Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-01-15

旧成人式に、冬と折り合う

 一月十五日は、成人式だったなあと思うのは、わたしが古い人間だからなのだろうか。いつだったっけ。成人式が一月の第二月曜日になったのは。調べてみたら二〇〇〇年だった。もう十八年もたつのだ。
 正月から、というより、昨年末から、ずっと、もう毎年恒例になってしまうのだけれど、大掃除と、年賀状やら、頂いた詩集、詩誌のお礼状を書いていた。そうして、毎年、今年こそは溜めないで、お礼をするのだ、と思う。掃除というか、整理整頓もしようと。
 今年はいつもと少し違う。整頓することに、気持ちが傾いている。いつものようにモノもだいぶ捨てたのだが、それだけでなく、整頓するために、いれるための箱やら本棚などを買ったりしている。これは珍しい。入れ物がないから片付かないのだ、と、当たり前のことが、思い出された。
 収納のためのものを通販サイトをみたり、百円ショップで購入したり。これが結構楽しい。というか、懐かしい感じだった。うまくいえないが、中学生の頃、わたしは生活を楽しんでいた。絵を描いたり、小さなモノを作ったり、映画をみたり、なにか言葉を書いたり。散歩をしたり、父の育てていた植物の名前を覚えたり。概ね、内向的な楽しみ、独りものの娯楽。
 あの、中学生の時の感覚が、なぜか似たものとして、わたしにやってきていたのだ。

 いま、部屋は概ね、かたづいている。そうなると、いつも不思議なのだが、お香をたきたくなる。間接照明だらけにして、机に向かいたくなる。その儀式めいた行動が楽しい。
 わたしは長らく冬が苦手だった。今もたぶん。でも、前は嫌いとまで思っていたが、だんだんそうでなくなってきた。たとえば、冬の空は空気がきれいだからか、遠くまで、景色がみえる。具体的には、春や夏にはあまり見えない富士山が、冬にはほぼ毎日のようにみえるようになる。

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 そして、ここ数年で気付いたのだが、冬の芽のうち、毛皮を着たものがいる。芽鱗(がりん)という。ネコヤナギが有名だが、モクレン科のものにみられるらしい。毛皮を着込んで、冬の寒さに耐えている姿が、いとしかった。にぶい太陽の陽射しのなかで、きらきらしているのが、ぬくもりだった。
 まだ一月。沈丁花はまだ咲かないが、蕾を見つけた。水仙たちはもうぽつぽつ、咲いている。


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 かれらに会うのが、うれしい。冬が苦手だと、今までは眼をつむっていたのだろう。だんだんそれが開いてきた。それでも、今もなお、薄目でしかないのだろうけれど、うっすらと開けた視界にひろがるのは、それでもやさしい、おだやかな日々だった。日々をいきる彼らだった。わたってきたであろう鴨のたぐいが、川のなかで、やさしい。たまに鴨たちが、とんでいるのをみると、胸がさわぐ。雁がねとか、初雁とか、そうした言葉がよぎったり。
 こんなふうに冬と、すこしは親しくなってきたのだろうか。毎年、冬になると、すこし鬱的な気分に捉われていたのだけれど、特に今年はそれがだいぶ薄れてきている気がする。片づけをして、ふるい地層が出てきたと、楽しんでいるぐらいなのだから。
 そうして、わたしは、過去のわたしと会うのだろうか。会って、なにを話すのだろう。なんだか、言葉もなく、彼らは了解しあっているようでもある。

22:58:25 - umikyon - No comments

2018-01-01

謹賀新年

今年もよろしくお願いいたします。

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 毎年のように、ベランダや渡り廊下から、初日の出、そして西の方角にみえる富士山を見ている。撮影している、というのか。
 前日、初日の出の時間をチェックする。これも恒例。今年は6時48分ごろだったので、6時30分に目ざましをかけた。ちょっと遅いかもしれないと思いつつ。なぜなら、もうその時間なら、空はだいぶ明るいはずだから。けれど、もしかして、それまでに起きるのではないかとも考えた。いつもなら、仕事している時間だったので。
 けれども、起きなかった。夢をぎりぎりまで見ていた。父と旅行し、その帰りの電車に乗っている。時間がぎりぎりだったというので、行きと違う電車だった。海がみえる。こちらのほうが、いいなと思っていたら、なぜか、中野駅についた。祖母が住んでいたところだ。おそらく、父も住んでいたことがある土地だ。そのせいだろう。ただ、電車のかんじは、羽田とか成田から出ている電車のイメージだ。どこか遠くから、帰って来た。
 正月早々、父に会えてうれしいといえば、うれしかったが、この父には、いまの家人がだいぶ重なっている。どちらも家族、ということなのか。

 6時30分の目ざましが鳴っているころ、夢のなかで、おみやげにかってきたケーキをわけていた。疎遠になった親戚にも買っている。だから配分が難しかった。だれに、どれをあげようか。
 目ざましが、夢のなかへ、大分侵入してきた。もう父ともはなれないといけない。日の出をみるのだ。

 起きて、あわてて、外にでたら、やはり、だいぶ空は明るくなっていた。毎年みているのに、いまいち、どこから昇るのか、ピンポイントではわからない。明るいほうを、何枚か撮る。鳥がとべばいいなあと思う。ただ、飛行機は何機か飛んで行った。そうだ、あまり意識したことがなかったが、うちは羽田とそんなに遠くはないのだ。

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 やっと、日の出。48分よりも、数分あと。家は三階なので、そこから見える日の出は、地平線すれすれではないので。


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 ああ、ここから出るのだなあといつも、毎年、気付かされる。それが、ばかげているようだが、うれしくもある。こうして教えてもらうことで、なにかが刷新されるようでもあり、それが新年にふさわしいような気がして。
 家人にも、声をかけた。
 「富士山もみえる?」「見えるよ、さっきまで朝焼けで、赤富士っぽかった」
 ちらっとみて、また寝床にはいった。
 日の出はほんの数分。数分で、地上に登り切ってしまう。そうするともうまぶしくて、逆光になってしまって、いけない。
 うちのベランダからも富士山は見えるのだけれど、年々、ちかくの欅だろうか、大きくなってきて、それが微妙に富士山をかくしてしまう感じなので、渡り廊下のほうにでた。富士山も初富士。

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 渡り廊下から、建物の窓に反射している、太陽がまぶしい。これも初日の出だ。

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 今年はどんな年になるのだろうか。
09:27:15 - umikyon - No comments

2017-12-30

土器のかけら、土の息吹に託された過去の記憶

 十一月三日に出かけた、千葉県加曽利貝塚の、縄文秋まつり。このなかの加曽利貝塚博物館で、縄文土器のかけらに触れて以来、感触がこびりついて離れなくなった。当初、触った時はそうでもなかった筈だ。だがそれは皮膚からゆっくりと、時間をすこしだけかけて(縄文というながい時の変遷のまえで瞬く間だから)、わたしのどこかにゆっくりと染み込んでいったようだった。それが脳に告げるのだ、あの感触をどうか、もっとと。植物が根から養分を静かに吸収するように。そう思うと、楽しい。
 ともかく、土器にさわりたくなった。手もとにおいて、さわりたいときに思う存分。いや、さわろうと思ったら、すぐそばにいてくれる、そんな環境がほしくなった。まるで猫でもいるみたいに。


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 つまり、土器のかけらを手もとに置きたくなったのだった。そうして、ネットオークションで探すことにする。わたしは価値があると思っているけれど(こんなにさわりたがっているのだもの)、骨董的には、意外なことに、破片だったら、ほとんど値段はつかないぐらいなものらしい。くわしいことはわからないが…。そういえば、わたしが小学生の頃住んでいた、埼玉県のある場所には、貝塚があった。同級生の男の子たちが、よく、縄文土器を発見したとかいっていた。それは化石をさがしてきたというのや、沼で釣りをしていたとかと、同じ響きだった。素敵なこと、たのしいことではある、けれども、当時のわたしには、自分のこととしては、関心がなかった。今のわたしは、しまったと思う。その頃に、わたしも土器を探しにいったらよかったと、すこし悔やむ。ほんのすこしだ。当時のわたしは、ほかのことに熱中していて、それが楽しかったのだろうし、それが今につながっているのだろうから。
 毎日、ネット・オークションを覗く。何か掘り出し物はないかしら。現実世界で、骨董を探すように、仮想現実にめずらしくはまってしまった。一度、青森県出土のものが、手に入れやすい価格で出品されていたので、入札したことがあった。画像でみるかぎり、装飾的な感じが破片に残っていて、いい感じだった。終了は三日後の夜。美術館のチケットなども、よくこうしたところで買うのだけれど、たいてい、そのまま、わたしが落札することができたので、安心しきって、終了時に寝てしまっていた。だが、翌日、落札できなかったことがわかる。終了直前に高値が十円更新されており、他の人に落札されてしまっていたのだった。
 そのあと、なかなか、みた感じでいい土器は、現れない。数片セットで、いい形のものも見受けられたのだけれど、少し高いような気がして、手が出せなかった。さきほど、わたし自身は縄文土器のかけらに価値を置いているといったが、勝手なもので、あまり値段が高いのは、違うような気がしてしまうのだった。
 ますます、仮想現実の骨董市や蚤の市めいて、十日ほどだったか、パソコンを開くと、こればかり探してしまう自分がいた。普段、スマホはあまり活用していないのだけれど、スマホのほうが、すぐに情報が入ってくるので、こちらでも探せるようにした。手にいれるまでの、魔的な時間。禁断症状のような、麻薬的な狂騒的な時間だった。
 先日、とうとう、値や形などが、わたしのなかで均衡をとったものが出品されていたので入札した。前回の失敗があったから、少し不安だった。オークション終了の数時間前からそわそわしていた。実際、高値更新が何度かあったので、こちらもスマホで値をあげて入札する。目にみえるのは文字ばかりで、通常の、現実の世界のオークションとは違うのだろうけれど、やっていることはリアルだった。オークション終了まであと数分。時間が秒刻みで画面に表示される。
 オークションが終了した。わたしが落札したらしい。信じられなかった。だがこれで、リアルさに近づいたのだ。ネットでみていたもの、画像でみていたものが、このことにより、現実に、具体的にはわたしの手もとに届くことになる。
 数日たって、無事に届いた。縄文土器のかけらは、写真で見たよりも、ずっと形状が心地よいものだった。心に染まった。色もよかった。中には、煮炊きで使ったのかもしれない、黒ずんだ破片もあった。なんとなく、この手のものは、写真でみるほうが、いいことのほうが多いと思ったが、そうではなかった。さわり心地だろうか、そのもののもつ雰囲気、来歴なのだろうか、破片たちが、しずかに言葉にならない言葉をもっていた。無言で、けれども、そこには豊饒なものが、秘められていた。それがわたしにはわからないだけで、破片たちは雄弁だった。その気配だけがわかった、というべきか。それは写真では伝わりにくい言葉だった。
 土器片が手もとにきてからは、もうネットオークションへの憑き物は落ちた。たまにそれでも、覗くし、いいなと思うものもあるのだけれど、もう家にあるからなと思ってしまう。
 手にとって、たまに触る。さわらないまでも、目でみて、気配を感じる。わたしは焼き物とか、骨董のことは判らないけれど、こうした気持ちと似ているのだろうかと類推してみる。土の感触が、いとしい。深呼吸をしたような気になる。あるいはそれは、生き物のようでもあった。家に、縄文土器のかけらが居る。在るというよりも、居るという言葉がしっくりするほど、生き物に似ているのだ。なんとなく猫が丸まって寝ている感じ。自立した、飼われているのではない、たまたま、わたしのところで、休んでいるだけの存在。わたしはその言葉はわからない。わからないけれど、なんとなく、通じるものがある。そんな感覚が、猫を思わせるのかもしれない。
 たぶん、わたしは勝手なことを書いているのだろう。縄文土器のかけらは、こんな言葉では語りつくせないほどの、なにかを秘めているはずだから。
 もう、発売されてから、けっこう日が経つけれど、十二月になると、毎年のように『日経おとなのOFF』一月号を購入している。来年度の美術展のスケジュールがわかるからだ。今号のそれによると、来年二〇一八年七月三日〜九月二日、上野の東京国立博物館で[縄文展]が開催されるという。記事のなかで、東京国立博物館の主任研究員の品川欣也さんという方が、「機能性など二の次で、装飾に過剰に注力している土器が多い。文字のない時代だけに、装飾に自らが暮らす集落や地域の価値観を込め、表現したのかもしれません」と、書いていたのが、目にとまった。文字のない時代の表現手段。だから、しみるのだと思ったが、なぜなのかはやはり言えない。表現という文字に、詩的なものを、あてはめてみる。表現の可能性が、深みへ誘う。それは土の息吹に託された、過去の記憶だ。

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 年があけようとしている。
01:35:38 - umikyon - No comments

2017-12-20

ボロは儚く、華やかで ─世田谷・ボロ市

 世田谷のボロ市に行ってきた。実は、ここ数年、毎年のように出かけている。
 ボロ市は、毎年、十二月十五日、十六日、一月十五日、十六日に開催。元は一五七八年(天正六年)の楽市に端を発したもの。現在は東京都の無形民俗文化財にも指定されている。古着やボロ布が沢山売られていたことから「ボロ市」の名が付いたといわれているが、今は日用品・書籍・骨董・玩具・食品・装身具・植木市など様々な店が並ぶ。露店数は約七〇〇店。場所は世田谷一丁目、ボロ市通り付近。中心に代官屋敷がある。
 開催日が十五日・十六日と固定されているのが、昔の市が開かれたことを物語るようで、どこか過去に想いを馳せる。この想いは、満月の夜にたまに重なる。十五夜お月さまの明るい晩だ。こんなに明るかったから、夜も市を開いていたのかしら。
 少し、調べてみたら、最初は毎月一と六のつく月六日、開かれた市が、時代とともに毎月十六日だけとなり、さらに年の瀬、十二月十六日だけになったという。明治にはいり、太陽暦採用により、もとの十二月十六日は、おおよそ一月十五日ぐらいになるので、今のように年二回になったとか。十五日、十六日と二日ずつ開催するのは、雨などで残った品物を翌日に売ったことからで、明治三十年代には、今の開催が定着したとあった。
 いつからだったか。子供の頃だったかもしれない。世田谷に住んでいたから、なんとなく名前は知っていた。なつかしい名前のひとつだったのかもしれない。違うかもしれない。子供の時に世田谷に住んでいたから、大人になって、世田谷から離れて後に知ったボロ市という名前に、なにか郷愁を、愛着を、感じたのかもしれない。市とか、ボロとか。ボロ市という名前は、それでなくとも、なにか、境界をおもわせ、ひかれる名前だ。そこにわたしは自身の幼年をかぶせ、愛着を重ねていったのかもしれない。

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 また、世田谷の地に舞い戻って、十年くらいだろうか。この間に、何回、ボロ市にいっただろう。日付が十五・十六日と固定されている関係で、こちらが休みの土曜日か日曜日にその日付が重なるときに出かけている。週は七日なので、意外と四日間のうち、一日は行ける日が出来てくれて、結構毎年のように出かけられている。今年は十二月十六日に出かけてきた。
 客としては、あまりいい客ではないだろう。ただ、賑わいを感じるだけ、売っているものを見るだけで、ほとんど買わないで気がすんでしまう。いつもは人ごみが嫌いだというのに、この日だけは別だ。もっともあまり人が多いと、店に近づけないことがあるので、ほどほどがいいが、それはわがままだろうか。賑わいのなかで、骨董や、古い書籍、特売の食品、お菓子、化粧品、古着、包丁、貴金属、石、時計、縁日的、駄菓子屋的な玩具、屋台、植木に盆栽、ごたまぜの商品たちを見てまわる。陶器、着物、あやしげな健康器具、刀の鍔、きいちのぬり絵、浮世絵、神棚、唐辛子、バッグにベルト、戦前の教科書、万年筆、古いガラス壜に勾玉。
 いつも午後に出かける。日がまだ高いが、帰るのは夕方、日が暮れる頃だ。夜になると、もっと祭りっぽくなるのだろうか。そう、いつも後ろ髪を引かれるが、このあたりで帰るのも、またどこかに余韻が残されるようで、いいのだと思う。
 今年は、古着でもなんでもない、豹柄の帽子を買った。買ってすぐ、かぶって街を練り歩いた。代官屋敷前に、くす玉が架かっていた。これは、やはり毎年夏に開催される「せたがやホタル祭りとサギ草市」で、同じ場所で架かっていたものに似てるなあと微笑む。代官屋敷の庭では、ホタルが舞う特設ドームがあった場所に、今回はせたがや土産などの出店が連なっている。
 祭りに華やぐ心というのは、どうしていつも、どこか淋しいのだろうか。それは夕暮れの美しさに魅入られる心に似ている。あるいはアセチレンランプ、セロファン、こうした言葉に惹かれることにも似ている。それらは儚い郷愁を感じさせる。こんなに賑やかで、華やかなのに。
 祭りも夕暮れの華やかさも、すぐに終わってしまう。だからこそ、美しいのか。アセチレンランプ、セロファン、実はわたしももうよくは知らない言葉なのだ、けれども、夜店のイメージをまとったものとして、懐かしく、やさしく灯っている。この灯は、こんなものたちにも光をあてる。夜店のひよこ、ミドリガメ、色々と問題があったのかもしれないが、それでも、子供のわたしには、かわいらしい、生き物との出会いの場でもあったのだ。
 りんご飴、チョコバナナ、スーパーボールすくい。これらの出店を見て、ふと、それらがよぎったかもしれない。
 古着屋さんで、おそらくマネキンの頭にウルトラマンとウルトラセブンのマスクをかぶせていたのに出くわした。二人のヒーローはどちらも下に傾きすぎ、俯いてみえて、とても悲しげだった。マスクの汚れが目だっていたこともあって、余計に哀愁をそそるのだった。ヒーローとして、地球を守ることに疲れたのだろうか。あるいは、これが祭りにふと見えてしまった本音なのだろうか。
 いつかのボロ市で、わたしのすきなルネ・ラリックのアンティークのガラス製品を発見したことがあった。乱雑に、ほかのコップやらグラスと一緒に並んでいたのに、値段はやはり数万円と高かったっけ。手が出せなかったけれど、眼福だった。今年もそんな出会いはないかしらと、つい、ガラス製品たちを探してしまうが、特にはなかった。ただ、古い陶片をペンダントトップに加工したものが売られていたのを、興味深く思った。縄文土器はないのかしらと、つい、縄文時代に惹かれる身としては思ってしまうが、それもなく。いや、だからどうというのではない。そうしたものたちが、ないかしらと思って探すのも、楽しいと言いたかったのだ。あれば幸い、なければないで、もちろん。だって、ここには、ほかに、たくさんのおもいがけない出会いがあるのだから。
 行きも帰りもバスだった。バス一本で、市という、不思議な場へ行ける。この敷居の低さも魅惑的だ。日常と非日常が繋がっている。あるいは儚さが、近しいことが。夕暮れだって、また明日になれば、会えるかもしれないのだ。
 いや、この一日、一日こそが、儚いのかもしれないが…。十六日現在、月は満月からだいぶ欠けて、有明月、ほとんど新月に近い細さだった。また、あと半分、と数えていいのだろうか。あと半月と少しで満月だ。夜店もどこかできっと立つ。

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2017-12-10

上野の森の秋の終わり

 やっと。重い腰をあげて、展覧会にいってきた。期限付きの券で、期日が迫っていたから。「北斎とジャポニズム」(二〇一七年十月二一日〜二〇一八年一月二八日)へ。場所は好きな上野の国立西洋美術館。
 美術館の外には、世界遺産に登録されたからか、あきらかに展覧会目的ではなく、建物をみにきている観光客風の人たちが多かった。外国人、そしてバスツアーらしき日本人の団体。ロダンの《考える人》の像のあたりでは、色づいた木々が目についた。特に黄葉した銀杏が、まぶしいぐらいだ。

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 重い腰。先日も書いたけれど、美術に関する興味が薄れてきている、そのせいばかりではなかったのかもしれない。
 大好きな北斎なのに、展覧会は、面白くなかった。平日の午後なのに、会場はかなり混んでいた。いや、そのせいでもなかったろう。混んでいても、かつてなら、そこから、展示された作品たちから、何かを受け取っていたはずだ。
 わたしのせいなのだろう。だが、北斎のことはそれでも好きなのだと思う。彼に対するがっかりはなかった。いいがかりなのかもしれないけれど、展示された北斎の浮世絵、『北斎漫画』などの絵本は、どれも版の状態が悪いような気がした。ただ、西洋の画家や彫刻家、工芸家たちが参考にした、影響された、その証拠のように付随されて展示されているように感じられた。なにかメインは北斎ではなく、影響された側であるかのように感じてしまった。なかには、どれが北斎っぽいのか、わからない、こじつけに思えるものもあった。
 海外のこんな人たちにインスピレーションを与えた、だから、北斎はすごいんだ、みたいな本末転倒を垣間見てしまって、それも展覧会に影を落としてしまったのかもしれない。会場内で、〈これは、すみだ北斎美術館以来の、感動のなさだなあ〉と心の中でつぶやいていた。そのせいか、今まですきだと思っていたルドン、ガレ、モネの作品をみても、素通りしてしまった。北斎に対するそれと同じように、彼らの作品にたいするわたしのシンパシーがなくなったからではなかっただろう。会場内では、一瞬それを疑ったが。展覧会自体がわたしにそぐわなかったので、それで拒否反応を起こしてしまったのだ。

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 そう気付いたのは、常設展にいったときだ。こちらも、入る前は、もはやわたしには絵画への興味がうすれてしまったのではないか、そう懸念がもたげてきていて、入らないで帰ろうとすら思った。けれど、この常設、特に松方コレクションは、若い頃から、好きというか、影響をうけてきたので、そのことに敬意を表して、入ることにした。結果、入ってよかった。
 常設はどこの美術館でも、たいていそうだが、企画展がどれほど混んでいようが、空いていることが多い。こちらも、さきほどの喧騒がうそのようで、静かで、人もまばらだった。それもあって、心の中で、一息ついたのかもしれない。ほっとして、絵たちを見た。最初は十四世紀〜十六世紀の後期ゴシック絵画、ルネサンス美術のあたりの、宗教的な一連の絵。感動したというほどではないが、絵のなかの祈りの真摯さが、響いてきた。それは過去から届けられた温もりのようだった。バロック、ロココ、そして十九世紀〜二十世紀。さきほどの企画展にも展示されていた画家たち、ゴッホ、モネなどの作品もあった。とくにモネ。あれはなんだったのだろう。うっかり、名前を忘れてしまった、というか、覚えてこなかったのだけれど、絵の中の植物たち、たとえばごつごつとした枝などが、生き生きとしていて、それが目にやさしかった。彼は光を捉える画家だと思っていたけれど、植物の瞬間を捉える画家でもあったのだと今更思う。あれほどジヴェルニーの自分の庭で植物を育てていたのだもの。
 美術館から外に出ると、行きにも見たが、まっさかりの紅葉が目にしみた。上野に来たついでに、東京国立博物館へ、ちょっと足をのばす。ミュージアムショップだけ覗きたかったのだ。博物館内のそれは、入場券が必要だが、正門外にも小さな店がある。そこ目当てで。
 国立西洋美術館から、東京国立博物館へ向かう途中、噴水がある。ちょうど吹き出していて、だいぶ傾いた午後の陽をあびて、生き物のように動いているのに、感じるものがあった。水しぶきと、陽射しで、波紋がきらきらしている。冬の噴水も、いいものだと思う。夏よりもしみて感じるのはなぜなのだろう。夏は涼しげだし、季節に合っている。冬はちがう。季節には合っていない。あるいはその違和が、心になにかを訴えてくるのかもしれない。
 美術館に行くのがおっくうだった理由もわかった。美術に興味が薄れているだけではなく、この展覧会に対しては、別の理由があったのだろう。
 でも、やはり、来てよかった。吹き出す水の輝きを眺め、真黄色な銀杏の瞬間を横切りながら、心がすこし、優しくなっていた。

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09:18:30 - umikyon - No comments

2017-11-26

日々のかたわらでー考古資料展(玉川大学教育博物館)

 このごろ、美術などの展覧会への興味が薄れている気がする。それがいいことなのか、わるいことなのか。実は前売りを買ってある展覧会があるのだけれど、まだ出かけていない。電車に乗るのが、駅まで行くのですら、おっくうだと思ってしまう。ほかに、身体がつかれているから、○○をやらないといけないとか、行かないでいる理由を自分で探しているのは、もはや興味がないからだろう。こんなとき、なぜ言い訳の理由を考えてしまうのか、ふと自問してしまう。わたしはだれに弁解しようとしているのだろう。たぶん自分だ。そのことも知っているので、言い訳を考えているのがすこし変だといつも思う。
 展覧会へあまり行かなくなったことは、画家たちへの愛が薄れているからということではない。たんにわたしのなかで、美しいものへの希求の対象が、移ってきたのかもしれない。
 わたしの好む言葉でいうと、非日常への欲求が、身近なところに向けられてきた、ということ。展覧会は、まさに非日常だった。なにせ美術館、美の館なのだから。それは、境界的にいえば、くっきりと線引きされた、その意味ではわかりやすい世間と切り離された場所だ。わたしは長らく、そこまでゆかないと、非日常をさがせなかったのかもしれないし、あるいは明確な線引きが必要だったのかもしれない。ここから一歩入れば、あなたの大好きで、あなたがいるべき場所である、あなたとほんとうは、ともにある非日常的世界がくりひろげられているのだと、太鼓判がほしかったのかもしれない。
 だが、ほんとうは、非日常は、わたしとともに、常にあるのだ。美術館に収められた、あるいは企画展で展示されている作品を造った作家たちにも、日常と非日常があるように。彼らが日常に接しながら作品を造りあげていったように。
 数カ月前の長雨の影響から水量を増していた川や湧水が、また元の水嵩に戻ってきている、いや、冬場の少ない水量に近くなってきている、そんな川を眺めるのが、心にしみる。
 すんでゆく冷たい空気のなか、十一月になり、うちのあたりからも、また遠い富士の山が見えるようになった。春から夏にかけては、ほとんど見えないのだが。それを西の方角、早くなった日没の頃、夕焼けの空のもとで、見るのが、どこかせつない。
 ヤツデのしろい、つぶつぶとした花に触る。それがなぜかうれしい。子供の頃、家にあったものなので、なつかしさを感じているのかもしれない。晩秋の今、花のすくない季節に、咲くことに、感謝しているのかもしれない、それらが重なって、重なって、うれしさ、幸福感に拍車をかけているのだろうか。
 桜は、春に花を、秋に葉を紅葉させ、春と秋、二度咲いているようだと、この間書いた。その秋の満開の葉たちは、春の花よりも、期間が長い。二週間ほど前に満開の葉だと思ったのが、まだ持ちこたえている。まだ紅葉。ぎりぎりだけれど。このあと、まもなく葉は散ってしまうのだろう。けれども、あまりに咲く時期の短い花だからこそ、葉たちはながくその姿を保っているのかしらと、つい思ってしまう。一度目は、春の咲くそれは短い、だからこそ二度目、秋の満開は、と。
 今のわたしは、こうしたことたちに、どこか、美しさをいただいている気がしている。それも、展覧会にゆくことに興をうしないつつある理由でもあるだろう。けれども、そこにはわたしの怠惰な気持ちも混じっているのだが。面倒だとか、そうした気持ちを奮い立たせなければ、美しいものへ、出逢うことが出来ない、という面も確かにあるのだから。





 では、なにか、今見れる展覧会で、行きたいようなものはないかしら。ネットで検索する。これは少し便利だと思う。デパートで行う展覧会などは載っていなかったりすることが多いが、かなりの美術館のスケジュールが判るようになっているサイトがある。前売りを買っているもののほかに、二つあった。ひとつは、ルネ・ラリックだ。「ルネ・ラリックの香水瓶」というものが、渋谷の松濤美術館で開催されるとあった(二〇一七年十二月十二日〜二〇一八年一月二十八日)。ラリックは、随分前から好きな作家だ。わたしのなかでは創成期に近い。だからだろうか。おおざっぱにいえば、彼もまた日常のなかに非日常を現出させた、というより、それらが共存していることを、華麗に表現してくれた、最初の作家だったから、ということかもしれない。皿、花瓶、香水瓶、カーマスコット、シャンデリア、アクセサリー。これらは美しいけれど、美術品ではないから。それはまさに日用品と美術品の蜜月の場に置かれた大切な作品たちだ。だからこそ、今のわたしにも、彼の展覧会なら、行きたい、と思わせてくれるのだろう。
 もうひとつは、「二〇一七年度企画展 考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」(二〇一七年十月十六日〜十二月十七日)、玉川大学教育博物館のものだ。
 こちらは、実は知ってすぐの土曜日に、出かけてきた。このフットワークの軽さはなんなのだろう。もっともつれあいに車で連れていってもらったのだけれど。
 玉川大学教育博物館は、これで三回目。前の二回は電車で行ったが、どちらもイコン画に関するものだった。「玉川学園創立八十五周年記念特別展 東と西のキリスト教美術 ─イコン・西洋絵画コレクションから」(二〇一四年)、「イコン−聖像画の世界展」(二〇〇九年)。イコン画への愛着も、ラリックを好きになった頃と、ほぼ同じぐらいだろう、なぜかイコン画の、平面的な、素朴な筆遣いに、特に聖母マリアの慈愛に満ちた表情、しぐさなどに昔から心惹かれるのだった。これもまた、勝手に共通点をみだそうとすれば、日常と非日常のつながり、祈りと日々的なものに、触れられた、その狭間にイコン画があると、感じたからだろうか。
 そして、今回の「考古資料展」だ。展覧会のチラシには、深鉢の縄文土器の写真が掲載されている。
 HPやチラシには、「玉川学園が所在する町田市域は、一九六〇年代からベッドタウン化が始まり、それに伴い都心の大学が主体となって遺跡調査も行われるようになりました。(中略)玉川学園考古学研究会では、縄文時代中期の集落・後期の墓域・晩期の環状積石(ストーンサークル)である田端(たばた)遺跡(東京都指定史跡)(一九六八─六九年調査)や、土器捨て場からユニークな形状をしたものを含め多数の土器が発見された御嶽堂(みたけどう)遺跡(一九六九─七〇年調査)など、重要な遺跡の発掘調査を立て続けに手掛けていきました。
この度、当時の関係者の協力を得て、田端・御嶽堂両遺跡の調査資料について、改めて整理を行い発掘調査報告書を刊行することができました。これを記念して、両遺跡の出土品の公開を中心に、調査を担当した考古学研究会の活動の軌跡をたどり、さらに玉川学園における考古学研究の歩みや、研究会を生み出した自由研究での取り組みを紹介いたします。」
 とある。
 二〇一四年の展覧会の時に、常設展示で、これらの一部をみて、驚いたことがあった。こんな身近にあることへの、嬉しい驚き。あるいはイコン画を見に来ていたのに、思いがけず出逢えたことへの喜び。
 わたしは学術的なことはほとんど知らない、ただ、無責任に縄文土器や土偶に惹かれているだけにすぎない。土器ならば、たぶん縄文時代中期、五五〇〇年〜四五〇〇年前のものあたり。
 チラシにあった縄文土器も、中期のものだ。中期だとわかったからではないが、その紋様、形状に、心がざわついた。それで今回も行くことにしたのだった。
 正確には、御嶽堂遺跡出土深鉢(縄文時代中期・新道式)とある。
 新道式とは、知らなくて、後で調べたのだけれど、「あらみちしき」と読む。器壁が後期のものに比べると厚手で、三角押文と三角区画を特徴とする。先日出かけた加曽利貝塚の加曽利式が中期後半で、新道式は中期のなかでも前半なので、その前のもの。
 火焔形土器も中期のものだが、あちらはもっと、美しさがあふれ、どこか完成した作品のように感じられる。対して、ここで見たものは、もうすこし、親しみやすい。文様などは、ひとつの土器のなかに、いろいろと形がちがっていて、それが散漫になることなく、まとまった美しさをかもしていたけれど、どこか素朴な、土の気配と人の温もりのようなものが感じられた。これはこちらの勝手な感想である。わたしの心のもちようのせいだろう。だが、こうした土器が、いまのわたしには必要だった。こんなものたちと出逢えることが心にさわるように、やさしかった。
 イコン画とラリックと縄文土器。これらに共通点があるような気がした。どれも日常に密接につながった美という点で。だからというわけではないだろうが、玉川大学教育博物館で、イコン画と考古資料展を開催しているのも、どこか象徴的だと思ってしまったり。縄文土器は、調理用に使われたと思われるが、祭祀にも使われていたようだ。日常がもっと、非日常と接していたのだと、つい思ってしまう。祈りと呪術的な行為と生活が、密接につながっていたのではなかったかと。わたしがこれらに惹かれるのは、だからなのだろう。美と生活。ことばが日常と美のなかで発せられること。
 縄文土器を見ることができ、それを思い出す術として、チラシをもらったので、それだけで満足して、企画展の図録は購入しなかった。帰り道、正門付近で、噴水のある池を見た。行きにも通ったのだが、この時も不思議に思った。前回、二回きているとき、見なかったものだ。水が好きなわたしが、見落とすはずがない。方向音痴だったり、道をおぼえるのが苦手なので、たしかなことは言えないが、どうも前回と来方が違うようだ。おそらく前は正門からはいってこなかったのだ。だから気付かなかったのだ。ともあれ、またここで、あらたなことがわかってよかった。池は玉川池というらしい。噴水があがっていたが、元々ここにあった池で、鶴見川の水源地のひとつとなっている。池と噴水、これもまた生活と美の融合ではなかったかと、逆光のなかで、かがやく水をみながら、ぼんやり思う。

21:36:35 - umikyon - No comments

2017-11-15

冷たい水が、温かい。ショベルカーとダンス



 昨日、家の近くの川岸を歩いていた。仕事中だった。わたしの片側、左側で、空気がゆれたような気がした。少しの得体のしれなさが、不安というよりも、謎めいて、めまいすれすれのなにかをもたらした。ほんの数秒。そして、左側で、ゴゴゴというちいさな音。砂利道をゆくショベルカー、だいぶ傾いた午後の陽射しのなか、そのショベルカーの影が、わたしにかぶさってきたというか、よぎったのだった。これらがわかった、というよりもいちどきにわたしにはいってきて、それから、理解したのも、やはり刹那だった。ショベルカーの影が動いたのか、わたしが動いたのか。また理解したからか、しないときだったか、なにかにくるまれたような気がした。日向であるとか、影であるとか、そうしたものたち。そのすぐ後、こんどはショベルカーの影だと完全にわかったときだ、こんどはまるでショベルカーの影とダンスでもしているみたいだと思った。影がわたしの左側にいてくれて、わたしをリードしてくれて。この想像もやはり一瞬だ。空気がゆらいでから、合計しても何秒にもならないだろう。けれども時間が長かった。そしてとても、久しぶりに幸せだと思った。めずらしく、メモをとった。
「刹那のゆらぎ。ショベルカーの影、かぶさって、日なたでダンスしているみたいだと思った。そのとき久しぶりに満ちていた」。

 八月から十月の間、雨が多かったと思う。職場的な環境が変化したこともあり、また長雨のために、すこし心が塞いでいた。天気が悪いと心のなかに雲がうまれたようになる。自然によって生かされているのだなとぼんやりと思う。
 その長雨が止んで、家の近くの崖の湧水たち。気付いてみると、水量が増していた。雨が止んでまもない頃は、湧水が道に流れ出すほどだった。この場所は、どんなときでも水が涸れることがなく、大好きな場所なのだが、さらに水量が豊かになっていて、それがうれしかった。



 このことに気付いたのは、十月の終わりだったろう。今は、だいぶ落ち着いている。もう道に水が流れだしてはいない。秋のおわり、ヒヨドリがギイギイ鳴くなか、葉やドングリが落ちている。冬でも青い葉をつけるジャノヒゲたちのなかを、湧水が流れる。住宅地のなかで、崖だから、緑が残った。ありがたいことだ。木々と水。一歩離れると、道があり、マンションがあり、スーパーがある。この異空間がどんなにか、好きだったか。水量が多くなった水に、誘われるように思い起こされるのだった。
 さらに、家の近所。以前にも書いたけれど、こちらは、ほんとうに、もう家のすぐ目と鼻の先。こんな長雨の後にだけ、現れる小川と、それに由来した湧水池がある。家の窓から、池のほうは、水は見えないけれど、池を覆っている草などは見えるぐらい。そちらもこの頃は水が流れ、そして池(正確には泉かもしれない)に水が湛えられてあるのがうれしい。



 わたしはなぜこんなに水が好きなのか。ごく幼年の頃、おぼえているかぎりでは、三歳ぐらいから、水に惹かれていた。家の近くには、今では暗渠となってしまった、コンクリートで護岸された小さな川があるだけで、海も遠かった。なのになぜなのだろう。羊水の記憶? まさか。ありえない話ではないけれど。
 生まれて六歳ぐらいまでいたのは世田谷だった。今住んでいるのもそうだが、こちらはうれしい偶然で、生まれたところに戻ってきた感じ。
 生地のほうは、わたし個人の感覚としては水に恵まれているとはいえなかったが(ドブ川しかなかったから)、当時は井戸水があった。蛇口から、井戸水と水道水、両方が蛇口から流れていたし、表には、手押し式のポンプがあった。今もあのあたりの神社などでは、井戸水が使われていたと記憶する。そして、今住んでいる場所付近は、先に書いたがまだ湧水が何か所かある。井戸も、あちこちにあの、なつかしい手押しポンプがある。使われていないものも多そうだが、そのなかで、ある時、新しいものを見つけてみとれていたら、「このあいだ、掘ったんですよ、検査してもらってないんで、飲めないんですけどね」と、水を出してくれたことがあった。
 なぜ、水に惹かれるのだろう。今住んでいるところは、あの幻の川以外に、野川という川が近くに流れている。自然と共存するよう、ぎりぎりの護岸対策が施されているので、風情がある。あまりに日々、慣れ親しんでいるので、幻惑される、ということはないけれど、たまに、ふっと、なんて恵まれているのだろうと思うことがある。川の近くにいることが。
 ショベルカーとダンスしたのも、その野川の岸辺だった。今、東名ジャンクション、東京外かく環状道路の工事中で、ショベルカーもその作業で使われていたものだ。徐々に川の岸辺の空がせまくなって、なにかロボットみたいな巨大な建物が姿をみせはじめた。川岸も景色が変わってゆく。あのあたりは、緑が深い、こんもりした森になっていたのだが。

 桜が、紅葉して色づいてきた。桜は二度花を咲かせるのだと、この時期になるといつも思う。満開に近い紅葉した桜。春の満開した桜の姿が重なる。



 なぜか、久世光彦の本にまた戻ってきてしまう。たしか違う作者の本を読んでいた筈なのだが。そうだ、書くもののために、資料的に夏目漱石や澁澤龍彦を再読していたのだ。澁澤のほうは、家のどこかにあるはずなのだが、見当たらなかったので、ネットで中古で買った。そのときについでに久世光彦のエッセイも買ったのだ。それがきっかけだった。さらに単行本を、図書館で借りた。『泰西からの手紙』(文藝春秋)。泰西絵画とそれにまつわる作者のエッセイ。ここでは、詩や小説についての言及も多い。なぜ久世光彦の文章に惹かれるのだろう。おそらく郷愁のようなものが関係している。彼の文章は懐かしい。
「五歳の私の記憶は、誰にも侵されない私だけの幻であり、人がすべてを奪われた後にも、たった一つ見ることができるのは、その人の《幻》である」
「色使いは《嘘のように》鮮明な原色だった。それが私たちに遠い遥かな《泰西》を想わせたに違いない。遠すぎるということが《幻》ならば、美し過ぎることもまた《幻》だったのである」
 「こうした絵をぼんやり眺めていると、《美しい》ということが、何かとても簡単なことのように思えてくる。水は冷たいとか、ほんとうの空は青いとか、人はいつかいなくなるとか──そんな五歳の子供でも知っているような、わかり易くて大らかなものに違いないのだ」
 ならば、わたしのまわりの、これらも、まぼろしであり、美しいものなのだ。水がながれ、紅葉した葉がおちて。

(結局『泰西からの手紙』は、家の住人になってもらうことにした。数日前、ネットで注文した。)

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2017-11-05

イボキサゴ。名前が過去たちを繋ぐ。(加曽利貝塚 縄文秋まつり)

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 ひと月ここをあけてしまった。ちょうどこの期間、締切のある原稿を書くことがたて続けにあった。たぶん、ほとんどそれが主な原因なのだが、なにか、書かなかったことに罪悪感のようなものが生じ始めてきた。これからは、なるべく、空けることがないようにしよう。
 ふとしたきっかけで、千葉で縄文祭りが開催されると知った。調べてみると、加曽利貝塚公園内で十一月三日〜五日にかけて行われるらしい。三日の文化の日に出かけてきた。 正確には縄文秋まつり。
 加曽利貝塚は、千葉市にある世界でも最大規模の貝塚で、標式遺跡としても知られる。公園内は、直径一三〇メートルの環になった北貝塚(一九七一年国史跡認定)と、長径約一七〇メートルの馬蹄形をした南貝塚(一九七七年国史跡認定)からなり、史跡公園として整備・保存されている。また今年二〇一七年に、国の特別史跡に指定されたそうだ。縄文式土器などを見ていると、加曽利E式、加曽利B式というものよくみるが、その指標となっている土器が出土されている。
 ちなみに加曽利E式は、北貝塚のE地点出土のもので、縄文中期後半(約五〇〇〇年前)、口が大きく内弯する、深鉢形が主体。加曽利B式は南貝塚B地点出土のもので、縄文後期後半(約三五〇〇年前)、側面が丸みをおびたり、浅鉢になったり、用途によって器形に違いが見られるようになっている。
 と、もっともらしく書いているけれど、はずかしながら、加曽利E式、B式という言葉は聞いたことがあったが、この貝塚のことは、知らなかった。いって、はじめてわかったこと。
 すこし先走りすぎた。
 十一月三日文化の日。連日お祭りは朝十時からだという。だが、車で行く関係で、その時間について、駐車できるか、不安だった。公園内の加曽利貝塚博物館の開館が九時からだというので、それにあわせるように、早めに家を出た。めずらしく早朝バイトは休んで。
 レインボーブリッジなどを通ってきたので、海が見えた。海を見るのは久しぶり。おおむねの晴れもうれしかった。このごろ、天気がわるかったから。

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 祝日の朝だったからか、道は若干混んでいたが、九時二十分ぐらいには、目的地についたと思う。車も停めることができた。
 思っていたよりも広くて、すこし驚く。一面の森というか、木々が目立つ里山風景。駐車場近くの正門から、博物館にかけて、お祭りの屋台テントが連なっていたが、まだ準備中。むかって南の南貝塚の方に復元集落や、古民家がある。お祭りはおもにこれらの場所で行われる。
 最初に博物館へ。急いでみてまわったので、あまり感想が書けない。だが出土した土器のかけらたちにさわれることに驚いた。土器にさわるのははじめてだ。おもっていたよりも感動はなかった。だが懐かしかった。この懐かしさから、おそらく徐々になにかがわたしに生じるのだろう。ざらざらとする土というか、堅い感触。わたしはしばらくそれでも指でもてあそぶようにして、その場にいた学芸員さんの話をききながら、そこにいた。そう、学芸員さんがなぜか急に現れ、色々解説してくれだしたのだ。この辺ではとれなかったヒスイや黒曜石の出土が、各地方との交易を示唆しているなど。東京湾の海流は、三浦半島から時計周りに千葉へ海岸沿いに流れているので、砂がはこばれ、富津あたりが遠浅になったとか。そのなかで、イボキサゴという貝の話が出てきた。直径一センチから二センチほどの小さな巻貝。加曽利貝塚でも大量に出土されているので、博物館内にも展示されている。加曽利貝塚は今もそうだが当時も海から五キロは離れているそうだ。そんなところで、なぜイボキサゴが大量に出土されたのか? 縄文人はイボキサゴをどうしていたのか? 諸説あるそうだが、塩分や甘味などを添加するのが難しかった当時、うまみダシ的に使っていたのではないか、と語っていた。そういえば、宍道湖にいったとき、蜆たちが、ダシとして、売られていたっけ。詳細はわからないが、素人ながら、そのうまみダシ説がしっくりするような気がした。
 イボキサゴは、今では東京湾では水質汚染などで、かなり減ってしまっているそうだが、干潟よりももうすこし深いところ、木更津の盤洲干潟などでは、採れるらしい。江戸時代は、この貝でおはじきをしていた…。
 ところで、なぜ、わたしがこれほどイボキサゴにくらいついているのかといえば、ここで見るのがはじめてではないから、それどころか、知らずに食べていたこともあるからだ。
 じつは、この千葉の遠浅、富津あたりで、何回か、潮干狩りをしたことがある。そのときにアサリにまじって、ごくまれにイボキサゴを採ったことがあったのだった。きれいな小さな巻貝だなと思ったが、当時、名前を知らなかった。知らないながら、美しさに惹かれて、採ってきたものだった。そうして帰宅後、アサリと一緒に調理して頂いた。つまようじなどでほじくりださないといけないが、小さいけれど、濃厚な海の味がした。そして、貝殻は干して取っておいた。今も飾ってある。だが、名前をしらなかった。それが、わかった。イボキサゴ。名前がわかるということは、わたしにとって、特別な作用をする。もう、これからは名前で呼べる。それはわたしとちいさな巻貝をつなぐ糸のようになる。糸がもっと具体性を帯びる。これからはイボキサゴといえば、縄文人が食した食べ物であると同時に、潮干狩りで大切に思っていた貝として、思い出すだろう。名前はこんなにも、わたしのまわりを、きらきらとして見せてくれる。
 また話が飛んでしまうが、復元集落のあたりで、イボキサゴを使ったアクセサリー作り体験のコーナーがあったり、販売をしていた。体験はおもに子どもむけのようだったから、恥ずかしくて参加しなかったが、記念にアクセサリーを買った。
 それと、この日は、祭りの会場、古民家のうらあたりで、縄文式土器で調理したイボキサゴスープの無料配布があった。十二時からだったので、ちょっと時間調整して、並んで頂いた。正直、味はいまいちだったが(これは作り手の問題だと思う…ごめんなさい)、食べれてよかった。さらに、イボキサゴを炒ったものを食べることができたが、こちらはおいしかった。
 イボキサゴが出てきたので、ちょっと興奮して、時系列をみだしてしまった。博物館で学芸員さんのお話しを聞いたあと、お祭り会場へ。十時から、復元集落のほうで縄文式土器で作ったゆで卵のふるまいがあったので、そちらへ。
 復元された竪穴式住居が点在している。火起こし体験、弓矢体験、縄文服の試着、例のイボキサゴのアクセサリー作りなども行われ、賑わっている。子どもが多いのが何よりだ。
 復元住居が点在している原っぱのまわりは森になっている。ドングリのできるクヌギやコナラ、マテバシイ、スダジイなど、縄文時代に生えていた木を選んで植えているようだ。後で博物館で頂いた資料をみると野草の類も豊富らしい。アマドコロ、ヒトリシズカ、オトギリソウ、クララ、リンドウ、ニオイタチツボスミレ…。森には、季節柄、ドングリの類が沢山落ちている。また、復元住居のなかで、炒ったドングリを食べさせて頂いた。おいしい木の実、ナッツの類だった。
 ところで、こうした遺跡公園というのは、独特のたたずまいがある。どこか神聖な雰囲気なのだ。植わっている木たちのせいか、それともきっと他の理由なのだが、古代からの風のようなものが感じられる。この地で、かつて彼らが生きていた。たとえばどこかの古墳にいったときの、静けさ、あるいは奈良の明日香、それとも違う。けれども、なにか共通した、時を温存した空気のようなものが、あたりから拡がっている。とくに加曽利貝塚公園で、似ている雰囲気として思い浮かべたのは、長野県の尖石遺跡だった。今から約五千年前から三千年前に栄えた遺跡で、国宝になった土偶「縄文のビーナス」「仮面の女神」が出土されたところ。おごそかで、森が神秘にみちていた。とはいえ、近寄りがたい雰囲気というのは、すこしちがう。神秘をたたえつつ、どこか人をよせつける、人懐こさがあるというか、やさしさが感じられる。そんな時の累積で、独特の雰囲気をかもしている、それらの気配、匂いのようなものが、この加曽利貝塚と通じるような気がしたのだった。そういえばここでは、原っぱになっているところで、レジャーシートを敷いて、ピクニック的なことをしている家族があった。おだやかで、連綿と。

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 十時からのゆで卵のふるまい。こちらも何とか頂けた。縄文時代は鶏はいなかったので、雰囲気だけ…。だが、不思議と懐かしい味がした。
 さらに北貝塚のほうで、断面を見れる施設、住居跡が見れる施設があったので観覧した。断面には、またイボキサゴたち。
 こんなふうに、復元住居、博物館、古民家のあたりで遊んでから、屋台ブースにいったので、けっこう品物が売り切れてしまっていた。気付いたら午後一時近い。四時間近くいたことになる。名残惜しかったが、お腹もすいてきたので、帰ることにした。おみやげは貝塚博物館のパンフレット群、そしてイボキサゴのアクセサリー、何の木だろうか。ドングリのなる木のコースター、おちていたドングリ、取ってきた数枚の写真。いや、イボキサゴと言う名前、加曽利式、加曽利貝塚という名前たち、盛りだくさんだ。

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08:55:13 - umikyon - No comments

2017-10-05

そうして対比だと、秋が言う─映画『ゴッド・ファーザー』

 だいぶ秋らしくなってきた。ムラサキシキブ(コムラサキ)の実が、緑だったのが、もう紫に変化している。まだ早いように思えるけれど、ホトトギスがもう咲いていた。それに、去年は気付かなかったのだけれど、丘陵になったところにはえるツルボの花を見た。こちらは九月ぐらいの花と記憶していた。ブラシみたいな紫のかわいらしい花たちが、地面に突き刺さったように咲いている。



 先日『ゴッドファーザー』(監督・フランシス・フォード・コッポラ)のパートI(一九七二年)とパートII(一九七四年)、二週続けてテレビで放送していたので、録画して観た。多分ノーカットだと思うのだけれど、残念ながら吹き替えだった。ちなみにわたしは普段は吹き替えとかにそれほどはこだわらない。けれども『ゴッドファーザー』はおそらく、字幕で、役者本人の声でしか、観たことがなかった。マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ…。だから、吹き替えに違和感を覚えてしまったのだろう。
 『ゴッドファーザー』…。初めてみたのは中学生の時。リアルタイムではなかった。映画を一番観ていた頃、魅力に取りつかれた頃だ。名画座でパートIとパートIIの二本立てを観た。それぞれ三時間越えの大作なので合計六時間以上。お尻と首が痛くなったことを思い出す。それにあまりに長い時間だったから、とくにパートIIでは、途中、寝てしまっていたような気がする。それでも、ニーノ・ロータの哀愁きわまる映画音楽ともに二作とも、心に残る映画となった。やはり中学生の時、古本屋で、マリオ・プーゾの原作も買って読んだ。そして多分高校生ぐらいだ、今度は映画館ではない、ビデオを借りて、ちゃんと最後まで観たと思う。二十代の頃も観た記憶がある。それに、ずいぶん経ってから、パートIII(一九九〇年)も(そのときに、IとII)。IIIについては、観る前から、躊躇していた。ぜったい劣るから、見ないほうがいいのではと。まったくそのとおりだった。ひどいと思った。パートIIIには、がっかりした記憶しかないので、今回は触れない。けれども、『ゴッドファーザー』IとIIは、覚えているだけでも、四回は観ている作品だ。で、今回また。だが、もう十数年、観ていなかっただろう。



(▲後述のサウンド・トラック、コピーしたCD。こんなふうにCDに細工するの、けっこう趣味で…)


 で、じっくり、観ることにした。吹き替えの声が気になったけれど…。
 パートIのほうは、殆どストーリーを覚えていたのでびっくりした。このシーンのあと、こうなって、など。けれどもパートIIのほうは、観た覚えはあるのだけれど、パートIに比べると、そうした羅列、順序が希薄だった。出来がどうこう、というのではないのかもしれないが、パートIIのほうが、わたしには、やはり、ひきこまれる要素が少なかったのだろう。パートIは、マフィアのドン・ヴィト・コルレオーネ(マーロン・ブランド)を軸に、家族が描かれ、その後に三男のマイケル(アル・パシーノ)に主役は移行してゆくが、流れがすっきりしている。パートIIは、マイケルを軸に、家族が描かれ、対比して亡くなった父ヴィト・コルレオーネの若い頃(ロバート・デ・ニーロ)のエピソードが挿入されるのだが、その対比を、なのか、あるいはマイケルのおかれた状況をなのか、すこしおっくうだと思ってしまったようなのだ。
 けれども、あらためて、二部作としてみると、これはなんという対比のドラマなのかと、感慨深かった。三部までやるのは蛇足だ、もうこの二部だけで、対比は絶妙のバランスを保って、行われている。
 概ね、家族の対比。ヴィト・コルレオーネのゴッドファーザー、あるいは家族、そしてマイケル・コルレオーネのゴッドファーザー、家族。
 「ゴッドファーザー」は、マフィアのボスまたはファミリーのトップへの敬称だけれど、本来はカトリック教での洗礼の時の名付け親のことでもある。名付け親は、第二の親として、名付け子を養ってゆく。このことも、対比として、終始つかわれている。
 はじまりからして。パートIの冒頭では、ヴィト・コルレオーネのゴッドファーザーが、頼みを聞いている。パートIIの冒頭では、マイケル・コルレオーネのゴッドファーザーが、頼みを聞いているシーンではじまる。パートIのそれでは、耳を傾け、威厳がある。パートIIのそれでは、去勢をはって、威厳というよりも、威厳を作ろうとするため、どこか尊大に。
 パートIでも、ファミリー内で人は裏切りにより、亡くなってゆく。けれども、どうしてなのか、そのことによって、家族間の絆のようなものは、こわれることがほとんどないように感じられる。けれどもパートIIでは、違う。どんどん家族、ファミリーの絆がうしなわれてゆく。パートIでも兄のソニー(ジェームズ・カーン)の壮絶な死、それに加担した妹婿カルロの死、ドン・コルレオーネの若い頃からの仲間、テッシオの裏切りによる死など、こわれてゆくファミリーの姿はあった。けれども家族の絆的なものは壊れることがなかった。それはヴィトのよりどころであったから。息子であるマイケルは偉大なる父ヴィトをまねる。越えようとする。だがパートIIのほうでは妻ケイ(ダイアン・キートン)も去り、兄フレド(ジョン・カザル)も…。差し込まれる父ヴィトの若い頃のエピソードの、なんと家族愛に満ちていたか。生まれたばかりのマイケルに、愛しているという父、父の父母を殺されたことの復讐のために地元のドンを殺す、そのことすら、家族のための物語なのだった。
 パートIIのラスト近く、父のエピソード。というか、父は出ない。マイケルの若い頃だ。父のエピソードがマイケルの現在のそれに近づいた極限。パートIで殺された兄ソニーと、兄ソニーを売ったことで殺された妹の夫カルロ、パートIIで死ぬフレド、パートIでもパートIIでも忠実な義理の兄トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、そしてマイケルが、父の誕生日のための祝いの席にいる。父はちょっと買い物にいっている。第二次世界大戦の頃、真珠湾攻撃の頃だ。父や兄にとっては不本意であろう、海軍志願…。そのことでソニーと言い争いになり、帰って来た父を迎えにゆかずに、一人食卓に残るマイケル。そして現在のマイケルもやはり一人だ。一人で湖を見ている。海軍に志願したというマイケルに、すごいことだとただ一人賛同したフレド、そのフレドが、いままさに裏切りによって、殺される、その時に。マイケルの一人の対比はこのラストで圧倒的だと思う。
 かつての大学生だったマイケルのそれは、暗示はしていたかもしれないが、家族の結びつき、ファミリー(コルレオーネ・ファミリーというときの裏社会のことも含めて)の結びつきは絶対だった。
 けれども、現在のマイケルのひとりは違う。ファミリーのために、家族がはなれてゆく、家族でも殺してしまう。だからこそ、ファミリー自体、その仕事内容が、ビジネス的なしがらみ、損得勘定云々ということに、変わっていったのだ、そのことがおそらく、わたしが長いこと、話しがパートIIのほうが、わかりにくいなと思ったゆえんなのだろう。家族ではなく、仕事のかけひき的な要素が随所にみられるようになってきたから。
 いいかげんなことを、思いつくままに書いているけれど、いいのだろうか。
 今回、パートIとパートIIを続けて観て、吹き替えの声が、申し訳ないが、やはりどうしても気になったので、中古で二本、結局DVDを買ってしまった。それで字幕だけで、また観てみた。懐かしい声だった。マーロン・ブランド、アル・パシーノ、ロバート・デ・ニーロ、ダイアン・キートン、ロバート・デュバル…。特にヴィトの声だ。マーロン・ブランドもロバート・デ・ニーロも、すこしくぐもっていて、声をだすことを極力しない人の、だから発したときに、力を感じさせる、重みのある声に聞こえる。
 俳優としては、アル・パシーノが当時も今も好きなのだが。あの光と影をもった強烈な眼差し。
 映画としては個人的にはパートIのほうが好きだけれど、パートIIのほうがもしかすると作品的には優れているのかもしれない。つくられてゆくファミリーと、こわれてゆくファミリー。光と影。
 ニーノ・ロータの映画音楽が好きだと先に書いた。たしかサウンド・トラックをLPレコードで買ったのではなかったか。まだどこかにあるのかしら。それともないのかしら。とりあえず、図書館で借りて、コピーした。ニーノ・ロータ。「太陽がいっぱい」も大好きだった。「ロミオとジュリエット」も。ニーノ・ロータ・ベストも予約した。こちらはわたしの前に五人ほど先約がいたので、もう少し。先約がいることがすこし嬉しくもあった。わたしのように好きな人がいるのだろうと。
 彼岸花はとっくに終わり、キンモクセイの香りが漂い始めた。あれも彼岸花のようにほぼ、毎年、同じ時期に匂いを放つように感じられる。おおむね十月一日。夏が行った。秋が言った。これを書いている十月四日は、仲秋の名月だとか。さっき、雲間からのぞく満月を見れた。わたしが毎朝出かける午前四時台の空はもうすっかり夜の暗さになってしまった。明後日ぐらいから、十六夜の月から、また、その朝の空をしばらく、明るく照らしてくれるだろう。これが秋の言葉だ。
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2017-09-25

夏が行き、秋がきて。どちらも…。──曼珠沙華(彼岸花)、巾着田







 また雨の一日。台風がせまっているなか、毎年のように訪れている、彼岸花の名所……と書くと怒られるだろうか。曼珠沙華の里とうたっているから……埼玉県日高市の巾着田にいってきた。巾着のように蛇行した川(高麗川)のちょうど袋の下部分に、五百万本の曼珠沙華が咲いている。
 雨でなければ、河原でシートをひろげてお弁当を食べたりするのだけれど、その日は彼岸花(また彼岸花と書いてしまったが、やはりこちらのほうが親しんできた呼び名なので、以後はこの名前で基本的に統一する)を見て回るだけ。
 第一、川は増水しており、いつも座っているあたりも水で見えなくなっていた。それでもまだ浅瀬らしく、カルガモが泳ぐ、歩くをそのあたりで繰り返しているのが、なんだかかわいらしいと思ってしまう。泳いだと思ったらまた歩く。そして結局泳いでどこかへ向かって行った。増水しても水がきれいだったのが不思議だった。もともと清流なのだけれど。





 お目当ての彼岸花。今年はたぶん、いちばんいいときにこれたのではなかったか。場所によって、若干花の咲き具合に違いはある。けれども、大半が満開。盛りがすぎつつある花もあったが、蕾がめだつ区域もあって。開花状況としては、このぐらいが好きだ。おおむねの満開。けれどもまだ蕾、咲いていない彼岸花たちがあるのも、なにか、未来があるような気がしてしまう。咲ききらない薔薇の花、満開寸前の桜などのように。そこにはまだ淋しさが感じられない、まだ活気のようなものを…、というのは、こちらがわの勝手な感想なのだろうが。とはいっても、盛りをすぎた花たちもまたいいと思うのだろう。おわりゆくものへむけての哀しさ、淋しさが、今度は風情に変わるから。
 雨の中、傘をさして、彼岸花たちをみて回る。あいにくの空模様のため、今年は人が少ない…のだろう。実際、駐車場も一部閉鎖されていた。それは予想されていたことだった。だからだろうか。思っていたよりも人がきていた。予想していたことと実際はいつもちがう。だから、楽しいのだ。もちろん逆もあるだろうけれど。雨の中、彼岸花を見に来ている人達は存外多かった。それが何故かうれしかった。みんな静かに花をみてまわる。そこにはこんな会話も聞こえてきた。「案外、人が多いのね。これで天気だったら、どんなにすごいのでしょう」。それはわたしの感想でもあった。
 もっとも、晴れたときも、観光客は多くなるけれど、かれらは存外静かだ。しずかに真っ赤な花のなかを、みてまわり、時に感嘆の声をあげるが、わたしのようにカメラ(スマホや携帯も含めて)にその花の姿をおさめてまわる。だから混雑もあまり気にならないのだった。
 雨のほうが、花がきれいに見える。気のせいかもしれない。あるいは晴れたときとはまた別の趣きがあって、それを好ましく思うだけなのかもしれない。木々の下で、晴れたなか、陽がさすなかで、彼岸花を見て回るのも格別だが、雨のなか、木々の下で、川の近くで、花を眺めるのも、色が落ち着いてみえるようで、心地よかった。写真をとってまわる、そのファインダー越しの色も、いつもより明るさが抑えられていて、それが逆にしっとりと、ちょうどいい暗さをたたえていて、写真映りがいいような気もした。





 ただ、晴れたほうが、先もいったように、河原で休んだりして、くつろぐ時間がある。もしかすると、そうしたことができないから、ことさらにそれに代わるような、素敵なことを探し出しているのかもしれない。
 晴れの時は、公園の敷地に隣接した私営の牧場で、引き馬体験や馬へのえさやりなどが出来るのだけれど、今回は雨だったので、そちらも休業といった感じで、馬たちは厩舎で休んでいた。彼岸花たちの公園にむかう途中、車でちらっとその姿を見ただけだ。これは残念といえば残念だった。えさやりをしたりはしたことないのだけれど、馬やポニーが、草地にいるのをみたり、触ったりするのが、彼岸花をみるのとは別の楽しみだったから。
 そして。今年はなぜか、白い彼岸花がすこし気になった。シロバナヒガンバナ、シロバナマンジュシャゲ、名前はこんなふうによぶ。彼岸花とショウキズイセンとの種間交雑種らしい。いつもはあるな、ぐらいだったが、今年はなぜか写真におさめたくなった。基本的に真っ赤な彼岸花が好きだし、今ももちろんそうなのだけれど、白い彼岸花も、コントラストとしては、わるくないなと、ようやく思えるようになったのだ。両方を楽しむこと。わるくないといえば、増水した川をみるのも新鮮だったし。





 雨もわるくない、そして晴れもまた。そんな両者の楽しみ方を想う今回だった。
 この文章を載せた9月25日には、もう彼岸花もさかりを過ぎてしまったかもしれない。まだ、蕾だった花たちが咲いているかもしれないが。風にだいぶ秋が感じられるようになった。陽射しも幾分か、暑いのに弱くなった感じがする。家の近所の彼岸花はほぼ終わり。夏が往く、そして秋が来ていた。



01:12:24 - umikyon - No comments

2017-09-20

ゆく夏に雨が送る。─ダ・ヴィンチ展

 雨の一日、「没後500年記念 レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(二〇一七年八月二日─十月十五日)に出かけてきた。前期展と後期展があったが、前期展はおもに夏休みの子どものためのものだったので、九月十二日から始まった後期展のほうへ。場所は横浜のそごう美術館。

 HPやチラシから。
「二年後に迫った二〇一九年の没後五〇〇年を記念し、レオナルド・ダ・ヴィンチ展を開催します。
 《最後の晩餐》や《モナ・リザ》の画家として知られているレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二〜一五一九)は名画の他に、膨大な量の手書きのメモ(手稿)を遺しました。数十年にわたって書き綴ったその手稿には、機械工学、航空力学、天文学、幾何学、建築、解剖学、自然科学など広範囲にわたる研究がデッサンとともに鏡文字で記されています。本展ではその中から特に、水力学、飛行、ロボット、楽器、機械などの手稿にもとづいて立体化された大型模型六〇余点を中心に天才レオナルドの「手」から生まれた世界──未来へ抱いた夢を紹介します。」

 ダ・ヴィンチは、好きではあるけれど、実は感動した…という覚えがない不思議な人だ。小さい頃、《モナ・リザ》が日本に来日したのが話題になっていたのを覚えている。わたしがほとんど初めて名前を知った芸術家(なのだろうか、彼はそれだけではない枠を越えた活躍をしているので、使うのに語弊がある)になるかもしれない。いや、あと一人、候補がいる。家に複製画が飾ってあったロートレック。ともかく最初期に名前を知った人物のひとりだ。
 そんな記憶があるから、どこか好意を抱いているのだろう。とてつもない敬意とともに。わたしは科学に対しては、門外漢でよくわからない。だから、彼がどれほどの偉業をなしとげたのか、わかるようでわからない。すごいなとは思うのだけれど、実感がないのだ。けれども、ひかれる…。そんな不思議な人物なのだった。
 展覧会では、第一章にあたる、おもに立体模型がかざってあるところは、写真撮影が可だった。二章以降の手稿の展示が写真撮影不可ということらしい。手稿はちなみに「ファクシミリ版」という。「ファクシミリ版の「ファクシミリ」とは、FAXの機械が普及する以前からヨーロッパで使われていた言葉で、ラテン語の「facsimile=同一のものを作れ」からきています。いわゆる量産の印刷物とは異なり、オリジナルの手稿を保護し、研究する目的で精細に複製されています」とあった。
 精巧な複製だとは思ったし、紙の質感も、良さげだったが、当たり前だが、やはりどこか生の質感、手ごたえのようなものが、いや、時代を経たモノのもつオーラが欠けていた。それでも、ダ・ヴィンチの肉声に近いものは、もちろん感じられたので、十分ではあったのだけれど。



 第一章、入口近くにある、冒頭のあいさつのなかでの言葉を写真におさめた。そこには、こんな言葉があった。
 「人間の才能は多種多様な発明をして、その発明した人工物を用いて自然と張り合おうとして来た。しかし、自然が創造したもののように、驚くほどやすやすと、人工物も介さずに、しかも実に美しい発明をすることはできないだろう。実際、自然の発明したものには、なにひとつ欠けたものも、余分なものもない。」(ウィンザー紙葉19115r、ウィンザー城王室図書館)
 だからこそ、「自然こそ最もすばらしい芸術家だと考えて、自然から学んだ」のだと。
 解剖と徹底した観察。当時はおそらく、カトリック教会の禁止、というより時代を包んだ空気として、それを否定していただろう。そんななかでの、こうした考えに、心うたれる。そして、それとはおそらく違うだろうけれど、やはり共感めいたことを感じてしまうのだ。「自然の発明したものには、なにひとつ欠けたものも、余分なものもない」。だからこそ、自然に惹かれるのだと。
 ここ数年、ここ十年、いや、徐々になので、正確にはわからないけれど、自然というか、景色というか、そこここにある花や、雲のかたち、虫の訪れ、そうしたものが、心にしみるようになってきた。
 なんで、こんなに惹かれるのだろう。どうして、こんなにあざやかに、この花は咲くのか。それは一体化しつつ、ほとんど完結した美として、わたしに日々、語りかけてくれているからなのだった。
 ということを、ぼんやりと、思った。
 ほか、『竜の頭の形をしたリラ』(パリ手稿B Cr フランス学士院図書館)に惹かれた。模型とあるが、楽器。竜の頭の裏に弦があり、演奏するときは竜の角が腕にぴったりとおさまるらしい。
 科学と芸術の接点を想う。同時に、大切な遊び心を。音が聴いてみたいとも。竜が歌うような音だろうか。



 三章では、複製だけれど、主要作品のうち、殆ど(というのは現存が確認されている数が極端に少ないから)、ダ・ヴィンチの絵画作品の展示があった。複製とはいえ、一堂に会しているので、見れてよかった。《モナ・リザ》が先頭で。
 ダ・ヴィンチ展のあと、新横浜まで足をのばし、ラーメン博物館までいった。昭和三十年代の街を模した、この場所が好きだった。こちらももう数十年前から。だから楽しみにしていたのだが、連れが全く興味がなかったらしく、足早に、ラーメンだけ食べて後にした。そのことに少しショックをうけたが、後日、と言うか、今になって、すこしそのことがわかった。あの昭和の街並み、あれには、わたしが子どもの頃、ごく幼年時の香りがしていたのだ。正確にはそれは昭和四十年代だけれど、東京の夜の街、なつかしい映画の看板、どこかいかがわしい雰囲気、電柱、銭湯、それはわたしの個人的な体験が反映して、あの場所を好きだとしていたのだ。連れは住んでいた所が全く違うので、おそらくそうした体験がなかったのだ。あの街を懐かしく思うのと、ダ・ヴィンチを懐かしく思うのには、共通点があったのだなと思う。《モナ・リザ》来日に、長蛇の列だというニュース。それを見聞きした子どものわたし。
 雨は台風によるものだった。台風一過の後、季節外れの高温、真夏の暑さ。林のある公園の脇を通ったとき、晴天のなか、蝉の鳴き声を聞いた。繁茂する植物たちのなかで、最後の夏のなかで。完結している、美しさだと感じた、そして、その緑のなかに、やはり子供のわたしを見つけた。小学生、中学生の頃、よく遊びに行った林のイメージ。夏が往く。
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2017-09-05

夜明けのはざま、言葉で、追うよ

 覚えておこう。八月の終わりで、もう朝の五時近くはかすかな、明るさ。そして九月に入ったら、東の空もほとんど夜。五時前が明るい、朝といえる季節は、意外と短い。はじまりはいつだったかしら。覚えていないので、ずるをした。つまり、調べた。たぶん四月半ばすぎ。一年のうち、四か月半ぐらいか。そしてこの時期がわたしが一年で好きな季節とほぼ重なるということに気付く。もっともはじまりは三月だけれど。すこし暖かくなった春、三月から夏休みの終わりの八月三十一日まで。
 前回、ここを書いてから、原稿を何本か書いていた。めずらしくテーマだけはすこし前から決まっていた。いつもは直前までおりてこないのに。テーマにそって、書かないで、頭のなかで組み立てる。頭のなかで書く。こんなことを夢のなかですら、やっていた。夢のなかでは、書いていた。朝起きたら、書いたものが失われていた、いや、夢のなかにおきざりにしてしまったのだ。
 八月末が締切だったので、その数日前から、ようやく本当に紙に書いた。散文はそうでもなかったけれど、詩のほうは、おもったよりも、予習というか、シミュレーションしていたよりも難しかった。夢のなかで書いたもののほうが、豊かだったのではなかったか。そんなことすら思ったが、考えてみたら、そう思うのは当たり前なのだろう。夢の中のそれが優れているという意味ではない。もはや夢のなかのそれを見ることができないから、届かないものへの憧れというか、おなじ土壌にたっているわけではないものへの引け目というか、ともかく、想像してしまうのだ。あちらのほうが、いいのだろうと。夢の中やシュミレーションのほうが、よく思えるのは当然なのだ、それらのほうが想像することのほう、幻想に近しいのだから。対して、書いているわたしはそれでも現実に近いのだ。
 とくに詩のほうが難しかったと書いた。それは詩のほうが想像に近いからだと思う。日常の文体よりは、という意味で、夢の言語に近しいから。
 そして今回のものは、わたしのなかでは最初から、テーマが散文に近かったものだった。思い出や体験がからんだことだったから。実際に書いてみて、散文に流されてしまうような、距離感がとれない、日記のような、そんな印象をもった。数カ月前も、ちがうテーマで似たような体験や思い出のこと、書いた、その時は距離感がもてたのにな、どうしてかしらと思ったが、はたと気付いた。そのときも、かなり苦労して、距離感をもったのだと、いわば、なんとか距離感をたもとうと、にげるように、空想の領域へ、むかったのだ。現実と空想、そのはざまへ。
 だから今回も、なんとか逃げた。なんかいか逃げた。日記になりませんように、散文にかたむきすぎませんように。フィクションたちがさしこまれ、想像たちがすこしだけ歩み寄って。なんとかなっただろうか。わからない。思っていたよりは。最初思ったよりも散文だった、それから逃れて、収集がつかないのでは? 次にそう思ったよりは、なんとかさまになったのではないだろうか(自分でいうのもなんだが)。こんなふうに、思ったよりは、思ったよりはを繰り返して、そうして両方から押し出すようにして、はざまにいられたらいいなと思う。夢と現実、現実と想像のはざまに、宙ぶらりんに。
 これらの原稿にかかずらっているとき、図書館で『失われた時を求めて 全一冊』(マルセル・プルースト著、角田光代・芳川泰久編訳、新潮社)というものがあったので、つい借りてしまった。わたしは井上究一郎訳、鈴木道彦訳で、長いほうを昔読んだことがある。鈴木道彦訳のほうは、集英社で出した全二冊(あらすじと本文が混ざっている)でおさめたものを最初に読み、十年ぐらいたって、鈴木道彦訳の全訳を読んで。全二冊…読んだとき、まだ個人全訳が井上究一郎のものしかなかったのだ。だから順番としては全二冊の鈴木道彦訳、井上究一郎訳、鈴木道彦訳、となるのだった。
 数年前、光文社の文庫が出たとき、また買ってみたが、こちらはなぜか二巻目まで読まないうちに、挫折してしまった。これはたぶんわたしのせいなので、訳者の名前は出さない。
 先に出した鈴木道彦、井上究一郎は、読みたいと思った時期に合致した訳者だったのだと思うから。
 今回借りた『失われた時を求めて 全一冊』。あのとてつもなく長い本を、よくまあ一冊にしたものだ。四百字原稿用紙で一万枚ほどを、千枚へというから十分の一。〈一切の説明を加えず、すっきり通読できる物語に切り出したのが本書である〉。とあった。だから、主なストーリーは、話者とアルベルチーヌの恋愛にだけしぼってあり、時系列もすっきりとしていて、読みやすい。けれども、一長一短だ、やはり十分の一にするには無理がある。さまざまな人物たちのエピソードが話者によって語られるのを、ときに追体験したり、劇場にでもいっているように、感じるのが醍醐味だったのだが、それがないのが、少々淋しい。更に、説明もなく進んでゆくので、話者にとって大切な人物たちがどの時代に登場し、いつ退場したのか、わからなかったり、関係性がわからなかったり。個人的には大好きだったエピソードがかなり、抜けているのがショックだった。
 それでも、読了できたのは、うれしかった。たりないなと思いつつも、追ってしまう。それは、夢を追うのには似てないか。
 原稿を書いているとき、これは元々そうだったのだけれど、『失われた時を求めて』のエピソードを引用したい個所が出てきて、全一冊のほうではなく、結局、全二冊のほうで、目星をつけて、それから全訳に当たるということをした。おもに鈴木道彦訳を引用したのは、手にとりやすいところにあったから、というのが一番の理由なのだが、こちらは巻末に、エピソードの見出しついていて、探すのに便利、ということもあった。
 話者の祖母が亡くなったときの、祖母の美しさのこと、話者の祖母と亡くなったあと、話者の母、つまり祖母の娘が、親そっくりになったことなど。これらのエピソードを今回引用したりした。それらが、どこで語られたのかなどは覚えていなかったが、今聞いても美しい言葉、そして、それらの言葉に感動した当時の自分と再会をはたせたことなどがうれしかった。
 言葉をとおして、そんなふうに、こんなふうに。夜明けがますます遠ざかってゆく。だからこそ、朝がいとしく思えるのだろう。
23:41:16 - umikyon - No comments

2017-08-25

空想と現実、芸術と科学のはざまの頁で (紙の上のいきものたち!!展)

 夏なのに、気分がすこしすぐれない。それは八月にはいってずっと天気が悪いからだと気付く。二十日間も連続して雨。夏の記憶がとおざかってゆく。夏はじりじりするほど暑くなくては。陽射しが肌にやきつく感じ。ひまわりやカンナがかわいた明るさによく似合って。
 八月の最初の頃はそうでもなかったのだけれど、中盤ぐらいになって、雨やくもりの影響がでてきたみたいだった。身体がおもく、心がどこか暗くなっている。天気が心をうつす鏡であるかのように。いや、心が天気をうつす鏡であるのか。
 そんな雨の一日、車で町田市立国際版画美術館に家人に連れて行ってもらった。電車で何回か出かけたことがあるが、車ははじめて。こちらも森の中にある感じの美術館。そういえば森の中の美術館というのは、多い。森というか、公園というか。何故なのだろう。埼玉県立美術館、府中市美術館、せたがや美術館、宇都宮美術館、箱根の緑に囲まれた中の美術館たち、東京都庭園美術館は、森のなかではないけれど、隣が森(国立科学博物館所属自然教育園)だ。上野だって森といえば森ではないか。なぜ木々と美術館は親しいのだろうか。理由はわからないけれど、緑のなかで、美術館に出会うのは、ここちよい。ほっとする。
 雨が強かった。そして車だと、いつも駅から歩いてくるルートとまったく違って、森を感じる前に、裏口から美術館にはいる感じ。駅からだと、木々をぬけて、公園内をしばらく歩くと、ゴールのように美術館があるのだけれど、駐車場からかなり近く、端っこからいきなり美術館にきてしまう。その向こうに雨にぬれた公園があった。ちょっと新鮮だった。ほんとうは公園も散策したかったのだが、雨がかなり激しく降っていたので、この日はあきらめたのだったが。
 町田市立国際版画美術館、この日の展覧会は「紙の上のいきものたち!!」(二〇一七年七月二十九日─九月二十四日)。





 展覧会HPなどから。
 「古くから人間は動物や植物、虫などのいきものを版画であらわしてきました。紙の上で新たな命を与えられたこれらの生きとし生けるものは、人間を映し出す鏡といえるかもしれません。たとえば写実的に描かれた植物からは、科学的な考えやまなざしが芽生えたことがうかがえます。また動物の姿を借りた寓話は、人間の愚かさや滑稽さを教えてくれるものです。一方で、現代の版画家たちが魅力あふれる生命を表現しつづけていることも忘れてはならないでしょう。
 本展では身近なものから遠い異国のものまで、多種多様ないきものが息づく約一二〇点の版画を展示。植物から作られた町田産の色材を用いた若手作家の版画も紹介します。いきものの様々なすがた・かたちを通じて、自然がもたらす楽しみと恵みをご堪能ください。」
 博物誌的なもの、物語の挿絵などがメインだったので、たぶん、あまり感動することはないだろうとは思っていた。それでもなぜか、この頃、動物たちと聞くと、つい反応してしまうのだった。生あるものたちが、年と共にいとしくなってきている。みな死すべきものだからかもしれない。というか、そのことにようやく、ながいことかかって気付いたからかもしれない。
 展覧会は、一章と二章のほんの数点だけ、写真撮影が可能だった。ゆっくり見れるという点では、写真撮影可能は、かえって気が散ってしまうけれど、図録などを買わないですむので、一長一短だ。
 この第一章「いきものを版画にするということ」(十五世紀の西洋の草本誌や博物誌の紹介)に、サイがいた。サイについては、ここでも何回か触れている。最近だと二〇一七年五月十五日。
 〈日本経済新聞の二〇一四年五月十八日の連載コラム記事で、生物学者の福岡伸一氏が、アルブレヒト・デューラーのサイのデッサン、サイの木版画を挙げて綴っていた言葉が、心に響いた(「芸術と科学のあいだ」その十四「脱ぎ捨てられたサイの甲冑」)。
 一五一五年にインドからリスボンへ連れられてきたサイ。その噂をドイツでデューラーが聞き、伝聞を元に描いたもの。それは全身甲冑で覆われた、金属でできたような、恐竜のような力強いサイだった。この絵は以後、ヨーロッパでは広く流布され、なんと「二十世紀初頭まで教科書にもサイの図として掲載されていたという」。
 そうして。
 「のちに、動物園で実際にサイを観ることになったとき、人々はこう思うことだろう。実際のサイはなんてみすぼらしいのだろう。あの立派な甲冑はどこにいったのかと。甲冑はあなたの頭の中に脱ぎ捨てられているのである」〉(二〇一四年五月二十五日)。
 そのアルブレヒト・デューラーのサイの絵を、この展覧会で、はじめて見ることができたのだ。それは「ヤン・ヨンストン(一六〇三─一六七八年)著『動物図譜』一六五七─六五年刊)、ラテン語版第二版、エングレーヴィング」のなかの一頁だった。「博物学だけでなく神学・哲学も修めた多彩な学者のヨンストンが著した、水陸の動物、鳥や虫、爬虫類を網羅した図鑑です。必ずしも実物を見たわけでなく、他の版画や挿絵を引用したものや、空想のモンスターも数多く収められています。」と、キャプションにある。そうだったのか、空想のいきものたちと現実のいきものたちが、たがいに行き来していたのだ。想像と現実が未文化だったのだ。そのことをうらやましがるわけではない、これも一長一短なのだ(いやもっと短所のほうが多いかもしれない)。そう、間違えた情報ということでもあるのだから。けれども、そんなふうに語ってみたくなるのだった。
 この『動物図譜』のなかから何点か出品があった。これらが美しかったので、芸術と科学の蜜月的なものを感じた、そうしたことも、空想と現実の蜜月を感じることを手伝っていたのだろう。
 展覧会会場の照明は基本的にうすぐらい。その暗さのなかでこうしてサイをみれたのは良かった。おごそかな感じがした。スポットライト的に上から光があたっているので、光がじゃまになり、うまく撮れなかったが、



 美と科学、空想と現実のはざまにある書物の中に、甲冑のサイがいた。この絵の部分だけ、切り離したものは、もちろん見たことはあったが、書物のなかで見たのは初めてだった。こうした書物の中で、空想や想像が親しい、けれども厳かななかで、見たサイだけが、ほぼ本物だったとき、二十世紀になって、はじめて実物のサイを見たなら、なるほど違いに驚くだろうと、重ねることができたかもしれない。わたしの今までの見かたは、実際のサイを知っていた者の偏った反応だった。いや、実際のサイが先で、デューラーのサイが後の者の態度でしかなかった。教科書や『動物図譜』のサイが初めてだった者の驚きを、追体験することは難しいのだ。彼らのことを慮るということは。だが、ということが、わかって、それでもよかったと思う。この『動物図譜』の中のサイ、デューラーのサイのほうが素敵、とかではなく、ともかく、このサイは、ほとんど神々しいまでに、厳かな威厳をたたえていた。甲冑をまとった姿はりりしくもあったが、どこか哀しげで。
 ほかにも何点か、心ひかれたものはあったのだが、感想がうかんでくるほどではなかった。怠惰からくるのかもしれないけれど、サイをみたあとでは、もはやサイでいっぱいになってしまっていた。雨も手伝って、サイ以外のことが、流れてしまって。
 こんなふうにあのデューラーのサイは、それでも想像と現実のあわいで、わたしに何度も語りかけてくるのだった。
 八月下旬になり、ようやくまた夏らしい陽射しが戻ってきた。わたしが平日出かける午前四時四〇分頃の朝は、徐々にまた夜に戻ろうとしている、まるで日没のように、明るい朝から、暗い夜へむかっているのが日々、判るのだ。これを書いている二十五日の朝午前四時四十五分は、日の出前(日の出は五時七分位らしい)だったが、東の空がぎりぎり明るかった。けれども朝焼けがぞっとするほどきれいで。また西から天気が悪くなるらしい。西はといえば、まだ夜の気配、そして木々が多くみえて、これも森のようで。
21:18:49 - umikyon - No comments

2017-08-10

昨日も別の日。だから過去に涙するのかもしれない─ベルギー奇想の系譜展、クノップフ

 土曜日の夕方、都会に出る用事ができたので、午後にどこか美術館でも…と探して、見つけたのが『ベルギー奇想の系譜(ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで)』展だった。場所は渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム、期間は二〇一七年七月十五日〜九月二十四日。
 実はこのごろ美術館、すこし食傷気味だった。なんというか、行く前に予測してしまうというか。予算の関係で大きな展覧会に余りいかなくなったこともある。それよりも小規模な展覧会だと、常設なども含め、なんとなくどこかでみたものたちに再会することが多くなってしまうのだ。もっと遠くの美術館に足をはこべば、またちがった出逢いもあるのだろうけれど。せっかくの大好きな北斎を展示する墨田区のあの美術館には、残念ながら二度と足を運びたくないし。
 わたしは気持ちにそぐわないことは書かないようにしている。なんというか感情的になってしまうことで、なにかがそこなわれてしまうから。にげかもしれないが、それはそのうち書けるようになることだとも思う。まだ書けないのだ。消化するまでは。たぶん最近美術館に前よりも行かなくなったことに、おそらくあの大嫌いな美術館は、一役買っている。そのことはわかっているが、まだ触れられない。けれども、外堀から埋めていこう。たとえば、こんなふうにほかの展覧会にそれでもゆくことで、いつか触れられるようになるだろう。
 渋谷まで。電車で行こうと思ったけれど、なんとなくバスで行くことにした。値段が安いのと、途中、かなり渋谷寄りの三軒茶屋ぐらいまでは自転車で行ったことがあるので、距離がすこし身近になっていたから。
 ただ道はわかっても、混んでいると結構時間がかかる。それもあって、早めに家を出た。一時間半ぐらいかかるかしら。あつい陽射し。バス停でバスを待つ。仙川が近くを流れている。すぐ近くにこっそりと湧水。ほんとうにこっそりと、といいたくなるほど、団地の端に、湧水を集めたきれいな池がある。自転車でよくきている大事な場所だ。暑さのなかで、あの湧水のことを考えるのは、心地よかった。すこし緑がこんもりした、あのあたりに、見えないけれど、湧水池はあるのだ。
 バスに乗って、すぐに池のほうをみやったが、バスからは見えなかった。ここも国分寺崖線。坂を登る。桜の時期は、両脇がちょっとした桜並木になる。
 そして自転車で通る場所たちが、車窓風景になるのだった。けれども早朝バイトの後だったから、すこし疲れていたこともあり、けっこう眠ってしまった。わたしはバスの中では読書ができない。本を読もうとすると車酔いしてしまう。それでもおばあちゃんの住んでいたマンションの前までは起きていた。わたしが小学校五年の時に亡くなった祖母の住んでいたマンション。もう数十年前なのに、まだマンションがそのまま、そこにあるのが意外だった、嬉しい驚きだった…と通るたびにいつも思い出す。
 渋谷についた。道が空いていたので、おもったよりもだいぶ早くついた。五十分乗っていたかどうか。これなら電車で行くよりもだいぶ早い。良かった。
 さて、渋谷。方向音痴だけれど、さすがに昔、近くにすんでいたことがあるので(バス停でいうと四停留所ほど向こう)、ブンカムラまでの道は迷わない。
 展覧会は、数カ月ぶり程度なのだが、気分的に久しぶりだった。そして展覧会会場のある渋谷は、ほんとうにもっと久し振りだった。とくにブンカムラへゆくまでの道、にぎやかなほうには、数年来たことがなかっただろう。
 ここのあたりを歩くたび、身近な街だったはずなのに、どこかよそよそしく感じられるのだった。四停留所離れた場所に住んでたのは、二十代後半から三十代半ば迄で、若かった筈なのに、渋谷の街中にいると、当時ですら、いつも自分が年とっているように感じたものだった。それよりさらに年をとった自分が今思うのは、おかしいような気もしたが、それ自体がなんだか遠い。
 遠さのなか、浮遊するように、街を歩いた。暑さのせいもあり、なにかリアルさがかけていた。





 大通りからいくと、東急内の、美術館がある方は、一番奥になるが、ともかく手前、涼しいところにはやく入りたくて、デパートの入口をめざした。これもブンカムラにくるといつもだ。寒い冬なら、寒さを逃れて、雨なら雨を逃れて。春や秋ならどうだったろう? やはりデパートにすぐに入ってしまった気がする。ほとんどデパートと無縁なので、たまにはなかの空気をすってみたくなって、というか。
 さて、展覧会。
 「現在のベルギーとその周辺地域では、中世末期に発達した写実的描写のもと、独自の幻想的な絵画が生まれました。ブリューゲルの奇妙な生物、アンソールの仮面や髑髏、マグリットの不思議な風景など、そこにはどこか共通する奇想・幻想の世界が広がっています。
本展は十五、六世紀を代表するボスやブリューゲルの流れをくむ作品から、象徴主義、シュルレアリスムの作家を経て、現代のヤン・ファーブルにいたるまで、約一三〇点の作品を通して、五百年にわたる「奇想」の系譜の存在を探ります」(展覧会HPから)。
 チラシもボスの工房の絵だった。ボスもブリューゲルも、すごいなとは思うし、どちらかというと好きなのだが、あまり感動したおぼえがない。ブリューゲルのほうはあった気がするが、それもここにあるような怪物や異想的生き物より、もっと静かな作品だった。だから、申し訳ないのだけれど、入ってすぐ、というか、ほぼ目玉である作品たちには、あまり興がわかなかった。土曜で夏休み。子どもたちもいて、かなり混んでいた、ということも理由になるだろうか。ただこれは想定内だったので、あまり気にならない。下調べした段階では、ルネ・マグリットの作品があるということだった。それとも食傷気味のわたしは、もしかして、好きなマグリットにも興を起こさないのだろうか、その方が不安だった。展覧会会場を行く。一章の[十五・十六世紀のフランドル美術]から、三章のマグリットが展示されている[二十世紀のシュルレアリスムから現代まで]まで、年代順になっている。そのまえに、二章[十九世紀末から二十世紀初頭のベルギー象徴派・表現主義]だ。 [この章では工業化・都市化が進む中で、科学の世紀に背を向け、想像や夢の世界など人間の内面を表現する美術家たちが現れる過程を見ていきます。][一八八〇年代の後半には、科学の世紀に背を向けて想像力と夢の世界へ沈潜しようとする芸術家たちが現れます。ボードレールに敬愛された画家ロップスは、中世からルネサンスにかけて北方美術が好んで採り上げてきた骸骨たちの舞台を近代的によみがえらせました。一方、クノップフの暗示に満ちた静謐な作品を観る者はこの画家の解けない謎にからめとられていきます。画家が抱えていた孤独や怯えが不穏な唸りとなって、観る者に圧をかけ、ついに叫びだす自我を描いたのがアンソールでした。アンソールがよく描いた骸骨と仮面は、隠されるもの・隠すもの・暴かれるものという性質を内包していますが、この関心は、次の世紀のマグリットから現代まで続く「言葉とイメージ」の問題へと展開していくことになります。](展覧会HPより)

 そう、象徴派のところにあったフェルナン・クノップフ(一八五八─一九二一年)。たぶんあるだろうなとは思っていた。ブンカムラとクノップフは相性がいい。というか、わたしがみた多くのクノップフ作品はここでの展示だったと思う。だから、おそらく一点ぐらいは…とは思っていた。だが何点あったろう? 会場で数えた。八点だ。副題(「ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで」)はむろん、チラシにもほとんど名前も載っていない、ただ小さな絵が一点掲載されているぐらいの扱いだったのに。ちなみにその絵は、《青い翼》。後述するけれど、チラシは会場で見たのがはじめてだったので、この絵がきているとは知らなかった。知っていたら、この絵をみるだけのためにきただろう。それぐらい好きな絵だった…。いや、先走りすぎた。元に戻る。
 ベルギー象徴派のコーナー、ジャン・デルヴィル、フェリシアン・ロップスがあるなあと思っていたら、いきなりのクノップフ。予想はしていたけれど、思いがけなかった。
 わたしはどうして彼の絵が好きなのだろう。この会場で、一番最初が《捧げもの》(一八九一年)。紙とチョーク、なかば横向き加減の女性のアップ。眼がこちらをむいている。ただ、これは別に大理石の胸像に花をそえようと手をのばした、上半身が映った作品もあり、その一部的な作品だということを、あとで知った、というか気付いた。けれども、この顔、そして次次に現れる女性たちの、独特な表情に、なつかしさがおしよせてきた。《内気》(一八九三年)《巫女シビュラ》《アラム百合》は、彫像や油絵作品を写真にして、それに彩色をほどこしたもの。
 今、もし、はじめて見る画家の絵だったら、こんなに心がざわめくだろうか。ふとそんな想いがよぎった。もしかすると、通り過ぎはしないかもしれないが、ここまで心ふるえることはなかっただろう。クノップフの名前を聞いたのは十九歳ぐらいだった。二十代でクリムトなどと一緒に、心惹かれる画家となった。世紀末、デカダンス。その頃のわたしの嗜好の体現者、あるいは勝手な想いなのだけれど、共有してくれる絵としての役割もになっているのではなかったか。彼の絵のタッチをみるたび、かつての自分がそこに…。



 クノップフの絵は、孤独者をゆさぶる絵だと思う。孤独をつきつめた、孤独をそれでも沿わせている。愛するというのと少しちがう。ただ影として、まとっている。寄りそわせている。彼の孤独が心地よかった。彼の風景画には、人がまったくいない。この展覧会にも一枚あった。《ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院》(一九〇四年)。ただ運河と建物だけ。水は鏡のように、何かを写すのかもしれない。たとえば過去、のようなもの。と、この展覧会にはなかったけれど、鏡に映った自分の顔にくちづけする女性と、建物と運河がうっすらと重なってみえる《わが心は過去に涙す》(一八八九年)を、今、これを書きながら思い浮かべてみる。机のまわりに、クノップフの画集や絵ハガキたちが並んでいる。
 わたしの過去が彼の過去と呼応するのだろうか。そんなふうに感じられるのだろうか。わたしのなかでの世紀末の凝縮のような空間だった。
 ああ、そうだ《青い翼》(一八九四年)のことを書きたかったのだ。こちらも油彩作品を写真(撮影アレクサンドル)にし、それに彩色をほどこしたものだが、彩色のせいか古さのせいか、もともとの作品のもつ力なのか、写真であるかどうかはまったく気にならない。ヴェールをかぶった女性の腰近く、長細い画面の中央に、実際にクノップフの館にあったという擬人像ヒュノプスの頭像が置かれている。ヒュノプスは眠りの神。耳元にある翼は片方しかないが、この翼が青いのが題名の由来。片翼しかないのも、眠りの神であるのも象徴的だが、女性の孤高で崇高な、夢みるような表情とあいまって、夢幻かつ絶対の神殿への渇望を静かに凝縮させている…、いや、そんな言葉が書きたかったのだろうか。ただ、この静謐さにひかれたのだ。懐かしくも、あらたに心にゆさぶりをおこしてくれる、大切な。



 この後、ここに来る前にお目当てだったルネ・マグリットの絵たちを見る。それなりに惹かれたけれど、もうしわけないが、心がほぼクノップフ一色、クノップフ祭りになっていたので、あまり入ってこなかった。ただクノップフを観た、会えたということを余韻として残したいと思っていたから。

 展覧会会場とミュージアムショップはほぼつながっている。出口付近にショップはあるけれど、もしそこで展覧会会場に戻ろうと思えば、難なくゆける。そのかわり、展覧会は行かずにショップだけに行きたいと思っても、なかなか難しい。再入場ができないから。だいぶ以前、係の人に頼んで、ショップにだけ用があったので、入れてもらったことがあったが、今はどうなのだろう。ともかく、いちおう、最後まで見た後、ショップに行った。クノップフの作品が何か売ってないかどうか知りたかった。《捧げもの》の絵葉書が一枚あった。図録には、この東京会場以外の場所(宇都宮美術館、兵庫県立美術館)では展示されていた作品たちが載っていて、触手が動いたけれど、クノップフ以外の作品には、ほとんど興味がなかったので、買うまではしなかった。ただ、一枚、絵ハガキだけ、あとで買うことにして、またクノップフに会うため、会場に戻った、そのあとマグリットへ、またクノップフへ、マグリット、クノップフのあたりを、うろちょろして、そうしてようやく美術館をあとにした。手には一枚、絵ハガキ。あとは展覧会のチラシを。ここには《青い翼》が小さかったけれど、載っている。
 《青い翼》。うちに絵ハガキがあったはず。そして古い『美術手帖』の特集頁にも比較的大きく載っていたはず。家に帰って探すと、絵葉書のほうは同じ構図だけれど、パステル、水彩、グアッシュの《白、黒、金》(一九〇一年頃)とあった。翼が青くない。モノトーンではないけれど、セピア色というか、色を抑えたものになっている。『美術手帖』は一九八九年三月号。古い。リアルタイムに買ったものではなく、「特集・クノップフ─青い世紀末」ということで、たぶん、古書店で購入したものだと思う。大切な一冊だ。リアルタイムでないといっても、おそらく九十年代には買っているのだけれど。話がずれてしまった。こちらに載っていたのは《青い翼》だが、元の油彩作品のほうだった。一八九四年作。うれしいことに《捧げもの》《巫女シビュラ》《アラム百合》も別のバージョンのものが掲載されていた。展覧会でみたものたちの余韻にひたるには十分だった。
 ほかの展覧会にこの先、行こうという気持ちがわきあがったかどうかは知らない、なんともいえない。ただクノップフ祭り状態の、心のありかたが心地よい。いまはこれだけでいい。あとのことは、あとで。“After all, tomorrow is another day.”この台詞、『風と共に去りぬ』のラストの言葉が、ふと思い出される。字幕ではどうだったかしら。「明日は明日の風が吹く」が、かつての一般的な訳だったらしい。けれど、わたしが印象に残っているのは「明日、考えるわ」だった。だから、今、思い出されたのだ。そう、明日、また考えよう。ほかのことは。
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2017-07-30

朝顔、白粉花、向日葵…、夏休みの花、なのだろうか。


(▲これは前回の怪獣の雲)





 あちこちでひまわりの花を見る。わたしのなかでは八月の花だ。だからだろう、毎年みにいっている近くのひまわり畑、まだ咲いていないだろうと勝手に思っていた。夏休みの花。夏休みは七月下旬からだというのに、なぜか夏休みといえば八月と連想してしまう。 そういえば、朝顔、ひまわり、夏休みの自由研究で育てたりしたからか、子どもの頃と直結した、独特の花たちだ。ただ朝顔は入谷の朝顔市が七月始め、七夕の頃に開催されるからか、七月八月の花であり、さらに夏休みの花という、微妙な位置づけではあるのだけれど。
 今年入谷の朝顔市で求めた朝顔は、よく咲いてくれて、よく育ってくれている。午後遅くまで咲いているのもうれしい。日当たりのせいだと思っていたが、花びら縁と中央から放射線状に白い筋の入った陽白というこの朝顔は、午後まで咲く品種であるらしい。バイトから帰ってきて朝顔と対面するのがだいたい午前十時台なので、これはうれしかった。今まで育ててきた品種の朝顔は、その時間だとけっこうもうしぼみはじめていたから。
 それにつけても、わたしはこの陽白という種類の朝顔が好きだったのだなあとしみじみ思った。今までなぜか、あまり育ててこなかったのだけれど、家でこうして咲いているのをみて、また、道端などで、だれかの家の庭先で見たりした時、その都度、ああ好きな花、好きな色だなあと思うから。
 今、すこし、これを書くのを中断して、ベランダに朝顔をみにいった。日曜日の朝。今日もよく咲いてくれていた。青、紫、濃い桃色。



 もうひとつ、子どもの頃と直結した花にオシロイバナがある。あれもなぜか夏休み、八月の花だという感じがある。今でもオシロイバナをみかけるたび、あの黒い実を、つぶして、中から白い粉を取りだして、手にしてみたくなる。夏休みの半ばすぎ、そうしてあそんだように。あの時、白い粉をどうしただろう? 手のひらのうえでもてあそんで、すこししめったような白粉の感触をたのしんで、ただそれだけでよかったと思う。
 けれども、今日は、ひまわりのことを書きにきたのだ。それなのに、花のまわりで、寄り道してしまった。夏休みの花たちのほうへ。そろそろ、黄色い大輪の、ひまわりに戻ってこよう。
 数日前、ひまわり畑の近くに用事が出来た。ついでに生育状況を調べておくかと、覗いてみたのだった。曇りの日、天気予報では、まもなく雨。たぶんまだつぼみだろう、だって八月の花、夏休みの花だもの。いつぐらいに満開になるか、様子を…と思っただけだったが、行くと満開だった。びっくりした。思いがけなさにはいつも心がざわついてしまう。平日だったせいか、人もほとんどいない。ひっそりと満開を、けれども豪華にむかえていた。大輪の太陽たち、向日葵たち。たくさんあるから心がさわぐのではないだろう。好きな花がたくさんだから、酔いしれるように、心がみだれるのだ。しずかな夏のざわめき。曇り空で、ひざしはなかったが、蒸し暑かった。暑苦しい筈の色なのに、ひまわりはどこか爽やかに、凜として咲いていた。今年は例年行われたいた切り花体験等のイベントがないらしい。ひまわり畑の看板にそう書いてあった。だからよけいひっそりと感じたのかもしれない。しずかに燦々と。





 珍しく蝶がとまっていた。家に帰ってしらべる。たぶんヒメアカタテハ。ちがったら御免なさい、だけれど。オレンジ色に豹紋のある蝶。ひまわりの黄色い花とよく似合ってみえた。



 これを書いている七月三十日の朝、ひまわり畑のHPを覗いたら、もうひまわり畑の第一弾は、花たちがみなお辞儀をしつつあり、終わりに近づいているとあった。第一段なので、まだ第二弾がある。そういえば生育途中の畑があった。けれどもちょうど満開の時に、あそこにゆけてよかった。
 きのう久しぶりに都会にでかけた(なぜ都会に出かけたかは別の話になるので、また次回)。子どもたちが多かった。いや昨日は土曜日だから、夏休みだからというのではなかったのかもしれないが、夏休みだからだろうなと思ってしまった。朝顔はいつ持って帰ったのだっけ。行燈仕立ての朝顔を持って帰った記憶をたぐるが思い出せない。
 あとで、またひまわり畑にゆこうと思う。今日は日曜日。わたしの休みの一日だ。


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