Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-01-26

鈴はさやふる…


 彼に数ヶ月ぶりに会った。生の深いところに触れてきた(あるいは渡ってきた)ことからくるのだろう。やさしげに、うれしげに、ときにわらい、だがおおむね音のない世界でのできごとだった、から疎通が困難だったこともある、が、それは二の次で、彼がいまあること、その重みというのだろうか、わたしがしっていたどんな彼よりもやわらかな、澄んだ、まなざしになっていた、から、それが距離となっていた、とかんじたのかもしれない。わたしは近づきたかった、彼もまたさしのべて。彼が以前薦めてくれた『梁塵秘抄』の一節が重なるのだった。「遊びをせんとや生れけむ/戯れせんとや生れけん/遊ぶ子供の声聞けば/我が身さへこそゆるがるれ」。わたしの知るかつてから、いまもまた、それはわたしが彼からうける印象そのものだったから。いまもまた、だからこそ重いのだ。音のない世界、といったが、たがいに触れ合う、触れ合おうとすることで、音たちは見えてくるものが多い。だから会話のなさが原因なのではない。それはわたしの軽さが原因なのかもしれない。生の深淵がふっと脇をかすめた、というほどもなく、ただ遠い息づかいを、風のなかに聞いたのだ。ここで、このわたしの生の場所で。
 彼とまたしばらく会えない。別れ際、握手をした。それでもなにかが通ったのだ。彼としばらく会えない。わたしは祈ることができない、祈ることをしらない。あの重さに対して、軽いわたし、生を通り過ぎんばかりのわたしが、彼になにをいえばよいというのか。なつかしそうに(つまり人恋しげに)、わたしを、というより、わたしをふくむすべての世界をみつめる、彼のまなざしがいたいほどだった。数ヶ月ぶりに彼に会った。音のないわらいから、鈴の音がひびいてくる。「鈴は亮(さや)振る藤太巫(みこ) 目より上(かみ)にぞ鈴は振る/ゆらゆらと振り上げて 目より下(しも)にて鈴振れば/懈怠(けたい)なりとて ゆゆし 神腹立ちたまふ」(『梁塵秘抄』)。
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