Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-02-25

むめの花ざかりに、


 また、今年も梅の季節がやってきた。あちこちで梅祭りなどが開かれている。去年は桜の時期に梅について少し触れた。桜はふいをうって春とともに過去をはこんでくる、梅はしずかに春の予感をもってたたずんでいた、と。今度は梅の時期に書いてみようとふと思った。
 ちょうどこれを書きはじめてすぐ開いた本の頁に(こうした偶然がまた予感の肯定のようでうれしいのだった)、「葉よりも先に花が咲く」こと、枯れ木に花が咲くことから、「死と再生」を桜に見た、それがつまり、再生の春のイメージを体現している、とあったが、それでいえば梅も、葉よりも先に花なのだが、どうして桜ほど春のかんじが薄いのだろう。そして「古代はむしろ、日本人にとって、桜よりも梅の方がよほど重視されていた。『万葉集』には、桜の花の歌は梅の花の約三分の一。それが『古今集』になると見事に逆転して、桜の歌は梅の倍以上になっている。(中略)中国からの強い影響を受けて、はじめは梅を大切にしていたが、平安朝になって、ようやく(中略)日本的なものが現れはじめたときに、梅から桜へと重点が移行したと思われる。」(「 」内はいずれも『おはなしの知恵』河合隼雄、朝日文庫)とあるが、なぜ日本人が春といえば桜、と連想するようになったかがわからない。いや、わかるような気もするのだが。
 『万葉集』では、たとえば大伴旅人の「わが園に梅の花散るひさかたの 天より雪の流れ来るかも」、「雪の色を奪ひて咲ける梅の花 今盛りなり見む人もがも」という歌がある。これには冬のなかにいる花、雪と共生している花、といった印象がある。
 今、あちこちで咲いている梅はどうだろう。それは冬の寒さがあたりにたちこめるなか、月明かりのようにひっそりと咲いている。冬をやぶってやってきた、というより、冬のなかで、そのぎりぎりの際で咲いているのだった。ほんのすきまから、かすかにあまいような香りがただよってくる。それは冬の領域での春の気配だ。雪の色をもつ花。桜のそれはその際をわたったところで咲いているようでもある。扉をひらいた喜びとして。だからお花見は祝祭的ににぎやかに催されるのかもしれない。梅の祭りは、ひっそりとしている。梅見の時は、梅の樹の下を散策しているのを多く見かける。梅は桜とちがい、年月を経たものでも、低木なので、花がすぐそこに感じられる。だが、それもなぜか自己主張せず、奥ゆかしげに目をそっとあわせてくれる、といった感じがするのだが。梅の下で座って、飲み食いを、という情景もたまにみられるが、それも静かにおこなわれている。見ること、嗅ぐことで、愛でているといったおもむきがある。つまり、ここでは扉がひらかれる寸前、さきがけの合図をとどけられるのを、受け取っている、そんなイメージを感じるのだった。桜のそれは春のなかの春の気配だ。そこにいるわたしたちも桜とともに春に参加している、その連帯の喜びだ。だからこそ桜には、春の花、という連想がわくのかもしれない、とふと思う。梅は際の花なのだ。

 わたしはずいぶん前から、ほとんど毎年、満開の頃、ある梅林に出かけている。あたりいちめんの白さ、どこかでお寺の鐘が鳴っている。まるで絵に書いたような冗談としてうぐいすが啼いている、それらしか静寂をやぶるものがない、そんな時間もあった。雨にけぶる白紙のような世界もあった。また四月のようにあたたかい時、梅林のなかで寝ころんだこともあった。あの低い枝たち、満開の白梅が、空をたぐりよせ、空すらも近しいものとしてさしだしてくれるようであった。
 これは恋愛についてだが、ある年齢以降、昔の女たちとしか関係を持てなくなった男の話しがあった。このことは書物や音楽への志向にもいえるのではないだろうか。昔に読んだもの、聞いたものに帰ってゆく。あるいは三つ子の魂、なのか、個人的傾倒にも、日の元に新しきものはない、のだろうか。ともかく、梅もそうして以前おぼえた美しさでもって(だからいつも、白いそれだ)、わたしを招いてくれるのだった。そう、「梅(むめ)の花ざかりに、去年(こぞ)を恋ひて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず」、このかつて読んだほうからやってくる『伊勢物語』もまた、梅を抱え、香りを運んでくるのだった。
 数日前の出勤途中に、公園の散策路で数本の梅をみた。一本は三分咲き位だったが、まだまったくつぼみのそれも数本あった。その咲いていない枝たちをみているうち、「つぼみはこんなにも柔らかいのだ」と気づかされ、温かい、白い優しさにつつまれるような感覚になった。そう、梅の、いつかの想いに。

 ここまで書いて、梅について書かれたものたちをひらく。そのなかに、二月二十五日は、梅と関係の深い菅原道真公の忌日で、京都の北野天満宮では道真の霊を慰める大祭〈梅花御供(ばいかごく)〉が行われる、とあり、また日付が重なった偶然が、香りをはこんでくるようでうれしくなる。

  ひとはいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
   (紀貫之)


*ある梅林:越生梅林、埼玉県越生市
*写真は府中市郷土の森
00:01:00 - umikyon - No comments

2006-02-15

宝石箱のなかの豹


 「……画家である私――注目に値する点はそれしかない――について何か知りたいと思う人は、注意深く私の作品を見て、その中から私が何者であるか、私が何をしたいと思っているかを理解するしかない」。これはグスタフ・クリムトの唯一残されたタイプ原稿にある言葉だ。唯一、つまり画家の文章がこれ以外に残っていないことも、「何か知りたい」のなら「私の作品を見て」…を後押しする。画家は続けて書いている。「言葉を話すことにも、書くことにも才能はなく、特に自分自身や自分の作品について何かいわなければならないとなるとなおさらだ」から、と。書いた文字のなかにではなく、描いたもののなかにあるものたち、について。
 以前、ここでこの言葉について少し触れたが、わたしは画家のこの言葉に強くうなずくものだ。多分、クリムトは生い立ちであるとか、育った環境、生活などにすら、重きを置いてなかっただろう。「画家である私――注目に値する点はそれしかない」なのだから。
 だから、あるいはそうでないのかもしれないが、わたしは詩人、画家、小説家たちの生活や、年記的なものにながらく、ほとんど興味がなかった。なぜか。たとえば、このごろの例でいうと、テレビで杉村春子の生涯をやっていたが、女優としての彼女とは、まったく別の、ほとんど関係のないお話だった、そんな風に感じられていたからだ(ただ、演じた米倉涼子は杉村春子より美人すぎたが、表情が杉村春子にみえることが多々あり、そのことに女優を感じた)。作品と実生活。根にあるものは、もちろん共有しあっているはずだが、その共有は、その人の作品をみればよいのだから、と。
だが、フェルナン・クノップフ(一八五八―一九二一年、ベルギー)。彼について、わたしはほとんど絵しかしらなかった。字については、偶然手に入った古い『美術手帖』(一九八九年三月号)の特集で若干を、後は象徴派展のカタログなどでの解説、でしか知らなかった。ほか、全画業を網羅しているらしい、分厚い洋書を一冊もっているが、ベルギーの言葉らしく、まったく読めないのだった。
 クノップフについては、だから、絵だけと思いながらも、その心情(意志というほど確かではない)に反して、その生活のほうから、絵と共有する面をたぐりよせ(光の当たる角度を代え)、絵にことばをのせたいとおもったのだった。ことばをのせることで、彼の絵にたいする自身の想いを、彼の絵を、記憶の宝石箱に入れたかった。そうすることで、彼の絵を手元に置きたかったのだ。
 ネットで検索しても、クノップフに関してはあまりたいしたことは分からない。展覧会も、象徴派展としてはともかく、彼個人のものは、日本ではほとんど開かれていないようだ*。画集に関しては、たった一冊、岩崎美術社から『夢人館 5 フェルナン・クノップフ』が一九九〇年に刊行されているにすぎないのだが、それも今は品切れだ。
 『愛撫』、別名『芸術』、『スフィンクス』とも呼ばれる一枚の絵(写真の画集の表紙(ただし部分)、一八九六年)。チーターの姿をしたスフィンクスが美しい男(あるいはアンドロギュノス)に頬ずりをする恍惚。男は真っ正面に、つまり私たちを見据えている。スフィンクスは眼をとじている。背後にある風景は、門(たぶん天国)と墓。わたしはこれが大好きだった。めくるめく強烈な出会い、ではなかったが、年々、愛しさをましてきた、慣れしたしんだ恋人のように好きなものだ。いま、これを書いていて気づいたが、この男とスフィンクスはあうんのようなのかもしれない。ひらいた眼(口)ととじた眼(口)。恍惚とした快楽が死にちかしいこと(スフィンクスは棺のうえによこたわっている、という説もある)。だが、こうした解釈からこぼれて、こぼれたものたちを含めて、わたしはこの絵が好きだった。
 あるいは、鳥人間のような、鷲のすがた、人の顔で崖のような場所で屹立する『眠れるメデゥーサ』(一八九六)、鎧姿の天使が、虎の姿のうつくしい女性の頭に手をなだめるように、あるいは眠らせるように添えながら、夜空のなかを同じように立っている『ヴェレーランより―天使』(一八八九)。この孤独な表情が、見えなさへの入り口のように好きだった…。
実は、そのたった一冊、夢人館の画集を古本でようやく手に入れることができたのだった。神秘にみちた期待につつまれながら、彼について書かれたことを、彼の絵について書かれたものを読む。
 これもふいうちなのだろうか。「水面を見つめる美少年は、実はクノップフ自身ではなかったか」、「自分以外必要としなかった」、「それは要するにナルシスの視線である」、イギリス紳士を気取ったしゃべることを極力ひかえたダンディー(それもまた、「自己還元的なナルシシズムで」)、とあり、『美術手帖』のそれには妹だけを愛した独身者(彼の描く女性には、すべて妹の面影がある)としても書かれていて、ともかく、二冊をあわせると、彼の絵からうける感じとの違和をおぼえてしまうのだった。そう、「何か知りたい」のなら「私の作品を見て」)、にうなずくといいながら、その作品以外について、すくなからずショックを感じたのだった。
 あるいは、わたしが特にナルシスムということばに対して、あやまった解釈をしているのだろうか。『美術手帖』では、彼が描く多くのアンドロギュノス的な人物に対して、「そのナルシスムは、プラトンがいう両性具有の「存在したはず」の統一体を求める情熱的探求以外のなにものでもない」(宮澤政男)とある。また「女の魔性をとり込み、両性具有を渇望する」完璧さを求めた隠者(小池寿子)としてアンドロギュノスについて書かれた箇所もある。これらで語られたナルシスムは、他者をもとめる姿でもあり、錬金術的に(彼は神秘主義者でもあった)、生臭い性を美に昇華させた(あるいは性の本質を描こうとした)その姿に対するものである。
 だがやはり、ナルシストのもつ自己愛というニュアンスでは出口がなさすぎるのだ。彼が自身を見つめたのは、あるいは彼が鏡と共に好んで描いた水景に象徴されるように、魂のほうへおりてゆくことだ。それは「自己完結的」では決してありえない、魂たちのほうに、だとわたしは思うし、どこかで魂がふるえるからこそ、その絵がわたしにとって美しいのだとうなずいている。
 だが画家自身も「私の理想の徳は、完全なる自己崇拝である」と語ったり、住まいにしつらえた祭壇に「自分には自分しかいない」と銘を打ったりしているので、この線びき――魂のほうへおりてゆく、つまり昇ってゆくことと、出口のなさをたどってゆく――はむつかしいものだ。「注意深く私の作品を見て」…。
 いや、わたしが画集を見る前から、ながらく画家の生活を勝手に夢見てきたせいかもしれなかった。『美術手帖』の解説や説明だけでも、実は十分に書かれてあった内容は予測できたはずなのに。わたしはそれらを見事に忘れてしまっていた。あるいは、クノップフの生活を、性格を、絵のむこうに、もやのなかに押しとどめてしまっていたのかもしれない。彼にだけは「画家である私について何か知りたい」時、生活にそれを望んでも答えが得られるのだ、と思っていたようだ。だから彼について書かれた文章たちにあれこれいうのは酷なのかもしれない。おそらく、どんな文章、どんな生活ですら、もやのなかにわたしが織り込んだそれとは合うことがないだろうから。昔の、銀幕のスタアと呼ばれていた女優たち。彼女たちの生活は想像できなかったのではない。彼女たちの生活をわたしたちがスクリーンのうらに押しやりながら、別の生活でくるんでしまったのだ。
 もういちど、画集を、特に絵をみつめるためにぱらぱらとめくる。ここでは洋書に載ってなかったか、小さいモノクロ写真としてしか観たことがなかった作品たちに出会うことができた、と気づく。
 そして今はまだ語ることができないが(つきつめて考えるには早いのだ)、ある絵(『私は私自身に扉を閉ざす』)では、静物たちが作為的に配置されていることにより、「日常性が意図的に排除されている」と指摘している箇所が、美と生活についてのひっかかりを示してくれた。
 宝石箱のなかでざわめく蒼。彼は蒼がすきだった。それは宗教的なものも含めさまざまな蒼だろうが、彼のいたベルギーでは、青い空をみることがほとんどなかったということも理由のひとつではなかったか。生の場所から、生の美しい可能性を見つめること。とまれ、宝石箱のなかで、クノップフたちはあらたなひっかかりをもって、わたしに語りかけてくるのだった。
 もういちど、今度ははじめから画集をひらく。実はまっさきに出会うのは、童話とも散文詩ともとれる文章だ。『夢人館・初夏』(小柳玲子)。夢人館で上映された「ビリー・ハッケの物語」のこと、連れていってくれた叔父のこと、ベルギーの風景、たんぽぽの綿毛、青、そして「叔父は少年にもなれず──叔父を憶えている数少ない人間である私が叔父の少年時代を知らないのだから──」、ここではクノップフのことは描かれていない。だが、奇妙にクノップフの絵をそこにまとわりつかせてくれるのだった、彼の絵を照射してくれるのだった。だから、どんな生活も、と書いたが、それはあやまりだ。あの銀幕のスタアをめぐる生活、ことばたちが、そこここにあふれ、絵にたたまれてくるのだった。
 たとえば、鏡にうつった自分に口づけをする女性、『グレゴワール・ル・ロワとともに──私の心は昔に泣く』(一八八九年)という絵がある。鏡のまわりに、橋をもった水の景。私はこの絵から、景色とともに、自身の過去ですら、離れてしまうのだ、そのことにたいする惜別の涙だ、と感じていた。これはグレゴワール・ル・ロワという詩人の同名の詩集の口絵なのだが、そのル・ロワの詩も、かつて愛した女性たち、いなくなった彼女たちと、自身の過去にむけた言葉だったから。この過去と叔父との過去がこだましあって、そして青、空、たちが、宝石箱のなかでさざめいて。


*桐田真輔さんから、日本で開かれた「フェルナン・クノップフ展」のことについて、コメントをいただきました。
下記ご参照くだされば幸いです。桐田さんありがとうございました。
00:01:00 - umikyon - 2 comments

2006-02-05

名づけえないもの


 子供のわたし、わかい私は傷つきやすかった、だがとてもしなやかだった。そうしなければ折れてしまうだろうから。またある時期、つらいことが冗談のように押し寄せてきたので(一定量以上のそれはもはや喜劇のほうに振り子はかたむく)、傷が飽和状態に達したことがあった。痛みにまひしていたようだった。だが、その傷は奥までおりてこなかった、どこかで押しとどめる強さがあった、ような気がする。そのわたしは押しとどめながら思っていた。もっと年を取れば、悲しみに慣れるだろう、心が鈍化するだろう、そして現実的にもこれほどのナイフの波はおとずれないだろうから、後の人生では傷つくことなく過ごせるだろう、と。パンドラの箱だ。まだはじまったばかりのそこには希望があった。
 「名前が分かればもう怖くない、対処のしようがあるということ」(朝日新聞十二月十八日、河合隼雄)。そのわたしは、傲慢でもあった。名付けられないものたちのもたらす傷にいい加減な名前をつけてはおしまいにしようとした。それはことばにたいする冒涜だ。そして当然毒にも薬にもならない処方だった。だがそうでもしなければ、たちむかうまねごとでもしなければ生きてゆけなかったのだ。
 いまは、怒濤のつらさは突き刺さってこなくなったが、その分形而上的に波はやってくるようになったのかもしれない。つらさは空気にそっとしのびこんでやってくるのだった。しらずと蓄積され、なれることのない毒としてたまってゆく。それらは名付けることがむつかしいものだ。現実的な出来事ならば、これこれが理由で…といえる分、傷のいやしかたもあるのだ、毒の中和もできるのだ、ということ。名付けることで、安心すること、あかるくなること。
 わたしはもはやかつてのように性急に名前をつけることがない。それはある日、ふっとやってくるものだし、どうしたってやってこないままの存在もまたあるのだから。
 そして心は鈍化しなかった。むしろ感受性は若い頃よりつよくなっただろう。いまはふいに、花をみて、空をみて、もぐりこむように美しさにひたることがままある。以前なら気にもとめなかったか、意識的に努力して、理屈をつけて、つまり名付けることで、美と近づこうとしていたのだが。感受性は反面(いつだって反面はついてまわるのだ)、マイナスのすべてのことをも受け取ってしまうものでもある。名付けることなく、名状しがたさに美を感じていたとしたら、やはり名付けがたい怖れ、名もない醜さにもそれを感じてしまうのだった。

 出かけるのがますます重くなってきた。人々と接するときにくる怯えの量がふえてきた。出かけた次の日、わたしはいつも名前のない怯えのかたまり――誰それの言動が、という見やすいものがそこにはほとんどない――が重さをもってこころをおしつぶしてしまうのに甘んじていなければならなかった。それはいつからだったろう。そのかたまりは翌々日には重さを失っていたので、なんとかなっていた。だがそれもだんだん…。いや、それはそれとして受け止めるしかないのだろう、感受してしまうことを、意識レベルでも。それも名前のなさを受けることなのだ。

 生きるのがつらいのです、助けてください、という内容の手紙をある人から何通もいただいている。何年かにわたっていることからも、それはせっぱ詰まったものではないことがわかる。崖から落ちそうであるのなら、こちらも手をさしのべるだろう。だが、彼のその崖は、彼のこころのうちだけにあるものだ。助けとは、あの名付けえないところとの接点にあるはずだ。そこに他者とのかかわりもある。なぜなら、それは普遍だから。
 去年の秋にきた手紙はまだ封をあけていない。そうして年とともにしなやかさにささくれがめだってきたのだ。ひりひりすること、風をうけとめること。名付けえないもののうえを通過するあまたの。また一通やってきた。ふいをついてみつかることばだ。
23:22:38 - umikyon - No comments