Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-08-25

波紋のリズム


 実は最近、十数年ぶりに『道化的世界』を読み返していた(七月二五日の日記などに出てきています)。バスター・キートンについて書かれた箇所で、「偶然、または独自のスタイルで」世界に放り込まれたキートンを笑うことにより、「これらの人や事物を日常世界の秩序から切り離し、彼がその怪獣(キメラ)的な異貌性と、彼の持ち込んだ混沌の中から立ち現れる宇宙的リズムに支配された演技によって次第次第に築きあげていくコスモスに、万物を巻き込んでいく」とあった。このリズムの共通性が、「詩的言語が道化(この場合はキートン)の身振りと切り離すことの出来ない所以で」もあるのだが、それはともかく、最初に読んだ時につけた付箋に心ひかれた。付箋には「偶然がよくわからなかったが、日常的連続に投げ込まれた石のようなものが偶然なのだ、小石を投げ込んだときの波紋」と書かれてあった。
 そこから、「ただ偶然だけがメッセージとしてあらわれてくることができるのである。必然的におこることや、期待されていること、毎日繰り返されることは何も語らない。ただ偶然だけがわれわれに語りかける」を思い出した。あるいは「必然性ではなしに、偶然に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い下りてこなければならないのである」(共にミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』集英社文庫)。なぜなら、恋もまた偶然に近しいから。ふいに日常におとされた小石だから。あるいはそれは思いがけなさでもあるだろうか。付箋のメモに出会ったのも、思いがけないことだった。過去のわたしがメッセージを送ってきてくれた、そのことでなされた対話で、ゆれあったようだった。
 先日、近所の赤塚植物園にいった。この季節は花が少ない。彼女たちにも暑すぎるのだ。だからあまり期待しなかったが、サギ草の白い花と、ハンゲショウの半分白くなった葉に、やさしい波紋をかんじた。そして樹々の小道に入り、蝉の声のあまりのかまびすしさに驚く。それは今年の夏をふりしぼって流れ出したすべての蝉のさけびのようだった。それは圧倒的だった。蝉の森を通り抜けたあと、まだ蝉たちを残響のように感じながら、こうした思いがけなさこそが、と思っていた。ふいの詩、ふいの接点。
 またそれから数日経って、のっぺりとした駐車場で、とつぜんヒグラシの声を聞いた。カナカナカナ…。あたりには一本の木もみえない。わたしはこの音を聞くのがいつの夏もとても好きだった。それもまた夏の投げ込んだ小石だった。小石は、去年のわたし、おととしのわたしをも巻き込んでやってきただろう。これらの小石の落とす波紋をみつめること。波紋は、日々に開いた小さな穴でもあるが、その穴から注入されるメッセージはそれこそ「宇宙的リズム」をもっている。また、それが必然の外から立ち現れるものであるならば、本質的に暴力を含まざるをえない。恋も偶然に近しいといった。「男女の愛は、好むと好まざるとにかかわらず、常識、理性、自我の世界を砕いてしまい、「肉体としての私」をあぶりだしてしまう。(…)男女の愛は、「開かれた世界」の神秘的な響きあいに属し、一目で了解しあう磁場の中にある」(中村文昭『諸註という書物』えこし文庫)。それは世界を砕くリズムとしても近接しているのだろう。過去へ、未来へ、波紋たちが音をたててひろがっている。
00:01:00 - umikyon - No comments

2006-08-15

赤い屋根、白い壁


 日本経済新聞八月六日「美の美」シリーズがセザンヌをとりあげていた。セザンヌと富裕な商人であった父との葛藤と愛情について書かれていたが、それはさておき、《赤い屋根の家(ジャス・ド・ファン)》(一八八五―八六)。誌面には、セザンヌに父親から残されたアトリエ兼別荘とある。ともかく、この一枚の絵にとても惹かれた。青々とやさしい木立、明るいやわらかな日射しを浴びてぬくもっている壁、赤い屋根から手招きのように煙突がつきでている。セザンヌの風景画にはもっと、硬質な風が塗り込められていると思っていたが、《赤い屋根の家》には、愛情、追憶、やさしいものすべてが故郷のようにあふれていた。だから誌面にあったセザンヌと父との関係も、その絵を見れば、絵の具に溶けていたと思う。
 そして神戸のうろこ美術館で見た、ユトリロの《ミミの家》を思い出した。坂の上の赤い屋根の家。つつむような、けれども透ける日射しが感じられ、やはりユトリロのかなしい壁の印象はうすれ、すぐそばにある故郷のような愛情だと思った。もちろん、たどりつけない場所なのだったが。いや、こうした絵をとおして、共鳴しあう、そのことだけが、たどりついた、ということになるのだろう。

 『旅と画家』展(七月一日〜八月十三日、山種美術館)に出かけた。日常ではない非日常としての旅を日常に吹き込むこと。これはたとえばヤコブソンのいう、「不条理の詩的構成が再び新たに喜びを与え、新たに怯えさせ、新たに衝撃を与えるためには、新たな素材の流入、日常言語の清新な諸要素の流入が、不可欠になる。」(『ロシア・フォルマリスム論集』1 せりか書房)と同質のことだ。このとき風が真摯な現実への視線をかいま見せてくれるのだ。もちろん、それは旅でなくともいいのだが。
 奥村土牛《那智》(一九五八年)の黄土色の岩、木々のなかに流れる真っ白ないっぽんの瀧。のっぺりとした、流れというより、布にみえる水。激しさのないそれは、観ているうちに不思議と静謐な水底を現出させてくるようでもあった。「新たな素材」で造られた瀧が、わたしたちの奥底にながれる水の匂いをつたえてくるのだった。
 東山魁夷《白い嶺》(一九六四年)。冬の夜の針葉樹林。枝にかぶった、もっさりとした雪の白さたち。《那智》の瀧が入り口の布、カーテンのような白さだとしたら、こちらの白さはまさに雪の枝の手招きだった。画面からもりあがっているようにみえる量感が饒舌なほどだった。だが、夜の静けさがかさなることで、相殺しあっている…いや、静けさと雪の饒舌さがそこには混在しているのだった。
 それにしても、なぜ白、なのか。この日のわたしは、行間ということもあたまに浮かべていた。余白ということも。それらをとおして、わたしたちの旅がスケッチされるまえの状態を、可能性をもかいま見させてくれるからか、と思った気がする。佐伯祐三の《レストラン(オ・レヴェイユ・マタン)》(一九二七年)の、ユトリロよりも壮絶に暗い白いといってはいけないのではないか、とすら見える、レストランの壁にも惹かれた、というよりどこかで衝撃にうたれた。それはうらがえった白さ、なまなましい白さだった。ここに可能性はない。ただ、その圧倒される壁をもって、赤い屋根のように、共鳴をはこび、響き渡らせるのだった。こちらは暴力的な悲しみによって、だが。描かれた行間がわたしたちを潜り込ませ、潜り込み、たどりつきあう刹那としての「新たな素材の流入」なのかもしれなかった。

(写真:佐伯祐三《レストラン(オ・レヴェイユ・マタン)》 一九二七年 山種美術館)
00:01:00 - umikyon - No comments

2006-08-05

めりい・くりすます・みすたー・ろーれんす


 『影の現象学』(河合隼雄、講談社学術文庫)で、映画『戦場のメリークリスマス』に原作があったことをはじめて知った。ロレンス・ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて(原題 A Bar of Shadow)』(現在は『戦場のメリークリスマス 映画原作版』(思索社)と改題されている)。原作は『影の現象学』に取り上げられるべく影のものがたりだった。ここでいう影というのはひとことで定義するのは難しいが、たとえば無意識からたちこめる個人の人格の影、ということか。その人格は概して普遍性を帯びる。ともかく、軍曹ハラと捕虜のイギリス人ジョン・ロレンス。軍曹は捕虜に厳しいが、ロレンスはハラを日本人の影の体現者だと思っている。「ハラは生きた神話なんだ。(…)日本人を一致団結させ、彼等の思考や行動を形づくり、強く左右する、彼らの無意識の奥ふかく潜むヴィジョンの具現なんだ」。ロレンスのこうした理解は、ひどい体罰、理不尽なことをされていたにもかかわらず、彼に友情を感じていた、ということでもある。ハラもまた彼なりにロレンスに友情を感じている。「君が死んだらもっと好きになるだろう」。ハラの(あるいは具現としての)考えでは、敵に捕まりながら生きていることは理解できないのだ。ロレンスが抗弁するが、ハラは「死ぬのがこわいんだろう」と対話をうちきる。これは影をつうじてのたましいの往還の拒否だ。そしてクリスマスの夜。独房で拷問されていたロレンスは、突然ハラに呼び出される。そして「今夜、わたし、ファーゼル・クリスマス」と陽気にハラはいい、突然独房から釈放になったと告げる。狐につままれたように外に出ようとする彼に、「ろーれんす!」と威嚇し、釈放を取り消すような声がする。絶望的にふりかえると、「ろーれんす、めりい・くりーすますぅ!」とハラはにこにこしている。じつは処刑されることになっていたロレンスを、ハラは特赦の申請により助け出していたのだった。これは影からたちこめた霧の要請、友情のあかし、なのかもしれない。そして終戦後。ハラは戦争裁判で絞首刑を宣告される。執行の前日、ロレンスに会いたいと望み、彼等は夜中に再会する。ハラは、自身の考えに基づいて捕虜たちに公正に接してきた。そして彼は死ぬことをもちろん恐れていない。けれども、どうして自分が罪人として死ななければいけないのか理解できない。ロレンス自身も戦争裁判に疑問をもっていたので答えられない。「ハラは自分の内心の心に反する罪を犯したりしなかったようだな。……彼は正しい理由に立って、悪いことをしたといえるだろう。しかし、まちがったしかたで正しいことをいま行っているわれわれに、どうしてこのことの清算がやれよう」。けれどもロレンスはいう。「わたしがよく(部下に)言ってきかせた言葉があります(…)。『敗けて勝つ道もあるのだ。敗北の中の勝利の道、これをわれわれはこれから発見しようではないか』と。多分これが、今のあなたにとってもまた、征服と勝利への道だと思うのです」。ハラは感動していう。「それは、ローレンスさん、それこそ、まさしく、日本人の考えです!」ここで互いの影の部分に踏み込んで対話がなされている、と河合隼雄はいう。死の間際のハラの考えは西洋人のもつ合理性だし、ロレンスの最後のことばは、ハラがさけんだように、日本的なことばであることによる。けれども、わたしはただ、かれらの共鳴にこころうたれた。そして別れのときに、ハラがまた「ろーれんす、めりい・くりーすますぅ!」というその、かつてとの対比、あるいはかつてからつづいた共鳴に。それは影をもふくんで鳴ることばだ。
 つい映画のほうに想いいれがあるので、引用を長くしてしまった。この映画をはじめて観たとき、わたしはまだほんのコドモだった。きっかけもただデビット・ボウイがかっこよく思えたから観たにすぎない。けれどもわけもわからず、とてもこころを動かされた。以来、映画音楽(坂本龍一)とともに、わたしのなかで大事な映画となり、しまわれる。封印。そう、それはあまりに大切な一本になってしまったので、もう一度観ることができなくなっていたのだった。多くの本や映画は、たいてい二度目にみると、当初の感動を損ねる。『戦メリ』にそんな憂き目にあわせたくなかったのだ。
 だから今日、原作にひきずられるようにして、ようやくビデオで二度目を観たのだった。ほかの二度目に観た映画のようには内容もほとんどおぼえていない。たぶんストーリーがよくわからなかっただろう。イメージは筋をとおして数珠のようにつながるから。この筋の糸をたどるのはコドモにはむつかしい。それにいま観てもロレンス(トム・コンティ)の日本語が上手ではないので、聞き取れない台詞がかなりある。よくついてゆけたなと思う反面、たぶん雰囲気で、肌で観ていたのだろう、と思う。ちょうどハラの眼がうつくしかったとおなじように。これは原作ではロレンスが感じたことなのだが(映画ではかつてのロレンスの部下、今は捕虜のセリアズ(デビット・ボウイ)に「おかしい顔だ、けれど眼はきれいだ」と言わせている)、彼の眼がうつくしいというとき、それはことば以外のコミュニケーションが成立していた、ということなのだ。
 原作では、三部作になっていて、1がハラとロレンス、2がセリエ(映画ではセリアズ、セリエは愛称)と弟、そして日本人将校ヨノイの話、3はロレンスと行きずりの女性の話。映画はこの1、2をほぼ合体させてつくっている。『影の現象学』ではセリエのことは語られていないが、ほぼセリエと正反対の弟との関係にあることから、意識と無意識、セリエの影、ということがいえるだろう。そして弟に対して、ユダ的な裏切りをしたとセリエは感じているので、これも西洋的な影との葛藤、といえるだろう。生きなかった分身がいつも痛みとしてひきずられているのだった。ヨノイとの友情(愛情)も、またロレンスとハラのそれのヴァリエーションだ、西洋と東洋の。
 原作に忠実かどうかでいえば、映画はそうとはいえないとわかった。ミラン・クンデラは原作を脚色化するには独創と賛辞をこめた変奏曲を、といっているが(六月二十五日の日記を参照してくだされば幸いです)、セリエと弟の話はエピソードが中途半端すぎ、変奏がなされていない。原作を読んでいないとシーンのニュアンスがつかめないところも何箇所かあった。そして、これはかなり重要なちがいだが、前述のハラとロレンスの影の対話部分は映画ではまったく触れられていなかった。これは、日本人としては、むつかしい描写でもあるだろう。アマテラス神という太陽神と「臍の緒がつながっている民族」を体現しているハラ、というのは、戦争を体験している監督(大島渚)としては、ちがうと感じたのかもしれない。ともかく、それがまったく削り取られているので、さいごの共鳴、「それこそ、まさしく、日本人の考え」、という影の出会いと抱擁も削られ、ただ「あのクリスマスをおぼえていますか、楽しかったですね」とハラがいうだけになってしまっている。
 だが、それでも映画はあのハラ(北野武)の眼がうつくしい。眼のうつくしさで語られていることがある。そういえばヨノイ(坂本龍一)がセリエにいだいた複雑な友情もまた、ことばで語れないものだった。剣をぬき、セリエを切ろうとするヨノイ、セリエに頬ずりされ、失神するヨノイ、死んだセリエの頭髪からそっと髪を切り取るヨノイ…。そうした視点にたつと、これは語らないことで語る映画なのかもしれない。俘虜長もまた、捕虜のなかで銃に詳しい者を教えよと詰問されても、決して語ることがなかった。
 映画のラストで、ハラが最後に、怒ったように、かつてのように「ろーれんす!」という。そして「めりい・くりすます・みすたー・ろーれんす」とうつくしい眼のハラのアップになる。コドモのわたしは、ここでわけもわからず泣いたことをようやく思い出す。今日観たわたしも、わけもわからず泣いている。小ざかしく知恵をつけた気になっていても、けっきょくなぜ涙がでているのかわからないのだ。
 ハラとローレンスの共鳴にすこし似て、コドモのわたしと大人のわたしが響いている。これは肌でかたっている映画なのだ。だからこそ、筋がわからないでも数珠たちがコドモのわたしにふれたように、いまのわたしにもひびいてくるのだった。そして、それもまた影がひそむ境界の謂だったのではなかったか。ことばからのがれてしまうもの、たち。そう考えると、「あのクリスマスをおぼえていますか」のシーンもまた、べつの視点でみつめなければいけない。あの場で必要なのは、ロレンスとハラ、二人の共有の時間をひきだすだけでいいのだ。無言のうちに、共鳴となってかつての時間がやってくる。大島渚は、語らないことにより影を燦然とあらわしたのかもしれない。

(『戦場のメリークリスマス』一九八三年、日英合作、松竹・富士映画=ヘラルド配給)
00:11:52 - umikyon - No comments