Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-10-25



「どうせあたしをだますなら/死ぬまでだましてほしかった」と西田佐知子は歌っている。
 そしてたぶん、かつてこんな会話がなされただろう。「あなたは嘘をついている?」「ついていない」「じゃあ、いままでに嘘をついたことは?」「あると思う」「それも嘘。〈嘘をついたことがあると思う〉は立証できないから」そこから「あなたは嘘をついたことがあると嘘をいった」、「あなたは嘘をついたことがないと嘘をいった」、男はたたみかけるようにつむいでいっただろう。「これがギリシャの昔から延々と続いている永遠の命題なんだ」。謎のまま思い出からのびてくるもの。

 というメモを見つける。これはいつのものだろう?

 もう数年、不思議なことに、レンタルビデオ屋で、いつもレンタル中だったビデオがある。そこにはそんなビデオは何本かある。実はあると見せかけているだけなのではなかったかと、存在を危ぶんでいた矢先、それは忽然と中身をもったものとしてあらわれた。そとがわが嘘でなかみは本当。『毛皮のマリー』。寺山修司作、演出。これは映画ではなく劇団天井桟敷の舞台公演を収めたものだ。主演三輪明宏。
「歴史は嘘、きのうは嘘、あしただけが本当」と華美な黒いドレスをまとったマリー(三輪明宏)は叫ぶ。ジャンケンでまけたほうが嘘で、勝ったほうが本当。そとがわが嘘でなかみは本当。彼女は男性であり女性だ。今度は下男に扮したマリーはまた、ジーン・ハローがうらやましいという。ジーン・ハローは何回も映画で死に、自身の最後も、アル中で車の中でのたれ死んだから。映画のつくりごとが、彼女の実人生をもつくりごとめいたものにしたから、本当が嘘だから。
 毛皮のマリーには、子供がいる。それもまたつくりごとの親子関係だ。部屋のなかにだけ世界を積み立ててゆく子供。ここはイタリアであり、昆虫採集のできる植物園なのだ。男の子なのだが、マリーは彼にもまた女装させる。嘘の女、嘘の親子関係。つみかさねた嘘が、ほんとうをつくるのかもしれなかった。
 女装をすることが自然に逆らうことならば、一袋二〇円の植物の種をまく人々はどうなのか、それもまた不自然なことではなかったか、とマリーはうそぶく。(では詩のことばは雨をうつことができるだろうか…)。
 だが嘘の子供が嘘で塗り固められた世界につかれて逃げ出してしまう。でもマリーが呼べば帰ってくるのだ。たぶん逃げ出した世界もまた嘘だから。
 では愛情は? 帰ってきた子供は白雪姫のようにこれまでにもまして女装させられる。なぜなら白雪姫はこの世でいちばんきれいだから、なのだ。嘘の自乗のなかで、マリーはほんとう、になっただろうか。

 謎のままのびてくるものが、雨にかぶさり、明日の湿り気を帯びるだろう。

 『毛皮のマリー』を観たのは実は二、三年前のことだ。この文章はやはり発掘したメモをみながら書いている。そとがわが嘘でなかみは本当。あれからあのビデオ屋では、また、ずっと中身がないまま、箱だけが棚に載せられている。
22:45:24 - umikyon - 4 comments

2005-10-15

南蛮煙管


 かつて煙草が好きだった。思い出にひきよせてその要因をとりあげてはいけないだろう。だがすこしだけ。小さい頃、積木で作った家の隙間から、父が煙草の煙を吐きだしては火事だという。煙で大きな輪、小さな輪をつくってはドーナツだという。それを飽きもせずみている少女がいた。なんどもせがむ彼女に、「これやるとあまり煙草がおいしくないんだけどなあ」としぶしぶ、それでも求めに応じて父が輪をつくる、火事をおこす。なつかしい写真のような午後の光景。
 そう、まさかその光景をひきよせておくために、煙草を求めていたわけではないのだから、これらを結びつけてはいけないのだ。父は肺癌で亡くなったのだが、私はその時、しばらく止め、また吸い出している。
 今の私は、煙草とはまったく無縁になっている。今のことではなく、かつて二年間吸わなかったことがあった(そしてまた吸い出した)、そのことを思い出してすこし煙草について書いてみる。なぜなら好きだったと最初に過去形で書いたとおり、もはや私にもなぜ吸っていたのかよくわからなくなっているから。
 その時、やめた理由は「煙草の奴隷になっている自分がいや」だからだった。自分の意志で吸い始め、吸っていたつもりだったのが、煙草にあやつられるようになってゆく。煙草が吸いたいから喫煙所にゆかなくては、などと行動も規制されてゆく。自由がなくなってゆくような気がしていたからだ(だが、自由かどうかはあまり煙草とは関係なかった。吸わない人間は、禁煙席にと、逆に行動を限定されてしまうこともある)。
 その2年間、ほとんど毎日、煙草に恋がれていた。体内からほとんど煙草の痕跡が薄れていたであろうに、吸って煙にくるまるようにして落ち着きたかった。止めていることにいらいらしていた。煙草の匂いを嫌い、人が吸っているのを見ていると腹がたった。つまり近親憎悪、可愛さあまって憎さ百倍。自分がいやな人間になってゆくようだった。
 たぶん奴隷だとか自由であるとかはやめる理由にはならないのだ。依存性、習慣性から脱却して意志の弱さを克服しよう、などというのも、私の場合は理由にはならない。少なくとも2年間は脱却できていたし、その前にも何度か止められていたから。これらの理由は私にとって、むりにつけたつじつまでしかなかったから、ささえにするにはもろいのだ。結局、酒席でもらい煙草をしたのがきっかけで、禁煙からなんなく喫煙にもどってしまう。
 私が煙草を止められたのは、亡くなった飼い猫が原因だ。彼女は亡くなる半年位前に、風邪をひいて熱を出したことがあった。その時はまさか亡くなるとは思わなかったが、外に出さないでいたので、「彼女も年だし、煙は身体に悪いだろうな」とふとよぎった。一ヵ月ほどでまた熱を出した。すぐに治ったけれど、その時に止めることにした。長生きしてもらわないといけない、と。禁断症状は人なみにあったけれど、わりと難なく止められた。煙草に依存している場合ではなかったのだろう。彼女にもっとずっと生きてもらいたかったから。また数か月、彼女の病院通いがはじまる。そして。
 亡くなって二週間ほど過ぎた頃だろうか。「ああ、もういないんだから、煙草吸ってもいいんだなあ」とぼんやりと思った。とたんにおいしかった頃の煙草の味が思い出されてくる、くるまっていた頃の記憶が。ふと買ってみた。逡巡のあと、なげやりになって(だって、彼女はいないんだから)、一本吸う。信じられないことだったけれど、それはとてもまずかった。咳き込み、咽が痛くなった。煙草と離れた後、はじめた一服はいつだってあまい手招きのようにささやいていたものなのだが。口のなかにいつまでも違和をおぼえながら、「ああ、もう止められるんだな」と思っていた。
 私の場合は、そんな風に縁が切れた。それは、恋愛のようなものかもしれない。関係を断とうと力んだり意識したりするということは、まだ思いが残っているということでもある。もう好きでも嫌いでもない。感情からするりと存在がいなくなってしまったのだ。吹いてきた風に葉が落ちるように。それから一度も欲しいと思ったことはない。

 ナンバンギセル。煙管に形が似ているからこの名前がある。寄生植物。九月位になると、ススキや葦の下に咲く。この花も父と見た記憶がある。別名オモイグサ。


追記 家の近くの植物園に、万葉植物園というコーナーがあり、そこに植えられた花たちの側には、おのおの万葉集の歌碑が立っている。ナンバンギセルには、こんなものが立っていた。

  道の辺の尾花が下のおもひぐさ 今さらになど 物か思はぬ
            (10・二二七〇 作者不詳)
03:42:04 - umikyon - No comments

2005-10-05

キマイラ


 顔のない詩人。詩の女神から詩人へ差し出された、受けわたそうとする手もまた欠けている。なぜなら受けわたすであろうもの、ポエジーは見えないものだから。そして顔のほとんど描かれていない詩人だからこそ、わたしたちはそこにおのおのの思いを託すことができるのだろう。顔のないヘレネがとてつもなく美しく、そしてまがまがしく見えるように。それは画家の差し出してくる自由な穴だ。
 ギュスターヴ・モロー展(8月9日―10月23日 Bunkamuraザ・ミュージアム)に行く。前者は『ヘシオドスとムーサたち』(一八六〇年頃、油彩・キャンヴァス)、後者は『トロイアの城壁に立つヘレネ』(油彩、キャンヴァス)。
 キマイラ(キメラ)を描いたシリーズがあった。展示作品の解説にあったキマイラのフランス語の意味が思い出せなかった。日が経つうち、だんだん「現実」だったような気がしてきた。そうであったらいいと思った。頭が獅子、胴が山羊、尾が龍、そうした混沌とした生のありかたが「現実」ならばと。後日、シメールの元となった言葉で、「空想」「夢想」「妄想」の意を持つと知る。想像を織り上げるモローが描くものなのだから、当然といえば当然だ。少しの失望の後、思い直す。だが、「現実」と「空想」はもともと表裏一体なのではなかったか。その混成された動物の腹のなかで、わたしたちは生をつむいでいるのではなかったか。モローの異国趣味、神話への憧憬、彼の夢想は日々のなかで、だからこそあざやかなのかもしれなかった。

 追記 この展覧会には『豹の毛皮をまとったサロメ』という水彩作品が展示されていた(写真)。豹(柄)が好きなので、単純にうれしかった。思いがけない邂逅。
01:35:56 - umikyon - No comments