Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-05-31

ひらたい岸


「アニメーション漫画とは、不可能性の詩にほかならない。そこにこそその高揚と、ひそかな憂鬱とがある。現実を故意に侵犯するこの作り物は、事物の締めつけからの胸躍る解放である一方、同時に、単なる幻影、死を出し抜こうとする悪あがきにすぎない。そのようなものとして、それはあらかじめ挫折を運命づけられている。それでもなお、現実の締めつけを叩き壊すこと、宇宙の蝶番を外して不可能なものを流入させることはどうしようもなく重要なのだ。なぜならそうしなければ──そうしなければ、世界などただの社説漫画でしかないのだから。」(スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』白水uブックス、柴田元幸訳)。
 一九二〇年代のアメリカの漫画家の物語。このことばは、先日観た『エレニの旅』(テオ・アンゲロプロス監督。この映画については<上海異人豹館>で書いている。)と重なる。蝶番を外して、たとえば国境をわたること。挫折を運命づけられているものとして生きること。そうではないかもしれない。これらのなかで語られているちいさな生はわたしたちだ。わたしたち個々の生にたぶんかさなるのだ。彼(漫画家、フランクリン・ペイン)の緻密なつづれ織りを、エレニの真摯な叫びを過小評価しているわけではない。だが、悪あがきにすぎない、ことの重要性とは、特別なことではないのだ、たぶん。
 本のなかで、わたしたちは透明人間のように物語のそこここにいる。行間をわたることができる。映画のなかでもそうだろう。寺山修司が、映画館の暗闇のなかで、わたしたちがするまばたきによって、わたしたちはフィルムに自分を挿入しているのだ、といっていたと記憶する。だが、そこでわたしたちは彼の生に関与することはできない。エレニの生にふるえることができたとしても、せいぜいそれだけなのだ。だがそれは必要なことだ。世界などただのひらたい岸にすぎなくなってしまうだろうから。
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2005-05-28

ペニー・アーケード


 彫刻家コンスタンティン・ブランクーシが、僕は子供のままだ、といっていたとふと思い出す。失われたものと子供時代はよく似ている。原風景とは失われたものであることから出発している。ブランクーシが子供のままだ、というとき、原風景を保持しようと努めている、といったことを含んでいたのではなかったか。
 といったことを、スティーブン・ミルハウザーの『イン・ザ・ペニー・アーケード』(白水uブックス、柴田元幸訳)を読んで思ったのは、ミルハウザーの描く人物もまた、子供時代のなにかを探す、あるいは持ち続けようと、さまよう人々だからだ。過去の時代へと追いやられてゆくからくり人形、それをつくる芸術家である「アウグスト・エッシェンブルク」は、その子供時代にうけた出来事から語られることにより、二重に失われて行くこと、そこにとどまることが描かれている。表題作の「イン・ザ・ペニー・アーケード」(ペニー・アーケードとはたとえば射的やピンボールマシン、覗き箱など、1ペニーで遊べるものが並んでいる場所)でも、二重に失われた場所(現実的にも、自身の歳月としても)として、彼が探しもとめることでだけ、保とうとすることでのみ、たぶん匂いがやってくる、と悲しみをこめて語られている。それは甘美なすべて、だから。そこから追い出されたと思うのはまちがいで、自らが出てしまったものだから。匂いは記憶を呼び起こすという。香りの糸のようにかすかな感覚をたどること。
 先に書いたルネ・ラリックの作品は、いまでもアンティークとしてではなく、ラリック社の商品として、買えるものだ。香水瓶、花瓶、グラス…アール・デコの時代から、つらなりながら。過去につながっている、その一端にはたとえばからくり人形が息をしていた時代があるだろう──。その錯覚めいたかたちが誘うのかもしれなかった。
 それは懐古ではないだろう。すくなくともミルハウザーの想像力は、さまようことで豊かだった。同じ本に納められた「東方の国」では瞼に絵を描く瞼絵が職人がいる。ちいさな箱のなかに、だれもみることのできない緻密な迷路があり、黄金の男が住んでいるという玩具。それらはみえないだけでたしかに存在するのだった。その場所をいとしむこと。
00:47:02 - umikyon - No comments

2005-05-17

月蒼


 エミール・ガレ展が江戸東京博物館で今年一月から三月までやっていたが、いかなかった。のは、まだこころがふさいでいたからだ。わたしは、ガレの装飾過多のランプが好きだったのだが。
 ふさぐ物質がはじめておもくのしかかってきたのは、三年前になるだろう。直接的に傷をつけてくるものがあったが、それはきっかけにすぎなかった。それにより堰を切ったのだが、おそかれ、はやかれ、だったにちがいない。それは世界を曇り空にした。悲しみにくれているときには、気候がわからない。それにも似て。いや、重いものが辺りを鈍い色でみたした。わたしはそれごしに外を、うすれた色をみている…。
 ぜいたくな病だ、とどこかで思っていた。ほんらいの苦しみがのしかかってきているとき、こんな物質はたちいるすべがないだろう、と思っていた。ほんらい苦しみ、がどんなものであるのかしらない、あるいはわすれた。だが、その切実さのまえで、わたしたちはなんとか耐えようとする。そうしなければ生きてゆけないのだ。
 ふさぐ重みがすこしでも晴れていった、そのきっかけとなったのは、だがそれでも悲しみだった。一年前になるだろう。わたしはそれを悲しみといっていいのかわからない。鈍痛のなかで、だったからか、それでも曇り空が、毒のように世界をしびれさせていたから、だったからか。悲しみがすくなからずそういう性質のものだから、なのか。ともかくそれは、それでも孔をあけたようだ。ちいさな痛みとして、晴れ間というのではなかったけれど、これまでの曇天から、空の青をちいさく見せはじめたのだった。ほとんど気づかぬうちに。
 重さは生きる意力をも磨耗させてゆくものだった。重みは、楽しみを、ほとんどの喜怒哀楽をうばってゆく。わたしはおっくうになっていった。全身がしびれたまま、それが常態になってしまっていた。あたらしいものがこわかった。ふるいものは興味がなかった。外がみえなかったから。それはなかばねむっている状態だ、あさいねむりが続いている状態だった。覚醒がなかった。すきだったものは、すべて、曇り空のかなたにいってしまっていた。心はその鈍いものにひたされ、ふたをされ、そのまま、息をすっていた。はいていた。
 そして、その孔が、悲しみといっていいものが。わたしはそれがやってくるまで、生きることすらおっくうになっていた。だから、逆にすこしずつ、這い出すようにして動き始めたことを不思議に思っていた。なかには間違えた方向があったにせよ、それらはすべて生きようとする態度であった。痛みはまだ曇っていたにせよ、空がみえはじめたのだ。
 悲しみと重さの状態がつづいた。そして? うっすらといえていった。薄曇りになっていったのだろうか。ものごとにたいする好奇心はなかなかもどってこない。悲しみはいやおうなしに穴をあけてくるパワーがあった。だが、楽しみは、いやおうなしにはゆかない、ということもある。悲しみは信じる間もない、だが、楽しみは信じられない、信じることがこわいのだ、ということもある。この楽しみは、堰をきったきっかけと表裏をなすことである、ということにもとうに気づいている。そして悲しみもまた。関連づけられる。それらにはすべて他者と孤独ということが介在している、から。
 まだ、おそらく、まったく晴天ではない。それでも悲しみと楽しみがつながっている。悲しみから楽しみに受け継がれたものが、たぶんあるのだ。孔はすこしは拡がったのだろう。
 ガレ展はいかなかったけれど、ルネ・ラリック展にでかけた(3月30日─4月11日、日本橋高島屋)。ガラスはこんなにもやわらかいのだ、ということをガラスに浮彫りになった彼女たちは教えてくれるのだった。オパールセン・グラス法という技術でつくられた、オパールの乳白色に蒼をちりばめたようなかがやきが、人肌のように温かだった。今のわたしには、ガレよりもここちよいのかもしれなかった。ガレの派手な色彩、ランプたちのもつ幻想が、色がありすぎてとまどってしまいそうにもおもえた。たとえは妙だが、ガレは太陽のようにまぶしい(ガレは決して太陽のような真昼の明るさはないのだ、それは夜のもつ絢爛だ)。対してラリックは月の光のようだ。ラリックのおさえた色彩になら、曇り空におおわれていた眼にもやさしいのかもしれなかった。
<「こよいはなんとお美しいことだ、サロメ王女は!」「お月さまをごらんなさいまし! (中略)お墓から抜けだしてきた女みたい。死んだ女みたい。まるで屍をあさり歩く女みたい」「(中略)鳩みたいなかわいらしい白い足をした王女のようだ。踊りを踊っているとしか思われぬ。」「死んだ女みたい。たいそうゆっくり動いております。」(『サロメ』オスカー・ワイルド)>。月が交錯してゆくのだった。
22:54:54 - umikyon - No comments

2005-05-09

運河


 静謐な水面に映った建物。わたしはそれを見て、場所を失うのだった。フランドルの街にわたしがいる、その錯覚もまた高揚感をもたらすのだけれども(旅行をしなくてもその土地にのまれ、たたずむことができるのだと思った)、なにより運河が水底すらともなってやってきたのは、画家とある種の共有が生じたからなのだ。彼のとらえたものにふるえること。《フランドルの思い出―運河》(フェルナン・ クノップフ、一九〇四年/ベルギー象徴派展 4月15日―6月12日 Bunkamura ザ・ ミュージアム)。
 この景のなかで、他にも思ったことが、ひとつふたつある。ひとつはクノップフの水面に見据えられながら、似たような(だが最初だったからか、もっと強烈ではあったが)感触を思い出したこと。水がどこかでつながった。国立西洋美術館にあるモネの《睡蓮》(1916年)。ずいぶんまえだ。なにかほかの企画展を見て、ついでに常設をのぞこうか、くらいの気持ちで、画のまえにたった。そして瞬間と永遠がやってくる。釘付けといっては軽いのだ。水の圧倒的な高揚のなか、画家がわたしにやってきた。睡蓮の茎のねばつく感触そのものになったようなしびれもあった。絵がひたすのではない、絵をとおして、画家の眼がわたしの眼になった、その一体感をともなった喜びなのだ。その感触、感覚はつづかない。わたしはわたしとして生きるから。だが思い出すことはできるだろう。いや、こんな風に、クノップフの絵をとおして、のように、あらたな出会いのなかでのみ、思い出は刷新されるのだ。
 もうひとつ思ったのは、わたしはこれまでクノップフにはどちらかというと、人物を描いたものに惹かれていたのではなかったか、ということ。
 今回いった展覧会では展示されていなかったが、《愛撫》(1896)の青年に頬ずりするスフィンクスの恍惚。だがスフィンクスはとじている。青年と心をよせていない。その一方通行が、《眠れるメデューサ》(1896)の鳥のようにひとりである彼女が、《天使》(1889)の圧倒的な孤独をささえる強靭な横顔が好きだった。だが景色と、人物と、どちらが好きか、という話ではないのだと思いなおす。景色にはそれをとおして、同じものをみつめている、という接点を感じることがある。人物はちがう。そこに描かれた彼らに共感してしまう、のかもしれない。そこにはなまなましい喜びはない。だが、とてもせつなくなるのだった。うなずきたくなるのだった。きこえない声がつむっている。同じことをいっているだろうか。だが、景色のほうが距離がない。ある種、どこかが溶け合ったような肉の領域で語られるだろう。人物のほうはあくまで離れて、だが他人のままかぎりなく近しいのだ、それは肉よりも醒めた領域だ。
 メデューサの彫像が出品されていた(《メデューサの首》1900年)。彼女と眼があった者は石になる、視線をかわす、その後がない、という意味で彼女はもっとも孤独だ。だがわたしたちは会場におかれたメデューサと眼をあわせることができるのだ。彼女は頭が蛇になる以前の、うつくしい顔をして、こちらをみている、だが、たぶん、眼はわたしたちをすりぬけて。あるいは魅入られる、その瞬間だけが。
00:13:37 - umikyon - No comments