Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-10-25

聖娼


 どこかで書いたことと重複してしまう面もあって、少し気がひけるが、このところ「聖娼」ということばが気にかかっている。もともとは、古代シュメールで、女神イナンナを祭る神殿で顔を隠した処女が、行きずりの旅人と性交渉をもつ、大人になるための儀式のこと。『源氏物語と日本人』(河合隼雄、講談社α文庫)には、「聖娼の体験は、娘が死んで成人の女性として再生する、死と再生の体験だった」とある。その生と死の瞬間が見知らぬ相手との性行為なのだ。そして先日読んだバタイユの『マダム・エドワルダ』(光文社古典新訳文庫)。このマダム・エドワルダという娼婦もまた死という暴力を抱えもつ、つまり生と死をかかえもつ神にも似た存在という意味で、「聖娼」と呼びたくなったのだった。「「彼女」が神であることを知った。(…)マダム・エドワルダのなかの、喪の感覚が、からっぽの静けさを呼びよせている。だが、私は知りたかった(…)」。喪の孤独の穴のなかで、瞬間死が、ふたりを結びつける、ということ。
 『源氏物語と日本人』では、源氏と関係した女性たちを、「母」「妻」「娘」「娼」と分類し、源氏を中心に円を描き、それぞれを配置し、マンダラ図を描いているところがある。たとえば「娼」にいる女性から対角線をひくと「妻」と結びつき、それが一人の二面性、光と影的な作用をもたらした図となってくるなど、そのことも興味深いのだが、それはさておき、「娼」のなかにいる夕顔のことが気にかかるのだった。彼女は、河合隼雄得意の昔話的分類によると、「日常的世界とは相容れない世界に住んでいる」。たとえば「うぐいすの里」という昔話には、男が住む日常と、女が住む非現実の世界との中間に、「見知らぬ館」が両者をつなぐ橋渡しとしてある。この異界の女性が夕顔で、「見知らぬ館」は、源氏との瞬間の接点、逢瀬の場として存在する。「うぐいすの里」では男が約束を破ったことにより、女は非現実の世界に永遠に去ってしまう。そして源氏は「夕顔を日常の世界に入れ込むことに傾いていく」が、夕顔は「あくまで異界に留まらねばならない人」だったから、死なざるをえなかった。この瞬間というのは、意識(日常)と無意識(非日常)の出会う、詩の場のこととしても捉えられる。この瞬間からはがれることが死なのであれば、やはり夕顔は死をあわせもった、「聖娼」としてわたしに囁きかけてくるのだった。
 ちなみに、源氏をめぐる「娼」には、朧月夜もはいっている。血筋の良さからも、妻になりえたのに(つまり、日常に即して考えると、夕顔が血筋の面からも源氏の住む世界と相容れないのと対照的に)、そうしなかった彼女は、帝の寵愛を受けつつ、源氏とつながることで、「危険と隣りあわせ」の「この世ならぬ恋を甘受し」ているのだった。彼女は明るい。こうした明るさが、あるいは瞬間をわたることができるのだろう。「このようなことを可能にしたのは、彼女が常に適切な対人距離を、源氏や朱雀帝などとの間に保ち得た、現実感覚と強さであったろう」。だが彼女には「聖娼」を感じない。彼女は「聖娼」ではない。隣り合わせの危険の、その危険には死がある。だが隣という距離がそこにはある。彼女において生と死は接していないのだ。
 あるいはわたしが朧月夜にさして共感をしめさないのは、彼女の行為が日常ぎりぎりのところでなされているからかもしれない。彼女は異界の人ではないから。わたしのように、そこからの風を感じるだけだから。ではわたしは「聖娼」になりたいのだろうか。そうではない(のではないのかもしれないが)。夕顔の死を含んだ非日常が、日常で生き延びれないことを悲しんでいるのだ。もともとの「聖娼」が一回限りの儀式だということ、『マダム・エドワルダ』で男が性交の後で(あるいは前で)、ほとんど絶望していることも、これらも日常では生き延びることができないことに関わっている。喪の孤独の穴のまわりで、深淵の果てから、過剰な他者がつらぬくこと。その刹那に「聖娼」がいるのだった。「聖娼」でありながら、日々に入り込むこと。こうしたありえなさをわたしは求めているのだろう。その瞬間は死と生が重なる永遠でもあるが、それよりも、その場とは、すべての重なり、接合、つまりまったき他者との融合だから。
 わたしたちの近くで、どこかで。過剰な他者をかかえた「聖娼」が月のように歩いている。
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2006-10-15

水の共鳴


 『芸術新潮』10月号(新潮社)が、クリムトの特集だったので、買ってみる。絵とその絵について書かれた文章との間に、数頁の隔たりがあるところが少し読みにくい。そして秋に公開する映画『クリムト』との兼ね合いなのだろう、クリムトの絵の女性と、実際の女性たちとの関係が書かれたりして、正直かなり辟易もした。以前にもここで書いたが、クリムト自身は、「画家である私――注目に値する点はそれしかない――について何か知りたいと思う人は、注意深く私の作品を見て、その中から私が何者であるか、私が何をしたいと思っているかを理解するしかない」、「言葉を話すことにも、書くことにも才能はなく、特に自分自身や自分の作品について何かいわなければならないとなるとなおさらだ」から、彼は「朝から晩まで絵を描いている画家でしかない」のだから、といっている(『週刊アートギャラリー』デアゴスティーニ、一九九九年四月二十日号)。その言葉どおり、クリムトの書いたものとしては、タイプ原稿が唯一残されているだけである。わたしはこの言葉がとても気に入っている。画家のわたしが描くこと。描いたもの。それだけが。ほかはたしかにどうでもいいのだ。実際の女性たちが、わたしの知り合いなら別だが。もはや彼女たちの声もきけない今となっては、どのみち、表面的なことしかわからないのだから。画家の作品がうがった日々の穴。日々にうがたれた和解と苦痛のための濃密な穴。せめぎあい。

 けれども、そこに掲げられていた《死と生》(一九一五―一九年)。左半分が青を基調とした死神、右半分が限りなく金にちかい(だが決して金ではない赤、緑、黄色、肌色たちの奏でる色)、あざやかな裸体たちのかたまり。女(母や娘)、赤子、それよりもすこしくすんだ男。この分離について、「もともと金色の背景だったものを後で塗りつぶした」ことで、「左右が繋がらない」、「金色の力で繋いでいたものが、それぞれ別々の世界へと解き放たれてしまった」とあったのが興味深かった。生と死が、分離していること。たとえば《接吻》の二人は、たしかに金色の衣装が死を内包していたから。
 だが、そうだろうか。《死と生》も《接吻》のように、一度だけ実物を観たことがある。まだコドモだったわたしは、死神を前にして、ほとんど恐怖をおぼえたものだった。正視することが苦痛だった。見つめることで、眼から死がやってくるような気がしたのだ。悪夢のような左半分からたちこめる青い背景が、右の生のあざやかさを取り囲んでいる。それは毒のような死だった。死を吸ったからこそ、生のかたまりは金をなくしていったのかもしれない、と今ふと想った。それでもかぎりなく金にちかい生の色。生と死が連続してあることに対する恐怖が、分離のようにみえるのだろうか、とも。
 そして、これはおそらくみたことがない、《沼》(一九〇〇年)。水面の陰影たち。それは、モネの《睡蓮》たちと共通する感触だった。モネのそれが光りや風がにじんでいる、としたら、この沼はその暗さからか、木の影、土の匂いをにじませている、そんな場所、際だとおもった。数頁すすみ、この絵に関連した文章を読む。そこでは、モネの影響のことが書かれ、ついでモネの「色を平面的な力でぐいぐい押してくるところなど、クリムトと非常に近い。ヨーロッパの風景画はそれまで、2次元に立体感と空間をいかに封じ込めるかということを競ってきた。それを完全に拒否したのがモネで、クリムトはそこからさらに装飾的な方向へ発展したと考えていい」とあった。そしてふたりが「色そのものの構成力」を知っていったと。
 ことばが、モネとクリムトをさらにわたしてくれるようでもあった。水の共鳴をことばがスケッチしてくれていると。
 この水の青こそが、あるいは…。沼からたちこめてくる死の匂い、そしてとけこんでくる、それでも明るさ、明るさ。水の反映は金をやどしているのかもしれなかった。青い息がかかって、わずかにくすんで。

(写真: グスタフ・クリムト《沼》一九〇〇年)
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2006-10-05

新再会、楽園の場所


 モダン・パラダイス展(二〇〇六年八月十五日―十月十五日 東京国立近代美術館)に行く。サブタイトルは「大原美術館+東京国立近代美術館―東西名画の饗宴」。
 倉敷にある大原美術館に、かつて一度だけ訪れたことがある。まだ海外旅行が全く一般的でなかった時代、一企業家大原孫三郎の支援のもと、西洋の絵画などを現地で買い集めた児島虎次郎…。それをもとに一九三〇年に創設された日本で初めての美術館。今なお、日本およびオリエントなどの蒐集を充実させている私立の美術館…、濃密な作品たちの多さとともに、これらの来歴にも心惹かれたものだった。また、そのギリシャ風の建物、隣接してあるエル・グレコという喫茶店。絵とともに、たたずまいたちも、わたしのなかで大切にしまわれることとなったのだった。
 だから、ついモダン・パラダイス展に出かけたのだった。饗宴のことは気に留めずに。入ってすぐ、モネの《睡蓮》(一九〇三年)が眼に入ってくる。水と空の融合の瞬間、だと思っていたが、それは光の内包でもあるのだった。ちらめきが込められている。そしてそこには植物の生もあるのだった。そして、これらをなつかしい…と思ったのは、たとえば他でみた睡蓮の絵たちをも含んだものだったので、まだひとつのことに気付かない(ちなみに、饗宴ということで、この作品と対比させて菱田春草の《四季山水》があったが、意図がよくわからなかった。その近くにあった徳岡神泉《蓮》(一九二五年)の、大きな蓮の花の上に乗る、水滴のふるえたちのほうが、睡蓮と饗宴しているようだった。ともにふるえる内包だと感じた)。 
 関根正二《親交の悲しみ》(一九一八年)。果実を手にもった5人の女性が暗い背景の中、歩いている。鈍い光を湛えた果実と、童顔なのに妙にお腹が出ているのが、生と死が交接しながらよぎってゆくようだ。だがそのことではない。中村彝《頭蓋骨を持てる自画像》(一九二三)。少し驚いたような若々しい顔が死に選ばれたように頭蓋骨をもっている、そのことの生と死(画家はその一年後に三十七歳で亡くなったそうだ)。ジョルジョ・デ・キリコ《ヘクトールとアンドロマケ》(一九一八年)の男女の別れの場面がマネキンたちで描かれていることで、有機質と無機質といった点からも、やはり死が(トロイヤ戦争の名将ヘクトールはこの後、死地に向かうのだった)…。これら生と死についても語らねばならない、だがそのことではない。この三点は、大原美術館で観たものだったが、当時はそれほど印象に残っていなかった作品だ。
 だが、今、ここで観ている、それはたしかに見覚えのあるものだった。過去からふきぬけ、さしだしてくる風。それは再会だった。人肌が懐かしいとは、誰がいったことばだっただろう。この再会は、懐かしい人肌として、絵によりそっていた。絵が愛しい人肌のようにわたしに近づいてきてくれるようだった。新しい再会がやさしい。
 じつはこの展覧会では、「光あれ」「夢かうつつか」「楽園へ」など、五つのテーマにそって、作品が置かれている。ポール・ゴーギャン《かぐわしき大地》(一八八二年)(ちなみに、この作品も大原美術館で観たはずなのだが、こちらは覚えがない)の、暗い印象の楽園にたくましい女性の姿にも、わたしは生死を感じていたのだろう。だが、そのことより、あざやかな花、あざやかなタッチに、楽園の光がないこと、むしろ重いひびきがこめられていたことに、なぜ違和をおぼえなかったのか。たとえばわたしのイメージする楽園には、少なくとももっと光があるはずだった。だから、そのことが、いつもそぐわなかったはずなのに、そのようなものとして受け入れていたことにいまさら気付く。あるいは、楽園はぜったいにこのようなものだと、しずかに、たしかにどこかでずっとうなずいていたことに。
 「楽園へ(パラダイスへ)」の説明のなかで、「楽園は到達されないことによって意味を持っている」とあった。「美術は煮詰まり、閉塞しかけた時、どこかしらに楽園を夢想し、弛んだ自己の超克を思い描くことで、浮腫んだ知性にはとらえられなかった新鮮な活力を自身の内に再び回復することができる」。
 これは日常に投入された非日常と置き換えてもいいだろう。それは、そうして日常を別の視点でとらえなおすことで、発生する詩の場のことだ。これが楽園(あるいはジャポニズムでもいい)であるのなら、この明るさをとじこめた、光をふくんだ暗さは、当然なのだ。生死の際で、息づく内包。楽園は到達されない。だが一瞬それは偶然のように力を持ってわたしたちに現れるだろう。幻影のように、だがたしかに。
 「夢かうつつか」にあった靉光《眼のある風景》(一九三八年、東京国立近代美術館)の意識化以前の場所のようなオブジェのなかにくっきりと眼が描かれている。あの眼の場所こそが、楽園を願い、ふれる場所なのだった。

 美術館を出ると、空がすっかり秋だった。暗緑色に澱んだお堀の水に雲が映る。鯉がおよぐ。睡蓮(蓮かもしれない)の枯れた葉、葉、かたむいた陽差し。これらはどんな絵になるのだろうか。どんな再会に。
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