Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-01-25

冬の隕石


 やはり冬という気候はすこしずつなにかをこわばらせてゆくようだ。あるいは眠らせてしまうのだ、枯れたものとして剥離していってしまうのだ。わたしはにぶい陽の光をそのまま映したような頭を、身体を感じる。明るさ、それ以外の季節でもほとんどない明晰さのようなものの欠如を感じる。気力のなさが曇天のようにやってくる。
 「列は開かれた組織だ。しかし輪は閉じるので、いったん立ち去ると帰れない。ひとつの惑星から引き離された隕石のように、私は輪のそとに出てしまい、今日でもまだ、落ちるのをやめていない。旋回しながら死んでしまう定めの人々がいれば、墜落の果てにぺちゃんこになってしまう人々もいる。そして、後者の人々(私もそのひとりだが)は、失われた輪への、遠慮がちな郷愁のようなものをつねに心の底に宿している。それというのも、私たちはみな、万物が環状に回っている宇宙の住人だからだ。」(『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ)
 この輪はとてもかなしい。彼の輪はおおむね亡命してきた祖国、そのひとびと、といっていい(ほんとうはそこからこぼれてくるものたちがあるはずだが)だろう。この比喩はかなしい。彼に起こった出来事がかなしいのではない。こうしたことばだけがリアルなのだ。
 そう思いながらも、ついじぶんにとってのそれを思い浮かべてしまうのだった。リアルのまわりをあるくこと。
 わたしはこの輪に似たものを思春期のころに感じていた。それまでは輪のなかにいたと思ったのに、とつぜん輪の外になげだされていることに気づいたのだ。人々とのあいだに触感として明確にへだたりを感じた。どうにかしてもどろうとしたがだめだった。輪は磁力をふくんだ壁となり、わたしをはねのけてしまうのだった。そう、同極だったから、いや、だったのにもかかわらず。
 「十八歳でわたしは年老いた。人生のもっとも若い時代、もっとも祝福された時代を生きているうちに、そのように時間の圧力に襲われることがときにあるものだ。」(『愛人 ラマン』マルグリット・デュラス)
 そのとき、わたしはこんな風に老いたのだ。彼女のようにいやおうなく皮膚感覚をとおして知ってしまったのだ。老いたまま生きている。そしてわたしはクンデラのいう前者なのかもしれない。旋回しながら死んでしまうのだが、旋回は近しい郷愁なのだ。そして遠慮がちな郷愁のほうがかなしいのだ。なぜならそれは思い出すにも遠すぎるから。
 離れたからこそ、見えるものもあるだろう。離れたからこそ共有を感じることもできるのだろう。彼らを知り、接すること。距離こそが彼らと出会うすべてだから。
 ますます電話がこわくなっている。どうしてもかけなくてはならないのだが。寒いせいだろうか。曇天がわたしのなかで重いせいだろうか。輪は反発ではなく、いまでは壁のようにそびえている。輪の外にいつつ、隕石の内側にもとらえられている、二重に輪をもっているのだった。電話をかけなければいけない。郷愁には多分いつだって憎悪が混じっている。わたしはそれを認めたくないのかもしれなかった。寒さに隕石が凍えている。
00:23:40 - umikyon - 4 comments

2006-01-15

見知らぬ館


 その境目というのは幻想ですらあったのかもしれない。あるいは平行にですらない距離感のなさ、一枚板のうえに立っているのかもしれなかった。ヤヌスの鏡、たとえば鬼が赤子を慈しむこと。愛するときに、憎悪の表情になってしまう女(テナン)と、その女を愛するあまり、女の愛の表情(憎悪の表情)に絶望し、愛を憎しみに変え、殺してしまう男(ピアセダイ)もいた。
 昔話について河合隼雄が朝日新聞に載せていた文章にひかれて(それについては宣伝めいて恐縮ですが、「rita」(http://www.t-net.ne.jp/~kirita)「わたしのなまえをしっていますか」で分身(?)が書いています)、『昔話と日本人の心』(岩波現代文庫)を読んでいる。これがとても興味深い。まず、まるで世界はメタファーだらけでできているようだ、ということにひかれた。「日常・非日常の空間構造を、心の構造として読みとると、意識・無意識の層と考えることも出来る。」、「うぐいすの里」という昔話にでてくる女性はうぐいすの化身だったのだが、そのうぐいすは万葉集でもでてくるように、もともと美しい女性としてのイメージがなじみやすかったものだった、クモが糸を織ることは、世界中で見出されるが、織物たちは、運命を織り出すものとして、女神的な、あるいは山姥的な、小道具となるだろう。再生、そして死でもある「春が女の季節である」、その意味でも、「地下は太母の子宮と考えられる」など。

 そして、冒頭にあげたような二面性たちについて。たとえばその糸を織り上げる者としてギリシア神話のアテーナー(機織りの神でもある)と、それに対応するアラクネー(傲慢の罪でクモにされてしまう)、「この両者は女性の肯定的な面と否定的な面を(中略)、アラクネーは輝かしい女神アテーナーの影の部分を表わ」しているのだった。それをつなぐ糸の密接さ。「食わず女房」の女房は、物を食べない美しい美女だが、後頭部に大きな、何でも食べてしまう口をもつ山姥的異境の者でもある。前面を「うぐいすの里」や「鶴女房」(鶴の恩返し)、「雪女」の美しい女性になぞらえてもいい、彼女たちは、どちらにしても、人間界では暮らせないものとして扱われているという点で繋がっているのだった。幼児を連れ去ってきては食べていた鬼母神が仏の教えにより「幼児の守り神である訶梨帝母となる」ことは「否定・肯定」の両面を示すものと言える」。子供をとおして繋がること。太母(グレートマザー)が豊饒な生を意味すると同時に、貪欲な死をも、つまり死と再生を内包しているように。
 その境界線は無意識と意識の境界線がはっきりとしないように、ついと渡ってしまうことがあるのかもしれない。鬼母神に似ているが「「山姥の仲人」(大成、補遺三〇)の類話のなかには、婆さんが孫かわいさになめているうちに、食べてしまって、それ以来鬼婆になったというのもある。これなど、子どもを可愛がる感情が強くなりすぎると、その命を奪ってしまうことにもなることを如実に示しているものである。」、愛が憎悪に変わることもあるだろう。その境目はじつは堅固なものではないのだ、ということ。「食わず女房」では、夫の友人が女の後ろの口をみて笑いながらはやしたてるというヴァージョンもあるが、その笑いは次の瞬間には恐怖に変わる。なぜなら友人はその口に放り込まれ、食べられてしまうから。境界をなんなくまたいでしまうということは、むろん個人レベルの話ではないのが。
 「うぐいすの里」は、男が住む日常と、女が住む非現実の世界との中間に、「見知らぬ館」が両者をつなぐ橋渡しとしてある。この場合、境目とはこれである。この見知らぬ館での邂逅から、男は非現実の世界を体験したのだ。そんな風な往還のことを考えている。「浦島太郎」の竜宮城という非日常でもいい。書物と現実がめくれるような。だがこれらはやはり繊細に扱わなければいけないのだ。簡単なのだがもろいのだ。「うぐいすの里」の物語では男が約束を破ったことにより、女は非現実の世界に永遠に去ってしまう。浦島太郎もまた現実にもどってきてしまうから。書物の世界と現実の世界。
 わたるものとしてのトリック・スターの存在も、その裏と表をわかつ場所のあたりにつなげることができるだろうか。それはアテーナーとアラクネーのように、王と道化のような関係でもある。トリック・スターとは「神話・伝説などに出てくる、いたずら者で、人をだましたり、神出鬼没の活躍をし、低級な存在としては、まったくのいたずら者にすぎないが、高度な存在は救済者にまで近似する存在である」。よくいわれるように、この神出鬼没さは、つまり自在に往還できる、ということだから。「見知らぬ館」でことばをつづること。

 ここで筆を置いたが、さらにもう少し読むと、こんなことが書いてあったので、もう少し補筆してみることにした。
 「外界と内界、意識界と無意識界との区別が明白でないことも、日本人の特性のひとつではないかと思われる」。まず、浦島太郎の話が、歴史の記述のなかに(『日本後記』)組み込まれてあることを、「外的現実と内的現実の容易な混合は、日本人の特性のひとつではないだろうか」、と語り、つぎに西洋の昔話とちがい、現世(意識界)から乙姫のいる竜宮城(無意識界)へ難なく(これが西洋の昔話だと冒険、確執があるそうだ)たどりついてしまうこと、イザナキが黄泉の国へやはりすぐにたどりついてしまうことから、「日本人にとって他界と現実界の障壁は思いの外に薄いものなのであった」とあり、ちょうど境界について書かれてあった。また、このことから、「日本的な意識の在り方は、常に境界をあいまいにすることによって、全体を未分化なままで把握しようとする。」とあり、このことが創作に二重以上に重ね合わせられ、興味深かった。前述のように、境界のあいまいな場所で、という行為自体もそうだが、自分では、自分の書くものも未分化なままな部分が多いような気がしているから。
00:01:00 - umikyon - No comments

2006-01-05

囲繞


 「愛の眼差しは孤立化の眼差し」なのだという。あるいは、「愛は異端、自分が離れつつある人間の共同体の、書かれざる掟への違反」なのだと(『ほんとうの私』ミラン・クンデラ、集英社)。彼らを愛するのではなく、彼を愛するということ。彼らから愛されるのではなく、彼から愛されるとき、あなたは彼らから選り分けられ、個別化される。それはひとりでそこにいることなのだと。

 前回ふれたように、偶然の出会い、というものがある。カタログかなにかでみかけた一冊の絵本。それはわたしの小さな頃に読んでとても好きなものだった。買って読む。絵をとおして、読んだ当時のわたしがよりそってくる。過去と現在の出会い、それは永遠のめまいであり、抱擁であるのだった。
 と同時に、そこに書かれた内容をみて驚く。あるいはその驚きこそが、過去との橋渡しになったのかもしれないが。ここにいるわたしがふいうちされる。そのことが、過去自身との共通の事件だから。ともかく、そこに書かれていた物語は、ほとんど今のわたしのそれだったから、と同時に、小さな頃の自分だったから。
 『はなのすきなうし』(マンロー・リーフ文 ロバート・ローソン絵 光吉夏弥訳 岩波書店)。いつもひとりで草のうえで花のにおいを嗅いでいるのが好きな牛のふぇるじなんど。友達とも遊ばず、ただ一人で。
 彼は図体が大きかったので、闘牛場に駆り出されるが、そこでも観客の女性たちがつけている花の匂いを嗅いだりしているだけで戦おうとしないので、元の牧場へ連れ戻されてゆき、いまもなお一人で、コルクの木の下で花の匂いを嗅いでいる。「ふぇるじなんどは とても しあわせ でした。」

 この絵本に出会ったのは、もう何年か前だ。当時のわたしは、一人でいること、に特に目をむけていた。創作という行為をそこに重ね合わせていた。だがこのふぇるじなんどには、心配して様子を見に来るおかあさん牛がいる。つまり、クンデラの書く「愛の眼差し」があるからこそ、安心してひとりでいられるのだ、ともいえるのだ。個別化ばかりでなく、他者という世界からの選り分けばかりではなく。
 幼稚園にいかなかったので、近い年の子との接触がほとんどなかったせいもあり、ちいさいわたしは、いつも一人遊びをしている子供だった。「その頃がいちばんしあわせだといつも思ってました」と以前、どこかで書いていたと思うが、そのことばのなかには、親牛に見守られている牛の子供の、囲いのようなひとりが欲しかった、という意味もまたあったのだろう。そこにさえいれば、ほかの牛たちなどいらないのだ。つまり家族という枠である。
 わたしはその枠もまた、故郷を願うように、いつも望んでいたのだから。つまり、もはやすりぬけてしまうものとして、手にはいらないものへの郷愁として。あるいは『ほんとうの私』で、個別化を求めつつ、他者たちからの愛をもまた渇望する女性とかさなることもあるのかもしれない。孤独であること、彼らのうちにいること。


※写真は、小さい頃、住んでいた辺りにある八幡宮で、この正月に撮ったもの。龍の口からでてくる水は、都内だというのにまだ井戸水を使っているとのこと。わたしが住んでいた時、水道水と共に井戸水が供給されていたのを重ね合わせ、すこし感慨があった。
22:35:59 - umikyon - No comments