Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2019-02-20

春、かれらに触ることができたかしら─府中「郷土の森 梅まつり」など

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 今年は春がすこし足踏みしているような感じがする。二月に入っても寒い日が続く。けれども、あれは二月の八日だった。昼間、チラシ投函のバイトをしていたとき、もうホトケノザとか咲いているのかしらと、ふと注意してみたら、あちこちに花開いているのを見つけたのだった。ホトケノザはもちろん、ハコベも咲いていた。そして、タンポポに似た黄色い花。ジシバリかコオニタビラコかと思っていたのだが、後で調べてみたらら違った、ハルノノゲシというらしい。またひとつ名前がわかって、うれしい。オオイヌノフグリはつぼみ。数年前まで、春の花たちは三月、啓蟄あたりで咲くのだとばかり思っていた。思い込みのせいでろくろく花たちを見もしなかった。それが間違いだと気づかせてくれたのが、たぶんホトケノザ。うちのマンションの駐輪場に、二月にもう、ひっそりと咲いているのを見かけたのがきっかけだったと思う。わたしにとっての春告げ花のひとつ。
 「春告げ花」と、勝手に使っていたが、「春告」のあとに「鳥」「魚」「草」などが入って、それぞれ、一応固定されているみたいだ。「春告鳥」がウグイス、「春告魚」がニシン、そして「春告草」が梅。
 草なのに梅、というと少し違和感があるけれど、梅もわたしのなかでも「春告花」(草ではなくって)だった。こちらは三月よりもずっと前に咲くことを昔から知っていた。熱海の梅祭りなどが一月から開催していたし、梅については意識して辺りを見渡す癖がついていたのだ。今年も二月にはいって、あちこちで、梅が咲いているのを見ている。公園で、人様のお庭のものを塀ごしに。
 そんななか、二月十六日の土曜日、府中市郷土の森博物館で開かれる「郷土の森 梅まつり」(二〇一九年二月二日〜三月十日)に出かけてきた。ここ数年、毎年のように出かけていて、去年も訪れている。ここは敷地全体が博物館になっていて、ケヤキ並木、梅園や、田んぼ、池や小川、移築してきた古民家や建物、遺跡、本館での常設や企画展、プラネタリウムなどがある。さっき、これを書くので少し調べたら、最後に行ったのは、去年の六月の中旬だった。あじさい祭り目当てで。

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 今回も、連れ合いと車で出かけた。去年のあじさい祭りの時だったか、彼が多摩川沿いに出かけるルートを発見した。うちから多摩川は近い。直線距離で五〇〇メートルほど。郷土の森も多摩川沿いにあり、川を横目に見ながら、十数キロ、上流に向かえばいいので、助手席で無責任に景色を眺めているわたしとしては、着くまでの車窓も楽しいし、早く着くし、素敵な道のりだった。
 駐車場に車を停め、入口前の物産館に立ち寄る。府中の野菜、お菓子、地酒、絵ハガキなどがあり、小さな道の駅といったかんじ。郷土の森で採れた梅干しも売っている。
 そうして入場。博物館本館を過ぎ、復元移築された建物たちのエリアに来ると、もう小さな梅園があった。紅梅、白梅が、そろって咲いていて、それ目当てで来たのに、すこし驚いてしまう。うれしい驚き。さらに小川をわたると、広い梅園。かなり花の咲いた梅もあったけれど、まだ開花の遅れている種類の梅もあって、全体で三分咲きぐらい。けれども、咲いた花たちばかりが目について、なんとなく、もっと咲いているような気がする。梅たちのほんのりやさしい匂いも嗅ぐ。子どもの頃から白梅に親しんでいたこともあって、相変わらず白梅が好きだけれど、紅梅がこんなふうに混ざって咲くのも、趣きがあると思う。なにより、あたりの空間が色が増えることで華やかになる。

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 去年の梅まつりの時も来ているので、なんとなく勝手がわかる。梅園のさらに奥に、ロウバイも咲いていたなと、そちらへ。ただ、今年は園内マップをもらいそこねたので、適当に歩いていた。すると水遊びの池の近くに、「珪化木」と案内標識を見つけた。ここ郷土の森博物館のミュージアム・ショップで見かけて、初めて知った樹木の化石。なんだろうと行ってみたら、模型のティラノサウルスの近くに、本物の珪化木たちが、置かれていた。府中市民の方の寄贈によるもので、秋田県大仙市出土、白亜紀後期の七千万年前ぐらいのものとあった。ちなみにティラノサウルス(たしか国立科学博物館から譲られたものだったと思う)をここで見るのは久しぶりだった。苑内はそれほど広いのだ。その時にはたしか珪化木はなかったなと思ったら、二〇一六年に設置されたものだった。ともかく、こんなところで、この頃のお気に入りの珪化木に会えるなんて思いがけもしなかった。こういう出会いは、わくわくする。なにかたちが、貴重なものを授けてくれたようでもある。

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 わたしが珪化木にひかれたのは、たんに植物が好きだからだと思っていたが、それだけではないのかもしれない。珪化木は、地中に埋もれた樹木が長い年月をかけて、地層の圧力などで木の成分が二酸化珪素に置き換わってできたもの。二酸化珪素が結晶化すると石英や水晶になるので、瑪瑙のようにキラキラしてもいる。木の原型を保ちつつ、そんな性質も併せもった不思議な化石。樹木であり、石である…。このキメイラ的なことに触手が動いたのかもしれないし、縄文土器のように年月を隔ててここにあるということに思いを寄せたのかもしれない。植物が永遠のような姿として、きらめいている。
 その珪化木に苑内で出会うことができるなんて。それはほんとうに切り株のまま化石になったものとして、そこにあるようだった。まわりの草木となじんで、あたかも地中には根があるようだった。丸太のまま化石になったようなものもあった。さわってみた。きらきらしてはいたが、わたしが持っている小さな珪化木ほどつるつるしていない。わたしのものは磨かれているのだろう。きらめきながら、ざらざら。そんなことが、よけいにリアルさをおびていて、心に響いた。
 そのあとでロウバイの小径へ。ここは苑内のへりといったところで、すぐ向こうに多摩川が見える。ロウバイは花期が梅よりも早いので、もう盛りは過ぎていると開花状況を知らせるHPにはあったが、十分だった。ロウバイは蝋梅と書く。蝋のような質感をもった花びらたちが、黄色く、さんさんと輝いている。これは蝋は蝋でも蜜蝋だ。蜂たちの蝋の色だ。花びらにそっと触ってみる。すこし肉厚。

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 さらに、ロウバイの小径を過ぎて、本館のほうへ戻る感じで歩くと、ふるさと体験館がある。その近くの水辺に、もう一つのお目当て、ネコヤナギがあるので、それを見にゆく。これも去年来て、知ったのだった。
 あのほんとうに猫のしっぽみたいなあたたかそうな毛、花穂(かすい)というのだが、それが昔から好きだった。寒さに耐えている感じがいとしい。
 今年もふわふわとそこにいた。猫のしっぽが枝からたくさん。こちらも触ってみる。毛がなめらかだ。そういえば、子どもの頃、宝箱にこの花穂をひとつ、ふたつ、入れておいたっけ。

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 そうして入口近く、いや出口ともいえるが、本館へ。こちらの常設展の縄文土器や土偶にまた会いたかったのだ。あじさい祭りの時に『府中市郷土の森博物館 常設展ガイドブック』という本を入手していたので、少しだけ土器や土偶の由来がわかった。本宿町遺跡で出土した縄文時代初期の土器、縄文時代中期の土偶、清水が丘遺跡で発掘された縄文中期の土器、武蔵台遺跡(武蔵台東遺跡と隣接していて、ジオラマもあった)の縄文初頭の土器と石器、石棒、武蔵台東遺跡の中期の土器と土偶など。清水が丘遺跡は、苑内に柄鏡形敷石建物跡が移設保存されている。床に石を敷き詰めた縄文中期から後期の建物跡。土器や土偶を、見て、どこかで、触ったような錯覚をもった。というか、目でみることで、感じようとしていたのだ。遠い、でもどこかなつかしい気配。

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 常設展示室から出た、入口と出口を結ぶ廊下に、体験ステーションというコーナーがある。昆虫標本をみたり、昔のおもちゃで遊んだり、昔の衣裳を着たりすることができるのだが、そこに石の矢じりと縄文土器片もあったので、こちらは触ってきた。とくに土器片のほうは、たくさんの人が触ってきたようだ。最近の手と、作られたかつての手を思う。果てしない温もりのようなものを感じた。
 本館は、プラネタリウムも新しくなったらしい。今度機会があったら覗いてみよう。ミュージアム・ショップに行く。ここは博物館だからなのか、他の郷土資料館的な施設よりも、科学的なものが多く置いてある気がする。ガイドブックにも「府中の歴史・民俗・考古・自然・天文、すべてについて紹介されている総合博物館」とある。
 そう、梅干しや府中のお菓子などのほか、過去の企画展の図録、書籍、絵ハガキ、布製品、陶器、昔ながらの玩具、隕石、化石、鉱物なども売っていて、盛り沢山で、ちょっと楽しい。化石ガチャ、鉱石ガチャもある。そして、珪化木も売っていた。わたしにきっかけを与えてくれた、あの……。感慨をこめて、その化石を見る。四つほど売られていた。ここで見たことがきっかけで、去年の暮れに別の場所で購入して、すでにうちにひとつあるというのに、結局今回、また買ってしまった。うちにあるものと、すこし違うかたち選んで。これで二つも持つことになるなと思ったが、最初に珪化木の存在を教えてくれたこの場所に、敬意を表してというか、記念として、どうしても、連れて帰りたくなったのだ。苑内にあった切り株のような珪化木も頭によぎった。
 土曜日が過ぎて、月曜日。晴れて少し暖かい。カラスノエンドウやヒメオドリコソウの葉を見かけた。五分咲きぐらいの梅、通りかかると、甘酸っぱいような香りがした。もう春だと思っていいのかもしれない。ネコヤナギみたいなハクモクレンの冬芽、毛むくじゃらのそれに触る。すこしずつ膨らんできたのかもしれない。春はもうすぐ、いや、もう来ているのだろう。珪化木は、前からいたものと、仲良くふたつ並んで、小さな箱に収まっている。これを書いている机のすぐ脇で、見えるところに置いている。触ると、つるつるとなめらか。植物とこんなふうに出会うこともあるのだった。

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2019-02-10

瞬間の波、永遠の海─江の島

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 海が好きなのに、もうずっと海をみることがなかった。なので行ってきた。うちから一番行きやすい海、江の島へ。車だと近いのは横須賀、三浦海岸辺りなのだろうけれど、電車だと江の島だ。小田急線でほぼ一本でいける。
 江の島・鎌倉あたりは、昔から一人でたまにこっそり出かけているところだった。わたし自身は車の免許がないので電車で。生まれた時から小学校にあがるまで、小田急線沿線に住んでいたからかもしれない。今、小田急線沿線に住んでいるのは偶然なのだが、ありがたいことだ。ともかく江の島や小田原にははどうも愛着がある。小さい私は、踏切で海のほうへゆく特急ロマンスカーを見るのが好きだった。枕木のずっと向こうが海なのだ…。
 家人と出かけた。今回はじめて、江の島1dayパスポートというのを買ってみた。うちからだと江の島までの電車賃プラス八〇〇円ぐらい。それで展望灯台や江の島岩屋などの施設料金も含まれ、土産や飲食その他もも割り引きになるらしい。
 以前一人でのときは、新宿の始発から利用したこともあり、特急券をプラスしてロマンスカーに乗っていったものだった。今は小田急線沿線に住んでいるので、わざわざ乗るまでもないと、急行や快速などを乗り継いでゆく。

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 日曜日だったが、冬という季節もあるのだろうか、電車は比較的空いていた。片瀬江ノ島駅についたのが、午前十一時をまわったころ。
 終点の片瀬江ノ島駅までは内陸だから海が見えない。けれども、近づくにつれて車窓の陽射しが明るくなってきたような気がした。駅に到着すると海はわりと近い。江の島弁天橋のほぼたもと。この橋をわたれば江の島だ。わたしが最後にきたのはいつだったか。そのときよりも、橋のまえの国道一三四号線沿いに並ぶ店たちが、ずいぶん今風になっていたようだ。明るいというか、都会風というか。こんなことを寂しがるのは、年をとったということなのだろう。じつはその変貌のせいで、道を間違えてしまった。あらためて江の島へむかう。あたりは海。トンビに注意との看板。そうだった、トンビが多いのだったけ。ピーヒョロロと鳴きながら、頭上を旋回する姿をなつかしく見上げる。
 橋の途中で富士山が見えた。当たり前だけれど、うちから見えるものよりも、ずっと大きい。すこし雲がかかっていて、くっきりというほどではないが、見ることができてよかった。

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 橋をわたれば江の島。立派な青銅の鳥居をくぐって、お土産店のたちならぶ弁財天仲見世通りへ。貝細工を売っている店、海産物、食べ歩きできる類いのもの、アクセサリー、食事処、こうしたお店たちはは眺めるだけで、楽しい、お祭りのようだ。
 ここは古くから信仰されてきた場所でもあるので、観光地なのだけれど、雑多な賑わいのなかに、どこかそうした歴史や、神聖なものの気配が残っている。日本三大弁天の一つである江島神社の弁財天、「奥津宮(おくつみや)」、「中津宮(なかつみや)」、「辺津宮(へつみや)」……。名前を聞くだけでも、海への信仰、祈りが感じられる。そして龍や亀への信仰。
 すこし古色蒼然とした気配と、観光地としての今の様子。それはわたしにとっても親しみぶかいものだった。疎外感がない。賑やかさのなかで、お土産などをみつつ、上へ、というか奥へ向かう。江の島サムエル・コッキング苑の前で、連れ合いがタコせんべいを買った。タコをプレス焼きしたせんべい。わたし一人だったら多分買わない。いや、彼も一人だったら買わないかも。食することができてよかった。タコがそのままプレスされているからか、風味がよい。タコがはいっていない小麦粉部分にも香りがしみこんでいるようだった。お酒でいただく。トンビが近くを飛んでいる。
 そのあとで、江の島サムエル・コッキング苑と、中にある展望灯台へ。これもパスポートがあるから入ったが、なかったら、おそらく訪れなかった。苑は植物園的な感じだが、申しわけないが、四季を通じて、わたしにとってはあまり関心をひくものがなかったし、展望灯台はわざわざお金を払って登らなくても、江の島からの眺望で十分そうだったし…。
 こちらも今回、入ってよかった。江の島よりもさらに高い、展望灯台からの景色が楽しめたこと、そして資料館での解説。ここは明治の貿易商サムエル・コッキング氏の別荘地だったらしい。それが縄文の遺跡でもあったとある。竪穴式住居跡が発掘され、そこから出土された縄文土器はおよそ九〇〇〇年前の縄文前期のものだったとか、さらに黒曜石の石器が出土、どちらも静岡東半分部分との交流を示して…。
 この日は縄文などとは無縁の遊びをしている感覚があったので、うれしい驚きがあった。苑内は遺跡でもあったのか…。展望灯台から降りて、苑内を、そうと意識して巡る。立派なスダジイの木があった。縄文時代、食されていたドングリのなる木だ。関係がないかもしれないが、勝手に縄文と結びつけて、立派な大木を眺める。花期になったら、きっと独特の、生の放出的なにおいをあたりに漂わせるのだろう。

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 そのあとで、海のみえる食堂で昼食を。釜揚げしらすと鰺のたたきの二色丼と、サザエのつぼ焼き、そして連れ合いは江の島ビール、私はワイン。
 ほかの店と迷ったけれど、海が見えるところ、サザエのつぼ焼きが食べられるところということで選んだ。味はまあまあだった。海が見えて、サザエのつぼ焼きが食べれて。十分だ。
 そう、なぜかサザエのつぼ焼きに固執している。それほど美味しいと思っているわけではないのだが、こうして海辺に来ると食べたくなる。海にきたというイベントの象徴になっているのかもしれない。サザエの蓋部分を、連れて帰った。小さい頃、これでおはじきをした記憶もある。そうだった、子どもの頃、家で食卓にサザエが出たという記憶はあまりないのだけれど、プランターや鉢に、サザエの貝殻が乗っかっていたおぼえがある。カルシウムが植物にいいとのことだった。そんな記憶たちも重なって、海でサザエのつぼ焼きを食べたくなるのだろうか。
 午前中に江の島にきていたが、食事をしたのはもはや二時近かったかもしれない。そのあとでごつごつとした岩場の稚児ヶ淵、岩屋へ。個人的にはこの稚児ヶ淵のあたりに一番来たかった。波が迫る岩場と磯で、意外と荒々しい海を近くで感じることができるから。

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 またトンビが目についた。食べ物を狙う子なのかもしれないが、わたしはどうも昔からトンビが好きなのだ。上昇気流に乗って輪を描いて飛ぶ姿が美しいし、猛禽類なのだが、ピーヒョロロという鳴き声が、その姿とすこし違和のあるのも、やさしい。勝手な思い入れなのかもしれない。わたしが住んでいる辺り、内陸ではほとんど見かけることがなく、海辺の鳥というイメージもあるかもしれない。旅先でしか会うことがない鳥……。

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 そして、待望の海だ。ここに至るまでにも、海はあったし、それを見て感慨があったが、波やしぶきを近くで感じられるのは、独特のものがある。岩の隙間に入り込む海、打ち寄せる波のかたちが刻々と変わる。ときに足元をぬらしそうなぐらい近づいて。おなじ姿をとらないということが、昔から不思議で、尊いもののような気がしていた。この瞬間は永遠なのだ。雲がまた移ってゆく。それにしても陽射しがまぶしい。潮の香りがする。海の水は比較的きれいだ。

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 磯の奥まったところ、水が井戸のように残っている裂け目に、死んだ魚が沈んでいた。こうしたことも、目をそむけず、覚えておかなければいけない。
 そのあとで岩屋に入って、整備された洞窟をめぐる。手燭を持って歩くところもあって風情があった。あとはもう帰り道。海からすこしずつ離れてゆく。まだそこ、むこうに見える。また土産物屋さんをのぞく。とても小さな貝の入った袋、そして桜貝の入った瓶詰めを買う。桜貝は、子どもの頃に好きだったもので、たしか持っていたはず。マニキュアをした爪のような、桜色の小さな貝。すこし力を入れたらすぐに割れてしまう、繊細な、羽のような貝。
 江の島弁天橋を渡る。もう最後の海だ。だいぶ日が傾いてきた。トンビが旋回している。

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 この日は、日曜日だったと書いたけれど、次の月曜日も、珍しくバイトが休みだったので、曜日の感覚がなかった。まるで土曜日のようで。満ち足りた休み、そして休みの前。髪の毛が少しごわごわしている。海にゆくといつもこうなる。潮風にあたってきたということ、海から帰ってきた証拠だ。つぎに海へゆくのはいつだろうか。
04:41:24 - umikyon - No comments

2019-02-05

えにしと住んでいる場所たち。赤塚へ。(板橋区立郷土資料館)

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 どうやって見つけたのだろうか。ネットの検索で、板橋区立郷土資料館で「再発見!いたばしの遺跡〜いたばしの旧石器時代・縄文時代〜」(平成三十一年一月十九日─三月二十四日)という催しがあるということを開催のだいぶ前、おそらく去年知った。会期中なら比較的簡単に見つけられるけれど、その前だと、ちょっと引っかかりにくい。会期前の後日もう一度試してみたが、なかなか探し出せなかった。縁があったのだろうか。見つけることができてよかった。
 板橋区立郷土資料館は、赤塚城跡、赤塚溜池公園に隣接している。赤塚はかつてわたしが住んでいた街でもある。自分のことなのに、大雑把にいってしまうが、十年ほど前、十年ぐらい住んでいたのではなかったか。
 特に近くにある赤塚植物園は、毎週のように出かけていた。だが、郷土資料館のあるあたりは、数えるほどしか訪れたことがない。郷土資料館にいたっては一回入ったぐらいではなかったか。あの頃から縄文などに興味があればなあと、また思う。縄文時代に興味を持ったのは、ちょうど赤塚を引っ越した直後だった。けれども、まだ行けるような場所にいるうちで、よかったとも思う。
 ともかく、二月になってすぐ、比較的陽射しで暖かく感じられるある日に出かけてきた。
 うちからだと、千代田線・副都心線の地下鉄ルートが便利だ。この副都心線は、赤塚にいる最後の頃に出来た比較的新しい路線で、今回、電車に乗っていても途中駅までは、あまりなじみが無いことが、すこしおかしかった。北参道、東新宿、雑司ヶ谷…。なじみのある場所に行くのになあと。池袋を過ぎたら、なつかしい駅名が続く。千川、小竹向原、平和台を過ぎたら地下鉄赤塚。
 あちらがわの出口が、わたしが家に帰るのに使っていたほうだなあと、感慨にふけりながら、逆の出口へ。郷土資料館までは、実は二キロ以上ある。途中の植物園に行くのにも、自転車でしか行ったことがない。徒歩で行くということは、すなわち、もはやここの住人ではないということなんだなと思う。それでもいつもみたいに地図を確かめたりすることがないから、ゆかりがある場所、ともいえるのだけれど。
 ほぼ十年ぶりなので、店などは変わっていたところもあったけれど、全体的な印象としてはあまり変わっていない。今住んでいる場所と、どこか似ているなあと思う。比較的緑が残っているからか。それもあるけれど、周りに高い建物がないからだろう。
 愛猫のべべのかかりつけの病院があった。もう危篤状態です。こちらではもはやなす術がありませんといわれるまで、通っていた…。すこし思い出すのがつらかった。もう十年以上前なのに。けれども、こうしたことも含めて、受け入れなければならないのだろう。この病院へ来るとき、今歩いている大通りからではなく、暗渠となった川の上を自転車を走らせてきていたのだった。その緑道も確認する。

 東京大仏の近くの大仏蕎麦のお店。かつて、なぜかわたしの案内で、赤塚植物園、東京大仏を巡る句会を開いたことがあり、その昼食をたべたところでもあった。案内の電話番号、以前は〇三がなかったが、今はちゃんと市外局番から始まっている。変わったのはそれだけだ。いや、それが変わったということなのだろうか。おいしかったなあ。
 大仏蕎麦の近く、郷土資料館にゆく前に、途中にある赤塚植物園へ。毎週のように行っていたなあと思っていたが、考えてみたら二月のこんな時期には、訪れたことがない。花が少ない季節だから。けれども、絶対に寄ろうと決めていた。大切な場所だった。

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 入ってみると、たしかに花が少なかった。まだ梅も咲いていない。睡蓮池がむきだしといった感じで、冷たげな水を湛えている。はいってすぐに、赤い実が目についた。ピラカンサスに似ているなあと思ったらヒマラヤトキワサンザシとあった、花のような赤。咲いているのは、福寿草、水仙、椿ぐらいだった。けれども、黄色い福寿草が、地面に鮮やかだった、そして、案内板で現在見頃のものとして提示されていた、タラヨウの赤い実。
 タラヨウというのは葉っぱの裏に傷をつけて字を書くことができる樹木で、その縁で郵便局の木にもなっているもの。葉書の語源という説もある…ということは知っていた、というか、ある詩人の方に教えてもらっていたのだが、赤い実がなることは知らなかった。タラヨウの実は、さきほど見たヒマラヤトキワサンザシほど派手さはないが、赤さが奥ゆかしいようで、やさしかった。冬にともった小さなぬくもり。

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 ニリンソウはまだ芽すら見つからなかったが、板橋の花だったなあと、姿を思い浮かべながら、植物園を後にし、今度は不動の滝へ。不動の滝公園となっているが、通りから見ることができるところだけのぞいた。わたしが住んでいた頃から、水量が少ないと思っていたが、それ以上に少なくなっていた気がする。今住んでいるところの近くにもやはり不動の滝(喜多見不動)がある。不動の滝つながりなのかしらと、ふとくっつけてみる。そういえば、植物園でもらった「みずみどり」という小冊子に、荒川と武蔵野台地との間の高低差、崖下から染み出る湧水のことが書いてあった。うちの近くの国分寺崖線とおんなじだ。川の近くの崖下というのは、湧水が染み出るところなのだなと、あらためて思う。
 だいぶ寄り道してしまったが、いよいよ板橋区立郷土資料館へ。隣接した板橋区立美術館は、工事中で閉鎖している。溜池では釣りをする人たちが見えた。
 池のほとりの建物が、目当てのところだ。こんな素敵な場所だったのか。

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 HPなどから、企画展の概要を。
 「私たちが暮らしている“いたばし”には、いつから人がいたのでしょうか? 南関東では、およそ四万年前の生活の跡が最も古い時代と考えられ、西台後藤田遺跡では、同最古級の資料が見つかっています。この他にも、岩宿遺跡に次ぐ国内で二例目の発掘調査事例となった茂呂遺跡など、旧石器時代を研究するうえで重要な遺跡が数多く調査されてきました。また、旧石器時代に続く縄文時代でも、一時縄文時代最古とされた稲荷台式をはじめ、縄文時代前期の標識資料とされた四枚畑式など、考古学的に知られる遺跡が数多く存在しています。更に、四葉地区の遺跡では居住内貝塚と共にイノシシを模したと考えられる獣面把手や縄文土器が出土しています。こうした旧石器時代と縄文時代の遺跡や出土資料から得ることのできる情報を元に、区における人の生活の始まりとその内容について紹介します。」

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 そのほか、縄文後期では小豆沢貝塚、赤塚城址貝塚などがあったとか。特に赤塚城址貝塚は、この郷土資料館の隣接地だ。赤塚と名のつく場所に、貝塚があったなんて…。
 つい、展示品も、赤塚のものに目がいってしまう。ほぼ完全な姿で残っている土偶、注口のある土器、堀之内式土器…。そのほか四葉地区の遺跡からの出土の土器が充実していたと思う。
 また縄文土器たちを見ることができたなあと、会場内で思う。大雑把なことを書いてしまうが、多摩地区のもの、石神井で見たものと、見た目というか、印象が似ている気がする。石神井は、隣の区だし、近くだから、そうかもしれない。時代もなにも、考えなしに書いてしまうが、派手さがあまりない。けれども、しっくりとくる。なじみやすいといえばいいのか。おだやかに、時の向こうから、よりそうように、土器たちがそこにあった。
 企画展の会場内では写真撮影が禁止されていたので、常設展の縄文コーナーで写真を撮った。

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 そのあとで、中庭に移築保存されている、古民家へ。旧田中家住宅という。江戸時代後期の建物だとか。こちらも、現在の家の近くの次太夫堀公園民家園などの建物を思い浮かべてしまう。そういえば、うちも崖下にあたるけれど、崖のうえは、縄文の遺跡があったのだっけ…。
 ということで、名残惜しかったが、貝塚があったという赤塚城跡のほうへ。美術館の南側の山を登る感じ。ここは桜がきれいだったり、さらに南にゆくと梅林があったりするので、その時期に来たことがあった。もっとも桜の時期は、赤塚のここではなく、川越街道をはさんで、練馬区にある光が丘公園にいっていたので、あまり来たことがなかった。梅祭りも開催されていたので、梅林に何回か来たことがあったのだった。
 そんなところに、貝塚が…。ただ遺跡を示す碑の類いがないので、どこなのかわからない。持ってきていたガイドブック(『武蔵野の遺跡を歩く』)に東北斜面と書いてあったが、ガイドブックの地図をみると、逆のかんじだ。しばらくうろちょろして、要領を得ないまま、もしかして…と思えるところを、写真に撮った。あとで家に帰って郷土資料館でもらってきた企画展のチラシをみると、小さく「旧板橋区史より 赤塚城址貝塚」という地図が載っていて、そこについている印で、ようやく貝塚の跡がわかった。もしかして…と思えたところ、そして、古民家にいったときに見上げた斜面、このあたり、なんだか遺跡っぽいなあと思ったあたりが、それだったので、ちょっとうれしくなった。

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 赤塚の駅についたのが午後一時近く。貝塚を探している時は、午後三時すぎ。だいぶ西に日が傾いていた。
 帰りは、また赤塚の駅のほうへ歩きはじめたのだが、早朝バイトをしてきてのことでもあって、けっこう疲れていた。バス停があったので、ふと時刻表をみると三十分に一本ぐらいの本数なのに、まさに今が到着時刻だった。正確には一分前。もう出たのかな、そしたらしょうがないと、思案していたらバスがきたので、つい乗ってしまった。行く先は赤塚ではなく、ひとつ向こうの成増駅。成増は住んでいた頃から隣駅だったが、そんなに頻繁に訪れたことがないので、バスの走る道も、知らないところだった。帰りも赤塚を通って、感慨にふけりたいなと思ったが、まあ、しかたない。成増駅についた。ここも考えてみれば、久しぶりの場所だ。おいしく頂いた回転寿司の店がまだある。
 副都心線から千代田線、千代田線直通の小田急線へ。途中『縄文時代の歴史』(山田康弘著、講談社現代新書)を読む。郷土資料館で、さきほどみたばかりの製塩土器についての記述があって驚いた。海水を煮て塩を作る土器。塩をつくることに特化している、文様がまったく描かれていない土器なので、つい素通りしてしまったのだが、ここでこの記述に出会ったことが、やはりえにしのようで、うれしかった。
 小田急線で自宅最寄り駅に降りる。この崖上のあたりにも縄文の遺跡があったのだ、そしてうちのある崖下は、海だったのだ…。近くを流れる仙川の貝層断面を、こちらは世田谷区立郷土資料館でみたことがあったっけ…。そんなことを思いながら自転車をこいだ。自転車に乗っている場所が、現在住んでいる場所なのだ、かつて赤塚がそうだったように。もう夕焼け、いや日が落ちたのだろう。暮れ残った西の空に富士山が見える。ここが今のわたしの住むところ。

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2019-01-20

初春の縄文など─川崎市民ミュージアム

 年が明けて、もう大分経つというのに、大寒の頃、やっと正月気分が抜けた。というか、ゆっくりと日常に戻っていった。毎日バイトをして。正月に残ったお餅を昼ご飯にして。
 この頃、本をちゃんと読んでいないことに気づき(いいわけめいてしまうが、詩の類いは読んでいる。それ以外…)、新古書店に行き、堀辰雄、『梁塵秘抄』などを買う。ミヒャエル・エンデの『エンデのメモ箱』、以前、買いそびれていたものが売っていたので、それも。なぜ買いそびれてしまったのかわからない。好きで全集の類いもけっこう持っている。ほんとうにメモ書き、断片集だと思ってしまったのかもしれない。
 

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 新春というのに、まだ大寒前。いちばん寒い季節だろうか。冬を好きになろうとしているが、なかなかうまくいかない。それでも、ずいぶん冬と仲良くなってきたのだが。曇り空などが続くと、とたんに気持ちが沈んでしまう。植物のようだなといつもぼんやり思う。冬のなかで、陽射しや寒さに向かっていること。紫外線量の少なさが気持ちに影響すると、昔、医者に聞いたことが思い出されて。
 またチラシなどを配ったりのバイトも始まった。沈丁花がもう蕾をつけているのを見つけた。ハクモクレンの冬芽…ネコヤナギみたいな毛むくじゃらの芽に出会った。そっと触ってみる。また、会えたなあと弱い陽射しのなかで思う。

 なにか展覧会とか、ないかしらとパソコンで検索していたら、家の近くでこんなものを見つけた。川崎市民ミュージアム「発掘された日本列島2018〜新発見考古速報」(二〇一九年一月八日〜二月十七日)。実はこれは文化庁などが主催する巡回展で、去年、江戸東京博物館で同じものを見たことがあった。でも川崎市民ミュージアムの常設展にも行きたかったし、連れははじめてなので、出かけることにした。今年初めての縄文土器…。まだ新年が続いている。そう、縄文土器に特に出会いたかったのだ。
 うちから川崎は、かなり近い。大雑把にいって、多摩川を越したらすぐ隣町。今回は車で出かけたけれど、自転車でも行けるぐらいだ。

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 川崎市民ミュージアムのHPから。
 「日本列島では、毎年約八〇〇〇件の発掘調査が行われています。「発掘された日本列島二〇一八」展では、このうち近年発掘され成果がまとまった全国一七の遺跡から五四六点にわたる資料を速報展示します。さらに、特集展示として全国の代表的な装飾古墳を取り上げます。古墳内部に表現された幾何学紋や器財・動物・人物等の文様は、古墳時代の死生観や葬送儀礼を知る上で極めて高い価値があります。この特集は、東日本大震災や平成二八年に発生した熊本地震により装飾古墳が被災した事態を受け、装飾古墳の世界やその保護の取り組みを紹介するものです。
 川崎でも、重要な遺跡が数多く発掘されています。現在の川崎市域には、かつて古代武蔵国の橘樹郡・多磨郡・都筑郡がありました。この三郡にはそれぞれ、橘樹郡に影向寺遺跡、多磨郡に菅寺尾台遺跡、都筑郡に岡上栗畑遺跡の古代仏教遺跡があります。瓦塔や「寺」と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)などが「ムラ」の遺跡から出土し、また丘陵地帯には骨蔵器を用いた古墓群が造営されました。これは古代になって新しく出現した有力氏族の墓所と考えられます。本展では、これらの遺跡から発掘された資料から、古代寺院の成立とその後仏教が「ムラ」に浸透していく過程を描きだします。古代の川崎に華開いた、仏教文化をご観覧ください。」

 江戸東京博物館でも、展示解説、ギャラリーガイドの方のお話を聞いてためになったので、それも目当てだった。今回は、加曽利貝塚から剥ぎ取ってきた貝層断面に、土器が突き刺さっていると聞いて、よくみたら確かに確認できたことに、ちょっと驚いた。加曽利貝塚で断面は見ているのに気づかなかった…、そうした目でみると貝にまじって、あちこちに土器が刺さっている感じで、確認できた。

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 縄文関係の展示は、特に加曽利貝塚…。去年もおととしも訪れたところなのに、やはりその関係の展示にひかれた。丁寧に埋葬された犬、加曽利式の土器、ほとんど欠損が見当たらない山形土偶(顔が山形なのでこう呼ばれる)、頭だけのミミズク土偶(円盤を貼り付けた顔の表情がミミズクに似ている)。

 もう一つのお目当ては、常設展だった。時系列が逆になってしまうが、実は最初にこちらに訪れた。旧石器時代から昭和までの展示。セエノカミという行事についての解説があった。小正月の時期、松飾りや注連縄を燃やす行事で、個人的にはドンド焼きが耳なじみがいいのだが、川崎ではセエノカミと呼ばれていたとのこと。セエノカミは塞の神、道祖神のこと。つくられた藁小屋が再現展示されていたが、それが竪穴式住居のようだと思ってしまったが、関係ないのだろうか。この小屋でおこもりをし、そのあとに火がつけられ、神様に送られる。火への信仰、そして村境にあった神への信仰。道祖神が縄文の石神信仰と関わりがあるかもしれないので、もしかして、感じたことはあながち間違えではないのかもしれない。
 川崎の縄文遺跡から出土された縄文土器などもみた。今年初めての縄文土器。これだけで、もう、うれしくなってしまう。川を渡った、家から近いところの出土品。そしてこのあたりも、かって海だったということ。

 実は川崎市民ミュージアムは初めて訪れたのではない。だいぶ前、一度、来たことがある。たしかフランシスコ・ザビエルに関する展覧会…。調べてみたら一九九九年だった。「大ザビエル展 : 来日四五〇周年その生涯と南蛮文化の遺宝」というらしい。そのころしていた仕事の関係で招待券を頂いて、それで…、ザビエルのあまたの肖像画の展示、南蛮文化的な展示だったと思う。今住んでいる場所ではなかった。あの頃は、もっと川崎市民ミュージアムに来るのに、けっこう時間がかかる場所に住んでいた。まさかこんなに近いところに越してくるなんて、思いもしなかった。
 このときは常設展示は行かなかった。ただ、ザビエルの展覧会をするのに、ずいぶん現代的な展示施設だと思った記憶があった。
 今回も、現代アートと常設の展示が融合していると思った。なので一見すると常設の展示に入るのに、すこし戸惑うのだけれど。このエリアは現代なのだろうか、古代なのだろうか? この錯覚は心地よいといえば心地よいけれど。

 今回も時間の関係でいかなかったけれど(なんだかんだ三時間はいた)、川崎市民ミュージアムは川崎市中原区の等々力緑地内にある。この緑地には釣り堀池や緑豊かな公園もあるようだ。とくに釣り堀池は広いようだったので、訪れてみたいと思った。それと、ミュージアム内の映画上映、ミュージアムショップ、常設展なども。自転車でゆける場所だということがわかったので、次は自転車で。春になったら。

 この日は暖かだった。満月も近いらしく、夜中に西のほうにしずむ月をみた。訪れた午後に、東から登ってきた月をみた。しらべたら二一日が満月。わたしが早朝バイトに出かける頃、夜中にちかい明け方、しばらくこの月が見えるので、すこし詳しくなったのだ。これから半月ぐらいは、晴れていたら、真っ暗な午前四時ぐらいに、明るく輝いているのが見える。
 半月たったら、二月。まだ春の暖かさはないかしら。春を待ち望んでいる自分がいる。
09:27:30 - umikyon - No comments

2019-01-01

謹賀新年 2019年1月1日 初日の出

あけましておめでとうございます。

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 今年も例年のように初日の出をみようと目覚ましを日の出の二〇分ぐらい前にセットした。午前六時三〇分。天気予報では晴れて初日の出が拝めるということだったので、てっきり快晴なのだとばかり思って外を見たら、東のほうから西まで下のほうに、雲がずいぶんかかっている。南東の空に、細い月がいた。中空に雲はないので、晴れといえば晴れなのだろうが、すこし残念な気持ちになった。下まで晴れていれば、日の出の五分ほど前から、地平線が明るくなって、登ってくる場所がわかる。けれども雲のために、初日の出の六時五〇分にも、太陽がみえない。毎年、拝んでいるのに、そうなると、どこからあがるのか、微妙にわからない。これも例年のことなので、学習能力がないなあと、すこしおかしくなる。東のこのあたりかしらと見当をつけるのだけれど、いざあがってみると、いつも場所が違うのだった。

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 ちなみに西のほうには富士山がみえるのだが、それもことしは雲に隠れてわからなかった。
 日の出の時間がすぎ、七時ぐらいになって、雲の切れ間から、ようやく光がさしてきた。輝きが線になって、雲をつきとおすよう。これはこれで味わい深いと思う。


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 家人に教えようと声をかけたすきに、もう雲に隠れてしまった。そのあとまた一〇分、十五分、雲の間から見え隠れして。最後にくっきりとした姿を見たのは七時三〇分ぐらい、日の出の時刻から、四〇分かあと、ぼんやりと思う。
 こんな初日の出もある。雲のすきまから、ひかりの束。拝むことができて良かった。

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08:21:28 - umikyon - No comments

2018-12-30

植物たちに、思いを寄せる…(ミュシャ展、珪化木)

 すこし前に偶然、新宿で「アルフォンス・ミュシャ展」が開催されると知ったので、めずらしくチケットを購入した。小田急百貨店で十二月二十六日から年明けの一月七日まで。珍しく、といったのは最近は興味がほかに、おもに縄文などに移っているので、美術展の類いはあまり出かけていないから。だから自分でも、なんで買う気になったのか、ちょっとわからなかった。それに、ミュシャなら、もう何度もみたではないか、何度もみた他の画家たちの展覧会は、いかなかったくせにと。
 懐かしくなったのかもしれない。新宿ならほかに出かけたいところもあった。そんなこんなで二十八日に出かけてきた。
 早朝バイトがかなり忙しい時期で、疲れていた。こんなことで頭が切り替わるかしらと思ったが、通勤は自転車で、電車に乗るということが、もはや非日常なので、それだけで案外スイッチが切り替わってくれた。
 小田急百貨店のHPから。
 「アルフォンス・ミュシャ(1860─1939)は、19世紀末のヨーロッパにおいて流行した「アール・ヌーヴォー」の代表的な画家、デザイナーとして知られています。現在のチェコ共和国に生まれ、幼い頃から絵を描き続けたミュシャは、近隣の領主エゴン伯爵に才能を認められ、1887年、伯爵からの援助でパリに美術留学しました。しかし、1889年突如援助を打ち切られ、挿絵などを描いて生計を立てるようになります。
 本展では、代表作〈ジスモンダ〉をはじめ、ポスターや装飾パネル、本の挿絵、ポストカードに加え、アメリカ時代から祖国チェコに戻り、スラヴ独特の象徴的表現で制作した作品、デザイン集、雑誌、はがき、当時販売された商品のパッケージ等、珠玉のミュシャ作品400余点を展示いたします。」

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 会場はちょうどいい混み具合だった。静かに観覧することができた。写真撮影が可ということなので、シャッターを切る音などは響いていたけれど。
 感動した…ということは、やはり思ったとおりになかったが、懐かしかった。彼の絵が好きだった自分を感じるようだった。やはりパリ時代の、大女優サラ・ベルナールに見いだされた頃の絵が、圧倒的に生き生きとしていた。生活に美をという発想が素敵だった。ポスター、挿絵、カレンダーやお菓子の箱、シャンパンに香水。
 展覧会の会場にあった言葉。「アール・ヌーヴォーの基本姿勢は「自然から学ぶ」で、それは多用される植物模様や有機的な曲線モティーフからも明らかでしょう。(中略)リアルに再現しながら、それらをリズミカルに繰り返すことでデザイン的な効果を示しているものもあります。ナイフ、フォーク、食器などは「生活の中に、美の喜びを」というアール・ヌーヴォーの理念の表明とも見えます」
 わたしがミュシャやエミール・ガレが好きだったことが、なんとなくわかったような気がした。ヨーロッパの植物に対する考えとは無論背景が違う。けれども、植物好きなわたしの琴線にひびくところが当時、あったのかもしれない。
 子供の頃から植物は好きだったが、それに対して喜びのようなものは感じなかった。ただ当たり前のようにそばにいてくれるものだった。その植物たちが、こんなに美しく別の姿で現われる…そのことに若いわたしは感動した、という面もあったのではなかったかと。
 それは縄文時代に興味を移していった今につながるわたしだった。植物たちが愛しいし、それ以外にも…、たとえば生活についてなど。
 感動しなかった…といいつつ、会場内を何回か往復した。なんだかんだ気に入った証拠だ。
 
 ミュージアムショップなどもみて楽しんだあと、別の期間限定特設雑貨店へ、こちらも目当てのひとつだったのだが、欲しいものがなかったので、また別の…。新宿西口にある小田急百貨店から、地下通路を通って東口へ、そこから地上へ。新宿は子供の頃からなじみがある所なので、かつてしったる…のような、親近感がある。そのことを思い出して、なんだかわくわくと移動している。年末でけっこう人混みしているというのに。ここをまがれば、あの店へ、あの場所へ。
 お目当ての店は、紀伊國屋書店のビルの中にある。鉱物や化石を売っているお店。
 以前、府中市郷土の森博物館で売っているのを見て、珪化木という木の化石の存在を知った。木の切り株のままつるつるの石になっているような感じ。博物館でみたときに買えばよかったのだが、そのときは買わなかった。それからずっと気になっていたのに。その珪化木を、今日こそ買おうと思って訪れたのだった。
 アンモナイトに三葉虫、鉱物、化石、隕石、この店にも、訪れるたびに、わくわくする。
 ガーネットの原石、アンモナイト、砂漠の薔薇、虎目石なんかを、たしかここで買ったと思う。最初に買ったのは、もう四半世紀も前になるかもしれない。
 で、珪化木。やはり植物がすきなので、たぶん惹かれたのだろう。縄文土器片を手にとって、かれらの時代を感じたいように、珪化木も手元において、木の時間をさわってみたかった、見つめたかったのだ。
 お店には、数種類あった。その中の一つを購入する。直径四センチのちいさな切り株。かろうじて年輪ぽいものがみえる。
 ちょっと調べたら、土砂に埋もれた木が、地下水などに含まれる珪酸によって、長い時間をかけて二酸化珪素に化した木ということで、珪化木なんだとか。二酸化珪素が結晶化すると石英になるから、石英の色も珪化木のなかで見ることができる。
 幹のあたりはざらざらして、石というより土器のよう、そして切った面はつるつる。なめらかすぎて、こわいぐらいだ。買って良かった。
 ナンヨウスギで、二億五千年から一億九千年前のもの、そう書いてあった。

 お店で、ラリマーという、海の波紋をそのまま石にしたような鉱石もうっていた。はじめてみるかもしれない。珪化木の二〇倍ぐらいの値段がしていたので(笑)、手が出なかったけれど、海の結晶のようで、ちょっとひかれた。

 今、珪化木は机の上で、すぐ手元にとれて、見ることができる場所に置いてある。植物の息づかい。今年も終わろうとしている、つるつる。

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08:46:07 - umikyon - No comments

2018-12-20

冬の花と、ボロ市


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 我が家の玄関にクリスマスリースが飾ってある。珍しくお手製のもの。
 冬になり、街に花を見ることがなくなってひさしい。たまに見るのは赤い実のピラカンサスなど。それはそれで、いとしい。けれども、だからだろうか、あちこちの家のドアにかかったクリスマスリースについ目がゆくようになった。花をみる代わりなのだろう。
 それで、なんとなく自分で作りたくなってしまったのが十一月終わりだった。参考にしたのが園芸店のリース。松ぼっくりやドライフラワーできれいにアレンジされて、冬の花が満開のようで。
 ちなみに、わたしはこうした作るということ、基本的に大好きなのだが、ながらくそれをしないようにしてきた。子供の頃は、ガラクタばかり作っていた。作ることが楽しかった。けれども、書くことが作ることに変わったので、そちらは殆どしなくなった。自分で書くことだけをするように課していたのだ。
 それを解禁したのは、堕落のような気が、今でもすこしするのだが、数年前、グループ展で作品を出品するということに関わっていた時期があった。絵は描けないので(こちらも実は十代の頃まで大好きだったことなのだが)、オブジェ的なものを作った。自分の文章、書いたものにガラクタたちを貼り付けたりして。楽しかった。熱中した子供の頃を思い出した。だから、ハードルが下がったのかもしれない。また作ってもいいんだと。あるいはガラクタを作ることと、創作活動は、響き合うのだと、思ったのかもしれない。

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 で、クリスマスリースだ。材料は一〇〇均で購入したものと、拾ってきた松ぼっくり、ポプリの中身など。最後に先日でかけた民家園手作り市でもらった棉がらを貼り付けてみた。購入したもの、拾ったり、もらったもの、ながらくうちにあったもの、思い出たちが、ごちゃまぜになって、それがクリスマスリースとなるのが心地よかった。できあがったもの、自画自賛してしまうが、意外といい出来だ。出勤したり、帰宅の時につい見てしまう。冬の、うちの花だ。

 十二月に入って早朝のバイトが繁忙期に入り、ずっと少し疲れが抜けないでいる。
 まあ、それはしかたない。休みは固定で週一回日曜日。土曜日はだから休日前のすこし非日常な感覚がある。
 その土曜日、世田谷のボロ市に出かけてきた。ここ数年、毎年のように行っている。ボロ市は毎年、十二月十五日、十六日、一月十五日、十六日に日を固定して開催。元は楽市起源で、四〇〇年の歴史をもつ。古着やボロ布が売られていたから「ボロ市」の名が付いたとのこと。露店数は約七〇〇。日用品・書籍・骨董・玩具・食品・アクセサリー・植木など。場所は世田谷一丁目、ボロ市通り付近。
 ここ数年は、開催の四日間のうち、どこかが土曜にかぶさっているので、そこで出かけている。
 去年だったか、おととしだったか、テレビなどで紹介されたからか、ものすごく混んでいたことがあった。人混みのなか、ただ通りを流されるだけ。品物をみることすらできず、買うなんてとても…。どこかで出店している方のコメントをきいたか、読んだのだけれど、あれだけ混んでしまうと、かえって商売あがったりだとのこと。人たちは、立ち止まる余裕がないのだ。川のなかを流されてゆく。今年も土曜日だったから、混むんだろうなと心配していたのだが、意外だった。なるほど混んではいるけれど空間があった。立ち止まってみることができる。ちょうどいい混み具合だ。あまり人が少ないのもさびしいから。ほっとしながら、ゆっくり通りを歩く。
 家紋の判子、スルメイカの干物、針金細工、古い着物、鉱石、戦前の教科書に、古い絵ハガキ、カップ酒、縁日的な食べ物のシシカバブー(でも昔ながらのたこ焼きとか、ジャガバター、焼きそばとかはなかったか、少なかった)、骨董、豆盆栽、木製の鳥の餌代、鳥笛、神棚、あとはなんだったかしら、川の流れのなかで、ほんのすこしたちどまって、それらを眺める。市というのは、どこか心がさわぐ。売り買いするという行為は日常なのだが、非日常の感覚があるからだろうか。
 混んでいた時、それでも通りからすこし外れたところ、川の支流といったところのアクセサリーを売っているところで、石のネックレス、木のブレスレットを買ったと思う。あと、やはり本通りからそれた場所で、縄文土器が売られていたのをみた記憶がある。去年だったかどうか。
 だが今回は、アクセサリー屋さん店はおなじ場所にあったけれど、ほしいものがなかった。縄文土器を売っていたお店は、多分無かったと思う。あったと思われる場所では、アンモナイトや三葉虫の化石、鉱石などを売っているお店になっていた。それはそれで、楽しかったけれど。
 縄文土器といえば、ボロ市通りの真ん中に、代官屋敷と世田谷区立郷土資料館がある。郷土資料館によった。毎年、ボロ市の頃には企画展で、ボロ市のことを採り上げてる。けれどもお目当ては、世田谷の縄文遺跡の紹介、出土品だった。もう何度もみているのにやはり、縄文土器に会いたかったのだ。ほっと息をつく。縄文後期のものだ。
 展示室は二階なのだが、一階の入口に、仙川という川の付近の貝層断面が展示されていて、すこし驚いた。気づかなかったか素通りしてしまっていて、ほぼはじめて見るものだったし、この場所は、けっこううちの近所でもあって、とくに桜の時期は、お花見をしに、毎日どこか、憑かれたように、出かけてしまう場所の近くだった。
 後日のことを書いてしまうが、今日、その川の近くを通った。このあたりは海だったのだなと思う。わたしが住んでいるところも低いところだから海だったのだろう。そう思いながら、坂をくだった。海へむかうように。
 話がそれた。そのほか、企画展では、徳富蘆花、北原白秋などがボロ市のことを書いているのを見た。特に徳冨蘆花の文章はここちよかった。
 郷土資料館は、代官屋敷があった場所で、庭園もある。庭園内を散策して、一角で立ち止まる。夏には、このあたりがホタルドームとなって、ホタルを中で見ることができるホタル祭りが開催されるんだなあと、感慨にふけった。入口近くで世田谷のスイーツなのだろうか、お菓子が売っていたので購入する。
 今回は、出かけたのが二時過ぎと少し遅かった。ほぼ見て回って、そろそろ帰ろうかなと思った頃には、もう暗くなっていた。冬至近いこの時期はほんとうに日が暮れるのが早い。暗くなると、品物たちはちょっと見づらくなるけれど、夜店のようで趣があった。暗がりのなかで骨董をながめる。手にとったものだけがクローズアップされるみたいだ。鉱石がひかっている。

 うちに帰ってきたら、玄関ドアにクリスマスリース。やさしい花の出迎えみたいだ。その日のうちに、ボロ市で買ってきた豆菓子、スイーツなどを頂く(今年は口にするものしか買ってこなかった)。日常と非日常たちの仲よさげな連なりだと思う。疲れはまだ抜けないけれども。
20:13:58 - umikyon - No comments

2018-12-05

好きと苦手、仕事と楽しみと日々、そのはざまで (湧水たち)

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 秋が長らく苦手だったと、書いただろうか、たぶん書いているだろう。ここ何年かで苦手意識はだいぶなくなってきたけれど、好きな季節といわれれば、やはり春。花が少なくなってくる季節、葉が落ちる季節、秋が苦手だった。そして寒い、陽射しに力がなくなる冬になる。咲いている花はほとんどない。それが心まで寒くなるようで。
 秋の紅葉も、終わりへむかってのお祭りのようで、どこか寂しい。色づいた葉が落ちてゆく。秋も冬も苦手だ。はやく春になればいい、そうずっと、思ってきた。
 ここ何年か、と書いたが、もはや十数年かけて、なのかもしれない。すこしずつ、ゆっくり、紅葉を、うつくしいと思えるようになってきた。夕暮れのような、最後のかがやき。そして太陽がまた昇るように、葉も次の年には、また鮮やかな緑をつけるだろう。

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 土曜日、早朝バイトがおわってから、仕事をかねて、湧水のある公園、おもに二カ所、回ってきた。取材というか、まあ、そんなこと。そちらは、どこかで書くから、置いておいて。
 二つともはじめてゆく場所。両者はずいぶん近い。間に美術館をはさんで、おなじ道沿いにある。もとは続いた緑だったのかもしれない。
 道にそって川が流れている。かつては田んぼの用水だったとか。出かけた公園とは別に親水公園として整備されている。
 春でも使える写真を撮りたかったので、それが少々気がかりだった。自転車で出かけたら、いきなりの木々の緑というか、紅葉あるいは黄葉。見事だなあと思う反面、心配になった。だが、水辺だけを撮す分にはなんとかなるかもしれない。これらの間で、ゆれうごく自分の心が妙だとおもった。紅葉をみたい気持ちと、紅葉をのけて、春っぽさを仕事のために、もとめている自分と。
 どこかから写真は借りてこられるかもしれないので、そこまで気にしなくともいいのだけれど。

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 最初に訪れた公園は、柿が熟した木、湧水を元にした池、古民家などが、やさしかった。井戸ポンプもあった。飲み水にはできないが、今も現役らしい。そういえば、わたしが子供の頃にも、うちに井戸ポンプがあった。こことは離れているが同じ世田谷区内だ。じつは世田谷というか、今住んでいるうちの近所でも、井戸ポンプがあちこちにある。古くなって使えなさそうなものもあるけれど、実際に新設して使えるものも。ある時、ポンプをうらやましそうに眺めていたら、実際に水を出してくれた方がいた。「飲めないんですけどね〜」と微笑んで。そんなことをふと思い出す。井戸水に出合うたび、心がさわぐのだった。
 美術館の緑地をすぎて…というか、どこからどこまでが美術館のものなのか、実はよくわからなかった。秋の森たちは、狭間を曖昧にしている。親水公園もそうだ。親水公園なのか、別の公園なのか。川沿いに進んで、次の公園へ。どちらも崖というか、高低差があるところに作られているが、こちらのほうが、その差を生かした庭園という感じなので、その視点からは趣があった。山にいるような錯覚。思いがけず湧水地点も見ることができた。この湧水地点の写真だけは使えるかも、とやはり胸算用し、それで安心したのか、秋の景色、色づいたモミジたちに心惹かれる。

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 それと、ここには昭和初期に建てられた家が保存されている。建物の中も見学できるので入ってみた。建物は高台に建っているので、庭の緑が俯瞰できる。こちらの窓から、あちらから…少しずつ趣が変わって、家から見るための庭でもあるのだなと、あらためて気づかされる。

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 最初に訪れた公園だったか、付近の地図に、もうひとつ小さな湧水がある公園があると書いてあったので、いってみる。だが、簡単にしか地図を見なかったので、道に迷った。スマホで調べても載っていない。見回すと、高台の坂道と坂道の間の小さな三角地帯、ひときわ紅葉が目立つ場所がある。たぶんあそこだろう。やっぱりだった。けれども工事中だった。公園予定地なのだろうか。スマホで検索できなかったのは、そのせいかもしれない。立ち入り禁止の外側から、おおよそのものは見ることができた。紅葉、黄葉している木々の下に、木の散策路、橋があり、そこに流れ、湧水たちが。

 こちらは、もはや記事としては使えないので、かえって存分に秋として、景色を眺めた。小さな水と木の三角地帯。

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 そうして、通り過ぎてきた美術館の入口近くで、銀杏が色づいていたのを確認したので、そこも立ち寄った。もはや取材は関係ない。プライベートだ。いや、もともとプライベートも仕事もかなり稀薄なのだけれど…。どちらもわたしの好きや、書くことに関係しているから。
 銀杏って、こんなにまぶしかったかしら。みあげる空に、あざやかな黄色がよく似合っていた。あまりに似合いすぎていて、目にしみるほどだった。太陽の色。
 帰り道、また親水公園や、最初にいった公園を通る。行きとは違う風景だと思う。モミジの赤が鮮やかだ。そう、自転車で家からほんの少しの場所なのだ。来たことがなかったけれど。よく通る道から一本入っただけなのに、今通っている道もはじめて通った。その日は土曜だと書いた。次の日の日曜日は、週一回の休み。仕事と遊び。日常と非日常。境目は曖昧なのかもしれない。そういえば、秋と書いているけれど、もう冬なのかしら。十二月。それでも、やはり、秋を味わえてよかったなあと、思うのだった。

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 そうして、また数日後、日曜を過ぎての平日、早朝バイトが終わってから、もう一カ所、公園をみにいった。こちらは、前出の公園たちと違い、何度か訪れたことがある。
 だが、公園というか、崖下のへりに流れがあって、それだけを公園の外から見る感じで訪れただけだったので、せっかくだから、公園の中も入ってみようと思ったのだった。いや、実は崖下の流れのほうから入れるのかどうか、心配でもあった。別の入り口があるのではなかったかしらと。たとえば崖の上からとか。
 この公園はかなりひろい運動公園でもあって、崖下の流れのある場所だけ、すみっこで親水園として、流れにそって、ひっそりとあるので、そちらのほうから行くのではなかったかと。
 さて、出かけてみたら、崖をのぼる道は、いきなりあった。というか数本あった。わたしは今まで何を見てきたのか。流れしか見ていなかったのだ。
 いちばん端、来たところから一番近い道をのぼった。ちょっとした山道のよう。登ったところは木々に囲まれ、あずまや、古くから祀られてきたらしい小さな神社、フィールドアスレチック用の遊具などがあった。のぼりきってしまうと、奥行きは案外なかった。すぐに道になって。けれども、木々が多いのであまりそれは感じられない。崖の上から、下のいつもの流れを見ることができた。新鮮だった。流れのすぐ向こうに仙川という川が流れている。湧水たちは、おそらくここに注ぐのだろう。

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 崖を降りて、また流れにそって歩いてみた。初めて訪れたときから、湧水なんだろうなと、調べもしないで、思っていたのだが、それを示す看板があったのを今回はじめて気づいたた。本当に今まで、下の流れしか見てこなかったのだろう。看板には、「この流れは「自然の湧水」です」とあった。うれしくなった。勝手にそうなんだろうなと思っていたことが、裏打ちされたようで。
 わたしは湧水という言葉にどうしてこんなに惹かれるのだろうか。この親水園では、湧水地点はわからなかったが、こちらもまた出かけてみてよかった。崖の上にのぼって、知らない景色に出合った。あたらしい発見があった。こちらは紅葉、黄葉がみごとな木々はなかった。けれども、斜面では、落ち葉たちが足元で踏む度にかさかさと、心地よかった。まだ平日、週もはじまったばかり。仕事と遊びのはざまで。使えないであろう古い井戸ポンプが置いてある家をとおりすぎた。しらない鳥が鳴いた。もはや秋ではない、冬なのだろう。

00:01:00 - umikyon - No comments

2018-11-25

祭りと日常がちかしい。─民家園手作り市

 勤労感謝の日、近くの民家園で手作り市を開催していたので、早朝バイトが終わってから、連れ合いと出かけてきた。
 民家園の中には移築してきた古民家が数件あり、畑や鍛冶場、木挽き場もある。肥だめや、辻には道祖神も。まさに村のような場所。江戸時代後期から明治初期の村を再現しているとのこと。民家園は公園の中にあるのだが、公園にはわたしがかなり好んで訪れる田んぼや用水がある。これらをあわせて農村風景を再現している場所。

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 その民家園では、ボランティアの方々が、鍛冶をしたり、木挽きをしたり、畑では野菜や、蕎麦、棉などを作り、それをもとに、蕎麦打ち、藍染め、機織りなどをそれぞれ会で行っていて、その販売をしたり、体験をしたり、が、手作り市だった。販売品には、ほかに手漉き和紙、竹細工、農産物、手芸品など。
 実は、ここ数年、このイベントに毎回のように出かけている。とくに手打ち蕎麦が目当て。
 今年は晴れて、天気に恵まれたせいだろうか、あるいは、例年は開園してすぐの九時半に出かけているのだが、今年は、十一時過ぎぐらいに着いたからだろうか、かなり混んでいた。民家園の入口の駐輪場に数多の自転車が止まっているので、まずびっくりした。でも、ああいうお祭りは人が多いほうがいい。賑わっていて、良かったなあと思った。
 入口付近で、ざっと販売品をみてから、手打ち蕎麦の販売へ。
 古民家の一軒で、作っているのだが、その庭の門まで、列が並んでた。こんなに人がいて、なくならないかなと思うぐらい。食券を買って並ぶ。並んでいる最中に、まず、そばがきを食べることにした。わたしが並んでいて、連れがそばがきを買って焼きにゆく。七輪で自分で焼くのだ。味噌だれと醤油だれが選べたらしい。例年醤油だれが多かった記憶があるので、今年は味噌だれで頂く。見た目は五平餅みたいなかんじ。小判型のそばがきに、串がさしてある。外は香ばしく焼かれていて、中はしっとり、おいしい。
 外では臼で蕎麦ひき体験もしてた。そばがきを食べ終わって、わりとすぐに、古民家ののれんをくぐる。中に入るといい匂いがした。そばをこねたり、打ち粉をして、そばをのばしている。そして、かまどで、ゆでている。もともとの古民家の匂い、それから、そばの匂いたちが、あつまって、やさしい匂いになっていた。中でもすこし並ぶ。こねたり、伸ばしているのをみているのが、たのしい。十割蕎麦で、この民家園内の畑で作ったもののようだ。そういえば、植わっているの、観たことがあった。あれは夏だったかしら。蕎麦の上にのせるネギも、園内の畑でとれたものだそうだ。と、並んでいる最中に、誰かがいっていた。あとで園内を歩いていたら、ネギ畑をみつけた。たとえば、これかしらと思う。
 蕎麦は庭のテーブルで頂いた。蕎麦にかける一味唐辛子も手作りらしい。ここのものかどうかわからないが、作りたてだからか、少しでかなり辛い。辛いと聞いていたので、ほんの少ししか入れなかったが、口のまわりがピリピリした。たまにはいい刺激。
 蕎麦はとてもおいしかった。今年はとくにおいしかったような気がする。歯ごたえがあって、香りが感じられた。来てよかったなあと思う。値段はちなみに四〇〇円、そばがきが二〇〇円。贅沢な時間だ。
 蕎麦を待っている列の途中で、綿の会の販売スペースや、糸つむぎをしているコーナーを通った。販売は、綿でつくった小物入れ、シュシュ、ちいさな糸巻きのブローチ、綿のネックレスなど。糸巻きのブローチは、小さな木の棒に、いろいろな色で染めた糸が巻き付けてあって、それを糸巻きにみたてたもの。染めるのも、会の方々がしているそうだ。何を使って染めたのか、わからなかったけれど、黄色と緑の糸が巻いてあるものを求めた。草の色がいいなあと思ったのだった。今、加曽利貝塚の秋祭りで購入したイボキサゴの小物といっしょに、これを書いている机からすぐの所に、なかよくぶらさがっている。

 体験コーナーは、、草笛体験、折り紙体験、木挽き体験、藍染めそのほか、いろいろあったのだけど、木挽き体験だけしてきた。直径十センチぐらいの幹を、昔の木挽き専用ののこぎりで切る。切れ目があらかじめ入れてあるので、そこに差し込んでのこをひく。最初に連れが体験した。早くて上手だった。そのあとに、わたし、あまり木を切ったことがないので、彼のまねをして、なんとか。リズムのようなものを感じた。木の粉が舞う。最後に、切ったものが飛んでいってしまったのが笑えた。最後はスピードをおとさないといけなかったらしい。
 切ったものはコースターになる。今年は焼き印をつけてくれた。木挽きの会、とあった。焼き印を付けてすぐのコースターの匂いを嗅いだ。木の香りとそれが焦げた匂いがした。

 そのあと、別の古民家の庭で。なぜか、その場でつくっている、えびせん。せんべいと言っていいのかしら、揚げせんべい? ともかく、せっせと揚げているのを見た。そして思い出した、ああ、前回もこれ、揚げてたなあ、おいしかったなあと。で、今年も買うことにした。こちらもちょっとした列。ふわっとして、くちのなかで、とけるような、薄桃色のえび揚げせんべい。
 これを買って、ほかに売っているものたち、おおざっぱに眺めて、家に帰った。帰って、さっそく、えびせんを頂く。お酒のつまみに、ぴったりだった。

 この日は昼から、こんなにのんびりしていて、休日ぽいなあと思ったが、仕事終わってからだったし、次の日も仕事だった。だから次の日は、少し時差ぼけっぽい疲れが感じられた。祭りという休みを体験したのに、日常へ。その差を身体なのか、心が、すこしだけ、ついてくることができなかったのだ。
 次の日、土曜日。早朝バイトが終わってから、また民家園へ。手作り市の時は混雑していたこともあって、写真が撮れなかったので、それを撮りにきた。
 祭りの後の静けさ。いつもの民家園だった。ツワブキが咲いている。ホトトギスも。これはもう花の盛りを過ぎているかも知れない。花の終わりに会えてよかった。そしてヒイラギ。これだけは実は、前日に撮影したもの。えびせんで並んでいたときかもしれない。最初、クリスマスや、節分で、みかける葉っぱだなあとぼんやりみていた。赤い実を想起しながら。そしたら、白い花が咲いているのを目にして、ちょっと驚いたのだった。ヒイラギの花を見るのは初めてだった。白い花が赤い実になる。めでたいなあ。そして白い花のほうは、小ささのせいか、可憐に思えた。咲いている花を知ることができてよかった。

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 この土曜は、わたしにとっては、祭りの後でもあるが、祭りの前日でもある。その次の日曜が、休日だから。つまり、これを書いている今日。また明日はバイトだけれど。祭りと日常が近しい。えびせんは食べ終わってしまった。おいしかった。昨日は休日前の秋冬の恒例の鍋を食べた。今日はまだ、祭りのようなもの。まだ昨日の鍋は残っている。昼に頂こう。

(民家園の名前、出したほうがいいのかしら…、なんとなく場所も、ハレとケの狭間に置いておきたくなって、あえて出さなかったのだけれど…、次太夫堀公園民家園です。)
09:50:19 - umikyon - No comments

2018-11-05

出合いたちの重なって─加曽利貝塚縄文秋まつり

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 十一月三日の文化の日、千葉にある加曽利貝塚の縄文秋まつりに行ってきた。
 去年、はじめて出かけて、魅力的な場所、催しだったので。祭りは十一月三日、四日。春まつりもあるらしいが、こちらはGW中で、道が混みそうだから、遠慮した。
 加曽利貝塚は、縄文時代中期(五〇〇〇年前)の北貝塚と、後期の南貝塚(約四〇〇〇〜三〇〇〇年前)でちょうど8の字の形になる、日本最大級の貝塚。二〇一七年の一〇月に国の特別史跡に指定されていて、貝塚博物館のある公園として整備されている。正式名称は加曽利貝塚縄文遺跡公園。ここから出土された土器は、発掘地点をアルファベットで区切っていたが、そのB地点から、縄文時代後期(約三五〇〇年前)の土器が、E地点から、縄文時代中期(約五〇〇〇年前)の土器が、出土していて、それぞれ、加曽利B式、加曽利E式と呼ばれる。これは主に関東地方で出土され、土器の年代を推測するための指標となる標式土器となっている。土器の特徴は、計測器(キャリパー)のようで、逆三角形に近く、火炎型土器のような装飾の派手さが抑えられつつある感じ。

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 去年は、ちょうど特別史跡に認定された年だったから、縄文秋祭りも、宣伝に力がはいったのだろうか。都内の電車の吊り広告か何かで、見つけたのがきっかけだった。物販、縄文体験、そして潮干狩りで形だけしっていたちいさな巻貝、イボキサゴが大量に貝塚から出てきていた…、名前を知った喜び、それらで素敵な、大切なイベント、思い出となったものだったので、今年もずいぶんと前から、楽しみにしていて、出かけたのだった。
 二回目だったから、初めての時のような、見知らぬことと出合った、そんな驚きに満ちた喜びは少なかったかもしれないが、今年も、楽しかった。もちろん、はじめて知ったことも、今年も多々あったのだが。
 そのまえに、順を追って。お祭りが十時からだったので、開始に間に合うように車で出かけて、着いたのが九時四五分ぐらいだったか。ちょうどいい感じ。九時から開いている加曽利貝塚博物館の中をざっと見る。ああ、そうだ、ここも触ることのできる縄文土器片があったのだなあと思い出す。それと黒曜石の塊も。黒く光って、実用に使われた美でもあった。
 あと、去年はおそらく気づかなかったのかもしれない。丁寧に埋葬された犬の骨。レプリカだったが、本物そっくりだった。ちなみに本物は「発掘された日本列島2018  ─新発見考古速報」展で巡回中。わたしは今年の夏に江戸東京博物館でそれを見た。本物の犬は全国を旅しているのだなあと、ふっと思う。ちなみに前にも書いたけれど、それがあるから、加曽利貝塚のイメージキャラクターは、カソリーヌという犬になっている。帽子に加曽利式の土器をかぶって、ネックレスにイボキサゴをつけて。
 企画展「あれもE これもE」として、千葉で出土された加曽利E式土器の様々を比較していたので、もうすこしゆっくり見たかったが、十時になりそうだったので、物販コーナーへ。
 実はお祭りが始まる前に、縄文土器タンブラーを売っているのを見たのだ。売っていることはHPなどで事前に知っていたのだが、実際に見て、思ったよりも、ずっと素敵だったので、迷わずに購入を決めた。だが、まだ開店前だった。三日にしか売っておらず、しかも、どうも六点限定らしい。手作りなので、微妙に見た目が違う。売り切れも心配だったが、選びたいというのもあった。十時に再度いったが、わたしと連れと同時にもう一人購入していて、あと残り三点になっていた。ちなみに、それからすぐ、残り三点もなくなっていたから、やはり早くに見つけて、求めることができて良かった。ちなみに、加曽利E式で、底が狭いので、安定が悪い。台座も買う。台座にはカソリーヌが陶器のワッペンみたいに付いている。縄文土器と違って、タンブラーには、内側に釉薬のようなものがかかっている。そうしないと注いだものがしみてしまうからだろう。わたしはその釉薬が茶色のものを、連れは黒いものを買った。
 その後、土器のレプリカが抽選で当たるというので手続きをしたり、石器による魚の解体ショーをみたりした。学芸員さんの腕もいいのだろうけれど、鯛が黒曜石などで三枚におろされるのが、スムーズで、すこし驚いた。このあたりの黒曜石は神津島のものだとか。おろした魚は復元住居の中の炉で燻し、あとで頂くらしい。燻すことで、保存が聞くのだとか。
 十一時からボランティアさんの遺跡ガイドツアーがあるので、途中まで参加した。のっけから驚いたのは、今立っている場所、というか、あちこちに貝塚の貝が露出しているということ…。落ち葉やドングリに混じって、白い化石のような貝の数多…。これが貝塚の貝たちなのだと。ドングリは拾ってもいいですが、この貝や土器は持って帰るのは禁止です、と言われた。え、土器も露出したりしているのかしらとびっくりしたが、それよりも、去年も、そして言われるまで、足元を見なかったのだろうか、花たちが咲いているのや、ドングリが落ちているのはわかっていたが、貝塚の貝たちには、まったく気づいていなかった。だが教えてもらってからは、もう、貝だらけ。あちこちに白い貝の骨のようなものたちが。あとで、レジャーシートをひいて昼食を食べたのだけれど、その周りにも貝だらけで、こんなところでご飯をたべるなんてと感慨があった。そして、いわれるまで眼にはいってこなかったということも妙だった。まるで名前のようだ。名前を知るまで、わたしにとって存在が不確かだったものが、名前によって存在しはじめるような。

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 それと、この公園の森がなかば縄文人がみていた風景でもあるのだということ。木々も植物も、当時の植生を調べたうえで、植えているものだといっていた。クヌギやコナラ、スダジイ、クリなどのドングリがなる木たち。
 このことは、去年もなんとなく知っていた。けれども、いわれてみると、やはり、いっそう植物たちが、縄文をつたえてくれるような気持ちがした。あとで散策したとき、アザミ、そしてリンドウが咲いているのを見て驚いた。アザミは、どこかで普通に咲いているのを見たことがあったが、リンドウは、こんなふうに自然に近いかたちで咲いているのを見たことがなかったと思う。鉢植えか、栽培品種になった、もっと丈のたかいものでしか。

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 そのあと、貝層断面観覧施設へ。古い北貝塚と南貝塚両方。両方ともイボキサゴがあったが、より新しい南のほうは、ハマグリなどの大きな貝が目立った。理由はそうだとは断定できないけれど、一〇〇〇年のうちに、食べ方に変化が起きたのでは、とのことだった、たとえば大きいほうが食べやすいとか。
 もっと聞きたかったが、十二時からイボキサゴスープのふるまいが別の会場であったので、そちらに行った。
 去年も食べたのだけれど、これも名前をしって、特別な存在となった、イボキサゴにもっと接したかったのだ。異説はあるだろうけれど、おそらくダシや塩分摂取のために、とられたであろう小さな貝、イボキサゴ。縄文中期以降の加曽利貝塚は、やはり、今とあまり変わらず、海から数キロ離れていたとか。貝塚公園の端っこに、港ではなかったかという坂月川があった。その川から海の方を眺める。海は見えなかったが、あそこから、イボキサゴはやってきたのだろうか、あるいは黒曜石も。

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 今年もイボキサゴスープを頂いた。そして、煎ったイボキサゴも。こちらは爪楊枝で、身をほじくりだして頂く。こちらのほうがイボキサゴ本来の味が楽しめておいしい。ほじくり出すのは少々手間がかかったけれど、それも愛嬌。食べた貝、殻になったそれを数個持ち帰った。
 土器抽選会(見事に外れた)、イボキサゴグッズの販売、公園内の散策、博物館の見学、それらで会場には、なんだかんだで、今年も結構いた。午前九時四五分から午後二時過ぎ。名残惜しいが、帰ることに。途中、幕張のパーキングエリアで千葉の物産を見る。八街の落花生を買った。家で、さっそくタンブラーで、お酒を飲んだ。大きいので、すぐにお酒がなくなってしまう。落花生をつまみに、そして物販で買った、やはり千葉の物産の枝豆も。枝豆はもう本当に最後なのだろう、こちらではせいぜい九月末までだった。今年最後の特産品をいただけて良かった。そういえば、石器による解体ショーでだったか、学芸員さんが、縄文の人たちは地産地消、そして旬の食べ物を味わっていたと言っていた。保存なども難しい時代だ、それしか選択肢がない、だが、それはそれですばらしいことだ。その季節ごとの食材を、一期一会として味わうこと。贅沢とはいえない、当たり前が、大切なことだったのだ。
 知ったことたちが、やさしく、おだやかに、よりそってくれている。名前たち、過去たち。イボキサゴという小さな貝が、ますます愛しくなった。その貝の化石たちが、あちこちに。来年も行くのだろうか。いけたらいいなと思う。また、小さな出合いたちがあるだろう。


21:14:33 - umikyon - No comments

2018-10-21

自然ということとの線引き──「三鷹の縄文」など

 どこでだったか憶えていない。けれども多分、縄文関係の施設で、もらってきたものだ。『2018 東京文化財ウイーク 特別公開・企画事業篇』というリーフレットを入手していた。それによって、三鷹市役所で一〇月九日から一〇月十六日まで、考古学展示会「三鷹の縄文 さわれる展示」という特別展を行うと知ったので出かけてきた。こんなふうに何かたちがつながってゆくのだろうか。
 
 三鷹は井の頭池や野川、仙川などの湧水が多くあり、縄文中期(約五〇〇〇〜四〇〇〇年前)の遺跡が多々あるとのこと。
 二〇一三年から、考古学展示会を行っていて、今回は初のさわれる展示で、計十二点が出品。うち、持ちあげることがができるものが三点、触るだけのものが六点、ガラスケースに入ったものが三点。会場にはインストラクターの方々が常駐、写真撮影も可とのこと。

 野川も仙川もうちのすぐ近くにも流れている。三鷹もうちから割と近い。ほとんど隣町。なので、自転車で行くことにした。十キロと離れていない。
 方向音痴なので、不安ではあったが、三鷹までゆく道の半分ぐらいまでは、自転車をつかって来たことがある道だった。あとはほとんど道なり、二回ほど曲がれば行けるはず。
 自転車でゆっくりいって、ちょうど一時間ぐらい。今回は、ほぼ道に迷うことなく、行くことができた。
 三鷹市役所。はじめてくるところだが、ほぼとなりにあるスーパーマーケットは、車などで通ったときに(わたしは助手席)、よく眼にしていて、なじみがあるものだった。あのスーパーをみると、ああ、うちの近くに帰ってきたんだなあとおもう、道しるべのようなものだった。それが、こことつながるなんて。

 さて、会場へ。市役所の入口なので、わかりやすいといえばわかりやすい。インストラクターの方々が何人もいて、すこし緊張したが、いきなり、持ちあげることができる土器のほうへ案内されたので、それにしたがうことにした。順番でいうと、十二点あるうちの最後の展示のほうなのだが。
 年代順に丸山遺跡、井の頭遺跡。丸山遺跡は、縄文中期、井の頭遺跡は中期と後期のもの。あとで場所を調べたら、井の頭遺跡は、井の頭池、丸山遺跡も井の頭二丁目なので、二つの遺跡はかなり近い。鞄をおいて、注意深く持ち上げる。土器片に触ったことはあるが、土器を持つのははじめてだ。質感とともに重さを感じる。
 三点とも大きさがまちまちだったが、説明で、後期のものは中期のものに比べて模様が簡略化されていて、重さも軽くなっていますから、それを確かめてみてください、とあったので、言葉通りに体感した。模様が簡略化されているのは、見た目にもわかるし、それが後期の特徴といえばそうなので、もつ前から、感触的なことはおおよそ予想できたが、重さまでは気づかなかった。それはそうだ、これは持ってみないとわからない。
 なんというか、縄文中期のものは、重さがしっくりした。たぶん、この質感なので、この重さなのだという、予測が自分のなかでたてられた。だが、縄文後期のもの、簡略化された土器は、見た目と重さにかすかなずれがあった。それが軽さということだった。見た目の印象よりも、若干軽い。予測のほんの外、ぐらいのちがいだったが、この違いが味わえてよかった。

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▲左から、丸山A遺跡出土(勝坂式、縄文中期)、
 井の頭池遺跡群A出土(加曽利E式、縄文中期)、
 井の頭池遺跡群A出土(称名寺式、縄文後期)

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 あとの展示…、大雑把でもうしわけないが、最近訪れた町田の本町田遺跡で教えてもらったように、山梨や長野の土器の系譜を感じた。蛇的なものが土器にほどこされていて。インストラクターの方たちが何人かいて、レクチャーしてくれるのはありがたいのだが、やはり、じっくり見るのに、すこしだけ違和があるというか、入口すぐの場所ということもあったのだが、集中がとぎれがちになってしまって。
 いや、これはわたしの側の問題なのだろうけれど。

 三鷹市役所の近くに丸池公園というものがある。縄文時代の遺跡の跡でもあるが、かつて埋め立てられてしまった池を復活させた、里山的存在でもあるらしい。市役所の帰りに寄ることにする。近くには三鷹市生涯学習課分室として、みたか遺跡展示室もある。だが、予約制だというので、今回は遠慮した。
 丸池は仙川流域になる。近くというか、ほとんど隣の緑の場所は仙川公園。仙川はうちのほうでも、ここでもコンクリートで護岸工事がされている。あまり離れていない野川は自然に近い形で護岸されているのに、なぜなのだろうか。ただ、コンクリートの内側で、長年の間に土砂がたまって、中州ができたり、河原のような感じになったりして、それはそれで、自然らしさというか、生の営みが感じられる。植物が生え、鳥が休む。鯉も泳いで。仙川公園の岸辺沿いは桜の名所でもあるらしい。もう少し下った祖師谷公園、そして成城一丁目あたりの仙川も桜の名所になっている。これも仙川の特徴なのだろうか。
 ともかく、仙川公園を過ぎ、切れ目がわからないまま、丸池公園へ。わたしは水が好きなのだ。すぐに池へ向かった。埋め立てられたのが一九七一年、市民の要望で復元したのが一九九四年。もう復元してから四半世紀になるので、なじんでいるというか、人工的なものなのかどうか、まったくわからない。むかしから変わらずにあったように、水を湛えてみえた。わたしは勝手にそれを心地よいものとして見ているが、あとで調べたら、この状態を保つために、池の水の確保や、かいぼりなど、いまもあちこち、人の手を加えているらしい。自然らしさを保つために。

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 いま『縄文の思考』(小林達雄著、ちくま新書)を読んでいる途中。旧石器時代の遊動生活から、縄文時代の定住生活へ。つまり、ムラの出現だが、それは自然的秩序からの離脱の始まりでもあるとあった。
 また、定住生活が始まってから、文化が始まったともあった。いままでの狩猟や移動で使われていた身体的拘束時間が減ったことで、〈精神を動かす方に時間が振り向けられることになった〉、〈縄文文化の形成を約束〉されたのだと。
 まだほんとうに途中なので、この本の趣旨とは離れてしまうかもしれないが、今の時代のわたしたちよりも、自然と近しかったであろう縄文の人々が、自然から離脱していたということが、すこし眼からうろこだった。そして、時間的、身体的余裕ができたことで、文化、芸術が始まったということ。
 そんなことを、丸池とからめて思った。自然から離脱したわたしたちが、自然と向き合うことについて。自然的なものを求めて、手を加えていること。
 ところで公園内で地図をみたが、丸池遺跡、場所がよくわからなかった。遺跡として、なにかが残っているということでもなかったから。すこし高台になったあたりを、勝手に、遺跡なのかしらと思うことにした。高くなったところから、ドングリがあちこち落ちている木々の緑を見わたすと、なんとなく縄文を感じた。気のせいなのかもしれないが、深呼吸をしたような、満ちた気を感じた。

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 そのあと、またゆっくりと自転車で帰路へ。途中、買い物などをする。家についたらもうちょうど夕焼け空、太陽が沈もうとしていた。日が短くなってきた。

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08:35:05 - umikyon - No comments

2018-10-05

満ちている生たちに、挨拶を ─彼岸花など

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 今年も秋になってもだらだらと夏の暑さが続いて、そうこうするうち、突然寒さがやってくるのかと思っていた。それほど、真夏の暑さが感じられたのだろう。わたしの予想と違い、秋は意外と順調にやってきている。台風や雨は多いけれど。
 十月になるかならないかの時、キンモクセイが香っているのを感じた。そう、あれは花の存在を、いつも香りで知る。どこに咲いているのかしら。香りをさがす。そうすると、金色の星のような花たちをみつける。金木犀って、金木星のことなのではないのかしらと、勝手なことを思ったり。
 ただ、今年は、咲いてすぐに台風が来たから、かわいそうに、開花してまもないキンモクセイたちが、すぐに暴風雨で、花を散らせてしまった。台風一過の後の朝、道に星屑のようにあちこちで花たちが落ちていた。
 崖の林や、公園では、倒木も見られた。根こそぎではなく、根元付近で折れて、むざんな切り株のようになっているのが、何本か。
 今日、公園のほうでは、折れて倒れた倒木が、きれいに五六個の輪切りになっているのを見かけた。なにかに再利用するのだろう。ただ、幹はドーナツ状に空洞になっていた。弱っていた子だったから、倒れてしまったのだろう。

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 九月の四週目の土曜日、お彼岸の頃に、例年出かけている、埼玉県日高市の巾着田に、彼岸花をみにいってきた。つい彼岸花と書いてしまうけれど、曼珠沙華まつりとなっているので、その呼び名のほうがいいのだろう。けれども、わたしのなかでは、彼岸に咲く、彼岸花なのだ。
 それを今になって書くのも、もう、季節が進んでしまって、どうかなと思うのだけれど……、今、彼岸花たちは、もはや、花茎をなくして、後から伸びてきた剣のような葉だらけ、ジャノヒゲみたいになっている。だから、簡単に。
 やはり前日まで雨が降っていたっけ。いや、出かけた朝もぐずついていたと思う。けれども着いたら、晴れてきた。三連休の初日ということもあって、それに、ちょうど満開だったから、混んでいた。満開…盛りをすこし過ぎた頃でもあった。ぎりぎり満開。終わりの始まり。
 人々は、わたしも含めてだけれど、なぜ、花を見に来るのだろうか。真っ赤な彼岸花たちの数多。五〇〇万本の群生地だそうだ。楽しそうに花を愛でているふうだが、そこにどこか、魅入られたような魔がある。かもしれない。すこしだけれど。談笑しながら、という人たちは、意外と少ない。概ね、しずかに写真を撮ったり、彼岸花をバックに自撮りしたり、花の周りをゆく。なぜ、花を見に来るのだろうか。わたしは毎年、問いかけている。ずいぶんと前からだ、二十代後半の頃から。どうして花をわざわざ見に来るのかしら? 彼岸花にかぎったことではない、桜や梅、紫陽花などもふくめて。季節ごと、花を見にゆくことを繰り返して、そのたびに問いを思い出して。答えはない。けれども、答えのようなものが、わたしのなかで、ながい年月をかけて、育っていったと思う。いや、花たちが教えてくれているのだ。

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 家の周辺で、チラシ投函のバイトをしている。その最中、ピラカンサス、冬に真っ赤な実をいっぱいつけるのだが、それがもう、かすかに色づいているのを見つける。彼岸花たちは、まったく見かけない、もう花の時期を終えて、葉を茂らせているから。
 ミズヒキの花、赤と白、めでたいけれど、可憐というか素朴な小さな花たちなので、きらびやかさがない。秋のやさしいめでたさだ。エノコログサ、別名、猫じゃらしたちの、やわらかい花穂たちが、空き地にいっぱい。
 チラシを投函しつつ、それらを眺めては、幸せになっている自分を感じる。あるいは川沿いの道を通る、橋を渡る。意外と澄んだ水の上を、カルガモが泳ぐ、ヘラサギやコサギが立っているのを見かける。そして、あれは葦だろう、茂ったあたりに、カワウがやってくるのを見る、電線に群れをなしてとまっているのは、あれはムクドリ。彼らを見かける、見つける、そのたびに、満ちたような気がしてしまう。ホトトギスがもう咲き始めた。ドングリが落ちている。
 こうした、家の周辺での、やさしい体験、経験が、花を見に行くことたちと響き合っている。同じことだといっているような気がする。ススキが咲いていた。ススキの下に寄生する、ナンバンギセルが見たいなと思う。すきな花だった。ヤブガラシ、藪すら枯らしてしまうという、旺盛な生命力、生えてしまうと、地下茎の強い広がりが面倒なのかもしれないが、オレンジ色の小さなつぶつぶとした花たちが、どうしても気になってしまう、わたしは、日々、花たちと、生き物たちと出会っている。たとえば、彼岸花たちを見に行くのは、そのことを、確認しにいきたいのではなかったか。彼らとともにあること。
 家の近くの、雨が多いときだけ、現れる小川と遊水池は、このところ、ずっと水を湛えている。それどころか、どちらも水位がだいぶ上がっている。地下水位が上がったときだけ、出現するということは、湧き水由来ということでもあるので、水があるときは、澄んでいる。その小川のほとりに、ヒルガオの花。これも好きな…、きりが無い。あたりは、生で満ちている。

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21:25:20 - umikyon - No comments

2018-09-20

好きと再会する─町田市立博物館、本町田遺跡

 雨が多かったからだろうか。雨にまぎれて、夏の暑さがいなくなってしまった。まだ暑いと思うときはあるが、気温に力がない。朝晩などはだいぶ涼しくなってきた。
 近所の公園でも、とつぜん彼岸花が咲き始めたのに気づいたのが、九月の十三日。今年はじめての彼岸花だったので、見入ってしまった。わたしはどんなにか、この花が好きだったのか。花のころになると、いつもそんなことを思い出させてくれる花のひとつだ。
 またある日、崖の上の緑地公園の入口で、コムラサキ(ムラサキシキブの仲間)を見つけた。花ではなく実のほう。もう紫色に色づいていた。こんなに早く色づくものだったのかしら。花のほうは目立たない、白っぽい小さな花たちが、夏…七月ぐらいに咲いているのを、ほかの場所だったが、見かけていた。そのうち緑色の実を、そして、とうとう紫色の。紫色のまま、数ヶ月その姿を保っているから、もっと秋も遅くなってから、色づくのだと思っていたのだろうか。この時期でもまだほんのり紫になってはいるが、緑っぽい実をつけているコムラサキもある。わたしが結実期をもっと遅いものと思っていただけなのだろう。そう、この花、いや実も、すきなもののひとつ。つい目で追ってしまう、目につくと好きだったなと思い出さずにはいられない植物のひとつ。

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 風邪をひいた。以前にくらべて、ゆっくり症状がでてくるような気がする。時間をかけて、緩慢に具合がわるくなってくる。最初は気のせいかなと思う。けれども、徐々に。風邪のために、気力がうしなわれてゆく。おっくうになる。そんななか、ネットで、なにか近くで展覧会とかないかしらと検索していたら、町田市立博物館で「まちだ今昔展─時空を超えた対話;縄文ムラと商都」(二〇一八年七月十四日─九月十七日)というものを見つけた。すぐ近くに本町田遺跡公園という史跡もあるらしい。あと数日で企画展もおわってしまう。だるかったが、町田なら電車で一本で行けるところでもあるし、九月十五日の土曜日、出かけることにした。
 土曜日も雨。微熱もあったし、出かける気が失せそうになったが、バイトから帰ってきて、簡単に昼食を済ませて、なんとか外に出る。このささいな決断が、まあ、このごろの怠惰になりがちな自分にしては、ましな行為だ、いい兆候だと、力なく、どこかで思う。
 小田急線の町田駅からバスで、というのが博物館の案内などに乗っているルートだが、うちからだと、その一つ前の駅、玉川学園前駅から徒歩でも行けそうだったから、金銭的なことも考え、そちらから行くことにした。玉川学園前駅。ちょうど、もうそろそろ一年前になってしまう、玉川大学教育博物館「二〇一七年度企画展 考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」(二〇一七年十月十六日〜十二月十七日)に出かけて以来だ。あの折は車だったが、こんどは電車。風邪とバイトの疲れで、電車の中では、ほとんど寝ていた。各駅停車で行ったが、寝るにはちょうどいい時間。片道25分弱ぐらい。
 事前に調べたところ、玉川学園前駅から、町田市立博物館は徒歩二〇分ぐらい。地図もプリントアウトしたのだが、見事に迷ってしまった。もともと方向音痴で、方向ではなく、建物などで位置を確認するのだが、住宅地ばかりなので、確認する建物がない。それが原因。自分の方向音痴を知っていたから、遠回りでもなるべく大きな道、極力曲がらないですむ道をたどったつもりだったが、どこかで間違えた。次の大きな道、街道にたどりつかない。行き止まりや、ほそい坂、わけがわからなくなってしまった。仕方なく、地図アプリを頼ったが、北西の方角へ、と指図があるので、また混乱する。方向音痴に北西といわれても…。さんざん迷って、二〇分でいけるところ、結局一時間以上歩いてしまった。具合が悪いし、雨も降っているのに、これはさんざんだなあと思うが、どこかで楽しんでいた。迷ったのは住宅地だというばかりでなく、丘陵地に作られた町だからだ。うねうねと坂をのぼる。また少しななめにくだる。方向音痴でなくとも、たぶん方角をみうしなう(?)…。
 やっと街道に出た。鶴川街道だ。街道に出さえすれば、あとはまた高いところに続く道をほぼ道なりにすすめばいい。
 そういえば、縄文の遺跡は、知っている限りだと、高いところにあるなあと思う。時期によって、一概に言えないが、温暖化で海が内陸まで迫っていた海進の折の事情による。岬ということばがまた思い出される。
 町田市立博物館にようやくついた。


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 チラシやHPから。
 「(前略)本年は町田市が誕生してから六〇周年を迎えます。明治時代以降において横浜と八王子をつなぐ生糸の輸送ルートである絹の道(町田街道)は、様々な物資の流通ルートとしても利用されたことから、街道沿いの地域を中心に商都として繁栄してきました。さらに市制が施行され、駅前をはじめとして急速に開発と発展が進んだ時期でもあります。町田市内は九〇〇地点以上の遺跡が確認されており、なかでも縄文時代の遺跡は数多く、出土遺物も内容が豊富です。本展では、昭和三〇年代の町田の人々のくらしと、開発に伴い行われた発掘調査で明らかになった原初の町田の人々のくらしを、考古資料と民俗資料の異なる視点からご紹介します。」
 
 町田市にある縄文の遺跡は、早期(藤の台遺跡など、約七五〇〇年前)、前期(本町田遺跡、約六〇〇〇年前)、中期(御嶽堂遺跡、木曽団地遺跡ほか、約五〇〇〇年前)、後期〜晩期(なすな原遺跡、田端遺跡ほか、約四〇〇〇年前〜二八〇〇年前)と、長い年月にわたって、あるらしい。
 博物館にはいってすぐの考古篇の展示では、各遺跡からの出土品が展示されていたが、年代が違うので、土器もいろいろあった。この違いについては、先に行った「縄文展」(二〇一八年七月三日─九月二日、東京国立博物館)で、概観したばかりだったから、なるほどなあと納得した。前期の本町田遺跡のものは、縄ほかで、紋をつけていて、中期の金森遺跡や鶴川遺跡群J地点のものは、粘土を貼り付けたような造作があって…。
 写真撮影が可ということを、後で知ったので、展示を見るときはそれをしなかった。だが、展示物を写真に撮ることは苦手だ。それよりも、展示をもっと見ることに注意をはらったほうがいいのではないかと、つい思ってしまうから。それに、土器や土偶は、見て、感じることに、注意をむけたい。だから、撮れなかったことを、あまり残念に思わない。こうして書くときに、すこし不便だけれども。結果、不確かなことを、勝手に書いてしまうことになるかもしれない。
 博物館にあった「本町田遺跡を知ろう」という印刷物に、「本町田遺跡から出てきた縄文時代前期の土器は、現在の甲信地方で見られる土器の特徴を持つため、多摩丘陵や境川を辿って西からやってきた人々が」作ったのでは…とあった。たしかに山梨などで見た土器と雰囲気が似ていると思った。藤の台遺跡出土の《顔面取手土器》などは特に。本町田遺跡出土のものではないが場所的にはとても近い。それにすぐ後に出かけた本町田遺跡公園でも、やはり顔面取手土器の一部が展示されていた。ここでも、「現在の長野県や山梨県にあたる地域の縄文時代中期の人々が土器の一部として作り始めたと考えられています」とあった。
 ともかく藤の台遺跡出土の《顔面取手土器》は、前回ここで書いた縄文展などでみた《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市)の、表が女性、裏が蛇の、そんな土器に近しいものだった。男と女、死と再生、慈しみと恐れ…。
 またうろおぼえで書いてしまうが、チラシにある顔の土偶、《中空土偶頭部》(田端東遺跡出土、縄文時代後期)は、国宝の北海道函館の《中空土偶》と顔も造りも似ているので、あちらの愛称が出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」によって「茅空(かっくう)」なので、町田で「まっくう」としているとあったのが、すこしほほえましかった。
 
 「まちだ今昔展」の今昔のほうにあたるのだろうか、民俗資料のコーナーでは、縄文土器に触ることができるコーナーがあった。前期、中期、後期と、三つの時代のものが、数個ずつおいてある。前期のものは土器に紋がついていて、中期のものは突起があって、後期のものは目立った紋がなく…、ここでも違いがわかるのがうれしかった。それぞれの時代のものを丁寧に触る。
 雨のせいか、土曜日なのに、人がほとんどいない。そのせいもあるだろうが、土器や土偶たちが、しっくりと、わたしに小声で語りかけてくれるようだった。来てよかった。
 
 博物館を出て、すぐ近くの本町田遺跡公園へ。およそ、五五〇〇年前の縄文前期の住居址と、二〇〇〇年前の弥生時代中期の住居址が発見された「複合遺跡」。現在は、それぞれの時代の住居が一軒ずつ復元されていて、東京都の指定史跡にもなっている。
 恩田川と鶴見川の分水嶺にあたる場所、丘陵地帯になるらしい。やはり岬…。高いところにあることは、この場所からでも、わかった。下のほうに住宅地が拡がっている。復元された竪穴式住居は、外から見ただけでは違いがわからない。

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 中にはいったが、暗いこともあり、あまり熱心に中を見なかったので、違いがなんとなくしかわからなかった。違いは、縄文時代のほうは、丸太や枝をそのまま使っているが、弥生時代のほうは、道具が発達したことで、木材を板などに加工している、そのことによるらしい。
 雨が幾分か小雨になったが、まだ降り止まない。
 晴れたらどんなにか、とは思ったが、やはり来てよかった。公園近くに、カブトムシの幼虫のための腐葉土を溜めている木の箱があったから、縄文時代の人々が食べていたドングリたちの実る、コナラやクヌギなどもあったのだろう。
 竪穴式住居の脇の芝生に、ツルボが咲いているのを見つけた。紫色の小さなブラシみたいな花。これも好きな花だったなあと、咲いているのに出会って、また思い出す。それが、こうした場所であるのが、どこかうれしかった。
 小さなガイダンスルームで、遺跡出土品の展示、パネル解説などを見る。顔面取手の蛇。ぬけがらのよう、どこか、やさしい。
 丘陵から下るかんじで、帰り道。びっくりするというか、あきれるぐらいに近かった。行きのわたしはどんなに道に迷っていたのか、わらってしまう。こんどからは大丈夫、まよわずにいけるだろう。雨がようやくやんだ。

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 土器たちに触れて、数日後、まだ微熱がつづく。風邪が沈殿している。あちこちで彼岸花たちを見かける。かなり咲き出した。昨日、早朝バイトからの帰り道、崖のしたで白い曼珠沙華がすこしだけまとまって咲いているのを見つけた。赤い花は彼岸花というのに、白いほうは曼珠沙華と、言ってしまうのはなぜかしら。そんなことを思った。真っ赤な彼岸花が群生しているとすこし怖いぐらいだが(毎年のように埼玉県の巾着田にいってそんな群生を見ている)、白花の曼珠沙華は群生しているのを見たことがない。昨日見たのも、群生というほどではない。せいぜい十本かそこらだろう。けれども、その姿の群生しているのを思い浮かべることはできた。やはり、それはそれで、怖いぐらいだろうと思った。幽玄というか、しずかな、荘厳なこわさ。
 この上あたりも、遺跡発掘調査を最近していたなあと思う。崖の上だもの。どこかで、あちこち、つながっているだろうか。また雨が少し降ってきた。

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19:39:16 - umikyon - No comments

2018-09-10

細い水を畏怖する 愛しいものへ

 九月に入ったが、まだ暑い。けれども、風が変わった。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行・古今和歌集)を、こんなとき痛切に感じる。感じることで、歌を詠んだ時代と、どこかと共鳴しているようで、それがやさしい。
 それに、早朝バイトに出かける時間、午前五時前なのだが、だいぶ日の出の時間が変わってきた。ついちょっと前までは、完全に朝といえるほど、明るかったが、今は東の空が明るんできたぐらいで、まだ日の出に至っていない(九月一〇日で東京の日の出は五時二〇分)。西の空にいたっては夜の雰囲気すらある。これからもっと暗くなって、早朝ではなく、深夜に出かけるような気分になるのだろうなと、ぼんやりと思いながら自転車をこいでいる。
 そんな日の出前の、あれは五時五分ぐらいだったろう、朝焼けがまたきれいに見えていたので、思わず、スマホで写した。これからほんのしばらくは、こうした朝焼けが楽しめるのかもしれない。それもまた、この時間ならではの季節を感じるということなのかもしれないなと思う。

 台風のある日、仕事関係の用で練馬に出かけた。大江戸線で新宿方面からいくと、練馬の先、終点の光が丘公園は、わたしがかつて住んでいたところの最寄り駅になる。電車の中ですこし懐かしく思う。もう、あそこに帰っても誰も居ないし、べつのアパートが建っている。
 新宿駅で、いつも通販で売っている店が、期間限定ショップをだしているというので、まず行きにのぞいてみた。よくわからないけれど、通販では取り扱わない、リアルショップ専用の商品もあるようだ。そんなものの一つに、猫のポーチをみつけた。ポーチというよりほとんどぬいぐるみ。商品自体は通販にもあったが、模様がちがった。サビ猫。トラ猫に黒が混ざったような、はっきりいってあまり美しくない。けれども、大好きな飼い猫だった、べべの模様だ。わたしはどうして、こんなにべべが好きなのだろう。亡くなってもう十数年経つというのに。売っていた猫(ポーチ)は、模様がべべと同じというだけで、似ているわけではなかった。だから…。帰りに通るときまで保留にする。もし売り切れていたら、それもまた縁がなかったということだ。
 台風の影響で、帰りは電車が止まったりしていた。なので、早く帰ったほうがよかったのだが、遠回りになるのに、結局店へ行って買ってしまった。馬鹿みたいだ。けれども、ゆるせる馬鹿さ加減だ。

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 家の朝顔が、今年はよく咲いてくれている。去年、入谷の朝顔市で求めた朝顔、その種を蒔いたものだ。蒔いた時期がすこし遅かったからか、八月後半に、とくに花をよくつけてくれていた。種類は陽白朝顔。昼ぐらいまで咲いていてくれるので、それもうれしい。バイトから帰ってきて、水やりをする、午前10時ぐらい。そのときにまだ花が咲いているので、花数を確かめる。以前に咲いて、種になっているものたちもある。そのうち採取して、来年も蒔こうと思う。今年はずいぶんと楽しませてくれた。ありがとう。
 この頃、台風の影響なのかしら、雨が多かったのかしら。前にも書いたけれど、うちの近くの小川と、湧水地に、水がある。一年の大半は枯れているのに。この川と遊水地は連動している。おとなりの狛江市にある弁財天池から流れているらしいが、暗渠となっている部分も多いので詳しくはわからない。けれども、家のすぐ近くに川があるというのは、うれしい。近くといっても道をはさんで家たちが立ち並び、その向こうにもう一つの道に沿って川が流れているので、家からは見えない。なので、一本向こうの道を通って、この頃は家に帰るようにしている。今日も…また、すこし雨が降ったりだったせいか、ほんのすこし、小川に流れる水が増えているような気がする。遊水地も。こんなふうに水があるうちはほぼ毎日、川を眺めている。雨が強くなってきた。

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 『縄文の神秘』を読み終わった。最後のほうは「土偶の神秘」として、様々な土偶を写真付きで紹介しつつ、考察してゆくものだった。なぜ造られたのか。構成する条件(土偶は女性である、壊されているなど)をあげてゆき、それらに基づいて、結論的な答えを示す。それは、100パーセントそうなのだろうとは思えなかったが、うなづくところも多い、そんな推論だった。
 共感できたのは、死にかかわっているということ、再生にかかわっているということ。そういえば、あれはどこで見たものたちだったのか。壊れた土偶たちを見て、怖いと思った記憶がよみがえった。たぶん國學院大學博物館でだ。「特別展 火焔型土器のデザインと機能」(國學院大學博物館 二〇一六年十二月十日─二〇一七年二月五日)。あのときは、少し怖いと思っただけだったが、畏怖のような感覚で、あの土偶たちがわたしのなかで、共鳴をもたらすようだったのだ。埋葬であるとか、悲しみであるとか、祈りであるとか、だが、死者の側を色濃く反映させている、そんな風に思えた。だからだろうか。國學院博物館で、怖いと思った後から、少しづつ、それらがわたしのなかで蓄積していったと思う。縄文土器には、あまり怖いという気持ちは起きなかった。祭祀で使われたこともあるだろうが、どこかに生活の痕跡が残っているからだったのだろう。土偶には、生活感のようなものがない。だから、特に美術品としてみることに罪悪感のようなものを感じたのかもしれない。
 そういえば、狛江の弁財天池。あのあたりも弁財天池遺跡があり、先土器時代から、縄文、弥生、古墳、奈良や近世の複合遺跡となっているらしい。川が細く、流れている。雨がまた、水をもたらしてくれるだろうか。べべ柄の猫のポーチを、目につくところにおいている。そういえば亡くなった猫のために、毎日陰膳を出している人を知っている。いつも食べていたお皿で、台所の定位置に。きっと食べに来ているのだろう。道路のほうから、雨のなか、車が走る音がする。雨脚が少し弱まってきた。

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20:55:49 - umikyon - No comments

2018-08-26

連続ということ─縄文展のことなど

 台風の前の朝、バイトに出かけようと外にでたら、あざやかな朝焼けを目にした。鮮やかというよりも、すこし怖いぐらいだった。ああ、朝焼けは天気がくずれるという、天気に関することわざがあったなあ、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」。その言葉を体感しているようでもあった。

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 縄文展(二〇一八年七月三日─九月二日、東京国立博物館)。実はちょっと前…もう一ヶ月近く前になるかしら、出かけていたのだが、ここで書かないできていた。
 なぜなのか。自分でもなんとなくはわかるのだけれど、明確にはわからない。行ってよかったと思う。図録も買ってきた(よっぽど気に入った展覧会でなければ買わない)。
 なのに、なぜか書けないでいる。たぶん、縄文を美という観点からだけ見ていいのかしらというすこしの罪悪感のようなものを感じてしまっているからだと思う。だったら、どうみればいいのか、それも明確にはわからない。むろん、展覧会自体のコンセプトを批判するのではない。ただわたしの見方に、ぶれがあるというだけなのだ。
 一同にあつまった縄文土器や土偶、その他の出土品というか展示品というか。すごいなあと感じたし、感動したけれど、こんなふうに場所から切り離されて、それを見て、感動するだけでいいのかしらと、どこかで思ってしまう自分が、都度いたのだ。たとえば、縄文展の後に行った練馬区立石神井公園ふるさと文化館「石神井川流域の縄文文化」では、出土品に、縄文展のような華やかさはなかったけれど、まだ何かが切り離されている感じがしなく、心地よかった。おそらく、石神井という土地と、ということなのだろう。
 つまり縄文的なものたちを、美としてだけ観ることに、自分のなかで抵抗が兆してきたのだ。
 だったらどう見ればいいのか。いや、見て、それに感動していることはいい。その感動の原因を掘り下げるには、縄文の人たちの世界観を知らなければ…ということを感じているのだとも思う。
 煮炊きする土器が、なぜあんなにも装飾的なのか。土偶は、なぜあんなにもデフォルメされているのか。
 
 けれども「縄文展」で、縄文土器の違いを年代的に知ることができたのはよかった。約一万年のあいだに作られてきた土器には、時期、場所によって形や文様に違いがある。草創期〜前期(紀元前一一〇〇〇年〜紀元前三〇〇〇年)までは、概ねが、縄やへら、紐そのほかで、文様が施されていて、中期(紀元前三〇〇〇年〜二〇〇〇年)は粘土を貼り付け、鶏冠に見えたり、王冠に見えたり、様々な飾りを加えている、後期・晩期(紀元前二〇〇〇年〜前四〇〇年)は、描線で描いたり、いったん描いた縄文をすり消したりする技法が用いられている…。
 その一万年の違いが、展覧会の会場で、一同にみれたことは収穫だった。わたしは今まで、中期のもの、粘土で装飾を加えたものが好きだったし、今もそうだけれど、こうした違いを知ることで、前期のものたちも、別の視点から見ることができたことによって、土器につけられたあまたの文様たちに、なにか、惹かれるものが芽生えたのだった。
 また、《木製編籠 縄文ポシェット》(三内丸山遺跡、縄文時代中期)も、心に残った。これは小さくて(高さ約十三センチ)、ほんとうにポシェットとしかいいようがない、小さな網籠だ。針葉樹の樹皮で編んだものらしい。これに惹かれたのは、使い方などに多分、今と通じるものを感じたからだ。中にクルミの殻が入っていた。もちはこぶためという、このわかりやすさがよかった。縄文の人々が感じられるような気がしたのだ。
 わたしは美的にみることと、そうでないものの間で揺れ動いている。《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市、御殿場遺跡出土、縄文時代中期(前三〇〇〇年〜前二〇〇〇年))。底が平坦で、釣手があり、中央は穴が開いているので、灯火具として使われたという節が有力だけれど、よくわかっていないようだ。前面は釣手部分に柔和な顔が施され、真ん中に大きな穴がひとつあいていて、そこが身体のようで、土偶にも見える。だが、裏は釣手から装飾のない底部に至るまで、荒々しいような装飾、表で胴体のように見えた真ん中部分に今度は二つの穴があり、それが目のようで、中央にうねうねと走る装飾が鼻、仮面のようにも見える。また両側面は、メドウサのように蛇が何匹も生えるよう。つまり、表と裏で見え方がまったく違う。優しいもの、怖いもの。生と死、美しさと真逆なもの、これらが連続して、表裏一体で…。

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顔面取手付釣手土器

 『縄文聖地巡礼』(坂本龍一・中沢新一、(株)木楽社、二〇一〇年)に、かなり《顔面取手付釣手土器》に似た《人面香炉形土器》(曽利遺跡出土、縄文時代中期、井戸尻考古館蔵)について書かれていた。そう、別のものなのだが、「縄文展」で見たときは違いがわからなかった。てっきり同じものだとばかり思って、後で図録と『縄文聖地巡礼』を見比べて、はじめて違いに気づいたのだった。見比べると、井戸尻考古館蔵の《人面香炉形土器》のほうが、裏のほうの髪の毛のような装飾がもっと蛇らしさが増している。
 「表は火を産む女神、裏は冥界の蛇の女神(キャプション)」、「縄文の人たちは、美人を見ても、同時にその後ろに蛇を見る感覚をもっていた(中沢)」。
 それは、生と死が連続していた、という世界観にも通じるのかもしれない。同じ本から。
 「縄文中期の遺跡群を見てみると、死者と生者が入り交じる状態をつくっていますよね。村の中央には墓地があって、空間的にも死者と生者が共存しているし、一日の時間のなかでも、昼間は生者の世界だけど、夜は死者が入り込んでくる(中沢)」。
 このあと、縄文後期から、死者と生者の分離が始まり、今に至ることが、述べられている。
 「不均質だった生者の世界は均質空間になり、死者の世界も観念的になって記号化されていく(中沢)」、人間世界と自然が分離されて、その上、一部の特権的な人間が自然の力を象徴し、その力を行使するようになっていくわけです(坂本)」。
 「縄文展」にいってから時間が経っているので、脱線しつつあるが、仕方がない。今『縄文の神秘』(梅原猛、学研M文庫)を読んでいる途中。こちらにも生と死の連関についての記述がある。「縄文時代の住居にはサークル状の遺跡が多い」。そのサークルの中心には石神というか、男根のような棒が立っていて、取り囲む放射状の石の部分には、遺骸が埋められていることが多いのだとか。「少なくとも一部のストーンサークルは墓場であったと思われる。直立した性器は墓場とあまり似合わしくないが、それはおそらく現代人の感想にすぎないのであろう。原始人の世界観において、生と死は深く結びついていたのであろう。人は死ぬ。しかしそれは再び生き返る。男性性器が再生のシンボルでもあったに違いない」。
 こうした記述を書き写すうち、土偶に女性が多いこと、妊娠をあらわす正中線や、性器の穴が見えること、そして土偶が壊された状態で出土されることが多いことなど、ふっと頭によぎった。たぶん、土偶にも、再生と死が深く関わっている。出産と埋葬。
 また「縄文展」では、数々の石棒、ストーンサークルや、ウッドサークルの木柱などの展示も見ていた。ごく簡単に。そのすぐ後に、たとえば石神井公園で石棒(石神)を見たことや、こうして本のなかで、それらに触れられていることで、関心が高くなったものたち…。もっとちゃんと見ておけばよかったと思った。けれども、気づかないよりはましなのかもしれない。これから、あの石の神たちを、感じるようにできますように。
 「縄文展」には、国宝になった縄文土器、土偶六点、すべてが集結するということも、見所の一つだった。ただし《仮面の女神》と《縄文のビーナス》は七月三一日─九月二日までの展示。そうだ、わたしはおそらく夏休みに入るし、六点すべてが集結したあとは、ずいぶんと混むだろうと、わざと二つの展示がないうちに出かけたのだった。ずいぶん前に出かけた「国宝 土偶展」(東京国立博物館、二〇〇九年十二月一五日〜二〇一〇年二月二一日)はかなり混んでいたという記憶もあったから。
 展示のない国宝たちには、出会ったことがあったから。二つとも長野県の茅野市尖石縄文考古館で、見たことがあったのだ。大切な展示として、異彩を放っていた。あの思い出があるから、連れてこられての展示は、別に見なくてもいいと思ったのだった。
 とはいえ、国宝二体、見られるものなら、見たいという気持ちもあった。ただ、「縄文展」は、会期初めということもあってか、思ったよりもすいていた。そのことが《縄文のビーナス》を見なかったことへの、すこしだけ、なぐさめのようなものになっていた。
 けれども展示もないのに、素焼きの《縄文のビーナス》の貯金箱、なぜか買って帰ってしまった。本物の雲母のキラキラとした感じもなく、均等な質感に、ちがう、まがいもんだと思ったのに。わたしは、どっしりとした、妊婦を表しているのであろう、あの体型、そしておだやかな表情が、ずっと心に残っているのだ。しかも貨幣交換という概念がなかった縄文(貨幣という記号ではなく、贈与的な意味合いが多い、不均衡な交換が行われていたらしい)の土偶に、お金を入れるなんて…。すこし後ろめたいような気もしたが、お金を入れることで、ほんのすこし、力をもらいたかったのかもしれない。今、少しづつ、お金を入れている。ちゃりん。

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 生と死が連続している。いや、おそらく、さまざまなものたちが連続しているのだ。花たちが、鳥たちが、このごろ、とみに愛おしい。
 バイト先から帰る途中に、よく橋を渡る。橋の向こうは国分寺崖線がつくる崖で、湧き水が流れていたり、不動の滝があったりする。
 橋の上で、カラスの死骸を見た。ああしたものは、このごろは、すぐに片付けられてしまうものだが、なぜか、そのままになっていた。車などで轢かれつづけてしまううち、死骸と認められなくなったのかもしれない。数日、姿がわかった。潰れ具合が増して、押し花みたいになって、最後は黒い影のようになっていった。
 同じ橋の上から、数日前、カルガモの子供たちが、群れをなして泳いでゆくのを見た。親よりも、すこし小さい、だいぶ成長している。
 『縄文の神秘』に、「柱と橋はこの世とあの世の通い路か」という見出しがあった。『丹後風土記』に、天橋立は、かつては柱としてあったが、神様が眠っているうちに倒れてしまって、橋になったという記述があるそうだ。「まさに柱こそは天と地の架け橋であり、そこを通って、かつては神々と人間たちは自由に行き来していたのである」。そして、死者と生者たちも。ここでは古典芸能の能の「橋懸り」についても触れられている。「楽屋と舞台がつながれているが、あの橋懸りこそ、この世とあの世をつなぐものに他ならない」。
 この夏は暑かった。セミの声もいつもより、少なかった。わたしが住んでいるマンションの渡り廊下に、力尽きて横たわる数々の虫たち、こがねむし、セミ、たまにカブトムシたちに出会うのだが、今年はそれも例年よりも少なかったような気がする。絶対数が少なかったのだろうか。
 昨日、すきなヒグラシが、横たわっているのを見た。ほかのセミに比べて小さい。カナカナという声もあまり聞けなかったなとぼんやりと思った。

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16:22:37 - umikyon - No comments