Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-08-26

接吻3(孤独な人々)


 前回書いたあと、「接吻シリーズ、ムンクのもありますね」と桐田真輔さんからメールをいただいた。
 記憶にあるムンクは、なぜか、ひとりだ。あるいは死の舞踏を踊っている。家にあった展覧会カタログ(ムンク版画展、一九九九年)を開く。《接吻》、多色刷り木版、1898年。接吻するふたりは着衣のまま、溶け合っている。服はいちまいの、あるいは二人の肌、いや布そのものとも、肌そのものとも、あるいは両方を溶かしたかのように描かれている。そしてふたりの顔は完全に区別がない。しろいのっぺらぼうとして、侵食しあっているように見える。
 だがなぜだろう。そのふたりからは他者たちのつむぐ一体感が感ぜられない。カタログには「アンドロギュノス(両性具有)に変容してしまっている。」とあるが、うなづけるような気がした。そこには他者への希求が感じられないのだった。愛の光の面が欠けているようにもおもえた。影の部分が溶解を彩っている、それゆえの暗さに包まれているかのような痛みがあった。解け合っているのにも関わらず、ここにいるのは、途方もない孤独である。あるいはここには生の喜びがいないのだ。丁度ふたりのようなかたまりから、愛が希薄なのに、比例して。
 カタログのほかの接吻たちを見てみる。《キスをする男と女》(一九〇五年、多色刷り木版画)は、男と女が完全に各自の輪郭をもって、男は藍色、女は朱色と、色までも変えて、異性として、キスをしている。だが、それは唇にではないのだった。女が男の頬に口をつけている。男はそらすようにして、苦しいとも恍惚ともとれる、もしかすると、無表情でもあるかもしれない顔で、女ではないほうを見ている。このキスは、唇が重ならないから、だけではなく、確かな線で区切られているだけでなく、他者すぎる、と思った。ここに描かれているのは、合わそうとしても、合うことがない、他人どうしである、そんな傷のようなふれあいだと。
 《死と乙女》(一八九四年、ドライポイント)、《死のキス》(一八九九年、リトグラフ)、《死の舞踏》(一九一五年、リトグラフ)で描かれている接吻は、片方は少女や老人という違いはあるが、相方はすべて骸骨だ。この接吻たちは、生と死の近しさ、などがたぶん描かれているのだろう。《ヴァンパイア》(一八九五年、リトグラフ)は、吸血鬼である女性が男性の首筋に接吻のように口をつけているが、ここでも、愛は問題になっていない。ファム・ファタルとしての女性を描いている、とカタログにはあるが、やはり死が色濃くにじんでいる。
 そう、私が接吻としてムンクを思い出せなかったのは、他者たちのふれあいとしての接吻が描かれていないからだったのだ。そこにはほとんどの場合、死とのふれあいがにじんでいるから。
 だが、カタログをめくっているうち、私が印象を閉じこめている接吻にちかいものがあった。《二人(孤独な人々)》(一八九九年、多色刷り木版)という作品。月光が海に映っている、その浜辺に、男と女がすこしはなれて立っている。月光は牢獄のような線を海に投げかけている。つまり、ふたりの間の溝、のように。ここでは接吻はおろか、身体さえもはなれている。だが、この二人のほうが、触れ合っている、と感じられた。独りであることを知っているものどうしの共犯、しずかな叫びがたちこめているように思えたのだった。蒼ざめた、死のたちこめる月の明かりのしたで。
00:40:28 - umikyon - No comments

2005-08-16

接吻 2


 鼻、額、頬、顎、目、そして唇。これらすべての凹凸がないひらたい顔の二人が接吻する姿は、かの女の好きなテーマとなるだろう。ただ四角いだけの二人は、うっすらとひかれた筋でのみ、区別されている。髪の毛、目、口、首。彼らはなかば溶けたようにほとんどひとつだ。その石膏の白、というより、骨の色であったり、あるいはあたたかいアイボリーにもみえるその色からは幼児の日々のような一体感と無垢がたちあらわれてくるのだった。ぎりぎり、二人、といえるくらいの、その筋、線は、まったく二人をわかつまでもいってないのだが、微妙な表情のちがいから、うっすらと二人が区別できるのだった。楽園の抱擁、祈りのような接吻。かの女が願っていたであろう、原石のような夢、まぎれもない一体感。コンスタンティン・ブランクーシ《接吻》一九〇七−一〇年、ブリヂストン美術館。その彫像はとても荒削りにみえるのだった。たぶん余分な手を加えない、ということなのだ。それは素材との出会い、素材との口づけ、でもあるのだろう。もう一歩踏み出すと、素材のもつ力が消されてしまうことをあやぶんでいるようだ。
 この《接吻》を見て、『誰が為に鐘は鳴る』をふと思い出した。イングリッド・バーグマン扮するスペイン娘マリアとゲイリー・クーパー扮するアメリカ青年ジョーダンとの、スペイン動乱期の悲恋をも描いた映画作品だ。そう、マリアは「キスをするとき鼻は邪魔にならないの?」とジョーダンにいうのだった。ひらたくない二人たちの対照的な。そう、邪魔になんか決してならない。その姿は愛しさそのものだ。スクリーンを通じて、わたしたちはジョーダンのようにマリアをみつめるだろう。彼をとおして無垢なる口にちかづくのだ。凹凸のあることが、ここでは愛しさになるのだった。こんな一体感もまたあるのだった。

(写真:『誰が為に鐘は鳴る』監督サム・ウッド、一九五二年、パラマウント)
02:15:24 - umikyon - No comments

2005-08-05

接吻


 ブックオフで、週間アートギャラリー(デアゴスティーニ)、週間美術館(小学館)などを何冊か買う。基本的に絵は原画を美術館なりで見るべきで、画集などで眺めるものではないと思っている。だが好きな絵、好きな画家たちのそれなら、スーヴェニールとしていいだろうと思ってのことだった(もちろん安価だったこともある)。おみやげに、そう、展覧会でカタログや絵葉書を買うように。それは私にとっては旅先でスナップ写真を撮るようなものだ。思い出になるかもしれない、と。実際、撮った写真をみても、それは思い出にはなることがないのだが。それはもはや別物だ。撮られたものはその瞬間そこにいた、その時のわたしが見たものではありえない。写真はその場のわたしの想いまで、残すものではないから。だからあまり写真は撮らなくなった。展覧会で絵葉書などをあまり買わなくなったように。それは、見た瞬間の感興を再現するものではないから。あの閃光を沸き立たせてはくれないから。だが、やはりスーヴェニールとして、つい買ってしまうことがある。旅先でなにかをほっと買ってしまうように。思い出に残ってほしいのだろうか。いつかの、明日のわたしに差し出したいと願っているのかもしれない。そして、今日買ったときは、どちらかというと、かつて見た絵たちの、その思い出を引っ張ってきたかったからのようだった。
 ……クリムトの『接吻』。『週間アートギャラリー』の説明によると、「抱擁するカップルが、装飾されたモザイク模様に包まれ、独特の色合いを持つ金色の背景の前に表されている」ものだ。わたしは、ずいぶん以前、一度だけ実物を見たことがある。厳かで絢爛なエロティシズム。照明が暗かったのだろうか。思い出すのはいつも、闇と黄金なのだった。今日、さらにこの『接吻』の解説を読んで、なるほど、と思ったことがあった。「男の衣服を飾る長方形の形」と「女性の衣服に見られる受容的ならせんや、円や、楕円形」のそれぞれが「性的なシンボル」である、と。知らなくても絵からエロスは感じていた。だが、こんな風に教えてもらうと、絵をみなくとも、ことばで思い出にさわれるのだ、と思った。あの衣服たちが、ことばによって、生を、聖を、性を、織り込んで、手招きしてくるのだった。

 やはり、同雑誌のクリムトの言葉で、印象的なものがあった。クリムトは言葉として書き残したものが殆どないという。現存する唯一のタイプ原稿にその理由がある。
「朝から晩まで絵を描いている画家でしかない。(中略)……言葉を話すことにも、書くことにも才能はなく、特に自分自身や自分の作品について何かいわなければならないとなるとなおさらだ。……画家である私──注目に値する点はそれしかない──について何か知りたいと思う人は、注意深く私の作品を見て、その中から私が何者であるか、私が何をしたいと思っているかを理解するしかない」。
 おぼえておくこと、ことばで。

(グスタフ・クリムト『接吻』(THE KISS)1907-08年、ウイーン、オーストリア美術館蔵)
00:49:47 - umikyon - 2 comments