたからだろう。ほどほどに、いつもみたいに、放っておけばよかったのだ。
 朝顔鉢。雑草しかはえていないが、隣のつる性の植物(名前を忘れてしまった)が、支柱につるを伸ばしているので、鉢をどこかにやることもできず、朝顔が生えていない状態のままの鉢を毎日、水やりの度に眺めていた、というか、目につくのがどこか淋しかった。
 そんな時、つれあいから「明治の朝顔」が子規庵などで販売されるらしいと教えられた。子規庵がある鶯谷と入谷は近い。ほぼ同じエリア。江戸・明治に盛んだった変化朝顔を復活させたものだとか。正岡子規も見たことがあるかもしれない朝顔…。欲しいと思った。そして朝顔市のときに行けば、それらもろもろ、子規庵と朝顔市、縁日、屋台、楽しめると思ったのだった。
 入谷駅で、降りて、鬼子母神(鬼の字の上に、ほんとうはテンがつかない)へ。朝顔のついたちいさなお守りを求めた。クリップもついていて、服などにもつけられる。けれど、後日譚になってしまうが、こうしてこれを書いているパソコンからすぐみえる場所に、クリップではさんで、小さな朝顔を、よすがにしている。
 ついたのが午後二時ぐらいだったし、最終日だったから、かなりの朝顔が売れていたし、お店によっては、完売のところがあった。わたしは何が好きなのか。青や赤に近い紫色で、花の中央から縁にかけて白が入る、陽白朝顔というものが好きらしい。種類の名前は最近知った。朝顔は色々育てたけれど、やっぱりあの白い筋の入った朝顔がいいなあと、ただ、徐々に思っていったのだった。
 言問通りからスカイツリーが見えた。前回来た時はおそらくまだスカイツリーがなかったはずだ。そんなに前に来たのだ。

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 朝顔に見当をつけつつ、屋台でお酒と食べ物を。お祭りだなあと思う。
 明治の朝顔をみに、鶯谷駅のほうへ。売っていたけれど、花が咲いていない、というか、しぼんでしまったのではなく、若干開花時期が遅いらしく、葉ばかりだったから、どんな花が咲くのかわからなかった。写真でもあれば、参考になったが、それもなかったから、残念ながら、買わないことにした。子規庵にも入りたかったのだけれど、閉館近い時間だったし、そうなると、朝顔市の方に、早く戻りくなった。あの陽白朝顔を、手に入れたい…。完売御礼の言葉たちがよぎった。明治の朝顔も、陽白朝顔も、両方手にすることができなかったら、なんのために朝顔市にきたか、わからなくなってしまうではないか。
 ちなみに完売御礼は、鬼子母神近く、入谷駅からすぐのところで目立った。鶯谷駅は、その端のほうだから、まだ結構残っている。よかった。見当をつけていたお店、子規庵のほうからくるとほぼ一番手前(つまり最端)に、陽白が残っていた。それでも残り二鉢ぐらいだったろう。急いで買った。やっと目的を果たすことが。
 いや、お祭り的な雰囲気も楽しめたから、それでも良かったのだけれど。それらふくめて、目的なのだろう。
 次の日の朝、おそるおそる、すこしどきどきしながら、もとめてきた朝顔を見てみた。二輪新しく咲いていた。うれしかった。こんなに好きだったのかと思う。しばらく、その花の咲き具合、蔓の伸び具合に、やきもきするだろう。思うように行かない、それが愛しくて。

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00:01:00 - umikyon - No comments

2017-06-28

ラベンダー色に継がれて




 今年も。ほぼ毎年のように出かけているのだけれど、埼玉県久喜市にラベンダーを見に行ってきた。久喜市菖蒲総合支所、役所付近にある。このあたりは市町村合併前は菖蒲町といったので、その名残が役所に、いや、久喜市菖蒲地区などの地名に残っている。
 そう、久喜市にはもうしわけないのだけれど、菖蒲町にラベンダーを見に行く、そういったほうが、なんとなく花たちにかこまれるようで、ここちよかったのだけれど。
 ラベンダーを…といっているが、この時期、いちおう祭りが開かれているのだ。「アヤメ・ラベンダーのブルーフェスティバル」(第二十三回)。二〇一七年の今年は六月四日〜六月二十五日まで。出店もあり、毎年にぎわっているが、今年は晴れていたからだろうか。例年よりも人が多かったと思う。そうだ、いつも梅雨の時期だから、あまり天気がよくなかったような気もする。今年は暑かった。



 二〇一四年に、ラベンダーたちの大部分が咲いている箇所が、調整池の拡張工事の関係で、なくなってしまった。代替地に、あらたに植わったラベンダーたち。まだ、株の大きさはかつでほどではなく、たよりなげではあるが、きれいに花を咲かせている。去年はどうだったのだろう。おぼえていない。いや、なんとなくそのことを思い出すと心がざわつく…。なんだかんだいってショックだったのだろう。まだ育成中で、おそらく咲いてもいなかったのではなかったか。それが、今年は少なくとも咲いている。こうしてあと何年かしたら、また新たに名所を彩るようにしてくれるのだろう。つがれてゆくこと。
 そのことにすこし心がなごんだ。そして前からあるラベンダー花壇へ。みわたすかぎりのラベンダー…というほどではないが、後ろの景色が田んぼなので、なんとなく借景のように、花が拡がってみえる。香りがひっそりと拡がっているのも、そのことを助けている。もっとも出店されたお店で売られているラベンダーのポプリとか、そうしたものの匂いもまじっているのかもしれないが、それはそれで。それもあわせての祭りだから。



 なくなったのはラベンダーばかりではない。調整池とラベンダーの間が湿地だったのだが、かつてはそこに菖蒲が植わっていた。板で道を作ってあるけるようになっていて、小さな池にはアメンボもいた。それらがまったくなくなってしまっていた。今は空地のようになっていて、名前をしらないオレンジ色の花が咲いている。去年もおそらくそうだったはずだが、なぜ気付かなかったのだろう。覆いかなにかしてあったのかもしれない。
 わたしは、基本的に花は好きで、名前も多く知っているほうだが、このオレンジの花は…、なんというか、あまり調べたくない。その花たちに罪はないのだけれど。そうはいっても、たぶん、ルドベキア。栽培種なのに野生化している、わりとよくみる花。

 早朝バイトから帰ってきて、食事を摂らずにきたので、出店でお弁当を買って食べた。ベンチにすわって。その時に、眼前に広がる景色をみて、気付いたのだった。あのあたりは菖蒲の花が…。手前には小さい株だけれど、咲いてくれているラベンダーたちの堤。もらったチラシには新ラベンダー堤とある。こうした変化もまた、体験してゆくこと、それが毎年ここに来ているということなのだろう。



 食事がすんでから、ラベンダーアイスを買って(少しラベンダー色、すこしラベンダーの香り)、ラベンダーをみてまわった。
 今年はラベンダーの蜜を吸うハナアブが多い。わたしは最初、ミツバチかと思ったが、実は虻。せわしなくラベンダーの花穂のまわりで動いているのが、どこか愛らしい。そのかわり、蝶があまりいないような気がした。ハナアブたちを見るのも、なんだかラベンダーとセットになって、風物詩的なものになっている。



 駐車場のむこうにもラベンダー花壇。ここも比較的あたらしいはずだ。苗たちの大きさがそういっている。あと何年かしたら、いや、年々、見ごたえのあるものになってゆくのだろう。ラベンダーは丈夫といえば丈夫だが、高温多湿には弱いため、関東で育てるには苦労があるにちがいない。それでも咲いてくれていることに、人の手がかかっていることに、温もりを覚えた。変わってゆくことがある。それは哀しいこともあるけれど、新たな出逢いでもあるだろう。そして変わらないこともあるのだった。



 駐車場の向こうのラベンダー花壇で、はじめてみるトンボをみた。最初、黒アゲハかと思った。黒い羽のトンボ。家に帰って調べてみると、どうもチョウトンボというらしい。あまりにぴったりすぎて、逆に拍子抜けするが、名前がわかって良かった。蝶のような大きな羽。羽の先が透明なところも、オニキスかなにかの宝石をおもわせ、目を引いた。今度から、あったら名前で呼べる。



 ここから数キロ離れたところに、菖蒲公園があると今更知った。昭和沼という、工業用水をたたえた沼を囲って整備された公園。ボート遊びや釣り、バーベキューなども楽しめるとか。工場にかこまれた、不思議な空間だった。すこしの森。この日は暑かったが、木々の中にはいると、それでも涼しい。木々をぬけると、比較的大きな沼だ。三十分間隔で沼の中央で噴水が吹きあがる。ちょうどあと五分で定時だったので、見学する。水の花火のようだと思う。





 家に帰って数日後。家のまわりの空地で、ルドベキアの花を見る。おそらくここ数年ずっとこの花も咲いていた筈だ。ほとんど雑草と化して。気付かなかった。そしてこの花になかばやつあたりをしてしまう。あの菖蒲の植わった湿地に、この花があることが、なんとなくショックだったので。あの菖蒲のかわりに、オレンジの生命力の強い花が跋扈している…。その様子に、今はもうない菖蒲たちを想ってしまうから。いや、ルドベキアにわるいではないか。けれども、もともとこの花の系統は好きではないのだ。コスモスとかのたぐいも。
 紫陽花が見事な色で咲いている。ホタルブクロはもう終わりだろう。こうしてつがれ、移ってゆく。まもなく梅雨もあけるだろう。


00:27:18 - umikyon - No comments

2017-06-05

あまのりょういきにて

 今日は早朝バイトの帰りに、その近くを通る用事があったので、自転車で湧水のある場所へ行ってみた。久しぶりだ。国分寺崖線。多摩川が長い時間をかけて削り取ってきた段丘で、斜面からは湧水が多くでており、緑も多く残されている。
 前に比べると水が少なくなったような気がするが、どうなのだろう。ホタル観賞のためのマナー等が書いてある看板が掲げられていた。ホタルが見れるのだろうか。この湧水の池のまわりには、入ることはできない。金網越しに見るだけだ。家に帰ってすこし調べたら、六月にゲンジホタルが見れるのだとか。
 道をはさんで、お不動さんがある。ここも湧水だという水が流れている。日本の名水とかに、いちおう名前が連なっているのだが、水を採ったりはできそうにない。けれども、このあたりは、ホタルが出るあの湧水の池と、かつてはこんもりとした、緑の繋がりが、水の連なりがあったのだろう。
 真夏に向けて、ますますうっそうと深まってゆく緑。けれどもなんとなく静けさを感じる。あの古墳や神域などで感じる厳粛さをたたえたような。ウグイスが鳴いた。そして多分カワセミの声も。ここは野川が近いのだけれど、たぶんその野川で巣をつくっているのだろう。それもふくめた静かな時間。

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 家に帰ってきて、午後に、また別の仕事へ。マンションの駐輪場の一角は、ちょっと前からドクダミ畑になっている。咲き始めの頃に写真を撮ろうと思っていたのだけれど、なんとなく撮らないままきて、今日、思い出して撮ったら、はやくも、もう枯れている花が。ドクダミはもっと、開花期が長いと思っていたからすこしショックだった。花の見ごろというのはあるのだ。
 その花を摘もうとは思わない。摘むとかなり臭いにおいがする。子どもの頃、草むしりをしていたのか、それとも、あいらしい白い花の様子にひかれて、摘みたくなったのか、おぼえていないけれど、ともかく、臭いに辟易した記憶がある。洗ってもなかなかとれなかった。けれども、やはり花は今でも、清楚なような優しさがあると思う。だから子どものわたしもきっと、摘みたくなったのだと、思っておこう。

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 中西進著『日本人の愛したことば』が面白かったので、引き続き同じ作者のもので『ひらがなで読めばわかる日本語』をゆっくり読んでいる。「死ぬ」と「しなゆ」(萎れる)がほとんど同じ言葉で、それよりも進んだ状態が「かれる」。これの古語は「かる」で、「枯る」「離る」。水分が亡くなり、魂がはなれた状態が、死だということ。
 「ひ」から出たことばとして、日、火。そして「ひじり」。漢字では「聖」だけれど、本来は「日知り」であったとか。太陽のでる「ひがし」もひに向かうからできた言葉だとか、霊魂も「ひ」といったとか、そこから「ひつぎ」という言葉が…。
 いちいち、たちどまってしまう。そして「かがやく」。「本来、「かがやく」は、「かげ」や「かげる」と同じ語に根ざしたことば」だという。かがやくは、明滅する。あかるくなったりくらくなったり。「このように、光と影が一対のものであることを古代人はよく認識し、そこから「かがやく」「かげ」ということばを生み出していったのです」。
 光と影のちかしさ。
 そして、今日は、「あめ」について読んだ。「天」「雨」「海」、もとはみんなおなじだったとか。「あめ」もしくは「あま」。海女というのもその名残。「古代の人は天も雨も、そして海までも全部、一つのものだと考えていましたが、「あめ」が示す原初のものは「天」だったのではないかと思います」。この「宇宙水」的な概念は、世界各国に見られたらしく、それにもひかれた。水のように青い高いところから、ときたま水がこぼれてくる。そうだ、天は水でできているのだ…。とふっと、思ってみたくなる。
 「空」は、天とはちがい、虚という意味だとあった。「頭上に広がる茫漠たる空間。(中略)自然に湧き上がる畏れ。そのような古代人の思いが「そら」ということばを生みました」。空耳、空言なども同類だという。
 「天の磐船」という言葉、というか乗り物がある。神様が乗る船だ。以前からなんとなく気にかかっていた言葉だった。この「あめ」を読んで、なにかがつながった。水の世界を行き来するから、船だったのだ。この本にも書いてあった。「(高天原という)「あめ」にいる神々は、どうやって地上に降りてくるかというと、「あめ(天)のいはふね(磐船)」に乗ってやって来ます。「いは」とは、石や岩という意味ではなく、立派な、頑丈なという意味。このように、乗り物が堅牢で立派な「あめのふね」であるのも、天が水域だからこそです」。
 勝手な連想をしてしまう。クフ王の太陽の船。エジプトのギザで発掘されたそれの、レプリカをどこかで見たことがある。その意味は議論がされているらしいが、王の魂を運ぶためという説もあるそうだ。どこに運ぶのか、やはり天に運ぶのではないだろうか。だから船なのでは…とちらっと思う。

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 バイトの途中で、ヒルガオが咲いているのを見かけた。もうそんな時期になったのか。ところでわたしはアサガオは、青が好きなのだが、それは桃色系は、このヒルガオの色だと思っているからではなかったか…と思ったりも。ヒルガオは子どもの頃から、なぜか親しみを覚えている花のひとつ。おおむねの夏、いつも、わたしの傍に、咲いていたような気がする。かわいた場所で。
 午後のバイトの終わりも、また別の湧水の近くだった。国分寺崖線沿いではあるのだけれど。後ろ髪ひかれながらも、今日は訪れなかった。野川にかかる橋を渡る。鴨が飛行していた。水をゆく鳥というイメージがあるので、飛んでいる鴨をみると、いつもすこし驚いてしまう。まるで天の鳥…。水をゆく鳥。とすこし無理やりつなげて、今日はこの辺で。

23:52:05 - umikyon - No comments

2017-05-25

気配が、風に乗って、やってきてくれるだろうか─五島美術館、野毛大塚古墳

 久しぶりに美術館へ行った。体調のせいとばかりは言えない。たしかにあまり体調がおもわしくないとき、出歩けないものだけれど、以前は、どちらかというと行きたいのに行けない、といった感じだったが、このごろは、もはや興味がない、というのに近いようだった。それでも、美術館に出かけたのは、回復してきたから、というのももちろんあるけれど、このまま美術館にゆかなくなってしまいそうな自分がいたので、それを払拭しようと思って、精神的にどこかで追いこんで…といった感じだった。
 なので、体の調子というより、精神的に遠くへ行くのは難しかった。それで決めたのは五島美術館。家から自転車で行ける近さだ。開催されている展覧会も「近代の日本画展」(二〇一七年五月十三日─六月十八日)、館蔵のものの展示とのことだが、普段のわたし、以前のわたしなら、行きたいなあと思えるものだった。それに五島美術館は、庭園も美しい。崖の上にあるのだが、斜面を利用して、緑深い静かな庭園を作っている。この時期は何が咲いているのだろうか。以前行ったとき、ヤブミョウガの白い花に惹かれたっけ…。それと出かけた理由がもうひとつ。ある雑誌で、野毛大塚古墳について、書くことになっているのだけれど、そこは五島美術館から、自転車で数キロのところにある。何回かこの古墳に行ったことはあるのだが、書くまえにもう一度、足を運んでおこうと思った…。
 わたしはどんなに美術館に行きたくなかったのだろう? ともかくこうやって美術展以外の要素で、外堀を埋めることで、出かける気持ちを奮い立たせたのだった。
 実は出かけてすぐに、また少し体調をくずしたので、これはちょっと経ってから書いている。暑かったのか、寒かったのか…。曇り空だったことは覚えているのだけれど、気温を覚えていない。今よりも暑くなかったのだろう。
 何回か自転車で出かけているのに、道を間違えたことも覚えている。いちおう地図をもってゆこうとしたのに、忘れてしまったので、あまりスマホを使いたくなかったが(あれを使うと自分で考えることをしなくなるから)、地図アプリを使ってなんとか辿りついたことも。
 かなりきつい坂をのぼったところに美術館はある。マンションなどを過ぎるといきなり、緑豊かな場所になる。静けさ。ここに来るといつもなぜか根津美術館を思い出す。あちらも庭園が見事だ。崖の上ではないのだが、どこか印象が似ている。五島美術館は、東京急行電鉄株式会社の元会長・五島慶太氏設立、根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた初代根津嘉一郎氏のコレクションを元に設立された美術館。そんな経緯もどこかしら、わたしのなかで響きあっているのだろうか。水琴窟があるのが根津美術館なのだが、つい、五島美術館でも、水琴窟の音が聴けるかしらと思ってしまう。



 さて展覧会。HPやチラシなどから。
「館蔵の近代日本画コレクションから、「花鳥画」を中心に、橋本雅邦、川端玉章、横山大観、川合玉堂、安田靫彦、前田青邨、川端龍子、金島桂華など、明治から昭和にかけての近代日本を代表する画家の作品約四〇点を選び展観します。館蔵の近代書跡と宇野雪村コレクションの文房具も同時公開。」
 日が経っていること、図録や絵ハガキなどよすがにするものがなかったこともあり、個々の作品について、今回はたちいって書くことをしないけれど、重い腰をあげて行ってよかった。元々好きな画家の奥村土牛、山口華楊の作品に出逢った。親しさのようなものが絵に感じられる。いや、この画家の絵をまえにした、わたしのいつもの感覚が、立ち現われたことに対する親密さ、というか。この画家の絵がすきなわたしとの再会が感じられたのだった。それはもちろん、画家の絵にひかれて、というのが第一なのだけれど。
 また、村上華岳(一八八八─一九三九年)の絵が、印象に残った。以前おそらくどこかで見たことがある画家だが、そのときは素通りしてしまったと思う。今回は《野鳥》のこわれそうなもろさ、《牡丹図》の血のような赤い花が、幽玄さと共存している不思議な均衡に心が残ったのだった。こんな状態のわたしなのに、こうして絵は語りかけてくれるのだ。気がつくと、すっかり、展覧会会場にいるわたしは、以前のわたしらしさを取り戻していた。



 そして庭園へ。イカリソウが咲いていた。なつかしい花だ。昔父が育てていた。ここにあったのは黄色、父の育てていたのは桃色のものだったが。庭園のすぐ脇を電車が通る。庭園の山と川を想起させる緑深い環境とはすこしそぐわない気もするが、不思議と気にならないのは、通っている電車がこの美術館所縁の東急のものだからだろうか。黄菖蒲が池のまわりで咲いている。うちの近くの公園でもやはり菖蒲の色が黄色い。菖蒲といえば、紫の印象が強いので、黄菖蒲をみるたび、ああ紫の一面に咲く菖蒲がみたいなあといつも思ってしまう。黄菖蒲にはもうしわけないのだが。




 たしか美術館を出たのが三時近かったと思う。野毛大塚古墳へ向かう。地図を前述のように忘れたので、今度は最初からスマホに頼ったのだけれど、思っていたよりも近いことに驚いた。歩いてもたかがしれている。ただ、地図アプリ、自転車という選択肢がないので、徒歩を選んで経路を調べるのだが、これだと自転車だとかなりきつい階段や、歩道橋と言うルートを教えることがある。今回も歩道橋を使ったルートを平然と教えてきたので、苦労した。回り道をしたり、裏道を使えば回避できたのだろうけれど、方向音痴なこともあって、もはやその道が探せない。もう古墳のある公園は見えている。しかたなく歩道橋を自転車で登る。ハンドルを握る手が、ほとんど万歳の状態になるまで、急な斜面にちょっとびっくりしたが、これもいい経験だろう。
 前回この古墳に来たのは、古墳まつりを開催しているときだったから、かなりギャップがあった。今回、今来ているのは、静かな公園だった。小学生の男の子たちが、古墳の上と下で鉄砲のようなものを使って遊んでいる。
 古墳については、今回は、触れないが、やはり原稿を書く前に来てよかったと思う。古墳の上に登って、埋葬施設の様子が図示いるのを確認する。そしてあたりを見渡す。あの低くなったあたりに多摩川が流れているはず。
 何か古い史跡などを訪れるたび、たいてい感じるのだが、どこか古墳のまわりは空気が違うような気がする。時の凝縮というか、神聖さというか。異質で厳かな気配が漂っているように感じられるのだ。そんなふうになにかが継がれてゆくのかもしれない。そのことに対する、つきせもしない敬意。それは、わたしのではなく、だれかたちの想いであるだろう。だれかたちの累々と継がれたなにかたちが、場所を聖なるものとして、累積してゆく。わたしはそのことに対して、厳かさを感じるのだ。
 午後四時過ぎ。帰りは歩道橋を通らず、地図アプリも使わず、なんとか帰れた。元々迷うのがおかしいぐらいに近いのだけれど、なんとなくうれしかった。絵たち、緑たち、古墳…、これらの声が、どこかでまた静かに発せられている、その感触を、またすこしでも確かめられたこととあわせて。彼らはいつも無言のまま、声を発している。わたしが心を開けばいいのだ。耳をすます努力をすること。風が変わった。

01:04:12 - umikyon - No comments

2017-05-15

想像、記憶すら、現実とは違う、けれど同じで (多摩動物公園)

 仕事をすこしした。書きもの仕事のほうだ。最近気に入って読んでいた本のことを中心にして散文を。
 そちらはそのうち掲載されるから、そのことについては書かない。ただ、書いている途中、あのわくわくするような、独特の世界が親しくやってきていたこと、それがうれしかった。いつも、そうなのだ、そうだったはず。なのになぜ……。体調のせいとばかりはいいたくない。
 ともかく、すこしずつ、何かたちを戻してゆこう。

 雨のなか、多摩動物公園に行ってきた。何年かぶりだが、じつは小学一年生の時に遠足で来たことがある。その時のことはあまり覚えていない。子どもだったからではなく、今でもその傾向があるのだけれど、基本的に団体行動が苦手で、団体だとほとんど景色やイベントを楽しめないからなのだ。ただ緑が多かった記憶があった。山の中のような。
 雨のなか、出かけたのはチーターの赤ちゃんが最近生まれて、公開中だというので。このところ、チーターの赤ちゃんの関係で、連日けっこう混んでいるらしいのだが、その日は、雨だから空いているだろうと思ったのだ。逆に雨だから公開中止になっているかもしれないとも思ったけれど、それでも、ユキヒョウもサーバルキャットも、象もキリンも虎も、そのほか、さまざまな出逢いがあるだろう。






 そうだ、雨はけっこうひどい降りで、この頃にしては寒かったが、やはり緑が深かった。雨のせいか人がすくない。静かだった。雨音以外しない。サイが室内のほうにいた。
 二〇一四年の五月、ちょうど今と同じ頃に、ここで、サイのことを書いている。
 〈日本経済新聞の二〇一四年五月十八日の連載コラム記事で、生物学者の福岡伸一氏が、アルブレヒト・デューラーのサイのデッサン、サイの木版画を挙げて綴っていた言葉が、心に響いた(「芸術と科学のあいだ」その十四「脱ぎ捨てられたサイの甲冑」)。
 一五一五年にインドからリスボンへ連れられてきたサイ。その噂をドイツでデューラーが聞き、伝聞を元に描いたもの。それは全身甲冑で覆われた、金属でできたような、恐竜のような力強いサイだった。この絵は以後、ヨーロッパでは広く流布され、なんと「二十世紀初頭まで教科書にもサイの図として掲載されていたという」。
 そうして。
 「のちに、動物園で実際にサイを観ることになったとき、人々はこう思うことだろう。実際のサイはなんてみすぼらしいのだろう。あの立派な甲冑はどこにいったのかと。甲冑はあなたの頭の中に脱ぎ捨てられているのである。」〉

 私はこのときに、でも現実のサイは素敵だ、そんなふうに書いた。〈それでも現実で生きる姿として、サイは、やはりカッコイイものだったのではないか。硬くて、けれども、どこか…さびしげで。だが、それが想像と現実の接点ではなかったか。現実のサイは素敵だ。〉
 現実と想像はちがう、あるいはそんなことをめぐって。けれども、この日、雨のなかで見たサイ。かつて見たことがあるはずなのに、それともまた違うことに驚いた。記憶のなかの姿よりも、もっと大きいのだ。
 大きくて、甲冑のような皮膚は、思ったよりもタプタプしていて、象の耳をすこし想起した。そして表情は、やはり記憶のなかのそれとほとんど同じだ。どこか哀しげで、さびしげで。想像したもの、記憶にあったもの、そしてこの日みたもの、すべてがどこか違うことに驚いた。特に自分の記憶の違いに。記憶という過去の像と、今の像ですら違うのだ。過去と今日は別物なのかもしれない。だが、こうしてそれぞれが少しずつ違うからこそ、いいのかもしれない、ともどこかで思う。それでも、おおむね、あのサイの目に感じたものは、同じだった。デューラーのサイ、かつてみたサイ、この日のサイ。違いつつもどこかで重なっている。それでいいのではないかと。




 チーターはやはり、雨のため赤ちゃんの展示はとりやめだったけれど、親なのか、そうでない子なのか、大人のチーターを放飼場のほうで見ることができた。これも現実が期待をうらぎった、ということだけれど、あまり残念ではなかった。尻尾の立派なユキヒョウもみれたし(尻尾でバランスをとるため、大きいんだとか)。そして、虎、象、鹿、雁たち、キリン、馬の蹄のたてる地響きが伝わってくる。
 出口近くに、昆虫館があった。あまり昆虫が得意ではないので、どうしようか迷ったが、連れが蜻蛉やバッタなら見たいというので、入った。蜻蛉はいなかったがバッタはいた。ナナフシが懐かしかった。枝や葉に擬態している虫。あれはどこで見たのか。たぶん図鑑とかでだったと思う。ほか、やはりちょっと苦手なコーナーもあったが、きてよかった。
 温室になっている昆虫生態館というのがあって、そこが蝶やバッタの楽園になっていた。暖かい室内、花の多い植物たちの間を、蝶が飛び、花の蜜を飲んでいる。バッタはわからなかったが、蝶の多さ。たしか一三〇〇匹ぐらいいたのだと思う。どこか異国にまぎれたような。こんなにたくさんの蝶、あざやかな羽、知らない模様の羽たちの蝶を見るのははじめてだった、壮観だった。
 わたしは小学生の時、蝶というか、アゲハの幼虫を育てていた。サンショウの葉っぱを食べさせ、さなぎになり、孵化するまで。孵化してからは、あまり生きられないというのもあって、また自然に帰していた。芋虫はかわいかった。だから蝶には、なんとなく懐かしみというか、親しみがあるのだった。
 この蝶たちが見れただけでも…。苦手だと敬遠したままでなくてよかった。これも想像と現実の違いだろう。違ってよかった。
 そして、スマホで写真をとったら、思いがけず、一枚だけ、よくとれた写真があったのだが、それもうれしい驚きだった。たぶんリュウキュウアサギマダラという蝶。思いがけず、というのは、いつも、どこか、詩的な裂けのような働きがある。



 そして真っ暗な別の部屋。お化け屋敷みたいで、わけがわからない。はいったことを後悔しそうになったが、天井が無数の小さな光がまたたいている。この暗さのなかでしかみることのできない貴重な光のつぶたち。グローワームの部屋とあった。あとで家に帰ってから調べたら、グローワームはホタル等も含めた発光する虫たちの総称で、ここで光っていたのは、ヒカリキノコバエというハエの仲間の幼虫だそうだ。光に寄ってくる虫をたべるらしい。
 未知のものは怖い。そう感じるのは防衛本能らしい。だが、こんな未知、こうして判った光は、やさしかった。
 出口付近のウォッチングセンターという、情報コーナーにも寄る。たしかここに、日本にはじめてやってきたパンダ、ランランとカンカンの剥製がいたと記憶していたので。ここでもまた、現実と期待が違った。なんと、貸し出されているらしく、いなかった。パンダが旅行鞄をもって去ってゆく姿の絵が後には残されていて、それが面白かった。剥製になったパンダは、こんなふうにあちこち、今でも旅をしているのだ。
 思っていたこと、空想していたこと、記憶。それと違うことが、こんなにも優しいこともある。それを判らせてくれた、静かな雨の一日だった。
21:08:03 - umikyon - No comments

2017-05-05

鯉のぼりが、さかいめをおよぐだろうか

 またここをあけてしまった。そのあいだに桜は散って、もはや桜の樹。花が咲いていたことが遠い。青い葉が力強く茂っている。たとえば家からすぐのお寺にある桜がそうだ。
 早朝のバイトの行きこの桜のまえをほぼ通る。ひと月のあいだに、明るくなるのが早くなった。ちょっと前まで、出かける時間はまだ真っ暗で、早朝というよりは深夜だったが、今ではまさに早朝。けれども一年でいえば、それも数カ月だ。四月終わりから、八月終わりぐらいまでだったか。朝早くから明るいのがうれしい。そして夜が短いのも。
 けれども体調がもうひとつ。まあ、それはおいておこう。
 明るくなったからだろう。バイトに向かう道に、鯉のぼりがあるのに気付く。いや、空が明るいのと、時期的なことが重なっている。わたしは子どもの頃から、なぜか鯉のぼりがすきだった。家に男の子がいなかったから、無縁だったのだが、だからよけいなのかもしれない。鯉のぼりが泳いでいるのをみるのが好きだった。折り紙や、紙などで作ったりもしていた。今年もなんと作ってしまった。バイト先の受付に置くように。子どもなどが喜ぶというので、受付には、ハロウィン、クリスマスなど、ちょっとしたものを飾るので、それ用に。なつかしかった。ただ、今回はパソコンでダウンロードして、それを切って作ったのが、子どもの頃と変わった点といえば変わった点。





 これを書いている今日、スーパーで、折り紙をつかったカブトと鯉のぼりの作り方が書いてある紙がおいてあったので、もらってきた。そう、鯉のぼり、あんなに毎年のように作っていたのに、忘れてしまっているから。たぶん、それでももう今は作らないだろうし、この紙も、どこかに埋もれてしまうのだろうけれど。
 バイト先と家のあいだに、いくつ鯉のぼりがかかっているだろう。ふっと数えている。一軒、二軒、あるいは一匹、二匹。この自分の行為に、既視感をおぼえる。そうだ、こんなふうにして、出合うものたちを数えて遊んだっけ。子どもの頃だ。
 体調がわるくなったからか、この頃、めっきり人づきあいをしなくなった。元々それ気味ではあったが、ますます。そのせいか、あるいは年齢的なものがあるのか、そのぶん、すこしだけだが、子どもの頃の記憶がよくやってくるようになった。追体験しているといっていいか。あのころのいきいきとしたきらきらしたものはないのだが。
 家の近くの公園で、レンゲが咲いている。レンゲも好きだった。首飾りだか冠だかをつくった覚えもある。こちらも折り紙の鯉のぼりのように作り方を忘れてしまっているが。けれども好きだった記憶が、立ち上ってくる。それはおおむね優しい。
 だいぶ長く生きてしまった。還暦はまだまだ先だけれど、そんなふうに何かに還っていっているような気もする。

 最近、スマホを買い換えた。前のが調子が悪く、もはや電話すらできなくなっていたので、仕方なく。環境が変わることに、もはや恐怖心があるので、新しいスマホに色々と不信感があったのだが、数日で、快適さに気付いた。メモがとりやすい。まえのは文字入力すら、しにくかった。そのほか、いろいろ。こんなふうに、新しいことが、わたしにやってくる。そしてその度に古いことが、どうなるのだろう。消えてゆくのかもしれない。けれども、慣れ合ってゆくこともあるのだろう。スマホで、またガラケーのときのようにメモしていけたらいい。詩的なおもいつき、ことばを(前のスマホはできなかった。もしメモしたいと思ったら、それこそ紙をだして、だった。それはそれでいいのだが)。

 五月五日。レンゲが咲いている公園で、ちょっとした子どもの日のイベントがある。大道芸、折り紙、竹トンボ、木挽き体験、公園内の畑で作った蕎麦の販売。毎年というのではないが、気がつくと出かけている。明日もきっと出かけるだろう。そうして、今もまた、いつかにむけて、想い出をつみあげてゆくのだろう。子どものわたしと今のわたしが、出合いながら。
00:01:00 - umikyon - No comments

2017-04-05

たとえば水に映った桜が。



 桜。ソメイヨシノ。
 またその季節がはじまった。まずは、家の近所だと川添いの一本。ほかのソメイヨシノに先駆けて満開になる…。ソメイヨシノに似ているけれど、もしかすると種類がちがうのかもしれない。先日、三月の終わりに上野の森にいったが、そのときも、まだソメイヨシノが一分か二分咲きぐらいだったなかで、一本だけ、よく似た桜が、ほぼ満開で咲いていた。うろおぼえだがエドヒガンとあったと思う。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配で生まれたというから、たぶん、ソメイヨシノに先駆けて咲いているのは、それであったと思う。
 ソメイヨシノは単一の樹のクローンから拡がった桜なので、近くにあるのであれば、ほぼ開花時期が同じだそうだ。そのことも、すこし怖いぐらいだ。すべて同じという沢山。





 桜たち。けれども、まだ、先駆けて咲くそれらだけでは信じられない。いや、開花宣言したあとでも、今年の花たちは、ゆっくりだった。寒かったからだろう。これを書いている四月三日の段階でも、まだ家の近くでは、満開とは言えなかった。東京の満開は、四月二日だったそうなのだけれど。
 クローンでも、違うのだろうか。今年はいつになく、そんなことを思う。満開といっていた四月二日、すこしだけ近所の桜をみたが、まだほとんど咲いていない…と思ったが、それでも少し咲いているところもあった。陽射しの量とか、そんな違いなのだろう。けれども、今年はいつにもまして、その差が多いような気がしたのだった。そして三日の月曜、晴れていたので、午後になって、桜を見に行った。いつもの桜だ。コンクリート護岸された、すこしドブの臭いがする川沿い、仙川の桜並木へ。
 そこへゆく前にも、桜をみたが、まだ五分咲きぐらいだったとおもう。だから、わたしとしては前夜祭的な意識があった。満開の前の、狂騒前の、ぎりぎりの狂想。満開前の、待ち望む気持ち、すこし物足りない気持ち、けれども、散ってゆく、終わりに向かう花よりも、まだ、淋しさがなくて、華やぎがあって。
 おなじ桜のはずなのに。この橋からみるそれは、まだ四分咲きぐらいだろうか。見た眼には三分咲き位に見える。けれども、数十メートル咲きの橋近くの桜は八分咲きぐらい、ほぼ満開のあのざわめきを宿している。陽射しのせいだからか。今年の桜はゆっくりと花開く。ゆっくりだからこそ、違いが目立つのかもしれない。けれども、クローンたちに、差が生じているのだと、考えるのは楽しい。勝手な夢想なのだけれど。彼らは個々、ちがう花にゆっくりとなってゆくのだ。



 四日の火曜。また仙川に桜をみにゆく。一日でだいぶ咲いたようだ。けれどもまだ満開ではない。早いところで八分か九分咲きぐらい。まだつぼみのめだつ五分咲きぐらいのところもある。
 だが、四日のほうが、桜に浸かっているかんじがあった。酔ったような、すこしぼうっとしたような、むせるような。花にかこまれて。そうだ、この感じだ。
 今年は、すこしだけ、例年とかわったことをしてみた。いつもは自転車でずっと、仙川をいったりきたりしているのだけれど、自転車を近くの駐輪場において、歩いてまわってみた。ゆっくりとまわる感じ。写真を撮るのにはこのほうがいい。けれども、慣れのせいなのか。じつは自転車をとりに、というか、帰るつもりで自転車置き場にいってから、またもういちど桜をみにきて、やはり、こちらのほうがしっくりするなと思った。いや、両方経験したらいいのだろう。自転車のスピード(桜を眺めている人も歩いているし、そんなに出しているわけではないのだけれど)、この速度が、開花してからすぐに散ってしまう桜にあっているような気がした。早いことは早いが、車ほどではない速さ。だって、昨日と比べても、まだ満開にはなっていないもの。それと高さ。身長よりもほんの少しだけ高いところからみる景色がまた別の桜の側面をみるようだった。だからどちらも経験してよかったと思った。
 四日は、三時間ぐらい桜をみて回っていた。家の近所なのに、旅行をしているのだと思った。非日常だから、そうなのだろう。仙川、そして野川沿いの公園の桜、お寺の桜。
 ところで仙川でも野川でも、桜は水に枝を伸ばしていた。水に向かう桜。自分が水が好きだから、桜もそうなのかと勝手に思っていた。いや、それとは少し違う。自分が水を求めているので、枝を水に向けるその姿を、いとしく思っていたというべきか。



 桜が水に向かう。水辺に植わった桜は、ほぼ一様に。だから河の両岸に植わった桜たちは美しくみえたものだった。桜たちが天に咲き、地という水にも、映った姿で、その花を倍にふやして、橋からみれば、四方、天地左右、前も後ろも、すべてが桜につつまれる。だからこその狂騒だった。もう少し仙川を上流のほうへいっても、いったん桜がとだえるけれど、また桜だらけの公園にゆける。ただ、今年はもう、この狂乱、この桜につつまれただけでも、いいような気がしたので、ゆかなかった。
 水に向かう桜。これは陽射しを求めてなのだそうだ。明るさを求めて。そのことでもまた、わたしは勝手なことを思ってしまう。たとえば水に映る月にひかれる自分と、その姿を重ねてしまうのだ。水に映る月にひかれる者は古来から多い。この場合は水に映る太陽のほうが近いのかもしれないけれど。手に届きそうで届かないものたち、幻影たち。けれども、たとえば桜は、おそらく水に映った光によって、何かを実際に受け取っているのだろう。そして水に映った桜によって、わたしもまた。それが届いた、ということになるのかもしれない。
 四日の夜にこれを書いていたが、零時を回って、今は五日。午後から仕事があるので、五日の午前中に、少しだけ仙川の桜を見ることができるだろう。おそらくそれが最後だ。どんな出逢い、逢瀬になるだろう。



01:14:48 - umikyon - No comments

2017-03-20

善と悪のあわいで、さくことがにぎわって。(越生梅林、オリエント急行殺人事件)



 前回、ここを書いてから、どんな春を感じただろうか。ちいさい春はたくさんあった。メジロの声をきいたこと。タンポポを見たこと、雪柳が滝のように咲いていたこと。そして大きな春というわけではないけれど、毎年のようにいっている越生の梅林に梅をみにいった。六分咲きくらいだろうか。このぐらいがちょうどいい。満開すぎの、かれた花がちらほらみえるのは、どこかさびしい。春休みがまだもうすこしあるかのような。まだ学校にいかなくていい、もう少し休みにくるまっていられる。そんなことに少し似て。
 啓蟄もとっくにすぎて、もう春を感じていいころだ。だが寒さのせいか、まだいまいち実感できていない。このもやもやもまた。そんななかでみた梅たちは、したしげで、けれどもやはりうつくしかった。それをみているわたしが、まえにもみたなあと思うことで、かつてのわたしを二重に映す。それが梅との再会であり、かつてのわたしとの再会でもあった。
 梅の足もとに福寿草が咲いている。そうだ、お正月に縁起物として売られているこの花は、実は今頃が見ごろなのだ、そう、いつも思い出させてくれる、春のやさしい黄色だった。ヒメオドリコソウが咲き、オオイヌノフグリが空色の小さな花をつけて。
 うねうねと無骨な幹と繊細な白い花たち。桜よりも先に春をしずかにつたえてくれる花たち。ひくい枝が空とわたしたちの橋渡しをしてくれるような満開。みあげれば、雲よりも近い白さがある。
 でかけた日は晴れていた。あたたかくちょうどよい日だった。梅干しを買う。これもきたとき恒例になっている。家で梅干しを頂くたびに、思い出す、というほどでもないけれど。こんなことも非日常が日常と接している、ということなのだろう。







 『オリエント急行殺人事件』(アガサ・クリスティ原作、一九七四年)を観た。好きな映画だった。はじめてみたのはテレビでだった。たぶん日曜洋画劇場とかだとおもう。わたしは中学生だった。映画の魅力にとりつかれていた頃だ。出演者のイングリット・バーグマン、『カサブランカ』(一九四二年)や、もっと年代が下っても『追想』(一九五六年)でみたよりも、だいぶ年齢が上になっていたのを、すこし悲しく思った記憶があった。リアルタイムでみているわけではなかった、私にとってのリアルな時間は、『カサブランカ』、『誰が為に鐘は鳴る』(一九四三年)、『ガス燈』(一九四四年)などのバーグマンだった。それが先だったから。同じく出演者のジャクリーン・ビセットは、テレビの『チャーリーズ・エンジェル』が先だった。その他、ショーン・コネリー、ローレン・バコール、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、マイケル・ヨーク……、きいたことのある懐かしい人たちばかり。
 いや、大好きな映画だったが、この映画について語ろうと思ったわけではない。なぜなら語ろうとすれば、ストーリーに触れなければいけないから。それではなにかが損なわれてしまう。ネタバレてきなことをしたくないのだ。だから映画の周辺で。そう、観ていて、もう数十年ぶりに観たのだけれど、泣いたシーンが、中学生のときとまったく同じ個所だったことに、どこか喜びのようなものを感じたのだ。「彼らは事件さえなかったら、義理の親子としてここにいたはずだ…」たとえばそんなようなことを心のなかでつぶやく。それは中学の時も、今もおなじ言葉だった。呪文のように、その言葉が涙をさそったのだった。
 ところで、オリエント急行。箱根のラリック美術館にそのサロンカーが、カフェとして展示されている。ラリックが室内装飾を担当しているからだ。わたしはまだ外からしかみたことがないのだけれど、ガラスパネルだけは、別の場所、ラリック展か何かで展示しているのをみたことがある。浮き彫りになった葡萄と裸体の女神たち。明るい、みずみずしい、生の謳歌。ラリックを好きになったのは、中学生よりももっと後だったから、はじめて映画をみたときは、装飾のことなどは、豪華だなあ、繊細だなあ、ぐらいは思ったかもしれないけれど、割と流していたと思う。
 いま少し調べたら、映画で使われた客車の中は、撮影用に独自に作ったものなのだとか。だが、今回『オリエント急行殺人事件』を観ていたら、おそらく複製なのだろうけれど、ラリックの装飾パネルが映っていて、おもわずみとれてしまった。これが今と中学生の時と、違う点だと思った。これが時間が経っているということなのだろう、と。けれどもこの違い、悪くはなかった。

 ここまで書いて、すこし風邪などでここを離れていた。その間に考えたこと。『オリエント急行殺人事件』が、中学生のわたしに魅力的だったのは、たぶん、善と悪に完全な区切りがないということを教えてくれたからではなかったか。犯人は殺人を犯したということで悪なのかもしれないが、彼らは善でもあった。また殺された被害者はどちらかというと悪であった。だからといって殺されていいのかという観点に立つと善でもあるかもしれない。いわば被害者という善。事件を解決するポアロも、謎解きで突き止めた答えだけが彼にとっての善で、ほかはその次なのが、粋だった(このあたりのニュアンスは映画をみていないとわかりづらいかもしれないが、ネタバレをしたくないので…すみません)。
 中学生のわたしは、もっと世界は勧善懲悪的に成り立っていると思っていた。もっと単純に、善と悪はわかたれているのだと。それを哀しみをつたえてくれることで壊してくれたのが、『オリエント急行殺人事件』だったのだろう。

 すこし離れていたあいだに、だいぶ春らしくなってきた。陽射しがちがう。まだ寒いけれど、陽だまりがどこかやさしい。スミレ、ハナニラ、ムラサキダイコン、ヒヤシンス、ユキヤナギたちも咲いている。あの芽鱗たち、猫の毛みたいなふくらみたちも、その皮を割り、咲きだした。モクレン、コブシたち。それにも思わず手をのばし、ふれて。
 このところ、『日本人の愛したことば』(中西進)を読んでいる。図書館で借りたのだが、手もとに置きたくなって、今、注文中。そこに、こんなことばがあった。
〈幸せは昔、「さきわい」といいました。体の中に花が咲くということです。〉春にどこか心がさわぐのは、こんなことでもあったかと思う。


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