Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-12-05

好きと苦手、仕事と楽しみと日々、そのはざまで (湧水たち)

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 秋が長らく苦手だったと、書いただろうか、たぶん書いているだろう。ここ何年かで苦手意識はだいぶなくなってきたけれど、好きな季節といわれれば、やはり春。花が少なくなってくる季節、葉が落ちる季節、秋が苦手だった。そして寒い、陽射しに力がなくなる冬になる。咲いている花はほとんどない。それが心まで寒くなるようで。
 秋の紅葉も、終わりへむかってのお祭りのようで、どこか寂しい。色づいた葉が落ちてゆく。秋も冬も苦手だ。はやく春になればいい、そうずっと、思ってきた。
 ここ何年か、と書いたが、もはや十数年かけて、なのかもしれない。すこしずつ、ゆっくり、紅葉を、うつくしいと思えるようになってきた。夕暮れのような、最後のかがやき。そして太陽がまた昇るように、葉も次の年には、また鮮やかな緑をつけるだろう。

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 土曜日、早朝バイトがおわってから、仕事をかねて、湧水のある公園、おもに二カ所、回ってきた。取材というか、まあ、そんなこと。そちらは、どこかで書くから、置いておいて。
 二つともはじめてゆく場所。両者はずいぶん近い。間に美術館をはさんで、おなじ道沿いにある。もとは続いた緑だったのかもしれない。
 道にそって川が流れている。かつては田んぼの用水だったとか。出かけた公園とは別に親水公園として整備されている。
 春でも使える写真を撮りたかったので、それが少々気がかりだった。自転車で出かけたら、いきなりの木々の緑というか、紅葉あるいは黄葉。見事だなあと思う反面、心配になった。だが、水辺だけを撮す分にはなんとかなるかもしれない。これらの間で、ゆれうごく自分の心が妙だとおもった。紅葉をみたい気持ちと、紅葉をのけて、春っぽさを仕事のために、もとめている自分と。
 どこかから写真は借りてこられるかもしれないので、そこまで気にしなくともいいのだけれど。

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 最初に訪れた公園は、柿が熟した木、湧水を元にした池、古民家などが、やさしかった。井戸ポンプもあった。飲み水にはできないが、今も現役らしい。そういえば、わたしが子供の頃にも、うちに井戸ポンプがあった。こことは離れているが同じ世田谷区内だ。じつは世田谷というか、今住んでいるうちの近所でも、井戸ポンプがあちこちにある。古くなって使えなさそうなものもあるけれど、実際に新設して使えるものも。ある時、ポンプをうらやましそうに眺めていたら、実際に水を出してくれた方がいた。「飲めないんですけどね〜」と微笑んで。そんなことをふと思い出す。井戸水に出合うたび、心がさわぐのだった。
 美術館の緑地をすぎて…というか、どこからどこまでが美術館のものなのか、実はよくわからなかった。秋の森たちは、狭間を曖昧にしている。親水公園もそうだ。親水公園なのか、別の公園なのか。川沿いに進んで、次の公園へ。どちらも崖というか、高低差があるところに作られているが、こちらのほうが、その差を生かした庭園という感じなので、その視点からは趣があった。山にいるような錯覚。思いがけず湧水地点も見ることができた。この湧水地点の写真だけは使えるかも、とやはり胸算用し、それで安心したのか、秋の景色、色づいたモミジたちに心惹かれる。

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 それと、ここには昭和初期に建てられた家が保存されている。建物の中も見学できるので入ってみた。建物は高台に建っているので、庭の緑が俯瞰できる。こちらの窓から、あちらから…少しずつ趣が変わって、家から見るための庭でもあるのだなと、あらためて気づかされる。

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 最初に訪れた公園だったか、付近の地図に、もうひとつ小さな湧水がある公園があると書いてあったので、いってみる。だが、簡単にしか地図を見なかったので、道に迷った。スマホで調べても載っていない。見回すと、高台の坂道と坂道の間の小さな三角地帯、ひときわ紅葉が目立つ場所がある。たぶんあそこだろう。やっぱりだった。けれども工事中だった。公園予定地なのだろうか。スマホで検索できなかったのは、そのせいかもしれない。立ち入り禁止の外側から、おおよそのものは見ることができた。紅葉、黄葉している木々の下に、木の散策路、橋があり、そこに流れ、湧水たちが。

 こちらは、もはや記事としては使えないので、かえって存分に秋として、景色を眺めた。小さな水と木の三角地帯。

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 そうして、通り過ぎてきた美術館の入口近くで、銀杏が色づいていたのを確認したので、そこも立ち寄った。もはや取材は関係ない。プライベートだ。いや、もともとプライベートも仕事もかなり稀薄なのだけれど…。どちらもわたしの好きや、書くことに関係しているから。
 銀杏って、こんなにまぶしかったかしら。みあげる空に、あざやかな黄色がよく似合っていた。あまりに似合いすぎていて、目にしみるほどだった。太陽の色。
 帰り道、また親水公園や、最初にいった公園を通る。行きとは違う風景だと思う。モミジの赤が鮮やかだ。そう、自転車で家からほんの少しの場所なのだ。来たことがなかったけれど。よく通る道から一本入っただけなのに、今通っている道もはじめて通った。その日は土曜だと書いた。次の日の日曜日は、週一回の休み。仕事と遊び。日常と非日常。境目は曖昧なのかもしれない。そういえば、秋と書いているけれど、もう冬なのかしら。十二月。それでも、やはり、秋を味わえてよかったなあと、思うのだった。

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 そうして、また数日後、日曜を過ぎての平日、早朝バイトが終わってから、もう一カ所、公園をみにいった。こちらは、前出の公園たちと違い、何度か訪れたことがある。
 だが、公園というか、崖下のへりに流れがあって、それだけを公園の外から見る感じで訪れただけだったので、せっかくだから、公園の中も入ってみようと思ったのだった。いや、実は崖下の流れのほうから入れるのかどうか、心配でもあった。別の入り口があるのではなかったかしらと。たとえば崖の上からとか。
 この公園はかなりひろい運動公園でもあって、崖下の流れのある場所だけ、すみっこで親水園として、流れにそって、ひっそりとあるので、そちらのほうから行くのではなかったかと。
 さて、出かけてみたら、崖をのぼる道は、いきなりあった。というか数本あった。わたしは今まで何を見てきたのか。流れしか見ていなかったのだ。
 いちばん端、来たところから一番近い道をのぼった。ちょっとした山道のよう。登ったところは木々に囲まれ、あずまや、古くから祀られてきたらしい小さな神社、フィールドアスレチック用の遊具などがあった。のぼりきってしまうと、奥行きは案外なかった。すぐに道になって。けれども、木々が多いのであまりそれは感じられない。崖の上から、下のいつもの流れを見ることができた。新鮮だった。流れのすぐ向こうに仙川という川が流れている。湧水たちは、おそらくここに注ぐのだろう。

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 崖を降りて、また流れにそって歩いてみた。初めて訪れたときから、湧水なんだろうなと、調べもしないで、思っていたのだが、それを示す看板があったのを今回はじめて気づいたた。本当に今まで、下の流れしか見てこなかったのだろう。看板には、「この流れは「自然の湧水」です」とあった。うれしくなった。勝手にそうなんだろうなと思っていたことが、裏打ちされたようで。
 わたしは湧水という言葉にどうしてこんなに惹かれるのだろうか。この親水園では、湧水地点はわからなかったが、こちらもまた出かけてみてよかった。崖の上にのぼって、知らない景色に出合った。あたらしい発見があった。こちらは紅葉、黄葉がみごとな木々はなかった。けれども、斜面では、落ち葉たちが足元で踏む度にかさかさと、心地よかった。まだ平日、週もはじまったばかり。仕事と遊びのはざまで。使えないであろう古い井戸ポンプが置いてある家をとおりすぎた。しらない鳥が鳴いた。もはや秋ではない、冬なのだろう。

00:01:00 - umikyon - No comments

2018-11-25

祭りと日常がちかしい。─民家園手作り市

 勤労感謝の日、近くの民家園で手作り市を開催していたので、早朝バイトが終わってから、連れ合いと出かけてきた。
 民家園の中には移築してきた古民家が数件あり、畑や鍛冶場、木挽き場もある。肥だめや、辻には道祖神も。まさに村のような場所。江戸時代後期から明治初期の村を再現しているとのこと。民家園は公園の中にあるのだが、公園にはわたしがかなり好んで訪れる田んぼや用水がある。これらをあわせて農村風景を再現している場所。

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 その民家園では、ボランティアの方々が、鍛冶をしたり、木挽きをしたり、畑では野菜や、蕎麦、棉などを作り、それをもとに、蕎麦打ち、藍染め、機織りなどをそれぞれ会で行っていて、その販売をしたり、体験をしたり、が、手作り市だった。販売品には、ほかに手漉き和紙、竹細工、農産物、手芸品など。
 実は、ここ数年、このイベントに毎回のように出かけている。とくに手打ち蕎麦が目当て。
 今年は晴れて、天気に恵まれたせいだろうか、あるいは、例年は開園してすぐの九時半に出かけているのだが、今年は、十一時過ぎぐらいに着いたからだろうか、かなり混んでいた。民家園の入口の駐輪場に数多の自転車が止まっているので、まずびっくりした。でも、ああいうお祭りは人が多いほうがいい。賑わっていて、良かったなあと思った。
 入口付近で、ざっと販売品をみてから、手打ち蕎麦の販売へ。
 古民家の一軒で、作っているのだが、その庭の門まで、列が並んでた。こんなに人がいて、なくならないかなと思うぐらい。食券を買って並ぶ。並んでいる最中に、まず、そばがきを食べることにした。わたしが並んでいて、連れがそばがきを買って焼きにゆく。七輪で自分で焼くのだ。味噌だれと醤油だれが選べたらしい。例年醤油だれが多かった記憶があるので、今年は味噌だれで頂く。見た目は五平餅みたいなかんじ。小判型のそばがきに、串がさしてある。外は香ばしく焼かれていて、中はしっとり、おいしい。
 外では臼で蕎麦ひき体験もしてた。そばがきを食べ終わって、わりとすぐに、古民家ののれんをくぐる。中に入るといい匂いがした。そばをこねたり、打ち粉をして、そばをのばしている。そして、かまどで、ゆでている。もともとの古民家の匂い、それから、そばの匂いたちが、あつまって、やさしい匂いになっていた。中でもすこし並ぶ。こねたり、伸ばしているのをみているのが、たのしい。十割蕎麦で、この民家園内の畑で作ったもののようだ。そういえば、植わっているの、観たことがあった。あれは夏だったかしら。蕎麦の上にのせるネギも、園内の畑でとれたものだそうだ。と、並んでいる最中に、誰かがいっていた。あとで園内を歩いていたら、ネギ畑をみつけた。たとえば、これかしらと思う。
 蕎麦は庭のテーブルで頂いた。蕎麦にかける一味唐辛子も手作りらしい。ここのものかどうかわからないが、作りたてだからか、少しでかなり辛い。辛いと聞いていたので、ほんの少ししか入れなかったが、口のまわりがピリピリした。たまにはいい刺激。
 蕎麦はとてもおいしかった。今年はとくにおいしかったような気がする。歯ごたえがあって、香りが感じられた。来てよかったなあと思う。値段はちなみに四〇〇円、そばがきが二〇〇円。贅沢な時間だ。
 蕎麦を待っている列の途中で、綿の会の販売スペースや、糸つむぎをしているコーナーを通った。販売は、綿でつくった小物入れ、シュシュ、ちいさな糸巻きのブローチ、綿のネックレスなど。糸巻きのブローチは、小さな木の棒に、いろいろな色で染めた糸が巻き付けてあって、それを糸巻きにみたてたもの。染めるのも、会の方々がしているそうだ。何を使って染めたのか、わからなかったけれど、黄色と緑の糸が巻いてあるものを求めた。草の色がいいなあと思ったのだった。今、加曽利貝塚の秋祭りで購入したイボキサゴの小物といっしょに、これを書いている机からすぐの所に、なかよくぶらさがっている。

 体験コーナーは、、草笛体験、折り紙体験、木挽き体験、藍染めそのほか、いろいろあったのだけど、木挽き体験だけしてきた。直径十センチぐらいの幹を、昔の木挽き専用ののこぎりで切る。切れ目があらかじめ入れてあるので、そこに差し込んでのこをひく。最初に連れが体験した。早くて上手だった。そのあとに、わたし、あまり木を切ったことがないので、彼のまねをして、なんとか。リズムのようなものを感じた。木の粉が舞う。最後に、切ったものが飛んでいってしまったのが笑えた。最後はスピードをおとさないといけなかったらしい。
 切ったものはコースターになる。今年は焼き印をつけてくれた。木挽きの会、とあった。焼き印を付けてすぐのコースターの匂いを嗅いだ。木の香りとそれが焦げた匂いがした。

 そのあと、別の古民家の庭で。なぜか、その場でつくっている、えびせん。せんべいと言っていいのかしら、揚げせんべい? ともかく、せっせと揚げているのを見た。そして思い出した、ああ、前回もこれ、揚げてたなあ、おいしかったなあと。で、今年も買うことにした。こちらもちょっとした列。ふわっとして、くちのなかで、とけるような、薄桃色のえび揚げせんべい。
 これを買って、ほかに売っているものたち、おおざっぱに眺めて、家に帰った。帰って、さっそく、えびせんを頂く。お酒のつまみに、ぴったりだった。

 この日は昼から、こんなにのんびりしていて、休日ぽいなあと思ったが、仕事終わってからだったし、次の日も仕事だった。だから次の日は、少し時差ぼけっぽい疲れが感じられた。祭りという休みを体験したのに、日常へ。その差を身体なのか、心が、すこしだけ、ついてくることができなかったのだ。
 次の日、土曜日。早朝バイトが終わってから、また民家園へ。手作り市の時は混雑していたこともあって、写真が撮れなかったので、それを撮りにきた。
 祭りの後の静けさ。いつもの民家園だった。ツワブキが咲いている。ホトトギスも。これはもう花の盛りを過ぎているかも知れない。花の終わりに会えてよかった。そしてヒイラギ。これだけは実は、前日に撮影したもの。えびせんで並んでいたときかもしれない。最初、クリスマスや、節分で、みかける葉っぱだなあとぼんやりみていた。赤い実を想起しながら。そしたら、白い花が咲いているのを目にして、ちょっと驚いたのだった。ヒイラギの花を見るのは初めてだった。白い花が赤い実になる。めでたいなあ。そして白い花のほうは、小ささのせいか、可憐に思えた。咲いている花を知ることができてよかった。

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 この土曜は、わたしにとっては、祭りの後でもあるが、祭りの前日でもある。その次の日曜が、休日だから。つまり、これを書いている今日。また明日はバイトだけれど。祭りと日常が近しい。えびせんは食べ終わってしまった。おいしかった。昨日は休日前の秋冬の恒例の鍋を食べた。今日はまだ、祭りのようなもの。まだ昨日の鍋は残っている。昼に頂こう。

(民家園の名前、出したほうがいいのかしら…、なんとなく場所も、ハレとケの狭間に置いておきたくなって、あえて出さなかったのだけれど…、次太夫堀公園民家園です。)
09:50:19 - umikyon - No comments

2018-11-05

出合いたちの重なって─加曽利貝塚縄文秋まつり

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 十一月三日の文化の日、千葉にある加曽利貝塚の縄文秋まつりに行ってきた。
 去年、はじめて出かけて、魅力的な場所、催しだったので。祭りは十一月三日、四日。春まつりもあるらしいが、こちらはGW中で、道が混みそうだから、遠慮した。
 加曽利貝塚は、縄文時代中期(五〇〇〇年前)の北貝塚と、後期の南貝塚(約四〇〇〇〜三〇〇〇年前)でちょうど8の字の形になる、日本最大級の貝塚。二〇一七年の一〇月に国の特別史跡に指定されていて、貝塚博物館のある公園として整備されている。正式名称は加曽利貝塚縄文遺跡公園。ここから出土された土器は、発掘地点をアルファベットで区切っていたが、そのB地点から、縄文時代後期(約三五〇〇年前)の土器が、E地点から、縄文時代中期(約五〇〇〇年前)の土器が、出土していて、それぞれ、加曽利B式、加曽利E式と呼ばれる。これは主に関東地方で出土され、土器の年代を推測するための指標となる標式土器となっている。土器の特徴は、計測器(キャリパー)のようで、逆三角形に近く、火炎型土器のような装飾の派手さが抑えられつつある感じ。

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 去年は、ちょうど特別史跡に認定された年だったから、縄文秋祭りも、宣伝に力がはいったのだろうか。都内の電車の吊り広告か何かで、見つけたのがきっかけだった。物販、縄文体験、そして潮干狩りで形だけしっていたちいさな巻貝、イボキサゴが大量に貝塚から出てきていた…、名前を知った喜び、それらで素敵な、大切なイベント、思い出となったものだったので、今年もずいぶんと前から、楽しみにしていて、出かけたのだった。
 二回目だったから、初めての時のような、見知らぬことと出合った、そんな驚きに満ちた喜びは少なかったかもしれないが、今年も、楽しかった。もちろん、はじめて知ったことも、今年も多々あったのだが。
 そのまえに、順を追って。お祭りが十時からだったので、開始に間に合うように車で出かけて、着いたのが九時四五分ぐらいだったか。ちょうどいい感じ。九時から開いている加曽利貝塚博物館の中をざっと見る。ああ、そうだ、ここも触ることのできる縄文土器片があったのだなあと思い出す。それと黒曜石の塊も。黒く光って、実用に使われた美でもあった。
 あと、去年はおそらく気づかなかったのかもしれない。丁寧に埋葬された犬の骨。レプリカだったが、本物そっくりだった。ちなみに本物は「発掘された日本列島2018  ─新発見考古速報」展で巡回中。わたしは今年の夏に江戸東京博物館でそれを見た。本物の犬は全国を旅しているのだなあと、ふっと思う。ちなみに前にも書いたけれど、それがあるから、加曽利貝塚のイメージキャラクターは、カソリーヌという犬になっている。帽子に加曽利式の土器をかぶって、ネックレスにイボキサゴをつけて。
 企画展「あれもE これもE」として、千葉で出土された加曽利E式土器の様々を比較していたので、もうすこしゆっくり見たかったが、十時になりそうだったので、物販コーナーへ。
 実はお祭りが始まる前に、縄文土器タンブラーを売っているのを見たのだ。売っていることはHPなどで事前に知っていたのだが、実際に見て、思ったよりも、ずっと素敵だったので、迷わずに購入を決めた。だが、まだ開店前だった。三日にしか売っておらず、しかも、どうも六点限定らしい。手作りなので、微妙に見た目が違う。売り切れも心配だったが、選びたいというのもあった。十時に再度いったが、わたしと連れと同時にもう一人購入していて、あと残り三点になっていた。ちなみに、それからすぐ、残り三点もなくなっていたから、やはり早くに見つけて、求めることができて良かった。ちなみに、加曽利E式で、底が狭いので、安定が悪い。台座も買う。台座にはカソリーヌが陶器のワッペンみたいに付いている。縄文土器と違って、タンブラーには、内側に釉薬のようなものがかかっている。そうしないと注いだものがしみてしまうからだろう。わたしはその釉薬が茶色のものを、連れは黒いものを買った。
 その後、土器のレプリカが抽選で当たるというので手続きをしたり、石器による魚の解体ショーをみたりした。学芸員さんの腕もいいのだろうけれど、鯛が黒曜石などで三枚におろされるのが、スムーズで、すこし驚いた。このあたりの黒曜石は神津島のものだとか。おろした魚は復元住居の中の炉で燻し、あとで頂くらしい。燻すことで、保存が聞くのだとか。
 十一時からボランティアさんの遺跡ガイドツアーがあるので、途中まで参加した。のっけから驚いたのは、今立っている場所、というか、あちこちに貝塚の貝が露出しているということ…。落ち葉やドングリに混じって、白い化石のような貝の数多…。これが貝塚の貝たちなのだと。ドングリは拾ってもいいですが、この貝や土器は持って帰るのは禁止です、と言われた。え、土器も露出したりしているのかしらとびっくりしたが、それよりも、去年も、そして言われるまで、足元を見なかったのだろうか、花たちが咲いているのや、ドングリが落ちているのはわかっていたが、貝塚の貝たちには、まったく気づいていなかった。だが教えてもらってからは、もう、貝だらけ。あちこちに白い貝の骨のようなものたちが。あとで、レジャーシートをひいて昼食を食べたのだけれど、その周りにも貝だらけで、こんなところでご飯をたべるなんてと感慨があった。そして、いわれるまで眼にはいってこなかったということも妙だった。まるで名前のようだ。名前を知るまで、わたしにとって存在が不確かだったものが、名前によって存在しはじめるような。

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 それと、この公園の森がなかば縄文人がみていた風景でもあるのだということ。木々も植物も、当時の植生を調べたうえで、植えているものだといっていた。クヌギやコナラ、スダジイ、クリなどのドングリがなる木たち。
 このことは、去年もなんとなく知っていた。けれども、いわれてみると、やはり、いっそう植物たちが、縄文をつたえてくれるような気持ちがした。あとで散策したとき、アザミ、そしてリンドウが咲いているのを見て驚いた。アザミは、どこかで普通に咲いているのを見たことがあったが、リンドウは、こんなふうに自然に近いかたちで咲いているのを見たことがなかったと思う。鉢植えか、栽培品種になった、もっと丈のたかいものでしか。

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 そのあと、貝層断面観覧施設へ。古い北貝塚と南貝塚両方。両方ともイボキサゴがあったが、より新しい南のほうは、ハマグリなどの大きな貝が目立った。理由はそうだとは断定できないけれど、一〇〇〇年のうちに、食べ方に変化が起きたのでは、とのことだった、たとえば大きいほうが食べやすいとか。
 もっと聞きたかったが、十二時からイボキサゴスープのふるまいが別の会場であったので、そちらに行った。
 去年も食べたのだけれど、これも名前をしって、特別な存在となった、イボキサゴにもっと接したかったのだ。異説はあるだろうけれど、おそらくダシや塩分摂取のために、とられたであろう小さな貝、イボキサゴ。縄文中期以降の加曽利貝塚は、やはり、今とあまり変わらず、海から数キロ離れていたとか。貝塚公園の端っこに、港ではなかったかという坂月川があった。その川から海の方を眺める。海は見えなかったが、あそこから、イボキサゴはやってきたのだろうか、あるいは黒曜石も。

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 今年もイボキサゴスープを頂いた。そして、煎ったイボキサゴも。こちらは爪楊枝で、身をほじくりだして頂く。こちらのほうがイボキサゴ本来の味が楽しめておいしい。ほじくり出すのは少々手間がかかったけれど、それも愛嬌。食べた貝、殻になったそれを数個持ち帰った。
 土器抽選会(見事に外れた)、イボキサゴグッズの販売、公園内の散策、博物館の見学、それらで会場には、なんだかんだで、今年も結構いた。午前九時四五分から午後二時過ぎ。名残惜しいが、帰ることに。途中、幕張のパーキングエリアで千葉の物産を見る。八街の落花生を買った。家で、さっそくタンブラーで、お酒を飲んだ。大きいので、すぐにお酒がなくなってしまう。落花生をつまみに、そして物販で買った、やはり千葉の物産の枝豆も。枝豆はもう本当に最後なのだろう、こちらではせいぜい九月末までだった。今年最後の特産品をいただけて良かった。そういえば、石器による解体ショーでだったか、学芸員さんが、縄文の人たちは地産地消、そして旬の食べ物を味わっていたと言っていた。保存なども難しい時代だ、それしか選択肢がない、だが、それはそれですばらしいことだ。その季節ごとの食材を、一期一会として味わうこと。贅沢とはいえない、当たり前が、大切なことだったのだ。
 知ったことたちが、やさしく、おだやかに、よりそってくれている。名前たち、過去たち。イボキサゴという小さな貝が、ますます愛しくなった。その貝の化石たちが、あちこちに。来年も行くのだろうか。いけたらいいなと思う。また、小さな出合いたちがあるだろう。


21:14:33 - umikyon - No comments

2018-10-21

自然ということとの線引き──「三鷹の縄文」など

 どこでだったか憶えていない。けれども多分、縄文関係の施設で、もらってきたものだ。『2018 東京文化財ウイーク 特別公開・企画事業篇』というリーフレットを入手していた。それによって、三鷹市役所で一〇月九日から一〇月十六日まで、考古学展示会「三鷹の縄文 さわれる展示」という特別展を行うと知ったので出かけてきた。こんなふうに何かたちがつながってゆくのだろうか。
 
 三鷹は井の頭池や野川、仙川などの湧水が多くあり、縄文中期(約五〇〇〇〜四〇〇〇年前)の遺跡が多々あるとのこと。
 二〇一三年から、考古学展示会を行っていて、今回は初のさわれる展示で、計十二点が出品。うち、持ちあげることがができるものが三点、触るだけのものが六点、ガラスケースに入ったものが三点。会場にはインストラクターの方々が常駐、写真撮影も可とのこと。

 野川も仙川もうちのすぐ近くにも流れている。三鷹もうちから割と近い。ほとんど隣町。なので、自転車で行くことにした。十キロと離れていない。
 方向音痴なので、不安ではあったが、三鷹までゆく道の半分ぐらいまでは、自転車をつかって来たことがある道だった。あとはほとんど道なり、二回ほど曲がれば行けるはず。
 自転車でゆっくりいって、ちょうど一時間ぐらい。今回は、ほぼ道に迷うことなく、行くことができた。
 三鷹市役所。はじめてくるところだが、ほぼとなりにあるスーパーマーケットは、車などで通ったときに(わたしは助手席)、よく眼にしていて、なじみがあるものだった。あのスーパーをみると、ああ、うちの近くに帰ってきたんだなあとおもう、道しるべのようなものだった。それが、こことつながるなんて。

 さて、会場へ。市役所の入口なので、わかりやすいといえばわかりやすい。インストラクターの方々が何人もいて、すこし緊張したが、いきなり、持ちあげることができる土器のほうへ案内されたので、それにしたがうことにした。順番でいうと、十二点あるうちの最後の展示のほうなのだが。
 年代順に丸山遺跡、井の頭遺跡。丸山遺跡は、縄文中期、井の頭遺跡は中期と後期のもの。あとで場所を調べたら、井の頭遺跡は、井の頭池、丸山遺跡も井の頭二丁目なので、二つの遺跡はかなり近い。鞄をおいて、注意深く持ち上げる。土器片に触ったことはあるが、土器を持つのははじめてだ。質感とともに重さを感じる。
 三点とも大きさがまちまちだったが、説明で、後期のものは中期のものに比べて模様が簡略化されていて、重さも軽くなっていますから、それを確かめてみてください、とあったので、言葉通りに体感した。模様が簡略化されているのは、見た目にもわかるし、それが後期の特徴といえばそうなので、もつ前から、感触的なことはおおよそ予想できたが、重さまでは気づかなかった。それはそうだ、これは持ってみないとわからない。
 なんというか、縄文中期のものは、重さがしっくりした。たぶん、この質感なので、この重さなのだという、予測が自分のなかでたてられた。だが、縄文後期のもの、簡略化された土器は、見た目と重さにかすかなずれがあった。それが軽さということだった。見た目の印象よりも、若干軽い。予測のほんの外、ぐらいのちがいだったが、この違いが味わえてよかった。

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▲左から、丸山A遺跡出土(勝坂式、縄文中期)、
 井の頭池遺跡群A出土(加曽利E式、縄文中期)、
 井の頭池遺跡群A出土(称名寺式、縄文後期)

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 あとの展示…、大雑把でもうしわけないが、最近訪れた町田の本町田遺跡で教えてもらったように、山梨や長野の土器の系譜を感じた。蛇的なものが土器にほどこされていて。インストラクターの方たちが何人かいて、レクチャーしてくれるのはありがたいのだが、やはり、じっくり見るのに、すこしだけ違和があるというか、入口すぐの場所ということもあったのだが、集中がとぎれがちになってしまって。
 いや、これはわたしの側の問題なのだろうけれど。

 三鷹市役所の近くに丸池公園というものがある。縄文時代の遺跡の跡でもあるが、かつて埋め立てられてしまった池を復活させた、里山的存在でもあるらしい。市役所の帰りに寄ることにする。近くには三鷹市生涯学習課分室として、みたか遺跡展示室もある。だが、予約制だというので、今回は遠慮した。
 丸池は仙川流域になる。近くというか、ほとんど隣の緑の場所は仙川公園。仙川はうちのほうでも、ここでもコンクリートで護岸工事がされている。あまり離れていない野川は自然に近い形で護岸されているのに、なぜなのだろうか。ただ、コンクリートの内側で、長年の間に土砂がたまって、中州ができたり、河原のような感じになったりして、それはそれで、自然らしさというか、生の営みが感じられる。植物が生え、鳥が休む。鯉も泳いで。仙川公園の岸辺沿いは桜の名所でもあるらしい。もう少し下った祖師谷公園、そして成城一丁目あたりの仙川も桜の名所になっている。これも仙川の特徴なのだろうか。
 ともかく、仙川公園を過ぎ、切れ目がわからないまま、丸池公園へ。わたしは水が好きなのだ。すぐに池へ向かった。埋め立てられたのが一九七一年、市民の要望で復元したのが一九九四年。もう復元してから四半世紀になるので、なじんでいるというか、人工的なものなのかどうか、まったくわからない。むかしから変わらずにあったように、水を湛えてみえた。わたしは勝手にそれを心地よいものとして見ているが、あとで調べたら、この状態を保つために、池の水の確保や、かいぼりなど、いまもあちこち、人の手を加えているらしい。自然らしさを保つために。

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 いま『縄文の思考』(小林達雄著、ちくま新書)を読んでいる途中。旧石器時代の遊動生活から、縄文時代の定住生活へ。つまり、ムラの出現だが、それは自然的秩序からの離脱の始まりでもあるとあった。
 また、定住生活が始まってから、文化が始まったともあった。いままでの狩猟や移動で使われていた身体的拘束時間が減ったことで、〈精神を動かす方に時間が振り向けられることになった〉、〈縄文文化の形成を約束〉されたのだと。
 まだほんとうに途中なので、この本の趣旨とは離れてしまうかもしれないが、今の時代のわたしたちよりも、自然と近しかったであろう縄文の人々が、自然から離脱していたということが、すこし眼からうろこだった。そして、時間的、身体的余裕ができたことで、文化、芸術が始まったということ。
 そんなことを、丸池とからめて思った。自然から離脱したわたしたちが、自然と向き合うことについて。自然的なものを求めて、手を加えていること。
 ところで公園内で地図をみたが、丸池遺跡、場所がよくわからなかった。遺跡として、なにかが残っているということでもなかったから。すこし高台になったあたりを、勝手に、遺跡なのかしらと思うことにした。高くなったところから、ドングリがあちこち落ちている木々の緑を見わたすと、なんとなく縄文を感じた。気のせいなのかもしれないが、深呼吸をしたような、満ちた気を感じた。

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 そのあと、またゆっくりと自転車で帰路へ。途中、買い物などをする。家についたらもうちょうど夕焼け空、太陽が沈もうとしていた。日が短くなってきた。

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08:35:05 - umikyon - No comments

2018-10-05

満ちている生たちに、挨拶を ─彼岸花など

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 今年も秋になってもだらだらと夏の暑さが続いて、そうこうするうち、突然寒さがやってくるのかと思っていた。それほど、真夏の暑さが感じられたのだろう。わたしの予想と違い、秋は意外と順調にやってきている。台風や雨は多いけれど。
 十月になるかならないかの時、キンモクセイが香っているのを感じた。そう、あれは花の存在を、いつも香りで知る。どこに咲いているのかしら。香りをさがす。そうすると、金色の星のような花たちをみつける。金木犀って、金木星のことなのではないのかしらと、勝手なことを思ったり。
 ただ、今年は、咲いてすぐに台風が来たから、かわいそうに、開花してまもないキンモクセイたちが、すぐに暴風雨で、花を散らせてしまった。台風一過の後の朝、道に星屑のようにあちこちで花たちが落ちていた。
 崖の林や、公園では、倒木も見られた。根こそぎではなく、根元付近で折れて、むざんな切り株のようになっているのが、何本か。
 今日、公園のほうでは、折れて倒れた倒木が、きれいに五六個の輪切りになっているのを見かけた。なにかに再利用するのだろう。ただ、幹はドーナツ状に空洞になっていた。弱っていた子だったから、倒れてしまったのだろう。

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 九月の四週目の土曜日、お彼岸の頃に、例年出かけている、埼玉県日高市の巾着田に、彼岸花をみにいってきた。つい彼岸花と書いてしまうけれど、曼珠沙華まつりとなっているので、その呼び名のほうがいいのだろう。けれども、わたしのなかでは、彼岸に咲く、彼岸花なのだ。
 それを今になって書くのも、もう、季節が進んでしまって、どうかなと思うのだけれど……、今、彼岸花たちは、もはや、花茎をなくして、後から伸びてきた剣のような葉だらけ、ジャノヒゲみたいになっている。だから、簡単に。
 やはり前日まで雨が降っていたっけ。いや、出かけた朝もぐずついていたと思う。けれども着いたら、晴れてきた。三連休の初日ということもあって、それに、ちょうど満開だったから、混んでいた。満開…盛りをすこし過ぎた頃でもあった。ぎりぎり満開。終わりの始まり。
 人々は、わたしも含めてだけれど、なぜ、花を見に来るのだろうか。真っ赤な彼岸花たちの数多。五〇〇万本の群生地だそうだ。楽しそうに花を愛でているふうだが、そこにどこか、魅入られたような魔がある。かもしれない。すこしだけれど。談笑しながら、という人たちは、意外と少ない。概ね、しずかに写真を撮ったり、彼岸花をバックに自撮りしたり、花の周りをゆく。なぜ、花を見に来るのだろうか。わたしは毎年、問いかけている。ずいぶんと前からだ、二十代後半の頃から。どうして花をわざわざ見に来るのかしら? 彼岸花にかぎったことではない、桜や梅、紫陽花などもふくめて。季節ごと、花を見にゆくことを繰り返して、そのたびに問いを思い出して。答えはない。けれども、答えのようなものが、わたしのなかで、ながい年月をかけて、育っていったと思う。いや、花たちが教えてくれているのだ。

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 家の周辺で、チラシ投函のバイトをしている。その最中、ピラカンサス、冬に真っ赤な実をいっぱいつけるのだが、それがもう、かすかに色づいているのを見つける。彼岸花たちは、まったく見かけない、もう花の時期を終えて、葉を茂らせているから。
 ミズヒキの花、赤と白、めでたいけれど、可憐というか素朴な小さな花たちなので、きらびやかさがない。秋のやさしいめでたさだ。エノコログサ、別名、猫じゃらしたちの、やわらかい花穂たちが、空き地にいっぱい。
 チラシを投函しつつ、それらを眺めては、幸せになっている自分を感じる。あるいは川沿いの道を通る、橋を渡る。意外と澄んだ水の上を、カルガモが泳ぐ、ヘラサギやコサギが立っているのを見かける。そして、あれは葦だろう、茂ったあたりに、カワウがやってくるのを見る、電線に群れをなしてとまっているのは、あれはムクドリ。彼らを見かける、見つける、そのたびに、満ちたような気がしてしまう。ホトトギスがもう咲き始めた。ドングリが落ちている。
 こうした、家の周辺での、やさしい体験、経験が、花を見に行くことたちと響き合っている。同じことだといっているような気がする。ススキが咲いていた。ススキの下に寄生する、ナンバンギセルが見たいなと思う。すきな花だった。ヤブガラシ、藪すら枯らしてしまうという、旺盛な生命力、生えてしまうと、地下茎の強い広がりが面倒なのかもしれないが、オレンジ色の小さなつぶつぶとした花たちが、どうしても気になってしまう、わたしは、日々、花たちと、生き物たちと出会っている。たとえば、彼岸花たちを見に行くのは、そのことを、確認しにいきたいのではなかったか。彼らとともにあること。
 家の近くの、雨が多いときだけ、現れる小川と遊水池は、このところ、ずっと水を湛えている。それどころか、どちらも水位がだいぶ上がっている。地下水位が上がったときだけ、出現するということは、湧き水由来ということでもあるので、水があるときは、澄んでいる。その小川のほとりに、ヒルガオの花。これも好きな…、きりが無い。あたりは、生で満ちている。

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21:25:20 - umikyon - No comments

2018-09-20

好きと再会する─町田市立博物館、本町田遺跡

 雨が多かったからだろうか。雨にまぎれて、夏の暑さがいなくなってしまった。まだ暑いと思うときはあるが、気温に力がない。朝晩などはだいぶ涼しくなってきた。
 近所の公園でも、とつぜん彼岸花が咲き始めたのに気づいたのが、九月の十三日。今年はじめての彼岸花だったので、見入ってしまった。わたしはどんなにか、この花が好きだったのか。花のころになると、いつもそんなことを思い出させてくれる花のひとつだ。
 またある日、崖の上の緑地公園の入口で、コムラサキ(ムラサキシキブの仲間)を見つけた。花ではなく実のほう。もう紫色に色づいていた。こんなに早く色づくものだったのかしら。花のほうは目立たない、白っぽい小さな花たちが、夏…七月ぐらいに咲いているのを、ほかの場所だったが、見かけていた。そのうち緑色の実を、そして、とうとう紫色の。紫色のまま、数ヶ月その姿を保っているから、もっと秋も遅くなってから、色づくのだと思っていたのだろうか。この時期でもまだほんのり紫になってはいるが、緑っぽい実をつけているコムラサキもある。わたしが結実期をもっと遅いものと思っていただけなのだろう。そう、この花、いや実も、すきなもののひとつ。つい目で追ってしまう、目につくと好きだったなと思い出さずにはいられない植物のひとつ。

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 風邪をひいた。以前にくらべて、ゆっくり症状がでてくるような気がする。時間をかけて、緩慢に具合がわるくなってくる。最初は気のせいかなと思う。けれども、徐々に。風邪のために、気力がうしなわれてゆく。おっくうになる。そんななか、ネットで、なにか近くで展覧会とかないかしらと検索していたら、町田市立博物館で「まちだ今昔展─時空を超えた対話;縄文ムラと商都」(二〇一八年七月十四日─九月十七日)というものを見つけた。すぐ近くに本町田遺跡公園という史跡もあるらしい。あと数日で企画展もおわってしまう。だるかったが、町田なら電車で一本で行けるところでもあるし、九月十五日の土曜日、出かけることにした。
 土曜日も雨。微熱もあったし、出かける気が失せそうになったが、バイトから帰ってきて、簡単に昼食を済ませて、なんとか外に出る。このささいな決断が、まあ、このごろの怠惰になりがちな自分にしては、ましな行為だ、いい兆候だと、力なく、どこかで思う。
 小田急線の町田駅からバスで、というのが博物館の案内などに乗っているルートだが、うちからだと、その一つ前の駅、玉川学園前駅から徒歩でも行けそうだったから、金銭的なことも考え、そちらから行くことにした。玉川学園前駅。ちょうど、もうそろそろ一年前になってしまう、玉川大学教育博物館「二〇一七年度企画展 考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」(二〇一七年十月十六日〜十二月十七日)に出かけて以来だ。あの折は車だったが、こんどは電車。風邪とバイトの疲れで、電車の中では、ほとんど寝ていた。各駅停車で行ったが、寝るにはちょうどいい時間。片道25分弱ぐらい。
 事前に調べたところ、玉川学園前駅から、町田市立博物館は徒歩二〇分ぐらい。地図もプリントアウトしたのだが、見事に迷ってしまった。もともと方向音痴で、方向ではなく、建物などで位置を確認するのだが、住宅地ばかりなので、確認する建物がない。それが原因。自分の方向音痴を知っていたから、遠回りでもなるべく大きな道、極力曲がらないですむ道をたどったつもりだったが、どこかで間違えた。次の大きな道、街道にたどりつかない。行き止まりや、ほそい坂、わけがわからなくなってしまった。仕方なく、地図アプリを頼ったが、北西の方角へ、と指図があるので、また混乱する。方向音痴に北西といわれても…。さんざん迷って、二〇分でいけるところ、結局一時間以上歩いてしまった。具合が悪いし、雨も降っているのに、これはさんざんだなあと思うが、どこかで楽しんでいた。迷ったのは住宅地だというばかりでなく、丘陵地に作られた町だからだ。うねうねと坂をのぼる。また少しななめにくだる。方向音痴でなくとも、たぶん方角をみうしなう(?)…。
 やっと街道に出た。鶴川街道だ。街道に出さえすれば、あとはまた高いところに続く道をほぼ道なりにすすめばいい。
 そういえば、縄文の遺跡は、知っている限りだと、高いところにあるなあと思う。時期によって、一概に言えないが、温暖化で海が内陸まで迫っていた海進の折の事情による。岬ということばがまた思い出される。
 町田市立博物館にようやくついた。


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 チラシやHPから。
 「(前略)本年は町田市が誕生してから六〇周年を迎えます。明治時代以降において横浜と八王子をつなぐ生糸の輸送ルートである絹の道(町田街道)は、様々な物資の流通ルートとしても利用されたことから、街道沿いの地域を中心に商都として繁栄してきました。さらに市制が施行され、駅前をはじめとして急速に開発と発展が進んだ時期でもあります。町田市内は九〇〇地点以上の遺跡が確認されており、なかでも縄文時代の遺跡は数多く、出土遺物も内容が豊富です。本展では、昭和三〇年代の町田の人々のくらしと、開発に伴い行われた発掘調査で明らかになった原初の町田の人々のくらしを、考古資料と民俗資料の異なる視点からご紹介します。」
 
 町田市にある縄文の遺跡は、早期(藤の台遺跡など、約七五〇〇年前)、前期(本町田遺跡、約六〇〇〇年前)、中期(御嶽堂遺跡、木曽団地遺跡ほか、約五〇〇〇年前)、後期〜晩期(なすな原遺跡、田端遺跡ほか、約四〇〇〇年前〜二八〇〇年前)と、長い年月にわたって、あるらしい。
 博物館にはいってすぐの考古篇の展示では、各遺跡からの出土品が展示されていたが、年代が違うので、土器もいろいろあった。この違いについては、先に行った「縄文展」(二〇一八年七月三日─九月二日、東京国立博物館)で、概観したばかりだったから、なるほどなあと納得した。前期の本町田遺跡のものは、縄ほかで、紋をつけていて、中期の金森遺跡や鶴川遺跡群J地点のものは、粘土を貼り付けたような造作があって…。
 写真撮影が可ということを、後で知ったので、展示を見るときはそれをしなかった。だが、展示物を写真に撮ることは苦手だ。それよりも、展示をもっと見ることに注意をはらったほうがいいのではないかと、つい思ってしまうから。それに、土器や土偶は、見て、感じることに、注意をむけたい。だから、撮れなかったことを、あまり残念に思わない。こうして書くときに、すこし不便だけれども。結果、不確かなことを、勝手に書いてしまうことになるかもしれない。
 博物館にあった「本町田遺跡を知ろう」という印刷物に、「本町田遺跡から出てきた縄文時代前期の土器は、現在の甲信地方で見られる土器の特徴を持つため、多摩丘陵や境川を辿って西からやってきた人々が」作ったのでは…とあった。たしかに山梨などで見た土器と雰囲気が似ていると思った。藤の台遺跡出土の《顔面取手土器》などは特に。本町田遺跡出土のものではないが場所的にはとても近い。それにすぐ後に出かけた本町田遺跡公園でも、やはり顔面取手土器の一部が展示されていた。ここでも、「現在の長野県や山梨県にあたる地域の縄文時代中期の人々が土器の一部として作り始めたと考えられています」とあった。
 ともかく藤の台遺跡出土の《顔面取手土器》は、前回ここで書いた縄文展などでみた《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市)の、表が女性、裏が蛇の、そんな土器に近しいものだった。男と女、死と再生、慈しみと恐れ…。
 またうろおぼえで書いてしまうが、チラシにある顔の土偶、《中空土偶頭部》(田端東遺跡出土、縄文時代後期)は、国宝の北海道函館の《中空土偶》と顔も造りも似ているので、あちらの愛称が出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」によって「茅空(かっくう)」なので、町田で「まっくう」としているとあったのが、すこしほほえましかった。
 
 「まちだ今昔展」の今昔のほうにあたるのだろうか、民俗資料のコーナーでは、縄文土器に触ることができるコーナーがあった。前期、中期、後期と、三つの時代のものが、数個ずつおいてある。前期のものは土器に紋がついていて、中期のものは突起があって、後期のものは目立った紋がなく…、ここでも違いがわかるのがうれしかった。それぞれの時代のものを丁寧に触る。
 雨のせいか、土曜日なのに、人がほとんどいない。そのせいもあるだろうが、土器や土偶たちが、しっくりと、わたしに小声で語りかけてくれるようだった。来てよかった。
 
 博物館を出て、すぐ近くの本町田遺跡公園へ。およそ、五五〇〇年前の縄文前期の住居址と、二〇〇〇年前の弥生時代中期の住居址が発見された「複合遺跡」。現在は、それぞれの時代の住居が一軒ずつ復元されていて、東京都の指定史跡にもなっている。
 恩田川と鶴見川の分水嶺にあたる場所、丘陵地帯になるらしい。やはり岬…。高いところにあることは、この場所からでも、わかった。下のほうに住宅地が拡がっている。復元された竪穴式住居は、外から見ただけでは違いがわからない。

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 中にはいったが、暗いこともあり、あまり熱心に中を見なかったので、違いがなんとなくしかわからなかった。違いは、縄文時代のほうは、丸太や枝をそのまま使っているが、弥生時代のほうは、道具が発達したことで、木材を板などに加工している、そのことによるらしい。
 雨が幾分か小雨になったが、まだ降り止まない。
 晴れたらどんなにか、とは思ったが、やはり来てよかった。公園近くに、カブトムシの幼虫のための腐葉土を溜めている木の箱があったから、縄文時代の人々が食べていたドングリたちの実る、コナラやクヌギなどもあったのだろう。
 竪穴式住居の脇の芝生に、ツルボが咲いているのを見つけた。紫色の小さなブラシみたいな花。これも好きな花だったなあと、咲いているのに出会って、また思い出す。それが、こうした場所であるのが、どこかうれしかった。
 小さなガイダンスルームで、遺跡出土品の展示、パネル解説などを見る。顔面取手の蛇。ぬけがらのよう、どこか、やさしい。
 丘陵から下るかんじで、帰り道。びっくりするというか、あきれるぐらいに近かった。行きのわたしはどんなに道に迷っていたのか、わらってしまう。こんどからは大丈夫、まよわずにいけるだろう。雨がようやくやんだ。

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 土器たちに触れて、数日後、まだ微熱がつづく。風邪が沈殿している。あちこちで彼岸花たちを見かける。かなり咲き出した。昨日、早朝バイトからの帰り道、崖のしたで白い曼珠沙華がすこしだけまとまって咲いているのを見つけた。赤い花は彼岸花というのに、白いほうは曼珠沙華と、言ってしまうのはなぜかしら。そんなことを思った。真っ赤な彼岸花が群生しているとすこし怖いぐらいだが(毎年のように埼玉県の巾着田にいってそんな群生を見ている)、白花の曼珠沙華は群生しているのを見たことがない。昨日見たのも、群生というほどではない。せいぜい十本かそこらだろう。けれども、その姿の群生しているのを思い浮かべることはできた。やはり、それはそれで、怖いぐらいだろうと思った。幽玄というか、しずかな、荘厳なこわさ。
 この上あたりも、遺跡発掘調査を最近していたなあと思う。崖の上だもの。どこかで、あちこち、つながっているだろうか。また雨が少し降ってきた。

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19:39:16 - umikyon - No comments

2018-09-10

細い水を畏怖する 愛しいものへ

 九月に入ったが、まだ暑い。けれども、風が変わった。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行・古今和歌集)を、こんなとき痛切に感じる。感じることで、歌を詠んだ時代と、どこかと共鳴しているようで、それがやさしい。
 それに、早朝バイトに出かける時間、午前五時前なのだが、だいぶ日の出の時間が変わってきた。ついちょっと前までは、完全に朝といえるほど、明るかったが、今は東の空が明るんできたぐらいで、まだ日の出に至っていない(九月一〇日で東京の日の出は五時二〇分)。西の空にいたっては夜の雰囲気すらある。これからもっと暗くなって、早朝ではなく、深夜に出かけるような気分になるのだろうなと、ぼんやりと思いながら自転車をこいでいる。
 そんな日の出前の、あれは五時五分ぐらいだったろう、朝焼けがまたきれいに見えていたので、思わず、スマホで写した。これからほんのしばらくは、こうした朝焼けが楽しめるのかもしれない。それもまた、この時間ならではの季節を感じるということなのかもしれないなと思う。

 台風のある日、仕事関係の用で練馬に出かけた。大江戸線で新宿方面からいくと、練馬の先、終点の光が丘公園は、わたしがかつて住んでいたところの最寄り駅になる。電車の中ですこし懐かしく思う。もう、あそこに帰っても誰も居ないし、べつのアパートが建っている。
 新宿駅で、いつも通販で売っている店が、期間限定ショップをだしているというので、まず行きにのぞいてみた。よくわからないけれど、通販では取り扱わない、リアルショップ専用の商品もあるようだ。そんなものの一つに、猫のポーチをみつけた。ポーチというよりほとんどぬいぐるみ。商品自体は通販にもあったが、模様がちがった。サビ猫。トラ猫に黒が混ざったような、はっきりいってあまり美しくない。けれども、大好きな飼い猫だった、べべの模様だ。わたしはどうして、こんなにべべが好きなのだろう。亡くなってもう十数年経つというのに。売っていた猫(ポーチ)は、模様がべべと同じというだけで、似ているわけではなかった。だから…。帰りに通るときまで保留にする。もし売り切れていたら、それもまた縁がなかったということだ。
 台風の影響で、帰りは電車が止まったりしていた。なので、早く帰ったほうがよかったのだが、遠回りになるのに、結局店へ行って買ってしまった。馬鹿みたいだ。けれども、ゆるせる馬鹿さ加減だ。

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 家の朝顔が、今年はよく咲いてくれている。去年、入谷の朝顔市で求めた朝顔、その種を蒔いたものだ。蒔いた時期がすこし遅かったからか、八月後半に、とくに花をよくつけてくれていた。種類は陽白朝顔。昼ぐらいまで咲いていてくれるので、それもうれしい。バイトから帰ってきて、水やりをする、午前10時ぐらい。そのときにまだ花が咲いているので、花数を確かめる。以前に咲いて、種になっているものたちもある。そのうち採取して、来年も蒔こうと思う。今年はずいぶんと楽しませてくれた。ありがとう。
 この頃、台風の影響なのかしら、雨が多かったのかしら。前にも書いたけれど、うちの近くの小川と、湧水地に、水がある。一年の大半は枯れているのに。この川と遊水地は連動している。おとなりの狛江市にある弁財天池から流れているらしいが、暗渠となっている部分も多いので詳しくはわからない。けれども、家のすぐ近くに川があるというのは、うれしい。近くといっても道をはさんで家たちが立ち並び、その向こうにもう一つの道に沿って川が流れているので、家からは見えない。なので、一本向こうの道を通って、この頃は家に帰るようにしている。今日も…また、すこし雨が降ったりだったせいか、ほんのすこし、小川に流れる水が増えているような気がする。遊水地も。こんなふうに水があるうちはほぼ毎日、川を眺めている。雨が強くなってきた。

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 『縄文の神秘』を読み終わった。最後のほうは「土偶の神秘」として、様々な土偶を写真付きで紹介しつつ、考察してゆくものだった。なぜ造られたのか。構成する条件(土偶は女性である、壊されているなど)をあげてゆき、それらに基づいて、結論的な答えを示す。それは、100パーセントそうなのだろうとは思えなかったが、うなづくところも多い、そんな推論だった。
 共感できたのは、死にかかわっているということ、再生にかかわっているということ。そういえば、あれはどこで見たものたちだったのか。壊れた土偶たちを見て、怖いと思った記憶がよみがえった。たぶん國學院大學博物館でだ。「特別展 火焔型土器のデザインと機能」(國學院大學博物館 二〇一六年十二月十日─二〇一七年二月五日)。あのときは、少し怖いと思っただけだったが、畏怖のような感覚で、あの土偶たちがわたしのなかで、共鳴をもたらすようだったのだ。埋葬であるとか、悲しみであるとか、祈りであるとか、だが、死者の側を色濃く反映させている、そんな風に思えた。だからだろうか。國學院博物館で、怖いと思った後から、少しづつ、それらがわたしのなかで蓄積していったと思う。縄文土器には、あまり怖いという気持ちは起きなかった。祭祀で使われたこともあるだろうが、どこかに生活の痕跡が残っているからだったのだろう。土偶には、生活感のようなものがない。だから、特に美術品としてみることに罪悪感のようなものを感じたのかもしれない。
 そういえば、狛江の弁財天池。あのあたりも弁財天池遺跡があり、先土器時代から、縄文、弥生、古墳、奈良や近世の複合遺跡となっているらしい。川が細く、流れている。雨がまた、水をもたらしてくれるだろうか。べべ柄の猫のポーチを、目につくところにおいている。そういえば亡くなった猫のために、毎日陰膳を出している人を知っている。いつも食べていたお皿で、台所の定位置に。きっと食べに来ているのだろう。道路のほうから、雨のなか、車が走る音がする。雨脚が少し弱まってきた。

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20:55:49 - umikyon - No comments

2018-08-26

連続ということ─縄文展のことなど

 台風の前の朝、バイトに出かけようと外にでたら、あざやかな朝焼けを目にした。鮮やかというよりも、すこし怖いぐらいだった。ああ、朝焼けは天気がくずれるという、天気に関することわざがあったなあ、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」。その言葉を体感しているようでもあった。

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 縄文展(二〇一八年七月三日─九月二日、東京国立博物館)。実はちょっと前…もう一ヶ月近く前になるかしら、出かけていたのだが、ここで書かないできていた。
 なぜなのか。自分でもなんとなくはわかるのだけれど、明確にはわからない。行ってよかったと思う。図録も買ってきた(よっぽど気に入った展覧会でなければ買わない)。
 なのに、なぜか書けないでいる。たぶん、縄文を美という観点からだけ見ていいのかしらというすこしの罪悪感のようなものを感じてしまっているからだと思う。だったら、どうみればいいのか、それも明確にはわからない。むろん、展覧会自体のコンセプトを批判するのではない。ただわたしの見方に、ぶれがあるというだけなのだ。
 一同にあつまった縄文土器や土偶、その他の出土品というか展示品というか。すごいなあと感じたし、感動したけれど、こんなふうに場所から切り離されて、それを見て、感動するだけでいいのかしらと、どこかで思ってしまう自分が、都度いたのだ。たとえば、縄文展の後に行った練馬区立石神井公園ふるさと文化館「石神井川流域の縄文文化」では、出土品に、縄文展のような華やかさはなかったけれど、まだ何かが切り離されている感じがしなく、心地よかった。おそらく、石神井という土地と、ということなのだろう。
 つまり縄文的なものたちを、美としてだけ観ることに、自分のなかで抵抗が兆してきたのだ。
 だったらどう見ればいいのか。いや、見て、それに感動していることはいい。その感動の原因を掘り下げるには、縄文の人たちの世界観を知らなければ…ということを感じているのだとも思う。
 煮炊きする土器が、なぜあんなにも装飾的なのか。土偶は、なぜあんなにもデフォルメされているのか。
 
 けれども「縄文展」で、縄文土器の違いを年代的に知ることができたのはよかった。約一万年のあいだに作られてきた土器には、時期、場所によって形や文様に違いがある。草創期〜前期(紀元前一一〇〇〇年〜紀元前三〇〇〇年)までは、概ねが、縄やへら、紐そのほかで、文様が施されていて、中期(紀元前三〇〇〇年〜二〇〇〇年)は粘土を貼り付け、鶏冠に見えたり、王冠に見えたり、様々な飾りを加えている、後期・晩期(紀元前二〇〇〇年〜前四〇〇年)は、描線で描いたり、いったん描いた縄文をすり消したりする技法が用いられている…。
 その一万年の違いが、展覧会の会場で、一同にみれたことは収穫だった。わたしは今まで、中期のもの、粘土で装飾を加えたものが好きだったし、今もそうだけれど、こうした違いを知ることで、前期のものたちも、別の視点から見ることができたことによって、土器につけられたあまたの文様たちに、なにか、惹かれるものが芽生えたのだった。
 また、《木製編籠 縄文ポシェット》(三内丸山遺跡、縄文時代中期)も、心に残った。これは小さくて(高さ約十三センチ)、ほんとうにポシェットとしかいいようがない、小さな網籠だ。針葉樹の樹皮で編んだものらしい。これに惹かれたのは、使い方などに多分、今と通じるものを感じたからだ。中にクルミの殻が入っていた。もちはこぶためという、このわかりやすさがよかった。縄文の人々が感じられるような気がしたのだ。
 わたしは美的にみることと、そうでないものの間で揺れ動いている。《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市、御殿場遺跡出土、縄文時代中期(前三〇〇〇年〜前二〇〇〇年))。底が平坦で、釣手があり、中央は穴が開いているので、灯火具として使われたという節が有力だけれど、よくわかっていないようだ。前面は釣手部分に柔和な顔が施され、真ん中に大きな穴がひとつあいていて、そこが身体のようで、土偶にも見える。だが、裏は釣手から装飾のない底部に至るまで、荒々しいような装飾、表で胴体のように見えた真ん中部分に今度は二つの穴があり、それが目のようで、中央にうねうねと走る装飾が鼻、仮面のようにも見える。また両側面は、メドウサのように蛇が何匹も生えるよう。つまり、表と裏で見え方がまったく違う。優しいもの、怖いもの。生と死、美しさと真逆なもの、これらが連続して、表裏一体で…。

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顔面取手付釣手土器

 『縄文聖地巡礼』(坂本龍一・中沢新一、(株)木楽社、二〇一〇年)に、かなり《顔面取手付釣手土器》に似た《人面香炉形土器》(曽利遺跡出土、縄文時代中期、井戸尻考古館蔵)について書かれていた。そう、別のものなのだが、「縄文展」で見たときは違いがわからなかった。てっきり同じものだとばかり思って、後で図録と『縄文聖地巡礼』を見比べて、はじめて違いに気づいたのだった。見比べると、井戸尻考古館蔵の《人面香炉形土器》のほうが、裏のほうの髪の毛のような装飾がもっと蛇らしさが増している。
 「表は火を産む女神、裏は冥界の蛇の女神(キャプション)」、「縄文の人たちは、美人を見ても、同時にその後ろに蛇を見る感覚をもっていた(中沢)」。
 それは、生と死が連続していた、という世界観にも通じるのかもしれない。同じ本から。
 「縄文中期の遺跡群を見てみると、死者と生者が入り交じる状態をつくっていますよね。村の中央には墓地があって、空間的にも死者と生者が共存しているし、一日の時間のなかでも、昼間は生者の世界だけど、夜は死者が入り込んでくる(中沢)」。
 このあと、縄文後期から、死者と生者の分離が始まり、今に至ることが、述べられている。
 「不均質だった生者の世界は均質空間になり、死者の世界も観念的になって記号化されていく(中沢)」、人間世界と自然が分離されて、その上、一部の特権的な人間が自然の力を象徴し、その力を行使するようになっていくわけです(坂本)」。
 「縄文展」にいってから時間が経っているので、脱線しつつあるが、仕方がない。今『縄文の神秘』(梅原猛、学研M文庫)を読んでいる途中。こちらにも生と死の連関についての記述がある。「縄文時代の住居にはサークル状の遺跡が多い」。そのサークルの中心には石神というか、男根のような棒が立っていて、取り囲む放射状の石の部分には、遺骸が埋められていることが多いのだとか。「少なくとも一部のストーンサークルは墓場であったと思われる。直立した性器は墓場とあまり似合わしくないが、それはおそらく現代人の感想にすぎないのであろう。原始人の世界観において、生と死は深く結びついていたのであろう。人は死ぬ。しかしそれは再び生き返る。男性性器が再生のシンボルでもあったに違いない」。
 こうした記述を書き写すうち、土偶に女性が多いこと、妊娠をあらわす正中線や、性器の穴が見えること、そして土偶が壊された状態で出土されることが多いことなど、ふっと頭によぎった。たぶん、土偶にも、再生と死が深く関わっている。出産と埋葬。
 また「縄文展」では、数々の石棒、ストーンサークルや、ウッドサークルの木柱などの展示も見ていた。ごく簡単に。そのすぐ後に、たとえば石神井公園で石棒(石神)を見たことや、こうして本のなかで、それらに触れられていることで、関心が高くなったものたち…。もっとちゃんと見ておけばよかったと思った。けれども、気づかないよりはましなのかもしれない。これから、あの石の神たちを、感じるようにできますように。
 「縄文展」には、国宝になった縄文土器、土偶六点、すべてが集結するということも、見所の一つだった。ただし《仮面の女神》と《縄文のビーナス》は七月三一日─九月二日までの展示。そうだ、わたしはおそらく夏休みに入るし、六点すべてが集結したあとは、ずいぶんと混むだろうと、わざと二つの展示がないうちに出かけたのだった。ずいぶん前に出かけた「国宝 土偶展」(東京国立博物館、二〇〇九年十二月一五日〜二〇一〇年二月二一日)はかなり混んでいたという記憶もあったから。
 展示のない国宝たちには、出会ったことがあったから。二つとも長野県の茅野市尖石縄文考古館で、見たことがあったのだ。大切な展示として、異彩を放っていた。あの思い出があるから、連れてこられての展示は、別に見なくてもいいと思ったのだった。
 とはいえ、国宝二体、見られるものなら、見たいという気持ちもあった。ただ、「縄文展」は、会期初めということもあってか、思ったよりもすいていた。そのことが《縄文のビーナス》を見なかったことへの、すこしだけ、なぐさめのようなものになっていた。
 けれども展示もないのに、素焼きの《縄文のビーナス》の貯金箱、なぜか買って帰ってしまった。本物の雲母のキラキラとした感じもなく、均等な質感に、ちがう、まがいもんだと思ったのに。わたしは、どっしりとした、妊婦を表しているのであろう、あの体型、そしておだやかな表情が、ずっと心に残っているのだ。しかも貨幣交換という概念がなかった縄文(貨幣という記号ではなく、贈与的な意味合いが多い、不均衡な交換が行われていたらしい)の土偶に、お金を入れるなんて…。すこし後ろめたいような気もしたが、お金を入れることで、ほんのすこし、力をもらいたかったのかもしれない。今、少しづつ、お金を入れている。ちゃりん。

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 生と死が連続している。いや、おそらく、さまざまなものたちが連続しているのだ。花たちが、鳥たちが、このごろ、とみに愛おしい。
 バイト先から帰る途中に、よく橋を渡る。橋の向こうは国分寺崖線がつくる崖で、湧き水が流れていたり、不動の滝があったりする。
 橋の上で、カラスの死骸を見た。ああしたものは、このごろは、すぐに片付けられてしまうものだが、なぜか、そのままになっていた。車などで轢かれつづけてしまううち、死骸と認められなくなったのかもしれない。数日、姿がわかった。潰れ具合が増して、押し花みたいになって、最後は黒い影のようになっていった。
 同じ橋の上から、数日前、カルガモの子供たちが、群れをなして泳いでゆくのを見た。親よりも、すこし小さい、だいぶ成長している。
 『縄文の神秘』に、「柱と橋はこの世とあの世の通い路か」という見出しがあった。『丹後風土記』に、天橋立は、かつては柱としてあったが、神様が眠っているうちに倒れてしまって、橋になったという記述があるそうだ。「まさに柱こそは天と地の架け橋であり、そこを通って、かつては神々と人間たちは自由に行き来していたのである」。そして、死者と生者たちも。ここでは古典芸能の能の「橋懸り」についても触れられている。「楽屋と舞台がつながれているが、あの橋懸りこそ、この世とあの世をつなぐものに他ならない」。
 この夏は暑かった。セミの声もいつもより、少なかった。わたしが住んでいるマンションの渡り廊下に、力尽きて横たわる数々の虫たち、こがねむし、セミ、たまにカブトムシたちに出会うのだが、今年はそれも例年よりも少なかったような気がする。絶対数が少なかったのだろうか。
 昨日、すきなヒグラシが、横たわっているのを見た。ほかのセミに比べて小さい。カナカナという声もあまり聞けなかったなとぼんやりと思った。

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16:22:37 - umikyon - No comments

2018-08-15

ともる小さな旅─キツネノカミソリ、三溪園

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 金曜日の朝、バイトの帰りに小さな渓谷に寄った。まもなく橋や道の補修工事が始まるので、奥まではゆけなくなる。小さな渓谷と勝手に呼んでいるが、成城三丁目緑地という。湧き水が流れる、国分寺崖線に残った小さな緑。竹林もあり、クヌギやコナラも生えているから、カブトムシやクワガタもくる。もうあの花は時期を過ぎてしまったかしら。たしか七月だったような…。実は、その花を求めて、このところ、思い出したときに、数回、といった程度で、何回か訪れていた。あまり期待はしなかった。それよりも、もうまもなくこの小径をしばらくこれなくなるのだなと、そのことを気にかけて歩いていた。そしたら、林のなかで、二本だけだが、咲いているのを見つけた。ぽうっと火の色で、ともるような小さな花、キツネノカミソリ。ヒガンバナ科なので、花が咲く頃には葉がない。一説には細い葉が狐のつかうカミソリみたいだからこの名がついたらしい。ヒガンバナ科だけれど、ヒガンバナよりも花の色が薄いし、ヒガンバナの豪勢さが少ない。もっとひっそりと咲いているイメージがある。それは林のなかで咲いているからだろうか。ここでは二本だけだったが、昔、やはり林の中で見たときは群生だった。あれは高校生の夏休み。川の近くの小さな林の中で見つけた。川は当時、汚臭を放っていたし、林のすぐ裏は、工場だった。そんな場所で、林の中だけは、美しかったのが不思議だった。そのときから、ヒガンバナのような、華やかさがなかった。華やかだけれど、色のせいか、どこか魔を感じる、あの派手さが。けれども、狐という名前がつくからか、どこかやはり、小さな魔を感じる、優しさがあった。そう、わたしはこの花が好きなのだ。ということを、夏になると思い出す。
 そんな花に、ことしも出会えた。よかった。記憶と違って、8月に咲く花だったのか。ここには、崖の上にだけれど、ヒガンバナの咲く場所もある。あと一ヶ月半ぐらいかしら。



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 次の日の土曜。珍しく、というか勤務時間調整のため早朝バイトを休んだ。あまりなじみがないが、山の日という祝日だ。もともと祝日や日曜が関係の無いバイトなので、休みの感覚がよくわからない。定休として日曜日休んでいるので、日曜だけは実感があるのだけれど。それでも子供の頃や、会社勤めの時に、あった祝日なら、まだ親しみというか、それなりに思い入れがあるのだろうが、山の日はちがう。どこか他人事だ。
 その他人事の休みの日に、朝から三溪園に行った。
 連れ合いが、まだ行ったことがないというので、車で。わたしは何回か行ったことがある。横浜からバスだった。好きな場所だった。
 三溪園は、生糸・製糸で財をなした実業家の原三溪(1868─1939年、本名・富太郎)の作った日本庭園。明治39(1906)年に外苑(後に公開される私苑は三溪の私庭)が公開、平成19(2007)年に国の名勝に指定されている。現在は京都、鎌倉、奈良などから集められた歴史的建造物と池や林など、四季折々変化が味わえる広い面積の庭園となっている。また芸術家の育成や支援も行い、自らも美術・文学・茶の湯などをたしなんでいて、それらの痕跡が園内の三溪記念館で見ることができる。
 わたしが最後に行ったのはいつだったかしら。もう十年以上前だろう。時間の感覚がわからない。十五年ぐらいになるのかしら。最初に出かけたのは、まだ二十代の頃だ。池と古い建物たち、山を登る、小さな滝と、建物たち、そのたたずまいのもたらす壮大な凝縮に惹かれたものだった。十七万五千平米という広大さだが、ゆっくり歩いても二時間強で回れる。けれども日本庭園の魔術なのか、室町時代や江戸時代の建物たちのせいなのか、もっと広く、深い場所を歩いている、時間や距離では測れない空間として、わたしを魅了したものだった。
 たしか最初にいったときは三溪記念館にはあまり興味を示さなかったと思う。記念館の中に入れなかったかもしれない。次にいったときはどうだったかしら。
 記憶がごちゃまぜになっている。二回目以降に確かに入った。原三溪の書画のほかに、彼にゆかりの画家たち、横山大観、下村観山、小茂田青樹の作品があった。そしてわたしの好きな速水御舟の作品。入ったことは入ったのだが、速水御舟の絵をここで見たかどうか定かではない。絵自体は見た記憶があるので、たとえば他の「速水御舟展」の類いで見たのかも知れない。原三溪は速水御舟の援助もしており、結婚の際の仲人も務めたとか。援助の話は知っていたが、仲人までは知らなかった。今、これを書くので調べて初めてしったことだ。やはり、記念館で見たのではなかったかもしれない。けれども、記憶のなかで、遠さのなかで、速水御舟の絵が、三渓記念館のなかで、ひっそりと精彩を放ってそこにあった。正しくない記憶なのかもしれないが、ぼんやりとした遠さのなかで、曖昧になっているのは、彼の筆致にも重なるようで、少し心地よい。それに三溪記念館からは、小さな池も見える。ひさしに池の水がきらきらと輝きながら、波紋を映している。静かな場所だ。こんなところで、見ることができたら、それにふさわしいと思った。
 実は今回は、もちろん入ったのだが、速水御舟の作品を見ることができなかった。原三溪の作品を、第一展示室で見る。やさしい筆致だと思った。実業家としての活躍からすると、すこし意外だった。やさしい、温かな筆遣いだと思った。花の下で白いウサギが座っている《白兎》(1934年)、絵はがきを入口のミュージアムショップで一枚購入した。

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 すこし先走りすぎてしまった。三溪園の入口に戻ろう。ここでは季節ごと、さまざまな行事がおこなわれている。最近までは、朝顔展、そして早朝観蓮会。どちらも終わってしまったが、まだ蓮は咲いていた。原三溪は、蓮の花を愛好していたそうだ。そういえば記念館の中でも、彼が描いた蓮の花の絵があった。泥から咲かせる花…。正門近くで、ガイドの方だろうか、入口すぐ、大池と北側の蓮池の間に道があるのだが、そこからではなく、さらに北、蓮池に沿った小さな小径からゆくと、蓮ごしに旧燈明寺の三重塔(三溪園のシンボルだとも言っていた)が見ることができますよと教えてくれた。
 今年は、例年、出かけている行田の古代蓮を見に行くことができなかったので、これはうれしかった。こちらももう観蓮会は終わっていたので、まだ花が見られるなんて、期待していなかったのだ。
 なるほど、咲いている花は少ないようだったが、見ることができてよかった。ここの蓮は、行田の蓮よりも丈が高い気がした。花たちを見上げる感じ。その見上げたさらに上、奥に、三重塔。そういえば三重塔をみると、なぜか、いいようのない、気持ちになる。景色が、古色を帯びて見える、そのことに感じ入るというか、それらがあたりと一体になって、景となっているさまに見入ってしまうというか。だから、大池からの三重塔も楽しみにしていたのだが、こんな見方ができて、幸せだと思った。泥から出て、空高くで、咲く花たち。

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 そのあとで鶴翔閣(元々原三溪が住まいとして建てた建物)を経て、三溪記念館に行ったのだった。
 内苑の奥に入ってゆく。山登りでもしているようで、流れる水、小さな滝、木々が心地よい。移築された建物たちが、なじんで見える。セミの抜け殻をあちこちで見かけた。暑い一日だ。セミもよく鳴いている。水たちが目にしみるようだ。こんなにも水を欲していたのだろうか。あちこちにトカゲ。きらきらとしている。

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 山のような道を散策しながら、知らずうちに外苑に入ったらしい。三重塔へ。この奥に展望台があったはずだが、今は閉鎖されている。あの展望台から海が見えたはずなのだが。といっても埋め立てされたあとの海だし、高速道路やコンビナート的なものが見えるばかりで、すこしかなしい気がしたのだけれど。
 三溪園創建当時は本牧海岸に面していて、もっと海が近かったのだとか。かつてみた展望台からの風景を思い起こしてみる。そのときに、いつも思ったのだ。ああ、おそらく、このあたりまで、海だったのだろうと。
 わたしは不親切な案内人だ。三溪園には貴重な建物たちがたくさんあるのに、それを紹介しないで勝手に歩いている。
 たしか、この旅(散策なのに)の最後のほうに、古民家があったなあと思い出す。旧矢箆原家住宅。白川郷にあった合掌造りの大きな民家。囲炉裏で火がくべられていた。こうすることで屋根などを乾燥させ、耐久性が高められる。だが、そうした必然だけではなく、囲炉裏の火を見ると、どこか人心地がするのは、なぜだろうか。古い、遠い記憶なのだろうか。大切な火。郷愁というよりも、もっと奥にこもった、連綿とつながる古い記憶から、輝くものたち。
 そして、このように火を使っているのに、部屋の中がそれほど熱くないのが、心地よい驚きだった。囲炉裏の周りは、もちろんそれなりに熱を帯びているが、次の間にゆくと、もう風が通って、暑さ、熱さが和らぐ。ほかの古民家でも感じたことだが、どうしてこんなに暑さが薄れるのだろう? このぬるいような、ひんやりとした感触は気持ちがよい。これなら…文明に毒されている言い方だが、扇風機だけでも、夏を乗り切れるかもしれない。そう感じた。開け放されたあちこちから、風が吹き抜けている。

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 とはいえ、山歩き的なこともしたし、身体がずいぶんと熱くなっていた。茶屋があったので、そこでかき氷を頂く。今年初めてのかき氷。鼻の奥まで、冷たさが抜ける。身体がだいぶ冷えたらしい。それからの道のりが、涼しかった。周りの温度は変わらないのだろうけれど、まるで全体的に涼しくなったみたいだ。
 だが、もうそろそろ散策も、旅も、終わりに近づいている。行きにちょっと目にした大池のあたりを巡る。わたしは実は、この大池が好きだった。三重塔も見える。舟も浮かんでいる。亀がいて、鯉がいて。今の季節だとミズカンナが咲き、ほとりにはサルスベリ。カルガモが泳いだり、ほとりで休んでいたりする。池に陽光があたって、きらきら。これらを眺めるのが、好き…というか、欲してさえいたのだった。シオカラトンボが去って行った。あの小舟はいつもあそこにあるなあ、もはやこぎ出さないのかしら。カルガモが舳先で毛繕いしている。

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 こんなふうに、小さな旅が終わった。またここに来れて、彼らと出会えてよかった。わたしのなかでも、なにかたちがきっと重なったのだろう。旅の奥で、熾火のようにともるものがある。キツネノカミソリ、ノウゼンカズラ。わたしが住んでいるマンションの敷地ではサルスベリが赤々と満開だ。
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2018-08-05

まざりあって、ほぐせないまま、名前をよぶ─サギソウ、ひまわり、朝顔

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 ここ数日のあいだで、やっとセミの声を聞いたような気がする。あるいは見かけるようになった気がする。抜け殻を見つけることもできた。化石のようにキラキラしている。
 夏になると、わたしが住んでいるマンションの通路に、よく虫が落ちているのを見かける。こんなことでしか、あえない虫たち。こんなことで、存在をしる。ということを、横たわったままの彼らを見て、前の夏もそうだったなと、思い出す。
 この夏は特に暑い。

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 バイトの途中、あるお寺の前を通ったら、サギソウが咲いていますとの貼り紙がしてあったので、のぞいてみた。白いテーブルクロスのかかった長細い机の上に、サギソウの鉢植えが並んでいる。ほぼ満開。
 シラサギが飛んでいるような姿の蘭科の植物たち。はじめてみたのは、小学生の時だった。どうしてこんな姿のものが存在するのか、そのことに驚いたような気がする。茎や葉が細いこともあり、はかなさが漂っている。羽をつけて、静かに飛ぶように咲いている。つまり、美しいということを言いたいのだけれど、それではわたしが感じた違和に似た驚きを語ることはできない。
 繊細さとか、そういったものを、子供心に感じていた。
 最初に知ったのは、おそらく、通信販売の冊子の中でだったろう。写真ですら、もはやその存在を浮きだたせて見せていた。こんなにすごい花があるんだろうか。

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 記憶がすこし違っているかもしれない。たしかわたしがねだって父に買ってもらった気がする。それは、わたしではなく、父が育てるということを前提にしての、勝手な願いだったのだが。けれども、もしかすると、父が自ら、望んで購入したものだったのかもしれない。どちらだったか。
 植物が好きだった父は、家でたくさんの植物を育てていた。特に山野草。その冊子からも、取り寄せていたけれど、道や林に生えているものたちも採ってきていた。その散策の時、あるいは植物探しのとき、父と自転車で一緒に出かけた。ついていったのか、それとも二人で遊んでいるつもりだったのか。父もまた、子守をしているつもりだったのか。それらすべてだった気がする。
 サギソウはそのなかにはもちろんいない。けれども、蘭科の植物なら、春蘭、銀蘭、金蘭…ああだめだ、なぜかカタカナのほうが合っている。シュンラン、ギンラン、キンラン…。これらはみんな林の中から連れて帰ってきたものだ。黄色いキンランに出会ったのは珍しい。ギンランばかりが咲いていたっけ。シュンランは春まだ早い頃。キンラン、ギンランはもうすこし経って、けれどもやはり春のうち。今すこし調べたら、この二つの蘭は、今は絶滅危惧粁爐吠類されているものだとか。多分サギソウも以前は湿った、あちこちで見られたものだったのだろう。あれはわたしが子供の頃ですら、栽培されていたものしか見なかったけれど、もっと以前は、湿ったところで、小さなサギたちが、羽を広げていたのだろう。
 またすこし調べたらサギソウのほうは準絶滅危惧種(NT)に分類されていた。データでみると、ギンラン、キンランのほうが個体数の減少がさらに深刻だということになる。
 ところで、わたしは洋蘭のほうはあまり好きではない。華やかすぎるし、花弁が大きすぎるのだ。せいぜいトキソウぐらいの小ささがいい。あれもサギソウみたいに鳥の名前がついているが、わたしのイメージでは、カトレアを山草にした感じ。華やかだけれど、どこか優しい。こちらは羽を広げたというより、花の色が朱鷺の翼の色に似ていることから、その名前がついたらしい。ちなみにこのトキソウも、自然に生えていたものは知らない。サギソウと同じく、通信販売の冊子で知ったものだ。
 ああ、これを書いている部屋の窓から、セミの声が聞こえる。あれはアブラゼミ。
 わたしが植物が好き、というよりも花の名前を多く知っているのは、まぎれもなく父の影響なのだが、父が育てていたからか、野山に父と遊びにいったからか、どちらであったか。たぶん両方だ。家にある植物、野山にある植物の名前を知るのが楽しかった。独りでも植物図鑑で花の名前たちを確認した。名前を知るのがうれしかった。今もおそらく新しく名前を覚えることもあるのだろうけれど、基本的にはあの頃憶えたものばかりが、名前としては、大半を占める。大人になって、ここ何年かで憶えたのは、ノハカタカラクサ、ヤブカラシ、ヤブミョウガぐらいだ。後者二つは、子供の頃から見てはいたが、名前を知らなかったもの、ノハカタカラクサは、野の墓の宝の草だと思っていたから(実は野博多唐草)…、どれも名前によって、言葉によって、背景が立ち上ってくるから。
 子供の頃に、名前を覚えておいて、よかったと思う。季節ごとに、植物たちと出会う。彼らを名前で呼ぶことができる。花たちを見かけると、心のどこかがじんとする。また季節がめぐって、彼らに会えたことに対する喜びがほとんどだと思う。この頃はとくに。そして、そこに父がよみがえってくることもすこし。
 ああ、そうだ、サギソウだ。そのお寺のサギソウは、満開だった。サギソウはたしか、栽培するのが難しい花だったはず。それをあそこまで咲かせることができるなんて。そんな驚きと、やはりあいかわらず、違和をもたらす、信じられなさの満開だなあと思ったこと、通信販売で購入した、水苔でくるまれた苗から、父も花を咲かせていたなあとか。
 わたしは目の前にあるサギソウと向き合いながら、自身の記憶などを、総動員させていた。咲いているサギソウたちには関係がないことだろう。けれども、そのサギソウに見入りながら、こんなふうに対峙している、そんなふうにしか、接することができないのでは、ともぼんやりと思った。
 サギソウを見て数日後。今度は家の近くに、ちょうど見頃だというので、ひまわり畑を見に行った。幸せなことだ。あるいは、うちのベランダで育てている朝顔。水やりのたびに、行灯から野放図に、自由に伸びようとする蔓を、行灯にそわせるのが、いつも楽しい。きかんぼうをあやすようだ。このとき、邪道というかずぼらなのかもしれないが、去年の朝顔の蔓がそのままになっているのに、新しい蔓をくぐらせ、一役買ってもらっているのも感慨深い。先日立ち読みした(失礼)園芸の本によると、朝顔は種を作るのに養分をとられるから、咲いた花は、茎ごと摘んだほうが、次の花が咲くようになるのだとか。けれども、来年もまたこの種を採取して、行灯作りにしたいから、花がらだけ摘んで、そのままにしておく。ひまわりも朝顔も、本来は、小学生の時に授業で育てたもの…というなれそめだったかもしれないが、今はこうして関係を持っている。

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 ひまわりは、満開をほんのすこし過ぎたぐらいだった。台風の影響で、だいぶ茎が倒れてしまっているのが、痛ましかったが、それでも、大きな太陽のような花を広げているのは、心がはずんだ。暑さを一身に引き受けたような、真っ黄色がやさしかった。アブたちが蜜をもとめてやってきている。
 父が亡くなってもうずいぶん経つ。写真がないので夢の中でか、自分の顔(わたしは父によく似ているらしい)にしか、父を見ることができないのだが、わたしの顔はこの頃、どうも父とはすこし離れてきてしまっているような気がする。いいとか悪いとかではなく、わたしの顔は、わたしの生き様をその顔に残してきているから、父の印象がすこしずつ薄れてきてしまっているようなのだ。
 父の写真が残ってないのはわかっているのだけれど、それでももしかして…と思って、先日、禁断の玉手箱(これについては、いつか、機会があったら、また書くかもしれない)を開けてしまったのだが、やはり入っていなかった。夢で出てくる父も、夢の中のわたしだけが、彼の顔を知っているようで、夢から覚めたわたしには、ぼんやりとした顔をしか伝えてくることがなかった。
 ところで、わたしは近眼なのだけれど、それを利用して、ある時、ちょっとだけ離れた場所の鏡の自分を、父に見立ててみようと思いついた。ぼんやりとしか顔がわからない、とくに横向きになった顔、鼻をもっと高くして、おでこを出して…、顔ももうすこし長細く…。ほんのすこしだけ父が感じられたが、それは夢の中で出会った父を覚めたわたしが思い出すのに似ていた。
 それよりも、こんなふうに植物たちと出会っているときのほうが、父を感じられるのではないのか。いや、植物たちとの出会いは、彼らとの出会いだ。父が影のように感じられるが。あるいは、わたしという存在が父の思い出なのかもしれない。ひまわりがローレン・バコールの映画のように咲いている。アサガオが蔓をのばしている。サギソウたちに感じた、うつくしい違和。
 ここにも父がすこしだけいる。鏡にうつる顔のように、覚めたわたしが思いやるように。
 今年の夏は暑い。アサガオは特に水をほしがるから、この時期は朝晩、二回水やりをしている。明日も蔓を伸ばしているかしら。いやいやをするように、行灯から離れて。この子たちは、去年入谷の朝顔市で、購入したもの。こんなふうに思い出が増えてゆく。かれらはきっと、仲良しだ。
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2018-07-30

知らなかったことたちの場所─「石神井川流域の縄文文化」展

 この夏は暑い。セミの声が今年はやはり少ないような気がする。ちょっとにぎやかすぎるアブラゼミ、夏らしく感じるミンミンゼミ、そして大好きなかなしげなヒグラシ…。ヒグラシだけは、もともと声を聞くことが少ないからか、前と同じように鳴き声を聞くような気がするのだけれど、ほかのセミは…。暑さと関係があるのかしら。

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 前に江戸東京博物館「発掘された日本列島2018─新発見考古速報」展に出かけたとき、気になるチラシを何枚か見つけたので、もらって帰った。縄文展もそうだ。こちらは実はもう行ってきたのだけれど、そのことは後日。もう一枚、練馬区立石神井公園ふるさと文化館での企画展「石神井川流域の縄文文化」。会期が平成30年6月23日から8月12日までということで、終了まであまり間がないので、今回はこちらについて、すこし書いてみようと思う。

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 わたしは、数年前…と思っていたけれど、多分もう十年前になってしまう、ともかく練馬区のお隣の板橋区に住んでいた。それも練馬区の境に近いところ。石神井公園も割と近くにあったので、何回か行ったことがあった。ボート池であそんだり。その他に子供の頃から、なんとなく愛着を持っていた場所でもあった。
 そんなところに博物館があったなんて知らなかった。調べてみると、できたのが2010年だそうだから、わたしが引っ越した後だ。けれども、知っていてもその頃だと、興味が持てたかどうか、微妙だ。それに、石神井公園駅から行くと、ちょうどボート遊びなどをする石神井池を挟んで向こう、三宝寺池と石神井池の境目にあるところなので、気づかなかったかもしれない。
 行く前に、こんなふうに少し調べてみると、知らなかったか、忘れていたこと、当時あまり興味をもっていなかったことが多くて、そのことに少し驚く。わたしはたしか石神井公園が、あの池が好きだったのではなかったか。なのになぜ…。
 たとえば、公園内には石神井池と三宝寺池の二つがあるが、後者が元々ある池で、石神井池は、三宝寺池とその景観を守るために1933年に作られた人工の池だったこと。そういえば、三宝寺池のほうは、実は行ったことがない。そのほか三宝寺池端に、室町時代以前、豊島氏の居城の石神井城があったこと、そして、これが一番驚いたのだが、ふるさと文化館は、池淵史跡公園に面しているのだが、ここは旧石器時代・縄文時代・中世の遺跡があることだった。竪穴式住居跡があり、発掘された縄文土器がふるさと文化館にあり…。
 石神井公園の近くを離れた今となって、それでも知れてよかったが。
 さて、石神井へ。台風の日、車で連れて行ってもらった。朝のうちは雨が降っていたが、日中は小康状態、というか曇り空。公園にはどうも駐車場が少ないようなので、こんな日のほうが、かえって停めやすいかもと思った。
 今まで来たルートである、駅からとはちょうど反対側からのアプローチなので、地名だけは覚えがあるのだけれど、なんだか知らない場所に来たようだ。二つの池のどちらも見えない。池と史跡公園やふるさと文化館のある辺りの間がすこし高くなっている。あの丘を越えればきっと池が見えるのだろう。
 おそらく野球場かなにかの利用者向けの駐車場なのだろう、最寄りの駐車場は夏休みの土曜日なのに、ガラガラだった。やはり来てよかった。すこしだけ雨。
 さて、ふるさと文化館へ。ちなみに入館料は無料。ありがたい。チラシから。
 「東京都・埼玉県・神奈川県にまたがる武蔵野台地は、関東ローム層に覆われた洪積台地で、台地上を流れる河川流域は遺跡の密集地となっています。
 練馬区内を流れる石神井川、白子川、中新井川(江古田川)流域も例外ではなく、河川沿いからは縄文時代の遺跡が数多く発見されています。
 本展では、石神井川流域の遺跡から出土した縄文土器や石器を中心に、未公開の資料も展示しながら、流域の縄文文化について紹介します。」
 展示されている縄文土器は、早期から中期のものが殆ど。後期や晩期は、低地への移住などで遺跡も少なくなっていて、それが原因のようだ。
 勝手なことをいうと縄文中期の、装飾的な土器が好きなので、中期のものたちを見れて、それだけで、なんだかほっとした。それに、土器片に触ることのできるコーナーがあったことも。
 いろんな人が触ったからだろうか。展示されているものよりも、テカテカしている気がした。でも、触る、それだけで、まるでたとえば木に触ったように、草に触れたように、なにかを感じて、うれしくなる。
 出土された遺跡の名前は、やはり覚えがなかったが、チラシなどにあった白子川は、以前住んでいた所のすぐ近くに流れていた川だった。
 丸山東遺跡の石棒。男根の形をしていて、豊穣などの祈り、祭りの道具として使われたのではなかったかと、あった。これを見て、思い出したというか、やはり、最近まで知らなかったことと照らし併せてみたりする。
 縄文時代から人々の信仰を集めてきた石の神を、ミシャグジというそうだ。石棒はその信仰の象徴では、と言われている。
 「石神井」の地名の由来は、「石神」(しゃくじ、いしがみ)に由来すると伝えられていて、関連があるとのこと。むかし、村人が井戸を掘ったときに、石棒が出てきた…それを石神として祭ったのが石神井神社の始まりで、村の名前も石神井になったとか。
 実感としては、まだわかないのだが、この頃、ミシャグジという言葉をよく見るようになっていた。とくに諏訪のあたりのことを読んでいると。シャクジイの名前がミシャグジと重なるなんて。
 なぜ、今まで知らなかったのかしら。わたしは何を知っていると思っていたのか。けれどもおそまきながらでも、知ることができて、それらが重なることができて、よかった。
 常設展示ものぞく。こちらにも縄文土器などがあった。そして練馬大根、昭和のなつかしい暮らしなど。
 そのあと池淵史跡公園へ。隣接していて、ふるさと文化館の裏口が入口になっている感じ。裏から突然、公園が始まる。木々の中、まず藁葺き屋根の古民家(旧内場家住宅)へ。昭和戦前期の姿に復元したものだとか。中をざっと見て、それからお目当ての竪穴式住居跡へ。縄文中期(約5000年前)のものらしいが、復元などはされていなく、柱のあった穴の上に丸太を模したものを5本ならべている。すこし味気ない感じがしたが、事前にこうしたものだと情報を得ていたので、がっかりはしなかった。跡地はほんの少しだけ地面が高くなっていて、古墳のようだなと、時代が違うのに、そんなことを思った。そういえば、確認しなかったけれど、ほかに庚申塔などもあったようだ。縄文、中世、明治が混在している。そう言葉でつぶやくと不思議な場所にいるのだなと、あらためて思う。幾千年もの時は、たとえばこんなふうに感じることができるのだ。台風のせいか、人もほどんどいなく、静かだ。

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 このあと、三宝寺池のほうに行きたかったのだが、駐車場などの関係で、時間がなくなってしまったので残念ながら帰ることにした。石棒は三宝寺池の畔から掘り出されたとの説もあるとのことで、見てみたかった。第一、石神井公園にきて、水を見ないで帰るなんて。池淵という名前のところにいたのに、そこからも池は見えなかったし。
 車に乗って帰路に向かってすぐに雨脚が強くなった。ほとんど土砂降り。池の水ではなく、雨水に出会ってしまったなあと少しおかしくなる。車で来られてよかった。遺跡公園にいるときは天気とが保ってくれてよかった。
 うちに帰って、栃木県の縄文土器片、以前に購入したものをまた眺めてみる。雲母がすこしばかりキラキラして。場所も時代も違うけれど、展示室にあったものたちを思い出す、こうしてよすがになるのもうれしい。
 翌日は台風一過の晴れ。セミの声はまだ聞かない。いや、わたしが知らないだけで、どこかで鳴いているのかもしれない。
00:46:27 - umikyon - No comments

2018-07-15

緑の風と横たわる犬と ─「発掘された日本列島2018」

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 久しぶりに都会に行った。電車に乗って。数ヶ月ぶりかもしれない。それも展覧会目的だと、もうどのくらいぶりか。めっきりそのてのものに行かなくなったから。
 体調のせいもあるけれど、興味が美術からすこし違うほうへ向いてきているということもある。考古学というほどではないけれど、縄文的なものに、心が向いてきている。
 ということで、出かけてきたのは、江戸東京博物館の「発掘された日本列島2018  ─新発見考古速報」(2018年6月2日─7月22日、巡回展、以降、石川、岐阜、広島、川崎へ)。これは、近年発掘された遺跡や、研究成果があがったもので、展示可能になったものなどを、文化庁主催で紹介するもの。


 それにしても、暑い一日。今が一番暑いのかしら。
 自宅最寄り駅から、小田急線で新宿へ。そこからのろのろと、各駅停車の総武線で両国に向かう。市ヶ谷あたりで見えるお堀を楽しみに。
 信濃町、四谷、水道橋、市ヶ谷、お茶の水。お堀目当てだったが、神宮外苑など、緑が意外と多いなと、ぼんやりと車窓をみて思う。お堀は真緑。違和感があるのは、わたしがいつも地元でみている水が、もっと澄んでみえるからだろう。
 都心に住んでいるときは、それほど、お堀に、あの不自然なにごった緑色に、違和感を感じなかったのだから。
 そういえば、ここにくる数日前、早朝バイトの帰りに、珍しく湧き水のある池の様子を見に行った。国分寺崖線上の、木々の多い崖下にある。水周りは保護されていて、道路脇の金網ごしにみる感じなので、あまり訪れていなかったのだ。
 目当ての場所は、残念ながら、すこし水量が減っていたような気がした。白いトタン板のようなもので草の侵入を防いでいる。
 地図をみると、この池のとなりにも池がある。やはり金網が張ってあって、入れないように保護してある。前も探してみたのだが、見ることができなかったところで、だめもとで、そちらにいってみたら、池は見えなかったが、湧き水は発見することができた。小さな滝のようになって、すぐに暗渠にもぐってしまう。
 だが見つかってよかった。清冽な水。ちなみにこの湧き水、いや池なのか、名前は上神明池(かみしんめいいけ)という。
 こちらは崖下だが、この崖上のほうを通ったとき、工事していて、「遺跡発掘調査中」とも書いてあった。
 ものすごくおおざっぱにいうと、崖のあるところは、遺跡がでることが多い。なんの遺跡で、なにが出たのだろう? 心が惹かれた。

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 実は体調のせいか、江戸東京博物館の展覧会も、行こうかなあぐらいで、あまり気乗りがしなかったのだった。ああ、もしかすると、この工事のことが頭にあって、行こうという後押しをもらったのかもしれない。
 それと。上神明池を含む、国分寺崖線、緑深いあたりにきたとき、空気が変わった。それまで、うだるほど暑かったのに、冷たい、やさしい風が吹いたのだ。崖下は、片方が緑、もう片方は住宅地、緑に囲まれた、というほどではないのに、空気がひんやりとした。ここちよかった。
 電車に戻ろう。車窓から、にごった緑の堀、堀の際の街路樹などを眺め、そういえば、あのあたり、実際に歩いたり、自転車で通ったりしたことがあったが、空気が変わるほどの、ひんやり感を感じたことはなかったなあと思っていた。なにが違うのだろうか。ことばでは自分でも理解できていないのだが、暑そうな外を眺めていて、なんとなく、どこかで腑に落ちたような気がした。
 さて、展覧会へ、博物館の特別展ではなく、常設展示会場での企画展。何回かここに来ているので、江戸の紹介、展示などの常設は、ざっとみるだけにした。ただ歌舞伎の舞台を模したイベント会場で、なにかイベントをしているらしく、マイクまで使っているので、正直、かなりうるさい。企画展入口が見えたが、あきらかに音がみる妨げになるだろうと、終わるまで時間をつぶすことにした。どこにいったのか、おそらく江戸時代ではなく、明治あたりに逃げ込んだ。鹿鳴館、行灯とガス灯、裸電球の明るさの違い。
 やっと、イベントが終わったので、晴れて目的の企画展へ。
 HPなどから。「全国で毎年8000件近い発掘調査が実施されていますが、その成果に実際に触れる機会は極めて限られています。そこで、近年、とくに注目された出土品を中心とした展示を構成し、全国を巡回させることにより、多くの方が埋蔵文化財に親しみ、その保護の重要性に関する理解を深める機会となる展覧会を開催します。今年度は、特集として文様や彩色が施された装飾古墳の調査・保護についてもご紹介します。」とある。
 わたしの興味は、縄文時代に向いているので、とくに千葉県の加曽利貝塚のコーナーに心惹かれた。去年の秋に実際に訪れたところでもあるので、なおさらだ。南貝塚から剥ぎ取った地層断面の展示もあった。およそ4000年前から3000年前の断面。
 そして土偶、縄文土器を調べる指標となった加曽利E式、B式の、それぞれの土器の展示。
 あとで、このあたりのことも触れるけれど、これらの縄文や旧石器時代を長めにみて、後は簡単にすませて、一周がすんだ。企画展脇で、ビデオ上映がされている。六本ぐらい、計一時間。みたいものは、縄文だけなのだが、まだだいぶ時間がありそうだ。どうしようかなと迷いながら、また、企画展入口に戻ったら、ちょうど文化庁文化財調査官による展示解説が始まるところだったので、参加することにした。最初は申し訳ないが、時間つぶし程度に考えていたが、とんでもない、参加できて、とてもよかった。
 自分が興味なく素通りしてしまったものたちの、解説が、とくによかった。こうして解説されなければ、きっとその存在の大切さが無縁だったものたち。
 たとえば、剣の柄。柄の部分は木製だったりするので、ほとんど現存することが難しく、出土されないそうだ。だが、長年水に浸かっていたおかげで、見つけることができた漆塗りの柄とか、噴火災害によって、埋まった遺跡の発掘の、その生活跡の生々しさとか、秀吉が行った京都復興を物語る出土品とか。奈良時代、孝兼女帝から寵愛をうけたとされる道鏡一族ゆかりの、豪奢さがうかがえる建物跡とか。銅鐸は、どこから出るかわからない、工事現場で、突然出土することが多いとか。
 お話ししてくれた方は、古代が専門で、埴輪が大好きとのことだったが、縄文のこともだいぶ時間をかけて話されていたので(好きな古代よりも、時間をかけてしまっていると本人が語っていた)、ありがたかった。
 そのなかで、加曽利貝塚のこと。ここでは犬が丁寧に埋葬されている。そのことは前から知っていたのだけれど、去年の秋に訪れた加曽利博物館では、展示をみることがなかった。実は今回、はじめて、その埋葬された犬を見たのだ。ほんとうに、やさしく、そっと置かれたような埋葬のされかただった。横むきになった犬。ちなみにこの犬の存在があったから、加曽利貝塚のイメージキャラクターは、カソリーヌとなっている。
 それはともかく、展示解説でも、そのことが触れられていた。犬は狩猟などで供をしていたもので、いわばパートナーだったのでは、だから、こんなかたちで埋葬されたのではと。
 それが実感として感じられる横たわり方だった。
 日本では普通、骨はなかなか残らない。残るのは、貝塚の貝のカルシウムのおかげ、貝塚はゴミ捨て場と習ったと思うのですが、たしかにそうした面もあるけれど、人骨や、こわれた土偶などもあり、もっとちがう、豊かな意味もあった場所だったのではなかったかとも。
 個人的には、わたしは、貝などはあまりゴミと言った感じがしない。貝殻はきれいだもの。あるいは、ゴミという観念がいまとはだいぶちがったのではないかしら。土に還るものたちとか。壊された土偶の多さなども頭にいれて、土、死と再生のこととかも思う。
 展示解説、決められた時間は四〇分ということだったけれど、だいぶ時間オーバーして話してくださっていた。
 おわって、さきほどのビデオ上映コーナーにいったら、あと10分ぐらいで、加曽利貝塚の上映になるらしかったので、こちらもありがたかった。
 特別史跡になるということで、記念、紹介的につくったビデオだった。
 ちなみに、特別史跡。これも、今回、文化庁調査員の方のお話で知ったのだけれど、国宝と同じ、いや、それよりも狭き門で、貴重なものが選ばれるのだとか。加曽利貝塚は、今現在、62番目で、特別史跡も同じ数。つまりいちばん最後に認定されたもの。
 ビデオ上映もみて、また企画展のほうへ、足をはこぶ。さきほどの展示解説を、かみしめたかったのだ。
 そうこうしているうち、時間がだいぶ経ってしまった。三時間ぐらい館内にいたのだろうか。
 足がだいぶ疲れていたが、長いこといるこができて、それがうれしかった。
 
 帰りに、新宿に寄った。現在、上野で縄文展が開催されているので、その関連で、ミニフェアを紀伊國屋書店で行っているらしいと知ったので。
 そちらは、ごめんなさいだが、思っていたよりも? だったけれど、ふだん、もはや新宿ですら、ゆく機会がなくなってしまったので、確かめることができてよかった。ビルの一階に、標本や化石を売っている店があるので、そちらものぞく。このごろ、ほしいと思って探している珪化木、あったが、ちょっとちがう。でも、これも見ることができ、触ることができて、心がすこしうるおった。
 帰り道。通りはまだ明るく、暑かったので、なるべく地下街を通って過ごした。久しぶりだったので、地下街の出入り口を、間違えてしまう。つい、昔、勤めが新宿だったころ、利用していたところをのぼってしまったのだ。
 登ると魚の壁画がある。新宿もだいぶ変わってしまって、駅ビルも変わってしまったが、この魚たちだけは、変わらないなあと、眺めた。そこで、あれ、この魚たち、ずいぶん久しぶりにみるなあと、間違いに気づいたのだった。この魚のいる通路は、今は使わないのだと。
 都会や過去から離れてしまったのだなあと感慨がすこしおこったが、それだけだ。でも、壁画の魚たちに、久しぶりにあえてうれしかった。おそらく5年ぶり以上。
 少し疲れていたので、帰りは各駅停車で、座って帰ることにした。
 うたたねしていたので、最寄り駅についたら、もうほとんど、夜の気配。わずかに西のほうが、明るいぐらいだ。
 国分寺崖線下のスーパーに寄るので、駐輪場に自転車を停めた。すると、ヒグラシの声がした。
 今年はまだ、蝉の声を聞かないなあと思っていたら、いきなり、大好きなヒグラシの声を聞いた。カナカナカナと、さびしいような、かなしいような、そんなすこしの痛みをおぼえてしまう、せつない声だ。
 この声が、蝉のはじまりでいいのだろうか。いいのだろう。暑いことは暑いが、日差しがないぶん、暑さがだいぶ収まってきている。うちにかえったら、それでも二度目のシャワーを浴びるだろうけれど。
 家についても、足がじんじんしている。シャワーをあび、簡単な食事をすませたら、ほとんどすぐに寝てしまった。それでも、出かけることができてよかった。
 翌朝、というか、書いている今日。家のまわりでは、まだセミの声を聞かない。 
21:09:36 - umikyon - No comments

2018-06-30

ラベンダーの重なり─嵐山町千年の苑

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 新聞で、埼玉の嵐山町に、来年(2019年)6月にラベンダー園ができると目にした。その日のうち、今年の6月16日から7月1日の期間、プレオープンとして園内一般開放、さらに6月23日(土)、24日(日)、お披露目をかねてラベンダー祭りを行うというので、土曜日に出かけてきた。
 ラベンダーを見に行くといえば、いつもなら久喜市菖蒲町のラベンダーだ。ほぼ毎年出かけていて、実は今年もそろそろそちらに行こうと思っていたのだが、つい、嵐山のほうに惹かれてしまったのだった。
 目新しさということもあるけれど、それよりも、ラベンダー園がなかなか広いようなので、それが心をくすぐった。嵐山町のHPなどによると、来年の完成時には約8ヘクタールで植え付け面積は日本最大級、現時点でも約6ヘクタール、約4万本の植え付けがされていて、関東最大級になっているとある。
 正式名称は、嵐山町千年の苑(ラベンダー園)。ところで、嵐山町。わたしは小学生にあがる頃から高校生ぐらいまで埼玉に住んでいたのだけれど、埼玉のなかでも下のほう、川越近辺だったからか、埼玉のほぼ真ん中にある嵐山町には、あまりぴんとこない。住んでいたところから離れていても、秩父や越生、行田など、遠足や林間学校、小旅行などで訪れた場所なら、なんとなくなじみがあるように感じられるが、嵐山町はなぜかこれまで、訪れたことがなかったのだ。それもあって、行きたいと思ったのかもしれない。
 嵐山町千年の苑。近くというか、隣接しているのは嵐山渓谷バーベキュー場。こちらは槻川沿いだが、すぐ下流で都幾川と合流する。この槻川と都幾川に挟まれたV字のなかにラベンダー園がある。
 ちなみにわたしは川好き、というか水に独特のシンパシーを感じる。この都幾川は名前だけは知っていたが、多分来るのは初めて。清流ということはなんとなく知っていた。今回、都幾川のほうは、ラベンダー園からあまり見ることができなかったが(しなかったのかもしれない)、槻川のほうは、バーベキュー場に足を伸ばして、見ることができた。梅雨の最中で、濁っているかと思ったが、思いがけず澄んでいて、うれしかった。同じ埼玉の、日高市の巾着田、彼岸花たちが咲く高麗川、あるいは越生市の越生梅林がある越辺川などを思い出す。どれも水が澄んで見える。槻川という初めての名前の川が、澄んだ水によって、わたしのなかの記憶の埼玉の川と結びつく。

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 と、ラベンダーからすこし離れているし、時系列からも飛んでしまった。
 車で出かけた。というか、つれていってもらう。高速道路(関越自動車道)を降りてしばらくすると、向こうにラベンダーの紫色が拡がっているのが見えた。なるほど面積が大きい。それだけで心がさわいだ。ただ、駐車場に車を止めるのにかなり列ができているので、すこし驚く。駐車スペースは300台ということで心配になったが、渋滞は細い道などのせいだったらしい。列の割にスムーズに車はうごき、停めることができた。
 新聞やテレビなどで採り上げられたからか、思ったよりも人が多かった。けれども、どちらかというと、それは喜ばしいことだ。それにいつも思うのだが、花を見に来る人たちは基本的に静かだ。花を愛でている、写真に収める人たちが多いので、混雑はあまり気にならない。人々は広い敷地内、ラベンダーたちのなかで、別の花のように、あちこちにいた。
 ラベンダーたちといえば、なるほどたくさんだ。アブや蝶たちも、花が多いからだろう、たくさん集まっている。ラベンダーといえば美瑛、というあのラベンダーと比べてどうなのかしら。北海道は行ったことがないので、遠い北のラベンダーを想う、重ねてみる。天気は曇り。今日は蒸し暑くはないけれど、こちらのほうが湿気が多いのだろう。久喜市菖蒲町のラベンダーとも比べてしまう。あちらは周りにすぐ田んぼがあったっけ。ただ、こちらのほうが面積が広いので、ラベンダーの匂いが拡がっている。むせそう、というのとは違う。やさしく、あの独特の香りがあたりになじむようにして拡がっている。空気のなかで、とけこみながら、包み込むように、そこはかとない、やさしい匂いだ。

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 プレオープンということで、まだ育ちきっていない、若い、こぢんまりとした株のラベンダーたちの植わった畑もあった。土に置かれたマリモの群れのようで、かわいらしい。その緑の小さな丸みのなかに、花穂をつけているものもあちこち見られた。こんなに小さいのに、花をつけるのだと、やわかなか驚きが、温かい。
 摘み取り体験もできるようだったが、なんとなくラベンダーの芽を摘むということが、怖かったので、遠巻きに見た。来年の花のために、これは採らないようにという説明が聞こえてくる。摘み取り受付がなぜか長蛇の列だった。そこから少し離れた時、「あれは何の列なんだろう? 食べ物かな」、家族連れが不思議そうにしているので、珍しく口を開き、「ラベンダーの摘み取り体験受付だそうですよ」と言ってみた。旦那さんであろう人は、「じゃあ、並ばないでいいや」と言っていたが、小さな娘さんが「ええ、摘みたい」と小さな声で主張した。母親が「ありがとうございます、ラベンダー摘むの、どうしようかしらねえ」とその場にいた、わたしを含めたものたちに言った。ただ、それだけなのだが、なにか心がほんの少しだけ、ぬくもった。
 わたしと連れは、ひととおりラベンダーたちを眺めたあと、特設テントで売られている農産物、食べ物、物産などを見て、軽くそこで食事をした。
 プレオープンだったからか、食べ物も、物産なども、まだあまり充実していなかったような気がするが、仕方ないだろう。
 そうして隣接の嵐山渓谷バーベキュー場などにいって、そろそろ帰ることにした。時間は二時過ぎ。行きとすこし違う道を使っての岐路だった。嵐山町の中をぬける。緑が多い。木々が多いといったらいいか。平地なのに山間に来たようだ。この感覚も、初めてきた、新鮮さがあった。ほかの、訪れたことがある埼玉とは、ちょっと違う。この違いが感じられるのが、どこかうれしい。まだまだ知っているようで知らない土地があるのだ。そして、子供の頃、埼玉に住んでいた頃は、とくにどうと思わなかったが、埼玉は、いい場所だなあと、このごろ、改めて思うことが多くなった。一概には言えないが、緑が多いし、都心にも近い。小さな見所がたくさんある。わたしが住んでいたあたりも、小江戸川越があったっけ。
 ラベンダー園にいたときもすこし雨に降られたが、車に乗って帰る途中、けっこう雨が降ってきた。ラベンダー園にいるときは、なんとか天気が保ってくれてよかった。日高町、越辺川、鎌北湖、入間川、なつかしい名前を車窓に眺める。来年は、久喜市菖蒲町のラベンダー、この千年の苑、どちらにゆくことになるだろうか。雨脚が強くなった。

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01:28:26 - umikyon - No comments

2018-06-20

紫陽花の誘い─郷土の森あじさいまつり

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 どこかで、あじさいがみたいと思っていた。近所で、あちこちで見かけるアジサイを、名所のようなところでなくともいい、すこしだけ、まとまって咲いているのを見たいと思った。
 そんなとき、府中であじさい祭りがあると知った。「郷土の森 あじさいまつり」(二〇一八年五月二六日〜七月八日)。うちから車で割と近くなので、土曜日に出かけてきた。出かけるのもひさしぶりだ。場所は正確には府中郷土の森博物館。森全体が博物館になっているフィールドミュージアム。本館として、企画展や常設展、プラネタリウムのある建物ももちろんあるので、最近まで博物館とは、そこのことだけだと思っていた。けれども、移築復元された建物群、森というか、園の植物たち、すべてを含んで、博物館というのは、心地よい。ここには村野四郎記念館もある。

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 駐車場から、博物館入口にゆくまでの間に、物産館がある。そこをのぞくのも結構楽しい。観光に来た、というのとはすこし違う。旅と日常の境界線で売られているものたち。府中育ちの野菜もあり、府中ならではのものもあり。あじさい祭りにちなんだものもあった。アジサイの和菓子、アジサイを模した金平糖がかわいい。府中の森で採れた梅干しも販売されている。これは、前に梅祭りで来たときに買ったことがあった。
 そして、森へ。博物館へ。正直、あまり期待していなかった。これはわたしの側の問題で、このごろ、心がすこしばかり、下向いていたから。たぶん、それではいけないと思って、出かけることにしたのだろうけれど、アジサイを見て、自分が心をふるわせることができるとは、思っていなかったのだ。それでも、見に行きたいなあと、どこかでぼんやりと思っていた。そんなはざまに、わたしはいた。
 本館を通り過ぎ、復元建物たちが見える。建物の横で、もうアジサイたち。どこかでふわっとなった。心のなかの扉がすこしだけひらいて、そこから、なにかたちが、ふわっと、出ていった。それがアジサイたちに向かって。何をいっているのか。自分でもわからないが、アジサイたちが、わたしに開いてくれたと感じた。アジサイたち、小径沿いのたくさんの、咲きそろった花たちを、見つめる。そのとき、ひさしぶりに、つつみこまれるような、やさしさを感じることができた。すこしむせそうな、花たちとの逢瀬。

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 天気は、曇り、ときどき少しの雨。散策するのにも、アジサイを見るのにも、ちょうどいい、そんな気候。アジサイは晴れた日差しがさんさんと降り注ぐなかで咲いているのを見るよりも、雨に濡れた花を見る方が、なんとなくしっくりする。こちらの勝手な思い入れなのだろうけれど。あるいは曇り空の下で、あざやかな色の花を見る、イメージ。
 郷土の森のなかで、アジサイたちは、思ったよりもあちこちに咲いていた。アジサイに囲まれている気分になったというよりも、森の緑のなか、アジサイを通じて、季節と向き合っている、そんな気がしたのかもしれない。アジサイの向こうに、たとえば梅林があった。今はもう梅の実も収穫され、葉を茂らせた木々となっている。そして蝋梅。以前梅祭りで訪れたときに、蝋のような花びらに惹かれたものだったが、それがなんと実をつけていた。季節が変わっている。彼らの時間が、別に過ごしてきた、別の人生が、一瞬だが感じられた。
 ネムノキも花を咲かせていた。多分、もう盛りは過ぎていたのかもしれない。けれども見ることができて、よかった。なんとなく子供の頃から好きなのだ。夜になると葉をとじて眠る、その姿がいとしいと思った。仲間にオジギソウがある。マメ科ネムノキ亜科。こちらは夜になると葉を閉じるだけでなく、葉に触るだけで葉を閉じてしまう。生き物のようで、好きな植物だった。葉に触って、眠らせることを繰り返したので、父に叱られた記憶がある。かわいそうだからと。そう、これも子供の頃の記憶。わたしの時間は、父と植物とともにあった、過去に、依存しているところがある。止まっているとまではいわないけれど。ネムノキがオジギソウの仲間だと知ったのは、あの頃だ。オジギソウは近頃、あまり見かけなくなったが、ネムノキは、どこかで、たまに、たとえば、こんなふうに。その度に、あの、父とともに、オジギソウを、すこしだけ思い出すのだった。

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 そういえば、アジサイもまた、そんな思い出があるかもしれない。父はガクアジサイを育てていた。ガクアジサイは、額紫陽花と書く。中央の小さな花、つぶつぶとしたものを装飾花が額が囲むようにして咲く。日本古来のもので原種に近い。ちなみに普通にアジサイと呼ばれるものは、ホンアジサイと称されていて、西洋で品種改良した、つぶつぶの中央がない、装飾花だけのもの。本来はあのつぶつぶとした中央がおしべやめしべを有した花なので、それをほとんど持たないアジサイは株分けや挿し木などで増やすのだとか。
 うちには、ガクアジサイがあった。だから、だろうか、あのつぶつぶとした花を持つ、その姿に今も惹かれる。色は青か紫。もちろん、通常のアジサイ、ホンアジサイにも、心を寄せるのだけれど、家にかってあった、というだけで、ガクアジサイにいっそう思い入れを感じてしまうのだった。
 けれども、ここ、府中の森で、アジサイたちを見て、その区分が、ごちゃまぜになって、それがうれしかった。ガクアジサイもホンアジサイも、咲いている、ほぼ満開、かれらの姿が見れてよかった。彼らに包まれるような感じが、また味わえてよかった。ふわっとした、曇り空のしたの、やさしい時間。わたしはまた、彼らのもとに帰ってくることができたのだろうか。

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 睡蓮の池があった。復元した水車小屋、田んぼなども。何かが帰ってきてくれたようで、彼らが優しかった。
 本館にも足を踏み入れる。常設展の、特に縄文時代の土器たちが見たかった。武蔵台遺跡の土器と石器、清水が丘遺跡の縄文中期の土器、本宿町遺跡の土偶。縄文土器、土偶たちに会うのもひさしぶりだと思った。また、わたしに、やさしい時間をくれた。そうだ、家にも土器のかけらがあるんだっけ。また触ってみたくなった。
 本館のミュージアムショップで、珪化木の化石を見た。植物の化石だとか。いつか買ってみよう。『府中市郷土の森博物館 常設展ガイドブック』という冊子を買った。
 また、彼らと出会うことができるのだろうか。すこしずつ。彼らがではない、わたしが心を。アジサイたちが、満開だった。

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2018-05-30

均衡のなかで、声、聞けますように

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 またここを少しあけてしまった。きっかけは何だったのだろう。今回は、ここだけでなく、ほとんど文章を書くこともしなかったので、この間に、だんだん、元気がなくなっていった気がする。いや、そうではない、たしか、最初は風邪か何かにかかっていたからだ。そのうち、すこし日常のほうでの環境の変化に、心がすこし対応しきれなくなり…。
 悪循環だ。まだ最初の頃は、鳥たちの声、咲いた花たちのささやきが聞こえてくるようだった。すくなくとも5月半ばぐらいまでは。
 道ばたで、コバンソウの花がたわわになっているのを見つけた。古墳のところで見て思いにふけった、あのコバンソウが、別の場所に生えていた。週一回のバイトの時に、そこを通る。古墳にいったのが一ヶ月半ぐらい前だったかしら。そのすぐ後に見つけたときは、うれしかった。それが、一週間ごとに、少しずつ、緑だったコバンたちが、黄色く色を変化させてゆく。たわわにみのった稲穂のようだ。ほんとうに小判の色になって。その変化をしばらくは楽しんでいた。けれどもたとえば、昨日、通りかかったとき、そのコバンソウの姿に、ほとんど心が動かされることがなくなっているのに気づいて、さびしく思った。それもぼんやりとだ。それも、こうして何かを書かなくなったからだ。書くことで、わたしはバランスをとってきたのだ。それだけではない、書くことで、彼らと対話してきたのだ。その声が聞こえない…。

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 書くだけではなく、本もあまり読めていなかった。つまり言葉たちと離れた生活をしていったのだ。もう体調はだいぶよくなっていった。だが、言葉たちとふれあわないできたせいなのか、だんだん、心が沈んでいった。日常だけで生きている感じ。非日常がないので、足元がおぼつかない。
 ただ、この期間、締め切りがある原稿、仕事が少しだけあった。けれども、これはいつもの非日常的な文章のほうではなく、調べ物をして、それを文に起こす、インタビューをまとめるなど、日常に近いほうでの仕事だったので、書くには書いたが、何かが違った。そこにはわたしが書く、わたしの言葉というのが、かなり薄い。それでも、締め切りのある文章を書くことができて、文章を書く機会があって、よかったのかもしれないけれど。
 ちなみに、この仕事、ある地域のタウン誌的なものに載せるものなのだけれど、それに携わりたいと思ったきっかけは、書くことで、社会と関わりが持てているという実感が持てるのではないかと思ったから。その土地の出来事、その土地の歴史、そこに携わっている人との関わりによって、そして誌面を作るほかの編集スタッフさんたちとの関わりによって。社会、あるいは、場所。それはわたしには必要だったし、今も必要だと思っている。
 ただ、その性格上、いつも書いているものとは、すこし毛色が違う。わたしがいつも書いているものが、非日常に近いとすれば、タウン誌のための文章は、日常に近い。通常なら、それでバランスをとっていたのだけれど、このときは違った。書くことで、日常にまた均衡がとれなくなり、そのことで、足元がおぼつかなくなった感じ、あいかわらず、おそらく境界上にいたのかもしれないけれど、
 そして、どうしたのだったかしら。
 詩人の集まりがあった。その会場に赴くことに罪悪感を感じた。もはや書いていないのに、という。だから、へまもやったけれど、彼らと接することができて、それでもよかった。それだけが理由ではないけれど、こうして、一歩、非日常に足を踏み入れようと、書くことをする後押しにはなったから。
 まず一歩。

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 もうだいぶ前になってしまう。5月のゴールデンウィーク中に、神代植物公園に出かけた。連休中ということもあって、混んでいたけれど、ああいうところはそれほど、混雑が気にならない。多くの人は静かだし、たぶん緑たちが、彼らをおおってしまうから。わたしたちは、森のなかに入ってゆく、緑に包まれる。
 なので、バラ園のような開放的なところでは、人の多さが目立ったような気がする。ただ目立ったというだけで、どうということではないのだけれど。
 まだバラ園は見頃ではなかったようだが、かなりいろんな種類のバラが咲いていたっけ。

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 ほかの植物たちはどうだったかしら。ちょうど、緑が新緑のやさしい色合いから、深い緑に変化しつつある、そんな頃だった。バラでいうと、つぼみからひらきかけの、いちばん美しくみえる、にぎわいの絶頂。晴れていたこともあり、葉の緑、木々の緑たちが、きらきら輝いて、それが眼にしみた記憶がある。こんなに緑が響いたことがあったかしら。たしか、そう思ったはず。そう、書くことで思い出す。こうして、少しずつ、何かたちがまた、戻ってきてくれるのだろうか。
 そういえば、赤い、小さな実をつける木があった。ウグイズカグラとあった。なんとなく、赤い実といえば、秋のような気がしているので、新鮮だった。またひとつ、名前が覚えられてよかったと思ったっけ。あとで、というか、今、これを書くために、ウグイスカグラを調べてみた。花は、見たことがあった。よく見かけるものだった。名前と花が一致した。これからは、花を見かけたら、ああ、ウグイスが鳴く頃に咲く、ウグイスカグラだなと、思えるかもしれない。それが、彼らを聞く、ということなのだろう。

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 アジサイが咲き始めた。ホタルブクロが多分見頃。コバンソウは、もはや黄金のまま、今年の花を終えている。
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