Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-11-25

記念碑


 現実と思い出は共存することができるのだろうか。十五年ぶりに再会した男女。かつて二十歳そこそこだった男にとって、その当時四十歳くらいの人妻だった女は、高嶺の花だった。が、一回だけ関係をもっていた。それは彼にとって不首尾におわった過去だった、男は美しいと同時に羞恥でできあがった甘美な近寄りがたい思い出に復讐するため、「その不可侵性と捉えがたさに苦しめられた」十五年間をなくすために、招き入れた男の部屋で、もう美しくなくなった女と再び関係を持とうとする。女のほうは彼の心のなかに思い出が「記念碑」として立っている、と思っている。「自分の若さが無垢なまま、別の人間のうちに存在しつづけている」のがうれしいと思った。だが、男をこばむうち、そんな記念碑など自分とは何の関係もない、と頭をちらつく息子の影に思わされる。「記念碑はあたし自身の外にあるのだから。ちょうどこの男の考えや記憶があたし自身の外にあるのと同じことだ」、彼女にとってもし記念碑に存在価値があるとしたら、「記念碑を弄んでやれる」ことだけなのだ。そうすることで外にある思い出が自分と関係をもつのだから。男にとっても苦く甘い思い出から逃れ、現在にとりこむためには、今の彼女を抱くしかないのだ。そうして女はドレスのホックをはずした…。どちらも、ちがった形だが、思い出を今にちかづけようとしているのだ、あるいは他者を。
 以上は、ミラン・クンデラ『可笑しい愛』(集英社文庫)所収の短編「老いた死者は若い死者に場所を譲れ」から。クンデラは以前から好きな作家だ。この短編集は、初めての、唯一の短編集と新聞広告にもネットの紹介にもあったので、最近出たものと思って買ったのだが、実は『微笑みを誘う愛の物語』として、一九九二年に集英社から出版されていたもので、読んでいたものだった。途中であとがきをみてそれを知ったが、まったく覚えがなかった。後半の一篇で、フェリーニの映画のシーンみたいだ、と思ったことをようやく思いだす。とおざかっていたもやのむこうから、ほそい糸で思い出がつながったのだった。
 クンデラを読み漁っていた当時は、彼の作品にはとても惹かれるけれど、難解だった。対象と距離を置くことで、人々の葛藤の根をとらえようとする、その意志の強固さに好感をもった。生き方が壮絶なのかもしれない(チェコからの亡命者としてそれを余儀なくされた)。その方法はわたしのそれとは違うのだ、ちがうからこそ惹かれたのかもしれない。だが、とにかく、当時はついてゆくのがやっとだった。あるいは精神性に重きをおき、物語的な要素を置いてしまったのかもしれない。わたしは、『可笑しい愛』をはじめて読んだ頃の自分をまだまったくつかめない。だが、こんなふうにあらたにとりいれられ、息づく思い出たちもまたある、のだろう。
 プーシキン展にでかけた。モネの『白い睡蓮』が目当てだったのだが、特に感動はなかった。たぶんめまいは、出会いは突発性のものだから。だが。ひらたい、のっぺりとした、くらい色調。海辺だった、堤防には万国旗がはためいているのだから、祭り的な場所なのだろう、だが重たげなボートにひとりオールをこぐ影、よごれたような、だが澄んだかなしみ、つらさ、かもしれない海の色。青い色なのに、灰色とよびたい空がのしかかりながら、軽やかだ。この景色をどこかで、みたと思った。わたしの外にある風景なのかもしれなかった。あの記念碑、あの思い出のように。絵をみた瞬間、渡されたと、帰ってきたのだと思った。アルベール・マルケ『オンフルール港』(一九一一年)。それは汚さずとも関係が持てる幸福な記念碑だが。
「ある場所へ立ち戻るということは、そもそもそこを離れていたとはいえない、ということか。やがて帰ることになっていたのなら、帰りついた場所は以前には見たこともない、真新しい土地で、そこのことを思い出す手がかりは皆無だ、ということになるではないか。」(リチャード・ブローティガン『不運な女』新潮社)

(写真は御苑散歩(十一月十九日)で撮ったもの。銀杏が西日にきらめく色がどこかで出会ったものとして、あたらしい手招きとしてやってきた。)
00:27:57 - umikyon - 2 comments

2005-11-15

LALIQUE


 たとえば香水壜。ガラスに浮き彫りになった妖精の彼女には、やわらかな肉がかがやいている。中につまった香る液体が、彼女の肌をあたたかいものに見せている。そして、八十年は経っているであろう、変色し、茶色くなったその液体が、赤い花びらのような色をなして、内側から、さらに彼女の肢体をうつくしく見せてくれるのだった。年月との接点、記憶からの手招きのように肌をつたえてくるのだった。なぜなら、香りは、記憶としたしいから。
 箱根のラリック美術館に出かけた。ここではルネ・ラリック(一八六〇−一九四五)の生涯にわたるコレクション(宝飾品、ガラス工芸品、室内装飾など)が展示されている。この香水瓶、花瓶たちが美しいのは、惹かれていたのだから、たぶんなんとなく知っていた。だが灰皿があった。雪花石膏のように白濁したガラスの皿の上に犬などの動物、そして妖精たちが立っている。かれらのつつましいささやきには気づかなかった。そしてシャンパングラスがあった。そのグラスの脚(ステム)にほどこされたメデューサのような女性の甘美な硬質さについては知っていた。だが、その飲み口の繊細なうすさのもつ光りは知らなかった。これらのこともまたわたしのながらくのネックだったのだ。つまり生活と美。企画展としてカーマスコット展をやっていた。かつて、クラシカルな車のボンネットに飾られていたものだ。鷲や女性やトンボたちが、これまたありし日の船の舳先につけられた守り神のようにガラスのかがやきをたたえている。はじめてこのカーマスコットという存在を知ったときは、往時はこんなすてきなものをつけて走っていたのか、と日々のなかで息づいている美にたいして、うらやましくなったが、今だってさがせばすてきなものはあるはずなのだ。たぶん。

 以前より、美術等に関しては、美しさを楽しめるようになってきた。というより、共時性のようなもの、つながっている、と一瞬でもおもえる至福感を受けとれるようになってきた(勝手な思いこみかもしれないが)。このラリック美術館でもしばしそれを感じ、妖精やプシュケの彼女たち(おもに浮き彫りになった女性像たちにそれを感じた)の放つ交接にめまいが起きそうだった。この感触は、じつは幼少の頃の感覚に近しいのだ。自分と他者(人にかぎらず物もふくむ)の区別がよくつかない頃の、あの一体感からくる高揚と。以前は見るのも勉強だと肩肘を張り、緊張して向かっていたからそれらを感受するのに幾分弊害があったのだと思う。だが緊張にもいい面がある。生活がひきしまる。生活としては今のほうがずっと怠惰だ。ともかく今はただ単純に見たいから行く。その点ではいい意味で緊張がとれたのだ。あるいは絵を描くのが好きな子供だったせいもあるかもしれない。ラリックに関しては相変わらずの懐古趣味があるからかもしれない、砂浜に打ち上げられたサイダー瓶の破片、キャンデーのもつ抜ける色、水に映るにじんだ雲、ビー玉、他、他。オパルセントグラスという手法でラリックのガラスに凝らされたオパールの輝きが、青を貴重にさまざまな色をとじこめているように。

(写真はラリック社のミニチュア香水たち。誕生日にいただいたもの。)
00:19:14 - umikyon - 2 comments

2005-11-05

愛のゆくえ


 男の旅と自殺した女の旅、あるいは過去が点と点でふれあってゆく。〈単純な恋愛をしているときには、恋愛生活はしばしば皆無にひとしい〉。そして乾いたおかしみと孤独者の旅の断片…。なぜなら移動こそが、つながらないことこそが人生だから。私たちはその点と点を歩いているのだから。接点のように交差するのは、彼らとばかりではない、それは自分とも、そうなのだ。日付が前後しながらであうことがかなしい、やさしい。彼らもまた断片を生きているから。あるいは断層。夢もまざって、空想も息づいて。交差するゆたかさだ、と読んでいるわたしは思う。だが、旅がきらいなのに旅をづつけるという著者は、書かないところで鉛のかたまりを持っている。見えないのだが、吐息のように頁からのしかかってくるのだ。あるいはこれはあとづけか。男の生が女の死にかぶさってくるのは? おもさは事後をしっているわたしから流れてくるのかもしれない……。
『不運な女』(新潮社、リチャード・ブローティガン、藤本和子訳)。帯の言葉「『アメリカの鱒釣り』からおよそ二〇年――。一九八四年一〇月、ピストル自殺を遂げたブローティガン。遺品のなかから一人娘が発見した、最後の小説。」
 この本のなかで書かれた日記のなかでは、時間は通常通り進行しない。現在が、時には作者自身も話したいエピソードすら投げ出し(これについては後で書く、とあるが、それは二度と書かれることがない)、過去の、それもまったく違う場所での出来事に移っている。作者もとまどっているが、だが、それこそが時間なのだ、ながれなのだ。わたしがいない彼をとても大事に想っているように。

 新潮社HPに手紙(メール)を出した。「死後二〇年の今になってブローティガンの新作が読めて、うれしかったです。私のブローティガン体験は、十年ほど前でしょうか。古本屋で買った新潮文庫の『愛のゆくえ』。そこでは今まで見なかったような新しい言語で、やさしい童話が書かれていました。ひたされながら、しずかに圧倒されました。それから、ブローティガンを探しまくりました。当時、もうブローティガンは新刊ではほとんど買えませんでしたので、古本屋で。先日朝日新聞の記事に、このところ、『アメリカの鱒釣り』(新潮文庫)、『西瓜糖の日々』(河出文庫)、『ビッグ・サーの南軍将軍』(河出文庫)等相次いでブローティガンが再版出版されているとありました。『不運な女たち』もこの記事で知ったのです…」。出した理由は、この新潮文庫の『愛のゆくえ』も再版してほしかったからだ。そこでは不思議な図書館の話が描かれている。
 返事はこなかったが、新刊の案内が来るようになった。すこしうれしい。

 十一月五日は誕生日。一斑というのは豹の斑紋のことだという。これを書いている今日はまだ二日。ブローティガンの日記は順序を越えてわたしのここにやってきた。
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