Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-07-27

小記


(文中敬称略・以下失礼お許し下さい)


 『諸註という書物』(中村文昭/えこし文庫)。“肉体としての私”の声を聞くこと。たとえば花をみつめるように。ポエジーの可能性。ここでは諸註が諸註という枠からはみ出て、あふれだし、ながれてゆく。それもまたポエジーなのではなかったか。肉体からながれるもの、あるいは風からつたわってくる振動。これらのコトバとして、諸註はその出自(もともと書物に付けられる註だったが、「註そのものが自著から離れ、自己主張してくる力線の流れに身をまかしたものの総和が、この書物である」)からもふさわしく思えた。「“私の内なる声”に耳をすますこと」が「鳥の声や風の声」を聞くことと響きあい、奏であっていること。ふるい匂いがたちこめている。


 『部分』28(三井喬子個人詩誌)。巻頭詩はゲストの倉田良成の『弔辞』。生きる時間の瞬間にも似た鮮やかさが、「花の乗り物」のむせるような美しさにより、現出してくる。そのまま、三井の『本』へ、「蒼い大きな本が/平野を すっぽり包む」、「新しい命だって生まれるでしょう…」という、生のほうへ、つたわってゆくようだった。命がわたってゆく。それは次の『へんちくりん―1竹林』、『へんちくりん―2疑惑』にも継がれてゆくのだった。『弔辞』の死者の側から描いた生と『へんちくりん』の「光の子供」にあらわれる生の側から描いた死と、時間のなかで呼応しあうこと。あるいは奇妙なコラボレーション。『弔辞』が静かな匂い(「梅花や沈丁花の透き通るような、飛天のうすぎぬのような匂いの漂う夕暮れ」)であるのならば、『へんちくりん』は「時間の熱球。」「瞬く漁火」、赤い既視感として眼にやってくるのだった。


 五年間、花を付けなかったオオバギボウシが、この夏、初めて咲いた。それは小さな、本来の彼女にしてはささやかな花だ。彼女によって、彼女のなかで、かつて、どこかの庭で咲いていた花がふと帰ってくる。
22:02:06 - umikyon - 2 comments

2005-07-22

海綿蒼

 古いデータを探していたら、友人とのやりとりで気にかかるものがあった。三年くらい前のだろうか。以下、抜粋しつつ再構成してみます。
〈みることがふれることであるかのような…と以前あなたがおっしゃっていた言葉、とても心に残っています。
 そのことと、関連があるでしょうか。いえ、つけられるといいのですが。
 今朝、テレビの『日曜美術館』で、イヴ・クラインのことをやっていました。彼は中沢新一の『野うさぎの走り』(中公文庫)のなかで、取り上げられていたことがきっかけで、興味を持つようになった作家です。おまけに今朝のテレビではゲストがその中沢新一だったのです。
クラインの作品群に、海綿に青の顔料(インターナショナル・クライン・ブルーと呼ばれています)を吸い込ませたものがあります。
海綿にイヴ・クラインのブルーが吸い込まれる。そのブルーは空の象徴でもある。海綿という内面的なものに空がひたされる。そのことについて、たしか解説者が「内に向かうことで外にも向かうんですね」といっています。
『野うさぎの走り』をひらいてみました。
「海綿はあらゆる意味で中間的な物質である。」植物なのか動物なのかはっきりわからない中間、また、個体と群体の中間(海綿は、ある所では個体の集まりであり、ある部分は未分化なのだそうで)であり、物質的にも、無数の穴が開いているところから、スカスカな空白と、たえず水流が出入りすることによって中間的であると、ここでは書かれています。
「どこまでいってもけっしてなめらかになることはない。ギザギザ、デコボコを自分の内部にたたみこんだ、不思議なフラクタルな物質を連想するのだ。(中略、そして)この物質には輪郭がない。空間を閉じるものが輪郭だとしたら、海綿は(その無数の穴により)輪郭がない。(中略)だから海綿は自分の内部に、どこまでも無限を堀りすすんでいくような物質なのだ。」
 ここから、イヴ・クラインとの関係がでてくるのでした。
「線は疾走し、無限へと向うが、それにたいして色彩は、無限のなかに在る」というイヴ・クラインの表現をもじっていえば、海綿は中に無限をたくわえこみながら、無限の中にあるのだ。」
「海綿が(クラインのブルーの)顔料をおいしそうに吸い上げる。そのとき、海綿は「無限のなかに在る」色彩を吸い上げ、自分の内部に無限がどこまでもしみわたっていく感覚を味わっているようだ」。あるいは外にひらかれた無限なのでしょう。
そして? さらに、海綿は青の顔料を吸い込んでも完全には死なないのだそうです。「また情況がよくなると芽をだして新しい海綿をつくるものたちがたくさんいる」。そのことも、生と死の中間にあること、なのでしょう。
つまり、あなたのおっしゃったような、触れることが見ることであるかのような、内に向かうことが外に向かうことであるかのような。
 クラインの「インターナショナル・クライン・ブルー」を含んだ海綿は、テレビでも、硬さそのもののようでした。青さがおおむね内に向かっているように見えたのです。かたくなな、けっして空でも海でもない、だからそのすべてをふくんだ、あおの色。〉

(今回、「インターナショナル・クライン・ブルー」の一端でも想起させてくれるような、すくなくともわたしがほんの少しでも「あお」、といえるような写真がなかったので、おやすみいたしました)
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2005-07-14

ノルウェイの森


 朝日新聞の『be on Saturday』(土曜版というのだろうか)、「愛の旅人」という一面の記事で、『ノルウェイの森』(村上春樹/講談社文庫他)がとりあげられていた(七月二日)。紹介する文章には熱意がない、というのだろうか、あまり関心しなかったけれども(最初から「恋愛小説が苦手な私にとって『ノルウェイの森』で一番気になるのは…」と、及び腰のままである。そして恋愛小説である、とくくることで、そこからあふれるものたちをみずから見過ごしてしまっているようでもあった。)、小説の登場人物の名前をみたからだろうか、写真(屋上で物干しをする寮生─小説中にでてくるような場所だった)から想起したのだろうか、とつぜん涙がでてきた。私はこの小説がとても好きだった。いぜん、主人公のワタナベくんのやさしさについて書いたことがあるけれども(他者たちと軋轢がないように、他者たちを排除するための、孤独者としてのやさしさ、について。だがその孤独者のやさしさは、また恋人であるとかをもわかれない、彼女たちにたいしてもなすすべがない、という孤独につながるのだ…)、小説全般については書けないだろう、という気がする。いや、いま、もしかすると( )内で書いたことが? いや、そこからあふれでるものがたとえようもなく、食い込んでくるのだ。
 全編にわたって好きなのだが、一カ所、そこをひらくといまだにわけもわからず泣いてしまう箇所がある(だが朝日新聞の記事に涙がでたのは、おもに全編によせて、だったと思う)。今回、読み返してみたが、やはり、どうしてなのかわからないがうるんできたものがある。それはひとつのエピソードに過ぎない箇所だ。主人公の友人のつきあってた彼女(ハツミさん)、会わなくなって後、自殺した女性について、二十年近く経って、思い起こすシーンだ。彼はサンタ・フェで「奇跡のように美しい夕陽を眺めていた」時、ハツミさんのことを突然思い出す。ハツミさんが「少年期の憧憬」を揺り動かしうる存在であったことを。それは「長い間眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆ど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ」。
 その「僕自身の一部」が、わたしたちの琴線にふれてくるものなのだ、ということもあるだろう。だがそれよりも、単純に、それほど親しくなかった他者にたいして(もちろん接点はあっただろうが)、ここまで想えることに、孤独者の圧倒的なやさしさを感じたのかもしれない。いつもその(多分)赤すぎる夕陽の色、とともに、彼らのいたみがつたわってくるのだった。

 次の週、七月九日の『be on Saturday』「愛の旅人」で、これも私の大好きな『伊勢物語』、在原業平が出てきたので、すこし驚いた。もうここでも何度か引用している歌(月やあらぬ…)が出てくる段(四)をひもとくと、やはりいつも泣いてしまうから。そして、涙がにじんでくる作品、というのはめったないものだから。ここでもまた、情景がくっきりと浮かんでくるのだった。梅のほのかに匂う、荒れた寝殿造りの闇。変わり果てたように青ざめた月の色。場所はおなじだ。だが、似て非なもの、であるということ。そう、あなたはいないから、景色はまったく去っている。
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2005-07-04

三つのポルトス


「ポルトスという人物が―彼は一度も考えたことがない。ある時、地下に爆薬を仕掛けることになった。そして―導火線に火をつけ、逃げた。その時突然彼は考えた。何を考えたか? なぜ右足と左足が交互に前に出るのかと。そう考えた途端に、急に足が動かなくなった。爆発が起こり地下が崩れた。彼は強い肩で必死に支えたが―一日か二日後には押しつぶされて、死んでしまう。考えたために死ぬんだ。」
 この逸話は、この物語は私にはすくなくとも三つある。ひとつは、恋人と歩いていたとき、階段をふたりで歩いていたときに彼がしゃべった事として。「三銃士のポルトスを思い出した。地下では爆薬がしかけられていた。そこからこんな風に階段を登って逃げるとき、彼ははじめてどうやって歩くかを考えて、足がとまってしまった。はじめてものを考えたことで、彼は死ぬんだ」。私はとても若い。ことばもなく、ただ、そのことばだけを覚えていた(厳密にいえばこうして回想することでことばの細部は変わってしまっているだろうし、言われた場所、たしかビルの外階段だった、踊り場には花壇があった、から離れてしまったので、情景自体が違うだろう。場所が現実の場と記憶の場とに分かれてしまって)。まだ『三銃士』を読んでいなかった。そして三つ目は『三銃士』、正確には『ダルタニヤン物語』のなかの話(『三銃士』は『ダルタニヤン物語』のなかの一作目)として。このポルトスは、爆薬をしかけるまえ、ふと疲れがおそってきた。いままで疲れをしらぬ力持ちだった。そして先祖代々、その疲れがおそってくるとき、死期がちかづいたということだった。爆薬をしかけ、逃げる途中、その疲れに捕まってしまう。爆発が起き、彼の左右から岩壁がはさんでくる。彼は必死に支えていたが、さいごに「重すぎる…」とつぶやいたのち、岩壁に…。だった。彼はしんじられないほど力持ちだった。その彼が重さに力つきてしまうこと、また先祖代々、という連綿のなかで、輪を、運命や力との戦いをしているということ。つまり、考えたために死んだのではなかった。
 冒頭の引用は、ジャン・リュック・ゴダール監督『男と女のいる舗道』からだ。もっと経ってから、ビデオで観た。かつて彼の言ったポルトスはここにいたのだ。おおよそ三つめの物語。
 ビデオを観た当時、台詞を書きとめているので、彼との関係に気づいていたはずなのだが、そのことの記憶がない。先日、調べものをしているとき、偶然この台詞をみつけ、驚いたのだった。このつらなり、書きとめている私を驚きつつ眺めている、これを書いている今の私もまたひとつのポルトス譚に組み込まれているのかもしれない。
 そして? アトス、アラミス、ポルトス、ダルタニヤン。銃士は四人いる。三銃士とはダルタニヤンにとっての三銃士なのだ。

 この直前に書いた日記に関連して。おなじ映画より。
「何か言おうと―言う前によく考えているうちに―いざとなるともう何も言えなくなるの」(中略)「言葉に自信が持てる?」「持つべきだ。努力して持つべきだ。正しい言葉を見つけること。つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ」
21:48:53 - umikyon - No comments