Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2020-06-24

夏至の早朝と夕暮れが不可欠なものを明るい─二宮考古館

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 久しぶりにここに来た。こことはどこだろう。創造(想像)の世界かもしれない。それまでどこにいたのだろう。想像と日々はつながっている。神話と日々が実はもろい線であるかもしれないがつながっているように。
 三月からの新型コロナウイルス感染症関連の影響…。わたしはどこにいたのだろう。日々に流されていた。日々のなかで、バタフライエフェクトをぼんやりと感じていた。蝶の羽ばたきが、つらなって、波を起こす。ひとつの病がこれほどまで生活に。
 本はすこし読んでいた。〆切のある仕事もしていた。バイトは物流系のほうは影響で忙しくなったが、チラシ投函などは仕事が減った。編集に携わっているフリーペーパーの刊行も夏号は休刊となった。
 季節はもう梅雨、そして夏至を過ぎた。
 わたしはこの時期が好きだ。いや、夏至に向かうまでが好きだったんだなと思い出す。夏至までは日が長くなる。早朝バイトは一年を通じて、大半が日の出前に出勤しているので深夜バイトといった感じがある。だが、夏から晩夏にかけて、夏至をはさんだ数ヶ月だけは、ほんとうに早朝バイトといった感じになる。それでも出かける時分はまだ暗いが、鳥たちが賑やかだ。朝を彼らは知っている。そうして、すぐに東の空が明るくなる。それがうれしい。そして夕方。冬だと五時でもう暗くなっていたが、夏至の頃は七時過ぎてもまだ明るい。昼が長くなった、時間が長くなったような気がする。そんなことはないのだが、その感触がやさしい。時間がわたしのまわりで、しずかに、おだやかに過ぎてゆく。
 もう六月二十一日は夏至…。それ以降は当たり前だが日が短くなってゆく。まるで夏休みみたいだなとぼんやりと思う。夏休みに入ったばかりの七月後半は、まだゆっくりと時間が流れている。八月十五日をすぎるとあっという間に九月一日になったっけ。今年は夏休みも短いようだけれども。
 といっても、夏至の頃の明けの空の明るさを、夕方の長さを、梅雨がなかなか実感させてくれない。それもまた、風物詩だ。けれども、今年はなんとなく、夏至の空を感じることが多い、雨も降っているのだが、雨越しにも空の明るさがわかる。ホタルブクロが、あちこちで、見頃をむかえ、もうそろそろ終わりだろうか。アジサイが色鮮やかだ。ノウゼンカズラが咲き始めた。オレンジ色、夏の色だと思う、まぶしげで、けれどもつつましい。

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 都道府県をまたぐ移動の自粛が六月十八日をもって解除された。六月二十日の土曜日は梅雨の晴れ間だ。前から行きたいと思っていた、あきる野市の二宮考古館へ行ってきた。同じ都内だが、なんとなく、この解除を待っていたのだ。家から車で一時間、三十キロちょっと離れている。大雑把にいうと、多摩川を昇ってゆくかんじ。
 道はかなり混んでいた。自粛解除で、わたしたちのように多くの人々はどこかに出かけていたのだろう。渋滞する道路はゴールデンウィークのようだなとふと思う。多摩川の河川敷にも人がいた。ボードセーリング、パラグライダー、川遊び、野球など。マラソンをする人、サイクリング、マスク姿は多いが、普段の生活のようだった。
 途中日野を通る。日野といえば、わたしが子どもの頃から好きだった新選組副局長土方歳三ゆかりの地だ。高幡不動を通ると、彼ゆかりのお土産を売っているのが見えた。門のなかには銅像も。高幡不動はアジサイの名所でもあるので、賑わっていた。土方さんは、土方歳三うどんやまんじゅうが売られていることを知ったら、どう思うだろうかとふと思う。けれどもたぶん、彼にとって、ほぼどうでもいいことかもしれない。とおい眼でみるかもしれない。けれどもわたしたちは彼を思うことで、彼の生き様を感じることしかできないのだ。車のナビに石田という地名が出てきた。彼が生まれたのが石田村だった。車の窓からその方角を見る。田んぼがぽつぽつと見られた。植わったばかりの稲がまだ弱々しく、張った水が目立つ。こうした田んぼを見るのも久しぶりだと思う。
 結局一時間弱で着くはずが、二時間以上かかった。着いたのが三時五分。午後四時閉館というので、間に合ったというか、ちょうどいいというか。

 二宮考古館は二宮神社に隣接している。来館者用の駐車場に車を停める。車はわたしたちのものだけだった。
 以前、東京の縄文といった感じでネットで調べたところ。自粛解除で、美術館や博物館などは、予約制になったところもあるが、こちらはマスク着用、消毒と来館時に連絡先記入するぐらいだった。入場制限も無論あったが、来館者はわたしたち二人をのぞいたら一人きり。静かにゆっくりと楽しめた。ひさしぶりの博物館、ひさしぶりの縄文土器、土偶たち。こんなふうなことが当たり前になることが、日常が戻ってくるということなのだ。
 ドイツ政府のコロナウイルスの経済支援対策時の、グリュッタース文化相の発言が頭に浮かんだ。「芸術家は必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。」
 第二次世界大戦時、ヒトラー政権時に、様々な貴重な美術品が消滅したという歴史的経緯も鑑みなければならないだろう。こうした国から発せられた言葉は重いし、わたしが感じる芸術たちとは、いろいろな意味で違うかもしれない。それでも、ともかく悲しいことだが、芸術がなくとも、人は食べてゆけるということ。食べて、働いて、寝るだけなら。それはほぼ機械ではないか。芸術がないということは、わたしにとっては想像世界がないということだ。それがなくて、どうして生きているといえるのだろうか。芸術とは、ささいなことでいいのだ。絵を思う、たとえば季節ごとの動物に気づく、花に触る。そのほんの少しした延長で、季節の花まつりに出かける。それがなくなるということも含めて、芸術なのだ。
 博物館、美術館、図書館、動物園、公園も、ずっと閉館していた。図書館はこれを書いている今もまだ、書架への立ち入りは出来ていない(わたしが住んでいるところは6月24日から再開した)。
 話がそれてしまった。最近ここを書いていなかったから、その分、埋め合わせようとしているのかもしれない。
 ともかく待ちに待った二宮考古館。こんなふうに展示しているものを眺めていいのだろうかと、とまどいすら覚えた。そのことにありがたみを感じつつ。
 あきる野市内には、秋留台地を中心に流れる秋川と平井川の流域を中心に、旧石器時代から中世までの多数の遺跡が分布しており、二宮考古館では、そこからの出土である土器や石器を展示している。
 目当ては縄文時代、縄文土器たち。触らなくとも、見ただけでなんとなく質感が、彼らの手が感じられる。この感触も久しぶりだ。土器片、特に中期(五〇〇〇年から四〇〇〇年前)のもの。このあたりでも、最も栄えた時期で、出土品も多いらしい。人の顔や蛇やイノシシのような装飾のある勝坂式土器、胴部が鐘のような形で口がややひろい加曾利式土器などがあった。
 獣面把手(土器の口縁部につけられた獣の頭部のような装飾の把手)の部分たちはイノシシが多い。力を持つ獣だったからだと、どこかで読んだ。蛇のような形の把手もある。そして代継遺跡出土の顔面把手。こちらは山梨や長野のものと似ている。口も目も孔で表現されている人の頭部。髪は装飾的だ。土偶の顔よりも穏やかに感じられるのは気のせいだろうか。有孔鍔付土器もあった。口縁部下に鍔状に隆起した帯と、小さな孔が開けられているもので、ここにあるものは、門口遺跡出土のものだが、後ろの参考写真は長野県藤内遺跡出土のものだった。拡げた両腕のような文様。


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 町田市の本町田遺跡の顔面取手土器の一部の解説として、「現在の長野県や山梨県にあたる地域の縄文時代中期の人々が土器の一部として作り始めたと考えられています」とあり、水子貝塚資料館では、羽沢遺跡出土縄文土器のキャプションに「この土器と同じ「猪」の装飾の付いた土器は、(中略)甲府盆地から相模原台地、多摩丘陵が分布の中心です。また胎土には甲府盆地の土器の特徴である金色の雲母を含んでいます。これらのことからこの土器は甲府盆地周辺からの搬入品と思われます」とあった。似ているなと思ったとき、このことが頭に浮かんだが、そうした、いつも縄文土器などを見ているときのとりとめのない思念の流れが確認できて、それがすこしうれしかった。土器たちをながめ、あれこれ思い、土器の手触りのようなものを想像する、彼らの姿をどこかで感じる。こうしたことがまた出来るようになって、そのことが。
 わたしはこの長野・山梨系の土器が好きなのだなと改めて思う。好きというのとは少し違うかもしれない。縄文時代にあまり興味がなかった二十代の頃、山梨の釈迦堂遺跡博物館にいったことがある。桃を見に行ったのか、山梨のワインを飲みに行ったのか。ともかく顔面把手や獣面把手をみたことが記憶のどこかにあるのかもしれない。あるいは自分が住んでいる場所あたりからの出土品たちということで、なにか共感のようなものを感じているのかもしれない。

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 二宮考古館では、資料的なもの、図録のようなもの、あまりよく探さなかったが見当たらない。リーフレットを頂いてくる。二宮森腰遺跡出土の土偶は人が手を高めに拡げたYの字になっているのだが、それが表紙で、「ようこそ!」とある。諸手をあげて迎えてくれるようでほほえましい。

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 二宮神社に寄って帰路へ。帰りの道も混んでいた。やはり行きと同じように二時間かかり、買い物などもしたので、家に着いたのは七時すこし前ぐらいだった、まだ空が暮れ残っている。また少しずつ、日が短くなってゆくのだなとぼんやりと思う。

19:08:06 - umikyon - No comments

2020-03-08

日々の近くで梅が咲く越生梅林梅祭りなど

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 コロナウイルスの影響が眼に見えてきている。マスクや消毒用アルコールの品薄はもとより、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、キッチンペーパー。他にも食材での影響もある。スーパーやドラッグストアなどでは開店前に列をなし、そのほかにももっと。近所のスーパーでは、チラシの新聞折り込みを止めた。チラシ掲載商品の販売を約束できないからということだった。
 イベントの中止、公共施設や娯楽施設の休園、休館、バイト先も物流関係なので色々と影響が出ている。日用品配達の増加、仕事用の車や自転車の修理の遅れ(部品が中国製)など。飲食宿泊関連の売り上げも激減している。
 こういうことも含めてコロナウイルスなのだと思い知らされる。実際の感染だけではない影響として見えない姿をみせつける、それが怖さでもあるのだろう。
 数日前、買い物の折り、品薄だったり、売り切れ、お一人様一点かぎり、それらの状況を指してのことだろう、老婦人が「まるでわたしが子どもの頃みたいねえ」といっていた。年齢から推測して、おそらく戦後まもない頃のことだろう。
 こんな折、あちこちで、すさんだ状況を聞いたり目撃するが、そんななかで彼女があっけらかんとしているのが、どこかほっとするものだった。
 そして、ひな祭りの3月3日。いつも行くスーパーでは、祝うという感じが殆どなかった。そこに併設されたお花屋さんがある。季節ごと、花たちの装いが変わっていて、見るのを楽しみにしている(夏にはメダカも登場したりする)。ここでは桃の節句用に切り花が売られている。
 そこでまた別の老婦人が桃の花と、菜の花、ユキヤナギなどの、春のおひな様セットの花束を手にしているのが眼に入った。自分のためかもしれないし、お孫さんのためかもしれない。店員さんと話している表情が華やいでいるみたいだった。それらすべて、ひな祭りの日、桃の花たちを購入しようとしている姿に、やはり心に明るさをもらった。「あかりをつけましょ、ぼんぼりに」。
 売り切れでスカスカになった棚たちは連日続く。興味深い記事をどこかで読んだ。所有することで、見えないウィルスに対抗できていると錯覚しているのだと。そして買い占めなどをしている人たちは、パーセンテージ的には低い。ただ眼につきやすいだけなのだ。
 別の小さなスーパーでは、ボックスティッシュが普通に売られていた。店員さんがほかのお客さんに「さっきまで、トイレットペーパーもあったんですけどね」「そうなの〜」と淡々と話している。なんとなく野菜がたまたま品切れだったような感じで、これもどこかほっとした。日常的で。
 買い占めを肯定する気持ちは毛頭ないが、見えないものの恐怖から身を守る術のひとつというのは腑に落ちた。日常的なことが平々凡々とあることを、どこかで大切に思っている、それと根っこは通じるだろうから。買い占めることで日常という砦を作ろうとしているのだろう。自分勝手な砦だけれども。スーパーのお花屋さんは、桃の節句を終えて、そろそろ桜たちを咲かせている。そしてチューリップ。

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 そんななか、いや、少しだけ話は遡る。二月二十九日、三月になる前、越生梅林の梅まつり(二〇二〇年二月十五日─三月二十二日)に出かけてきた。
 今年は暖冬の影響で、春の訪れが早いようだ。桜も例年よりも早い開花……、家の近所の梅たちももはや満開。越生はうちよりもほんの少し北にあたるので、すこし開花時期が遅い。それでも出かける前に調べたら、ほぼ満開に近い状態。
 毎年のように出かけている。これは日常のなかのお祭りだけれど、年中行事という意味で日常なのかもしれない。毎年、梅干しを買っている。
 前日までは雨だったが、天気はおおむね晴れ。梅祭り会場でのイベントは中止だったが、梅祭り自体は行われていた。車で出かけたのだが、いつもの土曜日よりも若干道が空いていた。梅祭り会場も。例年、会場から遠い駐車場に停めていたのだが、今年は一番近い、第一駐車場に停められた。
 今年はそれほど訪れる人が少ないのだ。梅農家の方々、観光の打撃は多かっただろう。おとずれるわたしたちにとっては非日常だが、梅農家の方々には、日常に近しい梅たち。梅はほぼ満開。足元にはいつものように福寿草、ヒメオドリコソウ、空から落ちてきたような、うすい青のオオイヌノフグリたち。春があちこちで、訪れによって、陽射しの中でやわらかく出迎えてくれている。

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 梅林の梅の木の低い枝たちが空とわたしたちの媒介となっているようで、花盛りの梅はやさしい。空の青さひきつれた、どこか温もりのある白い花たち、ほのかな甘い香り。折れた梅の幹が横たわっている。あとでガイドの方が解説しているのをたまたま聞いたのだが、去年の台風で倒れてしまったようだ。その幹が地面に接しているところから、あらたに根を張ったらしく、幹の先に梅の花を咲かせていた。命たちに脱帽する。

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 陽射しが感じられるなか、越辺川(おっぺがわ)のきれいな水の流れが見えるなか、敷物をしいて、作ってきたサンドイッチで、梅見しながら昼食をとる。いや昼食をとりながら梅見をする。

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 河原で石投げをする子どもと父親。ひゅん、ひゅん、飛ぶ石たち。あまりうまいとはいえない。たどたどしい渡りが、それでもやさしい。
 別の子ども。亀だ! といっている。亀がいるのかしらと思ったら、そうではなかった。河原の大きな石を亀に見立てているようだ。「ぼくは亀に乗っているんだよ」、石にまたがって、その姿をスマホで写真を撮ろうとしている父に誇らしげに示している。
 梅のほぼ満開、穏やかな、春の日々だ。
 売店で、梅こぶ茶を配ってくれているところがある。これも例年。このお店はなぜか梅干しはあまり多く置いていないので、今年は地元で作ったゆず胡椒の瓶、やはり地のものを調合した七味唐辛子、梅のお菓子などを購入する。別のお店で梅干しを買った。越生で売っている梅干しは、越生で昔からある品種の「白加賀」と「べに梅」、小田原原産の「十郎」、和歌山原産の「南高」があるようだ。白加賀は、たしかに梅林にも沢山生えていて、なじみがあったので、その梅干しと「十郎」を買った。
 ちなみに越生の梅干しは、すっぱい部類だ。うちはすっぱいほうが好きなので、それも越生の梅にひかれる理由になっている。いや、昔から食べている梅に近いし、越生は子どもの頃からなじみがあるから、ということが先なのかもしれない。
 梅干しを求めて、梅をかんじて、そのあとに、ここからほどちかい黒山三滝にいった。ここもなじみがあるところだ。子どもの頃に、家族できた記憶がある。梅林の側を流れる越辺川の支流、三滝川に落ちる三つの滝、上から「男滝」「女滝」少し下流の「天狗滝」、これら三つをあわせて黒山三滝と称している。
 天狗滝は、去年の台風の影響なのだろうか、立ち入り禁止で遠巻きにしか見ることができなかったが、女滝と男滝には、行くことができた。最初に女滝、そしててっぺんに男滝。けっして大きな滝ではない、長さも短い、けれども二つの滝が同時に見ることができるからだろうか、それだけではないだろうが、滝の気配に浸されたような、力を感じるのだった。滝のまわりの森はまだ春らしいところがない。季節が冬に戻ったようだ。夏はきっと、あたりがひんやりとして、それが心地よくなるのだろう。箱根の森あたりを思い出した。
 三滝のあたりでそろそろ夕刻、午後四時ぐらいだった。またそこから帰路につき、日常にもどってゆく。
 ネコヤナギは、つぼみであることをやめ、衣を脱いだように花をさかせている。今年は桜の開花も早いそうだ。
10:04:19 - umikyon - No comments

2020-02-25

猫ちゃん柳と梅たちと府中市郷土の森博物館など

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 沈丁花がもう、あちこちで香りを放っている。姿をみせる前から、かくれんぼした子のように、匂いでヒントをくれているのだった。
 家の近くの梅も満開だ。そういえば、このところ例年のように足を運んでいる、府中市郷土の森博物館の「郷土の森 梅まつり」(2020年2月1日─3月8日)。出かけたのはいつだったろう。二月の八日(土曜日)、もう三週間以上前になってしまう。
 春のこの時期はそれぐらい間が開いてしまうと、もはや別の季節…。
 言い訳をすると、しばらく風邪を引いていた。年のせいだろうか。この頃、風邪がゆっくりと身体に留まるようになってきている。ひきはじめは気のせいかなと思うぐらい、わずかな喉の違和感。それが確信的に風邪の症状になるまで数日。以後も長い。鼻に来て、つぎに頭痛、微熱、喉の違和感が痛みに変わり……。倦怠感、節々の痛み、以前はほぼ微熱だけですんだのだが、このごろはきちんと風邪の症状が出るようになってきている。微熱で抑えていたのに、その堰がよわまったので、べつの症状たちの力を借りるようになったのだろうかと、勝手に素人判断をする。だが、それがいいこともある。以前、微熱で症状が治まっていたときは、微熱がひいた後も全身倦怠感などが残った。この頃は鼻や咳などに分散されたせいか、以前のだるさや微熱がほとんど出ないので、割と元気に動けてしまう。今の時期は、例年にみない、新型ウイルスのことがあるので、外に出るときはマスクをしてはいるけれど、これも人に移さないようにとのことだけ、個人的には必要を感じていない。ともかく、その風邪をもう三週間は引いている、以前に比べて症状に出るようになった分、元気に過ごせるようになっているとはいえ、それでもほぼ寝込んだりしていた時期もあった。なんだか、呼んでもいないのに来て居座っている精霊かなにかのようだ。丁重に帰って頂くようにおもてなしをしている。風邪薬を飲んだり、身体が温まるものを食べたり、休みの前日はニンニクを食べたり。
 その風邪と付き合っているうち、季節がすぎてしまったのだった、まだ引き始めのころは冬の気配だらけだったというのに、ほとんど治りかけている今、もはやとうに春一番も吹いてしまった。

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 マンションの植え込みの木瓜の花も咲きだした。アジサイの芽も黄緑色のやわらかそうな色彩が目立ちはじめた。俳句の春の季語のひとつである「猫の恋」の季節もはじまった。駐輪場ちかくで雌猫が恋をささやく、ダミ声をあたりに発している、そして雄たちの騒動。
 で、梅祭りだ。また記憶をたどって、二月八日の府中に戻ってみる。
 ここも家から車だと近いこともあって、近年は毎年のように赴いている場所。二月初旬だと梅よりも開花時期がはやいロウバイが咲いているのにも会うことが。それと二月初旬だけではないだろう、もっと季節が下がってもおそらくつぼみを付けているであろう、水辺沿いのネコヤナギたちにも会いたかった。さらにまるでそこにいるうちに化石になってしまったかのような珪化木たちが屋外で保存されているところ、縄文時代中期の遺跡を移設し、造型保存した「柄鏡形敷石建物跡」にも、博物館本館の常設展示室の縄文時代の土器や土偶にも……会いたいものばかり。こんなふうに挙げてゆくと、自分がどれほど、ここ「府中市郷土の森博物館」が好きなのか、気づく。
 森というか公園自体が博物館になっている不思議な施設だ。移築復原した建物たちも森のなかでたたずんでいる。入口前には物産館もあり、府中の野菜や観光お土産的なものを売っている。このことにいつも優しい違和感をすこし覚えるのだった。うちからほんの十数キロ離れただけのところで、旅にでたような、不思議な感覚。今回は買わなかったが、地ビール、郷土の森博物館の梅干し、野菜、お菓子などをもとめたことがある。
 二月の八日、まだ寒かったと思う。けれども晴れていた。寒いときに晴れていると、もうそれだけでうれしい。
 そのころ、梅はまだ種類によってはぽつぽつと咲いているぐらいだった。おおむね静かに梅を愛でる人たち。年配の方々が多い。静かにスマホや携帯、一眼レフのカメラなどを梅に向けている。あるいは梅と自らを一緒に撮影。
 全体的にはまだまだ最盛期というわけではなかったが、ほぼ満開の梅もあり、そこに人が群れをなしているのがほほえましかった。みんな梅を、春を求めているようで。

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 個人的になじみがあるのが白梅なので、白梅にばかり眼がいくが、白梅と紅梅がならぶと色彩が華やかになるなと、いとしく思う。空は蒼。
 お目当てのひとつであるロウバイの小径へ。こちらはほぼ満開。蝋を塗ったような、ぷっくりと厚い花びらたちが、黄色く照っている。早春のまだ弱い陽射しのなかで、太陽光をそっと助けるように咲いている姿が神々くすらある。おもわず花びらのさわりたくなる。蝋の梅、ロウバイ。また今年も会えたなあと思う。連れ合いは火を付けたらすぐに燃えそうだなあといっていた。春の黄色い蝋燭。

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 ロウバイの小径を抜け、出口のほうへ歩くとネコヤナギのある、湧水の豊富な国分寺崖線をあらわしたハケの流れに着くのだが、戻って、野外ステージのあるほう、珪化木を見に行く。目的のひとつだったのに、森が広くて、梅たちをぼうっと見ているうちに、通り過ぎてしまったのだ。
 珪化木は、案内によると秋田県大内村の水田から発掘されたものを府中市が寄贈をうけたとある。森の中で、ひっそりと切り株のように眠っている。前にもここで触れたが、珪化木は樹木の化石。木の原型のまま、二酸化珪素、瑪瑙状に変化したもので、この化石は白亜紀後期の七〇〇〇万年前のものだとか。
 植物のまま石になった、そのことにとても惹かれる。柔らかさと硬さの共存、生と死の、永遠と限りある命たちの融合。たんに今そこにある切り株たちが七〇〇〇万年前のものだということにも感動する。ともかく、また今年もその石の側面に触った。

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 そうして、珪化木の生える場所から、ネコヤナギの生える水辺へ。まだ少し早い季節で、いないかもしれない、期待と不安におののきながら、覚えている場所に向かう。
 いた。猫のようにふわふわとしたつぼみの花穂たちが、陽射しをうけて銀色に輝いている。「猫の恋」のように、春をつげる猫たちだ。ふんわりと寒さを耐えるような毛たちが、とてもしみる。
 子どもの頃から猫が傍らにいた。猫は大切な存在だった。そのこともあるだろう。子どもの時、ネコヤナギをドライフラワーにしたものを大事に宝箱にしまっていた。ネコチャンヤナギと勝手にいつしか呼んでいた。「ネコヤナギ」という言葉に、いろいろな意味をこめて、みてしまっている。
 ともあれネコヤナギには、大切な思い出たちを感じてなのか惹かれるのだった。早春のやさしい呪文をおびた、いや、そんなわたしの勝手な思惑をものともせず、普段どおりに、いつもの季節のように、たわわに毛をつけているネコヤナギたち。


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 ちなみに、その後、家の近くのお花屋さんで、ネコヤナギ、正式にはこちらはアカメヤナギというが、ともかく売っているのを目にして、ほっこりしている。やわらかい、小さな猫たちが眠っているようなつぼみたち。
 購入して、家でその姿を見つめようかしらといつも思うのだけれど、お花屋さんで見るだけでなんだか満足してしまう。まるで、お花屋さんでいましも生をともしているような気がして。あの府中市郷土の森博物館のネコヤナギたちのように。いや、切り花としてそこにあるのだから、根本的に違うだろう。切り花としてある彼らは、そのまま、生を終えるのだ。ならば、切り花を購入するべきなのでは……。また、次に来たときに考えよう。明日考えよう。「Tomorrow is another day」、映画『風と共に去りぬ』のラストの台詞を思い浮かべた。これも子どもの時よりは、もうすこし大きくなって、中学生の頃から好きな言葉なので、連想したのだろう。子どもの時も中学生の時も、もはや遠いから、けれども、わたしのなかでかすかに灯っているから。明日になったら、家にネコちゃんヤナギたちは来ているのだろうか。来ていないかもしれないし、来ているかもしれないが、どちらにせよ、勝手な言い分だ。
 ネコヤナギたちに府中市郷土の森博物館で会った後、先に書いた縄文の遺跡、そして博物館の本館というか、建物へ、常設展へ。また縄文土器たち、土偶たちをみて、力を頂く。

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 前述のとおり、府中市郷土の森博物館の梅祭りに出かけたのは三週間前の出来事だ。もはや今日は、あのお花屋さんで売られていたネコヤナギが姿を消してしまった。代わりにそこにいたのは、桃の節句ということで、桃の花、そしてなぜか青い麦。
 今年は暖冬だったのか、春が来るのが早い。春が一年で一番好きな季節なので、二月の末に春をこれほど感じられることに、うれしい戸惑いがある。啓蟄もまだなのに。
 木瓜の花にメジロが止まっている。空高く鳴いているのはあれはシジュウカラ。春を告げる鳥たちもわたしに温もりをあたえてくれる。家の近くでは、ロウバイはもはやとっくに花を終え、おなじ黄色い花ならマンサクが目につきだした。そしてわたしはといえば、ようやく風邪がいなくなってくれたらしい。猫がどこかでまた鳴いた。
19:18:00 - umikyon - No comments

2020-02-20

春に、やさしい感触たちをいただく─あつぎ郷土博物館(縄文ムラ 発見)

 ここ数日、暖かだったからだろうか。あちこちで梅の満開に出会う。足元では、ホトケノザたち、タンポポ、ヒメオドリコソウ。
 沈丁花がほんの少し咲いているのを見つけた。思わず顔を近づける。あの、懐かしいような、一年ぶりのあまい香り。まだ大半はツボミで、少ししか咲いていないので、そんなふうにかなり花に接近しないと香りがわからない。満開になると、姿が見えなくてもあたりを香りでつつむようになり、その存在を、春の訪れを教えてくれるのだけれど。そう、香りのほうが花を見つけるよりも先にわたしに近づいてきてくれるのだった。
 そんなとき、いつもキンモクセイみたいだなと思うことを思い出した。キンモクセイも、姿をみせるより先に、どこからか香りがただよってくるから。ちなみに秋十月頃、キンモクセイの咲く頃になると、沈丁花もそうだったなあと思うのだったっけ……。この無限ループの花の香りたちが愛しい。
 二月も半ばをすぎると、もう寒いとはいえ、なるほど立春も過ぎたし、春なのだ。

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 そんな時に、終わってしまった催しのことを書くのは気がひけるが、やさしい出合いだったので書いてみたい。
 厚木市のあつぎ郷土博物館で「縄文ムラ 発見─三田林根遺跡の調査から─」(2020年1月18日─2月11日)という企画展があることを知った、というか連れ合いに教えてもらった。それが会期終了間近だったので急いでゆく。あつぎ郷土博物館というのは、展覧会図録によると、2019年1月27日開館で、一周年記念の企画展だそうだ。
 家からだとおとなりの県、神奈川にある。なんとなく近いのかしらと車で出かけた。40数キロ、道が混んでいることもあって、片道二時間ぐらいかかった。おなじ神奈川の三浦半島、横須賀の海のほうは、高速を使うということもあるのだが、家から一時間ぐらいで行ける。距離は60〜70キロぐらいだろう。海のほうが近く感じられることが不思議だった。

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 企画展は、あまり宣伝をしていない印象。三田市三田小学校グランド整備のきっかけに発掘が行われた三田林根遺跡(さんだはやしねいせき)は、縄文時代中期(4500年前)の大規模なムラ遺跡。2015─2019年にかけ、二回に渡った調査の成果を紹介する展覧会。竪穴住居跡14軒、土孔311基、縄文土器、石器などが見つかった、環状集落跡。環状集落とは、中心に広場や墓を取り囲むように住宅を建てたもの。
 目玉は糸魚川産の翡翠と、人の顔が意匠になっている土器の把手(人面把手)。ちなみにこの二つ、ステッカーになっていて、企画展入口にあるワークシートに答えると、もらえるというので、やってみた。

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 遺跡から出土した石器のうち、一番多かったものは打製石斧、木の実などをすりつぶすために使われた道具は、石皿・磨石・敲石とか。
 ワークシートをにらみながら企画展会場を回ったので、最初はなにか本末転倒な感じがした。答えを記入するために展覧会を見ているような……。けれども回答し終わって、改めて企画展をみて、少しだけ概要を知ることができ、企画展がより近しいものとなった気がした。
 解説にあったが、このあたりの縄文土器は、関東地方を中心に分布する加曽利E式土器(千葉県の加曽利貝塚のものが標式土器)、中部高地中心の曽利式土器(長野県諏訪市の曽利遺跡)、関東南西部の連狐文土器の分布に重なっていることから、それぞれの土器が混ざって出土したり、加曽利E式に曽利式の地紋が取り入れられたりと、交流などもうかがわれて興味深いものだそうだ。個人的には、加曽利貝塚は実際に出かけていて好きな遺跡だし、曽利式土器系列の山梨のもの、長野のものも、近くを訪れたり、形も装飾的で好きなものが多い。おおざっぱな感想だが、確かに長野や山梨の土器や土偶に感じたものを、ここで共通項として見いだしたので、それが心地よかった。
 
 企画展の展示から常設展(基本展示室)へ。
 「有孔鍔付土器」「顔面把手土器」の顔が、土偶のそれと共通して、心にひびく。それは先の企画展でも感じた、山梨あたりのものに共通する顔だった。この顔が、何千年前のかつてから、今まであることに静かな驚愕を感じる。

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 いきなり常設の縄文時代のことを書いたが、ここは「あつぎの風土、古来からの大地の形成」「考古・狩猟採集の時代から古墳時代までのあつぎ」「古代から現代のあつぎ」「あつぎの生物たち」「民俗・伝統芸能、道具」の五つからなる総合的な展示となっている。
 石器にさわれるコーナーもあり、興味深かった。そっとさわる、なでてみる。打製石斧は土を掘るための道具だったそうで、思ったよりも鋭利ではない。木の実などを磨りつぶす石皿や磨石には、蕎麦の実をひくときの石臼の感触を想起した。そうして、手触りから今にいたる時を感じるのだった。

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 エントランスホールの隅で、縄文展に関係した塗り絵や絵ハガキづくりができるコーナーがあった。絵ハガキには常設にあった目玉的な土器「有孔鍔付土器」の輪郭があらかじめ印刷されており、そこに様々な模様のスタンプを押してオリジナルのものをつくるというもの。
 ちなみにこの土器。壺形で、土器の中央に人が手を拡げたような人物の半身、左右に蛇のような装飾。蛇と人物がモチーフになっている、どこか両義的なもので、惹かれる形式のものだ。絵ハガキが売っていたので購入する。勝坂式土器、林王子遺跡出土の縄文時代中期のもので、太鼓説、酒道具説があるが用途は不明とあった。
 最初にも書いたが思っていたよりもここにくるまでの道のりが長かったので、もうあまり閉園まで時間がなかった。体験教室では、縄文土器の破片に紙をあてて、色鉛筆やクレヨンでこする、あれはフロッタージュという技法だが、あの場所ではなんといっていただろうか。覚えていない。ともかく土器片が置いてあり、それらで紙に写しとる作業を体験している人が数人いた。紙は持ち帰ってよくて、有料で缶バッチにもしてくれるそうだ。この土器たちの文様を紙に写して、それを持ち帰る……。お土産としてとても惹かれたが、時間的に余裕がなかった。土器片に触れるだけでしまいにする。このざらざらとした質感を、記憶すること。
 はじめて訪れた場所だが、素朴な真面目な雰囲気で居心地がよかった。展覧会の概要が載った図録も無料で頂けた。中津川の岸辺だが、相模川もすぐ近くを流れている。水量が比較的多く、澄んだ水だった。相模川を越すと座間市になる。以前、ヒマワリ畑を観に来たことがあったところだ。こんなふうに何かたちがつらなってゆく。
 家にある、以前求めた縄文土器片たちに久しぶりに触ってみようかと思った。車での帰り道、早朝バイトをしてきてのことでもあったので、眠ってしまった。そうしたらあたりはすっかり夜になっていた。眼を覚ますと、飛び込んできたのは相模川ではなく、家から割と近くの多摩川だった。灯が水ににじんでいる。
 曇り空のまたある日。ほぼ満開の梅たちを見た。曇った空に白い梅はよく似合うと思っう。梅の白さが雲の白さに重なってゆく。どこまでも梅のように、あたりがおぼろになってゆく。春はもうそこここに来ているのだった。

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2020-02-10

縄文と池、神社、思いたちが交錯する大宮公園(縄文時代のたべもの事情展)

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 去年の暮れ、偶然、インターネットで埼玉県立歴史と民俗の博物館で「縄文時代のたべもの事情」(2020年1月2日─2月16日)という企画展があると知った。
 埼玉のどこにあるのだろう。知らない博物館だ。さらに調べるとさいたま市の大宮公園内にあるという。縄文時代に興味があるのはもちろんだが、博物館のある場所にも思いいれがあったから、展覧会が始まったら、2020年になったら、絶対に行こうと心に決めたのだった。
 実際に出かけたのは、1月19日の日曜日。こうした場所に出かけるのは、基本土曜日なのだが、土曜日は雪がちらついていた。車で出かけるのだが、雪対策をしていない車なので、晴れるという日曜日に出かけたのだった。

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 大宮公園は埼玉に住んでいた頃、よく出かけた公園だ。池のほとりのベンチに座って、ぼうっとしていたものだった。景色を眺めたり、読書をしたり、創作メモを取ったり。なにか当時のわたしにとって、屋外の図書館といった場所だった。
 家からさほど近いわけではなかった。バスに揺られて、さらにそこから電車で数駅。距離にして十数キロ(乗り継ぎなどの不便さから、当時はもっと離れていると思っていた)。決して行きやすいところではなかったのに、毎週のように出かけていた。当時のわたしにとって必要な空間だった。
 博物館はその頃は埼玉県立博物館としてあったようだが、うっすらとしか記憶がない。となりに弓道場があった。そのほうは覚えている。公園の入口にはいって割とすぐにある。当時は駅から歩きだったのと、まわりの景色がずいぶん変わっていたこともあったが、それで当時と同じ入口から入ってきたのだとようやく気づく。
 弓道場で、老若男女さまざまな方たちが後ろで順番を待っていた。中央に二人。それぞれ弓を引いて、遠い的に向けて矢を放つ。その動作が緩慢で、能かなにかの所作をみるようだった。「弓道」の「道」という字に思いを馳せる。
 弓道場を過ぎると池がある。まさかまた訪れることになろうとは……。ちらっと池面を確認し、そちらは後で行くことにして、博物館へ。
 博物館の敷地内に、いきなり弥生時代の竪穴式住居跡が復元されているのを見て、これも驚いた。一見縄文時代のものに似ているが、屋根の上に「破風板」と呼ばれるものがあるのが決定的に違う。これは三世紀ごろのもの。
 案内板によると博物館の周辺は「県指定史跡 大宮公園内遺跡」があり、縄文時代と弥生時代の住居跡が発見されているそうだ。
 わたしが好んで訪れていた場所が縄文時代の遺跡だった……、こうしたことはあちこちでよくある。もっと前に気づいていればと少し思うが、遅くなっても知ることが出来てよかったと思う。

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 展覧会のチラシから。
「 今から何千年もむかし、縄文時代の日本列島には、土器を使い、竪穴住居に住み、狩猟や採集をなりわにとする人たちが暮らしていました。ながい氷期が終わりをつげ、気候が温暖になってゆき、人々は豊かな自然からより多様なたべものを得ることが可能になったと考えられています。
 展覧会では、このような縄文時代のたべものに注目します。埼玉県内の遺跡から出土する貝や魚骨、獣骨、またクルミやトチノキなどの木の実など、人々が食べていたものを紹介します。さらに、近年明らかになってきた「栽培」に関する最新研究にも迫りつつ、縄文人と自然との関わり合いについて考えます。」

 埼玉のなかでも、小学生から高校ぐらいまで、わたしが住んでいたあたりは、縄文早期〜前期の頃は海だったようだ。その具体的なことは知らないが、小学生のころに授業でこのあたりが海だったと聞いて感慨深く思ったことは以前にもここで書いた。
 たとえば、隣接した富士見市にある水子貝塚は約5500〜6500年前を代表する遺跡だそうなので、その頃はまわりは海だったのだ。
 今回の展覧会でもらったリーフレットには、縄文早期後半(約8000年前)に海面が上昇し、縄文時代前期(約7000年前)に最高位に水位が上昇、縄文時代後期(約4500年前)には土砂が堆積し、海が後退、晩期(約3000年前)には海退がすすみ、埼玉県域ではあまり貝塚が形成されなくなったとある。
 なので食べ物の展示としては貝塚出土のものが目についた。貝に魚の骨に、鹿角で作った釣針、貝の装飾品。
 そして海を経由したであろう、糸魚川の翡翠や神津島の黒曜石。
 陸のほう、縄文の森に目をむけると、クルミやトチなどを食べていたことを示す「クルミ塚」「トチ塚」への言及があった。さらにダイズやアズキ。この二つは元々は野生のものを食べていたが、縄文中期になると、大型になったから、栽培したのではとのことだった。
 そして縄文の動物たち。土器や土製品に表わされた動物の多くはイノシシ。食べられていた骨としてはイノシシとシカが多いのだが、作られたのは圧倒的にイノシシなのだとか。土器、土製品で見られるものは、ほかにサル、クマ、イヌなど。またクリやクルミなどの植物、巻貝などの貝類も。富士見市の羽沢遺跡では、動物の装飾のついた土器が多く見つかっている。そのなかの獣面装飾付土器は興味深い。以前水子貝塚で見たものがここにもあった。「県の指定有形文化財になっている、羽沢遺跡出土の中期(約4500年前)のもの。これは愛称がムササビ土器という。口縁部のおそらく前面に動物の顔、後ろに尾っぽのようなものが施されている。ムササビと名前が付いているが、おそらく顔は猪で、尾っぽのように見えるところは、人間の眼なのではとのこと。猪と人間が向かい合っている……」(2019年7月30日)。そんなふうに、以前のわたしが書いていた。この企画展には、もうひとつ、西原大塚遺跡出土の「人面蛇装飾付土器」というものがあった。こちらのほうがより人間と獣(蛇)が向き合っている感じが強かった。眼と眼が視線を交わしている。食べること、食べられること、足のあるもの、地を這うもの、自然と向き合う人々、夜と昼、善と悪、生と死。これらたちが向き合った形のひとつが土器や土偶なのではなかったかと、どこかでいつも、感じている……ということを、こんな土器をみると再確認する。

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(写真は水子貝塚資料館にて)

 つぎに常設へ。企画展内は写真撮影が出来なかったが、こちらは写真撮影可。土偶たちに心ひかれた。

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 そして博物館を出て大宮公園の池のほうへ。最後に来たのはいつだったか。二十五年以上前だろう。当時は対岸から池を眺めていたっけ……なぜだかすぐに理由がわかった。今歩いているこちら側にはベンチがあまりない。あっても池から小道一本はさんだところに設置されている。けれども対岸のベンチはすぐ池に面したところにあり、より池に近しい感じがする。理由がわかり、今でも座るならあちらだと思っている自分に気づき、すこしおかしくなる。
 池の岸にスダジイが生えていた。縄文時代の人々が好んで食べていたドングリがなる木でもあり、五月頃に咲く花の匂いが性を帯びて、なかなか刺激的で印象深い木だ。ああ、スダ爺さんだなと、こっそり親しみを感じている。またここでも会えるなんて。
 池にはうちの近くでもよく見かけるカルガモや、上野の不忍池で見かけた黒と白のまじった少し小柄なキンクロハジロのほかに、見慣れない、知らない鴨が眼についた。名前がわからないといつもすこしざわつく。名前を知りたい。そう思いながら池のほとりを進むと、「ボート池の鳥たち」という案内板があり、そこに「オナガガモ」とあった。オナガガモというのか。尾も長いのかもしれないが、カルガモなどより少し大きく、細身というか、シュッとしている。案内板をみたあと、池の彼らをみて、もうほとんど歌うようにして、「オナガガモ、オナガガモ」と、名前をくりかえし、かみしめていた。そうすることで、彼らの名前を覚えようと、いや、かれらと大宮公園との再会の記念を、その言葉、名前に込めようと。

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 池を半周した端には、運動施設やら競輪場、隣接して小さな遊園地と小動物園がある。このあたりはかつて好んで池のほとりで憩っていた頃には実はほとんど知らない場所だった。知ったのは最後のほう、もしかして一番最後に訪れた時ではなかったか。小動物園にだけ入った。その時、わたしは一人ではなかった。憩っていた時はいつも一人で訪れていたのだが。誰と来たのか記憶が曖昧だ。時系列的に考えるとその頃に付き合っていた人なのだろうけれど。
 けれども小動物園のことは比較的覚えていた。なので今回、ぜひ入ってみたくなったのだった。わたしが最後に訪れた時よりも動物たちが増えているような気がした。まずカピバラ。出迎えるような感じで最初に会えたことにすこし驚く。リスにフクロウ、サル、ヤマネコ、ハイエナにヤギ。バードケージのなかは入れるようになっていた。フラミンゴ、クジャクがいる中を、雁の仲間が歩いていた。この動物園ではなかったかもしれない、公園内の別の場所、白鳥池のほうだったか、雁の仲間のガチョウたちを見たことがあったっけと思い出す。

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 大宮公園はもともとは大宮氷川神社の敷地だったらしい。今も隣接する形で氷川神社がある。今一緒に来ている連れ合いの、もうとっくに成人している子どもたちはかつてそこで七五三のお参りをしたそうだ。その頃にもしかすると、この小動物園や遊園地で遊んだのかもしれないといっていた。ちなみに氷川神社。大宮のここには来たことがないが、子どものころの初詣の神社は別の場所にある氷川神社で、さらに今住んでいる家から歩いていけるほど近い、初詣の神社も氷川神社だ。
 信仰心があるわけではないが、こうした言葉たち、場所たちが交錯する、交差するそのことが、とても愛しい。大宮公園、池、オナガガモ、氷川神社、スダジイ。この日は晴れていてよかった。土曜日、雪まじりの寒さのなかでは、博物館以外のこうした散策は難しかっただろう。池のまわりはそういえばソメイヨシノほかシダレザクラなどの桜が咲いて、桜の名所となっていたっけ…。そう、まだかたい花芽のソメイヨシノの樹をみて思い出した。思いたちがおちこちで交錯する。
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2020-01-31

日常と非日常を雨が浸す─世田谷ボロ市

 少し期間を空けてしまった。この間のことを、順を追って。

 一月十五日の水曜日に世田谷ボロ市に出かけてきた。年が明けてからほぼ最初のちょっとしたお出かけ。ボロ市開催の五日ほど前に、その近く(世田谷区上町周辺)を、ある編集会議に出席するため通ったことがあった。交通規制の案内、ボロ市のポスターなどがあちこちにあるが、あたりはもちろん、平日の昼の静けさだ。開催されている非日常とそうでない日常。すこしの違和が心地よい。

 毎年十二月十五日・十六日と一月十五日・十六日に開催される古物市の世田谷ボロ市は、一五七八年(天正六年)の楽市が起源の由緒ある催しで、世田谷代官屋敷(敷地内にボロ市の資料もある区立郷土資料館がある)を中心としたボロ市通りに、例年七〇〇店以上の出店、一日二〇万以上の人出がある。売っている物はいろいろだ、骨董、植木、食品、衣類、貴金属、古本……。
 わたしはボロ市のことをいつ知ったのだろうか。子どもの頃、世田谷に住んでいたから、あるいはそのときからなんとなく存在を知っていたような気がする。実際に出かけるようになったのは、ここ十年ぐらいで、また世田谷に戻ってくるかたちで住むようになってからだが。
 「市」ということばに惹かれる。勝手な想像だが、十五日というのは、満月の明るい時に開かれていたということなのかしらと思ってしまう。実際のボロ市は最初は毎月一と六のつく日に開かれる六斎市だったらしいが。その後、十二月十五日に開かれる歳の市として長く続き、明治になり、新暦が使われるようになってのち、一月十五日も開かれるようになり、さらに十六日にも、という段階を経て、現在のように年四日間開かれるようになったとか。
 十二月はバイトが繁忙期で少し疲れていたので今年は一月に出かけた。最近は土曜日などに結構当たっていて、混んでいたが、今回は平日だったので少しは空いているかしらと。天気は朝のうちは雨だった。

 編集会議で通ったときは自転車だったが、ボロ市の時はいつもバスで出かける。混雑がすごすぎて自転車を停める場所がないのだ。
 まだかすかに雨が降っていた。会場に向かうバスの中からかつて祖母が住んでいたマンションをまた見る。もう……何十年も前になるというのに、まだマンションが同じ名前で同じ建物ととしてそこにあることにいつも驚いてしまう。当時から一階に入っていた文房具店も健在だ。小学生のわたしがその文房具店で筆記具かなにかを買った記憶もある。
 もっとも、そのマンションの名前は、長らく忘れていたのだった。世田谷区内に越してきて、祖母のところに行くのと同じルートのバスに乗る機会が生じて、その時に思い出したのだ。最寄りのバス停の名前、となりのバス停の名前をなつかしく感じて、あたりを見回したとき、文房具店とその上のマンションが、マンションの名前が目に飛び込んできた。それで埋もれていた記憶の中から、名前が水底から出るようにしてあらわれ、明るくわたしを照らしたのだった。
 マンションの名前が浮かび上がり、合致したときのきらきらとした印象は、いまでもどこか宝物めいて、やさしい。
 よくは覚えていないのだが、子どもの頃、わたしたち家族が世田谷に住んでいた頃は、祖母は東中野に住んでいた。わたしが世田谷を離れてのち、祖母は伯母たちとそこに住むようになったのだと思う。
 話は脱線ばかりするが、祖母が住んでいたマンションの近くに、ボウリング場、ゴルフ、バッティングセンターなどの総合施設があった。今もあるが、住宅展示施設、スーパーと飲食店が目立っている。子どもの頃、ボウリングをしたわけではないが、その隅で子ども用の乗り物などに乗って遊んだ記憶がある。
 そこにまた別のある時に行った。スーパーで買い物をしただけだが。こんな時、いつも浮かび上がってくる歌がある。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(西行法師)。
 建物自体はもしかして、当時と同じなのかもしれない。外壁などがそこそこ古かったから。その壁が目にしみた。そのスーパーで晩ご飯の食材を買った。日常と過去の日常がこうして重なることがあるのだ。

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 そうだった、ボロ市だった。会場に向かうバスのことを書いていたのにずいぶんと迂回してしまったようだ。
 雨が降っているのかどうかバスの中からはわからない。ボロ市最寄りの停留所に着き、降りたらかすかに雨。
 だが、気にならない程度だった。フード付きの上着で来たので、それをかぶって雨をしのぐ。ボロ市はとつぜんに始まっていた。土日ほどは混雑していない。雨の影響もあったかもしれない。お店はシートをかぶせていたところもあったが、雨がほぼ止んだ風だったので、おそるおそるといった感じでそれを取り除いていた。せっかくのお祭りだもの、晴れたほうがいい。雨が上がった。
 混雑していない、といったが、それでもさすがにボロ市だ、平日で、天気もあまりよくなかったのに、かなりの人混み。お店としてはどうなのかわからないが、見て歩く側としては、ちょうどいい混み具合。ゆっくりとお店を見ることができるほどの混雑。あまりに混雑が激しいと、動く満員電車、もはや人の波に沿って歩くだけになってしまう。それほど混むと実は店側も客が寄りつくことすらできないので、かえってよろしくないらしい。
 いつだったかのボロ市で買った瑪瑙のネックレスをつけて出かけていた。今年は食品たちを少し買っただけだったが、歩いて回るのがとにかく楽しかった。
 今、うちで使っているバスタオルにラブホテルのロゴがはいっているものがある。これは、以前にボロ市で安く買った物。日常と非日常と、いつもこうしたときに対比を思い浮かべてしまう。「市」というのはもはや祭りという非日常だろう。それが日常ととても親しい。
 飲食できる屋台のようなものがもっとあったような気がするが、今回は少ないような気がした。いや、混んでいるときはどのみちそうしたものたちを素通りせざるを得なかったから、記憶違いかもしれない。今年は平日なので、混雑が多少ましだとは思ったが、それでも食べ歩きするには気が引けるぐらいは混んでいる。だが小腹が空いたというよりも、一杯ひっかけたかった。ボロ市会場のかなり奥まったところで、店先で屋台を出している小料理屋?なのだろうか、小さなお店を見つけた。屋台で蒸し牡蠣を出していて、店内で生ビールや生牡蠣も提供しているという。ああ牡蠣の季節だなあと、連れ合いと入ってみた。ほぼカウンターだけの細長い小さなお店だが、比較的新しいのだろう、木の温もりも感じられる綺麗な店だった。中にボロ市限定のメニューがあり、お酒などはメニューに載っていないものも出してもらえるらしい。わたしはレモンサワーを、連れ合いは生ビールを注文した。つまみは生牡蠣、そしてホタルイカを焼いた物。
 生牡蠣は久しぶりに食べた。かなりの好物なので、単純にうれしい。落ち着いていいお店だった。多分、これからはボロ市に来たら、そのたびに寄ることになりそうだ。
 お店を出て、Uターンする感じでまたボロ市の出店たちを眺める。そうしながら、帰り道をとっているのだ。基本、道の左側に並ぶお店を眺め、冷やかし、時に購入する感じ。
 そんな中、進行方向の左側にあたる郷土資料館まで戻ってきた。わたしはこの常設を見るのも好きなのだ。世田谷の縄文時代の遺跡からの出土品なども展示してある。企画展のほう、この時期はいつもボロ市にまつわることをやっているのだが、今回はたまたま展示解説をしていたのだろうか。人だかりで、なんだか途中から入りづらかったので、遠慮してしまった。
 帰る頃に、また少し雨。
 バスに乗る頃はもう夕方、帰りのバスで、また祖母の住んでいたマンションを見る。家の近くのバス停に着いたら、すっかり夜だ。不思議な平日。雨がまたしっかりと降り出した。
17:44:20 - umikyon - No comments

2020-01-01

謹賀新年 2020年元旦

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 2020年1月1日。今年もよろしくお願いいたします。
 年が明けた。大晦日まで早朝バイトだったので、まだいまいち実感がわかない。
 でも、昨日はバイトが終わったあと、午前中に、正月のための食材を買いに行った。そのあと、大掃除…は、もうできなかったけれど、時間のかぎり掃除をした。いつもあまりしないところなどを、それこそ大急ぎで。拭きおわった玄関ドアに、正月飾りをした。
  掃除のめどがついて、この日何回目かの洗濯をしながら、お雑煮用の汁物と、カブの甘酢づけを作る。ぶり照りは、焼かなかったが、つけ汁をつくって浸しておいた。
 そして、午後八時ぐらいになっただろうか。年越し蕎麦を茹でて、いただいた。こんなふうに大晦日に正月の準備をしても、まだ実感がわかないが、それでも、こうした日常的なことで、少しずつ、年の瀬と年明けを感じてゆくのだろう。
 風邪をひいていたこともあり、疲れてしまって、午後十時には就寝してしまう。除夜の鐘は、今年は鳴るかしら。クレームがあったとかで、元旦の昼間の、好きに撞いていい行事は中止になった。今は大晦日の除夜の鐘も、同じ理由で中止を余儀なくされることがあるという。わたしは特別な、風物詩だと思うが、そうでないと思う人もいるのだろうか。家は比較的、お寺の近所だが、聞こえるか聞こえないかぐらいの音でしかない。
 わたしの部屋からは、除夜の鐘が聞こえる。鳴ればきっと、目を覚ますだろうと思ったが、年越しの時間はぐっすりと寝てしまっていて、起きたのは0時半ぐらい。それも除夜の鐘の音で起きたのではなかった。咳で目を覚ましたのだ。もう除夜の鐘は終わってしまったかしらと、耳を澄ましていたら、何回か聞こえた。だいぶ遅れてしまったけれど、聞くことができて、そして中止にならなくてよかった。

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 今年の初日の出は、関東では拝めそうだと大晦日の天気予報でいっていたので、楽しみに、元旦の朝、目覚ましをセットして起きた。毎年、ベランダから初日の出を拝むのが恒例となっている。
 だが、初日の出の時刻は東京は大体六時五〇分、その二〇分ほど前に、ベランダで様子を見たが、びっくりするほど雲が多い。ここ何年かでいちばん雲が多いようだ。これでは初日の出は難しいだろうと、ほとんどあきらめる。東の空に雲がすこし切れているところがあった。あそこまで太陽が昇ればあるいは…それは七時一〇分ぐらいだろうか。その時間になるぐらいまでの間に、とりあえず寒かったので、部屋の中に入った。何回か様子を見に行く。やはり七時一〇分ぐらいだった、雲の切れ間から初日の出を拝むことが。
 最初思っていたのとはだいぶ違った。もっと青空のなかでと思っていたから。つぎにもはや初日の出は望めないのではとあきらめ、結果、その中間あたりで、初日の出を見ることができたということになる。思っていたのと、予想と、実際は違う。それは今回に限って言えば、意外といいことだった。こんなふうに今年もはじまり、過ぎてゆくのだろうか。

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 みなさんにとって、今年もよい年でありますように。
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2019-12-25

命なりけり、小夜の横浜──縄文と弥生展(神奈川県立歴史博物館ほか)

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 このところ、博物館とか美術館とか、そういったものに出かけていないなあと、ふとインターネッドなどで探してみたら、「令和元年度 かながわの遺跡展 縄文と弥生」というのが、神奈川県立歴史博物館(二〇一九年十一月二七日─十二月二十二日)と綾瀬市役所(二〇二〇年一月九日─一月二十六日)で開催とのことを知った。
 神奈川県立歴史博物館の最寄り駅は馬車道。知ったのがもうこの場所での開催終了間近だったので、急いで出かけてきた。
 バイトでけっこう疲れていた。でも出かけなければいけないと思った。言葉たちが、そうしないと、わたしのまわりにやってこないから。言葉たちと言葉を交わすこと、言葉たちのなかに身を置くこと。それは厳密には言葉ではない、言葉を通じて彼らと出会うこと、そのなかにいるには、なにかそうした場所が必要だった。

 出かけると決めたその日は、平日で、冬のなかでは暖かい晴れた日だった。今日しかないだろう。絶好の博物館日和だ。どこかで、もう今年最後の博物館、展覧会なのだろうなという思いがあった。
 馬車道というと、なんとなく遠く感じる。だが、家から自転車で数キロで二子玉川駅に行けるので、そちらからなら横浜界隈は自分でもいまだに慣れないのだが、びっくりするほど近い。



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 横浜を遠く感じるのは、小学生の頃から大人になるまで、地理的に実際に遠い埼玉に住んでいたことがあり、その印象もある。それと、両親が離婚してから後、わたしと父と二人で、横浜の中華街を散策した記憶とか、そうしたことが影響しているだろう。あるいはちょうど中学生の時に名画座だったと思うが(テレビだったかも)、映画『チャイナタウン』を観た記憶がどこかに優しい影を落としているのかもしれない。
 ロマン・ポランスキー監督、ジャック・ニコルソンとフェイ・ダナウェイ、一九七四年。映画はよく覚えていないが、見終わったときの感覚が、後をひいて、心地よかった。べつに横浜の映画ではないが、チャイナタウンつながりで、とにかく、どうにも横浜というと、心が騒いでしまうのだった。
 で、馬車道だ。二子玉川から、東急線、みなとみらい線などでゆく。地下道から最寄り出入り口を昇って外に出ると、、突然、神奈川県立歴史博物館がそびえているのに出くわす。

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 ドイツの近代洋風建築、竣工は一九〇四年(明治三七年)、もとは横浜正金銀行本店だったという。一九六七年(昭和四二年)、神奈川県立歴史博物館として開館された。レンガ造りの建物が古さを帯びて建っているのが、街になじんでいる。他にも古いレンガ造りの建物、ビルヂングと呼びたい建造物が垣間見られたから。
 いい加減な感想だが、神戸みたいだなあと思った。神戸に旅行で出かけたことが何回かある。その時に、明治期の建物たちが港付近に残っているのをみて、維新的なもの、洋風への憧れ、富国強兵などもあっただろうが、そんな息吹を感じたことがあったのだが、それと似た面持ちを、時を経て、ここ横浜に感じたのだ。
 もっとも神奈川県立歴史博物館がこうした建物だったことは、予備知識がなかったのでうれしい驚きだった。

 さて、展覧会。HPやチラシから。
 「 縄文時代から弥生時代への移り変わりは、狩猟採集社会から稲作農耕社会へと変化を遂げる転機であり、歴史上の大きなターニングポイントであったといえます。
 神奈川県域をはじめとした関東地方や中部高地では、縄文時代中期に極大化した遺跡数は、後期を迎えると減少に転じ、後期後葉以降から晩期にかけて激減します。
 その背景として、世界的な気候の寒冷化により植生が変化したことで食料資源が枯渇し、狩猟採集社会が行き詰まり、その窮状を打破すべく稲作を取り入れることで、歴史的な転換がはかられたとされてきました。
 しかし近年、停滞あるいは衰退と評価されてきた縄文時代後・晩期の社会観を見直す動きが出てきています。後・晩期社会が寒冷化を積極的に利用し、植物質食料の多角化を図り、気候の変動に適応したことがわかってきたためです。
 このような視点から、変動する自然環境に適応した人々が縄文時代から弥生時代へと移り変わる時期をどのように暮らしたのかを探ることにします。」

 先に言うと、この転換期で見えてきたことというのは、神奈川の遺跡の状態から、それまで集団で暮らしてきた形を、小さな集団に分散していったとか、食べているものがクルミが主食だったのが、気候の寒冷化により、トチノキやドングリ、クリなどが加わってきたことなど。
 また縄文時代晩期後半には、東北南部から中部、北陸、関東のあたりで、浮線文土器が分布しているとのことで、発掘されたそれらの土器の展示があった。
 器を削り、浮き出た細論で模様を表わしたもので、弥生式土器の成立に影響を与えたものであるとか。
 ちなみにこのあたりの情報は、展覧会会場で紹介されていたことだが、企画展示室にはいってすぐに、三〇頁もある写真も満載のパンフレットを頂いたのだが、そこにも載っていたこと。図録というか、うれしい記念品になった。
 ただ、これはもう、ほんとうに勝手な、趣味的な見方をしているからとしか言いようがない、そのことをすこし我ながら情けなく思ってしまうのだが、個人的には展示されている縄文土器たちに、その土器としてのたたずまいに、あまり感動することがなかった。もともと弥生式土器などにも、思い入れがないこともあるだろう。なんというか、実用に重きを置きつつあるというか。あの縄文時代中期ぐらいの、装飾過多ともいうべき、美しさ、実用に反しているのではと思えるほどの想像力が、少なくなってきているように思えたのだ。あるいはほかに表現の手段が移っていったのだろうか。縄文土器や土偶に込められた一点集中的な表現が、どこかへ比重を移したのかもしれない。
 展示された土偶のところに説明があったが、縄文時代は祭祀などで使われていたであろう土偶だったが、弥生時代前期後半の土偶形容器は、新生児の骨を収めたものだったという。勝手なことをいうかもしれないが、生と死の境目のないところでの(両方を含んだ)祈りだったものが、ほとんど死のほうへ傾き、境目のなさから、一線をすこしだけ画したもの(まだ土偶の形態は妊婦的な女性だったから)、ということになるのだろうかと思った。
 ただ、そうした表現と別のところで、展示された浮線文土器のなかに、内底部に、黒くなり、使われた跡がおびただしいものがあった。これには心惹かれた。生活の痕跡のような気がした。

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 歴史的な建物のなか、今度は常設展へ。神奈川の縄文から今へ…ということなのだろうか。ここでも勝手な見物人なので、縄文時代ばかりに見入ってしまう。この展示は良かった。ここに来て、ああ、やっと縄文時代の土器や土偶たちに会えたなあと、我ながら、わがままだなと思いつつ、一息ついてしまった。
 「日本最大級の縄文の「あたま」」(公田ジョウロ塚遺跡出土、縄文時代中期(約五〇〇〇年前))だという、土器の一部なのか土偶のそれなのか、おそらく顔面把手なのではという、ともかくあたまだけのもの…。山梨や長野で見られた土偶や土器と表情がつうじる、おだやかな、ぬくもりのある、不思議な笑みをたたえてすらみえる「あたま」。そして「立体的な造型が施された縄文土器」(横浜市内、縄文時代中期、高津コレクション)の、装飾たちの立ち上がったような表現への愛しさ。「あたま」近くに展示されていた土偶たちにも、心が惹かれた。やっと、ここで、いつもの土偶に会えたとどこかで感じた。

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 名残惜しかったが、博物館を後にした。時刻は三時半、四時近かっただろうか。あまり地図的なものをみなかったが、このあたりは海が近いはずだ。今年最後の海をみたいなと、なんとなく、海っぽいほうへ向かう。方向音痴なのに、なんとなく、気配を感じた。大海原は望めないだろうが、運河的なものでいい、ともかく水を見たかった。
 あるいて五分、十分かからないうちに、海っぽいところに出た。建物たちで遮られて、水平線は見えない、だが充分だと思う。もうすでに夕焼けが始まりつつあった。横浜の海を見るにはふさわしい時間だとどこかで思っていた。それは夕方という時刻が、逢魔が時、過去と出会いやすい時であると、思っているせいだろうか。過去と現在が出会うにふさわしい、懐かしいような、さびしい時刻。わたしのなかの古い横浜が、そこに見え隠れしているようで。
 水のむこうに、観覧車が見えた。あれは……。もうずいぶん前だ。子どもの頃の記憶ではなく、だいぶ大人になってから。あの観覧車のなかで、キスしたことがあったっけ。

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 「年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山」(西行法師)だなあと、苦笑する。
 こんなに年月が経ってから、また同じところに、思いがけず来たなんて…。こんなことで思い浮かべられて、西行法師も迷惑かもしれないが。
 また水面に目を転じる。意外と水がきれいだ。岸辺近くでは、底まで見えるぐらい透明度がある。
 そして、さきほどから鳥たち…、都鳥だ、都鳥だ、白くって、赤い嘴で、群れをなして、鳴き声がカモメのそれ、美声とは言いがたい……、それが、飛び交っているのが目についた。先日、家の近くの野川で遭遇してから、もはやユリカモメではなく、わたしのなかでは、呼び名が都鳥となっているのが、おかしかったが、ともかく、都鳥たちが沢山いるのに、ちょっと興奮した。だが、すこし遠い。やっと近くまで来たなあと思ったら、すぐさま飛んでいってしまった。それでもたくさんの都鳥たちに会えてうれしかった。やはり、いくら野川のような、内陸まで飛んでくるとはいえ、本来は海辺で多く見られる子たちなのだろう。

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 今年最後の縄文の展示、今年最後の海…。そして都鳥たち。彼らに会えてよかったと思いつつ、帰路へ。バイトの帰りだったし、繁忙期で疲れていたこともあって、帰りの電車は、乗っている時間は二〇分ほどだったが、ぐっすりと寝てしまった。そのあいだにどっぷりと夜。あたりは暗くなっていた。多摩川を横に見て、そして野川沿いに、自転車で家へ。命なりけり小夜の横浜、そして多摩川、野川。

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2019-12-20

名にし負はば…鳥たちの声が冬を

 十二月。植物たちは、もうほとんど眠りにはいってしまった。静けさが冷たい空気のなか、満ちている。もうほとんど、紅葉という植物たちの冬のイベントもおわってしまった。だが、落ちた葉たちがかさこそと、たまに足の裏で、ここちよい。そうして、鳥たちがにぎやかだ。

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 バイトの途中、うちの近くの川…野川の上空で、鷹が飛翔しているのをみた。滑翔という飛び方…、グライディング、羽ばたかずに風に乗ってすべるような。最初、作り物なのかと思った。ラジコングライダーとか、その手のもの。だが、そう思ったのも一瞬だった。美しく、羽を広げたまま、割と近い空を滑っている、その姿にみとれるうち、豊かな、なまなましい生を感じたのだ。
 それは鷹の仲間のようだった。けれども、わたしが海などで出合うトビではなかった。彼らとは色が違った。飛ぶ姿を、その色を、眼にやきつける。見とれていたこと、その瞬間を大事にしたいと思ったこと、そしてたぶんカメラなどにおさめる時間がないことに感づいていたのだ。案の定、すぐに岸辺の木々の中に消えてしまった。家に帰って調べる。おそらくオオタカのようだ。お腹が白く、頭や背や翼の上面が黒っぽい。この黒っぽいと感じた色は、青みがかった灰色だそうで、それが、「蒼鷹(アオタカ)」、オオタカの名の由来となったとか。蒼を帯びた鷹……。オオタカはもっと山のほうで生息するのだと思っていたが、近年、秋冬は特に、こんな低地の都市部に現われるようになったのだという。この野川の周辺は国分寺崖線などもあり、特に緑が深い。
 そのことに関して、いろいろ問題はあるのかもしれない。オオタカの生息環境の変化と自然破壊についてなど。けれども、蒼鷹、水辺での滑翔。好きな水のちかくで出合えたことに感謝した。


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 そして、おなじ野川、ほぼおなじ場所で。やはりバイトの途中、欄干にたくさんの鳥が止まっているのをみた。めずらしそうに何人か、手持ちのスマホなどで写真を撮っている、電気工事や、測量などに従事しているのだと思う、青っぽい制服や、ベージュの作業着を着た数人。こちらも仕事の途中だったから、彼らに親近感をいだいた。川は都区内にしては水が澄んでいる。
 なんの鳥だろう。ユリカモメに似ているなと思う。でも、こんな内陸にいるだろうか。橋を人が通るたびに、バサバサといったん離れ、空に舞い、川面へむかう。だが、すぐにまた欄干にもどってくる。
 わたしも彼らのように写真を撮った。今度はオオタカと違い、多分、刹那ではない、ある種の余裕を感じたのだ。彼らは写真を撮っているあいだも、そこにいてくれた。家に帰って調べる。白い鳥、眼がくっきり。そしてくちばしと脚に特徴が。やはりユリカモメだった。冬鳥として、カモメの仲間のなかでは、いちばん内陸までやってくるとか。古名が載っている。ああ、都鳥だったのだ。

  「白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上にあそびつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず、渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きて」(『伊勢物語』第九段)。

 わたしは高校生の頃から、『伊勢物語』が好きだった。だが都鳥というのは、なぜか物語のなかの鳥だとずっと思っていた。白くて、赤い、あの子たちの特徴が、そこには書いてあったというのに。

 「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」。

 こんなふうに、ばらばらだった名前と姿が一致すると、いつもいとしい。そのときから、それはわたしにとって存在をはじめるから。こんどからは、くちばしと脚の赤き、白き鳥をみるたび、都鳥をふくんだユリカモメとして、わたしの上であそぶだろう。

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 ユリカモメ=都鳥をみた川は野川だが、もう少し下流にゆくと、多摩川に合流する。その多摩川ですこし前に、やはり群れをなした白い鳥をみたことがあった。あれも都鳥だったのだ。川がつながるように、白き鳥たちも名前でかさなる。
 そして、この野川の、橋の名前は雁追い橋という。なぜ雁と名前がついているのだろう、わからないが、以前から名前にひかれている橋だった。この橋の近くで、雁が渡る姿が見られたのだろうか。今は鴨類が飛んでいるのを見ることができる。
 そうして、都鳥たち。そういえば、『伊勢物語』当時の都の「京には見えぬ鳥」なのに、武蔵の国辺りで都鳥といったのは、なぜだったのだろう。まばゆいばかりの白さを、都へむかうにふさわしいと思ったのだろうか。いまは京都ではない、東京都の鳥というのも、すこしおかしい。

 東京湾岸を走る新交通のゆりかもめ。以前、港区に住んでいたことがあり、その時に、あの界隈に、よく自転車などで赴いたことがあった。海が見たかったのだ。その海や運河では、ユリカモメたちをよく見かけたものだった。その時は、だから都の鳥なのだと解釈していた。ゆりかもめが走っている。まさか「これなむ都鳥」と結びつくとは。物語と現実、鳥たちの名前に、川が、水がそそぐ。

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 またある日。今度は野川のおとなりの仙川にて。仙川は小金井のあたりから流れてきて、最後に野川に合流する。こちらは野川のような自然にちかい感じの護岸がされていない、コンクリート護岸で、すこし悲しい川だが、長い年月の間に、中州などができ、鳥たちが来やすい環境になっていったのかもしれない。冬などは意外と鴨の類いが多く見られる。

 ある原稿を書くために、そのあたりを調べるように岸辺を自転車で回った。世田谷区の祖師谷から成城一丁目にかけて。桜の時期は、両岸からしだれるように咲く桜たちの数多で、幻想的なぐらい、絢爛とした見事さに包まれ、悲しい川のイメージは一掃されるが、この冬の景色も、多い鳥、成城大学の池なども岸辺から見ることができて、意外と楽しい。夕景が川に映り始めたのに出合えたのもうれしかった。日が短いので、さっきまで午後だと思っていたら、もう夕方。水面が夕景に染まる。


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 そうこうしているうちにもはや年末の声が聞こえてくるようになった。バイトがそのせいで忙しいというのに、まだ実感がわかない。
 そういえば花が少なくなり、陽射しに力がなくなる冬は苦手で、いつも冬になると落ち込み、塞ぎがちになるのけれど、ことしは比較的症状が軽い。花のかわりに鳥たちが、あちこちでささやいてくれているからだろうか。
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2019-12-15

ねむり女は煙草をすう

 またここをあけてしまった。
 この期間、何をしていただろうか。原稿で、夢のことを考えていた。その関係で、珍しく、夢で覚えていられるものがいくつかあって、書き留めていた。
 本当はもっと、毎日、夢を覚えていたいのだが…。
 夢の話と日記はつまらないと言われる。そこには“わたくし”の要素が大きいからだろう。他人の関与する要素がすくない。
 だが、ごめんなさい、ここをあけていた間に綴った夢のメモを今回は載せておきます。なるべく、“わたくし”を消しながら…。


11月17日 日曜日
 金魚の夢。旅館の渡り廊下のようだ。ずいぶん光沢のある板張りの廊下の真ん中に台があって、そこに大きな金魚がいる。ラクビーボール大で、大きな鯛ほどもある。二匹は水槽に入っているのだが、あとの二匹は水の外、水槽の脇にいて、こちらを見ながら口を開けている。
 廊下の左壁に鏡台があり、櫛やアクセサリーなどが置かれた台の上で、やはり水の外にいる金魚が、口を開けて、こちらを見ている。
 仲居さんのような人が通りかかったので、金魚たちを、はやく水にいれてあげてくださいと頼む。
 だが、言うことが理解できなかったのか、生返事をして去ってしまった。
 わたしは、どうも、何人かの人と史跡巡りのようなことをしていて、その途中で大きな金魚たちに遭遇したようだ。
 持っていた鍵で、蔵のようなところを空ける。次に来るであろう詩人のエスさんに、鍵を渡さないといけないと思っている。
 水の外の金魚はどうなるのだろう。だが、口を開けてはいたが、苦しそうではなかった。
 ああ、あの金魚のまなざしは、子どもの時にみた、夢のなかの魚のまなざしだと、今思い至った。
 あるいは子どもの頃にみた物語のなかの魚。こちらを見ているが、実はこちらにあまり関心がないような、どこか覚めたまなざし。そして魚だからか、ぬれたような瞳、そうしてどこか暗さをたたえている。
 わたしはあのまなざしになぜか惹かれていたのだった。無関心そうな目だったから、よけいにだったのかもしれない。
 夢のなかの大きな金魚はどうなったのだろうか。


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11月24日 日曜日
 比較的、はっきりとした夢だ。
 誰かの子どもを預かっている。手をひいて歩くが、急いでいたのかもしれない。ここに置いて待っていてもらうということはできないんだよなあ、どうしようかと考えている。商店街というか駅ビルのなかのショッピングモールのような場所。屋根があって、通りの両脇に店が並んでいるが、都心の駅ビルのなかにあるより、派手さがない。
 抱きかかえることにする。すると、どうしたことか子どもはとても小さくなる。手のひらにおさまるぐらいの胎児のようになってしまった。わたしには子どもがいないので、猫よりもちいさいんだなと、自分がともに暮らした猫を物差しにするしかない。これなら抱いてつれてゆくことが出来る。
 そう思ったことで気持ちが安心したのか、子どもの姿が夢から消えた。今度はビルの四階か五階ぐらいの窓から、人が飛び降りようとしている。わたしは地上にいて、飛び降りるのをやめるようにいう。じつはそれからのことはあまりおぼえていないのだが、ビルの上の階の窓からと、地上で普通に会話している。まるで飛び降りるといったことがなかったように。しかも人数が増えている。そのうち、お茶でもいれましょうかと、奥から女性の声がした。わたしはビルの下にいるのにと不思議に思うが、次の場面では、もうその窓のある部屋にいた。ソファーに座って数人と談笑している。飛び降りようとしていたのは、誰だったのかしらとふと考えている。お茶をいれてくださった女性ではなかったかしら。では話していたのは誰だったのか。
 部屋のなかには数人いたが、部屋に住んでいるのは、お茶をいれてくれた女性と、眼鏡をかけて短髪の、男性にしかみえないが女性だという人の二人。このうちのどちらかが飛び降りようとしていたことになる。だが、仲がよさそうだ。さっきまで外は明るかったが、もはや夜。窓の外に月が見えた。月明かりのなかで、この二人が、なにかすてきな、大切なことを語ってくれたのだが、覚えていない。このあたりで眼がさめた。

12月2日 月曜日
 高校の時に仲の良かったキー子と一緒に居る。大学の講義が行われていたのだろう、講義室を抜け出して、二人で外に出た。庭のあちこちに桜の木があるが、咲いていない。だが、注意深くよく見ると、何本か……というよりも、けっこう咲いている。しだれたもの、色がすこし濃いもの、斑のはいったもの、八重の物、うすい白、そしてソメイヨシノ。一分咲きぐらいだ。いや、最初にみたよりもあきらかに咲いている。まるで注視することで咲いたかのように。
 キー子にそれを教えると、カメラを取ってくるという。わたしも講義室に戻る。机の中からスマホを取り出す。なぜ、置き忘れたのかしら。いつも首からさげているというのに。講義は今まさに行われている。先生はなんとも思わないだろうか。でもたしか、わたしたちは受けなくてもいいはずだ。
 彼女は小さなバッグをもっている。あれで全部入るのだろうか。
 わたしは外に出て、桜の木の下で、たばこを吸おうとした。そしたら、顔見知りの男が一本くれないかという。さっきもあげた男だ。年は二十代代前半ぐらい。だがわたしももうあまり持っていない。「ちょっと待って、買ってきたらあげるから」。そうして、いっしょに買いに行く。駅のホームのようなところの自販機。高い。五〇〇円以上している。今度は有人販売のところで、四本入り二七〇円というのをようやく見つけて、それを買う。これでわたしが元から持っているのとあわせて八本……。わたしが吸う分があるだろうかと不安になる。このごろはほとんど吸うことがないから足りるかもしれない。それにしても男もすこしはお金を出してくれたらいいのにと思いながら一本あげる。
 そのあとで、洋服屋にはいった。キー子も一緒だ。暗い感じのジーンズとか売っているカジュアルな店。キー子がさわったり、なにかを買った後と、わたしのその行為のあとで、マネキンの着ている洋服が変わっている。紫のめだつ服とミニスカート。これはキー子の後だ。わたしのときはどうだったかしら。
 このあたりで眼が覚めた。眼をさます刹那、ああ、煙草は…、よかった、吸っていないんだっけと思う。煙草をやめてもうかなりになる。夢のなかではいまだにまだ煙草を吸っていることがよくあるのだった。キー子とは二十歳ぐらいの頃から没交渉だ。会いたいとは思うのだが。どこで何をしているのかわからない。

12月6日 金曜日
 家人に、すぐに帰るようなことをいって、もう二時間以上たっている。その間、書き上げた原稿をわたしたり、逆に原稿依頼をしにいったり。電車に乗って移動している。来たことのある場所だなと思う。どんどん景色に緑が多くなってゆく。そのことにほっとしている。山のほうに来ているようだ。前に来たことのある、滝と渓流のある場所だと夢のなかで思う。青璋の滝と書いてあった(現実には存在しない。だが、現実で泊まった宿の名前に似ている)。駅を降りるとお寺の門のような改札だ。ここから右にゆくと、川の奥が滝だが、用事があったので左にゆく。ここで、詩のイベントがあったのかもしれない。Nさんとすれ違ったので挨拶する。前日、眠る前に、業務連絡的なメールが来ていたので、それで出てきたのだろう。ずいぶん前につきあっていた人ではあったが、もはやそうした事実が夢のなかでも他人事になっている。
 用事をすませ、改札にもどり、家人に電話する。家人は心配しているのだろうか。すこし怒ったような感じだ。
 この滝までくると、電車の本数があまりないんだよなと思う。だが今日はあと三十分ほどで電車がくるようだ。時間が早いからだろうか。高田馬場行きだと行っている。夢のなかでは当たり前だと思っているが、これも存在しない路線。
 覚えているのはこのあたりまで。


 夢のメモはここまで。
 これを書いている今日みた夢は覚えていない。なにかはっきりとした夢をさっきまで見ていた筈なのだが。
 十二月にはいり、バイトが繁忙期になってしまった。つかれた頭で、公園などの前を横切る。最近まで、紅葉していたのだが、もはや色付いた木々の葉も落ちてしまっている。自転車の車輪が、かさかさとした葉たちを踏む。ああ、紅葉していたとき、桜の花が咲くように葉が染まっているところを、もっと、ちゃんと見ておきたかったなあと思ったが、もはや桜たちも冬木立となっている。二度咲く桜……、そう呼んでいたものだったが。花たちが終わり、葉も散った。あとは実たちが華やかだ。鳥たちも増えてきた。
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2019-10-30

水たちの贈り物、くらわんか中伊豆から西伊豆へ

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 十月下旬の日曜と月曜で、伊豆に一泊の旅行に出かけてきた。伊豆も箱根と同様に東京に住んでいる自分には行きやすい場所なので、もう何度も出かけている。
 なのに、なぜ…。きっかけは些細なことだ。ウインドーショッピング的に宿を検索したり、パンフレットを見ることをたまにしている。掲載された美味しそうな料理や温泉の情報などを見ているだけで楽しい。
 そんななか、西伊豆の土肥で、よさげな宿を見つけたので、出かけることにしたのだった。空想を楽しんでいたのが現実に、といった感じ。
 伊豆にはもう何度も…と思ったが、これまでは東伊豆が多かった。運転免許がないわたしにとって、電車などではすこし遠い西伊豆は少なかったし、海が好きだったので、海のない中伊豆にもあまり興味がなかったから、行ったことがない。だから、泊まることにした土肥は初めての場所だった。もっとも今回は車だけれど。
 何度も行っている伊豆半島。でも初めて…。そんなことをおそらくどこかで意識していた。西伊豆と中伊豆をメインに旅のプランを考えた。旅に出かけるまえに脳内で、宿を探すように旅をすること、それと現実の旅を合体させること。旅行ガイドやネットなどで出かけるところをあらかじめ探す。今は観光協会などで出しているパンフレットがPDFで取り出せるから便利だ。そんな作業を楽しんでいる自分がいる。
 なので、今回の旅行はそんなふうに、ほぼ、あらかじめ決めたルートにしたがってのものになった。最初は三島と沼津の真ん中あたりにある、清水町にある柿田川湧水群。ここは以前から気になっていたところ。富士山の雨や雪解け水が地下に染み込み、約八五〇〇年前の噴火の跡である三島溶岩流の先端から湧き出た水とのこと。
 湧水群ということばに惹かれ、ずっと行きたいと思っていた場所だった。写真などで見ると、とにかく水が澄んでいる。
 実際に行くと湧水群なのだから、周りはもっと緑が深いのだろうと思ったが、国道沿いで、近くまできていても、なんというか、水のある雰囲気はまったくない。車が多く、道の両脇にはどこにでもあるスーパーやチェーン店が立ち並ぶ。だが「柿田川湧水公園」の案内の看板が。入ると芝生広場として開けたところで、噴水や人工のせせらぎがあり、本当に公園といった感じで、湧水群らしくないのが少しおかしかった。広場は柿田川の岸に沿った高台にあるようだ。広場から下った緑深い場所が湧水群で、下りきったところが柿田川。最初に第一展望台のほうへ向かう。緑が多く、渓谷といった感じだなあと思う。
 第一展望台は柿田川の最上流になるそうだ。国道下から突然に湧き出て、川が始まる。川というか大きな泉といった感じ。湧き出る水で砂が動くのがわかる。展望台にはガイドの方がいて、地下水だから、その前の週に通った台風の影響もほとんどないといっていた。ガイドの方が、あの黒いのが鮎ですよと教えてくれた。最初、どれを指しているのかわからない。「いつもこんなにいないんですが、台風で逃げてきたんでしょうね」とのこと。まだわからない。指しているものと、指されているものが一致しないと、存在しない。ことばの不思議さに気づかされつつ、一致させるべく、川を見る。澄んだ水たちの放つ様々な色合い、青にうすい緑、暗い影の光、などに惹かれながら。言葉では、そこにいるのに、実物と一致しない、存在しない鮎たち。
 だが、ほかの観光客の方から、救いのような言葉が発せられた。「あの水草みたいな黒い塊が鮎なの?」
 たしかに川のなかに水草のような黒い塊があった。水のなかでゆらゆらしている。それが鮎が一致した瞬間だった。目の前に鮎がいる、それも無数の、うごめくものたちとして。うれしかった。鮎と水。

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 第二展望台に向かう。緑のなかをぬけるのだが、そこかしこに染み出る水があり、心地よい。
 第二展望台から見る湧水は、昔紡績工場が井戸として利用していたとのことで、井戸の丸い輪のなかから湧き出る水を上から眺める感じだ。砂と陽の光、深さの関係なのだろうか、輪のなかの水がサファイアのような真の青、美しい水色で、あまりに青が濃すぎて、違和感すら感じてしまうが、これが現実の色なのだ、ということに、心地よい水を受け取る。幻想と現実の境目にある青といえばいいのか。ただただその色に魅せられた。

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 そのあとは木製の八つ橋をとおって散策する。柿田川中流の流れを見たり、あちこちに染み出る湧水や、その小さな流れを感じる。うちの近所にも湧水はある。それを思い出し、比べる。特に小さな流れが地面をぬらしながら這う姿。見た目は似ているけれど、この場所は圧倒的だ。豊富な水が、力をくれるような、清冽さが、あたりに満ちている。いにしえの人々が水に見えない力を感じたことなどを想起する。そういえば、この公園内には水の神様である貴船神社の分社があった。守っている狛犬がどこか愛らしい。

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 次は村の駅へ。ちょうど昼ご飯を食べる頃だったので。飲食店や物販店が集まっている。野菜、とくにキノコ類が東京では見ることのないものがあり、興味深い。このあたりは椎茸の産地でもあるそうだ。沼津で獲れた鰺のフライ、そしてキノコの味噌汁などで昼食を。値段は比較的安価だったが、とてもおいしかった。
 そのあとで伊豆の真ん中をさらに南下する感じで上白岩遺跡と隣接した伊豆市資料館へ。遺跡には縄文時代中期から晩期の環状列石遺構があるという。資料館はそこからの出土品などが展示されている。資料館に駐車場があることもあり、最初にそちらに行く。入口には黒曜石が石碑のように埋まっている。磨いていないので、くすんでいる。だがつい、触ってしまう。触っているうち、磨いたあとの鮮やかなきらめきも思い浮かべることができた。このあたりも黒曜石の産地なのだとか。
 資料館のなかでは、発掘された黒曜石のやじり、埋がめとして使われた縄文土器などが展示されていた。埋がめは、おそらく埋葬で使われたのではとのこと。そして石斧、顔面把手、石棒。顔面把手は、部分出土のようだったが、土偶みたいだった。口を開けた姿がなにかを伝えるようで、印象深い。

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 資料館を出て、道を挟んだところにある上白岩遺跡へ。遺跡は広いくぼみのなかにあったが、遺構や住居址のある場所には入れず、くぼみにそってコの字になった三片を下方から歩いてそれを眺める感じだ。コの字の上方に竪穴式住居を復元したものがある。だいぶ手入れされていないようで、入口に大きな蜘蛛が陣取った蜘蛛の巣。茅葺きの屋根も孔があいていたり、蔓草が巻き付いている。
 二つの場所は旅行ガイドなどには載っていない。伊豆市のサイトに載っていただけだ。観光としてはあまり力が入っていないようだった。そもそも、伊豆・縄文遺跡と検索して、知った場所だったから、観光スポットではないこと、予想できそうなものだし、なんとなく行く前から想像してはいたのだが、それ以上に、静かでひとけがなくて、そのことをすこし寂しく感じた。それは夕焼けをみる心持ちにも似ている。
 次の場所へ向かう途中、柿田川が注ぐ狩野川などを見る。水が豊富で少し高台。それは縄文人が住んでいたところに共通する。このあたりにきっとかっては…と思いを馳せた。
 中伊豆ワイナリーシャトーT・Sへ。ここは遺跡からかなり近く、寄れたら寄ろうぐらいな感じでいった。ワイナリーを中心とした観光施設で、ぶどう畑とホテルと醸造所、ワインセラーなどがある。ワインの試飲もでき、乗馬もできるそうだ。グラッパ(ワインの絞りかすを蒸溜させたアルコール度数の高いお酒)も作っており、販売していて、それがほしいなと思ったのだが、試飲ができず、味がわからなかったこともあり、買うことは控えた。
 けれどもこちらで作った白ワイン、シャルドネを有料試飲で一杯飲んでみる。ブルゴーニュのシャブリやムルソーなどのシャルドネ種で作った畑のワインに共通した、香りふかいおいしさ。
 庭のほうで地元野菜などを売っていて、そこで試食したスモークチーズ、そして落花生が美味しかったので購入した。ミカンを二つおまけにつけてくれた。
 敷地内を馬が歩いている。
 時刻は三時ぐらいだっただろうか。宿に向かいつつ、次の目的地、旭滝へ、
 こちらも旅行ガイドなどには載っていない。上白岩遺跡を調べたときに、偶然見つけたものだ。一気に滝壺まで直線的に落下するのではなく、岩肌を滑るような渓流滝で、伊豆のほかの滝の名所、浄蓮の滝なとと比べて穴場とのこと。なのであまり期待していなかった。入り口もなんというか、小さな案内があるばかりで、あまり積極的な感じがせず、なおさらだった。
 だが、小さな流れを遡る感じで、滝に向かう。思いがけず長い、そして高さのある滝が眼前に飛び込んできた。
 渓流といってもかなりの傾斜があり、それが力強い姿を湛えていた。うれしい驚きで、瀑布の豊かさに圧倒される。
 岩肌は石垣を積んだような形になっているが人工のものではない。「柱状節理」といって、火山のマグマが急激に冷やされて出来た溶岩なのだという。この岩肌の珍しさも、滝を見る目に、新鮮な深い感動を与えてくれるものとなった。自然の大規模な造型の深さに、柿田川でのように、思いを馳せる。そういえばこの滝もまた、柿田川のように狩野川に注ぐようだ。

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 時刻は四時近い。この日の西伊豆の日の入りは五時五分ぐらい。それまでに宿について、荷物を置いてから夕景の海を見に行きたかったので、いよいよ宿のほうへ、つまり海を目指す。中伊豆から西伊豆へ。道も直角に折れて、西に向かったので、西の空の太陽がまぶしい。ああ、この太陽が海に沈むのを今から見に行くのだなと、まぶしさのためにできた眼裏に点在する黒い点たちを、夕日への道案内のように感じた。
 宿からは海が見えない。宿に向かうときも見えなかったか、気づかなかった。それほど海から離れているわけではないのだが。土肥。土肥に限らず西伊豆には夕景の海を眺める場所が点在している。宿から歩いて一〇分ほどのところに旅人岬があるので、そこを目指す。今日初めての海。伊豆に来たのに、ここにくるまで海と出合わなかったなんてと、そのことをすこし面白く感じる。海とは出合うことがなかったが、柿田川湧水群、旭滝など、水とは出合っていたから、心にゆとりがあったというか、伊豆で海にふれる機会がないことを楽しむ余裕があったのだった。
 日の入り前の四時五〇分ぐらいに旅人岬近くについた。やっと海。まだ暮れ残っていて、南の方はなんとなく午後の色を保っている。だが曇り空というか雲が多い。西は夕焼けが始まっている。ともあれ、やっと海だ。
 実はこの日、朝方は少し雨が残っていたし、前日は雨だった。だから雨が上がって天気が保ってくれただけで御の字といった感じだったので、夕景はあまり期待していなかった。実際、太陽はちょうど雲で隠れてしまい、沈むのがわからなかった。ただ雲の形が面白い。白い龍か、若冲の描いた白い象のようなものを思い浮かべた。なんとなくの夕景だったが、十分だった。

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 夕食が六時からだったので、急いで宿に戻って、温泉に入った。内湯は時間がなかったので入らなかった。身体を洗って露天風呂へ。あたりはすっかり夜だ。雲ばかりで星が見えない。五分ぐらい湯船にいた。だが、身体がぽかぽかしている。
 お風呂から出て部屋に戻って数分で食事。朝晩の食事が部屋食なので、少々落ち着かない。だがそれを知っていて宿を選んだのだからいいのだが。
 宿には庭園があり、池があるのだが、台風の影響で水が濁っているのだという。たしかに灰色の水で、そのなかを鯉が泳いでいた。
 翌朝の天気は下り坂。雲が前日よりも厚く、全体的に灰色の光景が広がっている。宿をチェックインし、土肥の町というか、土肥金山へ。土肥は金山で栄えたところらしい。江戸時代、そして明治、昭和四〇年に金山閉山。今は伊豆市指定史跡兼観光施設になっている。その観光坑道に入ったり、砂金掘りを体験したり。小さな粒が三つほどしか採れなかったのはご愛敬。
 土肥金山へ向かう途中、土肥の港などを通ったが、月曜日ということもあって、賑わいがない。海も曇り空のなかで、灰色の水を湛えている。そういえば土肥温泉の宿もどこも古いものが多く、なにか全体的に静かすぎるような感じがした。旅行ガイドなどでも、東伊豆や南伊豆が多く紹介されているのに対し、西伊豆は堂ヶ島ぐらいで、後はあまり積極的に紹介されていない。土肥や隣の戸田に割かれたページは少しだ。そのことに合点がいったような、そんな寂しさがあった。
 土肥を後にして、西伊豆を南下する。この後に寄った観光スポットはとりたてて書くことがないので省略。
 黄金岬、安良里、田子、堂ヶ島。うねうねとした岬も多いので、内陸になったりするが、基本海沿いを通った。だが天気が悪いのがすこし残念。
 堂ヶ島をすこしすぎたところの大浜海岸へ。
 昔、どこの海辺で拾ったのだったろうか。おそらく西伊豆だ。うちに古い時代の陶片がある。その時に一緒に行った人が、これは江戸時代ぐらいの古伊万里なのだと教えてくれた。青い染付。江戸時代のものが落ちていることに、それを手にしていることに感動した。波でもまれているうちに、破片たちは鋭利さをうしない、色もこすれて、丸みをおびた温もりをはなつ。それは過去からの投壜のようでもある。その連想からか、陶片だけではない、ガラス片であるシーグラスと称されるものにも何か惹かれる。やはり丸みをおびて透明さが曇った、小さなガラスたち。
 いや、陶片やガラスたちに、それほど思い入れが強かったわけではない。その当時、拾った刹那は心動いただろうが、その後、長らく忘れたままだった。最近になって、縄文土器などに惹かれるようになって、ふと思い出し、ひっぱりだしてきたのだった。過去からの温もりを伝えるかけら、として共通項を見いだしたのだろうか。
 そうして、ひっぱりだしてきた陶片やシーグラスたちに思いをよせる感じで、調べてみると、西伊豆ならば特に大浜海岸で、そうしたものたちを拾えるという情報を得た。ビーチコーミングというそうだ。西伊豆町観光協会で出しているガイドマップにも海水浴のほか、石拾いの場として紹介されていた。
 また陶片たちに会えるだろうか。そんな思いで、ほぼ旅の最後に訪れることにしたのだった。
 浜につくと、すこし雨が降ってきた。釣りをしている夫婦がいたが、わたしたちと入れ替わりに帰っていった。季節外れの海水浴場には誰もいない。砂浜は石や陶片が流れつくからなのだろうか。流木だけでない、海藻などの漂流物もいっぱいだ。ああ、そうだったなあと思い出す。あれはやはりここではなかったが西伊豆だったのだ。おだやかな海、そしてきれいな海。でも、浜には海藻などの漂流物が多く、あまり見栄えがよくないなあと、思ったものだったっけ。きれいなものが漂流してくる、だけではないのだ。そういえば、あの浜で、トンビの死骸を見たのだった。
 雨が降っているぐらいだから、空は厚い雲でおおわれ、海も鈍色だ。灰色の砂、灰色の海のなか、石たちを探す。あるいは足元ぎりぎりまで打ち寄せる波を眺める。
 古伊万里の陶片…と大雑把に書いたが、もうすこし調べてみると、江戸時代、有田の隣町、長崎の波佐見で大量に焼かれた日常使いの磁器「くらわんか」というものらしい。江戸の人々が日常で使っていた器たちのかけらが、こうして流れついてきている…。そういえばシーグラスには、そうした人の手を感じなくても、つい惹かれてしまう。宝石というより、小さい頃にきれいだなと思ったドロップとかビー玉を見るような感じに近い。曇って不透明になったガラスだからこそ、よけいに時間を感じるのが、心地よい。
 だが、それらを意識して探すとなかなか見つからない。青い陶片と海のガラス。昔拾ったときは意識しなかったからこそ、逆に拾えたのだろうか。
 それでもすこしだけ、採取した。雨がすこし強くなってきたこともあり、帰ることにする。時刻は二時過ぎ。昼ご飯がまだだったので、堂ヶ島で食べて帰ることにした。というか、土肥から大浜まで来る途中、食べ物が食べられそうなところは堂ヶ島ぐらいしか見当たらなかったのだ。ここならお土産なども見たりすることができる。
 堂ヶ島は何回か来たことがある。遊覧船も楽しそうだったが、過去に二回以上乗っている。それにあいにくの雨だったので、今回はもういいと思った。
 鰺とシラス丼を食べる。お土産屋さんで、このあたりで作ったというダシパックの試飲が美味しかったので購入した。
 そのあと、また土肥まで戻り、中伊豆に入って…。行きに寄った村の駅にまた立ち寄り、柿田川湧水群の看板も見た。というか、柿田川のすぐ近くの国道を走った。この緑のむこうに流れている…。また近くを通ることがあるなんて。雨が強くなってきた。
 そうして数時間で、東京へ。こちらは雨が上がっている。というかほとんど降らなかったようだ。気候が違う、それだけ離れているのだなと思う。
 また日常が始まった。後日ダシパックで、この秋初めての鍋を作ってみた。香りというか、ダシが効いている気がした。拾ってきた陶片やシーグラスを洗って乾かした。思ったよりも多くきれいなものたちを採ってきていて驚いた。以前拾った時と、あまり変わらないか、シーグラスに関しては前回よりも多かった。そのことがおかしい。また雨が降った。
17:07:30 - umikyon - No comments

2019-10-10

古いものが新しさ、日々、教えてくれる加曽利貝塚縄文秋まつり

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 少しここを空けてしまった。その間に、まだ暑いときもあるが、だいぶ秋が進んできた。彼岸花も咲いた、いや、もう殆ど終わり。好きな花で、毎年、埼玉県の巾着田に群生を見に行っているのだが、今年は例年よりも開花が遅れていて、九月末から十月初旬が見頃だというので、十月の土日に行こうと思っていたのだが、何気なく調べたら、思いがけず、これもこのところ毎年出かけている、千葉の加曽利貝塚の縄文秋まつりが、十月五日、六日に開催されるという。去年もおととしも十一月三日あたりに開催されていたから今年もそうだと思っていたので、一ヶ月ほど早いことにびっくりした。そして開催される前にわかって心底良かったと思った。そう、彼岸花は残念だが、加曽利貝塚のほうに行くことをすぐさま決めた。もしかするとあの遺跡公園で彼岸花が咲いているのを見ることができるかも……という頭もあった。

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 加曽利貝塚は、縄文時代中期(五〇〇〇年前)の北貝塚と、後期の南貝塚(約四〇〇〇〜三〇〇〇年前)でちょうど8の字の形になる、日本最大級の貝塚。二〇一七年の一〇月に国の特別史跡に指定されていて、貝塚博物館や貝層断面観覧施設のある遺跡公園として整備されている。正式名称は加曽利貝塚縄文遺跡公園。ここから出土された縄文土器は、発掘地点をアルファベットで区切っていたが、そのB地点から縄文時代後期(約三五〇〇年前)のもの、E地点から縄文時代中期(約五〇〇〇年前)の土器が出土していて、それぞれ、加曽利B式、加曽利E式と呼ばれる。これに似たものは主に関東地方で出土されており、土器の年代を推測するための指標となる標式土器となっている。土器は逆三角形に近いかたちのもの。

 公園には竪穴式住居の復元したものもあり、縄文ゆかりの植物も植えられている。博物館では今年は企画展として「写真で見る加曽利貝塚の万葉植物」(九月七日─十一月四日)が開催されていた。
 祭りは物販、飲食の販売、ステージイベント、縄文土器が当たる抽選会、火おこしや弓矢、縄文服の試着、ガイドツアーなど、盛り沢山。今年は人数を限ってだが、発掘調査体験も行っていた。現在、実際に調査している現場に入るという。
 十時開始だが、博物館は九時から開いているので、九時から十時の間に着くように、車で出発した。
 ほんの少しの雨。うちから千葉は意外と近い。首都高などを使うと一時間強ぐらいで着く。九時すこし前に到着したので、車の中で時間をつぶした。あの森、あの緑深いところが、貝塚だ。
 まだ祭りの準備中の加曽利貝塚へ。博物館にまっすぐに向かい、企画展や常設を見る。企画展は万葉植物のパネル展だったので、ざっと植物たちとそれにまつわる歌をながめた。この常設には、触ることのできる縄文土器片と、やじりなどの原材料となった黒曜石がある。さらに腕輪としてつかっていたオオツタノハ貝を腕にはめてみることができる。それらを順番にさわって感触を確かめた。そして土器や土偶を眺める。久しぶりだなと思う。土たちが感触ごと、わたしにしずかにやさしい。

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 十時すこし前に、博物館の外に出て物販エリアへ。まだ開店前であったが、一部のお店では販売が開始されていたので、さっそく購入した。土器風マグカップと、加曽利式土器の形の箸置きなど。これらは素焼き風だったので、なんとなく土器に近いものを感じた。ほかに、別の店ではTシャツ、手ぬぐい、縄文の人たちが食べていたドングリを使った食べ物、あと何だったかしら。ある店で、レジン樹脂で黒曜石のやじりをまねて作ったものが売られていたが、これはちょっと頂けないなあと思う。なぜ本物の黒曜石を使わないのだろうか。それがオリジナリティということなのかもしれないが、違和感があった。
 十時になり、いよいよお祭りが始まった。縄文土器(加曽利貝塚土器づくり同好会の方々が作ったもの)が当たるかもしれない抽選、発掘体験の抽選に応募したあと、ガイドツアーに途中参加した。また博物館の中に入り、説明を受ける。ガイドツアーに参加するのも三回目だが、毎年発見がある。今年は、千葉で発掘された土偶のなかに、なぜか遮光器土偶(部分)があり、東北から移住してきた人がいたのでは? という話を聞いた。そして、加曽利貝塚で大量に見つかっている小さな貝、イボキサゴ。前回や前々回に聞いたときは、ダシとして使われていたのではということだったが、今回は、細かく砕かれた跡があるものもあり、これはおそらく漆喰のように、壁を補強する目的で使われたのではというのが新鮮だった。
 さらに、現代人よりも身長が十センチほど低い縄文人だが、その骨は現代人よりも太いというお話。展示された屈葬されたかたちの骨を見る。たしかに力強い骨だ。
 円環ということに対して、強い思い入れがあったのではなかったかということも触れられていた。環状列石的なサークル。
 屈葬された人は胎児のような姿でもある。これも円環だと、ぼんやりと思った。
 ツアーの後、復元住居のほうで焼き栗を無料ふるまいしてくれるというのでそちらに行った。焼き栗は熱く、煤がついているが、殻をむいて食べると自然な甘さが美味しかった。おそらくここで作った縄文土器で焼いたもの。
 また、実際に復元住居で火が炊かれていたので、入ってみると、こちらではマテバシイだという、ドングリを縄文土器のなかで煎っていた。こちらも二つほど頂いた。香ばしい木の実だ。

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 ただ、復元住居、台風の影響だったのだろう、だいぶ傷んでいたのが気になった。屋根だったのであろう茅の類いが側に落ちている。そういえば、公園のあちこちで、太い木の枝なども散乱していた。
 焼き栗のふるまいが十一時。この後、急いで昼ご飯を食べて、十二時からのイボキサゴスープの無料ふるまいの列に並ぶ。例年おいしく頂いてはいるが、塩味が薄い。だがこれは当時の再現ならば仕方ないのだろうか。イボキサゴは小さな巻き貝で、身は取りづらいといえばそうだが、爪楊枝があれば、食すことができる。小さなサザエのようで、美味しい。前にも書いたが、わたしはこのイボキサゴ、この加曽利貝塚で名前を知る前から、名を知らぬかわいい巻き貝として大切に思っていたので、愛着があるのだ。

 今年はクラフト体験で、「黒曜石アクセサリーづくり」というものがあったので、珍しく参加してみた。黒曜石のネックレス。縄文時代に使われていた、あのキラキラした黒い光のやじり、ナイフ的なものを身につけてみたかったのだ。
 紐で網を作って、そこに黒曜石を入れてペンダントトップを作る。黒曜石は隠岐、長野、北海道、三つのうちから一つ自由に選べた。各地方で、少しずつ黒曜石の感じが違う。すこしくすんでいたり、はっきりとした黒だったり。個人的には長野のものがいちばんしっくりした。ガラス質の光を放って、わたしが黒曜石に抱いているイメージにいちばん近いというか。
 アクセサリーは今まで全く作ったことがなかったので心配だったが、なんとか完成させることができて良かった。子どもの頃から、基本的にこまごましたものを作るのが好きだったことも役立ったのかもしれない。
 ただ、所用時間が四〇分から一時間ということだったが、それ以上かかってしまい、連れ合いを待たせてしまったのがちょっと申し訳なかったが。

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 そうこうするうち、祭りはほぼ終わり。ちなみに抽選でもらえる土器、発掘体験、どちらも当たらなかった。だが参加するだけで楽しかった。発表を待つとき、それでもすこしドキドキしたし、その感触が新鮮だったので、それだけで良かったのだ。
 施設は土の匂いがした。くすんだような温もり。断面は自然と人がつくった美しい作品のようで、心にしみる。貝たち、イノシシの骨、土器もまざっている。

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 公園内の彼岸花はもうすっかり終わっていた。アザミが咲いていた。ムラサキシキブの紫の実が色付いていた。これが今日みたリアルな万葉の植物なのだなあと思う。去年はたしか、リンドウを見たのだったっけ。

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 毎年、このお祭りに行くと新しい発見がある。だが、それは本当はどこででもそうなのだ。
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2019-09-01

夏と秋が交差して調布市郷土博物館など

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 もう九月、秋といっていいのだろう。八月下旬から風が変わった。秋の気配というか、暑さのなかにも涼しさのようなものが感じられるようになった。
 数日雨が続き、その後、急に秋が来たような感じだった。
 幾分過ごしやすくなってきたなあと思いつつ、終わりゆく夏にいちまつの寂しさを感じてしまう。
 春、夏は好きな季節なのだ。世界がはじまり、盛り上がって、いくぶん停滞して。それが春と夏。秋はおわりのはじまり、冬は、どこか暗いものを感じてしまう。ねむっているような、はじまりを待っているような。それがおわりということなのかもしれない。
 もっとも、夏の暑さをきついなあと感じてはいるのだが。この夏はとくに。意外と夏的な暑さが短かったからかもしれない。身体が夏に慣れる前に、猛暑がやってきた。その猛暑がだらだら続くなあと思ったら秋の風が。
 うちの近くの田んぼを再現した公園を通ると、稲穂が垂れており、用水路には落葉があり、すっかり秋の気配で、驚いた。なのに夏の暑さ、蝉時雨。あれはミンミンゼミだっただろう。秋と夏が混在していた。

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 それに、すこし前にサギ草を展示していたお寺ではもうコスモスが咲いていた。汗ばみながら、ここにも秋を感じていた。
 そんな八月の下旬のある日、うちから割と近いところに調布市郷土博物館があると知ったので出かけてきた。
 多摩川にほど近いところにある。駅でいうと京王多摩川が最寄り。対岸は、ホームセンターなどがあるので、よく出かけていたのだが、こちら側はほとんど通りすぎるだけで、知らなかった。車で行ったのだが、わかりにくい。というか、進入禁止が多く、博物館は目の前にあるのに、行くことができないのが、なんだか笑えた。ぐるりと遠回りしてやっと入る。
 昭和四九(一九七四)年に開館したという。建物が落ち着いて、親しみやすい。調布市のある武蔵野台地、多摩川周辺には、縄文時代の遺跡も多数あると、どこかで聞いたので、常設にあるであろうそれを目当てに行った。

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 常設は二階。一階では企画展をやっていた。そして入口すぐのところに新選組局長近藤勇の座象と、閲覧スペースに新選組関係の書物。そうだった、近藤勇は調布が生誕地だったのだ。当時の武蔵国多摩郡上石原村辻(甲州街道上石原宿の北方)、現在の調布市野水。
 先走ってしまうが、二階の常設に、近藤勇生家の宮川家のジオラマ模型の展示があった。屋敷の広さは七千平方メートル、広い庭の中に母屋に数種の倉に納屋と、模型からも豪農だったことがうかがえる。
 パンフレットなどには、近藤勇のことはあまり載っていないから、これら(特に一階の閲覧コーナーなど)はもしかして、大河ドラマ(二〇〇四年の『新選組!』)かなにかの後に展示されるようになったのかもしれない。
 と、近藤勇に思わず食らいついてしまったのは、小学生の頃から、新選組副長の土方歳三が好きだったから。
 そうだった、多摩川、浅川(多摩川の支流)という名前は、かつて土方歳三ゆかりの川として、特別の語感として響いたものだった……。
 今、多摩川のわりと近くに住んでいて、買い物の途中などに眺めることが多くなり、そのことをほとんど忘れていたのだが。とはいっても、車で橋を渡るとき、多摩川の流れにほかの川以上の何かを感じていたのは、もしかすると、その記憶がまだ心の奥からしみ出してきていたからかもしれない。
 土方歳三の生まれたのは武蔵国多摩郡石田村(今の日野市石田)だから、多摩川でいえば、調布よりももっと上流にあたるのだけれど。
 話が脱線した。
 調布市郷土博物館へ戻ろう。
 企画展では「お米にまつわる調布ものがたり」(九月一日まで)が開催されていた。多摩川の氾濫などがあったり、湧水もあり、水分が多い土地で、田んぼ作りには適さないので、そこでの工夫の紹介があった。深田で、「泥っ田」というらしい。田んぼの上に丸太を浮かべその上に足を載せて苗を植えたり、大きなカンジキを履いて沈まないようにして稲を刈り取ったり、田舟という、刈り取った稲を運ぶ舟を作ったり。
 この調布市郷土資料館の周囲もかつては田んぼだったという写真も展示されていた。
 そして、お目当ての二階の常設展示室へ、
 武蔵野台地に人が住み始めたのは約三万年の旧石器時代で、縄文時代のムラとしては、特に縄文中期(約五千年前)のもの、原山遺跡や飛田給遺跡などがあるらしい。さらに晩期のもので、下布田遺跡など。
 
 原山遺跡にほど近い北浦遺跡出土の「縄文土器深鉢・勝坂式」(縄文中期・紀元前三〇〇〇年前)。先日、町田市民文学館ことばらんどで、覚えた勝坂式土器の特徴である「動物や植物をモチーフにした」もので、鎌首をもたげたヘビのような装飾が土器の中央から口縁にかけて施されたものが印象に残った。
 原山遺跡出土の人面装飾付彩文有孔鍔付土器(縄文中期・紀元前三〇〇〇年前)の土器の胴部下のほうにある土偶のような人の顔の意匠……。用途は不明らしい、太鼓として使ったとか、酒造りに使われたのかも、とあった、
 ヘビのような、人の顔のような……。この“ような”というところの謎に、あるいは惹きつけられるのかもしれない。この謎に、おそらく大切ななにかが埋め込まれている。それは連綿と今につづくものであろう。わたしとかれらをつなぐ糸でもある。
 ほかに怖いような小さな土偶たち(原山遺跡出土)、土製耳飾(下布田遺跡出土)の精緻な模様に見入った。

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 庭に出てみると、かつて川にかかっていた石橋と庚申塔があった。庚申塔というのはわたしは実はよく知らない。近くにあった記憶がほとんどないのだ。こうした博物館とかで見るだけのものになってしまっている。そのことをすこし寂しく思う。
 出かけてから一週間が経つ。もう九月に入った。うちの近くの田んぼの稲もすこしづつ色が変化している。あと少しすると収穫なのだろう。気の早いヒガンバナの花が咲いているのも見た。基本的に彼岸のあたりに咲くはずなのだが。その前日におなじヒガンバナ科のキツネノカミソリを見たばかりだった。こちらは八月に林の中などで咲く。もう終わってしまったかなと、林の中をはいっていったら、枯れつつあったが、一本だけ見つけることができて、うれしく思ったのだった。夏の名残。キツネノカミソリとヒガンバナ。夏と秋が交差している。

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17:38:42 - umikyon - No comments

2019-08-15

異質たちの混在。縄文時代をよむ、ことができるかしら町田市民文学館ことばらんど

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 立秋も過ぎたけれど、今年の夏は始まりが遅かったので、まだ夏本番のようだ。残暑という感じがしない。
 立秋の日の翌日の夕方、国分寺崖線にあたる坂を自転車で通ったとき、ヒグラシの声を聞いた。今年初めてのカナカナ。坂の両側は斜面に残った少しの林、そして湧水。
 ヒグラシの声を聞くと、夏なのだなと実感する。
 どこで見つけたのだろうか。最近訪れた博物館などではなかったから、ネット検索などでだったのだろう。町田市の町田市民文学館ことばらんどというところで「縄文土器をよむ 文字のない時代からのメッセージ」(二〇一九年七月二〇日─九月二三日)という企画展を開催していると知ったので、出かけてきた。

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 町田市では、町田国際版画美術館、町田市立博物館にいったことがある。だが、町田市立博物館は今年の六月に閉館してしまったとのこと。出かけたことのある場所が閉館というのは少しさびしい。
 今回の町田市民文学館ことばらんどでの展示に、市立博物館所蔵のものも一部出品されているらしい。あとの展示はおそらく町田市考古資料室のものなのだろう。
 この施設は行ったことがなかった。文学館の展示ということで、申し訳ないが、あまり期待していなかった。入場料も無料なので、簡易的な展示だと思っていたのだ。
 電車で一人で行こうかと思ったが、暑さに負けて車で連れて行ってもらった。近くの駐車場に止めて、歩く。最初、裏口に行ってしまったりして、すこし迷ったが、表に回るとレンガ造りの建物が、やさしい印象だ。レンガは土系の色合いのせいだろうか、なんとなく落ち着く。一階は資料閲覧など、二階で企画展が行われていた。
 二階にあがってみて、びっくり。入口から見ただけでも、縄文土器などが、多く出品されているのがわかった。最初に町田市教育委員会の「ごあいさつ」のパネルがあり、章立てもされて、かなり本格的な展示、企画展、うれしい驚き、ごめんなさいだった。
 チラシやHPなどから。これは「ごあいさつ」の文章をつめたものといった感じ。
 「町田市には、一〇〇〇カ所以上の遺跡があり、特に縄文時代の発掘資料は全国でも有数の質と量を誇ります。近年、縄文土器の個性的な造形が注目されており、町田からもそのような資料がたくさん発見されています。
 土器はもともと調理道具ですが、なぜ縄文土器には過剰なまでに装飾が加えられたのでしょうか。文字がなかった縄文時代ですが、きっと土器のカタチには縄文人が強く表現したかった何かがあったはずです。この展示では、縄文人が土器の形にどのようなメッセージを込めたのか、いわば町田で最古のことばが何であったかを探ります。
 あわせて、町田を代表する縄文資料もたくさんご紹介いたします。数千年前、実際にこの地域でつくられ、使われていたものから、町田にあった素晴らしい縄文文化を感じてください。」

 展覧会は、ことばらんどで扱うから、最古のことば、文字のなかった時代の土器が土偶に、ことばを見出そうとするという、一環した、テーマにそったものとなっている。
 展示は三部構成、一部は「縄文時代の表現」。そのなかでも章立てされ、最初は「縄文土器の装飾」。はいってすぐに、惹かれている系列の縄文土器があった。縄文中期(約五三〇〇年前)の深鉢で忠生遺跡B地区(根岸町)。キャプションには「頭にヘビを乗せた想像上の動物?精霊?」とあったが、どうなのだろう。正面といっていいのかわからないが、それっぽいとして、顔のようなものとうねうねとしたヘビっぽいものが複雑にからみあっている。後ろはヘビの尾のようにも見えるが、やはりそう断言してはこぼれてしまうものたちがあまりにも多い装飾がほどこされている。
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 わたしが惹かれている系列と書いたのは、二〇一八年に東京国立博物館の縄文展で見た《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市御殿場遺跡出土、縄文時代中期)や、『縄文聖地巡礼』(坂本龍一・中沢新一、(株)木楽社、二〇一〇年)に載っていた《人面香炉形土器》(曽利遺跡出土、縄文時代中期、井戸尻考古館蔵)だ。表がおだやかな女性らしい姿で、裏がたくさんのヘビがうごめいているような怖さがあり、表と裏で趣がまったく違うもの。なのにひとつの土器として破綻なく、凝縮の存在としてそこにある……。
 どこかでも引用したが、好きな言葉なので、また前掲書から。「縄文の人たちは、美人を見ても、同時にその後ろに蛇を見る感覚をもっていた(中沢)」。
 今回見た深鉢はそれほど明確に裏と表で分かれてはいないが、異質なものたちが混在しているという点では同質だと感じた。静と動、昼と夜、死と生……。分離しないものたちが、土器のなかでうごめいている。

 「縄文時代の表現」のパネルに、「なぜ、縄文人はムダともおもえる装飾や模様を土器や土偶、石器などにつけたのでしょうか」とあった。たしかにコトバ的な要素がそこにあったのだろう。けれどもコトバ以上のものたちが、そこにはあった。文字がなかったからこそ、文字以上のもの、表現がエネルギーをときはなち、土器や土偶に凝縮していった。それはコトバ以上のなにかなのだ。
 日常で使ったであろう土器が、なぜあんなに装飾的なのか、なぜ惹かれるのだろうと、ながらく自分にも問いかけていた。
 それだけではないだろうけれど(断定のコトバからは何かがこぼれてしまうから)、ひとつには、異質たちが混在しているように、日常に非日常的なものが混在している、その在り方に惹かれているのではなかったか。
 展覧会では、このあと、土器や土偶の展示が続き、装飾について考察されている。ヘビやイノシシ、トリの顔、数字の概念、植物、幾何学的模様……。どれも解説のコトバとしてしまうとそうかしら?と思うものもあったが、土器や土偶としては、しみるものが多かった。
 ところで、個人的なことを。縄文関係の展示などで、よく勝坂式土器ということばを眼にしていた。加曽利式土器のような、時代や場所、特徴を表わす分類の一つなのだろうなと思っていた。そのとおりなのだが、「勝坂式と呼ばれる中期(約五〇〇〇年前)の土器には、動物や植物をモチーフにしたものや、円形、三角形、方形、渦巻など幾何学的なものも多くみられます」とパネルにあった。
 あとでウィキペディアを見たら、「関東地方及び中部地方の縄文時代中期前半の土器型式名もしくは様式名」で、「隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である」とあった。
 わたしが惹かれる系列のものたちは、勝坂式のものが多かったのだ。

 展覧会は、このあと第二部として「縄文時代の暮らし」へと移る。復元された敷石住居跡の展示があったことに驚いた。忠生遺跡D地区の中期(約四五〇〇年前)の実物大レプリカ。敷石住居とは、解説によると「中期の終わりごろから出現する床に石を敷いた竪穴住居」のことだとか。背景画(森山哲和氏とあった)があり、住居内として、縄文人二人が生活する様子が描かれているのが、より想像をかきたてられた。

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 そして「食べる」「祈る」「着る・飾る」と章が続き、三部目は「土器から見る町田の縄文時代」として、草創期から晩期までの縄文土器の変遷がわかるものとなっていた。
 わたしは勝手な素人だから、装飾的な中期から後期のものがやっぱりいいなあと見ていた。。

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 ここで、町田市の縄文キャラクター「まっくう」の元となった土偶の頭の展示があった。この土偶は閉館した町田市立博物館の展示で見たことがある。「まちだ今昔展─時空を超えた対話 縄文ムラと商都」(二〇一八年七月一四日─九月一七日)。去年の九月だったのか。数年前のような気がしていたが。「中空土偶頭部」(田端東遺跡出土、縄文後期(三四〇〇年前))。国宝の北海道函館の「中空土偶」と顔も造りが類似していて、あちらの愛称が出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」によって「茅空(かっくう)」にちなみ、町田の「まっくう」と称している。
 再会したことがうれしかった。この土偶が出土されたのが、東京都指定史跡の田端環状積石遺構というストーンサークルのすぐ近くなので、この場所での祭祀と関係があったのではと解説にあった。

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 この展覧会は、写真撮影が可ということなので、一通り展覧会を見てまわったのち、二巡目に写真を撮った。展覧会の図録のようなものがなかったので、その代わりといった気持ちが大きかった。出品されているものの他に、案内やキャプションまで。写真を撮ることは本来あまり好きではなかったが、こうした撮り方はありかしらと今更思った。
 名残惜しかったが、次の場所へ。ここから車だと、やはり去年訪れた、市立博物館の隣の東京都指定史跡の本町田遺跡が近いのだ。
 前回は電車で一人で行ったが、道を間違えたことを憶えている。今回は車だったが、連れがこんな道を行くのかと、ほそい坂道をナビで案内されたことに驚いていたのが、なんとなくおかしかった。このあたりはわかりにくいのだ。坂をのぼって、降りて、また登って…、坂下に川があった。恩田川とある。縄文人は水のあるところの近くに住んだ。そして坂の上に、最初に博物館。まだ閉館したばかりなので、建物は残っている。いずれは解体してしまうのだとか。去年、閉館前に、展示が見ることができて、それでも良かったと思う。
 博物館を過ぎてすぐ、というかほとんど隣接して本町田遺跡。縄文時代と弥生時代、両方の住居が発見、復元された貴重な遺跡だ。復元された住居が縄文、弥生、それぞれ一つ、あとは住居址として場所が固められている。

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 去年訪れたときは、ツルボが咲いていたなあと思い出す。九月だからまだ暑かっただろうに、暑さはそれほど記憶にない。今回はものすごい暑さ、それよりも、陽射しが強い。午後四時を回っているのに。
 その折も書いたが、竪穴式住居の違いはほとんどわからない。縄文時代のものは丸太そのまま、弥生時代は木材の加工が見られるそうだ。
 両方とも中に入ることができる。弥生時代のものは、ライトがあったが、縄文時代のものは、なかった。だが天井に明かりとりとして開いているところがあり、さして暗いと思わなかった。扉がないから、入口から陽が差し込んでいるし。どちらも定期的に燻されているのだろう。すこし香りがした。それに外は暑かったが、中は存外涼しい。

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 また来ることができて良かった。
 帰り道に、鶴見川を通った。そうだった、先に見た恩田川とこの鶴見川が、縄文時代の人々にとって大事な水の供給源だったのだったっけ。
 日が暮れるのが、夏至の頃から比べると幾分早くなった。多摩川を過ぎて、野川を過ぎて、また国分寺崖線下を通る。この坂上も縄文時代や古墳時代の遺跡があったのだと、いつものとおり思う。
 家に帰って、近くの農家から買った枝豆をまたゆでて頂く。まだ、というべきか。夏の間、数軒で枝豆が売っているのだが、もう売っているのは一軒だけだ。これもまもなく終わるのだろう。立秋すぎても暑い。けれども、こんなふうに秋になってゆくのだろう。
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2019-08-05

ちかしいもの、よそよそしいもの─朝顔、サギ草、港区郷土歴史館

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 うちのベランダで、五月に種を蒔いた朝顔たちが、今を盛りと花を咲かせているのがうれしい。
 青、空色、濃い赤、団十郎に近い茶色がかった桃色。それにしても暑い。やっと夏だ…。朝顔たちは、水を特に欲するようなので、朝晩二回、水やりをしている。こうやって季節とふれあっているのだなあとぼんやりと思う。
 
 お隣の家の飼い猫なのだろう。六月下旬から、マンションの駐輪場で、親子の猫をよく見かける。七月終わり、八月に入り、だいぶ子猫も足腰がしっかりしてきた。

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 金曜日に、港区立郷土歴史館にいってきた。先日訪れた水子貝塚公園史料館にチラシがあったのだ。「港区と考古学」という特別展を開催中とのことだった(七月二〇日─九月二三日)。

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 わたしは以前港区に住んでいたことがあった。もう二十年ぐらい前。郷土歴史館のある白金台といえば、自然教育園という公園に、自転車で毎週末のように出かけていた、なじみのある場所だった。そしてかつて住んでいたところの考古学、とくに貝塚などがあるとのことで、行ってみたくなったのだった。わたしがかつていたところは、どんな場所だったのだろう。
 ただ、港区郷土歴史館、あのあたりの土地勘はあるはずなのだが、地図でみても、いまいちピンとこなかった。訪れてみて納得した。元は公衆衛生院だった建物を複合施設として保存活用していて、郷土歴史館は、その中の一つとして、二〇一八年十一月にオープンしたばかりの、比較的最近の施設だったのだ。
 その多少の古い土地勘のため、普段と違ってほとんど予備知識なく出かけたので、白金台の駅に降りて、ずいぶんと立派な、かなり大きい建物がそびえ立っていて、その姿にまず驚いてしまった。今まで訪れた郷土歴史館、郷土資料館的な施設は、もうすこし地味か、奥ゆかしいものだった。入館料も無料だったり、せいぜい二〇〇円ぐらい、総じて敷居が低い感じがした。だが、眼前にある建物は荘厳で、派手で、建物見学は無料だけれど、常設+企画展は値段が高く(常設三〇〇円、企画展四〇〇円、セット券六〇〇円)、その値段に、外観からして、なんとなく納得した。

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 企画展も常設展も、自動改札みたいに、QRコードで出入りする。そして展覧会は……個人的にはいまいちだった。考古学なのに、紙資料の展示が多く、発掘されたものの展示がすくない。なのでイメージがわかない。
 常設展も、タブレットを駆使したりして、それが今風だったが、どこかよそよそしい。港区には、伊皿子貝塚など遺跡も多く、その貝層や、発掘された土器片などもあったのだが……。ただ、常設展の解説で、港区は小さな起伏が多く、高台が拡がっているという場所がなかったので、大規模な縄文集落が存在しにくかったとあったことには合点がいった。わたしがかつて住んでいたのは坂下だったが、とにかく坂が多いところだった。どこにゆくにも坂を越える。降りて、登って。きつい坂はつきものだった。起伏の多さ、そのことにだけ、かつてとのつらなりを感じた。
 また、企画展はともかく、常設も写真撮影禁止というのも、残念だった。
 ただ、無料のコミュニケーションルームだけは写真撮影も可で、鯨の骨格標本や、縄文土器、やじりなどにふれることができるという。
 そちらにいったが、もうしわけないが、スタッフの方が多すぎた。いちいち、さわりませんか、浮世絵をごらんになりませんかと、声をかけてくるのに、少々辟易した。といっても、縄文土器や、貝層、黒曜石などにはさわったのだけれど。

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 わたしが古い人間ということなのだが、郷土資料館的なところに、あまりデジタルを駆使してほしくない、不似合いな気がした。だいいち、タッチパネル、さわっても、紙でも十分なことしか表示されていなかったし。デジタルでかつてのなにかを再現したり、そうしたことは、必要だと思うのだけれど。
 せっかくのひさしぶりの港区だったのに、あちこち、よそよそしいなあと思いつつ、館内をあとにした。同じ歴史的建物でも、近くの庭園美術館のほうがやさしい。
 その隣の敷地の自然教育園に足を運ぼうかと思ったけれど、閉館が四時半で、あと四〇分ぐらいしかない。敷地内は広いので、入るには微妙な時間だったから、あきらめ、別の用事のため、白金台から都営三田線で田町駅(三田駅)に向かった。
 田町のあたりは、港区に住んでいたときも、あまり訪れたことがない。白金台はそれでも、前述の庭園美術館などに、越してからも足を運んでいたが、田町はもうずいぶん長いこと行ったことが無かったから、駅に着いて、街の景の、かつてとの違いにびっくりした。浦島太郎状態といえばいいのか。まるで、面影がない。当時は、高い建物もあまりなく、都内にしては、地味な親しみやすい場所だったが、きれいになっていて、画一化されて、ビジネス街といった感じだろうか。地図を見るともうすこしゆけば運河だった。そちらまでゆけば面影を感じることができるかしらと思ったが、暑かったし、ここにくるまで、だいぶ歩いていたので、気力がなかった。
 用事をすませ、家人と待ち合わせして、田町駅前で飲食した。夜になって田町の裏どおりをすこし歩く。この感じは、同じだなあと、すこし面影を見いだした。息づくなにか、変わらないもの。
 次の日の土曜、うちの近所のお寺の前を通りかかったら、「今年も世田谷区の花、サギ草が咲きました」と看板があった。毎年境内で、咲いたサギ草の鉢植えを展示公開してくれているらしい。そのことを去年知って、今年はまだかしらと、実は心待ちにしていたのだった。
 たかだか一年前のことなのに、もう咲く時期を忘れてしまっていた。なんとなくせたがやホタル祭りとサギ草市が開催される七月中旬が開花時期だと、勝手に勘違いしてしまっていて。
 去年の日記を調べたら、ちょうど八月の同じ日に、サギ草のことを書いていたのがおかしかった。
 辺りはうんざりするほど暑かったが、サギ草を眺めているとき、暑さを完全に忘れていた。時間にして五分十分だったが、ずいぶん長い逢瀬だった。涼やかに飛びたつように小さなサギたちが咲いていた。カメラに収めようとすると、ほんの少しの風でも、羽たちが動くので、ぶれてしまう。そのぶれてしまうことが、かえって、鳥のはばたきのようで、いとしかった。
 同じ土曜日の朝、無人販売の枝付き枝豆を購入した。枝付きどころか根付き…。もうだいぶ枝豆の色が悪くなっている。この夏もだいぶ枝豆を購入して、おいしく頂いたが、もうそろそろ終わりだろうか、夏らしい、いや、暑すぎる夏が来たばかりだというのに。
 セミがマンションの渡り廊下で仰向けになって、動かなくなっていた。また緑深い崖の下の交差点で、比較的大きな雌のカブトムシが動かなくなっているのも見つけた。
 死んだのちに、存在を知るなんてと、そのことを残念に思う。カブトムシは、クヌギやコナラのあるあの森で育ったのだろう。
 わたしは、今の生活に、こんなふうに、親しんでいるのだなと思う。かつてもきっと、あの場所で、そうだったのだろう。よそよそしくなったのは、わたしのほうなのだ。

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00:01:00 - umikyon - No comments