Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-06-25

鳥の仮面


 かつて自分をコウモリに見立てていた頃があったと思い出す。あの動物でも鳥でもないもの。
 いつからか人々と会うと、それだけでたいていとても疲れてしまうようになった。
 人はわたしを嫌うもの、とどこかで小さい頃のトラウマがさわいでしまうのかもしれない。嫌うという前提があるので、親しい人との語らいでも多少は緊張してしまう。わたしは必死で鳥の仮面をかぶり、彼らに嫌われないようにする。
 アンナオモイハイヤダ…ひとことでいえばそんなことだが、じつはもはやことばからはみでてしまう、思い出すというのか、覗くのも怖いもの。たとえば手のとどかないどこかに黴が生えてしまう、洗うことができないまま、それはますます生きつづけ、ますます得体のしれないものとなってしまう。そんな黴の恐怖が、鳥の仮面をつけるように強要するのだった。トリノヨウニフルマエ。だからこの動作じたいがことばからはみだした黴なのだ。
 集まったひとびとが何か詩的な話しをしている。わたしはどこかで思っていた、ああ、これはうつくしいことが語られている、けれどもほんとうにことばがとおかった、わたしには記憶することが、ちかづくことがどうしてもできなかった。仮面をかぶることに気をとられて、それが壁となり、声がわたしにとどいてこなくなってしまう。はねかえってしまったことばたちはどこへいってしまうのだろう。
 鳥の仮面が顔に合っていないとも感じている。仮面にたいする違和が、そのまま人々とわたしのあいだの距離になってゆくように感じられる。悪循環なのだろうか。ほんとうは仮面など必要ないのかもしれない。コウモリのままでよいのではないだろうか。けれども、ますますかぶり、鳥である彼らに似せようとするのだった。違和は疎外感として、わたしをとりまく。
 うちにかえってひとりになる。緊張の時間がつづいたので、こころがとてもさわいでいる。そんななか仮面をはずすのだが、違和はなかなかはなれてくれない。ひとりのまま距離をかかえる。それは夢にまで侵入してくる。幾晩にもわたり、距離を思い出させる。仮面をもうつけていないのに、と寝床のわたしは思っている。
 わたしはいま、数日たってもまだはがれない仮面にうなされている。今朝の夢に、以前みた夢で、わたしが死んだ後のことを頼んだ高校時代の友人がまた出てくる。彼女と食べるために、果肉のはいったゼリーをスプーンで二つのガラス容器に分け入れている。その動作が生ゴミを捨てる動作と二重合わせになる。きたなくないだろうか、気づかないだろうか、とわたしはどこかでおびえている。鳥の声が猫の鳴き声にかき消される。
 性急な夢判断は避けなければいけない。けれども、概して夢に出てくる同性の友人は、自分が生きなかった反面、影や無意識のあらわれであるという。彼女はわたしがなりたかった鳥なのかもしれない。そして生ゴミは黴の影だ。
 けれども、コウモリのままでもちろんいい。夕方、うちの近くでも、小さなハングライダーのように、けれども早送りをしたような感じで、飛ぶのをみかける。この日もたまたま眼にした。
 また、この日(だがほんとうはどの日だったのか)、乱歩のくれた蝶が、階段で踏みつぶされていたのをみる。もちろんべつの蝶だし、場所も微妙にちがっていたのだが。なにを乱歩はいいたかったのか。わたしのなかで夢のゼリーとかさなる。鱗粉は黴にも似ていた。だからそれは仮面のことばでもあるだろう。生と死、そしてきれいときたないのあいだを、鳥の仮面でも、獣の仮面でもなく、彼は誰時の蝙蝠がささくれのように飛んでいる。
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2006-06-15

乱歩変奏曲


 『乱歩地獄』*をDVDで観る。去年の秋に公開されていたものだが、観そびれてしまっていたもの。江戸川乱歩の短篇小説、『火星の運河』(監督:竹内スグル)、『鏡地獄』(監督:実相寺昭雄)『芋虫』(監督:佐藤寿保)『蟲』(監督:カネコアツシ)の四話を、それぞれ違う監督が撮影、オムニバスになっている**。
 怪人二〇面相シリーズならともかく、乱歩作品は映像にするのがむつかしいと思うし、実際、この四話は長らく映像不可能とされていたという。乱歩の描写は、それだけで映像をぐりぐりと押しつけてくるような生々しさがある。読むこちらは汗腺ごとひらかされ、彼の描写をむさぼるようになってしまう。行間にながれだす読む者の想像力と文章があまりにも強固に結びついてしまうので、ほかの映像、ほかの解釈が混入してくるのが困難なのかもしれない。それはおどろおどろしいから、ばかりではない。たとえば『押絵と旅する男』の郷愁あふれるさびしい愛、『パノラマ島奇譚』のユートピア的幻想も、ことばとそれを喚起するわたしたちの暗黙の了解、としてかなり密接な関係をつくってしまうと思う。けれども、読み手の数だけ読書がある。あなたの読書がわたしのそれとまじりあうことで、べつの読書が連鎖的に発生するだろう。読むことでなにかが生まれるかもしれない。行間に他者の映像がかさなるということは、観る側にとっては、そういうことだ。他者とふれること。ミラン・クンデラは、ディドロの小説『ジャックとその主人』を劇の脚本にするにあたって、これは「ディドロを主題とする変奏曲」であり、「ディドロへの賛辞」だといっている。それはけっして縮尺でも書き直しであってもならない。それは「小説への賛辞」でもあるのだから、「劇作家としての」彼が発見しえなかった形式の自由を、独創として組み入れることが、変奏曲なのだ、と。あるいは「この「変奏曲=賛辞」は、二人の作家の出会いであり、ふたつの世紀の出会い、そして小説と演劇の出会いでもある」つまり、出会うからには、均衡が必要なのだ。彼の独創に独創を。そう、ここ『乱歩地獄』では、映画と書物の出会い、書物と映画とわたしの出会いでもある。
 この四作品では、それぞれオマージュ、変奏がなされていたと思う。行間(あるいはまばたきの間)に彼らの独創がにじんできた。『鏡地獄』では、原作にない殺人を挿入することで、『芋虫』でも、原作で登場しない明智小五郎と怪人二十面相という乱歩のキャラクターを挿入することで。『火星の運河』では、ほとんど音声の入っていない不自由さで、あたかも読むことに映像がはいってこないことと対応するかのように、そのことでわたしたちの想像をかきたてるかのように。映像もまた、極度にそぎおとされているのだった。自由さの獲得した自由、なのかもしれない。けれども、わたしが乱歩に感じているもりだくさんの絢爛さがそこにはうかがえず、すこし物足りなかったが。そこには「万華鏡を一転して、ふと幻怪な花を発見した」ような沼はなく、ただ鏡の比喩としての水面があるばかりだった。
 ともかく、そして、『蟲』。わたしには最後に置かれたこの作品がいちばん印象に残った。それはかなり圧倒的だった。原作は幼なじみで今は女優になっている木下芙蓉を人間ぎらいの主人公、柾木愛造が、愛のために殺害するが、映画では女優(緒川たまき)の運転手、柾木愛造(浅野忠信)が殺害する。この設定がまず挿入。思い出(過去)をばっさり切り取ることで、焦点を今に集中させているのかもしれない。どちらでも、ひととふれあうこと、というより生きるものとふれあうことに嫌悪をおぼえる主人公(映画では、女優に贈る花束すら造花であった)がいる。その彼が愛造の名前のとおり、愛を造るのは、生きていないものに、だけである。芙蓉は、死んではじめて、彼の愛するものとなった。ここまで、映画では変奏として、「木下芙蓉」、「柾木愛造」と、章題のように、画面に文字があらわれる。この場面での主人公ということなのだろう。監督は漫画家でもあるということなので、そんな頁をめくるようなしかけを思いついたのかもしれない。紙芝居のようだ、とも思う。そう思うとき、怪人二十面相たちが紙芝居になっていたであろう時代に思いをはせたりもする。変奏が、乱歩を側面からひきよせてくるのだった。そして最後の章題として、「蟲」という文字があらわれる。蟲とは、そのうつくしい死体を内側から蝕むもの、時間に荷担し、壊すもののことでもあった。それは、愛造にとって、生きること、自然だ。ここで、それと対立し、対抗するものとして、生に抗う不自然、芸術をおく。時間の経過と共に変化してゆく芙蓉の死体(この描写が原作も、そして映画も、とてもなまなましい)にさまざまなことをほどこす。愛を造るのは、美を造ることでもある、というように。「最初はただ屍斑や陰気な皮膚を隠すのが目的であったが」、作業そのものに熱中してゆく。「彼は死体というキャンバスに向かって、妖艶なる裸像をえがく、世にも不思議な画家とな」ったのである(「 」内はすべて小説(創元推理文庫など)から引用)。
原作では土蔵の二階だったが、映画では、パノラマ島のような、ルソーの描いた絵のような、けれどもかなりキッチュな作り物の木にかこまれた白い円形の空間に、針金細工にピカピカとひかる電球のオブジェが祭壇のようにしつらえられ、そこに死体となった木下芙蓉が横たわっている。この人工的な空間もまた、生に対抗した生きていないもの、美なのだろう。そして、森は、じつは愛造が通っている皮膚科の壁にかかっている絵とそっくりであった。このことに愛造自身が気づいたとき、彼のなかでなにかがこわれた。それは、とおいところで、耳鳴りのようなかたちでなら、わかるような気もするが、わたしにはまだことばにできないものだ。病院で絵を見た瞬間から人工楽園はなくなり、マンションの一室の壁にもたれている死体があらわれる。足がふくらんでいるのがわかる(蟲による瓦斯の発生)。原作では、膨張ののち、ショックをうけた愛造がこわれるだけなので、この変奏は、特に美にまつわるゆたかな調べをかもしていると思った。彼は町中でおじぎをし、謝ってまわる。自首さえするが警官は笑ってとりあわない。何に謝っているのか。生にたいして、だったかもしれない。美は生死とむすびついてあるものだから。「蟲」はまだ生き続けている。生死をこえた彼岸に触れることは、美醜が密接にあることを知ることでもあるのだろう。愛造は、ほんとうの美にふれたことで、こわれたのかもしれない。美は生きていないものではけっしてないのだから。
観終わって、原作を読み返してみる。じつは『蟲』に関しては、もともと印象に残っていたからなのか、読むまでもなく、映像のなかに、ほとんど原作の物語を読んだ折の印象を思いだし、重ねてゆけたのだった。いや、それは、変奏の無理のない奏法によるのかもしれない。こわすことなく、彼の個性を投入することで、ゆたかな、べつの行間がかさねあわさってゆく。そして印象の瞬間――ヤクザ映画を見終わって外に出たひとびとが肩を切って歩くあの時間――をのばしたいと、『蟲』を読むうちに、こんどは、白い行間に映画がながれこんでくる。わたしの読書が映像のもたらす変奏曲に共鳴したのだった。それは心地よいというには、あまりにも赤裸々な生とその裏側の感触だったけれども。死んだところから生きはじめる蟲たちのざわめきが、身体の内側でひびいている。
 次の日、地下鉄入口の階段に、黄色い蝶が死んでいるのをみつける。アゲハでもモンキチョウでもない、知らない蝶だった。羽がきれいだった。乱歩がわたしてくれたものかもしれない。

*『乱歩地獄』(二〇〇五年/日本/配給:アルバトロス・フィルム/DVD販売元:GENEON)
**浅野忠信は、全編を通じて出演している。明智小五郎であったり、柾木愛造であったり。そのことで、乱歩作品という糸に、また一本筋をとおし、数珠をつなぐようでもあった。

(写真はオディロン・ルドン《オルフェウスの死》(1905―10年頃、岐阜県美術館))
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2006-06-05

浮遊する猫


 なぜわたしは猫について詩に書かないのだろう。猫について書かれたものを読まないのだろう。わたしにとって一緒に暮らしている猫は日常に属するものだから。この日常は排除すべきものではない、愛着のある、大切な部分なのだが、創造を羽ばたかせ、非日常のほうへ、それをつうじて世界へわたるには、枷になってしまいそうなものなのだ。わたしが鍋を描けないように。猫について書かれたものを読まなかったのは、なんとなくそこに書かれている猫と飼い主の間にある愛情が、彼ら自身にのみ関係しているようで、ひらかれていないと、移入できなく思ったからだ。あるいは日常のことば、わたっていないことばたち(偏見もあるが、そうでないこともあると思う)。
 最近『猫だましい』(河合隼雄、新潮文庫)を手渡してくれた詩人がいた。日常と距離を保つこと。愛着や拒否も、対象と距離が取れないことからくる。「あらゆる真理と、ぼくとの関係は永久に二十センチ以上、近づくことも遠ざかることもできない」と寺山修司はいう(『地球空洞説』)。その距離は非日常と距離を保つことでもある。保った距離こそが、双方を往還することができるのだ…。そのバランスについて、その詩人は考えさせてくれた。彼の詩は、たとえば鍋、台所という日常世界と書物世界を、ひいては世界を自在に横断している。それはひらかれた圧倒的な行間だった。「包丁でりんごの皮を剥いていたゆびさきが、テーブルの上の本をめくると、二三〇〇年前の風と川の光……。」その彼が、台所へのわたしの拒否につぎ、猫にたいする愛着について、わたるものを差し出してくれたのは、ふしぎな符丁だと思った(ほんとうはこうして知人や友人を文章に出すのも苦手である。せめて彼の名前と引用した詩集は後に挙げ、距離をとる助けにする)。
 『猫だましい』は、数ヶ月前、個人的河合隼雄特集(わたしはしばらく同じ作家を続けて読む癖がある)をやっている時に知っていたのだが、跋文に「カワイ先生は実は猫が大好き。…古今東西のオススメにゃんこ」とあったので、つい引いてしまっていたものだった。
だが、ページをめくる。『猫だましい』は、「たましい」と「だまし」を掛けたことば、なぜなら「「だまし」なしに「たましい」を語るのは不可能である」から、とある。そして犬ではなく、猫のほうが、「たましいの不可解さ、とらえどころのなさをはるかに感じさせるように思われる」し、そうした猫の物語、歴史(古代エジプトや魔女の使い、化け猫など)も多いので、和洋の猫の物語、小説から、たましいとの連関として語りたいとある。猫は距離をうけとり、浮遊しているのだった。
 「たましい」についても、おもしろいことが書いてあった。「一本の線分を二つに切断するとき、それぞれの端に名前をつけて明確にすると、必ずおちる部分がある」。これを「連続体問題」というそうだが、人間存在を「心」と「体」に「分けた途端に(中略)失われるもの、それを「たましい」と考えてみてはどうであろう」。つまり、つなぐもの、わたるものだ。
 たとえばエジプトの猫の神(バステト)は、破壊の神であり、癒しの神でもある。太陽でもあり月でもある。この錯綜、ひとすじなわでいかないところが、たましいを思わせるのだろう。なんらかのだまし、といったことはそういうことだ。ちなみに、この破壊と癒し(治癒)が、キリスト教により、異教ということもあるだろう、魔女と結びつけられもしたという。
 この本には、ギャリコ、鍋島猫騒動、コレット、さまざまな物語の中の猫がでてくる。『長靴をはいた猫』のトリック・スターとしての役割(聖俗をわたる、非日常、日常をわたる、やはりたましいの問題だ)。宮沢賢治の猫もまた、日常と非日常を風とともに行き来するものとして掲げられている(『どんぐりと山猫』『注文の多い料理店』など)。
 つまり、ちょうどわたしのネック、日常と非日常の往還が、たましいにかさなってゆくのだった。かれらの書物を読んでいるのか、たましいを読んでいるのか、猫を読んでいるのか。この連続がここちよい。そしてわたしもまた日常の猫からはなれなければいけない。
 そのためにか、どうか。今日はこの本に取り上げられていた『牡猫ムルの人生観』(E・T・A・ホフマン)についてすこし触れてみたい。この本は、だいぶ前に、角川文庫の復刻版で読んだ(今は残念ながら手に入れるのがむつかしいかもしれない)。なつかしさをこめて、なつかしさが日々からわたしを浮き上がらせてくれるかもしれない、と。
 これは漱石の『我が輩は猫である』のように(時代はホフマンのほうが古い)、牡猫ムルが書いた自伝であり、まとめたのがホフマンであるという。ただしムルが書く時、「自分の主人のところにあった書物を遠慮なく引き破って、下敷きや吸い取り紙に使用した」ものも間違って印刷してしまったので、「楽長ヨハネス・クライスラーの伝記」が断片的に入ってくる。つまり、ムルの自伝とクライスラーの伝記、二重の書物となっているのだった。この二重性に、わたしは当時、わけもなくひかれたものだった。クライスラーのほうは断片だが、筋がまったく掴めないほどバラバラにはなっていない。錯綜のなかに整合性があるのだった。また、作者のホフマンその人も楽長をつとめたことがあるということが、クライスラーに重なってゆくこと、またホフマンは大審院判事も兼ねていたので、それがムルの客観的な視線にも重なってゆくのだった。そしてムルとクライスラーは全く関係がないわけではなく、それぞれの物語のなかで端役を努めているということ、これらもまた混在しながら、均衡をとっているのだった。ムルの恋の物語とクライスラーの恋の物語もかさなるだろう。これはわたしたちをとりかこむ世界そのものではなかったか。ムルという猫が筆を取るという非日常性が、漱石の猫のように冷静に人間の住む日常を観察していることも含めて。
 『猫だましい』では、断片的に入ってくる伝記について「日常生活に、ときに思いがけず「たましい」が顔を出し、それによって自分の人生の文脈が混乱させられること」と対比しているが、「たましい」はここでも二重以上に日常たちにかさなり、わたってくるのだった。
 そして、わたしはわたしなりに二重以上をかさねてゆく。「『昔話と日本人の心』(河合隼雄、岩波現代文庫)に、昔話の「日常・非日常の空間構造を、心の構造として読みとると、意識・無意識の層と考えることも出来る」とあった。」と、どこかのあとがきでわたしは書いている。あるいは、意識・無意識の層という連続体をつなぐのが、たましいではなかったか。そして、その同人誌は、偶然だが、猫に関係する名前を持っている。バステトもでてくる。破壊と癒しの眼をもつもの、恋と音楽の神でもある。
 わたしは今日以前から、すこしずつ日々の猫からはなれてゆこうとしていたのかもしれない。近づくために。
 そして、今日『猫だましい』のお礼などをメールしたら、簡潔に、風のようなことばが返信されてきた。わたしの書いた猫の詩を読んでみたい、と。符丁たち。

*『パルナッソスへの旅』(相沢正一郎、書肆山田)。
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