Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-09-25

海石


 最近、少し海にでかけてきた。海のない場所にそだったからか(遠くにあるもの、かつ遠くにありつつ、完全に離れていないものは、いつもそれゆえに呼んでみたい、近づきたさをともなうものだ)、べつの理由か、海を前にすると、いつも複雑ななにかが奥底からみちてくるのだった。異質さにむけた、愛情をこめたちいさな叫びのようでもある。それは郷愁にも似ている。血液と海水とほとんど同じ成分だと、中学だったかの生物の時間に教えられたときもうれしかった。血と海水が呼び合っているのかもしれない、そうもしばらくは思っていた。波をみている。刻々と変わる波紋に、同じ形は、永遠におとずれないのだ、と瞬間についてほとんど絶望に近いおどろきを、かつて感じたこともあった。この瞬間すら、さわれないのに、どうして海に近づくことができるのか、と。あるいは海をとおして、変わらないものはない、ということを知らされたのだろう。いまでもぼんやりと、ずっと波紋を、飛沫のかたちを追ってしまうのだった。
 モネの絵に出会ったのは、それから後だ。彼の瞬間のふれかた、その刻々変わる日射し、雲、水紋をとらえようとする絶望的な努力にたいして共鳴したのかもしれない。だが、彼の絵には、まぎれもなく、瞬間をとおした永遠が凝縮されていた、と感じたのだった(そのときは、もちろんことばにならなかったが)。
 プルーストに、夕景の海はオパールのようだという描写がある。乳白色のなかに、青、黄色、桃色、紫、まるで夕焼けの空と海のすべての色を溶かしたような海の水の色。その瞬間をそういったのだった。以来、オパールはわたしのなかで海をとじこめた特別な石となる。
 今回の海の外出の折、伊豆ガラスと工芸美術館にも立ち寄った。じつは高熱がでており、観るどころではなかったのだが、ルネ・ラリックのなかでも特に好きな《バッコスの巫女たち》(一九二七年)にまた出会ったことに、ぼんやりとした頭で符諜を感じた。ガラスの縁の広い花器に、巫女たちが手をとりあっている姿が浮き彫りにされている。ガラスはオパールセン・グラスといって、オパールに似た色をたたえている。巫女たちのやわらかな肢体は、永遠への手招きのようにみえるのだった。そんな彼女たちに、特にこの海で出会ったことがうれしかった。海の色の肌。このほとんど七色の乳白色をとおして、海がまたささやきかけてくるようだった。ラリック、プルーストをもひきつれて。
 また次の日、土産物屋で、なぜか石が売られているのを眼にする。アメジスト、ローズクォーツ、カーネリアン、タイガーアイなど。そのなかに、オパール・オブディシアンという、はじめて眼にする石があった。オブディシアンは黒曜石のことなので、もちろんオパールではない。だが、それはオパールセン・グラスの色合いをもつ石だった。夕景の海にたゆたう色。こうした偶然のつらなりも海との関係に緊密さをもたらしてくれるようでやさしいものをもらった。それは海辺の店で買うにはふさわしいもののような気がした。ひとつ買って帰る。
 あるいは海へのわたしの想いも、積み重なって変化するものなのだろうか。いや、海はそれをしらないだろうが、海の内側と外側でたゆたって、ゆれあって、ちょうど水平線をはさんで、空と海がかなりおなじ色合いをもって見えるように、わたしと海が近づいていってるのかもしれない。思い出を積み重ねることによって、わたしのなかの海と、眼前の海が。もちろんそれらはけっしてひとつにはならないが。境界線のあちらとこちらで、水たちが呼び合っている。

ルネ・ラリック《バッカスの巫女たち》
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2006-09-15

リリー・マルレーン


 愛し合う二人。男に仕事を頼みに来た者の来訪により、女は一人残される。これがはじまり。
 そしてラストは再会した二人。男に妻がいたことで、女は一人去って行く。この対比、かなしい円の描き方が印象的だった。その円は押し出されてしまうものだが。そこからずれたところではじまり、おわるもの。
 映画を観終わって、ぼんやりとそのことに気づいた。映画からこぼれてしまうもの、たち。
 「リリー・マルレーン」という歌がある。第二次大戦中、ベオグラード放送(ドイツ国防軍の地元の放送局)で最初はほとんど偶然のようにかけた曲らしいが、そのことで敵味方なく兵士たちの間で圧倒的に指示されたもの。これを歌っていたドイツの歌手、ララ・アンデルセンの自伝をもとに描かれた映画が、この『リリー・マルレーン』だ。
 一九八一年制作。この映画も十代の頃、名画座か何かで観ている。今回また観なおした。わたしはマレーネ・ディートリッヒが好きだったので、先にディートリッヒの持ち歌としてリリー・マルレーンを知っていた(彼女の後半生は、女優としてよりも、歌手として知られる)。そして一九四三年頃、連合国側の慰問などで、ディートリッヒがこの曲を歌ったことで、世界的なヒットにつながったことを、映画の後で知った。リリー・マルレーンは、その後ディートリッヒの愛称にもなる。だが複雑な思いをこめて、ドイツの人たちにはリリー・マルレーンといえばララ・アンデルセンなのだった。ディートリッヒはドイツ人だが、一九三〇年の『モロッコ』でハリウッド入りしてのち、ドイツには一九六〇年代まで帰っていない(その帰郷には暴動に似た反発があった)。
 そのことはさておき、リリー・マルレーンという曲は、それだけとりあげても、当時のわたしには、さして心に残るものではなかった。はじめて曲を聞いたときは、感慨をおぼえなかった。この曲は時代や背景をしみこませた、綿のような曲なのかもしれない。この綿は、それらを含み、響いてくる。映画では、最初あまり熱をいれないで歌っている、あるいはレコーディングで緊張している、など歌い方が変わっていた。まるで歌がみえるものとなっているように。時間のなかで、刻々と変化してみえる彫像のように。ナチスのまえで盛大に歌われたときは、キッチュ(俗悪)な気配、純粋でないものがふんだんに歌声にまぶされていたりもした。そして戦場、爆撃がある、銃弾にたおれる、そんななかをラジオから流れている、ユダヤ人の恋人がつかまった独房のなかで、わざと針飛びさせ、永遠のように「リリー・マルレ、リリー・マルレ…」とだけかかっている、そんな情景もあった。そんなすべてを綿としてふくんで、歌はとても心に降りてくるものとなった。キッチュな波、そして清濁すべてをのみこんで、かつうつくしいメロディーとして。
 ララ・アンデルセンをモデルにした歌手、主人公のビリーという女性も、欠点も長所もある人間として描かれていた。だからこそうつくしくもなまなましく映るのだろう。ナチスのまえで歌うことで有名になり、名声にはしゃぐ姿、恋人のために、反ナチ運動を行い、強制収容所に入れられる姿、それは曲そのものの背負った背景たちと重なるものだ。もちあげられ、ついで放送禁止になり、敵側で歌いつがれ、敵の好意的なデマ(強制収容所でリリー・マルレーンの歌手が死亡しました)により、公の場にでてこれたビリー(これはほぼ実話だそうだ)、そしてそこで歌われたリリー・マルレーン。
 あるいはキッチュさは、歌とは関係のないものだ。彫像がみる時間によって変わったとしても、彫られたそのものは確固としてそこにある、ということ。映画では、レコードが終わり、針が盤の中央でかたかたと鳴っているときに、リリー・マルレーンと関係のない、俗悪な話がなされていた。
 わたしがキッチュというのは、「俗悪なもの(キッチュ)は嘘と見破られる瞬間に、俗悪でないもののコンテキストの中へ入りこむ。そうして自己の権力を失い、他の人間の弱さがどれもそうであるように感動的なものとなるのである。われわれのうちの誰もが、俗悪なものから安全に逃れられる超人ではない。たとえわれわれができる限り軽蔑しようとしても、俗悪なものは人間の性に属するものなのである」といった、表面的なもののことだ。表面的でありながら、まんまとわたしたちにくらいつき、のうのうとしているものたちのことだ。なぜくらいつくのか。「俗悪なものの源は、存在との絶対的同意である」からだ。「政治的運動というものは合理的な立場によるものではなく、想念、イメージ、ことば、典型によるもので、それらが一緒になってあれかこれかの政治的俗悪なもの(キッチュ)を形成する」(以上、『存在の耐えられない軽さ』より)。この同意はそれでもまやかしなのだ。という強さがだが、わたしたちにあるだろうか。ビリーにもわたしたちにも、その俗悪さはくらいこんでいる。だからこそ、ビリーはちかしい他者としてわたしたちのもとにやってくるのだ。絶対的否定として、リリー・マルレーンは流れている。その否定は、否定をとおして真のものをつらぬくものだ。
 だが戦禍のなか、ながれる曲が、うつくしいと感じるのは、そこにおそらく彼等の関係が織り込まれているからではなく、彼等と曲をとおして接触をはかれたからだ、真綿のような曲をきくとき、彼等の想いがそこにたゆたっていたからだ。キッチュなもののすぐ近くで、軽蔑のすぐ近くの圧倒的な尊敬として。
 あるいは、くりかえして聞くことで、わたしと歌とは関係をもったのだろうか。いまでは、とてもすきな曲だ。ちょうど、「As time goes by(時の経つまま)」や「暗い日曜日」がそうであったように、あとからつらぬく輪となって。こぼれて。

『リリー・マルレーン』(原題“LILI MARLEEN”/西ドイツ /日本ヘラルド配給/一九八一年/監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/脚本:マンフレッド・プルツァー、ジョシュア・シンクレア/出演:ハンナ・シグラ、ジャンカルロ・ジャンニーニ)
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2006-09-05

青水晶──水の宝石



  年経けてまた越ゆべしと思いきや
    命なりけり小夜の中山

 西行法師のこの歌に高校の頃に出会った。その時の衝撃、感動のようなものは遠い霧のかなたにいってしまったが、歌自体は爾来ずっとわたしのなかに大切にしまわれることとなったのだった。本来は西行が出家した二十代の折りにおとずれた地に、晩年になって再びやってきた折の感慨なのだが、とりだすわたしは、そのことをほとんど意識しない。けれども、昔住んでいた界隈に偶然足を踏み入れる、街中で有線かなにかで昔の流行歌に出会う、子供の頃に読んだもの、作者も題名もわからなかったものに、ある日突然であう、人と再会する、かつてと似たような体験をする…。そんな過去からの風が吹き込んでくる折々、いつも「年経けてまた越ゆべしと…」と、歌をとりだし、そっとわたしの横に置くのだった。置かれたことで、場所が場所でなくなるのだろうか。場所もまたゆれながら、時間をすべりおりてゆくようになる。そうして風とともに永遠がかいまみられるような感覚のなか、時間の外におかれたわたしは、かつてから連綿とこの歌をとりだしつづけてきたことによっても、今と過去にどうじに触れることができるのだった。あるいは置いたことで、西行の時間にもかかわってきているのだろうか。
 本でいえば、たとえば『やまなし』。これは小学校の二年生か三年生のときの国語の教科書に載っていたものだった。そこで出合った、たとえば「青い幻燈」、「クラムボンはわらったよ」…たちは、すける「青い水底」をちりばめながら、紫水晶かアクアマリンのようにちいさなわたしに圧倒的に降りていった。宮沢賢治の作品ということはまったく忘れていた。そして、それゆえ、青い宝石たちは、しまわれたままになっていったのだったが。けれども、大人になって賢治の本のなかでクラムボンに再会したとき、かつての時間をまとわせて、あの水の宝石が圧倒的によみがえってきたのだった。
 けれどもそれは西行の歌からずれているのだろうか。それは名前を思い出すこと、にもつらなってゆくだろう。あるいは名づけること。
 「部分において記憶にとどめられた瞬間には明瞭でなかった対象の根本的な意味が、「思い出す」作業において、その含蓄の総体を顕らかにし得るのである。(…)部分的忘却としての物象化が、その痕跡への想像力による働きかけを通じて、物事の「全体像」の実証的復元ではない「回想」を、つまり経験を再結晶させるものとなり得るのである」(市村弘正『「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー)。再結晶は、あの水の明度を増してやってくる。あるいは思い出すことも名づけることに近接しているのだろうか。そして、それはやはり「また越ゆべきと思いきや」という、前回の日記をもつらねていうと、思いがけなさをもふくんでもたらされた結晶でもあるのだ。多角的に反射し、通過させ、屈折させる、ブリリアント・カットされた宝石のもつ多重の光(意味)。

  恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき
    言尽くしてよ 長くと思はば
                  (万葉集・坂上郎女)

 この歌にも高校のときに出会った。愛しきはうつくしき…と読む。絢爛な熱だと思った。おとなはこんな恋をするのだ、とその熱さに希望をみたと思う。コドモのわたしは希望のむこうに、明日のわたしを見つめていたのだ。ことばでつくすということは、名づけることだ。発見した名前だけが、ちかづき、さぐりあい、接合を夢見る権利があるのだろうから。うつくしいいとしさがちりばめられ、奥底にしずんでは、あらたな光を奏でている。
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