Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2005-12-25

二度目の軽さ


 昔に読んだ書物をもう一度読み直す。その行為は多くのばあい、期待をうらぎる。それをさせるのはたいてい、その当時好きだったものたちの手招きだ。やさしかったもの、あるいは親しく感じられたものたちとの再会を心待ちにして、わたしはページをめくるだろう。だが、その再会は、たいてい、少しの失望を含んで終わるのだった。その最初の出会いにうけた強い印象を探し、もういちど味わおうとするから。あるいは、その印象をうけたかつての自分と思いを共有しようとするから。わたしはもはやその当時の人間ではないのというのに。だから、その失望は、作家に対してではなく、ほとんどいつかのわたしとの邂逅の失敗にむけられたものである。だからそれは日記についてもいえるだろう。通常の意味の日記は、かつての自分と未来の自分とをむすぶ糸には決してならない。過去の自分の書いたものは、その瞬間だけ、書いたものに存在し、後はだれでもないところに逃れてしまうから。だから、わたしは心情吐露や、出来事をつづるたぐいの日記をつけないことにしている。そうしたことは特にその本人にだけしか関係がないから、いつかのわたしやだれかにはほとんど無意味なことだから。同じもの、同じ考えの共有を願うことをやめること。つまり、違うということからはじめること、逃れる文章(それは日記に限らない)ということを受け入れることだ。そうすると、あるいは期待をしないでいると、文章は、別の誰かが書いた読み物として、いつかのわたしにやってくることがあるのだった。思いがけずに。
「必然的におこることや、期待されていること、毎日繰り返されることは何も語らない。ただ偶然だけがわれわれに話しかける」、ふいの出会いこそが再会なのだ。
 引用は、ちょうどいま、これについて語ろうと思っていた書物からだ。『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ、集英社)。
 彼の『可笑しい愛』について、ここで書いたが、そのあと、これをふと読んでみようと思い立った。それは『可笑しい愛』とが、まったく予期せぬ再会であっただけに、冒頭にあったような懐かしみを求めてのことではなかった。ただ漠然と、二度目の書物であるにもかかわらず、期待からはずれることを、漠然と期待してのことだったかもしれない。
今度はあらすじとしてはほとんど覚えていた。だがこの緻密な生たちの描写、そのひとつをとって語り尽くせないほどのからまりかたに、目がくらみそうだった。タイムマシンで過去にゆく。百年の間にそこで起こったことを知るためには、そこに百年いなくてはならない。そのように、これを知りたいのなら、一冊を読んでくれ、ということしかできない。一編の詩の一行だけを取ることがむつかしいように、一枚の絵の部分だけをとるのがむつかしいように。だがそれではあまりなので、すこし書いてみる。
 この「軽さ」というのは、ニーチェのいう永劫回帰が重さだとしたら、そうでないものが軽さだということから来ている。永遠に繰り返される出来事に比べたら、永遠に楔をうたれているとしたら、そうでないものは無意味な、自由な、美しいものなのではなかったか。「永劫回帰の世界ではわれわれ一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。」それは恐ろしいことだ、だが軽さもまた恐ろしいことなのではなかったか、「重みがまったく欠けている」ことは? 一回限りの人生と、一回限りの出来事。家族をもたない、故郷をもたない女流画家のサヴィナの生き方もまた楔がないということで軽さである。たくさんの女性と関係をもつことを課している医者のトマーシュはその上っ面の行為によって軽いのではない。たくさんの女たちから新しいもの、そのひと固有のものを探す、その探しているものこそが軽さなのだ。「「私」というものの唯一性は、人間にある思いがけなさの中にこそ隠されている」、その思いがけなさが軽さなのだった。つまり偶然。この小説のなかでは、数多の軽さがたたまれ、たたまれ、描き出されているのだった。それらを正確に受け止めるのも語るのもわたしには無理だ。もちろん読解力のなさのせいもある。だがそれほどこの「軽さ」は深いのだ。または、トマーシュとサヴィナとの軽さの自乗のような恋愛関係。またはトマーシュのもとに、偶然がつづき、篭にはいって送り届けられたようなテレザとの関係。テレザはトマーシュにとって、軽さのもつどうしようもない楔となる。たとえば送り返す相手がいないから。それが愛だから。または、相手に重さをおしつけることがない、無償の愛とは、動物(ここでは犬)とのそれである、という軽さとしての愛。
 だから出会いであるとか二度目であるとかほとんどどうでもよくなった。ただ、一カ所、以前、付箋をつけていたページがあったので、興味深く読みすすめた、しょうこりもなく期待しながら。だがなにについてつけたのか、思い出せなかった。せいぜいたぶんこうであったのだろうと類推することしかできなかった。
 そう、結びはちょうど一ヶ月前にここで書いたものに、重なるしかない。あらたな出会いとして更新されたことだけが、思い出を共有することができるのだと。今回のこのやはりまったくちがった読書をとおして、わたしはクンデラと、いつかのわたしと、ふれあうことができるのだった。
00:15:30 - umikyon - No comments

2005-12-15

冬の色


 いつからか冬が苦手になった、だった。人とのあいだに溝のようにはいってくる、つめたい外気、寒さが孤独を思わせた。枯れている木々がそのままひからびた死を思わせた。花のすくない景色が心に重い色を反映させていた。その意識は前倒しになり、秋までも重くみせてくるのだった。夏がおわり、秋になると、なにかを少しずつ我慢してゆく準備をはじめていくようだった。長袖になり、上着をはおり、それらが厚みをおびてゆく、マフラーをする、それらのことにいちいち冬を迎えることに、冬をあびることに対する緊張感を持っていた。リンドウ、ツワブキが晩秋に咲く。そのあと、戸外で花をみることはほとんど減る。彩りがすくなくなるのだった。とおい、よわい日射しが温かみ(暖かみではない)を、むすばれていたかもしれない人肌との糸を、まったく見えなくするのがいやだった(紫外線の量がすくない冬は実際、気持ちが沈むという)。父に関する痛い思い出もクリスマスに関わっている。
 だが。街は花のない季節になったぶん、にぎやかになっている、とあるクリスマスの頃に気づいた。ポインセチアやシクラメンが花屋の店頭で並ぶ。木の実をつけたリースがならぶ。あちこちで光るイリュミネーション。これらが寒さをすこしでも暖かく、温かくしようとする、いとなみであるように思えた。そんなものたちもまたクリスマスだった。痛い思い出、だけではなく。もっと別のクリスマスを思わせてくれるものでもあった。こちらでいえば、コタツだろう、暖炉のある異国の風景。それは絵本や昔話の世界でもある。
 また、四、五年前になるだろうか、自分で植物を育てはじめ、彼女たちから冬は死ばかりではなく、眠りであるとか、再生の時であることを教えられた。紅葉は冬への序曲だったから、そして花ではなかったので、その色をほとんど意識したことがなかったのだ。温室の花たちや、さまざまな木の実がそうであったように、関心の外にある色は、冬の灰色を薄めることがなかったのだ。あるとき、これは、夕日のような残光のもつあざやかさなのだ、と気づいたときから、徐々にそれらの色がやってくるようになってきたのだった。
 今年は、やけに銀杏の黄金色があざやかだった。ポインセチアの鉢植えをはじめて買った。数年前から、クリスマスの度に、なにかささやかなスーヴェニールを自分に買っていたのだが、今年も買った(ボッティチェッリの聖母子像のミニ額)。続くこと、あたらしいこと。
 そう、今でも冬は苦手だが、こりかたまったマイナス意識に、少しずつ、出来事が、思いが加味されてゆくことにより、ある程度の変化はあったように思えるのだった。ずっとマイナスをさしたままであろうが、その度合いはわずかに溶け、べつの意識(プラスだけではない)と合わさって、季節への混合物を抱いてゆくのだろう。それは、私と季節の合作だ。私と過去と季節の。
01:28:53 - umikyon - No comments

2005-12-05

電話恐怖症


 しばらく前から電話での会話が苦痛になってきた。宅配便の受け取りや会社関係のことならば問題ない。けれども友人とはそれがたとえ事務的なものであっても、まったく駄目になってしまった。親や姉妹とすらだ。ただひとりをのぞいて。いまでは苦痛というより恐怖に近い。電話の音が鳴る。発信者通知設定なので相手がわかる。すると、ディスプレイにうかびあがる名前のまえですくんでしまう、電話の音も身体をしめあげるようにまきついてくる。金縛りのなかで、ようやくできることといえば、せいぜい電話の線をぬいてしまうことだけだ。
 彼らは他者のなかでもたぶん近しく感じている他者たちだ。そしてそのことに幾分緊張してもいる。この近しさを逃さないために、かもしれない。この近しさが対象の見えなさによって不当に増長され、侵入してくるような気がするのかもしれない。どこに? エクリチュールに? あまり出歩かなくなったので自信はないが、会って話すのであればたぶん大丈夫なのだと思う。それも少人数とならば(このことは後で、いつかふれるかもしれない)。

「書くことと生きることは両立しないわ」
「他者との違和とずっと戦ってきたわ」
「ポプラは風になびかない、風にたわむれるだけ」
 『愛人(ラマン)―最終章』をビデオでみた。見逃していたもの、そのまま忘れてしまっていたもの。作家マルグリッド・デュラス(ジャンヌ・モローが演じている)と、最晩年の恋人、ヤン・アンドレア・シュタイナーとの出会いから彼女の死の間際までの生活が、描かれている。登場人物はふたりだけ。そう、たぶん二人はおそらくこんな風だったんだろう、と思わせる佳作だ。もっともこれは、実際そうであったかではなく、あくまでデュラス小説的なことばがちりばめられた架空の生活として、という意味だが。小説にもぐりこんだデュラスとワインとヤン。にしても、上述のセリフの他はあまりこちらに移入してくるものはなかった。デュラスの小説は好きなのだが、そのなかでちょうど『ヤン・アンドレア・シュタイナー』が苦手だったことと関係するかもしれない。映画のなかで「わたしはこの十年、孤独だったわ」と一ファンとして彼女のもとに訪ねてきたヤンに言う。書く行為は孤独な作業だ。ヤンとの生活はデュラスの生活であってもデュラスの書く作品ではない。だったわ、といったことから、デュラスの孤独の一部はそれでも幕をとじたのだ。それが悪いといっているのではない(衝撃的なめまい、『愛人―ラマン』はヤンと知りあってのち書かれた)。だが小説の『ヤン…』にはもちろんデュラスの書いたことばたちでできあがっているが、そこに孤独の影が幾分薄れているように思えたのかもしれなかった。「書くことと生きることは両立しないわ」。ポプラ。ひとりの作業が書物をつきぬけ、しらない場所で風にたわむれること。孤独が、他者をもとめていること。
 
 電話に出るのはひとりだけ、大丈夫だと先に書いた。電話が空気のように、つまり何ごともなく声をさしだしてくる。マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』のなかで語ったのは過去の恋、だ(現在のそれは、状況を示すためだけに、ただ一行書かれただけである)。つまりそういったことをわたしはからめたかったのかもしれなかった。
23:12:10 - umikyon - No comments